道場裏の長屋から家に帰る途中で里は邦と別れ、遠回りして一本隣の道を通った。若い女が家の前を掃いていたが、里に気付いて手を止め、家の中に呼び掛けた。中から出てきたのは四十過ぎの女だった。里は胸の風呂敷包みを抱え直して会釈する。
「ああ、里先生。先日はどうも」
「どうも。突然すみません、この辺りかなと思ってちょっと立ち寄っただけなので」
「先日紹介してくださった奥さんのところ、昨日お伺いしましたよ。引き続き様子を見ていきます。その他にも、仕事が手に余るようでしたらお声がけくださいな。何分こちらも開いたばかりで、ご近所には馴染みが無いもので」
 品よく笑う彼女に里が初めて会ったのはひと月前のことだ。
 暁の知り合いだという彼女は、しかしどういう知り合いなのかは一切語らず、この地域における産の現状を詳しく知りたがった。
 どの地域に何人の身重の女がいるか、産み月はいつ頃か、誰と住んでいるのか、何か問題を抱えてはいないか。何人の産婦のところを回っているか、子供の具合はどうか、母親の体調はどうか。港の廓ではどのような調べを行っているか、どのくらいの頻度で何軒の何人を診ているのか。
 里が倒れた話まで聞き出すと、彼女は深く頷いた。
「ご事情はよく分かりました。ではこちらも、ささやかながら尽力いたしましょう」
「あの、それであなたは?」
「産婆をしております。とはいえ開業したことはございません。内々の者の産を取っておりました」
 内々、と首を傾げた里に、彼女は口元の皺さえ優雅に見えるほどゆったりと微笑んだ。
「ご心配なさいますな。取り上げた子は百はおりますし、つい最近も一人取り上げたばかり。中でも自慢は暁ど……いえ、暁さんを取り上げたことでございます」
「はあ……?」
「里先生はなんと睦月さんを取り上げたとか。羨ましゅうございます」
「はあ……」
 誇らしげな理由も悔しげな理由もよく分からなかったが、彼女が妙に鼻を膨らましているので里は口を挟まなかった。
 それからひと月、彼女は間地の北に家を構え産婆の札を掲げた。
 里が倒れたあの日からたったのふた月半で、ここまで事態は変わった。里の体調は快復し、邦が産婆見習いとなり、産婆経験の長い女が開業した。がむしゃらに身をすり減らしていたあの頃の里に、今が予測できただろうか。
 否。何故ならこれら全て、里が招いた結果ではない。里の力で成し遂げたことではない。
 ――「子を取り上げられる人を探しましょう」。全ては彼の言葉に端を発するのだ。
 長屋の端まで来たところで、里は大きく伸びをする男に目を留めた。隼太の弟子の雅文だ。彼は里に気付いて慌てて腕を下げた。
「今お帰りですか。お疲れ様でした」
「雅くんこそ。今日は上がり?」
「はい、昨日が遅くなったので気を遣っていただいて。昨日は御馳走になりました」
「いえいえ、お粗末様でした。ゆきも楽しんでたし、またいつでもどうぞ」
 昨日は往診が長引いたらしく、雅文も夕飯に同席していた。長屋の中は肩がぶつかりそうな狭さで、だがいつもより賑やかだった。
「そういえば。僕の家って山手の方にあるんですが、この前うちの親が、産婆さんが挨拶に来られたと言っていました。前に来られた方ですよね。早かったですね」
「私もさっき見てきた。行動が早いわよね。このまま根付いてくれたらいいんだけど」
「産婆さんも見付かったし、奥さんの具合も良くなったしで、先生も喜んでらっしゃいましたよ」
 里はすぐに返答できなかった。わずかな会話のずれに、雅文の表情から熱が引く。
「すみません。僕、何かまずいことを……?」
「違うの、気にしないで。ただ……ちょっとね」
 濁してみたものの、雅文の視線はまっすぐ里に注がれている。やむなく里は、糸を紡ぐように自分の中のもやから言葉を引きずり出す。
「……何年か前、近くの産婆がお歳でぽんぽんと廃業していった時期があって、その頃から漠然と怖かったのよ。困った、産婆が私一人になったらどうしよう、頼る先のない人が出てしまったらどうしよう、私は倒れられない、私は逃げられない。産婆のなり手が増えないかなあって思ってた。願いむなしく私一人になったわけだけど」
 雅文は眉を寄せ、小さく頷きながら里の話を聞いた。誘い出されるように、里の腹の底で燻っていたものが溢れる。
「身重の人や産んだばかりの人が心細く思うことの無いよう、必死で頑張ってきたつもり。私が立ち止まったら困る人がいる、後が無いって、いつも気が張ってた。でも、私がいくら困ったところで何も変わらなかったのよね。頼りにしてますって言われて、気弱なこと言えないもの。強がって返事して、後には引けなくなって、具合が悪くなっても踏ん張って。……なのに夫に相談したらあっという間に片付いちゃったのよ。去年、ゆきのことで悩んでたときもそうだった」
 里は空を仰ぐ。屋根の隙間から覗く空は、雲がのたりと流れて穏やかだった。
「助かったはずなのに、何だか素直に喜べなくってね。ああ、この人が動けばすぐ解決するんだ、凄いなあって思いと、私は無力だなって打ちのめされた気持ちと……。捻くれてるでしょ」
「奥さんは誰にも助けを求められず、一人で闘ってらっしゃったんですね。そうしてこの地域の新しい命を守ってこられた。とても尊いことだと思います」
 笑い飛ばされるか批判されるか、そう思っていたのに、雅文の表情はこの上なく真剣で、里のほうが面食らってしまった。
「そんな大袈裟なものじゃないわよ」
「いいえ、感銘を受けました」雅文はずずっと洟をすすり、「でも、だからこそ思うんです。困っていた、誰かに助けを求めたかった、じゃあ今がそのときじゃないんでしょうか。秋月先生に頼って助かった、ああ良かった、そのくらい単純に考えてしまっていいと思います。これ以上気を張らなくても、もう充分ですよ」
 ――ここで何もできないなら、一体俺は何のために里さんと一緒になったんですか。
 あの言葉が今、すとんと里の胸に落ちた気がした。
 雅文は里の目を覗き込んで小さく笑った。
「失礼な言い方かもしれませんが、奥さんはきっと甘え下手なんですね。どんどん甘えて、他を頼ったらいいと思いますよ。少なくとも秋月先生は喜ぶと思います」
 里は唇を緩く結んで答えない。三十手前までこうして生きてきたのだ、そう簡単には変われない。
 だが今、胸がすく思いだった。
「ありがとう。ちょっと楽になった。雅くん、話を聴くのが上手いのね」
「まだまだこれからです。あ、でも奥さん、一つだけ反論させてください」
 立ち去ろうとした里に、雅文は人差し指を立てた。
「秋月先生は、決して容易く解決したわけじゃありません。往診先や薬代の回収先一軒一軒で事情を話して、少しでも当てがありそうなら頭を下げて頼み込んでいました。奥さんが倒れた日から、一日に何回も同じ話を地道に繰り返して」
「……家ではそんなこと、ひと言も」
「随行した僕が証人です。すぐ解決したように見えたのなら、先生が奥さんに恰好つけてらっしゃるだけですよ。先生は奥さんが思うよりずっと泥臭い人です」
 雅文は一礼して去っていった。里はその背中が角を曲がるまで見送って、思い出したように家へと歩き出した。
 帯の上に手を当てる。胸がじんわりと温かい。噛み締めるようにゆっくりと歩く。
 ああ、会いたい。
 隣の家には薬師と医師の表札が掛かっている。声を掛けるか一瞬悩み、結局、臆病風に吹かれて自分の家の戸を開けた。
 土間の竈の前で隼太がしゃがんでいた。
「きゃっ」
 びくりと立ちすくむ。隼太も目を丸くして立ち上がった。
「すみません、勝手に邪魔して。今日は早めに終いにしたので夕飯の支度を」
「あ……ああ、ありがとう。ちょっと驚いただけ。あなたの家でもあるんだから遠慮しないで。……ゆきは?」
「さっき他の子と連れ立って風呂屋に行きました」
 里は頷いて畳の上に風呂敷包みを置いた。心臓がどきどきと落ち着かない。振り返ったところにいる隼太は、気を散らすこともなくとんとんと包丁を使っていた。
「お疲れ様でした。ちょっと休んでてくださ……」
 声が終わる前に、里は彼の背に額をくっつけた。包丁の音が止まる。
「例の産婆さんのところに寄ってきたの。……ちゃんとお礼を言ってなかったわね、ありがとう」
「あの人は暁の紹介です。俺は何もしてませんよ」
 さらりと返ってくる答えも、雅文の言を信じるのなら「恰好いいところを見せたいだけ」だ。里の口元にくすっと笑みが浮かぶ。
「それに一軒増えただけでは心許ないでしょう。引き続き探していきます」
「……ありがとう」
 包丁を置く音がして隼太が振り返った。
「どうしたんですか。今日はやけに機嫌がいいですね」
 素直に感謝の意を述べただけで上機嫌だと驚かれる。自分はどれほど意固地になっていたのだろう。
 里は隼太の頬に手を伸ばした。そのまま背伸びする。
 触れたのは一瞬だった。
 すぐに、背とうなじに手が伸びて里は抱きすくめられた。唇が押し付けられる。
 里は一歩後ずさる、畳に腰をつく、倒れそうになる体を手で支える、肘で支える。
 隼太の肩を押すが、びくともしない。とうとう背中から畳に倒れ込む。下駄が片方脱げる。そこでようやく隼太の顔が離れた。
「ちょっと、ふざけすぎ……」
 唇が首元に落ちてきて、里は短い悲鳴を上げた。乱れた衿元から手が侵入する。
 ――俺がどれだけ自制してるか知らないから、里さんはそんなことが言えるんですよ。
 まずい。
「ゆきが! 帰ってくるでしょ!」
「まだ帰ってきませんよ」
「すぐに帰ってくる! こんな明るいうちから始めないでよ!」
 ぴたりと手が止んで、隼太は体を起こした。何か言いたげな顔で、何も言わず気まずく顔を背けて、小さく頭を下げる。
「……すみません、一人で盛り上がりました」
 先に口づけたのは自分だ。里は何も答えられずささっと髪と衿を整える。まだその内には長い指の感触が残っている気がした。
 彼に会いたいと思った。近付きたい、触れたいと思った。口づけるのは嫌ではないと既に確かめた。嫌ではない。多分、その先も。ただ思いのほか手綱が一気に緩んでしまって驚いただけだ。
 隼太は顔を背けたまま何か考えている。声を掛けようか迷っていると彼が再び里を見た。
「ゆきが寝付いたら隣に来ますか」
「……え」
 里がさっき自分で言ったことだった。
 ゆきを理由にしたから、明るいうちは嫌だと言ったから、それなら夜を提案されるのは当然だった。
「あ……そうよね、そう、なるわよね」
 里は泳ぎそうになる目をぐっと瞑って、しっかりと隼太を見据えた。
「分かった。今夜行きます」
 隼太の手がまた里の頬に触れる。しかしそれ以上顔が近付くことはなく、隼太はまた包丁を取ってハタネを刻み始めた。
 里は胸をぐっと押さえ、そそくさと庭に出て干したものを取り込む。畳み始めたところで外から話し声が近付き、後れ毛を濡らしたゆきが戸を開けた。

 風呂屋の帰りに梅のところへ寄ったのだと、ゆきの字は夕飯の席で語った。
「うめさん おなかがこんなに大きかった さわらせてもらったら 中からあかちゃんが けったの」
 ゆきは字を書きつつ身振り手振りで忙しい。次々に字が生まれては消えていく里の掌を、隼太も覗き込む。
「梅さんはもう産み月ね」
「おかあさんが とり上げるの」
「そうよ、邦さんと行ってくる。梅さんを励ましてくるからね」
「がんばってね いいな あかちゃん わたしも見に行きたい」
「無事に産まれて落ち着いて、梅さんがいいって言ったらね」
 やがて夕飯が終わり、片付けが終わり、夜が深くなる前に隼太は辞去した。
「おやすみ、ゆき」
 ゆきが手を振って見送る。里は奥で作業をしていて隼太に目を合わせることもなかった。
 隣の家までは数歩の距離だ。隼太は夜空に浮かぶ星を仰いだ。屋根の隙間から覗く狭い空にも細かな光は散らばっている。
 秋分から半月が経ち、もう寒露だ。秋も終わりが近くなり、夜になると冷たい風が吹き抜ける。
 隣の家は暗闇の中だ。隼太は家の奥から行灯を引っ張り出して提灯の火を移した。炭に火を熾して火鉢に入れ、蒲団を敷いて、後は待つ。期待しすぎぬよう自分に言い聞かせながら、平常心でひたすら待つ。
 がた、と小さな音がした。しかしこの家の戸ではない。隼太は目を本に戻す。
 再びがた、と音がした。家の戸がゆっくりと滑り、その向こうに立っていたのは里だ。いつもきちりとまとめていた髪を、今日は緩く右の耳の下で束ねている。一瞬目が合うとすぐに彼女の目は逸れ、ぴっちりと戸を閉めた。
「寝かし付け、ありがとうございます」
「いいえ。失礼するわね」
 既に敷かれた蒲団に目を留め、里は口を結んだ。何も見なかったかのように澄ました顔で下駄を脱ぎ、隼太の傍に腰を下ろす。
「それ、何読んでたの」
「あ、いえ」
 異国見世で仕入れた本だった。腑分けの図が載っているのを見れば里はまた顔をしかめるだろう。隼太はぱたんと本を閉じて他の本の中に紛れ込ませた。里は話題を探すようにきょときょとと視線を動かす。
「夜は冷えるようになったわね。隣だからと思ったけど、何か羽織ってくれば良かった」
「大丈夫ですか」
 隼太は里の手を取った、が里が分かりやすく目を見開いたので、そういう意図ではなかったのだと気付いた。
「大、丈夫。……夜にこっちに来るのって、考えてみれば二回目よね。あのときはさすがに蒲団は敷いてなかったけど」
「今度は噛まないでくださいね。あれは結構痛かった」
「だってあれはあなたが……」
 隼太は里の両頬を掌で包む。里は荒らげかけた声を止めてぎこちなく視線を落とし、瞼を閉じた。
 唇に触れ、肌に触れる。里は膝立ちになり隼太に身をもたせ掛ける。その髪からはかすかに花の香りがした。睫毛の数さえ数えられるほど近くで見つめ合う。息の熱さを肌で感じる。衿を開いても帯を解いても、里が拒むことはなかった。むしろその喉からは押し殺した吐息混じりの声が漏れる。その声を聞くたび隼太は頭の芯がじんと痺れていくようだった。
 唇を吸い、冷たい肌に指を舌を這わせていく。時に自分の背に回された彼女の指に力が入るのが愛おしい。
 その途中で里が隼太の肩を押した。
「ねえ、ちょっと」
「は、はい」
 隼太は身を離した。里は口を覆って声を押し殺した恰好のまま、隼太を見下ろしていた。
「すみません、何か不具合が」
「あなたは子が欲しいわけよね?」
「はい?」やけに明け透けな問いだった。「……いやまあ、ゆくゆくは」
「じゃあどうして遠回りしてるの」
「はい?」
 今度こそ訳が分からなかった。里ははっと眉を上げ、隼太の鼻先に人差し指を突き付けた。
「ねえ。もしかして隼くん、女遊びはしたことあるけど子供の作り方は知らないんじゃない?」
「ええ? ……いや、そんなはずは……」
 滅茶苦茶な物言いなのに笑い飛ばせないのは、里が産婆だからだ。そして彼女は今、妙に自信ありげな顔をしている。
 隼太は逡巡する。まさか今までにしてきたあれやそれやこれは、正しい方法ではなかったというのか。……、いや、まさか。
「……あの、里さん。もしかしてとは思いますが、まだこっちに手を出さないからですか」
 隼太は着物越しの太腿に手を伸ばす。探るような問い掛けに、里は怪訝そうに小さく頷いた。隼太は目を瞬く。試されているのか、いや、そんなまどろっこしいことをする人ではない。かくなる上は、この人の面目を潰さぬよう説明しなければ。
「……ええと、いきなりでは恐らく、かなり痛いと思います」
「隼くん、産を見たことないでしょ。同じところから赤子が出てくるのよ。そういうふうにできてるの」
「そりゃあ産と同列には語れませんが……いや、そもそも里さんだって子を産んだことはないでしょう」
「悪かったわね」
 駄目だ、こんなところで言い合いをしても何の得にもならない。隼太は突き付けられていた人差し指に自分の手を絡めて組み敷いた。束ねた黒髪が蒲団に広がった。
「とりあえず! 今日のところは俺のやり方で進めさせてください。ちなみに俺はたっぷり焦らす方が好きですし、楽しみは後に置いておく方なので!」
「え……あ、そう」
 唐突な性癖の告白に里は眉をひそめたが、それ以上は口を出さなかった。
 とりあえずは今夜。今夜の一回目が済めば納得してくれるだろう。そう願って隼太は丁寧に手順を踏む。少しでも彼女の顔が苦痛に歪むことの無いよう。
 やがて裾を開き、太腿の奥に指を差し入れる。彼女の膝にびくりと力が入るのが分かった。
「力を抜いてもらえますか」
 里は無言で隼太を睨む。
「里さん、足を閉じて赤子を産んだ人はいましたか」
 恨みがましい目を気にせず、隼太は指を進めた。里の顔がわずかに歪む。
「息を止めないでください。ゆっくり吐いて」
「……なんだか、隼くんから産の介助をされてる気分」
「色気の無いこと言わないでくださいよ」
「あら、産は男女の交わりの先にあるのよ」
 指が離れ、里がおもむろに身を起こした。向かい合い、隼太の肩から着物を落として、表情を伺いつつおずおずと里の手が伸びる。自分がされたように指を唇を滑らせる。途中で隼太がその手を取って導いた。
「……私ばかり脱がすもんじゃないと思うわ。こっちはずっと肌を曝して恥ずかしさに耐えてるっていうのに」
「すみません。俺が脱いだところで面白くないかと」
「私が脱ぐのは面白いの?」
「それに俺は、里さんが脱いだ姿を見るのは初めてじゃないですよ」
 里はぎょっと手を止めた。
「お祖母さんがいらっしゃった頃、産で風呂屋に行けなかったからって庭で水浴びしてたでしょう」
 隼太が斎木に弟子入りしていた頃の話だ。隼くんごめーん、手拭い取って。そう隣から声が掛かって向かったら、里が帯から上を丸出しにして盥で髪を洗っていた、と隼太は語った。
「お……っ、覚えてないわよ、何年前のことよ。だいたい隼くん、そのとき十やそこらでしょ?」
「十やそこらの餓鬼にあれは強烈でした」
「……っ、なんで覚えてるのよ、忘れてよ。十年以上前と比べられちゃ堪んないわ」
 露わな体を隠そうとする里の手を、隼太が止めて口づけた。「今の里さんが、俺は一番好きです」間近で囁かれ、里は困った素振りで視線を逸らした。
 隼太は再び里の体を押し倒す。手はたっぷりと尽くした。いよいよ膝を持ち上げて奥へ進もうとする。
 ――ことはそう上手くは進まなかった。
「い……っ!」
 里の顔が歪み、喘ぎ声ばかりだった喉から大きな声が漏れた。視線がかち合う。沈黙が流れる。
「ねえ、ちょっと」
「少しずつ慣らすので」
「そういう問題じゃなくて。ちょ……っ、ちょっと待って。本当にやめて。離れて」
 里は焦った様子で早口になり、浮いたままの脚をばたつかせる。
「何、何今の。ものっすごく痛かったんだけど。隼くん何か間違えてない?」
「だからさっき言ったじゃないですか」
「そうじゃないんだって。違うの、知らない種類の痛みなの。ねえ、やっぱり何か間違えてるでしょ。これ以上無理よ、つっかえてるもの。きっと別のやり方が」
「ありません」
 隼太は肩を落とし、里の腰を下ろして後ろへずれた。里が怯えたようにさっと起き上がる。
「じゃあ何よ、身籠った途端につわりで苦しんで、不調ばかりの体で半年以上も暮らして、産むときは死と隣り合わせで、産んだら産んだで眠れないし胸は張るしで辛くて。そのうえ身籠るにもあんな痛みを乗り越えなきゃならないわけ?」
「それは……そういうふうにできてるんだから仕方ないでしょう。俺だって代われるものなら代わりますよ」
「代われやしないじゃない。言うだけなら簡単よね」
 もう無理だ、ここまでだ。隼太は肺腑の底から長い溜息を吐き、額に手を当てた。
「あなたは全く……。本っ当に面倒くさい人だ」
「言ったわね。面倒くさいって言ったわね!」
「ええ言いましたよ。自分でも分かりませんか、どれほど面倒くさいことばかり言ってるか」
 真っ向から返されて里は言葉に詰まりうつむいた。
「……じゃあ何で手を出したのよ。元から分かってたことでしょ。五つも上の年増女になんて言い寄らなきゃ良かったのよ。いつでも離縁に応じるって、私は」
「俺が言ってるのはそういうことじゃない。あなたがそうやってはぐらかすからです」
 はぐらかす、里が小さく呟いて視線を上げた。
「何も今日、最後までしなくたっていいんです。痛がるのを無理やりになんて思っていません。今日はここまで、次はまた今度と、そう言ってくれればいいのに。どうしてやり方を間違えてるだの、離縁だの、話を別の方向へ持っていこうとするんです。身籠ったとき里さんにばかり負担がかかるのも分かってます。でもそれは今ここでする話ですか。俺たちは今夜ここで、男女の公平不公平を議論するために集まったんですか」
 里が泣き出しそうな顔で隼太を見つめる。髪がひと筋はらりと頬にかかる。
「無理に年上ぶって虚勢を張らないでください。俺はあなたの弟子でも息子でもありません。弱味を見せてください」
 里に一片の余裕も無いことなど、戸が開いたときから分かっていた。これまで傍観者を気取っていた人が初めて自分の身を投げ出したのだ。肌をさらけ出し、触れる指を受け入れ、彼女の方から手を伸ばした。痛みさえなければ最後まで致す覚悟だったのだろう。
 暴き立てたくなかった。
 恥をかかせたくなかった。
 里は何も言わずうつむいていた。髪に隠れて表情は窺えない。隼太は彼女の着物を肩にかけた。惜しい気持ちは否めないが、今この状態では前に進みようがない。
「……すみません。今日はもう帰って休んでください」
 隼太は里に背を向けて着物を羽織る。腹にはもやもやした不快感が燻っていた。押し殺して帯を締めていると、後ろからも衣擦れが聞こえた。続けてかたんと下駄の歯の音。がらりと戸が開き閉まる音。
 隣の戸が閉まるまで耳をそばだて、隼太は再び肩を落として頭を抱えた。
 蒲団には花の香りがかすかに残っていた。



 暁が伊東と再会したのは、針葉が北へ発って半月ほど経った日のことだった。
 月見の前日だった。菱屋の表に飾られていたすすきを睦月が一本貰い、得意げに振り回しながら歩いたところへ牙が現れたのだ。彼は旧豊川領や坡城を飛び回っており、暁の前に姿を見せるのは珍しいことだった。
「明日、務番処の伊東殿がこちらへお見えになります。暁殿も是非とのことですが、同席なさいますか」
「単なる会席……というわけではなさそうだね。分かりました、伺います」
 翌日の昼前に向かったのは港に近い料亭で、伊東の背後には二人の傍仕えが控えていた。壬側は暁の他に牙と真、そして榎本がいた。人払いがされているらしく他に客の姿は見えなかった。
 膳が全て運ばれて襖が閉まったところで、伊東は皺深い顔に笑みを浮かべて暁に一礼した。
「どうも、豊川殿にお目にかかるのは一年ぶりですな。御子も健やかにお育ちと聞いております」
「こちらこそご無沙汰しております。伊東殿もご健勝のようで」
「さて、今回豊川殿にお運びいただいたのは、牙殿と打ち合わせていたことに一定方向が見えたからです。私は近く務番を動かします。その際には烏の皆様方をお借りしたいのです」
 暁はちらと牙を見た。彼が浬や伊東と会談を持っていたのは知っていたが、その内容は知らされないままだった。
「順を追ってお話ししましょう。昨年の談義で豊川殿がおっしゃった話がありましたね、外つ国と津ヶ浜が繋がっているという。正直なところ半信半疑でしたが、調べてみるとあながち嘘とも言い切れませんでした。確かに津ヶ浜の島には異人が多く住みつき、異人村を成しているところさえある」
 話しながら、伊東は組んだ腕に中指を打ち付けた。
「彼らは様々なものを仕入れて外から島へ、島から外へ交易を行っていましたが、その中で際立って多いものがありました。さて、豊川殿は談義でおっしゃいましたな、それは旧上松領の北部にしか自生しない植物だと」
「ええ」
「憚りながらそれは外れでした。薬草の類はその他の交易品と同じ扱いに過ぎず、その一方、島から外へ流出していたもので飛び抜けて量が多かったのが、なんと石なのですよ」
 伊東は布に乗せた黒い欠片を差し出した。傍仕えの男が受け取って暁のところへ運んでくる。暁は布ごと手に取った。間近で見るそれは、ただの艶のある石に見えた。
「それは燃える石です。端的に申すと炭ですが、その何倍もの強さで、また長く燃えます。私どもはそれを活かす術を持ちませんが、外つ国ではそれを用いて製鉄を行ったり、湯を滾らせて鉄でできた巨大な乗り物を軽々動かしたりするようです」
「鉄、ですか」
「外つ国のやり方では踏鞴たたら吹きよりずっと安価に、大量に鉄を作れるという話です。その過程でその石が不可欠であると。旧上松領の北で鉱床が見付かり、十年ほど前から調査開始、その翌年からは人を集めて大規模な採石が行われていたそうです」
「というと大火の前です。調査はともかく上松領でそんな話は聞いたことがありません」
「ええ。ですから、当時から飛鳥が一枚噛んでいたと考えるべきでしょうね。上松家は大火の前から飛鳥と通じ、飛鳥の莫大な資金を元手に、秘密裏に採石を始めていた。だからあっさり飛鳥の併合を受け入れた。今では、飛鳥は小野家の管轄下にあり、国策として引き続き採石が行われているとか」
 暁はぞっとする思いで黒い石を眺めた。これが外つ国へ大量に流出し、その分外つ国からは大量の銭が流れ込んでくる。この黒い石は金に等しい。飛鳥にしてみれば、山に無限の銭が埋まっているように感じるのだろう。
「そういった次第で、年明けからこの榎本に探らせました」
 話を引き継いだのは牙だった。暁はいつか牙から聞いたことを思い出す、「榎本は北へ潜らせております、少々動きがありますので」――
「で、俺がその石掘り場で働きつつ色々と探ってたわけです。働く場所としちゃ劣悪も劣悪、深い穴ん中での作業だってのに資材が足りないもんですぐ岩が落ちるし、実際怪我人ばっかだし、頭は無茶しか言わないし、その割に食いもんも銭もまともにゃ貰えないときた。俺はこっそり差し入れてもらってたから凌げたけど、真っ正直に働いてたら命すり減らすだけですね」
「そんなところ、人が居着かないのでは……」
「それがまた怖いとこで。宝茶って妙な飲みもんが出回ってて、ありゃ酒みたいなもんなのかな、飲むと機嫌が良くなって疲れも飛んだ気になるし、上への反抗心も消えちまうらしいんです。それに月に一度は賭場が開かれたり、廓の女を揚げて遊べるもんでね、考えなしはそこで借金こさえるって仕組みです。ケツ割り、つまり脱走は厳しく見張られてて、捕まりゃ見せしめに形が無くなるまで殴られるんでね……まあ、よっぽどの覚悟がなきゃ逃げようって気も失せるでしょうね」
「榎本、次を」
 あ、と榎本が口に手を当てた。話を聞く暁の顔からは血の気が引いていた。
「石堀り場にゃ時々素性の知れない奴が来て頭の小屋に泊まってました。商談を装ってましたが、盗み聞きしてみるとどうもきな臭い話で。要約すると、飛鳥から石堀り場を奪って更に大々的に掘ろうって話です。そのうえ坡城に異人の居留地と大船を着けられる港を作ろうって」
「坡城に? 津ヶ浜ではなく?」
「石を大量に運び出すにゃ水路のほうが向いてるんでしょうね。南西に津ヶ浜を抜けるとなると馬車一択でめっぽう高くつきますから」
「二年前にも打診のあった話ですよ。謹んで断りましたがね。それで強行突破に出ようというわけでしょう」
 伊東が不快そうに口元を引きつらせ、膳にとんと中指を打ち付けた。
「交易路については私からご説明を」口を噤んでいた真が小さく手を挙げる。「石はこれまで、壬の水路を南下して坡城の港から少量ずつ津ヶ浜の大島へ運ばれ、そこで異人の船に積み替えられていました。坡城では異人の居留を認めておらず、商船も着けられないためです。その無駄を省いて効率よく運び出すため、坡城の港を利用しようという算段のようです」
 伊東がゆるりと頷き後を続ける。
「彼には監査役として務番処に来てもらっているのですが、この夏、交易品を調べるため大島に番人をやりましてね。上手い具合に交易に関わっていた異人を捕えることができました。驚くべきことに、その中には例のネイサンという男もいたのです。自国で処罰を受けるどころか、この港を出た船でそのまま大島へ向かい、再び商いをしていたと。こちらの国々がどれほど舐められているか知れるというものでしょう」
 暁は石を睨む。針葉の話では、閉じ込めに関わった異人は紅砂の遺恨ある相手だったという。伊東の指の音が続く。
「では向こうは、石堀り場と坡城の港、二箇所で戦を始めるつもりだと?」
「同時か、もしくは旧上松領を落としてから坡城を攻めるか。いずれにせよそう遠くはないと踏んでおります。そして異人を住まわせ、好き放題させて外つ国の手助けをしているのが津ヶ浜です。最近では離島のみならず旧津山領にも異人の居留地が出てきたと聞きます」
 暁は地図を頭に思い浮かべる。旧津山領は旧上松領にも坡城の港にも近い。兵力を溜め込むには最適の場所だろう。
 とん、伊東が強く中指を打ち付け、音が止まった。皺の多い彼の顔は、静かな怒りに満ちていた。
「豊川殿、私は許せないのですよ。この大地を金の生る木と考え貪ろうとする外つ国も、己の利益しか考えず尻馬に乗る津ヶ浜も。その狙いが旧上松領とはいえ、一度侵略を許せば止まらない。かつて飛鳥が壬を侵したように、外つ国は飛鳥を侵し、坡城を侵し、いずれは津ヶ浜も江田領も全て呑み込むでしょう。今止めねばならぬ。……どうかお力をお貸しいただきたい」
 その眼の強い光を受け取り、暁は静かに頭を下げた。
「一介の坡城びととなった身ですが、できることがあれば何なりと」

 そして暁は今、旅支度を整えている。伊東は務番処筆頭として飛鳥の小野家に申し入れ、石掘り場の視察許可を得ていた。暁は菱屋に睦月を預け、明日、津ヶ浜を経て旧上松領へ向かう手筈になっていた。
 音もなく障子に影が立った。
「暁殿、文をお届けに上がりました」
「もらいまーす」
 荷物を眺めていた睦月が差し入れられた文を受け取り、暁に渡した。
 文を止めるこよりの端には丸印が一つ。環、すなわち旧上松領の玉置屋からだ。暁は手を止めて折り畳まれた紙を開いた。
 それは針葉からの文、旧上松領にて例の医者が見付かったという内容だった。