ひと悶着あった翌朝、隼太は躊躇いつつも隣家の戸を開けた。中からはふわりと味噌と飯の匂いが流れ、里とゆきが飯を始めていた。
「おはようございます」
 ゆきがにっと笑って手を振る。里はちらと隼太に視線を向け、何も言わずに腰を上げた。それを隼太は手で制し、置かれた椀に自分の飯をよそった。
 飯を始めた隼太をゆきがつつく。「おかあさん げんきがないの」、心配そうな眼差しに、隼太は「だいじょうぶ」と指で返答する。
 ゆきは一番に飯を終え、友人が呼びに来ると、里を振り返りつつも本を抱えて出て行った。里は土間から、隼太は畳からそれを見送った。
「ゆきが気にしてましたよ」
 隼太が声を掛けても里の背中に反応は無く、ただうつむきがちだった頭が更に項垂れた気がした。
 水の音が止んでしばらく、ようやく振り返った里は重い表情をしていた。赤みの薄い唇が開き、また閉じる。
「あの、昨日の晩のことだけど……」
「里さん、昨日髪に何か付けてました?」
 虚をつかれて里は言葉を止めた。まとめ上げた自分の髪に触れて「ああ」と呟く。
「ショウビの油を少し」
「ですよね、いい香りがしたので。寝るときはいつも付けるんですか」
「まさか。だって昨日は……」
 言いかけて里は口を覆った。みるみるうちに耳まで赤くなる。
「あなたのところに行くから……少しでも、その、……いいかなと思って」
 最後は消え入りそうな声だった。耐え切れず目を逸らした里を、隼太は締め付けられる思いで見つめる。
 昨夜それを聞きたかった。昨夜この表情を見たかった。あんな嘘くさい年上の女としての顔ではなく、初めての夜を迎える初々しさを、意気込みと恥じらいを。
「昨日言えなくてすみませんでした。あの香り、好きですよ。またいらっしゃる時には是非」
 また、という部分に重点を置いたつもりだったが、里は難しい表情で視線を落としていた。
「あの。……昨日は本当に、その……悪かった、です。蒲団に入ったら頭が冷えて、深く反省しました」
「そんな殊勝なのは里さんらしくないですよ」
 あえて軽い調子で言ってみるが、里の表情は沈んだままだ。隼太は内心の焦りを隠して頭を下げた。
「俺の方こそ、痛い思いをさせたうえ、きついことを言ってしまってすみませんでした。次はできるだけ痛くないように……あの、里さん」
 里の表情は重い。
「またいらっしゃいます、よね」
 里はうつむいて両手で顔を覆った。
「悪いんだけど……少し日にちをちょうだい」

 ――今日はもう帰って寝てください。
 隼太の口から出た拒絶の言葉。ゆきの眠る家へ帰ろうと外に出た一瞬、冷たい風に吹かれて里の頭はすっと冷えた。
 隼太の家は暖かかった。肌を曝す里が寒くないように気を遣っていたのだ。
 そう気付くと同時に、驕りきった自分の言動と叱責する彼の声に頭を殴りつけられた気がした。
 甘えていた。混乱する自分を見せるのが嫌で、いつものように煙に巻いて、誤魔化して、それで何とかなると思っていた。結局それは虚勢を張っているだけだと見抜かれ、暴かれ、身の置き場が無かった。
 明日になったら心から謝ろう、もう一度踏み出してみよう、そう思っていた。
 朝飯の支度中、腹にずきりと鈍い痛みがあった。腿には血が伝っていた。
「……ああああ」
 一人きりになった家で里は頭を抱えた。辞去した隼太の気まずい顔を思い出す。
 こんなこと、間が悪すぎて言えやしない。



 数日が経ち、邦とともに梅を診て帰ったところへ戸を叩く人があった。里は土間へ下りる。戸の向こうに立っていたのは暁だった。
「すみません、隣が不在だったので。黄月へ針葉から文です」
「ありがとう、渡しとくわね。そうだ、例の産婆さん本当に開業してくれたのよ。あなた何者?」
「ただの知り合いです」
 暁はやはり深くは語らず、頭を下げて辞去した。
 夕飯のとき隼太に文を渡すと、隼太は無言で紙面に目を落とし、元通り折り畳んだ。
「あなたのお友達はまた遠出してるの」
「ええ、ひと月ほど前から」
「あの子も睦っちゃんも、いつも離れ離れで不憫なもんね」
 隼太は何も返さず、里がよそった椀をゆきとともに次々配膳していった。
 翌日、里は朝のうちに仕事を済ませ、昼からは町へ買い物に出た。例の産婆のところに廓の仕事を半分割り振らせてもらい、余裕を持って日々を回せるようになっていた。
 里はふと思い立って裏通りまで足を伸ばした。小間物屋ではいつかと同じように静が店番をしており、里を見るとぱっと表情を明るくした。
「こんにちは。今日は旦那さんは一緒じゃないんですか」
「一緒に出歩くことなんて滅多にないわよ」
「えー、やだかわいそう」
 静がきゃらきゃらと笑っていると奥の戸ががらりと開いて負ぶい紐姿の浬が下駄を下ろした。
「静さん、そろそろ休憩に入ってください。替わりますよ」
「そうねえ。里さんは何か見にいらしたの? 品定めなら付き合いますけど」
「ううん、近くまで寄ったから双子ちゃんの様子でも見ようかなって」
 浬は二人に近寄り背を向けた。そこに収まっていたのは新だ。ばったんばったんとさかんに足を動かしている。
「綾はだいぶん歩くのが上手になりましたよ。新はもう少しってところです。妻は綾を負ぶって夕飯の支度中ですけど、もう終わると思います」
「はーい。じゃあ里さん、一緒にお饅頭摘まみましょ。浬さん、しばらくよろしくっ」
 静は里の腕を掴んで畳まで引っ張り、戸を閉めるや否やささっと里の耳に口を寄せた。
「で? で? 旦那さんと何があったんですかっ」
 その目はらんらんと輝き、口角はこれ以上ないほど上がっている。里はぎくりと表情を引きつらせた。
「えっ……何も無いわよ」
「ええ? 何かあったから話しに来たんじゃないんですかぁ?」
 あからさまにしょぼくれる静の背後で襖が開き、綾を負ぶった紅花が姿を見せた。
「いらっしゃい里さん。どうしたんですか」
「もー、がっかりよがっかり。お饅頭とお茶持ってくるわね」
 静の背中を見送り、紅花は負ぶい紐を外す。綾はよたっと立ち上がり二三歩進んでまた手を付いた。嬉しそうな娘に紅花は拍手を送り、膝に抱き上げた。
「何があったんですか」
「何も無かったんだってば」
 紅花が眉を寄せたところへ静が盆を運んできて、女だらけの茶会が始まった。器に盛られたひと口大の饅頭に次々に手が伸びる。綾は「あ!」としきりに器を指差して何か訴える。茶を啜る音。
「静さん、祝言の準備は順調? 服とかもう選んだの」
「まあね。結局あたしの家でやることになりそう。お爺ちゃんの腰の具合をせんりさんが気にしてて」
「なに、あなた祝言挙げるの。花ちゃんのお兄さんと?」
 里が口を挟むと静はにっと頬を上げて頷いた。
「元々はお爺ちゃんが色々いちゃもん付けて大変だったんですよ。でも夏にせんりさん、お爺ちゃんご所望の希少本を大変な思いして手に入れてくれて」
「とうとうお爺さんも折れたってわけ」
「と思うでしょ。でもせんりさん、遠出でしばらく足が遠のいてたんで、お爺ちゃんは張り合いが無かったみたいでね。あの舶来の坊主はまだ来んのかってうるさいうるさい。で、せんりさんが久しぶりに現れたら、本そっちのけで嬉しそうにいちゃもん付け始めて」
「あまのじゃくねえ」
 里が呆れ顔で言うと、静はまたきゃらきゃら笑った。
「祝言のときは里さんの旦那さんにも声掛けるはずだから是非ご一緒に。それでね、祝言の準備は恙なく進んでるんだけど、祝言まで寝床が別ってどう思う」
 あまりに滑らかに話題が移行したので、それが艶話だと里が気付くまで間があった。
「そりゃ……まあ、大きなお腹で祝言っていうのも。避けるに越したことはないんじゃない」
「そう、それ。織楽んとこのお披露目が産み月間近で、果枝さん……って奥さんなんだけど、途中で気分悪くなっちゃって大変そうだったもん。お腹が目立つ前でもあたし、つわりの時期は座ってるだけで辛かったし」
「そうそう。体調なんて千差万別なんだから自重すべきよ」
 当然と頷く二人に、静はむくれて綾を抱き上げた。綾は暴れて這い出し、また畳で立ち上がろうとする。
「分かるけどさあ、今更そんな清らかなこと言われてもねえ。もうとっくに一から十まで済ませてるってのよ」
「ちょっと静さん、あたし実の兄の生々しい話なんて聞きたくないんだけど」
「花ちゃんこそどうなのよ、この前ようやく解禁だったんでしょ」
 突然話を振られて紅花は大きな目を更に丸くした。里からも視線を浴びて居心地悪そうに肩をすくめる。「解禁」の意味を問おうとしたとき紅花がやっと口を開いた。
「二人も産んだから平気だと思ったんだけど……あんまりだったわ」
「やっぱり痛かったわけ? もー、それ花ちゃんが緊張しすぎてがっちがちに固まってたんじゃないの」
 里はさっと気配を消して無になった。これは、この話は、自分が混ざってはいけない類のあれだ。
「そりゃ緊張もするわよ。子供二人、いつ起きるか分かんないんだもん」
「なに、そっちの緊張?」
「だって同じ部屋だし。どうにか最後まではできたんだけど……三人目より、正直あたしは夜通し寝たいわけよ」
「うーわっ。旦那さん泣くわよ」
「仕方ないでしょ、もう一年半もしっかり寝てないんだもん。別に浬のことは嫌いじゃないし、触られんのもまあ嫌じゃないんだけどさ。最後の最後で引き返したくなんのよね」
「なに、ここから先は行き止まりですーって?」
 二人して肩を震わせ笑い合う。
「でもあれ何なんだろ。ほんっと静さんが羨ましくなるわよ。力は抜いてるつもりなんだけど」
「もしかして旦那さんがとんでもなく下手なの? どうなのよ、言っちゃいなさいよ」
「もー、声落としてよ。聞こえるでしょっ」
 声をひそめたり、笑って叩く真似をしてみたり。自分よりずっと若い二人がじゃれ合うのを、里は呆然と眺めていた。艶話……いや猥談だ。正直居たたまれないし、いつ自分に矢が飛んでくるか気が気ではない、だが続きを聞きたい。里は分かったように曖昧に頷きながらその場に溶け込もうとする。
「結局花ちゃんってさあ、色事は駄目って刷り込まれて育ったんでしょ。だからじゃない? せんりさんも罪よね、もっと楽に考えりゃいいのに。好きな人の肌を感じながら眠るなんてこの上ない幸せでしょ。その先にあるのがこんなに可愛い綾ちゃんで、新くんで、花ちゃん自身じゃないのよ」
「またそうやって人の子供を使おうとする。里さん、何か言ってやってくださいよ」
 唐突に名を呼ばれて、里ははっと我に返った。二人の視線が自分に注がれている。
「あ……そうね、私は嫌いじゃないわよ、その考え」
「ええ? ちょっと里さん」
「身重の時期は大変なことばかりだし、産も想像を絶する痛みだと思うけど、産まれたばかりのややを見る親の顔っていいものよ。疲れ切って汗だくでも、すごく綺麗に見える」
 静の話はあからさますぎて目も当てられないが、最後に話した話だけはすっと里の中に染み込んだ。
 里には両親がいない。父はどこの誰とも知れず、母は里を産むとき亡くなった。里はどちらの顔も知らない。だが確かに二人は存在した。
 二人にも想い合ったときがあったのだろうか。自分は望まれて産まれたのだろうか。
 母が父と一緒になることはなかった。理由は分からない。死別か離別か、だが母は産むことを選んだ。子堕ろしの方法を知っていたにもかかわらず腹の命を護り、そして自らと引き換えに里を産み落とした。
 命を産み出す手助けをしてきた自分は、母の命に報いることができただろうか。
 里は唇を結んで腰を上げた。
「そろそろお暇するわね。祝言楽しみにしてる」
「あ。あたしもそろそろ替わんなきゃ」
「はーい。綾、お手々振って。さようならって」
 女だらけの茶会はお開きとなり、里は帰路についた。ゆっくりと歩きながら空を仰ぎ見る。
 両親は既に亡い。育ての親の祖母も見送った。
 野辺送りの翌朝の浮遊感を覚えている。糸の切れた凧になってふわふわ漂っているような、宛てもなく大海原を泳いでいるような。
 倒れた次の日、目覚めたときにも思い出した感覚だ。全てが夢だったように感じた。ゆきのことも隼太のことも夢で、これから自分は一人で歩いていかねばならないのだと。
 そのとき隼太が現れたのだ。
 ――隼くんと私、一緒になったんだっけ。
 橋を渡って間地に入り、長屋の並びが見えたところで、向こうから歩いてくる雅文に気付いて里は足を止めた。
「雅くん、お疲れ様。今日はもう上がり?」
 雅文は里の声に気付かなかった様子でそのまま数歩歩き、はっと顔を上げた。その顔色はどこか優れない。
「あ、……奥さん」
「どうしたの、難しい顔して」
「いえ……失礼します」
 雅文はぺこりと頭を下げて里の横をすり抜ける。珍しい態度の彼の背中を、里は肩越しに見送った。

 夕飯の後、隼太が辞去するときに見送りがてら声を掛けようと思っていた。
 もう出血は終わりかけだから、二三日後の夜には。いや、がっつきすぎだろうか、もう数日待ってもらったほうが……。
 しかし「いただきます」と手を合わせて挨拶した後、彼の手は箸に伸びることなく「実は」と切り出した。
「明後日の舟で北上して旧上松領の医者を訪ねるつもりです。とても珍しい術を使うそうで、毒草を用いて人を眠らせ、激痛を伴う治療を痛みなく終わらせると言います。叶うなら腰を据えて学んでみたいと思っています」
 ゆきの咀嚼音だけが静かに続いた。里は箸を置いて「え?」と声を絞り出した。それが精一杯だった。
「何よそれ、そんな眉唾物の……どこでそんなこと」
「そういう医者がいるというのは前から耳にしていて、今回ようやく場所が掴めたので」
「今回って……」里ははっと思い当たり、「あの子が持ってきた文?」
 暁が昨日持参したのは、遠出した彼女の夫からの文だという。離れ離れで不憫だと言う里に隼太は何も返さなかった。あのときにはもう旅立つことを決めていたのか。
「明後日って何、そんなに急に? 患者さんはどうするの」
「勝手に決めたことは申し訳ないですが、国境まで向かう舟は少なくて。薬のことは雅くんに任せています。それ以外の突発的な怪我や病に関しては、近くの医者二軒に協力を仰いできたので、雅くんからそちらへ振ってもらいます」
 ゆきが隼太の手に何か書くと、隼太は首を振って笑った。
「大丈夫、きちんと手順を踏んで国を渡るだけだ。年末までには帰る」
 里は険しい表情でうつむいていた。思い出したのは雅文の複雑な表情だ。あの意味を里は今噛み締めていた。自分が去った後のことを全て整えているからには、隼太の決心は堅い。止めても無駄だ。
「旧上松領……は、あなたが昔住んでいたところよね」
 そしてゆきの母が住んでいたところだ。隼太の視線がちらりとゆきに向けられる。
「ええ、偶然にも……というか、妙な縁があったというか。今年から旧豊川領が坡城になって、舟の道が整備されたのが幸いでした」
 ゆきがまた隼太に指で伝え、隼太は答える。里は身じろぎせずにそれを眺める。
 朗らかに笑う隼太は前を向いている。新たな術を学ぶ希望を胸に抱いている。
 動けない自分が後ろから袖を引いて引き留めるなど、愚かしいにも程がある。
「分かった。行ってらっしゃい」
 ゆきが驚いた様子で里を振り向いた。焦った様子で乱れた文字が飛んでくる。
「おかあさん いいの しんぱいじゃないの」
「隼くんなら心配いらないわよ」
「とおくでしょ さみしいよ おかあさんは へいきなの」
 掻き毟られるような痛みがさっと胸を通り抜けていった。
 寂しくなどない、元々二人暮らしだったのだ、去年に戻るだけだ。そう思うのに。
「……隼くんを困らせるもんじゃないわ。聞き分けなきゃ」
 里はゆきの頭をひと撫でしてぱんと手を打ち鳴らし、箸を取った。
「はい、この話はここまで。ご飯が冷めちゃう。早く食べましょ」
 里に続いて二人も箸を動かし始める。箸を口に運びながら、椀を空にしながら、しかし里にはそのどれもが味気なく感じられた。

 二日後の朝はあっけなく訪れ、朝食の片付けを終えた里は隣家を訪れた。隼太は既に旅支度を終え、その隣でゆきがしきりに何か話しかけていた。
 隼太に促され、ゆきは名残惜しく振り返りながら本を手に家を出た。小さな背は外に出てからも何度も振り返り、やがて角を曲がって見えなくなった。
「これ、お昼に食べて」
 里は隼太の荷の隣にマチクの包みを置いた。隼太の口元がほころび礼が返ってくる。
 ふと数日前のことが蘇った。あの夜ここには蒲団が敷かれていた。里は振り切るようにふいと顔を背ける。
「年末までって言ってたわね」
「ええ、とりあえずはそのくらいで。それより長くなりそうなら一旦戻ります。年は三人一緒に越しましょう」
 さらりと言う声が悔しくて、里は脇に置かれた笠を睨み付ける。やがて見つめる先は隼太へと移った。目が合う。
「せっかく遠くまで出向くんだから、しっかり学んでいらっしゃいよ。くれぐれも気を付けてね」
「里さんも、くれぐれも無理はされないように」
「そうね、あの肉団子はもうこりごり」
 里は肩を揺らしながら戸に手を掛け、立ち止まった。
「……あなたは自分で道を開いていく人なのね。今はただ純粋に凄いと思うわ。得るものの多い旅であるよう祈ってる」
「里さん。俺が会いに行く医者は赤子を取り上げたことがあるそうです。母親を眠らせて、腹を開いて、赤子を取り出して、縫い合わせて、母も子も健在だと。前にした話、覚えてますか」
 餞の言葉を掛けたつもりが、新たな話が始まって里は困惑した。確か自分は夢物語だと断じ、気の無い素振りであしらったはずだ。
「極端な難産の末に母や子が亡くなることがあると、いつか里さんは言いましたね。どう頑張っても産まれず疲弊していくだけの産があると。とても難しいとは思いますが、もしその術を身に付けられたら、諦めざるを得ない命が一つでも減らせると思いませんか」
 覚えている。夜にこの家を訪れた一度目、それは彼を拒むためにした話だった。自分が何の気なしに放ったひと言、それを彼は丁寧に拾い上げ、今このときまで抱えて歩いてきたのだ。
 胸が熱い。里は帯の上に強く手を当てて振り向いた。隼太はばつの悪い顔で頭を掻いていた。
「つまり何が言いたいかというと、俺が一人で道を開いたわけじゃなくて、やっぱり今回も里さんが道を示してくれたからなんです」
 買い被らないでくれと言いたいのだろう、しかし買い被りが過ぎるのは彼の方だ。里は笑い、目を指で拭う。
「あなたって人は……まったくもう」
 真っ直ぐに見つめる彼は、貧相な弟分ではなく、全てを器用に解決する万能者でもなく、ただの男だった。ここにいる里自身がただの女であるのと同じように。
 物分かりのいい年長者を演じるのはもう終わりにしよう。
「用事が済んだらできるだけ早く帰ってきてね。待ってるから。ゆきも、……それから私も」
「里さ――
 里の背後、戸を一つ隔てた外でばたばたと足音が通り過ぎていった。直後、どんどんと激しく戸を叩く音。それは隣、里の家の戸だ。
「産婆さん! すみません、来てください! うちの梅が! 腹が痛いって!」
「梅さん……」
 里ははっと背後を振り返った。後ろ髪を引かれる思いで再び隼太を見る、視線が交錯する。躊躇いは一瞬だった。
「行ってくる!」
「行ってらっしゃい」
 里は産婆の顔に戻って戸を開け放った。
「すぐ向かいます!」
 ――梅は初産にしては産の進みが早く、長屋の人々が次々応援に駆け付ける中、夕方に元気な産声が上がった。初めて産に立ち会った邦は興奮気味に涙ぐんでいた。産湯から上げた赤子を包んで梅に抱かせ、里は立ち上がった。戸の向こうでゆきと弓が手を取り合って喜んでいるのが見えた。
 ゆきとともに相伴にあずかり、日が落ちて帰宅すると、隣家から既に隼太の姿は消えていた。



 巴屋へ向かって暁と黄月宛ての文を頼み、脇谷の暮らす山の麓まで帰る。針葉の足でも往復でたっぷり四日かかった。うち一宿一飯は巴屋で世話になったものの、これから暁を待ってここに滞在し、共に帰らねばならないことを考えると、路銀は少しでも確保しておきたかった。
 山のように積まれた薪を割りつつ脇谷に尋ねてみると、彼は腕を組んでしばし考え込み、ぽんと手を打った。
「そうだ針葉くん、君は川舟が扱えるんだったね」
「櫂持ち業は二年くらいしてるな」
「船頭をやってた人が膝を痛めててね。二三月でいいから代わりがいないかってぼやいてたんだけど、やってみる気はあるかい」
 翌日、脇谷の往診に付き添って船頭をしていた男の話を聞き、そこからはとんとん拍子に話が進んだ。
 仕事の内容としては、穏やかだが入り組んだ水路を行く櫂持ちより、その前に就いていた乗り子業のほうが近かった。流れの急な山間の川を、荷を乗せて下り、荷を下ろしたら逆流の中を舟を曳いて戻る。乗り子のように舟が筏でないぶん安心だが、乗り子では筏を成している木そのものが荷だったので、舟を上流へ戻す苦労は無かった。
「ちゃんと浅いとこ通っていきゃ足を取らるぅこたねんだが、なんせ舟浮かべにゃならんで水ん中っちゃろ。冬ぁ寒い寒い。元気そうな若もんで良かった」
 ぼろぼろの河川図を指しながら男は語った。針葉は川の道を指で辿りながら小さく頷く。脇谷の家からもどうにか通えそうだ。
「ところで山ん中から舟を出すみたいだけど、荷は何なんだ。木ってわけじゃないんだろ」
「石ちゃ。こぉんなごろごろしたのを前に後ろにたんまり積んで下る。落としちゃいかん、濡らしちゃいかん、引っくり返しでんしょうなら全て弁償ちゃ」
「石……」
 針葉は顔を上げて脇谷を見た。脇谷はこくりと頷く。
「石掘り場だよ。怪我した男衆は金をとらず診てるって言っただろ」
「こんな近くにあったのか」
 物語でしかなかったものが急に身に迫ってくる。針葉は顔をしかめて河川図を見下ろした。
 翌日から早速川舟乗りが始まった。早朝に山を上ると、広くはない川を既にいくつもの舟が流れていた。小さな舟でしか行き来できないため回数を稼ぐ必要があるのだという。
「石を掘っても運び出せなきゃ意味が無いからよぉ」
 針葉と同じくらいの歳の船頭は、舟を曳いて上流まで歩きながらそう言った。針葉はその背を追って、水の流れを受けながら舟を曳き、足首まで、時には膝まで水に浸かりながら歩く。元々が寒い旧上松領の、それも山の中だ。晩秋の今でも足がすぐに重くなる。真冬にはさぞ堪えることだろう。
 石掘り場はどこまでも続く柵で仕切られ、自由に出入りができるようには見えなかった。船頭への石の受け渡しも場所が定められている。そこだけ川に突き出すように柵が設けられ、舟から降りることなく石を積み込めるようになっているのだ。そこに常駐しているのは、恐らく上に立つ側の者なのだろう。
 ――やっとの思いで逃げたんです。戻りたぁない。
 大島で会った久典の涙声が蘇る。
 そうか、お前はこんなところにいたのか。餓鬼の時分にこんなところへ連れて来られて、父親を亡くし、母親の顔も忘れ、十年近くも。
「出てよし。石を下ろしたらすぐに戻れよ」
 偉そうな声に小さく頭を下げて、針葉は杭から縄を外し櫂を動かす。殴り飛ばすのは簡単だが、それは今すべきことではないだろう。どれだけ癪に障っても、今は日銭を稼がねば。

 川舟に乗って半月ほどが経ち、効率よく仕事を回せるようになった日のことだった。
 日が落ちるまで間があったが夕方から雲が多くなり、思いの外早く空が陰った。針葉が石を積んで川を下る途中で、舟を曳き上げる船頭たちといくつもすれ違った。
 案の定、川を下って石を下ろしたときには空はどんよりと暗くなり、舟を曳いて川を上る最中でぽつりぽつりと雨が降り出した。針葉は舌打ちをして前へ前へと足を進める。
 川はどこまでも暗く、黒い沼に足を踏み入れているような気がした。針葉は唇を結んで上流を目指す。
 やがてくすんだ色の柵が遠く朧げに見えてくる。針葉はいくつも立てられた杭の一つに縄を括り付けて舟を固定する。これで後は山道を下るだけだ。
 どぼん。
 魚と言うにはあまりに大きな音だった。はっと振り向くが誰の姿もない。聞き違いかと視線を上げると、柵に取り付く影が見えた。影がふっと消える。
 どぼん。
 針葉はごくりと唾を呑み込んでざぶざぶと川の中に踏み入った。川は途中で急に深くなった。冷たい水に胸まで曝され、引き返したくなる衝動を堪える。どうせ雨で濡れているのだ、川に飛び込もうが大した違いはない。
 うまく動かない腕で水を掻いて探る。どこだ。あの位置から落ちたならこの辺りに。
 やがて針葉が川の中からざぶりと引き上げたのは若い男二人だった。