森宮の長屋は一年前に茱歌が片付けたときから多少物が増えていたものの、全て開け放てば風が通るほどの量に保たれていた。 森宮は久しぶりの来客に目尻を下げ、早売りの積まれた文机を脇へ避けた。本川は小さく頭を下げて彼の前に腰を下ろす。 「何だよ清坊、ここんとこ全く音沙汰なしで」 「公演に次ぐ公演のうえ、今年は夏にも大舞台があったので」 「そう、それだよそれ。何だ、お前も織楽も夏芝居に出るなんて。どういう風の吹き回しだ」 とぽとぽと茶を湯呑に注ぐ音がする。茱歌が盆を運んできて二人の前に置いた。 「書いてみろと言ったのはあんたでしょうが。愛娘が書いた話、ちゃんと観に来たんでしょうね」 「へっ、一番前で観たわ」 森宮がふんと鼻を鳴らす。茱歌が小さく「観たんだ」と呟いた。 「そりゃ良かった。で、どうでしたか」 「どうってのは?」 「あれだけ客を呼べる本を書いた娘に、次の本を書かせるつもりはありますか」 森宮がずずっと茶を啜り、置いた。その間も視線は本川から離さなかった。 「茱歌から何か聞いたのかい」 「まあ、どこぞの誰かと縁談が進んでるってことくらいは」 「そうかい。……進んでるってほどでもないが、ちょいといい話が転がってきたんでね。この目の黒いうちにまとめてやるのが親心ってもんだろ」 後ろで茱歌の気配がする、しかし彼女は何も言わない。本川ははっと短く笑う。 「寂しいもんだな、あんたの娘の縁談は俺に任せてくれてるんじゃなかったんですか」 「お前一人に頼るもんかい。第一お前、まともに探す気なんざ無かっただろ。聞いたぞ、夏芝居の本にゃお前も一枚噛んでるって。嫁入り前の娘を男の部屋に連れ込んでんじゃねえよ」 図星を指されて本川の口元がぴくりと引きつった。茶を飲んでひと息つき、態勢を立て直す。 「そんなことない、つてを辿って探しましたとも。だがなかなか見付からない。これという男は既に所帯持ちだ。さあどうしよう。……そう思っているうちにはたと気付いたんですよ、そうだ独り身の男が一人いたなと」 「ほう?」 本川は自分の胸をぽんと叩いた。 「俺なんかどうです」 「はっはは、冗談にしちゃ面白くないな。はっはっは」 森宮がいくら笑い飛ばしても本川の表情はにこやかなまま、自分の胸に掌を当てている。森宮はすっと真顔に戻ってぱちぱちと瞬いた。 「え、本気かい」 「本気ですとも」 「おい茱歌、どういうことだ。いつの間にそんな話……ええ? なんだお前ら、そういうことか? だから清坊の部屋に足繁く通ってたわけか? さっさと言えよ、父ちゃん置いてけぼりかよぉ」 茱歌は紅潮する顔を手で覆い、本川の斜め後ろに座った。 「やめてよお父ちゃん、そんな勘繰り。私は真面目に本書きを……」 「しかしその積み重ねがあったからこそ芽生えた想いがあったんですよ。なあ」 本川は振り返るが、茱歌は顔を押さえたまま視線を逸らした。 「はぁ……清坊ねえ。そりゃこの子の性分を知ってるわけだから、願ってもない話じゃあるが」 首を捻る森宮に、本川はきちりと膝を揃えて座り直した。 「長らく第一線におられたあなたにとって、俺が半人前に過ぎないのは承知しています。この商売に明日の保証が無いことも、歳が離れていることも。ですが決して娘御に苦労はかけないし、あなたの面倒もきちんと見るつもりです。だからどうか、あなたの娘御と添うことをお許しいただきたい」 本川に深々と頭を下げられ、森宮は顔をしかめて手を振った。 「よせよせ、老いぼれの面倒見てもらうために嫁がせるんじゃない。俺は別にいいんだよ、縁談を考えてたのも、この子が浮いた話の一つも持ってこなかったからであって。自分できちっと考えてるなら結構だが……茱歌、お前はどうなんだ」 森宮が話を振ったのは、ほとんど言葉を発していない自分の娘だった。 「私は……ちょっとまだ、何が何だか」 ちらと茱歌を振り返った本川の目が鋭い。う、と茱歌は言葉に詰まった。これ以上どう言おうにも、あの胸のざわめきはまだうまく説明できない。 「その、損得勘定だけで測るんならこれ以上ない相手だと思うの」 「損、得、勘、定!?」 「あ。言葉選びを間違えました。話してても話題が尽きないし、これはきっと相性がいいのかなって思うの!」 その話題の大半が芝居談義であることは黙っておく。森宮は承服しかねた様子でぽりぽりと首を掻いた。 「口出しするつもりじゃないんだが……なんっか想い合ってってふうには見えなくてよ」 「ははは、どうもお互い恥じらいが強いもので」 「三十手前の男が恥じらいとか言うな、気持ち悪い」 森宮はにべもなくあしらい、冷めきった茶をぐいと飲み干した。 「お互いが納得してるんなら、俺が許す許さんの話じゃない。くっつくも離れるも好きにしたらいい」 「ありがとうございます」 本川が再び深く頭を下げ、その後ろで茱歌もおずおずと頭を下げる。森宮は一瞥しただけで自分の湯呑を持って土間へ下りた。 「にしても片付くときゃ一瞬だねえ。こうすんなりいくと逆に寂しいもんだ」 「別に掻っ攫っていくわけじゃありません、当分は今までどおり親子で暮らしてもらえれば」 「なぁに言ってる、夫婦が別々に暮らしてどうするんだ。俺なんか見てみろ、自分のかみさんとは暮らしたくても暮らせないんだぞ。次会う時は墓の中だ」 あ、と本川は振り向いた。一緒になることをすんなり許した森宮だが、もしや彼の譲れない点はここなのか。森宮は二杯目の茶を飲んでにやりと笑った。 「いいんだよ、時々様子を知らせてくれりゃあ。そのうち孫の顔くらい拝ましてもらえるんだろ」 「そう、ですね。まあいずれ……」 本川はちらと茱歌に視線を移す。うつむいた彼女の表情は読み取れず、ただ膝の上で拳を堅く握りしめていた。 港番が人別方の番になったのはその月の十五日だった。 読み合わせの合間を縫って二人で座長に挨拶を済ませ、番処へは本川が出向いた。そしてその夕、茱歌は役者長屋二階の本川の部屋に上がり、膝を付き合わせて飯を食べていた。 役者長屋の飯作りは下の組の当番制だ。茱歌も下の組に準ずる扱いとして、ひと通りの説明を受けたところだった。 茱歌は箸を止めて、ちらと向かいに座る男を見る。 看板だの花形だの、彼を彩る言葉が数多あることは知っているが、茱歌にとってそれは役どころの違いでしかない。一定の客が呼べるかどうか、表現の幅の広い狭い、舞台で動かして映えるかどうか。男女、老若、美醜、荒事和事。好き嫌いではなく、芝居を作り上げるうえでの単なる区別だ。 夏芝居の本書きでこの部屋に上がるとき、それは常に心掛けてきた。特別な目で見たことなど無かったはずだ。 それを差し引いても華がある人だと初めて思った。ただ飯を食らっているだけなのに絵になる。姿勢が、所作が、視線の流れが、指先の動きまでも。 「ん?」 本川が茱歌の視線に気付いた。茱歌は慌てて箸を進める。 「番処の手続きは済んだ、んですよね」 「ああ、滞りなく」 「そうなんですか……」 それ以上会話を続けられず、茱歌は飯に専念することにした。 下膳ののち本川は衝立の向こうにあった蒲団を敷いた。贅沢にも綿入りの掛け蒲団つきだ。 「悪いが家のことはちょっと待っててくれ。親父さんのところで暮らしてもらうつもりだったからな。顔見世までには何とかする」 「いえ、こちらこそ。すみません、間借りしてしまって」 茱歌はぺこりと頭を下げる。「籍を入れたら家を出ろ」と父親である森宮から言い渡されていた。 すぐに帰れる近さを理由に、とりあえず持参したのは着物と書き物の道具一式のみだ。蒲団すらも二組は敷けないからと置いてきていたが、持って来なくて良かったと、綿入りの蒲団を見て茱歌は胸を撫で下ろした。見劣りどころの話ではない。 「窮屈なのは朝と夜だけだ。昼は読み合わせに行くから好きに使うといい」 事もなげに言う彼を正視できず、茱歌は部屋の隅にちょこんと正座して畳の目を数える。 あまりにも早く進み過ぎて感慨がわかない。何もかもを早急に済ませすぎたのではないか。この道は本当に正しいのか。この据わりの悪さは何だ。でも損得で判ずるならば、これ以上の―― 思考が止まる。 膝に置いた茱歌の手に、本川の手が重ねられていた。 「これでお前は訳の分からん縁談に振り回されることもない。好きにやれ」 「はい、あの……」 手はすぐに離れた。本川は茱歌に背を向け、長着を脱いで襦袢姿になると、部屋の上に渡した紐にばさっと長着を掛けた。いつもそうしているのだろう、有明行灯を枕元に移すと、さっさと蒲団を被って横になってしまった。 ちくっと胸が痛む。 茱歌は衿の上から胸を押さえた。ようやく気付いていた。このざらりとした違和感の正体。 打ち上げの夜に彼は言った、「後ろ見が必要なら俺がなってやる」。 つまり彼は後ろ見で、単なる父親代わりなのだ。茱歌が嫁いでも筆を折らないように、そのためだけに現れた。 だからこれほど素早くことが進んだ。だから夜に同じ部屋で過ごし、これから一つの蒲団に入るというのに、これほど躊躇がない。 まるで身請けだ。 自分は買われたのだ。 そう思い至ればこそ踏ん切りもついた。茱歌もするりと着物を脱いで襦袢姿になり、髪を解いて蒲団の端にもぐり込んだ。 この痛みは知らなかった。覚えておこう、刻み付けておこう、活かすとしたらどんな話だ。中心となるのは女郎と、それを哀れに思った若旦那。若旦那には昔想った女がいたが、清らかな関係のうちに生き別れとなり、女郎にその面影を見るのだ。かくして若旦那は女郎を身請けするが、いっかな手を出すことはなく―― いやいや自分は新婚初夜にまたこんなことを考えて! 茱歌は本川のいるほうへ背を向けて目を瞑った。そのうち眠くもなるだろうと――しかしもぞもぞと背後で動く気配があった。はっと身を固くするが何も起こらない。 肩越しに見ると、本川は肘枕で行灯を眺めていた。薄い色の目には灯りが映っていた。 「……眠らないんですか」 「いや、お前が薄衣一枚で入ってくるから。……冷静に考えるとなかなか突っ走ったことしたなと考えてた。今更だけどお前、本当に良かったのか。惚れた男の一人や二人いなかったのか」 茱歌は唖然とそれを聞いた。あの強気な態度はどこへやら、茱歌の父に悪びれず空約束したのは数日前のことなのだが。 茱歌も身をよじってうつ伏せになった。薄衣と言われたのが頭をちらつき、念のため衿は深く合わせておく。 「本当に今更ですね。……今更帰れと言われても困りますよ。お父ちゃんにどんな顔されるか」 「帰す? 冗談だろ」 不安混じりの声は一笑に付された。蒲団越しに彼の腕の重みを感じて、茱歌は身を硬直させた。耳元で低い声。 「帰さない」 直視できない。茱歌はうつむいて目を瞑る。胸がうずく。うずきが声になる。 「あの、本川さん、私の……お父ちゃんの代わりになるつもり、ですよね。そうですよね?」 「は? そんなこと言ったか」 あっさりと否定されて茱歌は顔を上げた。 「だいたい親父さんってもう六十くらいだろ? そこまで歳離れちゃいねえよ、失礼な」 「あ、いえ、歳の話をしているわけでは……」言い掛けた茱歌に本川はがばっと身を寄せた。 「おいおいおい。もしかしてお前、今日俺が番処で養子縁組してきたと思ってたのか?」 息のかかる距離だった。茱歌は声を出せず、細かく首を振って否定する。本川は呆れたように笑って身を戻した。 「何だってそんな誤解した」 茱歌はぐっと胸を押さえる。鳴るな。鳴るな。 「あの……だって、じゃなきゃどうしてあなたが私と? 惚れた相手がいないのかって私に訊きますけど、ご自分はどうなんですか」 「まあそりゃ、お前より十年長く生きてるからな。色々あったにはあったが昔の話だ」 「い……色んな人と噂になりましたよね。私が知ってるだけでも、ええと」 茱歌が指を折って数え始めた、その手を本川が止めた。 「やめとけ」 「……離してください」 「何だって今そんな話が必要だ? お前妬いてんのか」 茱歌は細く息を吸ったまま動けなくなる。逃げようとした体を本川が捉え、押し倒した。茱歌は目を見開く。視界にはくろぐろとした天井、その手前、眼前に迫る「夫」の影。行灯だけの暗がりでも、この近さでは知られてしまう。頬の熱さも、強がってみせただけの唇も、胸の音も、全て露わだ。 恥じらいのはの字も無い、そう思っていた女の顔をまじまじと見て、本川は感心したように小さく笑った。 「お前にもそういう情緒があったのか」 「離してください」 「ちゃんと考えてみろ。妬いたのか」 本川の手が、茱歌の頬の丸みを、唇を、耳を、舐めるように撫でていく。 ああ、もう隠せない。引き剥がすのを諦めて、茱歌は自分の顔を覆った。唇を噛む。 「……打ち上げの日、あなたに……触れられてから駄目なんです。ざわざわして、もう、落ち着かなくて」 茱歌の頬を押さえていた手が離れて、左胸に触れた。「ひっ」小さく声が漏れて、茱歌はそろりと顔を覆った手を外す。潰すかのように胸を押さえ付けているのは確かに彼の手だ。不思議といやらしさは感じなかった。むしろそれは鼓動を確かめるかのような。 「いい傾向だ」 「は……」 「このまま最後まで経験してみるか。したいか?」 胸を押さえていた彼の手は今は衿にかかり、その内へ滑り込もうとしていた。 茱歌は自分の息を聞いた。早くなっていく。どんどん早くなる。 今にも破裂しそうに、 「――からかわないで!」 ぱん、とその手を払いのけた。――沈黙。 伸し掛かったままの影を見つめながら、茱歌は頭の中が急速に冷静になるのを感じていた。 ……まずい。やってしまった。 今日は何の日だ、籍を入れた日だ。すぐそこにいるのは誰だ、夫なる生き物だ。 今夜はいわゆる初夜なのだ。その意味くらい茱歌だって知っている……何となくは。何をするものなのかも知っている……何となくは。 どうしよう。夜が明けたら家に帰されるのだろうか。いや、そもそも彼は傷付いているのか、それとも怒っているのか。今から自分は叱られるのか、それとも無視されて一晩を過ごすのか、それとも。 彼の反応はどれでもなかった。 「ははは、そうだよな、そうだそうだ、確かに。悪かった」 本川はひとしきり笑うと、茱歌の上から体をどけて乱れた蒲団を掛け直した。茱歌は慌てて起き上がる。 「あっ、あの……私、とんでもなく失礼なことを」 「気にするな、こっちも悪かった。確かにそうだ、ひと息に終わらせるのは勿体ない」 「はい?」 何か齟齬がある気がした。眉を寄せた茱歌のもとへ本川の手が伸びる。 「抱擁ならお許しいただけますか、お嬢さん?」 「は、……はい」 気取った口調そのままに、今度茱歌を包んだ腕は優しかった。髪をするりと撫でる指。どきどきと胸が高鳴ってうるさいくらいだ。そう、このくらい細やかに進んでいくのがいい。肌が粟立つ。ぞわりと、弱いところに爪を立てるように。 顎に触れた手が茱歌の顔を上向かせた。 あ、この後に起きることを知っている……何となくは。茱歌は目を閉じた。息がかかるのが分かった。今は逃げようとは思わなかった。凪いだ甘やかな海にたゆたうようだ。とろり、沈んでいくようだ。そのまま待った。 唇に触れたのは親指だった。 目を開けた茱歌の前には夫となった人の顔があった。 「今の気持ちを覚えておけ。何度でも思い出せ」 「は……?」 「舞台から升席にそれを伝えるにはどうすればいい? 何と喋らせる? どう見せる?」 「あの」 「お前の強みは和事だと俺は思う。夏芝居でも別れの場面が評判だったしな。まずは新しく一本書いてみて、充分に今の気持ちを噛み砕けたら続きをしよう」 ぽかんとしたままの茱歌を残し、本川は横になった。心も体も置いてきぼりだ。茱歌は路頭に迷った子供のようにきょときょとと辺りを見回す。 「あの、本川さん」 「そうだ、それも止めよう」 本川は枕に頭を乗せたまま茱歌に人差し指を突き付けた。 「本川って呼ぶのは無しだ。下の名でいい」 「…… 本川が頷く。その指がさらりと肩から垂れた茱歌の髪に触れていった。 「おやすみ、茱歌」 茱歌は強く口を結んだ。悔しい。心が揺さぶられる。意図したように操られる。意図などない一つ一つにも掻き乱される。 何より悔しいのは、それら全てが糧になろうことだ。茱歌の胸に宿ったうずきは、右腕を通って筆に宿り、墨字となって残るだろう。揺らぎは全て、余すところなく糧になる。彼が望んだとおりに。 「おやすみなさいっ」 茱歌は蒲団にもぐり込んだ。今度は夫となった男の方を向いて。 何となくしか知らない「初夜」なるものは、温もりに包まれて過ぎていった。 豊川領の北限まで行った針葉は、そこからは六年前に知った道を辿った。場所の記憶は朧げだったが、河川図と照らし合わせれば当時の道は容易に絞り込めた。 洞窟の奥には今もあの石仏があり、それを動かした背後には地下へと続く長い道があった。壁に渡された縄はしっかりとして、この道が今も生きているのだと感じさせた。 一人、深い闇の底を往く。 カワホリの羽ばたきを聞きながら、水滴を頭に受けながら。 地下の暗い水の中を小舟で進み、着いた先でようやく上り坂となる。これで一番の難所は越した。 翌日には旧上松領北部の山中に出て、そこから麓に下り、飛鳥松川の地にある巴屋を目指した。 去年は夏から秋にかけての三箇月を飛鳥で過ごしたが、巴屋と連絡を取っていたのはナツだった。針葉は六年ぶりに訪れる巴屋を懐かしく眺めた。 番頭は当時と同じ矢野で、目尻の下がった柔和な顔立ちは記憶のままだったが、針葉を連れて奥に下がってからの彼は眼光鋭く、黒烏としての顔を隠さなかった。 「矢野あらため雉にございます。いつぞやはどうも。馬鹿にされたものですね、あのときはあなた、暁殿と共に動かれていたのでしょう」 「何年前の話だよ、もう水に流してくれって。去年は長いこと助けてもらって感謝してるよ」 「去年といえば! 暁殿はお近くにいらしていたというのに、お目通りすることも叶わず……これほど口惜しいことはありません!」 憤慨する矢野を、針葉は気後れした表情で宥めた。 思い返せば、六年前に菱屋から受けた依頼も、その後巴屋から受けた依頼も、どこか妙だった。その理由は暁の存在だったのだと今なら分かる。暁の父も兄も戦火に亡くなり、彼ら黒烏はどこかに消えた豊川の娘を探し出す必要があったのだ。豊川家当主となりうる唯一の存在を。 だからほたるでの会合に先回りして豊川の刀を奪い、暁をおびき出した。暁とおぼしき者が現れたのを確認して依頼を打ち切り、一行が飛鳥から坡城へ帰るときには見張りをつけた。翌年、仕事を探して菱屋へ行った針葉は、菱屋で働く人数が増えていたことを覚えている。きっとあのとき牙は、暁が坡城の港町で暮らしていると知って、菱屋を本拠地にすることに決めたのだろう。 菱屋あての文を矢野に頼み、翌日に針葉は旧上松領を目指して南下した。 医者が住むという場所は、書き付けには町の名しか記されていなかった。人に聞き回ってようやくそこに着いたのは、出立から半月が過ぎた日のことだった。 その家は町の外れ、山の麓にぽつんとあった。茅葺の古い家は、去年傷を負った針葉が運び込まれた廃家に似ていた。 そこでは針葉よりひと回り年嵩と思われる男が一人、へっぴり腰で薪を割っていた。 男が薪割りの手を止め、切り株に腰を下ろしたところで針葉は歩き出した。 「失礼する」 針葉が声を掛けると、男はふいと顔を上げた。 「カゾに詳しい医者ってのはあんたか」 「……そういう君は?」 男は値踏みするような視線を針葉に向けた。 「やあ助かったよ針葉くんとやら。君は実に薪割りが上手い。まるで薪割りのために生まれてきたのかと錯覚してしまうね。いや実に素晴らしい」 「そりゃ良かった。じゃあそろそろこっちの話を……」 「次は火起こしをお願いするよ。実は火種を切らしてしまってね。枝ならそこにたんとある。足りなければ拾ってくるといいよ。君の火おこしの才を僕は信じている。では僕は水を汲んでこよう」 男は早口で告げると、ひらりと手を振り家を出て行った。 針葉は家の壁際に置かれた枝の山を眺めて溜息を吐いた。 この家に辿り着いてこちら、この調子だ。針葉が名乗るや否や、男は目を輝かせて針葉に歩み寄った。 ――君はなかなかいい体格をしているね。斧を振るうのは得意かな? 恩を売っておくのは悪くないと判断して頷いた針葉だが、未だ用件は延べられず、それどころか彼が探していた人物なのかも掴めないままだ。 火を起こしたところで男がえっちらおっちらと桶を抱えて戻った。それを家の戸の脇に置いてふうと息を吐き、薬缶を火にかける。 「やあお待たせ。助かったよ。ところで君は干物は好きかい。昨日たくさん貰ってねえ」 「魚は何でも食べる。ところであんた」 「じゃあ干物と芋飯にしよう。芋も、これまた一昨日いくつか貰ってねえ」 「あんた、カゾに詳しいってのは」 「蒲団はさすがに僕の分しか無くてねえ。世の中そう上手くはできてないってことかな。筵で我慢してくれるかな」 「おい、こっちの話も少しは……いや待て、なんで俺が泊まる流れになってんだ」 男はそこでようやく言葉を止めて興味深げに針葉を見た。 「だって君、僕に用があるんだろう? そう言ってたじゃないか」 薬缶がしゅうしゅうと湯気を吹く。男は数人分はある大きな急須に湯を注いだ。針葉は急須の中身にちらと目をやる。あれは普通の茶葉に見えるが、果たして。 「カゾをはじめ、この辺りの山の草には面白いものがたくさんあるよ。十五年前にここへ来たときは、そりゃもう驚いたもんだ。……君はどこで僕のことを知った? 医者には見えないけどなあ」 針葉はすぐには答えられなかった。十五年前というと針葉は八つ、黄月も八つだ。黄月の郷で野良犬と呼ばれたごろつきが狂死したのがその頃ではなかったか。 男は急須の中身を二客の湯呑に移し、一つを針葉に渡した。針葉はじっと湯呑を見る。 「どこにでも売ってる普通のお茶だよ。カゾなんて入れないさ」 針葉の胸中を見透かしたように、男は笑ってぐいと自分の湯呑を呷った。 男は脇谷と名乗った。 野良犬の件に触れると、彼は意外なほどあっさりと認めた。 「そうそう、それ僕。でも僕はあくまで薬としてのカゾを調べていたわけで、人を死に至らしめるつもりはなかったんだよ。彼らには本当に申し訳ないことをした。一日たりとも忘れたことはないよ」 「薬? 人を狂わせるって葉が?」 あまりに軽々と罪を告白する彼に、意図せずして噛み付く口調となった。しかし彼は大真面目に頷いた。 「薬だよ。そりゃ使い方を誤れば譫妄に陥るし体も病む、命を落とすこともあるが、厳重に管理したうえでは他に類を見ない薬になる。人を深く眠らせ痛みすら感じさせない、そんなものが他にあるかい?」 「……体から岩を取り出すとかいう?」 「なんだ、君よく知ってるじゃないか。やっぱり医者?」 針葉は首を振り、吸筒の水を喉に流した。脇谷が淹れた茶にはまだ手を付けられずにいた。 「だがカゾは廓や石掘り場で使われてるっていうだろ。苦痛を忘れてただ働かせるために。それも薬だってあんたは言うのか」 「そう、お上がやりたかったのは正にそれなんだよね。だから僕はお上と決別したわけだけど。全く嘆かわしいよ……。君の問いに答えるのなら、否だ。あれは毒としての使い方だと僕は思うね」 そのくだりは大島の香ほづ木売りから聞いた話と合致していた。「お上に意見して干されて野に下ったそうだよ」と。 「だから廓を抜けた女郎や石堀り場で怪我した男衆なんかは、金を取らず診るようにしてるよ。せめてもの罪滅ぼしと思ってね」 「廓を抜けた女って、身請けされた女の毒抜きのことだよな。俺の用件はそれだ。そのためあんたに会いに来た」 遠回りした話がようやく核心に近付いた、と思ったら脇谷は興ざめした表情で腰を上げて流しに向かった。開いたままの袋から無造作に芋を取り出し、くるくると皮を剥き始める。 「おい……?」 針葉も追って立ち上がる。脇谷は振り返りもせず、背中越しに話した。 「なぁんだ。君は廓通いの男? 惚れた女郎を身請けするつもり? 解毒を望むのは子供が欲しいから? まあ連れて来ればいいよ。いやてっきりね、毒だ薬だって真面目な話を始めるもんだから、カゾの使い方を学びに来た医者の卵かなって期待したんだよ」 芋の皮が落ちる。針葉は地に落ちたそれを見下ろす。 「女郎じゃない、俺の女房の話だ。餓鬼は一人いる」 「ええ? じゃあもう解毒なんて要らないんじゃないの」 「餓鬼が産まれたのは三年前だ。それから二度流れてる。女房の母親も同じように、十五回身籠ってまともに育ったのはそいつだけだ。血筋かカゾのせいか。血筋にゃ太刀打ちできないから、カゾの毒のせいって方に賭けるだけだ」 「十五分の一ってそりゃ不憫な話だけどね。あいにく、お上がカゾを使い始めたのはそんな昔じゃないよ。奥さんのお母さんとやらは関係ないんじゃない?」 背中越しの声。脇谷は芋の皮を剥き終わり、とんとんと刻み始める。 「子沢山が偉いってわけでもないさ。一人いるならそれで満足しときなよ。足るを知るのも大事だよ」 「とにかく。連れて来ていいんなら呼ぶから、半月くらい待ってくれ。銭が要るなら用立てる。それから」 「ん? ちょっと待って」脇谷は芋を切る手を止めて振り返り、「半月? 君の奥さんはどこに住んでるわけ」 「今は坡城の西にいる」 「坡城だって? じゃあ君もそこから来たって?」 針葉が頷くと、脇谷は唸り声を上げて再びまな板に向かった。 「そんな遠くまで僕のことが伝わってるとなると悪い気はしないけどね。で、君の奥さんはどこでカゾなんて口にしたの。やっぱり昔廓にいたとか?」 「カゾに詳しいなら知ってるか? 雨呼びって儀式だそうだ」 今度こそ脇谷は包丁を置いて振り返った。 「君の奥さんって何者?」 「……どこにでもいる普通の女だ」 「雨呼びはどこにでもある儀式じゃないよ。あれ、確か壬とか東雲の限られた家に代々伝わるって話じゃなかったかな。僕も本物は見たことないけどね。今のカゾの使われ方も元々はそこだよ。雨呼びでは前後不覚になって託宣だか何だかをするらしいけど、結局それは儀式の前に呑む酒のせいじゃないかって……」 脇谷は小さくぶつぶつと呟き、また針葉を見上げた。 「え、じゃああれはそういうこと。奥さんのお母さんがカゾを使って云々……代々カゾを使ってきた家なわけだから……」 針葉の冷たい視線に気付いて彼は慌てて手を振った。 「いやいや、だってそりゃ興奮もするさ。カゾの試しは何度もしたけれど、子供にどう影響するかなんてすぐには調べようがない。人道にも悖るしね。ところがその試しを積み重ねた末裔が、向こうから転がり込んでくるときた! ははは、こんな旨い話があるだろうか! ……いや失礼、君の奥さんだったね」 「本当にな。無礼にも程がある」 針葉はそう吐き棄てると、また腰を下ろした。反吐が出るほど不快な男だ。 だが嘘は感じない。 傍らには置いたままの湯呑があった。針葉は手に取り、一瞬の逡巡の末ぐいと飲み干した。 「美味いだろう? 先月貰った茎の茶葉だ。次は熱いうちに飲むとなお美味いよ」 「あんたは貰いもんばかりで暮らしてるんだな」 「銭じゃ支払えないって人も多いからねえ。代わりに物を受け取るわけさ」 軽薄な口調のわりに医者としては善良なのだろうか。針葉は改めて家の中を見回した。質素だが小ざっぱりと片付いている。山のように引き出しの付いた箪笥が鎮座しているのも、行李や薬を挽く道具が隙間に突っ込まれているのも、黄月の家を彷彿とさせた。 「そうだ、あんた赤子を取り上げたことはあるのか」 「君、詳しいねえ。半年くらい前かな、どれだけ苦しんでも出て来ないからって呼ばれて、これ以上長引くと母子ともに死ぬからって産婆に脅かされてさ、一か八かで腹を切ってみたわけ。それがまた頭でっかちの子でねえ。小柄な女の人だったからつっかえてたんだろうね、ここで」 脇谷は自分の下腹をとんとんと叩いた。 「身重の人を眠らせるのは初めてだったんでね、目が覚めてほっとしたよ。傷口が大きかったせいか、しばらく高熱が続いて大変だったけどね。いやあ貴重な体験だった。人の中に人がいるって、この目で見てようやく信じられたよ」 「……その母親、今も生きてんのか。腹切られて?」 「元気元気。この茶葉もその家から貰ったんだよ」 針葉は言葉を失って目の前の男を見た。薪も満足に割れないへっぴり腰の男。その言葉を信じるなら、彼が成す技は手妻どころではない。 「初めちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いても……」 脇谷は釜の前でゆらゆら揺れながら歌う。調子の外れた音を聞きながら針葉は、その後姿をじっと睨み付けていた。 戻 扉 進 |