今思えばその船はやけに大きかったし、大島を出てからもやけに長く揺られた。しかし誤解していたのだ、客数が多いから大船が出るのだろうと。遠く感じるのも波や潮の関係だろうと。
 着岸して降りたところで、針葉も紅砂も呆気に取られた。
「……どこだ、ここ」
 ずらりと並ぶ見世は一つ一つが大きく、雨よけまで付いている。その間を忙しく行き交う人々の数は真っ昼間の大通りより多い。山は遥か遠くに国境の険しい稜線が見えるのみ。
 賑わうその場所は坡城の東、務番処や事割番処の置かれる都だった。
 津ヶ浜の大島から坡城への船は二種類出ており、小さい船は坡城の西に位置する港町へ半日足らずで、大きい船は東の都へ一日で到着する。それを知ったのは真に続いて務番処へ上がってからだった。
 菱屋への報告書に暁あての文を付けてもらい、番処の雑用をしながら港町までの船を待つ。
 ようやく港の地を踏んだ朝には残暑の陽射しも和らいで、大島へ発った日からひと月半が経っていた。
「俺は小間物屋に寄っていくよ。道場とか仕事先にも顔を出さなきゃな」
 先に歩き出した紅砂が振り返って言った。
「ここまでだ」
 自分は旧上松領へは同行しない、とその目が牽制している。針葉もにっと唇を結んで頷いた。
「ああ、元からそのつもりだ。爺ぃの件うまくいくといいな」
 紅砂が上げた右手に、針葉も手を上げ、ぱちんと打ち鳴らす。
「祝言にゃ呼べよ」
 背嚢を負った紅砂が角を右に折れて見えなくなる。あの背嚢の中には例の外つ国の本が入っているのだ。
 針葉は角を左に曲がり、菱屋のある西の通りを目指した。

 針葉が菱屋の奥に入るのはこれが二度目だった。しばらく待たされた挙句、白髪交じりの小男にじろじろ眺められ案内を受ける。
 この小男も黒烏の一味で、腕にはひと巻きの龍がいるのだろうか。前を行く左肩を見下ろしながら針葉は思う。長い廊下の途中で彼はぽつりと零した。
「何でしょうかねえ、今日は妙にお客が多いのですよ」
「お客?」
 小男はそれ以上言わず、一室の障子の前でぺこりと頭を下げて立ち去った。何となく、襖に耳をそばだてて中の様子を窺う。
 男の声がした。
「暁」
 さっと襖を開けた、そこには暁と睦月、ナツ、そして去年の暮れに針葉を介抱した黒烏の女が赤子を抱えていた。
「針葉?」
 笑顔のまま開いた襖を見上げた暁は、目を見開き、挙動不審にあたふたと周りを見回し、口を押さえ、「……お帰り」慌てすぎて却って落ち着いた口調で、そう告げた。
「おとーさん! どこ行ってたー?」
 睦月はぴょこんと立ち上がり、昨日別れたばかりのような気安さでじゃれついた。針葉はひょいと睦月を抱き上げて背中をぽんぽんと叩き、畳にどかりと腰を下ろした。
「ようやく戻れた。心配かけたな」
「むっちゃん、ちょっと寂しかったよー」
「そっかそっか。こっちは変わりなかったか」
「おとーさん、おひげだねえ。おひげおとーさんだねえ」
「睦月。ちょっとお前のお母さんと話をさせてくれ」
 針葉は睦月を立たせ、両肩に手を置いて言い、「おひげーさん……」睦月はむくれつつも針葉の胡坐の隙間に収まった。暁がくすくすと笑いながら懐かしげに目を細める。
「無事で良かった。驚いたよ、まさか船を間違えたなんて。……ちょっと痩せた?」
「まあ色々あってな。お前らは元気そうだな。客が多いとは聞いてたが……」
 針葉が部屋をぐるりと見回すと、ナツは片手を上げて白い歯を覗かせ、赤子を抱いた女はゆるりと頭を下げた。
「えのともさんと、そのさんと、赤ちゃんきてるの! 赤ちゃんおてて食べてるよ、ほら」
「榎本さんはずっと北の様子を伺いに行っていたんだって。苑は、もうややが五箇月になるって。ようやく見せに来てくれて」
「じゃあ黒烏待望の子か。男か?」
「ええ。もう牙の名は名乗らないでしょうけど」
 赤子は丸々とした体できょときょとと目を動かし、拳を口から出すと、涎に濡れた唇から「あー」と声を上げた。
「兄貴ぃ、船旅してたんだって? いいなあ、俺なんてずーっと山ん中だぜ。潮風の一つでも浴びたかったよ」
「知るかよ。自分の雇い主に言え」
 しばらく談笑ののち、苑は赤子が泣き出して辞去した。暁は赤子の声が聞こえなくなるまで、襖の向こうをずっと目で追っていた。
「赤ちゃん、かわいかったねえ」
「可愛かったね」
 暁の目に浮かんだ寂しさと温かい笑みを、針葉はじっと見つめる。
 視界の端でちょいちょいと動くものがあった。ナツが針葉に小さく手招きしていた。
「何だ」
「兄貴、とっととスラ曳いてこーい、って言ってみてくれよ」
「はあ?」
 ナツの口元はにやにやと緩み、良からぬ企みを感じさせた。針葉はうんざりした表情で腕を組むが、ナツは諦めない。
「いいから言ってみてくれ」
「……とっととスラ曳いてこい?」
「もっと荒っぽく。脅し付ける感じで!」
「とっととスラ曳いてこい!」
 どうにでもなれ。がなり立てると、ナツは腹を抱えて笑い転げた。針葉はその頭をぱしっと叩く。
「何なんだよ。一人で馬鹿笑いしてんじゃねえよ」
「ああ、それ。針葉の声が似てるんだって、今まで働いてたところの上の人に」
 ナツに代わって暁が補足する。ナツは目尻の涙を拭ってようやく身を起こした。
「そう、そうなんす。なんっか誰かに似てるなーと思って、よくよく思い出してみたら、そうだ兄貴だーって。もうさ、一度思い当たったら駄目だよな。おかしくっておかしくって」
「あのな、笑ってんのはお前一人だからな」
「おもしろいねえ」
「睦月は笑わなくていい」
 久々の再会だというのにナツの思い出話にお株を奪われ、しかし場は盛り上がっていた。
 暁が荷をまとめ始めるまでは。
「何してんだ」
 え、と暁が振り向く。畳の隅で彼女は、親子二人の着物に本に調度品にと、持参したものと借りたものを分け始めていた。
「だって家に戻るでしょう」
「いや……」
「は?」
 暁が手を止めて針葉を見上げる。口元からは笑みが消えている。針葉はつっと視線を逸らす。
「悪い、またすぐに発つ。お前らにはまだここにいてほしい」
「今回も紅砂と一緒?」
「いや、俺一人だ」
「行かないでと言っても?」
 返事は無い。暁は眉を寄せて首を振る。
「今度はどこへ行くの。ねえ、本当は赤烏の仕事なんでしょう? だから何も言ってくれないんでしょう」
「違う」
「じゃあ何。……もうこれ以上隠しごとはやめて。私も睦月ももう充分待ったよ」
 不穏な口調に睦月がきょときょとと二親を見つめ、ナツが睦月を抱き寄せる。
「……前回、大事な用だと聞いて、それ以上口出ししなかったよ。困らせたくないと思ったから。でも船旅ってことも言ってくれなかったし、半月のはずの予定はひと月半になって、務番処から文が来て、ようやく帰ってきたと思ったら変に痩せていて。訳が分からないの。なのにまた出て行く? 本気で言ってるの?」
 暁の目元が赤らんでいる。
「兄貴ぃ、引き止められてるうちが華だぜ。そのうち、一生出掛けてりゃいいなんて言われちまう」
 ぼそっと呟いたナツを睨み付け、針葉は暁の前に膝をついた。
「隠しごとはしないで」
 絞り出すように訴える暁の肩に、針葉は手を置いた。うつむいた彼女が顔を上げ、目が合うまで待って、針葉は口を開いた。
「言うのは構わん。ただ、期待外れになるかもしれん」
「……私が期待するようないい話なの」
「かもな。おいナツ」
 針葉がナツに手振りで示すと、ナツは頷き、暴れる睦月をなだめて共に部屋を出た。赤い暁の目が睦月の声を追う。
「悪い、あいつに聞かせたくなかった」
 そして針葉は語り始める、前回の旅路には香ほづ木売りも同行していたこと、大島の市で聞いたカゾの話、蔵の地下に閉じ込められたこと、務番処で働いていた真との再会――
 暁はゆっくりと瞬きながら最後まで聞き、そっと手を伸ばして針葉の顔に触れた。無精髭が伸び、肉の減った頬。
 ぐしゃりと暁の顔が歪む。
「危険なことばかりして……!」
 暁は両手で顔を覆った。肩が小さく震えている。針葉は何も言わずにその背を叩く。
「私は、針葉をそんな目に遭わせてまで子が欲しかったわけじゃない。睦月から親を奪うような、そんな……!」
「下手を打ったことは認める。でももう危険はない。後はそのカゾに詳しいっていう医者を訪ねるだけだ」
「その話を信じて旧上松領まで行くつもり?」
 暁の手には皺だらけになった紙がある。大島の市で男が書き付けた医者の所在地だった。このひと月半、針葉は一時たりとも離さず持っていた。
「ここまで来て行かない手は無いだろ。島まで行ってようやく得た手掛かりだ」
「でも」
「賭けてみたいんだ」
 暁は針葉をじっと見つめ、その目が揺らがないことを知って、目を伏せ紙の皺を伸ばし折り畳んだ。
「……私は行かなくていいの。その女の人は泊まり込んでいたんでしょう」
「あー……まずは話を聞いてから、薬か何か貰うか、それが無理なら呼び寄せようかと思ってた」
「分かった。じゃあお願い、烏の拠点から文をください。代筆くらいしてもらえると思うから」
 暁が差し出した紙を針葉はまた懐に仕舞う。
「心得た。旧上松領なら玉置屋か、北寄りなら飛鳥の巴屋かな。どっちかには寄るようにする」
 障子に人影が立って昼飯時だと告げた。睦月とナツは別室で既に食べ始めているとのことだった。
 暁は散らばった睦月のおもちゃを片付け、ひとところに集めていた荷をまた元の場所に仕舞った。その途中で畳に落ちた小さな紙に気付く。務番処にいると伝えた紅砂の文だ。その最後にはたった三文字、針葉が置いた墨が今もそこにあった。
「いつ発つの。もう今日明日?」
「いや、黄月も一枚噛んでた話だから報告だけはしとく。早くて来月頭ってとこかな」
 暁は名残惜しく振り向く。だが廊下を歩み来る足音を聞いて、ぐっと拳を握り締めた。



 その年の夏芝居は異例の集客数となり、升席を人で埋めたまま千秋楽までのふた月を走り抜いた。
 打ち上げは季春座一階の大広間で開かれ、飲め食え歌えのどんちゃん騒ぎの中には、夏芝居には顔も見せず休養を取っていた役者までも紛れ込んでいた。
 こちらで掛け声が上がったかと思えば、軽業役が軽やかに蜻蛉を切り拍手が起こる。またあちらで掛け声が上がり、衣装を羽織った織楽が本川との別れの場面を再現する。囃し立てる声が上がり、笑い声が上がる。
 端でちびちびと茶を飲み飯を摘まんでいた茱歌は、途中で席を立ち縁側へ出た。
 ぐるりと歩き、誰も通らない場所で壁にもたれかかって息を吐く。夜風は涼しく、屋根の向こうの空にはぽっかりと月が浮かんでいた。壁に頭を付けると、喧騒が遠く伝ってくる。
 このくらいがいい。このくらいが、自分にはちょうど。
「酔い覚ましか」
 ふっと振り向いた茱歌は慌てて居住まいを正した。本川が歩いてくるところだった。
「厠なら向こうですよ」
「迷うかよ。お前さんを追ってきたんだ」
 一歩近付くごとに茱歌は顎を上げる。やがて本川の足は茱歌の目の前で止まり、すぐ隣に腰を下ろした。茱歌は居心地悪く、拳一つ分の隙間を空ける。
「いいんですか、主役がこんなところにいて」
「それを言うならお前さんだろ。あの話を書いたのは誰だ」
「私……です。すみません、ちょっと場に酔っちゃって」
 くくっと本川の笑い声。遠くで歓声が上がっている。
「正本であれだけ無茶ぶりしてきた奴の台詞とは思えないな。軽業や殺陣師の奴ら、顔見世以上にきついってひいひい言ってたぞ」
「だって、場を締めるにはあの派手さが欲しくって」
「それに、織楽が相手役になった途端に妙に絡みがねちっこくなったよな」
「だって! お二人が出るからには外せないでしょう? お父ちゃんの書く色恋ものはさっぱりしてるから、ちょっとくらい攻めてみたって……っ」
 拳を握り締めて力説する茱歌の隣で、本川の肩が細かく揺れる。茱歌の声は途中で失速し、顔を赤くして、芝居談義となるや饒舌になる口を両手で覆った。
「……すみません」
「まあ、その結果があの客入りだ。お前さんの読みは当たりだよ。夏芝居とすれば上出来だ」
「でも納得はしてません。役者に頼りきった感があるので。お父ちゃんが何て言ってたと思います? ずるいなー、看板役者が二人も出るなんて夏芝居じゃありえないぞ、って」
「その件は前に言っただろ、本も演者も裏方もいて初めて芝居だ。筋立てのみで客が呼べるなんて自惚れもいいとこだ。それは親父さんも分かってるはずだがな」
 本川の苦言も気にせず茱歌は笑っている。また遠くで歓声と拍手。
「……まあいい。じゃあまた書くんだろ、役者に頼らない話とやらを。どの程度のもんか見てやるよ」
「どうでしょう」
「ど……」
 話を切り上げて立ち上がろうとした本川は、思いがけない返答に固まった。
「何だ、他人事みたいに。お前さんが書かずにいられるかよ」
「私もそう思います。でも……」
「何だ」
「お父ちゃんが方々に声を掛けて回ってるみたいなんです。私のいい話、平たく言うと縁談ですよね」
 本川はごくりと唾を呑む。一年前、彼自身も森宮から声を掛けられた。「茱歌を任せられる相手を見繕ってやってくれないか」。自分は何と答えた、「ちょっと当たってみますよ、安心して待っててください」。
 以来、本川は森宮を避け、その話には触れてこなかった。それより茱歌が物書きとして身を立てるほうが先だと、そうすれば縁談を急かされることもないと。
 だが森宮が声を掛けたのが本川一人であるはずがなかったのだ。
「具体的に話が進んでるのか」
「いい人がいるから会ってみないかとは、何度か。夏芝居が先だからって断ってきましたけど、もうそれも無理かもしれません」
「親父さん、そんな強引に話をまとめようと?」
 茱歌は目を伏せて笑い、首を振る。
「お父ちゃんがというより、私が……。お父ちゃん、去年の秋に倒れたでしょう。あれからずっと本調子とはいかなくて。本人はどうってことないって言い張りますし、今までどおり仕事をこなしてみせるんですけど、書くのはどうしても休み休みで。今ちょうど顔見世公演の本を二本書き上げたところなんですけど……」
 本川は茱歌をじっと見下ろしていた。汗が背をつっと伝うのが分かった。
 あれから一年、茱歌は父親と共にあった。一度倒れた父親の世話をしながら、その背を見ながら過ごしてきたのだ。当たり前のことだった。
「もうこれ以上突っぱねるのは我儘かな、それより、お父ちゃんを安心させてあげるのが娘の私の役割かなって。本書きは私じゃなくてもできますけど、お父ちゃん孝行は私にしかできないし、どうせならお父ちゃんが元気なうちにしなくちゃ」
「でも」
 お前にしか書けない話がある。
 その言葉は言えなかった。
 一年前、本川の手をしっかと握った森宮の手。頼んだぞ、と。気圧された。振りほどけなかった。年の離れた娘を案ずる父の声だった。「あの子が路頭に迷うよりましだ」と。あの人は娘の才に気付いて、だがそれよりも遥かに強く、娘の安泰を願っていた。
 今、茱歌は同じように父を案じている。祖父ほどに年の離れた父を案じて、自分の夢を閉ざそうとしている。
「夏芝居が上手くいって良かったです。本川さんには本書きの段階から色々と助言いただいて、学ぶことばかりでした」
 本川は眉間に皺を寄せて茱歌を見据える。今この場で話を終わらせようとしている、自分より十も若い娘を。
「小さい頃、升席から眺めていた舞台にこんなに深く関われたこと、忘れません。この夏芝居は私の一生の誇りになりました。本当に――
 綺麗にまとめようとするな。
 これは芝居じゃない。そんな綺麗に幕を引くなんて許さない。
 お前はここで終わるな。終わるな。終わるな!
 ――衝動だった。
 本川は茱歌の口を手で塞いだ。
「その先を言うな」
 茱歌が目を白黒させて本川を見る。
「お前の筆を折らせようとする、そんな相手に会うな。自分を装って飯炊きだけの女に収まるな。お前はそんな殊勝なたちじゃないはずだ。自分を押し込めるな」
 茱歌の指が本川の手を引き剥がす。「何を――
「後ろ見が必要なら俺がなってやる。俺を使って親孝行でも何でもすればいい。お前は筆を置くな」
 本川の声が響いた後、縁側は静かになった。遠くで襖の音、笑い声、やがてそれも遠ざかる。
 そこまで待ってやっと返ってきた彼女の答えは、
「えっと……はい?」
 妙に間が抜けていた。茱歌は知恵を絞り出すように額に手を当てて続ける。
「つまり……勘違いだったらごめんなさい、本川さんと私で夫婦を装うってことですか」
「勘違いじゃない。装うわけでもない。ろくに芝居と縁のない奴のところで飼い殺しにされるくらいなら俺が貰ってやると言っている」
 懇切丁寧に説明してやったのに、茱歌は嘆くような溜息を吐き出した。ひくっと本川の頬が引きつる。
「ああー、それは駄目です」
「何でだ」
 本川を真っ向から見つめる茱歌の目は、これまでとは打って変わって強かった。
「お互いの立場があまりに違いすぎますし、そこに至る過程の描写も一切無いじゃないですか。突拍子も無さすぎて入り込めません。結論ありきに見えて冷めます」
「お前はいつまで芝居の話を……」
「それに、あなたの名に傷が付きます。今をときめく季春座の顔が、駆け出しの本書きの娘と? どんな醜聞を流されるか。本書きを籠絡しなきゃ役を恵んでもらえないのか、そんな女に骨抜きにされる腑抜けた男だったのか……誰かのものになるってだけで離れる贔屓客も多いのに、その相手が私では尚更、」
 茱歌の声を遮って本川が顎を掴んだ。
「べらべらとよく動く舌だな。そうだ、それがお前だ。ちょっと叩けば話が転がり出てくる。そのうえ生意気だ」
「どこがですか。こんなに卑下してるのに」
「この期に及んで、自分の色恋沙汰には恥じらいのはの字も無い、男女の機微も情緒もありやしない。花形だ看板だと持て囃されても、お前にとっちゃただの目印だな。芝居を作る材料、ただの駒に過ぎないんだと思い知らされるよ」
 本川に顎を掴まれたままの茱歌が顔をしかめ、振り払おうと顔を振る。本川は指に更に力を籠める。
「それでいい、茱歌。そのまま生きていけ」
 貪欲に吸収して、咀嚼して、命の限り吐き出せ。
 書き続けろ。お前の中深くにある芯を研ぎ澄ませ。
 俺はその先が見たい。
 狂ったお前の描き出す、その先の絵が。
「離してくださいっ」
 何度目かの訴えでようやく茱歌は解放された。遠くで本川を呼ぶ声がする。本川は今度こそ立ち上がった。
「親父さんへの話は早い方がいいな。勝手に縁談を進められちゃまずい」
「だから。あなたの名が……」
「贔屓客がどうのと言うなら表沙汰にしなきゃいい。本書きが続けられて、親父さんも安心させられる、こんな旨い話を蹴るのか? お前に断る理由はあるのか」
 本川が身を屈めて茱歌の頬に触れた。今まで乱暴に顎を掴んでいた手と同じとは、にわかに信じられない優しさで。
「筆を折ってでも一緒になりたい相手がいるなら話は別だが」
「…………っ」
 茱歌はその手とは逆反対に顔を背けた。耳が赤く染まっている。
 本川を呼ぶ声が近付いてくる。
「おー、今行く!」
 本川はひと声叫ぶと来た方へ歩き出した。
「そろそろお開きかな。お前さんも最後くらい顔出せよ」
 一人取り残された茱歌は、掌で頬を冷ましながら立ち上がった。彼の言う損得勘定のみで動けばいいのか、それとも。
 胸に手を当てる。
 あの一瞬、ここを過ぎった鮮烈なざわめき。もっとつぶさに感じてみたい、あの正体を詳らかにしたい。あれをどう書けば伝わるだろう、どういう台詞で、どういう場面で、どう組み立てれば。一つ残らず。余すところなく。
 これも損得勘定だろうか。
 茱歌は縁側を歩いていく。喧騒は徐々に大きくなる。笑い声、騒ぎ声、賑やかな物音の合間に拍手。肌が粟立つ。
 もうこれで最後だ、そう思って閉めた襖の前に立つ。
 私はまたここに戻って来る。
 茱歌は引手に手を掛けた。



 倒れたあの日から極力仕事を減らし、里の体調は回復しつつあった。
 しかし隼太の目から見れば不十分であったらしく、ある日瞼の裏の色を見て、彼はぽつりと呟いた。
「薬食いしましょうか」
「何?」
 解放された瞼を何度かぐっと瞬かせ、里は問う。それはきっと隼太の家の箪笥に山と仕分けられた散薬のことだと思っていた。
 だから、その日彼が持ち帰った油紙から漂う生臭い匂いに気付いて、里は鼻を覆った。
「……何?」
「薬です」
「嘘やめてよ、薬はこんな匂いしないでしょ。……獣?」
「薬です」
「だから!」
 隼太は有無を言わさず竈の前を占拠して油紙を開いた。包丁で細かく敲く音が聞こえる。赤い汁がまな板から滴り落ちる。里はうっと目を逸らして干したものを取り込みに出た。
 やがて夕飯時になり、里の汁椀にはやはり肉らしきものがいくつも入っていた。覗き込んだゆきが「おだんご いっぱいね」と書く。
 意を決して口に放り込み、味が分からぬほど素早く咀嚼して呑み下す。やっと団子が無くなったと思ったら、隼太が涼しい顔で小鍋から掬って入れた。
 二三日に一度饗されるそれは里の悩みの種だった。
 しかしそれが続いて半月ほど経った頃、ふと気付いたのだ。
 体が軽い。眩暈がしない。疲れにくくなった。
「……そろそろ良さそうですね」
 隼太は瞼の色を見て言った。里は悔しくも、彼を認めざるを得なかった。
 また産婆探しの件でも進展があった。隼太の家に手伝いとして雇われていた邦が、里の仕事に同行するようになったのだ。
「元々、人助けになる仕事をしたいと思ってたんです。でも秋月先生の付き添いは雅くんがやってますし、溜まってた帳簿なんかの整理も今ある分は全部済んでしまって。そしたら秋月先生が、お給金は出すから奥様の見習いをやってみないかっておっしゃって」
「ああ……じゃあ昼間の付き添いから始める? 本当は産が始まったら昼も夜もないし、血やら何やら見るし罵声も飛ぶしでなかなか壮絶だけど」
「どんとこいです!」
 熱意だけの女の子かと正直期待はしていなかったが、湯沸しや洗い物といった雑用でもきびきび動くし、里の話の不明点を逐一確認してくるしで、意欲は本物のようだった。往診の間が空くときには隼太の家に戻って帳簿や薬の整理をしているらしい。
 廓に呼ばれたときや実際の産に立ち会わせたときの反応が気懸かりだが、育て甲斐はありそうだ。
 隼太に協力を仰いだ結果、色々なことが動き始めている。それは確かに肌で感じたし、嬉しいことでもあった。だがどこか釈然としないものが残る。
 去年、ゆきが嫌がらせに巻き込まれたときもそうだった。彼の介入が事態を動かし、強引ながらも終結へと導いた。
 ――結局あなたの一声で人は動くのね。
 勝手なものだ。助けられているのに、それは深く理解しているのに、心の底で反発してしまう。
 馬鹿なことを。重要なのは過程ではなく結果だ。
 里は首を振って醜い物思いを打ち消した。

「昨日、往診のついでに面白い話を聞きましたよ」
 月が替わり、まだ続く残暑の中にも涼しい風が混じる朝だった。隼太が箸を止めて言った。
 前日の夜は隼太の帰りが遅く、同じ飯の席につくのは一日ぶりだった。里は注ぎ分けた味噌汁の椀を三つを盆に乗せて運ぶところだった。
「どうしたの」
「金瘡ってご存知ですか。口から薬を飲んで治すんじゃなく、弓や刀なんかの戦傷を治すんです。開いたところを縫って、閉じる」
 ふんふんと咀嚼しながら頷くゆきの隣で、里は汁椀を配りながら露骨に眉を寄せた。
「お爺ちゃんも似たようなことしてたけど……こんな朝っぱらから子供に聞かせる話?」
「続きがあるんです。なんでも、矢じりどころか赤子を取り出す医者がいるそうですよ。産み月の母親の腹を切り開いて」
「亡くなった人の腹を開くって話?」
「それが、母親も子も生きてるんだそうです」
 ぽかんと箸を止めた里だが、はっと短く息を吐いてすぐに飯を再開した。
「産まれたての赤子って、両手に乗るとはいえ結構な大きさよ。どれだけ大きく切るっていうの? 痛みで死ぬわよ」
「眠らせるんだそうです。眠っている間に開いて、赤子を取り出して、縫ってしまうと」
 夢物語だ。隣に座ったゆきが「すごいね」と手の甲に書いてきたので、里は喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。
「……そう、産婆について聞いてくれたのね。それでそんな話を? どうもありがとう。手を煩わせてごめんなさいね」
「すみません、昨日はその話を聞けたくらいで、俺の方ではそれ以上の収穫は」
「いいの」
 里は素っ気なく会話を切り上げる。その表情を見つつ隼太は茶を啜り、考える。自分は話題選びを間違えただろうか。
「そうだ。産婆探しの件で、暁の知り合いが話を聞きたいそうです」
「あの子の知り合い? どういう人かしらね。いいわ、空いてるときならいつでも。ここに来てもらえるの?」
 話はすぐに終わってしまい、箸の音がかちゃかちゃと響く家の中で、隼太は再び飯を口に運んだ。

 黄月はゆきを送り出し、隣にある自分の家へ戻って庭に出た。
 狭い庭は、半分が日向、半分が日除けを作って日陰になっている。日向の大笊の上では草の根が天日干しになり、ちょうどいい頃合いだった。黄月は大笊ごと家の中に持って入り、包丁と薬研を引っ張り出した。
 干した根をざくざくと刻みながら考える、彼女がどこか気のない素振りに見えたのは、やはり産婆探しがうまく進んでいないせいだろうか。
 根を薬研に移したところで、どんと戸を叩く音がした。
「雅くん、今日は休みだと――
「ああ、今日はいたな」
 遠慮なく戸を開けたのは針葉だった。黄月は薬研にかけた手を離す。
「随分遠出していたらしいな。この前暁がぼやいてたぞ」
「あいつ、ここに来たのか」
「往診帰りに偶然行き会ったんだ。心配するな、例の件は話していない。突っ立ってないで上がれ」
 黄月は針葉を手招きし、座蒲団を引っ張り出した。針葉は下駄を脱ぐと、遠慮なく腰掛けて足を崩した。
「それだけど、もう話してあるんだ。その遠出ってのが例の香ほづ木売りのおっさんと一緒でよ。津ヶ浜の島に渡って聞いたんだが、カゾに詳しい医者が旧上松領にいるらしい。近々行ってくる」
「……唐突な話ばかりだな。医者?」
 針葉は頷いて顎髭をつまんだ。
「お前の一家が旧上松領を出る切っ掛けの話、前に聞いたよな。カゾにやられたごろつきの足跡が飛鳥の邸から続いてたんだったか」
「ああ」
「聞いた話じゃその医者、元々はお上のお抱えとやらで、カゾの効き目を試してたんだと。ごろつきにカゾを飲ませたのはそいつじゃねえかな」
 黄月はあからさまに顔をしかめて首を振った。
「そんな奴に会いに行って、毒を盛られても知らないぞ」
「自分の水や食いもんはちゃんと持っていくさ。お上とはもう切れてるらしいしな」
「確かな話なのか」
「カゾの毒抜きをしたのは本当らしいが、まあ当たるも八卦当たらぬも八卦ってな。駄目で元々、踏み出してみなきゃ何も掴めん。そうだ、体から岩を取り出す手妻もやるらしい。期待外れならそれだけ拝んでくるかな」
 話ついでの軽口のつもりだったのに、黄月は鋭く聞き咎めた。
「岩?」
「いや、手妻だって。だから言ってやったよ、じゃあまず体に岩を入れてみろって」
「岩とは腫瘍のことだ」
 針葉は腕組みしたまま一度瞬いた。「ん?」
「詳しく話せ」
「詳しくって……いや、眠ってる間に取り出すとか何とか」
 黄月は眼鏡を外し、手で顔を覆った。その隙間からぶつぶつと呟きが漏れる。
「カゾの毒は譫妄……目覚めれば何も覚えていない……多ければ狂死、少量なら廓や石掘り場で……酩酊、苦痛を消す……眠らせる……」
 黄月は再び顔を上げた。気味悪そうに彼を見る針葉と目が合った。
「その医者に会えたら訊いてみてくれ、赤子を取り上げたことがあるかと」
「ああ……? 産婆じゃねえんだぞ」
「いいから。……いや、岩を取り出すというだけでも一見の価値は……」
 黄月はまたもやぶつぶつと呟き始める。針葉は反論を諦めてごそごそと薬棚を漁った。
 旧豊川領の北端までは櫂持ちの仕事を回してもらえることとなったが、旧上松領との間には関が立ちはだかる。山越えするか、それとも昔香ほづ木売りに教わった洞窟の隠れ道を使うか。
 出立は二日後だった。