とんとんと腕を叩かれて里ははっと左を向いた。ゆきの顔がそこにあった。指で問われる、「おかあさん だいじょうぶ」。
 ああ、と気付く。今は夕飯の途中だ。箸を持ったままふっと気が遠くなっていた。
「大丈夫、ちょっと考え事」
「最近忙しいみたいですね。疲れてるんじゃないですか」
 向かい側に座った隼太に指摘され、里は煩わしげに首を振った。
「平気よ。あなたこそどうなの」
「俺は覚えのいい助手が二人もいるので。どなたかが、人を雇えと強く勧めてくれたお陰で」
「あら誰かしら、親切ね」澄まし顔の隼太に、里も澄まして返し「二人はうまくやってるの」
「雅くんは気は弱いですが熱心で呑み込みも早いです。邦さんには帳簿や薬の管理を頼んでいますが、手が早いぶん熱意を持て余し気味というか。最近は暇そうに見えますね」
「もっと色々任せてあげたら?」
 気のない会話を続けながら自分の分を全て腹に収め、里は器を土間の流しへ持つ。先に食べ終えた隼太が自分とゆきの分を水でふやかし洗い始めていた。
「ごめんね、替わる」
「休んでてください」
「いいわよ」
 隼太が動く気配が無かったので、里はやむなく自分の器をそこに置き、本を読むゆきの傍に戻った。絵が所々に付いている以外は字がずらりと並んでいる。
「漢字の混じった本も読めるようになったのね」
「よめないのは あとで せんせいにきくの」「まねして かくと おぼえやすいよ」
「確かにね。手を動かしたほうが覚えやすいかも。ゆき、墨とか紙は足りてる? 筆も傷んでない?」
 ゆきはうんと頷き、また本の中に没頭する。がらりと音がして里は顔を上げた。隼太が出て行くところだった。
「お休み、ゆき。里さんも」
「あ……」
 ゆきがにこにこと手を振る横で、里は急いで下駄を履いた。隼太は戸を出たところで待っていた。
 りん、とどこかで風鈴の音。蒸し暑い夏のさなかでも、日が落ちれば涼やかな風が吹いていた。
「ありがとうね。お休みなさい」
「いちいち見送りに立たなくていいですよ、隣じゃないですか」
「まあそうだけど、一応」
 里は答えながら目を逸らす。隼太の視線が自分に注がれていることに気付いていた。珍しいことではなかったが、やはり落ち着かない。
 ふと彼の指が里の唇に触れた。里はぎくりと身を固める。
「里さん、口を開けてみてください」
「は?」
「いえ、歯でなく舌を見たいので。それか瞼でも結構です」
「その歯じゃなくて。……え、どうして? 何なの」
 有無を言わさず彼の手が里の目の前に伸びてきて、里は思わず振り払った。
「やめてってば。いきなり触ろうとして何のつもり」
「……すみません、もう触りません。その代わり聞きますけど、里さん、今お馬の時期ですか」
 触るより赤裸々な問いに里はかっと紅潮した。ばっと隼太から身を離す。
「何なのよ気持ち悪い。もういいわ、さっさと寝て!」
「里さんも早めに休んでください」
 彼の口調は最後まで淡々としていた。里が何故怒り出したか理解できないのだろうか。里はぴしゃりと戸を閉めて畳に上がる。ゆきが気遣わしげに近寄った。
「大丈夫よ、喧嘩じゃないから。なんかねえ、よく分かんないのよ隼くんのこと」
「はやくん おかあさんのこと しんぱいしてたよ」
「心配ねえ……」
 夕飯の最中にぼーっとしていた自覚はある。このところ、廓へ出向いて心をすり減らすか、産気付いたと呼ばれて体力をすり減らすかの毎日だ。家に帰れば炊事に洗濯に繕い物、体を落ち着ける暇が無い。ゆきも手習いから帰れば手伝ってくれるが、一から十まで任せるのはまだ不安だ。
 ゆきを寝かし付け、里は箪笥から切絵図を取り出した。短檠の灯りを頼りに一つ一つ指差していく。
 明日は長屋の梅の様子を見に行こう。桜の時期に身籠ったと分かった彼女の腹は、四箇月が過ぎ随分と膨らんでいた。川向こうの奥さんももう産み月だ。初産だから不安がっているだろう。道場裏の長屋の奥さんは、夫が飲んだくれだが上の子はしっかりしていた。いざとなればあの子に助けを呼ばせよう。北の田の奥さんは子が産まれて七日経った。昨日も見に行ったところだが乳の具合が気懸かりだ。裏の家の奥さんに貰い乳できるか話してみようか。それに油紙と晒しもまた用意しておかねば。
 頭の中を整理して長く息を吐く。
 ――早めに休んでください。
 隼太の声が聞こえた気がして里は灯りを消した。虫が戸の向こうでちきちきと鳴いていた。

 翌日は朝から梅の様子を見に行き、北の田の家に顔を出した。昼前に戻って夕飯の仕込みを簡単に済ませ、昼飯に手をつけようとした、そこへ男が一人走ってきた。
「産婆さん、うちのが産気付いたみたいで」
 川向こうに住む身重の女の夫だった。箸を置き、急いで荷をまとめ、隼太の家にいた手伝いの邦に言伝して、産気付いた女の元へ走った。
 腹を抱えて呻く女の傍には同居の姑が付き添っていた。彼女は痛みこそ強かったが破水はしておらず、延々といきみ逃しをして丸一日、破水の末にようやく赤子が産声を上げた。襖の向こうで夫が喜びの声を上げたが、まだ里の仕事は終わらない。へその緒に熱した鋏を入れ、赤子に産湯を使わせて包み、母となった女に抱き方と乳の含ませ方を教え、汚れた油紙をまとめ、細々とした指示を姑に託し、飯の相伴にあずかり、ようやく帰路についたのは日が落ちた後だった。
 初産のため覚悟はしていたが、長かった。母となったばかりの彼女も汗にまみれ、疲れ果てて魂の抜けたような表情だった。姑がいるとはいえ、近いうちに様子を見に行くのが吉だろう。
 間地の長屋はもうほとんど灯が消えていた。
「ゆき……」
 そっと家の戸を開けるがゆきの姿も蒲団も無かった。ほっと息を吐く。隼太のところにいるらしい。
 釜の蓋を取ると水の底に米が沈んでいた。明日の朝飯の用意もしてくれたらしい。
 意外と頼りになる。里は釜の蓋を閉めた。
 そこから記憶がぷつりと途絶えている。

 気が付くと里は薄蒲団を腹に乗せ、天井を見上げていた。もう家の中は明るいのに誰の姿も無い。蝉の声が戸の向こうでうるさいのに、静かだ、そう感じた。
 頭が混乱した。祖母が亡くなって一人で寝起きした、あの頃の朝の中を泳いでいるようだった。
「気が付きましたか」
 がらりと戸が開き隼太が顔を見せた。里は枕に頭を乗せたままそちらを向く。その姿はどう見ても十五の彼ではない。
「具合はどうです」
「隼くん……と私、一緒になったんだっけ」
「どうしたんですか、里さん」
 隼太は下駄を脱いで上がり、里の横に腰を下ろした。
「俺たち夫婦の仲睦まじさは間地でも評判ですよ」
「それは嘘だわ」
 里が即答したので隼太は肩を揺らして笑った。
「良かった、いつもどおりの里さんですね」
「私、どうかしたんだっけ」
「朝こっちに来てみたら、そこで倒れてたんですよ。産だと聞きましたが、いつ戻られたんですか」
「ああ……じゃあ昨日の夜ね。ちょっと長くかかって。ゆきもあなたも朝は済ませたの? ごめんなさいね、迷惑かけて」
 起き上がろうとした里を隼太は押し留めた。
「厠ですか」
「ちょっとお茶を……」
「寝ていてください。茶だけですか、他には? 何か食べられそうですか。飯と味噌汁ならありますよ」
「じゃあ軽くもらおうかしら」
 隼太は土間に戻ってせっせと立ち働く。里は意外な面持ちでそれを眺めていた。
「近頃忙しいと聞いていましたし、何より顔色が悪く見えたんで心配してたんです。勝手に悪いですが診せてもらいました。舌や瞼の赤が薄いです。気が遠くなったり、ふらついたりすることは、今までにも?」
 それで、と里は納得する。突然口を開けろ瞼を見せろと言ってきた一件だ。
「そうね、今年に入ってから何度か眩暈がしたかも」
「爪も割れやすかったりしませんか」
 里は蒲団から手を出して天井にかざす。「爪ねえ、どうだったかしら」
「里さんはもっと自分に関心を持ってください」
 強い口調で言われ、里は気まずく腕を引っ込めた。
 隼太が運んできた盆には湯気を立てた湯呑と茶碗、汁椀が乗っていた。彼は里の肩に手を差し入れて起き上がらせると、腰に枕を入れて座らせた。
「慣れてるのね」
「去年はずっと看病生活でしたから」
「お爺ちゃんは練習台?」
 ふふっと笑って箸を取る。味噌汁の実は不揃いだったが具だくさんで食べごたえがあった。
「美味しい」
「ゆきも手伝ってくれたんです」
 箸を進める。何も考えず飯を食べるのはいつぶりだろう。ひと口ごと、ひと噛みごとに緊張が解けていく気がした。隼太はその横顔をじっと見つめる。
「今診ている中で産み月の人はいるんですか」
「一番近かった人が昨日産まれたから……その次は多分道場裏の奥さんだけど、もう少し先ね」
「二、三日は安静にして、その後も体調が戻るまで仕事は最低限に減らしてください。家のことは俺がやりますから」
 箸を動かす手が止まった。里は数度瞬いて隼太を見る。
「俺がって……あなたにも仕事があるのに」
「幸い優秀な助手が二人もいるので」
「でも」
 なお反論しようとした里の腕を、ぐっと隼太が掴んだ。
「ここで何もできないなら、一体俺は何のために里さんと一緒になったんですか!」
 返す言葉は無かった。里はうつむき、目を瞑る。
 真っ直ぐすぎる彼の視線が、声が、一人歩き続けた心に突き刺さって痛かった。
 隼太はそっと手を離す。里は茶碗の前に転がった箸を見つめる。
「子を取り上げられる人を探しましょう。産婆を廃業した人でも、産の手伝い経験の多い人でもいい。時間はかかるけど、一から見習いに来てもらっても。幸い顔は広くなったので聞いて回ってみます」
「あなたがそこまでしなくても……」
「産はいつ来るか分かりません。この地域のために必要です。自分一人で全て回そうとして、里さんが倒れたときのことを考えたことはありますか」
 里は眉を寄せた。倒れるまいと、そればかり考えていた。この地域には自分しかいないから頑張ろうと。自分がやるしかないと。自分が頑張ればどうにかなるのだと。その結果がこれだ。
 それはもはや自己犠牲を通り越して向こう見ずだ。抜本的な解決にはならない。
「……分かりました。お願いします」
 里は小さく頭を下げた。
 飯が終わって里はまた横になった。自分の世話を焼いてもらうのも、こうして昼間に横になるのも、久しく無かったことだ。土間では隼太の背中が揺れ、器を洗う水の音がする。
 里が庭に干したままだった洗濯物を取り込んだ隼太は、里の視線に気付いて「はい?」と足を止めた。
「もしも……」
 隼太が洗濯物を置いて腰を下ろす。手早く畳みながら話の先を待っている。
 里は言い淀んだ。この先を言ってしまえば後戻りはできない。今ならまだ引き返せる。彼の善意にただ乗りして、何事も無かったかのように日々を、これまでと変わらぬ毎日を、
 ――ようやく成就してんやん。めでたいこっちゃ。
 そのとき耳元に蘇ったのは、いつぞやの役者の疑いなき笑顔だった。
 ――末永く一緒におって幸せにしたってな。
 里は腹に力を入れた。もう逃げるな。心を決めろ。
「……もしも。もしも産婆が他に見付かるようなら……あなたとのことも前向きに考えてみるから」
 聞こえていたはずだ。だが隼太は理解が追い付かない様子で、手を止めぽかんとしていた。里が起き上がろうとするのを見て、慌ててその背を支える。
「里さん、まだ寝ていたほうが――
 言いかけた唇を塞いだのは里だった。
 今度こそ隼太は目を丸くした。里は自分の唇に触れて、一人納得したように頷く。
「……うん、別に嫌じゃない」
「里さ……」
 隼太が震える声で名を呼ぶ、その前にぐらりと体が揺らいで、里はまた蒲団に横たわった。
「本当ね。ちゃんと養生しなきゃいけないみたい」
 額に手を当てる里を見下ろして、隼太は毒気を抜かれた表情だった。しばらくしてその背筋が伸び、きちりと里に膝を向けて座り、
「死ぬ気で探します」
 真剣な顔でそう言うものだから、里もつい笑ってしまった。



 月が替わり、大島の港は船待ちの人でごった返していた。
 針葉と紅砂も真に続いて船へ乗り込む。
 坡城へ戻る船は、針葉たちがひと月前に乗ったものよりひと回り大きく、通常の船客のほか、大勢の務番人と蔵に関わっていた異人たち、針葉と紅砂、そして二十歳前の日焼けした若い男が乗っていた。
 紅砂はちらと傍らの男を見る。彼は薄い茶色の目でじっと海を見つめていたが、紅砂に気付いて肩をすくめ、ぺこりと頭を下げた。
 彼との出会い、もとい再会はつい先日のことだった。
 ――養生生活も終わりに近付いた三日前。
 針葉と紅砂は真に呼ばれ、捕まった異人たちと引き合わされた。その場には真ともう一人、務番人の隊長だという厳めしい髭面の男が立ち会った。異人はネイトの他には三人で、後ろ手に縛られ、ふて腐れたように視線を逸らす者、睨んでくる者と様々だった。
「そいつらはどうなる?」
「一旦番処に留め置き、改めて本国へ引き渡すことになるだろうな。こちらで処断することはできない」
「……確実に国へ送り返していただきたい。その男は二年前、特使とともに坡城を出た直後からあの島で商いをしていました」
 紅砂がネイトを指す。真の隣にいた隊長は厳かに頷いた。
 真に退出を促され廊下を戻った二人だったが、ふと針葉の足が止まった。
「あの蔵にいたのはあいつらだけか。他に若い男がいただろ」
「ああ、もう一人いたが異人ではないので別室に置いている」
「そいつは今回の件には関わってない。あいつらに隠れて食いもんを届けに来たんだ」
「ああ、あのときの」
 紅砂も思い出した様子で呟いた。ごめんなさい、と怯えた声には一切の異国訛りが無かった。
 真に連れられた先は一人二人横になるのがやっとの小部屋で、彼はそこにいた。壬びとの特徴である波打った茶色の髪、薄い茶色の瞳で、二人を見るとさっと青ざめ畳に額を付けた。
「ご……、ごめんなさい! こんなことんなるちゃ思わんで……俺が、俺が臆病で……早よぅ逃がしてやりゃよかったと何度も……」
 肩を震わせて泣く姿は見た目より幼く見えた。紅砂は困惑して真を振り返る。
「ネイトとやらが初めに旧上松領へ忍んだときに知り合い、奴らが津ヶ浜で商いを始めてからは、何も分からず手伝いをしていたそうだ。今回の件に関わりないとお前たちが言うのなら、お咎めなしにもできるが」
「話をさせてくれ」
 針葉は男の前にしゃがみ、顔を上げさせた。
 男は久典と名乗った。三年前にネイトが旧上松領へ忍んだときは二言三言会話をしたきりだったが、二年前、旧上松領の物資で商いをするに当たって、仲間に引き入れられたのだという。
「俺、上松での仕事はもう限界で……ネイトさんたちは俺にゃ優しかったし、ここで働けて良かったちゃ思ってたんです。でもあの日……」
 蔵の整理をしようとしたら、地下への階段が錠前と木箱で塞がれていた。何事かと近寄ると、中からは叩く音と人の声がした。
「鼠が忍び込んだちゃうてられましたす。気にするなちゃ言うて。でも……。裏切ろうもんなら俺も落とされるんじゃ思うと、怖ぁて怖ぁて。飲み食いできん辛さは俺もよう知ってたんに」
 夕飯作りは彼の仕事だった。せめてもの償いと、残しておいたものを夜中に運んだ。
「坡城の番人が調べじゃ言うて来て、もうここじゃ働けん、終わりじゃいう気持ちと、これで助かったっちゃ気持ちと半分半分で……でもやっぱり生きてくれて良かったです。本当にごめんなさい」
 そう言うと、久典はまた激しく嗚咽しながら涙をこぼした。
「泣かなくていい。大丈夫、お咎めなしにしてもらうよう掛け合う」
 紅砂が肩を叩くが、彼はとめどなく涙を流ししゃくり上げていた。針葉が苛立った様子で溜息を吐く。
「あーもう、泣くなって! うるせえな」
 びく、と久典の肩が大きく震えた。嗚咽が止まる。
「……何だよ、別に脅したわけじゃねえぞ」
「あ……すみません、兄ちゃんの声がちょっとその、怖くて」
 久典はびくびくと肩をすくめて座りなおした。大泣きの余韻で、彼の体は時折痙攣したように震えた。
「でも、お咎めなしになったちゃ言うて、どこで働きゃええか……」
「旧上松領に帰るわけにゃいかねえのか。父ちゃん母ちゃんくらいいるんだろ」
 久典はぶんと首を振った。
「母ちゃんにゃもう十年近う会うとらんで、顔も分からんかしれんです。父ちゃんは切羽で岩ん埋まって死にました」
「きりは?」
「石掘り場ん穴です」
 針葉と紅砂は顔を見合わせた。
「石掘り場って、飛鳥が山一体を囲い込んでるっていう?」
「はあ。父ちゃん含め、俺ん村んおった若い男衆は皆そこん連れてかれて。もう十年ばかし前んなります。俺が一番若かったです」
 ぞわっと紅砂の背が粟立った。
 旧上松領北部の集落で働きざかりの男が徴用されたと、それは里から聞いた話だ。ゆきの母の夫も連れて行かれたと。里はそれを「東雲の大火に向けた徴兵」と推測していたが……。
 久典は眉を寄せて苦い記憶を引きずり出した。
「俺たちゃ第一陣で、何もないとこに穴開けて、ちょっと補強しちゃ掘り、補強しちゃ掘りの毎日でした。当然すぐにゃ何も出ません。でも頭は、石が出らんことにゃ儲けが出ん、儲けが出んうちゃ銭も払わんと、勝手に連れてきといてそん言い草です。食うもんもなく働かさるぅうえ、資材が足りんで岩は落ちるし、悪い気にも当たるし、穴ん奥は真夏より蒸し暑いしで、具合悪くするもんばかりでした。そのうち変な酒まで出回るようんなって……。地獄です。やっとの思いで逃げたんです。戻りたぁない」
 これ以上喋らせるとまた泣き出してしまいそうだった。針葉は真を振り返る。
「異人お目当ての石についても明るいし、異人の商いに関しても詳しい。こいつの話はあんたらに有用だと思うが」
 真は腕組みを解いて小さく頷いた。
「閉じ込めに関しては不問で良いのだな。それなら、番処の用が済めば口入れ屋に繋いでやろう」
 かくして久典は坡城へ同行することとなった。
 彼はまた旧上松領から運ばれた物資の行先にも詳しかった。あの蔵以外にも香ほづ木の原木を仕入れている者がいると話し、別れ際に会った香ほづ木売りは「これで商いが続けられる」と胸を撫で下ろしていた。
 照りつける陽射しの下で一昼夜波に揺られ、陸の影はもうそこまで見えていた。



 ご友人ですよ、と呼ばれて出た先の木陰には静がいた。睦月が一番に駆け寄っていき、暁も歩きながら会釈する。
「やーん睦っちゃん、久しぶり! 暁さんもどうよ、元気にしてた?」
「はい。静さんは……元気そうですね」
「あたしは家に帰るだけだもん。まあ喧嘩ばっかりだけどどうにかね。あの頑固なお爺ちゃんが、もう坊主は連れて来んのか、なんて言いだして。張り合いが無いみたいよ」
 静は睦月の汗ばんだ頭をわしゃわしゃと撫で、きゃらきゃらと笑う。
「せんりさんと言えば、まだ何も聞いてないわよね」
「あ、ええ、針葉もまだ何も」
「おっかしいわねぇ、半月くらい前にも船が着いてたんだけど。次の船かな。まあ待つしかないわね」
 船、と暁が首を傾げると静は目を丸くした。
「なに、聞いてないの? 船に乗ってどっかの島に行くって言ってたわよ。前に行ったことあるから心配いらないって」
「島ってことは海ですか。そんな……全然。確かに南のほうへ走っていったけど……」
「駄目ねえあの人、顔ばっかり怖くて。ね、ということでもうちょっと待つしかないし、お芝居見に行かない?」
 静がぱちんと手を叩いて提案した。突然の話題転換に暁は再び首を傾げる。
「お芝居って季春座ですか。今は夏芝居ですけど、面白い演目なんですか」
「やあね、あそこの役者さんと知り合いなんでしょ? 今すっごい盛り上がってんのよ。なんたって一番人気の看板役者が出てるらしいもの。ほら、花ちゃんの好きな男前」
「本川さん?」
「そう、その本川さん、とか知り合いの役者さんとか」
 耳の横からつっと垂れた汗を拭って、暁は手扇で首を煽ぐ。上の組の役者は夏に休むものだと聞いたことがあったが、はて。
「分かりました。ちょっと睦月と待っててもらえますか」
 暁は菱屋に戻ると下働きの女を掴まえて言伝し、団扇片手に木陰へ戻った。
 まだまだ残暑と呼ぶには暑い道を、木陰を辿って歩く。川沿いの道から大通りに折れると、確かに季春座の前には夏芝居と思えないほど人の姿があった。木戸の横には屋台まで出ており、若い男二人が何かの実を売っていた。
 升席はさすがに蒸した。客一人一人の手にあるのは木戸で配られた団扇で、役者絵が入っていた。
 暁はぴょんぴょん飛び跳ねる睦月を抑え、ふと舞台の奥の板羽目に目を留めた。そこにはいつもの松ではなく実の生る樹が描かれていた。
 静は三人分重ねた弁当を分けて置いた。暁は睦月に箸を持たせ、まず子の腹を満たしにかかった。
「花ちゃんはお芝居狂だけど、暁さんってよくお芝居来るの?」
「何度か。でも夏芝居は……何年か前に見た怪談ものがちょっと、本当に駄目で」
 暁は思い出して身震いする。確かあのときの怨霊じみた妖は織楽が演じていたはずだ。
「あら、怖いの苦手? そういうときこそ、きゃー怖ーいって言って抱き着かなきゃ。何事も無駄にしちゃ駄目よ」
「……今度やってみます」
「効き目はばっちりよ。試してみて」
 暁は苦笑して睦月の食べ残しを片付け、自分の弁当を開けた。
「これは怪談ものじゃないんですよね」
「活劇ありの色恋ものって花ちゃんは言ってたわよ」
「じゃあ紅花はもう観に来たんですね」
「そうよぉ。一時期その話ばっかりで大変だったんだから。思い出し笑いならぬ思い出し腰砕け?」
 暁が堪えきれず笑ったところで弦の音が響いた。波が引くようにざわめきが静かになった。

 二幕構成の話は息もつかせぬ展開の末に潔く幕を下ろし、升席は余韻に包まれていた。
 松の代わりに描かれた樹、それに囲まれた小さな村を舞台とする話だった。幼馴染の男女が将来を約して別れ、男は友との旅の末にまた彼女の待つ村へ帰る。お決まりの展開、そう言ってしまえば身も蓋もないが、幼馴染二人の絆を下地として、そこに挟まれる活劇が話に疾走感をもたらしていた。
 何より盛り上がったのは幼馴染二人の別れの場面だ。
 本川扮する重虎の長台詞が始まった時点で、升席のあちらこちらから黄色いざわめきが漏れていた。恐らく何度も観に来ている者で、これからの展開を知っていたのだ。
 長台詞ののち重虎は約束の証として、樹に生った小さな赤い実を、織楽扮する蕗の口に含ませる。重虎は蕗の背を支え、蕗は身を反らし天を仰いでその実を呑み下す。蕗が首元に添えた手が顎から頬を通り、滑るように天へ伸びる。
 それが妙に艶めかしく、暁はどきどきと口を覆った。
「ねえねえ、あれって口吸いよね。いや、もっと? そうよね、そういうことよね」
 隣に座っていた静が暁に耳打ちし、暁は口を覆ったままこくこくと頷いた。睦月が見ていなくて良かった、暁は自分の膝で眠る睦月にほっと胸を撫でた。
 活劇の場面では派手な殺陣、加えて軽業役が流れるように蜻蛉を切り、技が決まるたびに拍手と歓声が起こった。
 最後の場面ではまた村が舞台となり、しっとりと弦の音の響く中、蕗が無事戻った重虎に両手いっぱいの赤い実を差し出す。重虎は一つを摘まみ上げ、二人見つめ合う。
 そこで幕が下りる。
「芝居でああいうしっとりした場面を表すときって、はっきり描けやしないから語りになるじゃない。でもさあ、こうこうでしたって語られるよりずっとこう、来る、わよね」
 帰りの人波が落ち着くまで升席で待ちながら、静は言った。暁は目をこする睦月を胸に抱きながら頷く。
 あの二人が触れたのは赤い実だ。直接二人が触れたわけでも目合まぐわったわけでもないのに、分かってしまう。その向こうにある交歓を思い描いてしまう。
 活劇の場面も迫力があって胸躍ったのに、幕が下りて思い出すのはやはりあの別れの場面だ。暁は団扇をぱたぱたと仰いで体の熱を冷ます。
「お咎めの入らないぎりぎりのとこを狙ってると思わない? あの際どい感じは夏芝居ならではね」
「そうなんですか?」
「結構何でもありなのよ、夏芝居って。まあ、もっと何でもありなのは夜芝居だけど、あれは舞台じゃできないもんね」
 暁が首を傾げたので静は「耳で楽しむ夜芝居」の詳細を耳打ちし、暁はぎょっと目を丸くした。
 人が少なくなったのを見計らって退出する列の後に続き、木戸を出る。そこで暁はまた目を丸くした。
 木戸の横に出ていた屋台に人だかりができている。芝居を観た客の多くがそこに留まっているのだ。
 よく見れば彼らが売っているのは芝居の要所で使われたあの赤い実だ。男の一人が笊を掲げて口上を述べる。
「ロカの実、ロカの実。水菓子の里から大事に運んだ逸品です! 甘い赤いこの実、あなたを待つあの人へ渡すも良し、旅立つあの人を想い食べるも良し。今だけです、今しか出回りませんよ!」
「お兄さんお兄さん、こっちのは?」
「干したガントウの実です。そっちの箱には味見用のがあるんで、試しに一つ食べてってください」
 ロカと呼ばれた赤い実と、ガントウと呼ばれた橙色の干果は飛ぶように売れていた。わっと声が上がったかと思うと、颯爽と歩み来て売り子に並んだのは舞台衣装のままの織楽だった。汗ひとつ見えず髪のほつれ一つ無く、集まった人々にゆるりと一礼する。
 二つの実がどんどん捌けて人の姿が少なくなったところで、織楽はようやく暁に気付いて手を振った。暁は睦月の手を引いて彼に歩み寄る。
「来てくれたん。どやった」
「良かったよ。織楽はとっても艶めかしかった」
 暁の言葉に、織楽は体を二つに折って笑った。
「水菓子の里って、もしかして果枝さんの故郷?」
「そうそう。こっちが柑太、果枝の弟」
 口上を述べていた売り子の男がにっと白い歯で笑い、ぺこりと頭を下げた。暁も会釈を返し、残っている実を睦月に一袋ずつ選ばせた。睦月はロカの実を一つ口に含むと、目を輝かせて「もいっこ」と人差し指を立てた。
「これだけたくさん、よく運んだね」
 織楽は小さく笑い、さも重大な秘密を打ち明けるかのように口元に手を当てた。
「俺なぁ、実は誰も住んでへん借家一つ持ってんねんかぁ。そこを置場にして、二人にも寝泊まりしてもろてて」
「芝居の筋にかこつけた屋台が出るなんて今までありました?」
 静は味見用のガントウを一つ口に放り込み、一袋購入した。
「夏芝居やし好き勝手さしてもろたんです。その代わり何の役でもさしてもらいますー言うて」
「ほんっと助かりましたよ。ロカもガントウも、今まで西には出回ってなかったんですけど、今年から商人の道が変わっちまって。売れ行きがかなり落ちてたんです」
 柑太と呼ばれた男が、静の指した袋の口を縛りながら言う。
「兄ちゃんは西で売ったらって言ったけど、根付いてないもんを売るのは難しいでしょ。水菓子って足が早いから、せっかく運んでも売れなきゃぱあだし。そしたら兄ちゃんから文が来て、手を打つから残ってるぶん全部運べって」
 訳の分からぬまま早摘みのものを運び、夏芝居の始まりに合わせて屋台を出してみたところ、初日からかなりの量が売れた。慌てて残りの分も運び、連日の興行に合わせて屋台を出して、もうほとんどを売り切ってしまったという。
「初めは芝居ついでに買ってくれる人ばっかりだったけど、そのうち、美味かったからまた買いに来たって人も出てきて。来年も来てほしいって声も結構あるんですよ」
 もう一人の男が言うと、柑太もうんうんと頷いた。
「前さ、兄ちゃんに言ったことあっただろ、いつうちを継ぐんだって。あれ撤回するよ。皆が皆同じことしてると共倒れしかねないんだな。やっぱり兄ちゃんは役者でなくっちゃ」
「何やないきなり、気色悪い。言うとくけど、今回かなり無茶言うてんからな。こんな手何度も使えへんぞ」
「分かってるって、来年の算段はきちんとするよ」
 夕暮れ前の涼やかな風が吹き、屋台に来る客はまばらになっていた。暁たちはその場を後にして帰路についた。
 菱屋で静と別れた暁は迎え出た烏から文を渡され、中を検めると、慌てて菱屋を出て静を呼び止めた。ひと足遅れて睦月も追い付く。
「どうしたの」
「これ、紅砂からの文です。今、坡城の東の都で務番処に世話になっているって」
「え、島は? 務番処? どういうこと?」
「いえ……私もよく分からないんですけど、船が違ったとか何とか」
「なに、あの二人迷子になったの?」
 それは務番処に勤める烏から菱屋への定期報告に付いていたという。紙は一枚のみで、詳しいことは一切省かれ「港への船で近々帰る」旨が記されていた。
「とにかく無事が分かっただけ良かったです」
「そりゃそうだけど……大の男二人がよりによって迷子って。間抜けすぎない?」
 静は呆れ顔で笑い、ガントウの袋を胸に抱いて赤く染まる道を去っていった。
 暁は睦月を連れて菱屋へ戻り、短檠の灯りの中で再び文を開いた。紅砂の字が要点のみを記して並ぶ、その最後のわずかな隙間にそれはあった。
 ――あきへ
 下手な字だ。あき、と呼んだことなどないくせに。
 きっと、指先ほどしかない隙間に無理やり収めるためだ。
 そう自分に言い聞かせてすまし顔を作るが、指でなぞるだけで小さく弾けるように心がくすぐったかった。