ずきんと頭が痛んだ。
 低く呻く。開きかけた目をまた閉じる。遠く聞こえる誰かの声。どうにか目を開く。
「針葉。無事か」
 目を開けたそこも瞼の裏かと見紛うような暗い部屋だった。ほんのかすかな明かりは天井の隙間から差すものらしい。針葉は体の右を床に着けて横たわっていた。頬がざらりと砂埃に触れ、鼻がむずむずした。後ろ手に縛られているらしく、腕が固まって動かない。針葉の傍らには黒い影があった。
「紅砂か」
「ああ。おっさんもいる。おっさんも俺もさっき気が付いた」
「けっ、気分は最悪だがな」
 更に遠くから香ほづ木売りの声がした。
「……思い出してきた。殴られたんだな。油断した」
 手元の黒い石に目を奪われ、ネイトという異人から語られる話に耳を奪われ、気付かなかったのだ。ネイトの仲間たちが息を殺し忍び足で近付いてきていることに。
「……こんな目に巻き込んで悪かった。二人が帰った後で、俺一人で話しに行くべきだった」
 紅砂の苦しげな声に被せて反論する。
「馬鹿が。それじゃお前一人帰ってこねえっつって、島じゅう探す羽目になるだろうが」
「だからって三人とも捕まっちゃ……」
 針葉は上肢を起こした。好都合なことに縛られているのは手首だけだ。
「ここがどこか分かるか」
「さっきの蔵の地下だろうぜ。上から光が漏れてるし、足音もした。大の男三人抱えて動くのも一苦労だろうしな」
「ここに来てどんくらい経った? 奴らは見回りに来てんのか」
「外はまだ明るいから夜には早いみたいだが……俺やおっさんが起きてからは一度も。それどころか足音も消えた」
 針葉は耳を澄ませる。確かに上からは何の音もしない。
「紅砂。お前、俺の服ん中探れるか」
「は?」
「瓶の欠片が入ってる」
 針葉はずりずりと紅砂の後ろに移動した。紅砂の手が合わせの奥から欠片を探り当てる。
「まず自分の縄を切れ。そんで俺とおっさんの分も頼む」
「これ、ネイトがぶつかって割れた瓶か? なんでお前……いつこんなもの」
「お前らが不穏な感じだったからな。得物が無い以上、こんな欠片でも持っとくに越したこたぁない」
 しばらくして三人は縄から解放された。三人は部屋を探って置かれた状況を掴む。
 その結果分かったことは、ここは香ほづ木売りの見立てどおり蔵の地下らしく、上階の半分ほどの広さの床には木箱がいくつも転がっているが飲み食いできそうなものは無く、階段の上部も板で塞がりびくともしないということだった。
 ひとしきりの壁や天井を探って回り、木箱で叩いて回り、針葉は木箱を放った。
「やっと大の字になって眠れるって喜ぶとこだが、あんまり嬉しかねえな」
「食べるものはともかく、水すら無いのは……」
 腰に着けた吸筒からはちゃぷちゃぷと頼りない音がするばかりだ。この量では一日分にも足りない。
「涼しいのが救いだが、一滴も飲めなきゃ五日と持たないぞ。……な、なあ、それまでにゃ出られるよな? まさかあいつら、死ぬまで閉じ込めたりしないよな?」
 香ほづ木売りの声に返答は無かった。
 部屋の隅に置いた木箱を厠代わりにして、できる限り動かずに体力の消耗を減らし、目と耳を研ぎ澄ませ、助けを呼ぶ隙、逃げ出す隙を窺う。
 いつまで続くか分からない、飢えと渇きに耐える戦いの始まりだった。





 菱屋で朝を迎えるのはこれが三度目だった。
 昨日降っていた雨も今日は上がり、少しずつ蝉が鳴き始めている。
「紅砂と一緒に遠出するから、帰るまでは別の場所に身を寄せてほしい」、そう針葉に言われたのは先月末のことだった。突然のことに戸惑った。
 小間物屋には紅花と浬、双子が暮らしている。睦月を産むとき居候した斎木の家には今黄月が住み、しかも彼は里と籍を入れたばかりだ。菱屋以外の選択肢が無かった。
 初めこそ納得のできない思いもあったが、睦月が無邪気に喜んでいたので気も晴れた。自分も腐ってはいられないと炊事や洗濯その他諸々を申し出たのだが、ことごとく却下された。
「暁殿にそのようなことはさせられません」
「ご不便はございませんか? お口に合わないものは?」
「何なりとお申し付けくださいませ」
 ……息が詰まる。
 顔見知りの烏に幾度か交渉の末、ようやく勝ち取ったのが「与えられた部屋の掃除」、これだけだった。
 暁は蒲団を隅に寄せると、縁側の襖を開け放って箒で掃く。すぐに済んでしまう、でも今日、自分や睦月のために何かしたのだと思いたい。
 手を止めて、庭で走り回る睦月に手を振る。
「お元気ですこと。御子は元気が一番、でございますね」
 話し掛けてきたのは縁側を通りかかった年配の女だった。暁は小さく会釈して口元だけで微笑む。
「この歳になると体もあちこちがたが来て、暗い気持ちになることもございます。でも暁殿や睦月殿がお戻りになったと考えるだけで、活力が湧いてまいりますの」
「それは……何よりです」
 お戻りになった、という言葉が引っ掛かった。曖昧に笑う。
「実は私、元々は豊川本邸におりましたの。大火の翌年でしたか、暁殿がこの地にお住まいということで、この菱屋が増築増員されたのでこちらへ寄越されたんですが、やっぱりねぇ。主君不在というのは寂しゅうございました。暁殿のお戻りを皆、心から喜んでおるのですよ」
「主君と言われても、豊川家はもう無くなりました。私も睦月も、夫が不在の間だけ身を寄せている居候の立場です」
 暁が何を言おうが、女は口に手を当ててほほほと品よく笑うばかりだ。
「まあ、ご冗談を。そういえば今朝お出ししたミズ茎の和え物はいかがでした?」
「あ、ええ、懐かしい味で……」
「そうでございましょう? 暁殿には魚より山菜のほうが宜しいんじゃないかと思いまして。壬を思い出しますものねえ。睦月殿にも壬の味を覚えていただかなくては」
 睦月の昼寝を待って暁は菱屋の中を歩き回った。名を知らない相手は駄目だ、何を訴えても受け流されてしまう。
 廊下で鉢合わせたのは昨年旅路を共にした至だった。半年にわたって割譲談義にかかる協定書作成の実務に当たった彼は、調印式では痩せ細り、老け込んだ印象だったが、今は頬に多少の肉が戻っていた。
「暁殿、お久しぶりです。ちょうどご挨拶に上がろうかと」
「どうも。早速ですが何か仕事を与えてください」
 至はほころんだ表情のまま動きを止めた。
「はい?」
「私のことをお客扱いする人が多すぎます。ましてや主君などと。私はあくまで仮住まいです。夫が……ハルが帰還すればすぐにここを出ます」
「……参りましたね。そういった話はもう済んでいるのではなく?」
「炊事も駄目、洗濯も駄目、口入れ屋や質屋の手伝いも駄目。自分の食べるものを作ることもできず、器を下げることもできず、自分の着たものを洗うこともできず。唯一許されたのが六畳部屋の掃除です!」
 至がふふっと小さく笑い、慌てて顔を背けた。
「失礼」
「掃除です」
「暁殿」
「睦月がちょっと駆け回っている隙に掃いたらもう終いです。あとは日が暮れるまで睦月と遊び、字を教えるだけ。私はいつまで飼い殺しにされるんでしょうか」
 至が数度咳払いして暁に向き直った。
「とにかく。私の立場で暁殿を働かせることはできません」
「では誰の立場なら良いのです」
「……、暁殿、ご理解ください。誰であろうと、あなたに働けとは言えません。考えを変えましょう。何か学ばれてはいかがですか。暁殿にとっても有意義でしょうし、烏たちにとっても、あなたが知見を広められる姿は好ましいはずです」
 文治派の至らしい提案だった。
「お望みとあらば各国の法令文化に関する書物を取り揃えます。舞手や楽師など招くのも宜しいですね。講師はもちろんその道に秀でた者を呼び寄せましょう」
「それならば……一つ」
 暁は人差し指をぴんと立てた。
 どうせ学ぶのならゆくゆくは稼ぎになるものがいい。そして、菱屋という後ろ盾と財力がある今だから学べること。
 ゆったりと微笑んだ至に、暁もにこりと笑みを返す。
「異国の書物と、それを読み解くことのできる先生を一人お願いします」
「はい?」
「それでは。宜しく頼みました」
 その場に固まった至に辞儀をして、暁は睦月の眠る部屋へと踵を返した。





 暗い地下にいると、どれほど時が経ったのか分からなくなった。
 天井の隙間から漏れるわずかな光で、また日が昇ったらしいことを知る。
 あれから何度か足音を聞いた。足音が近付いたのを狙って声を上げ、出口の塞がった階段に木箱をぶつけて音を立てた。しかし足音は無情にも通り過ぎ、救いの手が伸びることはなかった。
「蔵の中だから、そもそも外からの出入りは少ないんだろうな」
 香ほづ木売りがぽつりと言う。
「あんたがいなくなって不審に思う奴はいねえのかよ。見世の奴らとか」
「いてもここまで探しに来ないな」
「この前話を聞きに行った人は? 俺たちが蔵に向かったって知ってるだろ」
「しょっちゅう会うわけでもないんだ、いなくなったと気付きやしないさ」
 腹の虫が騒がしかったのは初めの一日二日ほどで、そのとき襲ってきた頭痛や吐き気もいつしか鎮まっていたが、強烈な渇きはいつまで経っても消えることがなかった。身体からは汗とは違う異臭がし始めていた。
「……イワボレ、俺も食っときゃよかったなぁ。あと酒……いや、水でいいや。水を浴びるほど飲んで……」
 最初に弱音を吐いたのは香ほづ木売りだった。
「最期の飯が柏飯って恰好つかねえよな。もっといいもん買ってきてやりゃよかった。悪かったな」
「おっさん……」
「俺は諦めねえぞ」
 暗い空間から音が消えて静かになる。
 部屋の隅に置いた厠代わりの木箱からは、蓋をしていても悪臭が漂っていた。何を飲み食いしなくても排泄は続いていたが、もう小便の出る量も随分減っていた。

 一切の光が無かったので、夜だったのだろう。
 ぐったりと倒れ込むように横たわっていた針葉の耳に、かすかに足音と、何かを引きずる音が聞こえた。
 身を起こすのも辛く、目で辺りを窺った。首をもたげて後ろを見る。
 階段の上部を塞いでいた板がずらされ、その向こうにぼんやりと丸い灯りが広がっていた。
「お、おい……」
 灯りに目を奪われながらも紅砂と香ほづ木売りの体を強く叩くが、くぐもった声が返るばかりだ。
 板はまた閉まり始めていた。
「待て!」
 針葉はぐらつく体を起こして駆ける。だが階段に飛び付いたときには既に天井はぴっちりと閉まり、隙間から漏れる灯りも無かった。
 念のため段を上って天井を叩くがびくともしない。ふと針葉は、最上段に盆が置かれていることに気付いた。そっと触れると広縁の大椀に何かの汁物、もう一つの皿には握り飯らしき小さな塊がいくつか乗っていた。
「何だ……どうした」
 香ほづ木売りが倒れたまま力無く声を出す。紅砂は気怠げではあったが起き上がって針葉を待った。
「何か持ってきたのか? 何だ?」
「分からん。今、そこの上が開いてて誰かいた」
「はっ!?」
「で、どういう風の吹き回しか知らんが、恐らく飲み食いできるもんを置いてった」
「おいおい……、何が入ってるか分からんぞ」
「でもおっさん。あと数日閉じ込めとくだけで俺らは死ぬのに、わざわざ毒なんか盛るかな」
 盆を囲んで、弱々しい声で議論が続く。言葉を口から出す体力も少なく、すぐに沈黙が訪れる。
「……どうせ、飲み食いしなきゃあと数日の命だ。俺が少し食べてみる」口火を切ったのは紅砂だった。「俺が巻き込んだんだ。毒見役くらいさせてくれ」
「おい、そういうことなら歳食ってる俺が……」
 香ほづ木売りが言い終わるより早く、紅砂は大椀を口に運んだ。喉がごくりと鳴る音がやけに大きく聞こえる。大椀が盆に置かれる音、そして握り飯を咀嚼する音。
「……何か変わったところは」
「無い」紅砂はひと言呟いてがっくりと項垂れ、「美味い」
 針葉と香ほづ木売りは渇いた口で百を十回数えた。数え終わっても紅砂に異変が起きることはなく、二人は我先にと盆に手を伸ばした。
 飢えと渇きを癒すにはまるで足りない。だが得体の知れないその差し入れは、気力も希望も失った身体に染み渡っていった。

 それからは階段のすぐ下で張り込んだが、光が漏れて朝が来たと分かっても、足音が通り過ぎても、光が絶えて夜を報せても、待てど暮らせど板が動くことは無かった。
 わずかに満たされた腹は更なる糧を要求し、きりきりと痛んだ。
 そしてまたとろとろと夜が落ち、朝の光が細く差し込む。また誰かが忍んでくると期待していただけに落胆は大きかった。
 光が消えて夜になる。前日の夜に気を張っていたぶん、すとんと落ちるように眠りに沈んだ。
 ――どれほど時が経ったか、聞き覚えのある音に針葉は顔を上げた。四角く開いた天井板が、今まさにかすかな音を立てて閉じようとしているところだった。
「おい!」
 力の入らない手足を踏ん張って段を上る。間に合わず板は閉じ、その向こうでがちゃりと硬い音がした。一番上の段には、二日前と同じく盆が置かれていた。
「おい待て! おい!」
 力を振り絞って天井を叩き、声を上げる。隙間から漏れる灯はまだそこにある。まだそこに、いる。
「針葉」
 いつの間にか隣に来ていた紅砂が針葉の手首を掴んだ。音が止む。針葉はようやく拳の激しい痛みに気付いた。息が切れていた。
 灯が動いた。
「ご……っ、ごめんなさい」
 若い男の声だった。灯とともに足音が駆けていく。
 真っ暗になった階段で、針葉と紅砂は呆然と天井を眺めていた。





 何日目になるか分からない、菱屋で迎える朝だった。
 降り注ぐ蝉の声を聞きながら、暁は自分と睦月の飯を済ませ、与えられた部屋を掃いて、午後からの講釈に備えて和解わげと逆引きを読み返していた。
 かつて自分が書き写した本の山、積み上がったその中から取り出したのは装丁の異なる一冊。斎木に貸し出された原本だった。
「これも先生の形見になっちゃったな……」
 不在の間に亡くなってしまった斎木は、どれほど周りの評判が悪かろうが、暁にとっては一年近くの間共に暮らした恩人だった。
 彼は暁の得手不得手を見抜き、暁に適した仕事を与えてくれた。それが希少本である和解の書写だった。途中までは単に書き写すだけだったのが、途中からは朱墨を交えて読みやすくし、また途中からはいろは順から異国ことばを引く逆引きを作った。延々紙に向かう作業は目が疲れるし肩も凝ったが、堂々と飯を食らうだけの稼ぎを与えてくれた。
 先日、黄月のものとなった長屋へ線香を上げに行った。黄月が仏壇と言って指し示したそれは、故人を偲ぶにはやけにひょうきんな顔の仏像だった。暁は手を合わせ、その帰りに在庫となっていた和解と逆引きを引き取ってきたところだった。
 逆引きを山に戻し、また一冊装丁の異なる本を取り出す。表紙は左に付いており、中身は全て横書きだ。
「おかーさん!」
 縁側をとことこ駆けてきた睦月がひょこっと顔を出す。
「お外で遊んできたの?」
「ちがうちがう。あやちゃんとあらたくんと遊んだの」
 綾と新、それは紅花の双子の名だった。睦月一人で小間物屋まで行った……はずはない。
「ここに来てるの?」
「あっちのおへや。いこう」
 睦月に手を引っ張られて縁側を歩く。
「ほらね」
 睦月が示した畳の上には確かに綾と新二人の姿があり、その周りに人形や細長い板切れ、こま、毬といったおもちゃが散らばっていた。綾は睦月を見るなり人形を投げ捨てて猛然とはいはいで近寄り、つかまり立ちをしていた新はじっと暁の顔を見つめている。同じ部屋では下働きの若い女が洗い物を畳んでいた。
 そこへ襖を開けて現れたのは浬だった。
「浬。どうしたの」
「紅花ちゃんに休みをと思って。牙殿と話もしたかったしね」
 すっと暁の瞼が半分下りる。
「なるほど。紅花には自分が双子の面倒見るよって甘言を弄して、結局は菱屋の人に双子を見させてたわけだ」
「棘あるなー。ちょっと見てもらってただけだよ」
「睦月のことも、私には「見ておくから休んどきな」とかいい顔しておきながら、断りもなく牙に会わせてたものね」
「細かいことまでよく覚えてるねえ。何なんだろうね、それ。紅花ちゃんもそういうとこがあるんだけど、女の人って皆そうなの?」
 浬はさらりと笑ってかわし、新を抱き上げた。畳み物を終えた女は一礼して部屋を出て行く。暁は綾と遊び始めた睦月を横目に、浬の前に腰を下ろした。
 暁は浬をまじまじと見る。愛息子をあやす柔和な笑顔、しかしその向こうにある狡猾さを暁は知っている。
「東雲や壬の大火が無かったら、私は浬とめあわせられていたわけだよね」
「僕が姉に殺されなければ、そうなってただろうね」
「私ね、……多分浬とは合わないと思う。夫婦にならなくて良かったね」
「奇遇だね。僕も、去年の旅では暁と同室だったけど、指一本触れたいと思わなかったよ」
 お互いに笑顔で悪態をつきあう。そんな二人を子供たちは不思議そうに見上げた。
 浬は新を畳に下ろし、いくつも散らばったこまを次々に回していった。それを新や綾が競って捕まえる。睦月は鈴の入った毬を慣らしながら部屋を歩き回る。
「暁はもう十日くらいここにいるんだって? 針葉さんはまた遠出?」
「知らない。大事な用だからって、今度は紅砂まで連れて出て行っちゃって。人に会いに行くとか言ってたけど本当かどうか」
「詳しく訊かなかったの」
「だって……こっちも豊川の家のこととか言い出せないことは色々あったし、それに……」
 行かないで、そう言った暁に針葉は眉を寄せ唇を結んだ。あんな困った顔を見せられては。
「いいの。半月くらいで帰ってくるとは言っていたし、それにここは右も左も烏だらけで暮らすには困らないもの。手習いもさせてもらっているし」
「手習い?」
 暁は片手に持ったままだった二冊を差し出した。暁自身が書写した和解と先日与えてもらった異国の書物だった。
「徳慧舎という私塾の人が足を運んでくださって。そこも同じように和解を出しているんだけど、私のものより数段詳しくてね。向こうもこちらの和解を知っていたらしくて、特に逆引きはいい発想だと褒めていただいて。斎木先生が亡くなってから在庫も捌けず困っていたけど、今ある分は買い取っていただけそうな話になっていて――、っと」
 話し過ぎた自分を恥じるように暁は口を押さえた。浬は板切れを積み上げながら笑う。
「いい話じゃないか。それで?」
「それで……今は外つ国の書物の読み方を学んでいるところ。前に紅砂に、外つ国の言葉は順序が違うと言われたことがあって、今ようやくその意味が分かった。苦戦しているけど楽しいよ。何十冊と和解を書写した甲斐あって、見知った言葉は多いしね」
 新が板切れの塔を手で払って崩す。綾が自分もやりたかったとばかりに崩れた板切れを手で払う。ぽいぽいと投げ出した二人に向かって、睦月が「なげちゃだめなの!」と怒る。
「きっと役立つ日が来るよ。ああ、それから今更だけど人別帳のこと。ひよさんみたいな鷹派がいなくなったんなら、いつでも書き換えられるよ」
「本当に?」
 暁は今、浬の手により「泰孝という架空の男の妻」として記帳されている。豊川の「正統なる血」を妄信し、豊川家と旭家の縁組に固執した、ひよやすずのような鷹を欺くために。だから針葉と暁は今でも籍を入れられず、睦月も針葉の子として認められていない。
「でも私が無宿扱いだから無宿の針葉と一緒にはなれないって、前に港番で」
「白証文さえあればいくらでも書いてあげるよ。これでも東雲の筆方、旭家の出身だからね。白証文は牙殿に頼んでみればどうにかなるんじゃないかな。手形の偽造くらいお手の物らしいし」
 暁はこみ上げる想いを押し留めるように胸にぐっと手を当てた。二年前、籍入れを進めていたときの胸の高鳴り。番処で泰孝の名を聞いたときの背すじが凍り付く感覚。
 もうすぐ全て報われる。
「牙殿といえば、さっき話していたことなんだけどね、伊東殿が動くようだよ」
「務番処の?」
「津ヶ浜には外つ国が深く入り込んでいる。あとは、坡城の立場でどう理由をつけて暴き立てるかってところだね」
 暁は畳に置いた書物に視線を落とす。いずれ目が慣れてすらすら読み解けるようになったとき、暁が読むことになるのは何だろう。子供向けの絵物語か、国同士の協定書か。
 いずれにせよ、菱屋の立場を利用して学ぶ以上は存分に血肉にせねばなるまい。
 暁の目には静かな決意が宿っていた。





 盆を置きに忍んで来た男は、翌日もその翌日も姿を見せることはなかった。
 二度目の差し入れは貪るようにして一瞬で空になった。わずかばかりの施しを得た腹はまたきりきりと痛み、しかしそこに降り注ぐ次の慈雨はいくら待っても来なかった。
 初めに香ほづ木売りが起き上がれなくなった。
 同じ日、差し込む光が絶えてからは紅砂の返答も鈍くなった。
 針葉は階段の脇で粘っていたが、手足は弛緩し立ち上がるのも億劫になっていた。
 死を覚悟した。
 光が隙間から差し込んで、また朝が来たのだと知る。――その日はどたばたとやけに騒がしかった。いつもなら誰かに聞こえるようにと天井を叩いて騒ぐが、もうその気力は残っていなかった。
 針葉は壁に背を付けて座っていた。体が重い。根が生えたようだ。
 天井から響く足音や声はどんどん大きくなっていく。針葉は目を瞑ったままそれを聞く。聞き取れやしない異人たちの言葉は、眠りの供には最適だ。
 ――目を開く。
 くぐもっているが、その言葉は耳に馴染みがあった。意味が分かる。島びとか、いやそれにしては堅い言葉遣いだ。
 いつもとは違う。何かが起こっている。
 今なら届くかもしれない。声を上げようとしたが喉が嗄れていた。這うように階段に手を掛け、膝で上る。すぐ近くで紅砂の身動きする音が聞こえる。
 そのときがちゃりとすぐ頭の上で音がした。何かを引きずる音がして、隙間から差し込む光が多くなる。複数の声。音。
 天井が開いた。
 暗闇に慣れた目が灼かれ、針葉は顔を覆う。誰かが息を呑む音、うっと異臭に口を塞ぎ、そして叫ぶ。
「人だ、人がいた! 地下だ! 閉じ込められてた!」
「異人じゃないな。島びとか?」
 針葉は力なく首を振った。
 昼の光に慣れてきた目に映ったのは、ぞろぞろと集まってくる人の波。彼らの身形はどう見ても坡城の番人だった。
「どうして……坡城の」
 後ろから紅砂の声がする。番人たちは次々に階段を下りて三人を穴蔵から引っ張り上げた。
 そこで針葉が見たものは、蔵の棚に梯子を架けて荷を下ろす番人たちの姿だった。異人の姿はどこにも無い。
「これは……一体」
「おい、お前!?」
 番人の一人がぼろぼろの三人を見て駆け寄ってきた。逞しい体躯の男だった。彼が足を止めたのは針葉の目の前だ。
「どういうことだ、何故お前がこのようなところに」
「あんたこそ……」
 それはほんの半年前、家までの帰路を共にした黒烏の真だった。真は三人を順に見て香ほづ木売りに目を留めた。
「この男が一番危ないな。おい、誰か二人手を貸してくれ。坡城びとだ。放っておくと命に関わるぞ」
 彼は香ほづ木売りを背に負った。針葉と紅砂も番人に背負われ、人でごった返す蔵を後にした。

 それから十日余り養生生活が続いている。
 三人は真新しい建物の畳敷きに運ばれ、医者が付いた。
 初めに出された飯は底の透けて見えるような重湯だった。文句を垂れたが、閉じ込められたのと同じ期間をかけて体を戻すのだと言われ、反論は許されなかった。
 最近になってようやく飯は普通のものに戻り、屋内でなら体を動かす許可も出ていた。死臭にも似た異臭は、清拭しても風呂に入っても続いていたが、数日の養生の末ようやく薄れかかっていた。
 若さもあってか針葉と紅砂がまず体調を取り戻し、重篤な状態だった香ほづ木売りもゆっくりと快方へ向かっていた。
 ある日その部屋に顔を出したのは真だった。
「失礼する。随分と快復したらしいな」
 腕立て伏せをしていた針葉は片手を上げ、上体起こしをしていた紅砂は座り直して会釈し、蒲団の中で横になっていた香ほづ木売りは首をそちらへ向けた。
「世話んなったな。おっさんはまだ日にちが要るけど、俺らはほとんど元通りだ。痩せちまったから戻さなきゃならんがな」
「ありがとうございます。医者まで付けていただいて」
「あのような死相の出た顔で帰すわけにはいかないからな。暁殿がどんな顔をされるか」
 真は裾を払って畳に正座し、じろりと針葉を睨んだ。二人のやり取りを見て紅砂が片眉を上げる。
「針葉、顔見知りなのか」
「あー、まあ去年ちっとな。にしてもあんた、何だって番人の恰好してる。坡城の役人に鞍替えか?」
「監査役として務番処に登用されてな。坡城との協定書にその旨が盛り込まれていたのだが……まあお前は知らぬだろうな」
「坡城の務番処が、何だって津ヶ浜の島に乗り込んでこれるわけですかい?」
 蒲団の中から香ほづ木売りが尋ねた。その疑問を持っていたのは針葉と紅砂も同じだ。三人の視線が真に集中した。
 この建物の別室には坡城の番人が逗留していたが、来るのは医者と下働きの者ばかりで、あの日起きたことを説明する者は誰もいなかったのだ。
「異人が坡城の禁輸品を流出させている、という話が入ったのでな。あの蔵のものを一度全て差し押さえて調べることとなった」
「坡城だって? あの蔵の中は旧上松領のもんがほとんどで……」
「分かっている。口実だ」
 真は眉をぴくりとも動かさずに言った。
「全ては異人たちの動きを把握するため、無理やりこじつけた理由だ。思ったとおり、あの蔵からは膨大な量の物品が出てきた。旧上松領は異人にとって、よほど値打ちのある土地らしいな」
「石です。黒い石は残っていませんでしたか。それが奴らの狙いです。船も動かせるとか何とか……それに煙が出ないと言っていました。燃やして使うのかもしれません」
「そうらしいな。その辺りの調べも行っているところだ」
 身を乗り出した紅砂を真は手で制した。
「にしても……いきなり坡城の番人が乗り込んで行ったんじゃ、津ヶ浜の役人の面目丸潰れだ。あっちだって黙ってなかったでしょうよ」
「そうだな。お前たちを助け出した後、津ヶ浜の役人との小競り合いがあった。強引な手を使う以上、多少の衝突は織り込み済みだったがな」
 ――こちらを通さず土足で島に上がり込むとは何様のつもりか。これは津ヶ浜の主権に関わる問題だ。ことによっては国同士の争いの種にもなるぞ。
 ――「誰にでも自由な商いを」、それがこの国の考えだ。異人とて例外ではない。坡城に口を出される筋合いなどない。
 ――仮に違法な持ち出しの疑いがあったとしても、物品を調べるだけで充分だろう。異人に縄を掛ける必要は無いはずだ。一体何の権限があって。
 突然島に乗り込んできた大勢の番人は嫌でも耳目を集め、大島に逗留する役人が駆け付けたという。蔵は一時騒然となった。
「どうやって治めたんです」
 うへぇ、と香ほづ木売りが顔をしかめる。真は涼しい顔で答えた。
「こう言っては悪いが、お前たちのお陰だ」
「はい?」
「偶然ではあったが蔵の地下には衰弱したお前たちがいた。あの異臭漂う穴蔵を見せたら、奴ら何も言わずに引き下がったよ。異人による坡城びとへの暴行、監禁、殺し……未遂。坡城の番処が動くには充分すぎる理由になった。養生にかかる銭くらい番処が持とうというわけだ」
 真はすっと立ち上がった。
「説明は以上。私を含め、務番は翌月初めの船で坡城へ戻る。養生が済んだなら同乗するといい」
 紅砂の視線を受けて香ほづ木売りはひらひらと手を振った。
「俺はもうこっちの住人だ、気にせず置いてっていい。舶来市や仕入れでまた港に寄るからよ」
「おっさん、世話んなったな」
 針葉と紅砂は、香ほづ木売りの手を順にぱんと叩いた。