坡城の港を出て半日足らず、大島に着いたときには日が暮れかかっていた。 香ほづ木売りを先頭に一行は船を下りた。針葉は腕を拭って首元を掻いた。終始吹き付ける潮風で体がべとついていた。 「おっさん、まずあんたの根城に行こう。近くに風呂屋くらいあんだろ」 「針葉、島の飯ならイワボレは外せないぞ。坡城じゃ滅多に食べられない。おっさん、イワボレ出す店は近くにあるか」 「おいくそ坊主ども。遠慮なくおっさんおっさん呼ぶが、俺にだってちゃんと名があってだな」 狭い船内で半日顔を付き合わせた一行は無遠慮に近い気安さで歩いていった。 翌日の一行はまず船着き場まで戻り、両替所で坡城の銭を津ヶ浜の銭に交換した。いくつかの大きな店を除いては坡城の銭は使えず、使えても割が悪いのだという。 その後は二手に分かれ、香ほづ木売りが市の用を済ませる間に紅砂と針葉は市を巡った。舶来市の半分にも満たない小さな常設市だったが、書物の店、織物の店、飾り物の店と探し回った末にようやく待田翁ご要望の本が手に入った。船代や手間賃の上乗せが無いためか、両替賃を差し引いても待田翁から聞いていたより安値だった。 昼飯は屋台で安く済ませることにした。針葉は蝦の身と青物を甘辛く煮て包んだ大ぶりな饅頭、紅砂は厚みのあるヤソ皮で揚げた魚と青菜を挟んだガレという食い物だった。行き交う人々を眺めながら、針葉は壁に寄り掛かって饅頭を咀嚼した。 「お前の言ってたとおりだな。異人がごろごろしてやがる。分からん言葉がごちゃごちゃ混じってたけど、お前は聞いてて分かんのか」 「まさか。言葉なんて国の数だけあるんだ、俺もそのうち一つ二つが少し分かる程度だ」 「あ? あいつらいくつもの国から来てるってことか? あんな似た顔してんのに」 紅砂は齧り付こうとした口を閉じ、道行く異人を小さく顎で示した。 「例えばあの人はがっちりした顔つきで髪や目は壬びとと似た色、あっちは背が高くて髪の色が薄い。あっちは肌が浅黒くて黒髪黒目、その向こうは赤っぽい毛だな」 「あー、言われてみりゃそうか」 改めて見てみると、異人の半分ほどは針葉たちと同じ着物に身を包んでいるが、もう半分は見慣れない服を着ており、それぞれ特徴が異なるようだ。体格から肌の色、髪や目の色、髭の生え方まで、違うものを数え上げていけばきりがない。 「紅砂、あれも異人だろ?」 「あれは……島びとだと思う。単に彫りが深いだけの」 「ええ? あれで言葉が通じんのかよ」 針葉は噴き出した。 津ヶ浜の中でも古くから島に住む人々は元来彫りが深いのだ。目を隠した紅砂が島生まれを名乗って疑われなかった所以だ。 素っ頓狂な笑い声に紅砂は眉を歪めたが、「世の中ってのは広いな。隣の津ヶ浜のことですら知らんことだらけだ」針葉がそう続けたので、驚いて隣を見た。 「異人の中でも多いのはああいう奴だな、髪は濃いめの色で目は薄い色で。お前とも似てるか?」 針葉は紅砂に目を向ける。紅砂は目の色が褪せた青だ。髪も、長じてからは黒と見分けがつかなくなったが、数年前まで染めずには安心して出歩けなかった。 「多分。前に番人に捕まった異人もそうだった。ここじゃ一番幅を利かせてるんだろうな」 「捕まった異人……って、ああ、あったなぁ。妙に騒いでたから早売り買って帰ったんだ。ってことはもう二年前か?」 あの一件は紅砂の中では未だ生々しい。若菜に連れられて夜の廓を忍び歩いたこと、そこで引き合わされたネイトという異人。十月後、旧上松領に潜んでいたネイトが捕えられ、若菜は、彼を匿っていた女郎の道連れになり牢に入れられた。救うことはできなかった。紅砂の上申書は全て若菜の罪となり、汚名だけを着せられて彼女はこの世を去った。 胸が重苦しくなり、紅砂は空っぽの口に水を流し込む。 ネイトの国の特使が織楽を気に入り呼び付けた。その席に紅砂も付き添い、部屋へ向かう直前イトウという役人とすれ違った。その後調べたところ、 特使と務番処の交渉の行方は分からない。だが、あれから二年経っても坡城で特に変わりはなく、再び特使が来るという話もない。つまり決裂したと考えるべきだろうか。 「あっちの方も回ってから帰るか」 ひと足先に饅頭を腹に押し込んだ針葉が言う。紅砂は最後のひと口を口に放り込み、手を払って歩き出した。 その夜、先に誘ってきたのは暁だった。 夜の中に挑むような目があった。ぞくぞくする。手を伸ばす。 憂いも迷いもなく絡み合う。波打った髪が指に絡む。 互いの体がしっとりと熱を帯びる。甘やかな肌を吸おうと合わせを開く―― 腹に重い一撃があった。 う、と低い声が漏れる。続けてもう一撃。 「おい、一体何――」 そこで目が覚めた。 目の前には見知らぬ低い天井。ごちゃごちゃと物の積み上がった薄暗い家。蒸し暑い。不快な首の汗を拭う。 起き上がって針葉は落胆の溜息を吐いた。愛しい女と共寝どころか、現実の彼はむさ苦しい男二人と雑魚寝していた。 「ここんとこ全然してねえもんな……」 ぐしゃぐしゃと頭を掻く。指に汗が触れた。この島は坡城よりも暑い気がする。 「ええい!」 苛立ち混じりに、腹に乗った香ほづ木売りの足を放り出し、紅砂の腕を放り出す。外に出ると空はもう明るくなっていた。ごくりと水を流し込んで裏の物干し場へ歩く。昨日の夕に洗っておいた着物は、この暑さに一晩で乾いていた。 水を汲み、着物を取って香ほづ木売りの家へ戻った。この島には長屋というものが無いらしく、香ほづ木売りもおんぼろながら一軒家に住んでいた。 戸を開けると二人は既に起き出し、筵を片付けながら何やら話していた。 「じゃあ香の道具も?」 「そう、こっちが香炉でそっちに小分けになってんのが灰、向こうのが火道具だ」 「境の市にいたときは扱ってなかったよな」 香ほづ木売りのごちゃごちゃした家の中で、棚のある一角だけがきちんと整えられている。その棚には彼の商売道具が置かれていた。 針葉は昨夕買っておいたヤソと魚の包み焼きの葉を一つ取って齧り付き、棚を見上げる。確かにそこには木片だけでなく、洒落た入れ物や何かの実の詰まった小瓶がいくつも並んでいた。 「境では壬びとや坡城びとがちっと高めの木でも買ってくれてたんでな。こっちじゃ香ほづ木なんて知る奴はほとんどいなかった。旧上松領の木が手に入ったんで一念発起してまた市に出てみたが、島の奴らは目もくれなくてな」 「そりゃそうだろうな」 針葉は笑う。元々の島びとは漁師が多い。ゆったり香を楽しむたちではないだろう。 香ほづ木売りは残った包み焼きを取って一つ紅砂に渡し、ひと口齧った。 「立ち止まった異人に何を売ってるのか訊かれて、それがなんて言うかな、このちっぽけな木っ端は何だって馬鹿にしてるみたいだったんだよ。こっちも負けてられるかって香を焚いたんだ。したらあっちこっちから人が集まってきてな。……そこでようやく気付いたんだよ。香ほづ木のことも使い方も、俺が一から伝えなきゃ分かりゃしないって」 香ほづ木売りは当時を懐かしむように遠い目をした。 「話し掛けてきた異人は、こんな辺境の島にこんな雅な物が、とか何とか驚いて、香の道具一式売ってくれときた。だから試しにと思って、次に坡城に渡ったときに道具一式も仕入れてみたら、当たりだ。その異人が他の客を連れて来て、たちどころに売れた。反対に、自分の国にゃ違う香があるって教えてくれたのがそっちの小瓶の中身だ。木の脂やら乾かした花やら草やら。動物の体から取れるってのもある。そっちは逆に、湊屋って分かるか、坡城の薬種問屋の大店で高く引き取ってくれるんだ。薬の元になるらしい」 彼は最後のひと口を放り込み、葉をくしゃっと丸めて笑った。 「異人がどうしたって国は騒がしいけどよ、異人との交易は、俺にとっちゃ悪いもんじゃない。今まで知らなかったいいもんが手に入るし、思いもしなかったもんが高く買ってもらえる」 「おっさん、なんか頭が柔らかくなったよな。初めて会ったときは、香ほづ木の価値の分かる奴しか来るなって言い方だったけど。どれが小藤か当ててみろ、なんて言い出して」 「俺も知らん土地で色々揉まれたんだよ」 紅砂は相槌を打ちながら香炉の一つを手に取り、回し見て戻した。 「どうしたよ兄ちゃん、お前さんも買うか」 「いや。この辺りの香炉は妙に目を引くなと思って」 胴部には山河の蒔絵が施され、火屋には透かし彫りで鳥が描かれていた。その隣の香炉は金銀の粉を埋め込んで水辺が描かれており、火屋の上にはちょこんと銅製の蛙が乗っていた。 「お目が高いねえ。そりゃ待田庵ってとこのだ。精緻な出来で、見てるだけで楽しめるってんで通にゃ受けがいい。値は張るが間違いない逸品だ」 隣の香炉にも手を伸ばそうとしていた紅砂は、ぴくりと動きを止めて考え込み、堪え――ついに頭を抱えて笑った。 「あの人には敵わないな」 針葉もくくっと笑いを漏らす。短気な爺さんに恩を売るため渡ったはずの島で、国や言葉の違いを軽々越えていく凄さを見せつけられたのだ。 「何だお前ら、気味悪いな」 突然笑い出した二人を、香ほづ木売りは薄気味悪く眺めた。 その日香ほづ木売りは二人を連れて南の市へ向かった。そこに、旧上松領に逗留していた男が見世を出しているのだという。 その男は香ほづ木半分、煙草半分の商いをしていた。香ほづ木は手頃なものが大半で、近くの市に出る者どうし住み分けをしていることが窺えた。 「よっ。今日はどうした、若いの二匹も連れて。そっちのお兄ちゃんは異人かい?」 「どっちも坡城からだ。境の市にいた頃に得意客だった奴らでな、旧上松領での話をしてやってほしいんだ」 男は香ほづ木売りよりひと回りほど若く、今は三十半ばかと思われた。整っているわけではないが柔和で人好きのする顔だ。こじゃれた朝顔の柄の手拭いを頭に巻いた彼は、男は針葉と紅砂をじろじろ見て、くいっと親指で屋台を示した。 「昼飯。何か奢ってくれよ」 イワボレの屋台があったので丼飯を買って戻ったところ、男は丁重に頭を下げて手を合わせ、猛烈な勢いで掻き込んだ。唖然と見守る三人の前で丼はみるみる空になり、後には膨れた男の腹とげっぷ、空の椀が残された。 「イワボレ丼とはいい選択だね。御馳走さん。椀は返しといてくれ」 「そりゃいいけど、そろそろ話を……」 男はにっと口角を上げて積み上げられた木箱を並べ、針葉を手招いた。 「そっちに突っ立ってちゃ客の邪魔になんのよ。こっち来な」 空の椀を香ほづ木売りに任せ、針葉と紅砂の二人は広げられた品を跨いで男の隣に座った。 「旧上松領での話ねえ。さてどっから話したもんか。境の市を追い出された俺が、女を頼って転々とした放浪話なんてどう?」 「カゾの毒中りの治し方を探してるんだ。女の話も悪かねえが、今日のとこはカゾに関する話を頼みたいな」 男はにやりと笑って話し出した。 「俺は飛鳥の南の出なのよ。元々山歩きが好きで、国境付近の香ほづ木や珍しい草なんかを売るようになったわけ。カゾは小藤って木と一緒に売るのが基本だけど、何かきな臭いもんがあるってのは十年以上前から感じてたね」 「十年も?」 香ほづ木売りはこの島に渡ってからカゾの正体を知ったと言っていた。彼はそれより随分早かったことになる。 「その頃から 「黄月の一家が里を出てきたのが九つのとき、十四年前だったよな」 紅砂が小声で言う。旧上松領に食い込んだ飛鳥の邸が野良犬でカゾを試したのがその頃、そして効果を確かめて本格的に使い始めたのが十年ほど前ということか。 「試しに何に使うのか聞いてみたら、薬効が見付かったとさ。うさん臭い話だけど、お上をつっつくと後が怖いんでね、余計な口出しはしなかったよ。で、引き続き山巡りしては売り歩いてたんだけど……壬の大火は六年前だったかな? その頃ちょうど壬の南にいたもんでね、北の国境には戻れなくて、境の市で煙草売りしてしのいでたわけ。ところが人別改めでそこも追い出された。そのときにはもう壬も通りやすくなってたから、久しぶりに郷里に帰ってみたわけよ」 煙草を所望する客がいて話が中断した。男は銭を仕舞って再び話し出す。 「飛鳥は昔より賑わって金回りがいい感じだったな。でも様変わりしてたのが壬の北、今じゃ旧上松領って呼ばれてるとこの山ん中よ。山の一帯が丸々国のもんになって、自由にゃ行き来できなくなってた」 「そりゃつまり、カゾとかを一々あんたらから買わず独り占めするためだろ?」 針葉が人差し指を立てて指摘する。紅砂も頷いた。それはかつて上申書にも書いたことだった。飛鳥や外つ国は旧上松領にしか自生しない木々や草を狙ったのだと。 しかし男はあっさりと首を振った。 「確かにあの辺の山でしか採れないもんは多いけど、俺らから買うほうがよっぽど安上がりだよ。じゃあ何をしてるのかってことだが、日がな一日地面を掘ってるらしいよ」 「何だそりゃ。お宝でも埋まってんのかよ」 「金銀でも採れるんですか」 男は首を捻る。 「そんな良いもんが採れりゃいいけどね。詳しくは知らないけど、徴用された奴らや日銭に飛び付いた奴らがわんさかいて、夜みたいに真っ黒い石を運んでるって話だ」 「石っころ? ……ああ、石を掘るって言や、あのおっさんの話にも出てきてたな」 ――売るなと言ったんだ。そんなもん出回らせちゃまずい、お上に引っ捕らえられるって。 ――そいつは笑った。カゾを使ってるのはお上だ、お上の息のかかった廓や石堀り場で使われてるんだと。 「カゾを使うって話? 俺はそっちは見たことないけど廓でのことなら知ってる。旧上松領にある、お上の息のかかった公娼だ。……相手してくれた女が、やたら愛想が良くて幸せそうで、こっちまでいい気分になったんだ。揚げ代が手頃な割にゃいい女がいたもんだと思ったよ。だが話をしてみると妙に噛み合わないのよ。学が無いとかそういうんじゃなく、変にふわふわっと酔っぱらったような感じでね。別の女に当たっても同じだったよ。妙に思ったこともあったけど、皆にこにこ笑って何とも楽しそうで、また行きたくなるんだ」 異人の客が通りかかって木片を一袋買っていった。その次の客は目を留めただけですぐに歩き出した。男は水で喉を潤して続きを話す。 「そのうち馴染みの女ができてね。くだらん話も笑って聞いてくれるいい女だったな。ここの女は客より先に酔っぱらうのかとからかったら、酒じゃないって急須を見せてくれた。中身は薄い茶色で刻んだ葉が浮かんでた。……妙な匂いがした」 ――皆これを飲むんですよぉ。このお茶、ちょっと苦いけど肌を白くしてくれるし、店に出られる日が増えるんです。そのうえすごくいい気持ちになれるんですよぉ。 「茶の中に刻み損ねた葉先が浮かんでたんで、それがカゾを煮出したもんだと分かったわけ。ぞっとしたなあ、俺がお上に渡したカゾはここに流れてたのかって。飲んでみますかって言われて、何でもないふりして断って、……それきりだ。それっきり、もう廓通いはやめた」 男は頭の手拭いを解いて汗を搾り、ぱたぱたと振り広げて結び直した。 「後でお医者先生に聞いた話だと、カゾにはおかしな毒が入ってて、妙に気分が良くなる他に、血の巡りが悪くなって血の道も止まる、その結果子も産まれなくなるっていう。それで肌が青ざめて白く見えるし、店にも続けて出られるってからくりだ。なるほどそうかと合点がいった。……でもそんなのなぁ。そんなこと聞いて、気持ちよく遊べやしないよなあ。……俺の知ってる限り、その廓の女は皆同じようにふわふわしてた。全部カゾ漬けだろうね」 針葉は眉を寄せて水をぐいと呷った。口の中に溜まった嫌な味を流し去りたかった。その隣で紅砂は瞑目した。 旧上松領の惨状は、かつてその地に住んだ人から伝わってきた。黄月から、若菜から、ゆきの母から。だがそのどれもが十年は昔の話だ。 黄月はゆきの母の話を聞いて言った、「俺の住んでた頃はそこまで狂っちゃいなかった、さすがに耳を疑った」と。それなら壬の北部が正式に飛鳥のものとなって、狂気は更に加速したのではないか。 「カゾの毒についてはよく分かった。それでだ。初めに言ったが、俺は毒中りの治し方を知りたい。あんたは知ってるんだよな。薬か何かあるのか」 「薬というか……あの女のことかな。その廓、揚げ代のべらぼうに高い別嬪な女がいたわけよ。お偉いさんに気に入られて身請けされたってことだけど、嫁ぐまでお医者先生のとこで療養して、嫁いでからは子を産んだそうだよ」 「やっぱり噂話か。聞いた話なら眉唾もんかもしれねえな」 苦々しい表情で身を引く針葉を追うように、男は身を乗り出した。 「いやいや、先生本人から聞いた話だから嘘じゃないって。先生の家で見かけたときはその女、目に力があるし話の切り返しも上手くて、なんていうか血の通った感じでね。廓にいたとは思えなかった。まあ揚げ代が高いもんで、廓で相手してもらったことはなかったけどな、へへっ」 男がくしゃっと笑い、煙草買いの客応対を始めた。針葉と紅砂は顔を見合わせる。 客が途切れたところで紅砂が口を開いた。 「そのお医者先生について詳しく聞きたいんですが」 「ああ、先生? 先生とは薬草の取引で縁あってね。元々お上のお抱えでカゾの効き目を試してた人らしいが、お上に意見して干されて野に下ったそうだよ。世渡り下手だが、俺はそういうとこも嫌いじゃないね。カゾに関わって長い人だから毒抜きの方法も知ってたんだろうね」 男は得意げに言った。ひと呼吸おいて針葉が男の胸倉を掴んだ。 「先にそいつを紹介しろよ、あんたの長ったらしい話はいいから!」 「落ち着け針葉、気持ちは分からんじゃないが」 「はなっからその医者訪ねりゃいいだけの話じゃねえかよ、え?」 「落ち着けって」 紅砂は針葉と男とを引き離す。男は驚きと困惑の残った顔で乱れた衿を整えた。 「カッカするなよ、俺の話も聞きごたえあっただろ? ……分かった睨むな、先生の居場所と名を教えればいいんだな。それならそうと早く言ってくれよ」 男は立ち上がり、隣の見世の男から筆と紙を借りて戻った。受け取った針葉は紅砂が代読した音を耳に仕舞い、折り畳んで帯の内に入れた。 「先生の腕は確かだよ。眠らせてる間に体ん中の岩も取り出してみせるんだ」 「そこまでいくと手妻遣いの類だな。まず体ん中に岩を入れるのが一苦労だ」 針葉は鼻で笑う。ふと男が腕を上げた。そちらを見れば香ほづ木売りが戻ってくるところだった。 「話は終わったか」 香ほづ木売りは背中に荷が増え、手にはマチクの皮で包んだ柏飯を二つ持っていた。 「ほら、食え。食い終わったら一つ向こうの蔵に仕入れに寄るから手伝えよ」 「そりゃいい、若いもんに働いてもらいなよ」 針葉と紅砂は飯を受け取って齧り付いた。握り拳二つ分はある大ぶりな柏飯の中には、細切れの野菜と甘辛く味付けした柏肉がごろごろ入っていた。 香ほづ木売りが蔵と呼んだ場所は、今までいた市から更に南へ足を伸ばしたところだった。 「ちょっと遠いんで原木運びが難儀なんだが、今日は男手が二つもあるからな。たっぷり買える」 「まあ連れて来てもらってるからいいんだけどよ、カゾに詳しい医者が飛鳥にいるって分かったとこなんだ。できるだけ早く戻りたいんだがな」 「焦るな焦るな、どうせ坡城行きの船が出る日は決まってるんだ。ちゃあんと帰してやるから、その日まではちゃきちゃき働くぞ。宿代だ」 「あんなぼろ家で銭取んのかよ」 歩くうちに異人とすれ違うことが多くなった。ちらほらと新しい家が増える。 「南には異人が多いんだな」 「そうだな、蔵の管理をしてるのも異人だ。前に話しただろ、カゾのことを教えてくれた奴のこと。旧上松領のもんを色々仕入れてるんで、もう二年近い付き合いだ。見えた見えた、あれだ」 香ほづ木売りが指した先には漆喰で白く塗り籠めた、その名のとおり土蔵があった。二階建ての高さで、表は木の扉が堅く閉ざされ、その上に小さな窓が付いていた。 「この中に異人が?」 「似合わねえだろ。水にも火にも強いってとこが気に入ったらしい」 香ほづ木売りは笑って扉を叩いた。しばらくして中からくぐもった声がした。針葉が紅砂を見る。 「なんて?」 「ちょっと待てって」 扉が細く開き、香ほづ木売りが「俺だ、仕入れに来た」と声を掛ける。扉は更に開き、そこに立っていたのは針葉や紅砂より少し年嵩の彫り深い男だった。長い茶色の髪を後ろでまとめている。彼は掌をひらと上げて中に入るよう示し、踵を返した。 「おっさん、本当に言葉通じんのか?」 「心配ないって。ほら、お前らも早く入れ。そこ閉めとけよ」 異人の慣習か、香ほづ木売りは土足のまま進んでいった。針葉も蔵に入り、ふと振り返る。 「どうした」 紅砂は時が止まったかのように扉の前で立ち尽くしていた。逆光で見えにくかったが、その顔は強ばり血の気が引いていた。はっとその身体に動きが戻る。 「あ……、いや」 「こういう場所は苦手か? 入りたくないんなら俺とおっさんで外に出すから、そこで」 「大丈夫だ」 針葉の言葉を遮って紅砂は扉を閉め、その手前の引き戸も閉めた。がたんと杭の錠が落ちる音がした。 二人は奥へと歩き出す。夏だというのに蔵の中はすっと涼しかった。光は小さな窓から入るのみで薄暗く、細かな埃がちらちらと沈んでいくのが見えた。 中央にどんと据えられた木製の棚は年季が入っており、元から設えてあったものだろう。多種多様な箱が詰め込まれていた。途中には梯子が立て掛けられており、階段もあった。上下階に人の気配はなく、針葉が首を伸ばして上を覗くと、むき出しの梁がちらと見えた。 異人と香ほづ木売りは奥で話していた。そこは大きく開けており、隅には大樽、筵を敷いた上にはいくつもの丸太や草の束、酒瓶の入った木箱と雑多なものが置かれ、空の大八車が脇に佇んでいた。 「それじゃ、これとこれ、それからあっちの木の三つを目方で買いたい。ジャクの欠片もひと瓶欲しいな」 「はい、目方、重い軽いですね。 香ほづ木売りと異人は滞りなく商談を進めていた。針葉は離れたところで足を止め、辺りに並ぶ品々を眺める。 「三持てますか。あなた、前、小さな木が二で大変でしたね」 「平気平気、今日は若いのが手伝ってくれるから。なあ」 「はいよ、いくらでもこき使ってくれ」 針葉は緩く手を上げて答える。紅砂は答えない。じっと異人を見つめている。香ほづ木売りが紅砂を振り返り、つられて異人も顔を上げた。青の目が互いを見る。紅砂は口を開いた。 「久しぶりだな」 異人は紅砂を凝視し、ふっと首を傾げた。 「私、あなた知らない。間違いですね」 「ああ、異人ってのは俺らにゃ同じ顔に見えるからなあ」 「人違いじゃない。お前はネイトだろ。旧上松領に忍び込んで番人に捕まった!」 紅砂はつかつかと歩いて異人の襟首を掴んだ。異人が目を剥く。その頬には怯えが浮かんでいた。 「こっちを覚えてなくても無理ない、手燭の灯り一つで一度会ったっきりだ。でも俺はお前を忘れない。お前が大手を振って船に乗り込むのをずっと見てた」 「 「自分の国で処罰を受けるって話だったな。でもあのおっさんは、あんたと二年近い付き合いだと言ってた。あんたが釈放されてすぐだ。どういうことだ? あんたを匿ってた山吹を含め、女二人が獄中で死んだ。分かるか、死んだんだ! なんであんたが懲りずに同じ商いをしてる!?」 ネイトはぎりぎりと締め上げられ、しかしふっと口を歪めて笑った。 「私は私の商いをするだけです。 ネイトの体が吹っ飛んだ。けたたましい音を立てて木箱が倒れ、割れた酒瓶からどくどくと中身が溢れ出す。 腫れ上がった頬を押さえて起き上がったところに、瓶の欠片を蹴散らして紅砂が近付いた。 「ひ……っ」 紅砂は逃げ出そうとする茶色の髪をむんずと捕まえて、床に首根っこを叩き付けた。両手首をもう片方の手で固め、腰を膝で踏み付けると、ネイトは地に全身を着けたまま動けなくなった。 次第を見ていた針葉は眉を寄せ、酒でできた水溜まりの前まで近付いた。 「おい、事訳しろ。つまりこいつは……まさか、早売りに出てた異人ってことか。異国見世から脱走したっていう?」 「そうだ」 「で、お前らは顔見知りだったと?」 「そうだ」 「で、女が死んだって……それも早売りに書いてあったことだよな。その女ってのはお前と恋仲だったのか」 紅砂は答えなかった。しかしその目が物語る、その女が彼にとってどれほど重い存在だったのか。 香ほづ木売りは長く息を吐くと、額に手を当ててうつむいた。 「おいおい、何なんだよ……確かにそんな騒ぎも聞いたことはあるが、まさか……。俺はただ仕入れに、……くそっ」 「悪いな、おっさん。けじめだけは付けとかなきゃいけない奴なんだ」 紅砂はネイトの腕を更に強く締め上げた。 「話してもらおうか、お前は旧上松領で何をしていた? お前の国の狙いは――あの特使たちの目的は何だ。お前は今ここで何をしている」 「 更に強く腕が締められ、ネイトの顔が歪む。 「……私あなたに話しましたね、 夜陰、夜陰、夜陰。彼に引き合わされたあの夜から付いて回るこの言葉。紅砂はぎりと歯を食いしばる。 「悪いことしてないって? お前は知ってたはずだ。おっさんに売るとき、夢を見る葉だと警告しただろ」 「夢を見る……カゾですか? ん? あなた夜陰はカゾだと思ってる?」 「……夜陰は、薬草や毒草を指すんだと……」 ネイトは笑い、大八車をわずかに動く顎でしゃくった。 「あれが夜陰ですよ」 紅砂は困惑した。困惑しつつも針葉に視線を振り、針葉は酒の浸った床を踏んで車の荷台に近付いた。その手が隅に残ったものを取る。 「黒い……石?」 複雑に割れた断面は密が詰まり、光を跳ね返して照り輝く、しかしそれはただの石の欠片だ。夜のように真っ黒い、ただの石―― 「煙が出ない、とてもいい石です。それは船を動かす、鉄の車を動かす、強い鉄を作る、人と荷を簡単に運ぶ。手に入れた人が勝ちですね」 ネイトの軽い口調が却って不気味だった。 石。黒い石。それを掘る。その言葉を何度か聞いた。 山の一帯が丸々国のものになった、徴用された人々や日銭に飛び付いた人々が日がな一日掘っている、お上の息のかかった石堀り場でカゾが使われている。カゾは苦痛を取り除く。苦痛を忘れた人々は、まやかしの多幸感を胸にまた石堀り場へ向かう。 足元がぐらりと揺れるような感覚が紅砂を襲った。 飛鳥がその地を我が物とした理由も、ネイトが求めていたものも、特使たちが交渉しようとした目的も、それだった。だとするなら。 突然、重い音と呻き声がした。 振り返った針葉は倒れる香ほづ木売りと、その背後に人影を見た。腰に手をやる、駄目だ、得物が無い。――がん、と目の前が光った。 身を起こした紅砂も、頭に一撃を受けて倒れ込む。三人の元へ歩み寄る足音。 いつしか蔵の中には人が集まっていた。 戻 扉 進 |