紅砂と香ほづ木売りが来た数日後のことだった。夕方、黄月は手伝いの二人が辞去するのを狭い庭から見送り、まだまだ暮れそうにない空を見上げた。夏至まであと半月、日はどんどん長くなる。
 戸ががたんと鳴って、そちらを見ると見送ったばかりの雅文だった。
「雅くん、どうした。忘れ物か」
「い、いえあの、妙な奴がずっとここを見張ってて……。邦ちゃんは帰したんですけど、先生にひと言知らせねばと戻った次第です」
「見張り?」
 手を洗って戸を開け、辺りを見回す。「あれ、あれ、あっちです」雅史が小さく指した家の陰には、決まり悪そうな顔の香ほづ木売りが立っていた。
「む、む、無宿人でしょうか。番人を呼びましょうか」
「いや、知り合いだ」
 雅文を帰らせ、黄月は片手を上げて知らせた。香ほづ木売りは小さく頭を下げて歩いてきた。
「すまんな。あの坊主が帰ったら立ち寄るつもりだったんだ」
「どうされました。まだ続きの話でも?」
 あの日、全て語り終えた彼は暗い顔で立ち去った。坡城の滞在は数日だと言っていた。もうここには来ないだろうと黄月は踏んでいたのだが。
「俺は明日の朝の船で津ヶ浜に帰る。その前に、嬢ちゃんの顔だけ拝んどきたかったんだ」
「暁ですか。差し出がましいようですが、暁が先日の話を聞いて喜ぶとは思いませんよ」
「分かってる。遠くから一目見るだけでいいんだ」
 黄月は空を仰いだ。青みが薄れてきたが、夕焼けにはまだ遠い。あの坂を上って下りて、飯時には多少遅れるが仕方ない。
 隣宅の里にひと言かけて、黄月は香ほづ木売りを伴い歩き出した。
「悪かったな。もう一人の兄ちゃんに頼もうかと思ったんだが、居場所が分からんでな」
「家は同じですよ。あいつもこの坂を上った先に暮らしています」
 坂の終わり、あと一歩で家の全貌が見えるというところで黄月は足を止め、下草の中に踏み込んだ。木の幹に隠れて様子を窺う。暁の部屋の障子は開け放たれているが、本を並べて寝転がった睦月の姿しか見えない。
「暁はどこだろうな。暁の息子ならそこにいるんですが」
「あ、あれか! そうか……本なんか読めるくらいでかく育ってるんだな」
「いえ、あれはまだ眺めているだけですね。仮名は数えるほどしか覚えていないので」
 黄月の無粋な訂正など耳に入れず、香ほづ木売りはじっと睦月を見つめたのち目を逸らした。
「ここ数日、商いがてら昔の仲間に聞き回ってたんだよ。今、旧上松領じゃ現にカゾが使われてる。そいつらはどうなったのか。……旧上松領の市で商いをしてた奴がいて、廓に行ったこともあったそうだ。敵娼あいかたは終始愛想がよくて楽しげだったが、ちっとばかし、まあ頭の足りん感じがしたと。酌をしてくれた別の女も同じで、客を取る前から酒でも飲んでるのかと思ったって。何度か通ったが、どの女に当たっても同じで、さすがに不気味になったらしい」
「そうですか。……暁に関して言えば、そういう向きはありませんね。ひと晩明ければ元通りでした。使い方の違いでしょうね」
 黄月は家を睨む。縁側に現れた影は紅砂の女だ。小間物屋から帰っていたらしい。彼女は睦月と何事か話してまた消えた。暁の姿は現れない。厨で飯の支度をしているのかもしれない。
 家の中に入ろうか迷ったそのとき、戸が開いて桶を持った暁が姿を見せた。水を汲みに出てきたらしい。
「嬢ちゃん……元気そうだな」
 たすき掛けできびきび働く姿を見ていたところへ「おい」と声が掛かり、香ほづ木売りはびくりと体を震わせた。振り返ると、目付きの悪い男が怪訝そうに二人を見ていた。
「黄月かよ。んなとこで何してる、上がりゃいいだろ。……おい、そっちのおっさん」
 針葉はぐぐっと体を伸ばし、黄月の陰にいる香ほづ木売りを認めると、ずかずかと下草を踏んで彼の肩を強く叩いた。
「おいおいおいおっさん、久しぶりだな。どうした、覗きか」
「なんだ針葉、お前も顔見知りなのか」
「そりゃあ。もう何年前かな、このおっさんの舟に相乗りして飛鳥に行ったんだ。ほら、浬と暁を連れてったときだ。ふた月そこらは一緒に動いてた」
 黄月は眉を寄せて二人の顔を見比べる。はっきりとは思い出せないが、暁がこの家に来て間もない頃だったから随分昔の話だ。
 針葉は旧交を懐かしむように香ほづ木売りの肩をまた叩く。
「それからも、暁の付き添いで境に行ったとき何度か顔合わせたよな。えーと、おっさん何売ってたんだった?」
「いや、すまん、俺はそろそろ……」
 香ほづ木売りが顔を背け、その場を立ち去ろうとした、そのとき。
「何してるの」
 女の声が紛れ込んだ。香ほづ木売りはそろりとそちらを向く。遠目に眺めていたはずの暁が、すぐそこにいた。暁も香ほづ木売りを目の前にして息を呑む。
「どう……されたんですか」
「あ……いや、近くまで寄ったもんでつい、その……。……じょ、嬢ちゃん女らしくなったなあ! 見違えたよ。それに子も産んだんだって? へへ、俺も歳取るはずだよなあ!」
 気まずい空気を振り払うように香ほづ木売りは無理やり声を張り上げた。暁は眉をひそめながらも口元だけで笑う。
「どうも。……折角来ていただいたんですが、私は小藤は買えません。もう雨呼びはしないと決めたので」
「いや、売りつけようってつもりじゃなくて、本当に顔だけ見られればと……うん、それじゃ俺はこれで……」
 香ほづ木売りはくるりと踵を返して草の中を行く。三人の視線を浴びながら、しかしその背は数歩で止まった。震える拳。彼はまたざかざかと草をかき分けて、目を丸くしている暁の前にひざまずいた。
「嬢ちゃん、すまん!」
 草に首を垂れて彼は語った。数日前に黄月と紅砂に語ったことを、もう肚には留めておけぬというように。
 空は暮れ始めていた。
 暁は表情を変えることなく、ただそこに立って香ほづ木売りを見下ろしていた。まだ彼の口は動いていたが、暁は途中で話を遮った。
「ここへ来られた経緯は分かりました。でも、だからと言って何のために? 旧上松領で起きていることを止めろとけしかけに?」
「い、いや、そんなつもりは……ただあんたに事訳をと」
「カゾの毒のことは既に黄月から聞いています。それに関してあなたが私に頭を下げるのは筋違いだと思います」
「……え?」
 香ほづ木売りが顔を上げる。
「虫の匂いを取る草だと、あなたはそう思っていたし私もそう聞いていた。私が勝手に飲んだんです。それに、子が流れたことに関しても関わりがあるとは言い切れないでしょう。その時期に身籠った睦月は丈夫な子だし、産んだ後は一度も雨呼びをしていません」
「そりゃそうだが……」
「ただ、……正直なところ歓迎までする気にはなれません。夕餉の支度が残っているので失礼します」
 母の姿が外にあると気付いて、睦月が暁を呼んだところだった。暁は小さく頭を下げて三人に背を向けた。
 針葉が深く息を吐き出した。
「そっか、結構前に織楽が言ってたやつか。暁が何か妙なもんに手ぇ出してるって」
「二度だけだ。二度目も睦月を産むよりずっと前だった。心配ない」
「そりゃいいんだけどよ。……まあそういうわけだからおっさん、もうあいつに顔見せないでくれるか。悪いけどよ」
 香ほづ木売りはよろりと立ち上がった。くたびれた着物の両膝が土で汚れていた。彼が射貫くように見るのは針葉だ。
「腹の子が流れたこと……嬢ちゃんは関係ないっつったが、本当にそうなのか? カゾのせいじゃないって言い切れんのか」
 彼は縋るように針葉の襟元を掴んだ。すぐに払われる。
「うるせえな。んなこと、もうどうだっていいんだよ」
「なんで。嬢ちゃんの男ってのはお前なんだろ。手前の子でもあるんだろ」
「子は望まない。もう決めたんだ。腹に入るたび流れてちゃあいつがもたない」
 激情を押し殺した声だった。黄月が目を見開く。香ほづ木売りは悔しげに首を振った。
「もしカゾのせいなら……手立てがあるかもしれないってのに?」
「……は?」
「聞いたんだよ。カゾの毒は治せる。カゾの蔓延してる廓から身請けされた女は、毒を抜いてから外に出たって話だ。お前が望むならもっと詳しい話も聞ける」
 針葉の瞳が揺れた。険しい顔で香ほづ木売りを睨み付け、歯をぎちと食いしばって顔を背ける。
「んな噂話に縋るかよ。あいつは……暁は、親の代から子が流れたり畸形が多かったりしたんだとよ。血筋だ。どうしようもないんだ」
「あの嬢ちゃんの親ってことは雨呼びをしてたんじゃないのか。カゾの毒を飲んで」
「んなこと俺が知るわけ……」
 ――槙野殿は不憫な方だった。心を病まれ、年に四回の雨呼びを心の支えに生きておられる有様だった。
 いつかの牙の話だ。針葉は絶句した。そうだ、暁の母、十四もの不幸な命を宿したその人も、雨呼びを行っていた。それも、暁よりもずっと長きに渡って。
 葉擦れの音が風に沿って流れていく。
 腹から押し出すように苛立った息を吐き、針葉は前髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「ようやく! ……ようやく諦めがついたとこだったんだ。なんで……」
 幹に片手を付いてその場にしゃがみ込む。しばらくしてぎろりと開いた目は、暮れなずむ山の中にあっても鋭かった。
「今の話、暁にはするなよ。黄月、お前も」
「針葉、お前どうする気だ」
「分からん。……ちょっと考えさせてくれ」
 香ほづ木売りは針葉の視線を受けて頷いた。
「俺は明日の朝にゃ津ヶ浜に戻るが、下旬の船でまたこっちに渡る。西の通りの湊屋って、医者の兄ちゃんなら分かるよな。あの近くの宿にいるから、必要なら声掛けてくれ」
 じゃあ、と小さく声を掛けて踵を返した彼は、すぐに小さな悲鳴を上げた。そこには仕事帰りらしい紅砂の姿があった。
「あ……悪い、なんか入りにくかったもんで」
「いや、説明の手間が省けた。俺も下る。また改めて」
 紅砂は持っていた提灯を黄月に手渡した。黄月は香ほづ木売りに追い付き、灯りを揺らしながら暮れきらぬ山道を下っていった。



 明日は港の廓に出向く日だ。里は小箪笥から切絵図を取って広げ、行く店の場所を確かめた。また元の場所に戻して文机の前に座り、ふっと肩の力を抜く。
 明日は心が擦り切れる日。そう分かっているから今日は、急な産でもない限りはゆっくり過ごすつもりでいた。
 目を閉じる――ふと浮かんだのは先日の隼太とのやり取りだった。
 彼の吐露した想いを聞いて、いつぞやの疑問は解消した。里の拒絶は許容したのに、外で女を作るよう提案したら激怒した一件だ。結局彼は、里の意思で決めたことには寛容だが、自身の想いを安く見積もられることは耐えられないのだ。さもありなん、あれほどの積もり積もった想い。
 そう、彼の想いはひたむきで健気で、重い。
 あれから何度か彼の言葉を反芻した。あの熱のこもった目を思い出した。受け流すのは楽だが卑怯な気がした。
 彼の話を自分に置き換えて想像するとこうだ。
 自分の進むべき道を指し示した異性がいたとする。男女の仲を願うのもおこがましいほど眩しい、敬愛すべき相手。ただ力になれればと健気に想い続けて八年、その相手に困難が訪れ、もっと近くで支えたいと婚姻を申し出る。相手はそれを受諾する一方で告げる、「でもお前を抱くことは一生ないし、お前の子などいらないよ」。それを呑んで一緒になるものの、わずかばかりの期待は捨てられない。しかし相手は他の男と遊んで欲求を満たせと言い、離縁をちらつかせる。せめてもと口吸いに持ち込めば噛み付かれ逃げられるのだ。
 目を開ける。
「むごい……」
 ……なんとむごいことを。
 一気に心が重くなり、頭を抱えてうつむいた。
 しかしそれは確かに里がしたことなのだ――自分への買いかぶりが多々あることは置いておくとして。
 彼の熱意に流されてしまうのは簡単だが、後戻りはできなくなる。彼と里とで決定的に違うのは、当然だが彼が男で里が女ということだ。身籠ってから産むまでの負担や危険は全て里の身に降りかかる。
 いつか彼にした話は単なる言い逃れではなかった。この地域には産婆が足りない。廓で女郎を診るだけならともかく、産を取るのは体への負担が大きい。産気付いた女がいれば夜だろうが駆け付け、長ければ数日付き添うことになる。身籠った体でこなせるとは思えない。そのうえ母のように難産で命を落としたら。
「堂々巡りだわ……」
 結局このままの膠着状態を続けるのだろうか。
 重い考えを振り切って茶でも淹れようと立ち上がったところで戸を叩く音がした。
「里さん、いらっしゃいますか」
 隼太が雇っている娘だ。「はいはい」里は土間に下りて戸を開けた。
「あの、先生の知り合いだってお客さんなんですけど、先生が今出てらっしゃって。それで、あの、届け物だそうなんですけどいいですか」
「ありがとう、代わりに受け取っとくわ」
 豪胆な娘のはずだが今日は妙にそわそわしていた……と不思議に思えば、頭を下げて現れたのはとんでもなく顔立ちの整った男だった。そこだけ絵から抜け出してきたように涼しげだ。里は目を丸くする。
「すんません、夏芝居の絵ぇが刷れたんで貼っといてもらお思て」
 顔に見合わず気安い口調だった。その訛りで思い当たるのは一人、里はぱんと手を打ち鳴らした。
「あ……ああ! お爺ちゃんのお気に入りだった子?」
「うわ、やめてぇ。その覚え方鳥肌立つわ」
 彼が渋い顔で耳を塞いだので里はふっと噴き出した。
 彼は季春座の織楽と名乗り、手に持った色刷りの芝居絵を二枚差し出した。
「良かったら産婆さんも貰ぉといてください」
「あー、うちに飾っても人目に触れるわけじゃないんだけど……娘が喜ぶかしらね。ありがたくいただきます」
 芝居絵を受け取って板間に置く。織楽は敷居を跨いで人懐っこく話を続けた。
「娘さんて喋れへん子? もう大きならはったでしょうね」
「今は九つ。知ってるの?」
「黄月んとこで時々預かってたから。何か喋りかけたらぱぱっと指で答えてくれはって、利発そな子やったわ」
 里はふっと笑って薬缶を振り返った。再び織楽を見ると、芝居絵の束でぱたぱたと首を煽いでいる。夏至まであと数日のこの時季、絵を配って歩き回っていたなら汗もかいただろう。
「良かったらお茶でもいかが?」
「うわ嬉し。お言葉に甘えて遠慮なく」
 織楽は戸を開け放ったまま畳に腰掛けた。下駄の足は土間に下ろしたままだ。二人分の茶葉を急須に移していた里は、ふと視線を感じて顔を上げた。織楽も身を捩って興味深げに彼女を見ていた。
「ええ簪やね。似合てはる」
「どうも」
 飾り物に目敏いのは役者だからか。里は髪に挿していた簪にそっと触れる。織楽はにやにや笑みを浮かべたまま親指で壁を示した。
「さっきの子ぉな、こっちに連れてくる前、お内儀に繋いでくるわ言うたはってん。まさか思うけど……黄月と一緒にならはったんですか」
「ああ、はい。ご挨拶が遅れまして」
 さらりと返した里だが、対する織楽の反応は強烈だった。形の良い目を見開くとともに眉を高々と上げて顔じゅうで驚きを示し、
「う……っそやぁ! ほんまですか! えーほんまに! 何っやねんあいつ何も言わんと!」
 身を乗り出したかと思うと勢いよく突っ伏し、悔しげにばんばんと激しく畳を叩いた。
「俺という! 男が! ありながらぁ! 何の相談も報告も無しに! どういうこっちゃねんあの阿呆!」
 ぽかんと見つめる里の前でひとしきり騒ぎ、彼はふと顔を上げた。
「あ、こういう乗りはあかん人ですか」
「えーと……まあどうぞ、面白いから続けて」
「うっわ余裕やん」
 さっきまでの大騒ぎが嘘のようにからからと笑い、織楽は身を起こした。
「冗談冗談。産婆さんやったら大丈夫やわ」
「大丈夫ってどうして?」
 里はぬるめに淹れた茶をとぽとぽと二客の湯呑に注ぎ分ける。
「だってあいつ、産婆さんの自慢めっちゃしてたもん。自分の生き方を変えてくれた人やとか、まあ小っ恥ずかしいことばっか言うて」
「ああ、そう……なの」
 里は盆に茶托と湯呑を置いて織楽の前に出す。自分の褒め言葉を他人づてに知るのは心がむずむずと落ち着かないもので、面と向かっては聞けなかったが織楽の声は嬉しげだった。茶がごくりと喉を流れる音。
「ほんま良かった。このまま独り身貫くんか思てたから」
「そう? 隼くんってそんなに奥手じゃないでしょ」
「そら男やもん、ちょっと遊んでみたりはするやん。うん、ちょっとか? いや、まあええわ。けど心底惚れた相手とは一緒になられへんのやーてぼやいてたで」
 訝しげな里の視線を受けて、織楽は「あ」とわざとらしく口に手を当てた。
「これ言うてええんかな。まあええか。あんな、黄月の色恋は不毛やねんて。俺が勝手に言うてんのちゃうで、あいつが自分で言うててんから」
「不毛って?」
「あいつの好きになんのてどんな相手か分かる? こう可愛らしい、なよなよーっと女女したのはあかんねん。全っ然あかん。あいつが心底惚れ抜くんは情が強ぁて一本芯の通った相手でな、つまりあいつ無しで生きていける人やねん。な、不毛やろ」
 織楽はきゃらきゃらと無邪気に笑う。その笑顔を見ていると引っ掛かった棘も吹き飛んでしまい、里は苦笑いして茶を飲むしかなかった。
「……まあ私は間違っても可愛らしくはないけど」
「せやろ」
「でもそうはっきり言われると複雑だわ」
 織楽はまた湯呑を取った。覗く口元がにやにやと嬉しげに笑っている。
「せやけど産婆さんは黄月と一緒になったったんやろ。ようやく成就してんやん。めでたいこっちゃ。末永く一緒におって幸せにしたってな」
 答えに詰まった。彼の瞳は疑いなくきらきら輝いている。里がしたことを知れば彼の顔はどれほど曇るのだろう。
「私と一緒にいたところで幸せとは限らないわよ」
「何や後ろ向きやなあ。んなわけないて、産婆さん黄月が選んだ人やん」
 茶を飲み干すと織楽は芝居絵の束を持って立ち上がった。
「ほな御馳走になりました。夏芝居は安ぅ入れるし、良かったら娘さんも一緒に観に来てな」
「ええ、どうも。頑張ってね」
 里は表に出て織楽を見送り、戸を閉めて空の湯呑を片付けた。騒々しいがからっと気持ちのいい人だった。その一方で胸のつかえが消えないのは、改めて突き付けられたからだ。
 隼太の幸せを願う人がいる。だが隼太にとってこの膠着状態は生殺しだ。幸せとは言えない。
「……どうしたもんかしら」
 答えは出ないがそろそろ昼時だ。ぐちゃぐちゃの考えを一旦放って里は土間に立つことにした。
 行き詰まった頭の中は熱でも籠っているのか、ぐらりぐらりと揺れるようだった。



「来月から櫂持ち業は空けた」
 針葉から突然言われ、紅砂は箱膳を拭く手を止めた。
 夏至を数日過ぎた夕、飯が終わり片付けをしているところだった。女二人と睦月は器を運んでいったところで、部屋には針葉と紅砂の二人が残っていた。
「いきなりどうして」言いかけてはっと今日の日にちを思い出し、「……おっさんに会いに行ったのか」
 針葉はちょいと眉を上げただけだった。
 あれは月初めの五のつく日、紅砂が按摩取として徳慧舎の野川翁を訪ねた帰りだった。
 家まであと少しという山道の脇で男三人がたむろしており、そのうち一人は数日前に見た香ほづ木売りだった。緊迫した会話が続く中では足音を立てることも憚られ、幹の陰で一部始終を聞くことになった。
 ――子は望まない。もう決めたんだ。
 針葉の悲痛な声はまだ耳に残っている。
 数日後に黄月が家を訪れ、互いの知ることを共有する機会があったが、その場でも針葉の表情は晴れず迷っている様子だった。それから数日、同じ家で暮らしていても香ほづ木売りのかの字も出なかったものだから、紅砂も失念していたのだ。
「津ヶ浜の離島から船が着いたって聞いて、仕事終わりにな。おっさんと色々話したが、結局は話の大元に聞きに行くのが確かってことで、津ヶ浜に渡ることにした」
「津ヶ浜か……」
 紅砂は再び布巾を持った手を動かして考え込む。
 港番への上申書を書くにあたって、紅砂も津ヶ浜の離島に渡ったことがある。もう二年も前のことだ。
「それで紅砂、お前に留守を……」
「俺も行こうか」
 唐突な申し出に針葉は目を剥いた。
「津ヶ浜の離島な……。前に一度だけ行ったことがあるが、あそこは異人の居留地と成り果ててる。何か探るんなら俺の方が適してるだろ。少しは言葉も知ってるしな」
 なにせ紅砂は、野川翁に島生まれの島と名乗っている自負がある。按摩取として目を閉じて入り込むための苦肉の策だったが、以来二年半、一度も疑われたことはなかった。
 針葉は彫りの深い顔をまじまじと見て肩をすくめた。
「その顔で言われると妙に納得しちまうな。……でも船の都合があるから一日二日じゃ帰ってこれないぞ。安全とも言い切れない。そこまでしてもらうのは」
「針葉のためだけってわけじゃなく。前の舶来市で買いそびれた本があるんだ。静さんの祖父さんに頼まれたんだけど」
 顔を曇らせていた針葉は、そこでようやく口元に笑みを浮かべた。
「ああ、前に言ってた強烈な爺ぃか」
「そうそう、今日歩けるようにしてくれ、の祖父さんだ」
「んで? それ買ってったら攻勢に出られんのかよ」
「きっとな」
 二人して笑っていたところへ重ねた器を持った静が現れて、怪訝な顔で去っていった。紅砂は器を箱膳の中に仕舞っていく。最後に針葉が膳を重ねて部屋の隅に置いた。
「でもそうなると、この家はどうするかな。女子供だけ置いてくのはさすがにな」
「静さんはあくまで仮住まいだから。西にきちんと自分の家があるし、祖父さんに恩を売るためなら分かってくれると思う。問題は暁と睦月の行き場だ」
 針葉はがりがりと頭を掻いて、廊下を通り過ぎようとしていた二つの足音を呼び止めた。

 月が替わって、津ヶ浜の離島への船が出る日となった。
 津ヶ浜は坡城、壬、峰上の西に位置し、国の西から南は全て海だ。その海に大小の島がいくつも浮かび、島だけで国土の一割を占めるとも言われる。
 だが数多ある津ヶ浜の離島のうち、他国である坡城と行き来する船が出るのは通称「大島」のみだ。その名のとおり離島の中では一番大きな島で、坡城最西端の沖合にぽかんと浮かんでいる。坡城びとがその他の離島に渡るには、大島で調べを受けたのち、月に二度しか出ない小舟に乗り換える必要があるという。
 香ほづ木売りと紅砂は旅支度に身を包んで港の船着き場で針葉を待った。
 周りには同じく船を待つ客がたむろしていた。青物や織物、丸太など山のように荷を背負った者も多い。
 潮風が吹く。船出を前に港守りと船守りが慌ただしく動き回り、その向こうでは帆を張った船が一隻、波に合わせてゆらりゆらりと上下していた。
 船出までもう間もなくとなったところで、ようやく針葉が姿を見せた。
 針葉は二人のもとへ駆けてくると、腰を折り曲げて荒く息をした。首元で結んだ背中の荷が息とともに大きく揺れ、汗がぽたぽたと地面に落ちた。
「悪い、遅くなった」
「ちゃんと預かってもらえたか」
「ああ」
 結局、暁と睦月は菱屋に身を寄せることとなり、針葉は今しがた二人を送ってきたところだった。
 暁は物言いたげな顔だったが、はしゃぐ睦月を見て思い直した様子で、こんな大店なら何か仕事があるだろうと張り切っていた。恐らく黒烏たちは慌てて止めるだろうが。
 ――菱屋なら、暁の居心地はともかくとして、他のどこに置いておくより安全だ。
 針葉は息を落ち着け、腰に付けた吸筒すいづつの水をぐいと喉に流した。
「今飲み過ぎるなよ。海の上じゃ水は貴重だ」
 船旅に慣れた香ほづ木売りは大きな吸筒を三本ぶら下げていた。
 やがて船守りが声を上げ、たむろしていた船客たちがぞろぞろと動き出した。
「海を渡る船か。見事なもんだな」
 櫂持ちを当面の生業としている針葉は、自分の川舟の数倍はある渡海船を興味深げに眺めた。
 やがて船守りの掛け声を受けてもやいが解かれ、船は島へ向けて泳ぎ出した。