その日、隼太と里は揃って予定を空け、ゆきの通う筆学所へ様子を覗きに行った。
 机が雑多に並んだ中に、年齢も性別も様々な子供が数十人。机に向かう子もいれば床に寝そべって本を読む子、隣にいたずらを仕掛ける子もいる。ゆきはその中では幼い部類だったが、きちんと机に向かって本をめくり、手元の紙に何か書き付けている。声を持たぬ彼女の机にはとりわけたくさんの紙が用意されていた。
 話せない一方で彼女の右手は雄弁だった。部屋を見回る師匠を呼び止めては書き付けを指して何事か尋ね、友人らしき子に耳打ち話をされては筆でさらさらと答えを書き、小さな肩は絶えず揺れていた。
「楽しそうでしたね。見に行った甲斐があった」
「本当に。安心したわぁ。改めて、行かせてよかった」
 帰り道の里は機嫌よく足取りも軽く、折角の二人歩きだというのにこのまま間地の狭い長屋まで帰ってしまいそうだった。隼太は大通りに差し掛かったところで足を止めた。
「里さん、今更ですが何か欲しいものはありませんか」
「欲しいもの? 大抵は間に合ってると思うけど……あー、油がそろそろ少なかったかな。お茶っ葉も買わなきゃと思ってたのよ。他には何かあったかな」
 指を折りつつ考える里を隼太は手で制した。
「油、茶葉。分かりました買っておきます。でも俺が言ったのはそういうことじゃなく」
「助かるわ。あ、お茶は小川園のでお願いね」
「小川園。分かりました。ところで里さん、俺が言ったのは飾り物や着物の類です。ゆきには買ってやってるけど、里さんは一つも欲しがらないでしょう」
 里は理解できない言葉を聞いたかのようにぽかんとした顔で足を止めた。
「欲しがるってどうして。あなたに養ってもらってるわけでもないし、買ってもらう義理なんか無いわよ」
「義理? 義理って何ですか、よそよそしい。仮にも籍を入れた仲、ゆきの様子を一緒に見に行く仲じゃないですか」
 仮にね、と喉まで出かかって里は唇を結んだ。彼の場合、その手の煽りは話が長引いて面倒だ。
「まあそうだとしてもよ。着物なんてあるので充分だし、この歳になって飾り物なんて」
「十年前だって簪一つ挿していなかったように記憶しています」
 う、と里は言葉に詰まる。これだから下手に付き合いの長い男は。だいたい十年前と言えば彼は十やそこらだ。師匠の隣家とはいえ年上の女の頭になんぞよくも一々気を回して――
 隼太が里の手を取った。
「言い逃れは無しです。行きましょう」
 有無を言わさず引っ張って行かれたのは裏通りにある小間物屋だった。紺暖簾には花のような紋様と屋号であろう「くれなゐ屋」の文字が白く染め抜かれている。その奥には所狭しと物が積まれ、吊るされ、並べられていた。
 あ、と店の中にいた静が出てきて会釈した。
「こんにちは、ご夫婦お揃いで」
「どうも。じゃあここが花ちゃんのお店?」
 その背を押したのは隼太の手だった。
「この人に合う飾り物を見立ててもらいたい」
「んー、ざっくりしてますね。飾り物といっても幅広いですけど、例えば?」
「里さんに似合うもの、釣り合うものかつ欲しいものならこだわらない。糸目はつけないが、くれぐれも質の良いもので」
「お任せあれ。じゃあ色々合わせてみましょうか」
 あれよあれよという間に里は店の奥へ引っ張られ、板間に敷いた座蒲団に腰掛けて鏡を持たされた。簪や笄、櫛、それぞれ多種多様な素材に色合いのものを静が盆に並べて見せに来る。いくつかは静が里に合わせた時点で選外となり、いくつかは里が気に入らず選外となり、残ったものを静が再び里に合わせ、髪を結い直してまた合わせる。
「んー、簪なら平打一択ですよねえ。蒔絵より銀かな。里さんに合わせるとなると、私としては粋なのをお薦めしたいんですよね。一見地味に見えて実は手の込んだ作りっていう。透かしとか選んでみます? 櫛なら、模様の好みはありますけど蒔絵にちょこっと螺鈿が入ってても素敵ですね。鼈甲の飴色も映えるなあ。飾りより実用なら柘植なんですけど」
 静は時折入ってくる客を捌きながら次から次へと飾りを持ってくる。里は客から視線を投げられるたび居心地の悪い思いをした。静のお喋りも上の空で聞いた。飾り選びが長引いたので途中からは子を背負った紅花が店に立った。更に肩身が狭くなる。隼太は初めは背後の部屋で話していたが、今は店の中をぶらぶらとうろついていた。
「適当に選んでもらえる? 高すぎなければどれでもいいから」
「絞り込むまでは私がしますけど、最後は里さんが選んでくださいよ。里さんのものなんですから」
「私が欲しいって言ったんじゃないのよ。何か知らないけど無理やり連れて来られて」
 困り顔で溜息を吐く里を、静はまじまじと見つめた。里も視線に気付いて眉をひそめる。
「何?」
「こんなこと聞くのも何ですけど……もう襲われちゃいました? がばっと」
 二の句が継げない里に、静はいつぞやのように両手を上げて抱き付く振りをした。
「その顔はまだですね? んー、意外と我慢強いな。でも然りってやつですね。だってほら、ゆきちゃんのために籍を入れるだなんて言ってましたし、祝言も上げてないんでしょ。だから隼さんは行動に出たわけですよ。櫛簪という女の命の髪に日々触れるものに自分の爪痕を残そうと」
「爪痕」
「まあ今のはあたしの誇張ですけど。よく言えば誠意ってことですよ。尚更きちんと選ばなきゃ」
 静の言葉を信じるなら、これは祝言の代わりなのだろうか。彼の好意を受け取ったことになる? 里はまた視界が回るような据わりの悪い浮遊感を覚えた。
「尚更流されちゃいけないんじゃないかしら」
「何言ってるんですか。誠意を受け取って、その後どう煮るも焼くも里さん次第ですよ。それに見てください、こんなにたくさんの飾り物に囲まれて、うきうきしません? 一つも手に取らないなんて勿体ないでしょ」
 里は改めて盆を見た。静が選び抜いた精鋭たちが澄ましてそこにいた。
「どれも皆、名のある細工師が一本一本魂込めて仕上げたんですよ」
 落ち着いた色合い、煌めきも控えめで、その分手が掛かっている。里は吸い寄せられるように一つの簪を手に取った。
「……確かに素敵ね」
「挿してみます?」
 里は自然と頷いていた。静の手によって簪はきちりと黒髪の中に沈み込み、花と葉の形の透かし彫り、露に見立てた微細な珠が、鏡の中で鈍く輝いた。
 綺麗だ。ふっと笑みが漏れた、そのとき。
「隼さーん。見てください」
 静が腕を振って隼太を呼んだ。ぎょっと目を剥く里のもとへ隼太が歩いてくる。
「気に入ったものはありましたか」
「気に……というか、その」
「似合うでしょ? 大人の女を引き立てる落ち着いた深い輝き、息のかかる近さでは目を瞠る精緻な細工。里さんの髪を彩るに相応しい逸品です。ささ、どうぞ近くで」
「ちょっとあなた、何を」
 はっと隼太の影に気付いた。彼は板間に片膝を置き、身を屈めて里の顔と簪を見比べていた。かっと頬が染まって言葉が出なくなる。
「いいですね。よく似合ってます。それに決めていいですか」
「あ、……はい」
 隼太の満足げな顔には何の裏も感じられず、それが里には妙に悔しかった。

 里は簪を挿したまま帰路についた。一つ飾りを入れただけなのに背すじが伸びた。身が引き締まる気がする。ふと横を見ると隼太が相変わらずの満足顔で彼女を見つめていて、里は面映ゆく顔を逸らした。
 絆されない、絆されない。いつか口にした言葉を心の中で繰り返す。
「ねえ、この簪ってあなたにとって爪痕なの」
「はい?」
 しまった、言葉を省略しすぎて訳が分からない。里は首を振ってごまかす。隼太は何か思い当たった様子で「ああ」と頷いた。
「下心が一切無いわけじゃないですよ」
「……何よ」
 まさかこれを付けて夜半に忍んでこいなどと言うまいな。下世話な警戒をした里に、隼太は長い指を一本ずつ立てながら、
「受け取ってもらえたことで一つ、身に付けてくれていることで一つ、照れた顔が見られたことで一つ。贈った甲斐がありました」
 ……こういうときの彼は、まるで十そこらの少年のような純粋な顔を見せる。もう出会った頃の幼い彼ではないのだと警告の鐘が鳴る、その音をすり抜けて、心がまた惑わされる。
「大袈裟よ、受け取っただけで」
「身に付けるものを贈って、受け取ってもらう。ただそれだけのことがどんなに困難か、里さんには分からないでしょうね」
「やけに突っかかる言い方するじゃない」
「例えばこれが五年前ならどうです。十年前なら。里さんは歯牙にもかけなかったでしょう」
 そりゃそうよ。言い返そうとした唇に頭が追い付き、すんでのところで里は口を噤んだ。五年、十年。息継ぎなしに言えてしまうたった一言の奥、鬱積した想いを見た気がした。
 大通りへ抜ける狭い路地で里は足を止めた。
「ねえ、前から聞きたいと思ってたんだけど……私のこと好いてくれてるって、それはいつから?」
 里が隼太と初めて会ったのは十三年前、里が十五で彼が十のときだ。当時彼は隣の斎木宅に住み込みで手伝いをしていたが、里との関わりはほとんど無かった。気に掛けていたのはむしろ彼女の祖母だ。
 豪気な人だった。育ち盛りの子供にろくなものを食べさせていないと言って斎木をどやしつけ、朝飯のたび隼太を家に呼び、その代わりに片付けをさせていた。
 その頃の彼の印象は、ひょろりと痩せて貧相な少年、それだけだ。壬北部の強い訛りを嫌ってか年の割に寡黙なたちで、しかし時々発する言葉は折り目正しく丁寧だった。
 彼は二年で斎木の家を出た。相変わらずひょろりと痩せたままだが訛りは綺麗に消えていた。以来数年、時々は斎木宅を訪れていたらしいが里は全く顔を合わせなかった。きちんと顔を合わせたのは三年後の春、里の祖母の野辺送りのときだ。律儀に顔を出した彼は背がぐいと伸び、里は顎を上げて話さねばならなかった。
 そしてその年の夏、里はゆきを腹に宿した女を家に連れ帰り、訛りの通詞として隼太を頼ることになる。
 彼とよく言葉を交わすようになったのはそれからだ。
 母の心中に巻き込まれて深い傷を負ったゆきを彼は熱心に見舞った。治療が必要なくなってからも、ゆきをあやし、声が出るよう呼びかけ語りかけた。里が産で呼ばれたときや港の女郎を診に行くときは、どんなに遅くなっても里が戻るまでゆきの傍にいてくれた。
 きっとゆきの母を匿ったことが始まりだったのだ、あれから密やかにひたむきな視線を向けられていたのだ、里はそう思ったのだが。
 隼太は顎に親指を当ててはたと考え込んだ。
「ああ……考えたこともなかったですね。そもそも里さんの生き様には感銘を受けましたが、男女の仲になりたいとまで願ったことは……あったかな」
「は……はあ?」
「前にも言いましたが、好きというより尊敬なんですよ。と言っても俺にとっての尊敬は単なる情欲より数段上にあって」
 隼太が身振り手振りで説明するが里の眉間には皺が寄るばかりだ。彼に一つ歩み寄ろうとした途端に梯子を外された気分だった。
「とにかく俺は、里さんやゆきが少しでも幸せに暮らせるよう、陰に日向に見守っていられれば良かったんです。妙な男が近付くなら名乗りを上げようかとも思いましたが、幸いそんな気配もありませんでしたし」
「悪かったわね、男っ気がなくて」
「身持ちが堅いのは美点ですよ」
 褒められている気がしない。里は隼太を置き去りにしてすたすたと歩き始めた。滅多に付けない飾り物に心が浮ついて、妙な話題選びをした自分が馬鹿だった。
 芝居小屋の鮮やかな幟を横目に、大通りを横切って水路の脇の道を行く。すぐに足音が追い付いてきた。
「すみません、お気を悪くされましたか」
「別に何も。でも女だと思ってない相手に簪なんか贈らないことね。口吸いなんかもっての外よ」
「……、それは違います」
 橋に差し掛かったところで隼太が里の肩を掴んだ。里は足を止めて隼太の顔を睨み付けた。頭一つ分上を見上げねばならないのが癪に障った。
「何がよ」
「だって里さんと俺は籍を入れたじゃないですか」
「籍を入れたから行き遅れの年増女でも抱いてやろうって? 責任感の強いことね、お医者先生はこうでなくっちゃ」
「あなたはどうしてそう……っ」
 大通りへ行き来する人の流れは絶えず、立ち止まって言い合う二人にじろじろと視線が集まり始めていた。隼太は里の手を引いて人の流れをかき分け、河原へ道を逸れた。
 草に腰を下ろした隼太は焦ったようにぐちゃぐちゃと髪を掻き、短く息を吐いた。
「……話の順序が悪かったな。すみません。さっきのは全て籍を入れる前の話です。里さんは気安く手を出していいような人ではなかったので。俺にとってのあなたは揺るぎない道標でした。八年前、ゆきの母親が心中を図ったと知って、里さんの家に駆け付けて……俺は咄嗟には動けなかった。あの血の跡の残る部屋は……俺が母を亡くしたときと似ていました」
 一家で壬北部から坡城へ出てくる途中、隼太の母は宿で枕探しに襲われ絶命した。訛りの残る口調で幼い頃の隼太が語ったことだ。
「里さんは俺以上に辛かったでしょう。でもあなたは諦めなかった。他の全てをなげうってゆきの命を繋ぎ、母代わりとして共に暮らして、ついには本当に自分の子として記帳した。頬を殴られたような思いでした。……俺は薬の能書きならいくらでも言えました。薬草を育てて摘んで、乾かして刻んで潰して……でもそれがどう使われて、何に繋がるのかは正しく見えていなかった。自分が生きるための道具に過ぎなかった。全ては病を和らげ痛みを鎮め心身を健やかに保つため、人が人らしく生きるためにあるのだと、里さんの姿を見て気付かされたんです」
 里は何も言えず手元に繁る草をつついた。買いかぶりだ。あのときの自分は砕けた心で、ただ虚ろに日々を繰り返していただけだ。
 居心地悪く隣の隼太を盗み見る。彼の視線は対岸の河原を眺めていた。
「……父が枕探しとして首を落とされた直後、本当の枕探しが見付かりました。俺は躊躇わず両親の仇討ちをしました――強い毒を持つ草が近くに生えていたので。今でも後悔はありません。どのみち役人に引き渡せば死罪となったでしょう。でも、その手段に父から受け継いだ知識を用いたことがずっと引っ掛かっていました。……一時は危なかったゆきが快復し、健やかに育つのを目にして、ようやく、あれは間違いだったと省みることができました」
 重い口調だ。初めて聞く話だった。里は自分の膝に視線を落として初めて会った頃の隼太を思い出す。
 十の子供には似つかわしくない冷徹な眼差しと、固く結ばれた唇を。
 すっと息を吸う音。次に聞く隼太の声はそれまでより明るかった。
「薬だけでなく人を診ることに興味を持ったのもそれからです。俺の転機になったのは里さんでした。俺はあなたとゆきの力になれれば充分で、進む道に意見するつもりはありませんでした。……でも去年のあれは黙って見ていられなかった。里さんもゆきも、あまりにも痛々しかった」
 声を出せないゆきが近くの子供たちのいじめの標的になった一件だ。里は静観した。自分で対処できなければゆきは一生このままだ、と介入を避けた。結局、事態が好転したのは隼太が介入してからだ。
「籍を入れようと言ったのは半分賭けでした。笑い飛ばされるかもしれない、適当にあしらわれるかもと。でも里さんは真剣に考えたうえで受け容れてくれた。少しは俺のことを頼りになると思ってくれたんでしょう。少しは寄り掛かれると」
 もう里の顔に険は残っていない。横を見ると同じ目線に隼太の顔があった。薄い色の瞳は熱を帯びている。気恥ずかしくなり顔を背ける、すかさず隼太の手が頬に伸びて引き戻される。
「ゆきの父、里さんの夫を名乗れるのは俺だけです。紙の上だけのことと里さんは言うけれど、俺たちは確かに夫婦なんです」
「わか……分かったから」
「手を出していい相手じゃないと散々自制してきました。でも近付くことを許してくれたのは里さんです」
「分かっ……ちょっと、顔近いってば」
「じゃあ少しくらい欲も出るってものでしょう!」
「分かったから!」
 里は叫び、頬を押さえる手を引き剥がした。
 顔が紅潮して治まらなかった。絆されるなと心の声。警告の鐘。それすらも霞むほど強く胸が早鐘を打っている。
 そのとき橋の上からはやし立てる声が降ってきた。
「おいおい先生、昼間っからいちゃついてんのかよ」
 酒瓶を片手に持った赤ら顔の男だった。黄月は男に向けてきっと人差し指を突き付けた。
「妻を口説いてるんです、邪魔しないでください。それから酒! やめろと言ったでしょう」
 どっと笑い声。男は酒瓶を隠して人込みの中にそそくさと消えた。「先生、頑張れよー」「ふられても泣くなよ」と橋の上から次々に声。
 くくっと里の喉から声が漏れた。先ほどまでの緊張が嘘のようだった。
 隼太は立ち上がって里に手を差し伸べた。里も手を重ねて立ち上がる。そのまま橋へ向かおうとする隼太を里は呼び止めた。
「渡そうか迷ったんだけど……」
 里が懐から取り出したのは根付だった。草に止まった虫が浮彫にされている。隼太が簪の支払いをしているとき目に留まったものだった。隼太は掌に乗せた小さな飾りをまじまじと見つめる。
「里さんが……俺に?」
「値の張らないもので悪いけど」
「いえ! ……嬉しいです」
 じっと見つめていた隼太はおもむろに今付けている根付から紐を外して、受け取ったものに付け直した。帯の上に草と虫が留まった。
「どうですか」
「いいんじゃない」
 どちらともなく笑みが漏れる。河原へ下りたときとは比べ物にならない和やかな帰路だった。
 間地に入り長屋が近付く。秋月の表札が見えたところで隼太は歩みを遅めた。彼の家の前には人影が二つあった。
「紅砂、今日は急患以外は……」
 眉をひそめたのは、紅砂の後ろにいる四十がらみの男が妙に荒んだ風貌だったからだ。紅砂は里に小さく会釈すると、すぐ隼太に視線を移した。
「黄月。この人が香ほづ木売りだ。暁に香ほづ木とカゾの葉を売っていた」
「何、香ほづ木って。……隼くん?」
 見上げた里の目に映ったのは、険しい顔で二人の男を見つめる隼太だった。



 黄月は二人を家に入れ、後ろ手に戸を閉めた。紅砂は先に畳へ上がって座蒲団を並べるが、香ほづ木売りは所在なさげに土間に突っ立っていた。
「ここは狭いので上がってもらえますか」
 彼は黄月に後ろからせっつかれて渋々下駄を脱ぎ、体を縮こめるようにして座蒲団に腰を下ろした。黄月は無言で三人分の茶の用意を始める。それをちらちらと見ながら香ほづ木売りは口元に手を添えて紅砂に囁いた。
「おい、何だってこんなとこ連れて来たんだよ。あの嬢ちゃんに事訳しろって話じゃないのか。それにこの家、草の匂いがやけに濃いけどあの兄ちゃんは薬売りか? 変なもん飲ませんじゃねえだろうな」
「俺は薬屋と医業をしています」
 とぽとぽと茶の音。香ほづ木売りがぎくりと黄月の背を見つめる。その背がくるりと振り返って湯呑の乗った盆を手に畳へ上がった。
「このなりで分かると思いますが、壬の出です。九つまで旧上松領の北部、飛鳥との国境付近に暮らしていました。そこでごろつきが何人も狂死する事件があって、その腹を開いたのが、同じく薬売りをしていた父でした」
 香ほづ木売りは突然始まった身の上話を気味悪そうに聞く。目の前に置かれた湯呑には指一本触れなかった。
「腹の中から出てきたのはカゾでした。それを知ったために俺の一家は郷を追われ、ここに辿り着くまでに父も母も亡くしました」
「……カゾを」
「あなたも扱っていたそうですね。暁に……壬の女に売っていたと」
 香ほづ木売りは脂汗を浮かべながら膝に置いた拳をじっと見ていた。
「知らなかったんだよ……。あれが虫の匂いの混ざりを取るってのは本当の話だ。そっから先、売ったもんがどんな使い方されてるかなんて……俺に分かるわけねえだろ」
「そうですね、知らなかったなら仕方ない」
 黄月は香ほづ木売りの肩に手を置き、項垂れた顔をぐいと覗き込んだ。
「でも今あなたは何か知っている。どういう経緯で何を知ったのか、教えてもらえますか」
 香ほづ木売りが小さく頷いたのを確認して、黄月は一つ余った座蒲団に座った。
「知った経緯なら仕入れかな。……三年前の人別改めで、境にいた商人は散り散りになって、俺は津ヶ浜の島に逃げたんだ。この辺はそっちの兄ちゃんにも話したな。逃げるときのどさくさで香ほづ木の半分くらいは駄目にしちまった。他の商いにも手を出したがうまくいかなくて、腐ってたとき島の市で木を見かけたんだ。香ほづ木に使う木だった。天命を感じたね、やっぱり俺にゃこれしかないって……。仕入れ先を聞いてみたら思ったとおり旧上松領で、仕入れたのは異人の男だった」
「異人……?」
 紅砂は黄月と目配せを交わし、続きを促す。
「その異人ってのが、言葉は通じるが片言でな。そいつ自身は香ほづ木のことなんざ全く知らなかった。詳しく聞こうとしたら蔵に連れてかれて、旧上松領の木やら草やら黒い石やら色々積んであって……そん中にカゾの葉があったから買おうとしたんだ。そしたらそいつ、これは夢を見る茶葉だから気を付けろって。カゾが茶になるなんて俺は知らなかった。だがそいつは、旧上松領では商売女や石掘りに使うんだと……。一度に大量に飲ませると気が狂うが、ほんの少しの量を常用させたら上手く従うようになる、商売女は孕みにくくもなるんだと言って……」
 脂汗が一滴落ちる。香ほづ木売りは顔を上げた。
「売るなと言ったんだ。そんなもん出回らせちゃまずい、お上に引っ捕らえられるって。でもそいつは笑った。カゾを使ってるのはお上だ、お上の息のかかった廓や石堀り場で使われてるんだと。……どこまで本当か分からんが、とにかく気味悪くて……」
 紅砂が湯呑を取る。香ほづ木売りも思い出したように額を拭い、茶をひと口含んだ。
「俺がカゾを使うのは小藤を売るとき、高い小藤が売れるのは雨呼びのとき。雨呼びは壬や東雲に伝わってたお偉いさん方の儀式だ。だから……大丈夫だと思ったんだ。そんな気味悪いことに使やしないって。俺の売ってた分は大丈夫だったんだって」
 香ほづ木売りは顔を上げ、縋るように紅砂を見た。
「あの嬢ちゃんは子を産んだんだよな。カゾの茶なんて飲んでなかったんだろ? それともやっぱりあいつの言ったことは嘘なのか?」
「暁はその儀式のときにカゾを使ってる。本人がそう言った。千切って酒で煮たって言ったか……」
 紅砂に視線を振られ、黄月が頷いて言葉を引き継いだ。
「月のものが始まればそうする慣いだったと言っていました。つまり、その儀式は元々カゾの譫妄を前提としていたことになります。実際、暁は儀式の夜に徘徊した記憶を失くしていますし、東雲で同様に神憑りの儀式が行われていたという話もあります。……それから、直接の因果は不明ですが、暁の腹の子は二回流れています」
「嘘だろ……」
 香ほづ木売りは顔をしかめて額を抱えた。黄月は腕を組んで空を睨む。
「お上自らカゾを使っているというのも納得がいきます。俺の父親の話に戻りますが、狂死したごろつきの足跡は飛鳥びとの邸から続いていました。どの程度飲ませればどうなるか調べていたんでしょう」
「飛鳥びと? 壬の上松家じゃなく?」
「旧上松領にあった飛鳥びとの邸です。とはいえ上松家は飛鳥にカゾの採取を認め、飛鳥がらみの骸を調べなしに埋めるよう命じるくらいですから、そもそもが深く繋がっていたはずです。大火ののち一番に併合を受け容れたことからも明らかでしょう」
 ああ……と香ほづ木売りが腕を組む。
「国だけでなく、人も。北域は飛鳥との交戦の爪痕が深く残る地ですが、かつての敵である飛鳥より、山を隔てた壬への反発のほうが大きかったんです。先の戦の末、峠を出る道は飛鳥の国土になり踏み入ることができなくなりました。戦に駆り出され、痩せた土地に閉じ込められ、税は重く……。北域では飛鳥びとが当たり前のように暮らし金を落としていました。飛鳥びとに諂う里人は多かったし、飛鳥びとと所帯を持つ女もちらほらいました。上松家はそれを黙認していました」
「そういや……俺も香ほづ木やカゾを採るとき、黒髪の奴らを見かけたことがある」
 二人の会話を聞きながら、紅砂の耳元をふっと懐かしい声がすり抜けていった。
 ――仲が悪いはずなのに、黒髪ばっかり偉そうに歩いてた。
 ――黒髪との子供は大抵黒髪なの。偉ぶるのよ、そういう子供連れた女は。
 いつか若菜から聞いた話だ。そこに重なるように里の声。
 ――番人衆から村の男に呼び出しの触れが出され、彼女の夫も連れて行かれた。夫の帰りを待つ彼女の家には黒髪が入り込むようになった。番人衆へ訴え出たけれど、何も聞いてもらえなかった。
 それは里から聞いたゆきの母の話だ。ゆきの母は旧上松領から逃げてきたという。ゆきを身籠ったときだから、十年近く前のことになる。
 ――壬の番人衆は飛鳥と通じてたんじゃないの。飛鳥に加勢するために壬びとを集めて、東雲を焼いて後ろ盾を無くして、そのうえ壬びとの女を差し出して、黒髪の子しか産まれないようにして、内側から壬を壊そうとしたんじゃないの。
 最後に浮かんだのは、かつて紅砂自身が書いた上申書だ。
 仮説に過ぎなかった。津ヶ浜の異人による交易、外つ国の特使が旧上松領への交易路を求めていると。しかし今、現に津ヶ浜では異人の男が旧上松領のものを商っているという。
 紅砂は瞑目し、結果として若菜を死へ追いやったあの紙の束を思い出す。墨の匂いがふっと蘇った気がした。