菱屋に着いた暁たち三人を出迎えたのは沈痛な面持ちの炎だった。
「この度は……」
 頭を下げて言い淀む彼に、暁は倦んだ表情で眉を歪めた。
「相変わらず、こちらのことは筒抜けなの」
「俺が言った。仕事を都合してもらうために」
 針葉の言葉に、暁は気まずい表情で頭を下げた。睦月は何も分からず、久々に会う炎に「おひげのおっちゃん」と楽しげに呼びかけた。
 三人は炎に続いて店の奥へ進み、裏口を出て木々に囲まれた砂利道の先、小さな建物に通された。昨年、談義に出ることを決意した暁が浬とともに通された離れだった。
「昼飯はまだでしょう。運ばせます」
 廊下を進んだ先の六畳間は障子が開け放たれ、広い敷地が一望できた。睦月は離れには入らず、砂利にしゃがみ込んで石を拾い、投げている。と思えば砂利をかき分けて穴を彫ったり、石を積み上げて塔らしきものを作ったりと忙しない。
 暁と針葉は座蒲団に腰掛けて、幼い我が子が愉快な動きで歩き回るのを言葉なく眺めていた。
 しばらく待つと膳が運ばれ、続いて現れたのは牙だった。襖を開けて一礼し、二人と向かい合う位置に座蒲団を引いて座る。
「お待たせいたしました。事情は多少聞いております。今、お体の具合は」
「ここまで無理なく歩けるくらいには」
「左様ですか……」
 牙の目に安堵ともいたわりともつかない複雑な色が浮かぶ。
「苑の具合はどう。そろそろ産み月では?」
「……恐れながら」
 牙はそれだけ言って目を伏せた。気を遣っているのか、その先は彼の口からは聞けないらしい。
「榎本さんは不在? またあちこち飛び回っているの」
「あれは北へ潜らせております。少々動きがありますので」
「動き?」
「確かなことが掴めたら報告に上がります」
 暁はゆるりと頷いて、まとめ髪から垂れた数本を耳に掛ける。
「分かりました。鷹派の残党については」
「各所目を光らせておりますが、この半年一切の異変はありません。……ああ、二三羽消えた者がおります。いずれもすずとの接触は無く、下働きや茶運び程度の零れ者でしたので関係は薄いでしょう。単なる逐電と踏んでおりますが、念のため追っているところです」
「引き続き警戒を。新体制は滞りなく回っている?」
「坡城の役人と反りの合わぬ部分もあるようですが、監査役として充分に勤めております。いくつかの街に人を遣りましたが、これといった混乱は見られぬようです。これまでに上がったのは税に関することが二十数件、道や水路に関することが十数件、坡城の役人による法の適用誤りが十件足らず、その他が十件ほど、いずれも全て解決済みです」
 抜け目ない牙の答えに、暁は深く頷く。
「安心しました。働きに感謝します」
「勿体なきお言葉を賜り、恐悦至極に存じます。……本日お越しになったのはその件ですか」
「あんたが前、飛鳥で俺に話したこと……こいつの母親の話だ」
 問いを受けたのは針葉だった。牙がちらと視線を向ける。その鋭さに負けじと針葉は腹に力を入れた。
「元々こいつに言う話じゃなかったんだろ。分かってる、俺だってそのつもりだった。でも……ちゃんと話してやりたい。向き合うには材料が必要だ」
「……お前からは何を?」
「まだ何も。一度聞いただけの半端な記憶で混乱させたくない」
 牙は砂利で遊ぶ睦月に首を巡らせて立ち上がった。
「睦月殿の見知った者を呼んでまいります。失礼、中座しますので先にお召し上がりください」
 しばらくして戻った牙は、二人の膳が半分以上空になったのを確認すると、障子を閉めて語り始めた。

 牙が語ったのは暁の母である「槙野殿」、そして彼女の十五回にわたる産と子供たちの末路だった。
 暁は話の途中で箸を止め、それ以上手を付けなかった。話が途切れたところで暁はゆっくりと口に手を当てた。
「私に兄は二人いると、以前東雲で聞いた。……同じ母から生まれた体の弱い兄、豊川の名を許されなかった妾腹の義兄の二人だと」
「ええ、惟道殿と惟直殿です」
「……その他に、十三人?」
 牙は何も言わず目を伏せた。暁は縋る視線を針葉に向ける。
「針葉は聞いていたの。だから……もう無理だと? これから先は母上と同じように、流れるか、数日で終わる命を……」
 暁は途中で言葉を詰まらせた。物心ついた頃から母は病に臥せっており、会うことは稀で、言葉を交わした記憶もない。顔も声も覚えていない。あの人の辿った道の、なんと非情なことか。
 針葉がことりと湯呑を置く。
「……もう一つ訊きたいことがある。人ならざる見目って言い方もしてたが、それでも人で、生きてたんだよな。……人でないものが産まれたことはあったか」
 暁が目を見開く。牙の顔が険しくなる。
「どういう意味だ」
「生き物でないものが産まれたことは」
 針葉と牙はしばらく睨み合っていた。暁はじっと針葉を見つめて、彼の言わんとしたことを考えていた。やがて牙に視線を移す。
「正直に答えて」
 牙は長く長く息を吐いて、暁に向き直った。その目には静かな色が戻っていた。
「炎から報告を受けて、そうではないかと懸念していました。……ええ、最後の産がそうでした。暁殿が産まれて二年後のことです。身籠ったのちは昼夜なく苦しまれ、身体にはいくつもの変調をきたし、半年も経たぬうちに産となりましたが……膨大な量の小さな粒が房のように連なるばかりで、生き物らしきものはどこにも見えなかったと。当時の典医の言では、ごく稀に見る奇病だと……今回もそうだったのですか」
「俺も暁も見てないが、産婆いわく生き物じゃないと」
 暁は口を押さえてうつむいた。頭の中に流れ込んできたものが多すぎて酔いそうだった。耳元で風が渦巻くようだ。
 半月前のあの日、産まれた子を抱えて里は黄月を呼んだ。そのときは朦朧として気付かなかったが、あれから二人の様子はおかしかった。
 奇病? 小さな粒? 生き物でない? 水すらも吐く辛さの中、唯一の支えは膨らむ腹だった。育っているのだと愛しかった。だがその内側を満たしていたものは――ぞっと鳥肌が立つ。吐き気が蘇る。
 自分だけが知らなかった。隠されていた。絶望、混乱、怒り、屈辱、心に嵐が吹き荒れる。その一方で冷静な声が呼び掛ける。知らされていたら何か変わったか? 流れた命は戻ってくるのか? いや、母のように病む日が早まっただけだ。雨呼びを心の支えにして。足を踏み出すこともできず、睦月に逢う日も来なかったかもしれない。
 しっかりしろ。
 背に針葉の手が触れる。暁は息を整えた。
「暁殿、顔色が」
「……構わないで。大丈夫。」
 暁は背筋を伸ばして前を向いた。涙などとうに涸れていた。
「私からも一つ訊きたい。母上は……どこの家の、どういう人だったの。以前聞いた話では、妾腹の子はその惟直という義兄一人だと。どうして母上は心身を病むまで産まねばならなかったの。義兄の体は弱いようには見えなかった。義兄を養子に迎えれば済んだ話ではないの」
 暁の脳裡に浮かぶのはあの焼け果てた地で義兄とともに歩いた記憶だ。そして――義兄の最期。本家の妹への憎しみに満ちた目を、暁は潰した。
 どうしてあれほど憎まれたのだろう。どうして憎まれながらも、彼の子を産むよう命じられたのだろう。あの人が本家に入ってさえいれば、あの怨嗟の的となることは無かったのではないか。
「いいえ、惟直殿はお父上が万一のためにと産ませた命。暁殿がお産まれになり、健やかにお育ちになった時点で、もはや豊川のものではありません」
「私はいずれ東雲へ嫁ぐ身だったのでしょう」
「むしろ惟直殿が娘御であったなら、東雲行きの役目を担ったのは彼だったかもしれません」
 訳が分からない。暁は首を振る。
「仮定の話は結構。実際のところ義兄は私より年上で、男で、父上の血が流れている。義兄を後継に置くのが定石だったのでは」
「あなたとは替えが効きません」
「何故」
 牙は返答に窮し、ひと呼吸おいて言葉を絞り出した。
「槙野殿の血は、あなたにしか流れていません」
「……母上は一体何者だったの。答えなさい、牙」
 暁、と隣から針葉が呼ぶ。暁は牙から視線を外さない。もう豊川家も豊川領もどこにもない、それでも聞かねばならない。この身には今も父と母の血が流れている。
「槙野殿は……豊川家の出でした。……二代前の当主殿のもとにお産まれになりました」
「……え? じゃあ父上が外の家から豊川に入ったの? 私は父上が直系だとばかり」
「いいえ、あなたのお父上も豊川家の出で……槙野殿と同じく、二代前の当主殿の御子です」
 牙は言葉を区切りながらゆっくりと話す。いつ止められてもいいように、止められるのを待っているかのように。
「暁」
 針葉の声。暁は牙から視線を外さない。
「……姉? 妹?」
「暁、止めとけ」
「姉君です」
「……聞いたことがない。誰からも」
「豊川の血族婚は外に出る話ではありません。五家でも知らぬ者は多いでしょう。あなたも……惟道殿が健勝な御身であったなら、いずれ聞く機会があったかもしれません」
 聞く機会があるとすれば、兄に娶せられるときがそれだったのだろう。
 豊川の血族婚。その言い方は、それが代々続くものであったと示唆している。ぞわり、背すじを駆け抜けるもの。
 あの日の義兄の声。夢で何度も聞いた蛇の声。
 ――これがお前らのやり方なんだろう。え、本家のおひぃさまよ。
 ――おぞましいよなぁ。そのせいでこっちは散々苦汁を嘗めてきたんだ。割に合わないよなぁ。
「あれは……だから義兄は……あの人は」
 がたがたと暁の身が震え出す。
 ようやく理解した。あの憎しみに満ちた目の理由、その奥にあったもの。
 義兄はただの代替として生を受け、産まれて数年で用済みとされ、決して豊川を名乗ることを許されなかった。片や全てを奪った妹は何も知らずにぬくぬくと育った。
 あの大火は絶好の機会だっただろう。何も知らない妹を懐柔して本家に成り代わるため、彼は妹を連れて逃げた。しかし頼りにした上松家はもぬけの殻、そして豊川の恩恵を十二分に受けてきた妹は言う。
 ――壬を出ましょう、兄上。家の名など些末なこと。何より今は助けを求めましょう。
 それは彼にとってはこの上ない侮辱だっただろう。いくら渇望しても得られなかった家の名を棄てようと言える妹は、彼の目にどれほど疎ましく映っただろう。自分の悲願を、不遇な生を、その身に流れる血を、その身全てを軽んじられたと感じただろう。
 怒りの奔流は全て妹に向かった。
 ――「これ」がお前らのやり方なんだろう。
 身を貫く鋭い痛みとともに、暁はあの声を聞いた。
 あの目を見ていた。あの目が、途轍もなく怖かった。
 あの目、あの声、それ以外の記憶は曖昧にぼやけている――見てはならぬ聞いてはならぬ――気付いてはならない、何が起きたのか、知ってはならない。
 閉じた全てが流れ出す。
 荒い息の音、助けを呼ぶ自分の声、口の中に充満する血の味、古い畳の匂い、遠く暮れてゆく陽、はだけた足の寒さ、殴られた頬や押さえ付けられた腕、体中の痛み。
 圧倒的な絶望感。
――――っ」
 喉まで酸いものがせり上がる。両手で強く口を押さえる。
 今繋がった。
 全て、思い出してしまった。

 気付くと暁は針葉に抱き止められていた。
「落ち着け、大丈夫だ」
 冷汗が噴き出す。体の震えが止まらない。牙の声が遠く聞こえる。
「はな……離して、針葉、いや」
「大丈夫」
 耳元でゆっくりと繰り返す声。大丈夫、大丈夫。
 暴れそうになる体を丸ごと包んで何度もそれだけを繰り返す。暁は強く首を振る。
「あの日、私は……私っ、」
「何か思い出したとしても、全部昔のことだ。何もかも過ぎたことだ」
 暁は浅い息を繰り返す。その身を針葉はしっかり抱き、ゆっくりと背を叩く。
「おい、暁殿は一体……」
 近付こうとする牙を針葉は手で制し、遣る瀬無い思いで暁の髪を見下ろした。
「……何が正解だったんだろうな」
 知ること。隠すこと。正しく見るために。心を潰されないように。
 暁が義兄にされたことに気付いて、だが針葉は口を噤んだ。今ここで彼女がそれを知ったのは正解だったのか。亡母の生涯、自分の身体に宿った命ならざるもの、心を何重にも抉られてなお、今それを知るべきだったのか?
 もっと強く止めるべきだったのではないか。
 家の名の後ろに蠢いていた闇を丸ごと背負い込んで、その足はまだ動くのか。
 暁は深く荒く息を繰り返す。針葉は手を止める。
「……ごめんなさい」
 やっと顔を上げた暁だが、その頬は色を失っていた。牙は険しい眼差しで暁の瞳の奥にあるものを読み取ろうとする。しかし暁はすぐに表情を取り繕った。
「失礼、母上のこと以上に取り乱すなんて……。睦月はもうお昼を終えた? 眠ってしまったかな」
「暁殿、少しお休みください。部屋を用意させます」
「いいえ」
 暁はよろりと立ち上がり、背すじを伸ばして歩いた。閉め切っていた障子を開けると、光と風が差し込んだ。
「風を浴びたい」



 睦月は遊び疲れて眠りに落ちたところだった。
 菱屋に睦月を任せ、暁は針葉とともに通りを歩き出した。ゆるりゆるりと泳ぐように暖かな風の中を行く。その身は儚く、誰かとぶつかったら弾けて消えてしまいそうだ。針葉は暁を護るように隣を歩く。
「休んだほうが良かったんじゃないか」
 暁の視線は真っ直ぐに前を見ている。ひと呼吸おいて色のない唇がふっと緩んだ。
「私も……本当は横になりたかった」
「なら何で……」
「眠ってしまいそうだったから。横になったら、眠って全て忘れてしまいそうだった。義兄のときみたいに」
 暁がその手で義兄を殺したときのように。「耐えられないくらい辛いことがあると眠くて仕方なくなって」、以前暁が言っていたことを針葉は思い出す。自らを護るため、彼女の記憶は眠りの中で閉じるのだ。
「忘れたくない」
 針葉はそれ以上何も言わず暁の歩調に合わせた。
 人通りが少なくなっていく。途中で止めて引き返そうとしていた針葉だが、それを思い止まるほど彼女の足取りは確かだった。暁は途中で道を右手に折れ、橋を渡って山道を進んだ。ここまで来れば彼女の目的地には針葉も心当たりがあった。
 果たしてそれは二人の前に姿を現した。神社の長い石段だった。
 もう一年近く前になる。去年飛鳥に逗留していたとき、暁たちはその地の祭りに足を運んだ。坡城と同様に、その祭りは神社には縁もゆかりも無い様子で、露天だ鳴り物だ神楽だと膝元が騒がしい一方、石段に続く道はひっそりと暗かった。神使の台座は空だった。
「元々ここが壬だったとしたら」、拝殿の戸を開ける前に暁はそう言った。
 神楽や季春座の芝居、絵物語に描かれたツクモの話。兄は荒らかに勇猛果敢に、弟は粘り強くしたたかに、西国の蛇王と戦った。
 暁は仮説を立てた。西国の蛇王とは龍神を祀る壬のこと。兄とは北方にて苛烈な攻撃を繰り返す飛鳥で、弟とは南方からしたたかに着実に領地を抉り取る坡城だと。
 壬の旧史に書かれた東夷――土蜘蛛こそツクモ、飛鳥と坡城の旧い名前なのだと。旧史の争いは今なお進行中なのだと。
 結局飛鳥の神社の拝殿には何も残っておらず、仮説は仮説のままだった。
 暁は石段の前で足を止めて顎を上げ、ずらりと並ぶ段を眺めた。
「今日来るつもりだったのか」
「思いつき。痛いのは一度に済ませてしまいたいの」
「お前、上れんのか」
「這ってでも上る」
 足を踏み出した暁に並び、針葉は手を差し出した。
 手を繋いで一段一段進む。半分ほど上ったところで暁の息が切れ始め、速度を緩めてまた足を上げる。針葉は支える腕に力を籠める。繋いだ手が汗ばんでいる。
「上らなきゃ。この街に戻ったときから……来なくちゃと思ってた、のに……怖くて後回しにばかりして……」
 上りきったときには暁は肩で息をしていた。
 手入れのされていない石畳は所々から雑草が力強く顔を出し、木の根に侵されている。その先にひっそりと佇むのは古寂びた拝殿だ。参詣者の姿は無い。
 暁の呼吸が整うのを待ち、連れ立って歩き出す。割れてぐらつく石畳を抜け、苔むした段を上って賽銭箱を回り込み、朽ちた引き戸の前に立つ。
「いくぞ」
 暁が頷く。針葉が引き戸にぐっと力を入れると、それはいとも簡単に外れた。横にして埃だらけの床に立て掛け、中を見る。
「これは……」
「去年の地震なえか、単に耐えられなくなったかな」
 外からは枝葉に隠れて見えないが、屋根は一部が崩れて光が注ぎ、陽の当たらぬところは雨水の滲みた跡が大きく撓んでいた。
「気ぃ付けろ、そっちは腐ってる。床が抜けるぞ」
「針葉、茸が」
「……はは、立派になってやがる」
 暁の指した方には、いつか見たより幾分大ぶりな茸が育っていた。
「針葉が見たっていう蛇の像は?」
 針葉は差し込む陽を頼りに床を歩く。降り積もった埃がひと足ごとに舞ってきらきら落ちる。……しゃがみ込んだ先には割れた石があった。
 暁も隣に膝を衝いて石を見る。懐紙を取り出して摘まみ上げると、裏には苔とも黴ともつかない汚れがこびりついていた。割れた断面は古びており、いつ投げ込まれたか見当もつかない。
「これ、鱗……。これが牙かな、これも鱗、これは」
 暁は散らばった石の欠片を摘まみ、日に翳しては床に戻す。やがてその手が止まった。
「これは……爪だ」
「ってことは……」
 蛇ではない。暁はその後も石を見分し、角や鼻の片鱗を残す欠片を見付けた。
 無言だった。暁は何も言わずに立ち上がり、埃の足跡を辿って拝殿から出る。針葉は後に続いて戸を嵌めた。暁はぼうっとしていたが、針葉が着物を払うのを見て自分の身も払い始めた。
「やだ、埃だらけ」
「本当にな」
「……龍だったね」
 暁は空を仰いだ。空は抜けるように青く、暁の表情には清々しさすら漂っていた。
「そうかぁ……ここも元々壬だったんだ。何十年……何百年前なんだろう。史書にも載ってなかったな」
 緩やかに、痛みすらなく侵攻された南方の地。龍神信仰を示すものは取り払われ、乱暴に拝殿へ投げ棄てられた。そのまま信仰は失われ、荒れ果てた社だけが残る。何の縁もない祭りに足元を照らされて。
 暁はぐっと両手を反らせて胸を広げた。
「針葉、私いま、自分がすごくちっぽけな生き物だって実感した気がする。壬国史――史書の中では何十年も前の壬と飛鳥との争いが描かれていて、争いの末に壬の北が削られて……六年前の大火ではとうとう国が切り分けられて、五家が一つずつ消えていって、私の知っている地図がどんどん変わってしまうって思っていた」
 去年諸国を回っていたとき、榎本の持つよれよれの地図が頼りだった。あの地図には五家の名がはっきりと記されていた。あれすら過去の遺物だ。
「私の知っている地図にだって、その前の姿があった。……これは何百年前から始まっていたんだろう。飛鳥や坡城には土蜘蛛側の解釈で書かれた神楽や芝居が根付いて、子供向けの古い絵物語まで残っている。途方もないな」
 暁が目にしたのは、押し寄せる荒々しい濁流の最後の一波。抗えようものではなかったのだ。
 どちらともなく歩き出す。石段を下りるとき針葉は暁の手を取った。
「もう壬の史書が書かれることはないけれど、……いずれ坡城の史書に、私は何と書かれるんだろうね。無抵抗に領地を明け渡した愚か者、割譲談義のときだけ現れた名ばかり当主かな」
「どのみち皺くちゃの婆ぁ姿だろうよ」
 茶化した針葉の手を、暁はぐっと拳で締め付けた。いて、と笑い声。
「俺は政は分からんが。土地土地に暮らす奴らは普通、史書なんざ読まねえよ。ただ生きてるだけだ。とすれば、さっき黒烏の長が報告したことが全てだろうよ。これといった混乱は無いし問題も全て解決済み。それで充分だ」
 暁の額に風が触れる。繋いだ掌が熱い。
「お前は判断した。言葉にすりゃひと言だが、引き際を見定めるのは難しいもんだ。江田領なんか未だに水路がいくつも塞がったまんまで物は足りないし、無宿人で溢れてるらしいぞ」
 暁は江田家の長男には談義の席で会った。江田はどこにも属さぬと声高に繰り返す狷介な男だった。思い出すのは顔よりも、短くかじり取られた親指の爪だ。
「旧豊川領のことは黒烏の連中に任せときゃ上手くやるだろ。お前は荷を下ろせ」
「そうは言っても」
「お前が豊川の女だとか血がどうとか、俺や睦月にとっちゃどうでもいいことなんだよ。お前は暁だ。ただの大事な女だ」
 石段は終わり山道を下っていたが、針葉は暁の手を握ったままだった。その手が突然解けて針葉は振り返った。
 暁は立ち止まって針葉を見つめていた。その顔は相変わらず血色悪く、隠しきれぬ疲れが見えたが、憑き物が落ちたようにすっきりと涼しげだった。
「今夜、睦月の寝かし付けのとき一緒にいてもいい?」
「俺の部屋に?」
「一緒にくっついて眠るだけ。……刻み付けておきたいの、今日味わったいくつもの痛みも、こんなに愛おしい気持ちも」
 暁は帯を強く押さえていた。清も濁も何一つ零すまいと。
 橋を渡ってしばらく歩き、菱屋のある通りに出たところで、通りで遊ぶ睦月と炎の姿が見えた。
「おかーさん!」
 睦月が満面の笑みで暁を指す。炎が屈んで睦月の肩を叩く。
 暁はその場にしゃがみ込んで手を広げ、我が子が髪をなびかせ駆けて来るのを待った。