桜の散り始めた頃、織楽のもとに果枝から一通の文が届いた。
 それは果枝が郷で無事娘を産んだとの報せだった。
 それからひと月、公演の千秋楽となり、織楽は一献で打ち上げを抜け出した。部屋へ戻って荷をまとめ、明日には港町を発つつもりだった。
「織楽」
 襖が開いて顔を見せたのは本川だった。薄ぼんやりとした灯りの中でも顔が赤らんでいるのが分かる。
「やっぱりここか。お前、最近付き合い悪いちゃ言われようぞ」
「何とでも言わしといたらええねん。産まれた子に会いに行くのに遠慮せなあかん道理ないわ」
 織楽は本川をちらと見ただけでまた作業を続けた。
 そう、初めが肝心なのだ。二年前、梨枝のときに痛いほど学んだ。ここでしくじると、また一年も田舎暮らしされることになる。
「上の子も揃って半年くらい郷ん帰してたっちゃろ。少しゃ色付けて包めよ」
「分かってるて」
 本川は襖に腕組みの体をゆるりともたせかけ、織楽の荷を見分している。
「お前ん女房の郷なら行って帰って、短くても半月か。次の公演は抜けるっちゃな」
「深坂にも夏芝居以外の経験積ましたらなあかんやろ」
 それは二年前の組替えで上の組へ上げられた、一番下っ端の女形だった。以来一年半、大舞台での女役にはなかなかありつけず、下の組が大半を占める夏芝居で男役をしている方が多かった。
「ようやく名付きの役やらしたれそやねん」
「そっちの事情ちゃ分からんが。夏はどうする」
「またその話か。何も考えてへんて」
 本川は最近、森宮の娘を部屋に呼び付けては頭を付き合わせて何か話している。一度冷やかしてやろうかと覗き込んだ織楽だが、くそ真面目に芝居の本書きの話しかしていなかったので馬鹿らしくなってやめた。
 森宮の娘は夏芝居の本書きを進めており、本川に役を当てるつもりらしい。
 常に忙しい上の組の役者が羽を伸ばせる唯一の季節が夏だ。そこに役を当てられて喜ぶのも珍しいし、自ら暇を割いて本書きに意見しているとなれば尚更だ。
「役振りは今月末まで。少しでも出る気がありゃ言うてくれ」
「はいはーい」
 月末にはまだ戻っていないかもしれないが、織楽は生返事で荷をまとめ終えた。
 日の出を待って、酔っ払いどもの成れの果てに背を向け港町を出た。幸い晴れの日が続き、数日歩きどおした末に果枝の郷に辿り着いた。
 果枝の家に着くまでの間に見たのは、橙色の大ぶりな実が山と積まれた様だった。
 見慣れない実だが今が旬なのだろう。さすが水菓子の里、と感心したが、歩いているうちに妙な光景に出会った。
 先程見たのと同じ実が、熟しているのに収穫されぬまま葉の緑に隠されている。いくつかは熟しすぎて地に落ち、虫が集って黒い筋が続いていた。道には甘い香りが漂っている。
「あんた、果枝のとこの婿殿じゃないのさ。相変わらず呆れるほど別嬪だね」
 織楽は中年の女に声を掛けられてにこやかに会釈した。この小さな里でたまにしか姿を見せない婿はやたら目立つのだ。
「どうも」
「今から果枝ちゃんのとこ? ややこが産まれたもんねえ」
「お陰様で」
 何度かそうして挨拶を交わし、ようやく果枝の家だ。開け放たれた障子が涼しげだ。庭では三歳になった梨枝が棒きれで絵を描いているのが見えた。思わず足が早まる。
「りっちゃん」
 梨枝はきょろきょろと辺りを見回して父の顔に焦点を合わせた、がぽかんと口を開けている。
「りっちゃん、久しぶりぃ。お父ちゃんやでお父ちゃん。大きなったなぁ。縦に伸びた?」
 梨枝は絵を描きかけたまま、微動だにせず父を凝視している。織楽はその前にしゃがんで腕を広げた。
「おいで、りっちゃん」
「ひ」
 梨枝の顔がぐしゃっと歪む。その手から棒が落ちた。
「うわああああん」
 かつて一緒に暮らしていた実の娘が天向いて泣きじゃくるのを、織楽は腕を広げたまま茫然と見ていた。はっと我に返り梨枝を抱き止める。
「りっちゃん落ち着き。どしたん、お父ちゃんやて。忘れたん?」
「ぎゃああああん」
 梨枝はがむしゃらに暴れ、織楽に抱き上げられると鮮魚のように反り返ってまた泣き声を上げた。
 ばたばたと家の奥から足音がして、姿を見せたのは赤子を抱いた果枝とその母だ。
「あらあら梨枝ちゃん、そんなに泣いてぇ」
「織楽さん……何してるんですか」
 織楽の腕から抜け出た梨枝は顔をぐしゃぐしゃにさせながら母の元へ走っていった。織楽は娘に泣かれ、暴れられ、逃げられて、しょぼくれ項垂れるしかなかった。

 夕餉の席には果枝の一家が揃い、織楽は皆から歓待を受けた。
 新しく産まれた娘は腕の中にすっぽり収まってしまうほど小さく、ぐにゃぐにゃと危なっかしかった。梨枝は相変わらず果枝の傍から離れなかったが、織楽が下の娘を抱いているときはおずおずと近寄ってきて妹の紹介を始めた。
「でぃえちゃんのあかちゃん。あーんあーんてなくの」
「そっかあ。りっちゃんもあやしてくれてんの」
「でぃえちゃん、おねえちゃんだから。よしよしってしてくれるの」
 田舎へ送り出した去年の晩秋、物の名前をいくつか言うだけで精一杯だった梨枝は、ぎこちなくも会話を交わせるまで成長していた。
 果枝の両親や弟からも、果枝や梨枝のこと、新しく産まれた娘のこと、世情から近所の誰それの話まで、とりとめなく話が降ってきた。織楽は二人の娘の相手をしつつ、入り乱れる会話を絶妙な間合いの相槌で泳いでいた。
「しかしガントウは結局腐れるばかりかねえ。うちのロカもどうなることか」
 それは果枝の父が母にぼやいた言葉だった。ふとそれが耳に残った。
「ガントウて、いーっぱい積んだあったあれですか。橙色の、こんくらいの実」
 織楽は娘を自分の肩にもたせかけたまま手で拳を作った。果枝の父が頷く。
「本当ならもう方々へ売りに出す時期なんだがね」
「今年は売れが悪いんですか」
「去年の地震なえとか壬の割譲? なんか、そんなののせいだよ」
 会話を引き継いだのは果枝の弟である柑太だった。彼は前に会ったときより日に灼け一段と逞しくなった。織楽は娘の背を上にさすりながら彼に視線を移す。
「商人の道が変わっちまったんだって。ガントウの実がよく売れてた街にゃ行きにくくなったとかで」
「商人頼みじゃ心許ないってんで、この里から人を出して色々と街を回ってるとこなんだがね……そうこうしてるうちにガントウの時期も終わっちまう」
「でも次はロカの時期だろ。あれこそ高く売れんのに、このままじゃ同じように腐らせちまうよ。どうにかしなきゃ」
「どうにかったってなぁ」
 会話は果枝の父と弟を行ったり来たりする。げふっと息を吐く音が聞こえて、織楽は娘を肩から下ろした。
「あのガントウって実、ここ来て初めて見たんですよ。港のほうには出てへんのですか」
「東の商人がよく買ってくれてたんで、そういや西のほうにゃ出回らなかったかもしれないね」
「それですよ。西で売ったらええやないですか」
 これで解決とばかりに笑う織楽だが、対する二人の顔色は冴えなかった。
 聞けば、以前に西へ販路を広げようとしたことがあったらしい。稀に見る豊作の年だった。しかしいざ山を越えて売りに出てみれば、聞き慣れぬ名、見慣れぬ色形、食べ慣れぬ味の水菓子に店も客も難色を示し、行き帰りの路銀にもならなかったという。
「それくらいなら馴染みのある東で売る方が手堅いでしょう」
「うーん……勿体ない気もしますけどねえ」
 そこへ果枝が皿を運んできた。その上には橙色の瑞々しい実が細切りになって乗っていた。
「これがガントウです。貰ってきたんでどうぞ」
 織楽は娘を果枝に渡し、一切れを摘まみ上げる。種のあった部分のみ丸く抜け落ちた、赤みを帯びた橙の果肉だ。つるりと口に放り込むと、酸味と甘味、しゃくしゃくとした歯ごたえを残して喉へ消えていった。果汁は少なく後味はさっぱりとしている。
「あー、確かに知らん味」
「でも美味しいでしょう」
「子供にはちょっと酸っぱいかもな。俺は好きやけど」
「干すと甘みが増しますよ」
 ふうん、と織楽は次の一切れを摘まむ。ますます勿体ない話だ。きちんと手順を踏めばきっと港にも根付く味なのに。
「これはどんくらい腐らんと保つんですか」
「生のままだと……熟れた日から数えて、暗いとこに静かに置いとけば半月、遠くに持ち運ぶんなら十日くらいが限界かな」
 道端で見かけた実はもう熟れ切っていた。ここから港へは六日。確実に日が足りない。織楽はしゃくっと小さく実を噛んだ。
 膳の片付けをしていた果枝の母が戻ってきて、大人の話に退屈したらしい梨枝を抱き寄せた。
「うちはガントウの木は持ってないんですけど、もう少しで色付き出すロカっていう実があってですね。それが似た事情なんで悩みの種なんですよ」
「つまり、それも東に売ってきはったいうことですか」
 果枝の母が頷く。ロカというのも織楽には耳馴染みのない名だった。
 眠った下の娘を部屋の隅にそろりと置いて、果枝が織楽を外へ誘った。家の裏手へ提灯一つで少し歩いて、果枝が足を止めたのは横に枝葉を広げた大きな木の前だった。
「これがロカの木です。で、これが」
 果枝が提灯を翳して見せたのは枝の方々から四つ五つ連なって下がる小さな実だった。
「ちっちゃ」
「可愛い実でしょう。今は緑色だけど、もう少ししたらほんのり赤く色づいてきて綺麗ですよ」
「赤なるんかぁ」
 提灯の灯りが届く範囲だけでもいくつもの実が見える。それが全て色付けば、さぞ賑やかで美しいことだろう。そして一つ一つの実は小さく愛らしく、ころんと一粒の玉のようだ。
「これもガントウと同じくらい保つん」
「もうちょっと短いかな。潰れないよう細心の注意を払って十日保つかなってとこです」
「そら繊細や」
「でもね、すっごく甘くて美味しいですよ。……これが腐っちゃうのは嫌だなあ」
 織楽は隣に佇む妻を見る。彼女の横顔は唇に憂いと笑みを湛え、息を忘れるほど美しかった。
 彼女はこの地に根付き、この地の陽を浴び、この地に実るものを食べて育った。彼女の体はこの土地から成っている。かつて彼が枷だと恐れたものが、今は熱く胸を打つ。
「せやなあ」
 相槌ばかりを打ってきた声に、そのときは実感がこもっていた。

 下の娘は冴枝と命名した。
 それからの数日で織楽は、冴枝のおしめを替え、梨枝に近寄っては離れられ、柑太とともに里を見て回り、ガントウの乾燥作業に参加し、婿見たさに集まった衆人の黄色い声を浴び、産前産後の果枝の苦労話を聞いて労い、冴枝の寝かし付けに苦戦し、梨枝に膝に座ってもらえるようになり、義父や柑太と酒を飲みかわした。
 里での暮らしを忙しくも満喫し、月末まであと十日を切ったところで、すっきりさっぱり荷をまとめた。
「寂しくなりますねえ。梨枝ちゃんも慣れてきたし、もっと長居してくれればいいのに」
 宴会飯の余分を明日用に包み直しながら果枝の母が別れを惜しむ。織楽は梨枝の開いた石見世の客をしながら頭を下げた。
「ありがとうございます。でも戻ってせなあかんこともあるんで」
「夏芝居に出るんですか」
 ふえふえとぐずる冴枝を抱いてゆらゆら歩きながら果枝が問う。織楽は曖昧に笑うだけだった。

 港町に戻ったその足で織楽は役者長屋の自分の部屋を通り過ぎ、隣の部屋を開けた。本川一人が窓際に腰掛け、紙の束に目を通しているところだった。
「なんだ、早かったな。もっと長居してくるもんかと」
「森宮の娘は?」
 本川が織楽を指す。織楽の後ろには探していた娘、茱歌が盆に茶を入れて立っていた。茱歌は織楽にぺこりと頭を下げて盆を置き、「お湯呑み、もう一つお持ちしましょうか」と振り返る。
「いや、結構。それより話があんねん。あんな――
 話を聞き終わった茱歌は紙の束に視線を落として考え込む。
 本川は盆の湯呑を取って啜った。茶はとうに冷めていた。
「できる……と思います。ただ……そうですね、……うーん」
「もう日が無いんだ、無茶な変更はやめとけよ」
「いえ、できます! ……舞台ごとそういう場所にしたほうがいいかなって。そうすれば違和感なく話に絡めて……うん、うん大丈夫、いける。手直しに三日ください。役振りには影響させません」
 そして茱歌は、紙の束をぺらぺらとめくりながら真剣な顔で独り言を始めた。
「ほんまに? 早よ帰ってきた甲斐あったわあ」
「で、お前が剥いてるそれは何だ」
「んー? 土産もんの水菓子。美味いで」
 織楽が小刀でくるくると剥いているのはガントウの実だった。果枝の郷で帰りに買ったものだ。
「ところで」茱歌が紙から顔を上げ、ちらりと織楽を見る。「織楽さんは……あの、今年の夏芝居に出てみようなんて気は」
「え、……あー、俺はちょっとそこらで売り子やろかなーって」
 言い淀んだ織楽の襟首を締め上げたのは本川だった。
「出るよな? 役振り直前にこんだけ好き勝手うてくるっちゃけ、当然出たくてたまらんちゃろ」
「ややわぁ、男前がそない顔近付けんとって。照れるやん」
「出るよな」
「あー、……喜んで」
 茱歌が小さく歓喜の悲鳴を上げた。夏芝居に上の組の、それも主役級の二人が揃うなど異例のことだった。
 織楽は皿にガントウの薄切りを並べて二人に振る舞い、自分の部屋に戻った。
 まずは果枝の家に礼状を出すのと、併せて柑太にも文を出して、それが終われば無人になって久しい借家の掃除もせねばなるまい。忙しい夏になる。
 隣の部屋からはガントウの味を讃える声が聞こえていた。



 その日は紅花が綾を連れて家に顔を出した。
 出迎えたのは暁と睦月だ。
 全て流れ落ちたあの日から十数日、針葉は束の間の暇をもらっていたが、それも終わり昨日から留守にしていた。
 畳の上には杓子や鍋蓋、木匙が散らばっている。睦月が鍋を鳴らしながら部屋から廊下を練り歩き、その後ろを綾がずりずりと不器用に追っている。青葉薫る温かい風が部屋を吹き抜けていた。
「体はどう?」
「うん、もうほとんど元通り。まさか紅花が来てくれると思わなかった」
 干した布が快い風を浴びてはためく。
 暁が紅花と会うのは年明け以来初めてのことだった。
「お店は大丈夫?」
「平気平気、元々あたし今日は暇もらってんのよ。だからお芝居見てくればって言われてたんだけど」
 えっ、と暁が慌てて空を見上げる。もう昼が近い。今から坂を下りて観られるだろうか。
「いいの。織楽だって今は出てないみたいだし……それに、あんたが辛い思いしてんのに能天気に遊んでらんないじゃない」
 紅花の手が暁の背に触れる。
「思ったより顔色が良くて安心した。……辛かったわね」
 暁は言葉なく、紅花の肩に額を預けた。懐かしい紅花の声に、表情に、緊張が解けていく気がした。
 紅花の手が暁の頭を撫で、背中をさする。暁は目を閉じる。子供たちの声が聞こえる。
 あの日から昨日まで、針葉はできる限り睦月の面倒を見てくれた。静や紅砂は家のことを代わってくれた。暁は何を急かされることもなく、天井を見てこの数日を静養に充てた。
 独りだった。
 ゆっくり寝てろ、と襖が閉ざされ、取り残されたようだった。気が急くのに体は怠くて思うように動かない。まだ血が止まらない、腹の中が引き攣れるように痛い。何がいけなかったのか、何故こうなってしまったのかと、閉じた部屋に自分の声ばかりが反響する。
 日一日と体が快復する一方で、心には澱が溜まっていくようだった。
「睦っちゃん、そっちには行かせないで。そうそう、ありがと」
 暁の背をとんとんと叩きながら、紅花が子供たちに声をかける。
「睦っちゃんが遊んでくれるから助かるわ。随分指示も通るようになったもんね。他人の子はあっという間なのに、どうして自分の子はなかなか大きくなんないんだろ」
「私からすると、一年会わなかっただけで紅花が二人も産んでるんだから、そっちの方が驚きだよ」
「あっはは、そりゃそうだわ。でも産む前も産んでからももう大変でさー」
 話が弾みかけたところで綾の大声、「あやちゃんおなかすいたって」と睦月。そこから休む間もなく子二人の食事、合間に親の食事、寝かし付けに部屋の片付けが続いた。子供たちが寝た隙に夕餉の用意を手伝って、日が傾く前に紅花は綾とともに坂を下った。
 日が傾いて紅砂と静が帰ってくる。日が落ちた後に針葉が姿を見せて、夕餉の席にはいつもの五人が揃った。
「お前が作ったのか」
 膳を見て針葉の表情が曇る。
「紅花が来てくれたの。無理はしてないよ」
 針葉は小さく頷いて箸を取る。忙しく咀嚼しながら睦月の食べこぼしを拾う。暁はそれを見ながら自分の飯を少し口に運ぶ。
 片付けが終わって、針葉は暁の部屋に蒲団を敷き、睦月を抱えて連れて行く。その手が襖にかかる。
「閉めないで」
 ぴくりと針葉の手が止まった。暁はごくりと唾を呑む。針葉は肩越しにわずかに振り向いただけで立ち去った。
「寝冷えしないようにな」
 足音が去り、暁はまた一人になる。体が闇へゆっくりと沈んでいくような、いつもと同じ感覚。でも今日この部屋の襖は開き、風が通っている。
 暁は立ち上がって針葉の部屋へ向かった。

 部屋からはちょうど針葉が出てきたところだった。暁を見てまたも針葉の表情が曇る。
「何してる。寝てろ」
「睦月は寝たかなって」
 針葉は小さく溜息を吐いて部屋を振り返った。
「何度面倒見たと思ってるんだ、ちっとは信じろ。あいつはもう寝た」
「ありがとう」
「分かったらお前も」
「ねえ針葉、私ももう家のことしたり、睦月の面倒くらい見られるようになったよ。もう少し任せてくれてもいいんじゃない」
 針葉は倦んだように廊下の奥を睨み付けて、向かいの空き部屋に入った。月明りの差し込む畳に腰掛ける影を、暁は戸惑いながら目で追う。
「そこだと声が響くだろ」
 暁は襖を閉めて針葉の前に膝を揃えた。月明りは思いのほか明るく、不機嫌そうに刻まれた針葉の眉間の皺まで数えられそうだ。
「何の話がしたいんだ」
「さっき言ったとおり。針葉が私に妙に気を遣っているから、元通りにしてほしくて。私はもう大丈夫だから」
「気なんか遣ってない。自分の餓鬼の面倒見るくらい当然のことだろ」
 わ、と暁はわざとらしく口に手を当てた。
「なに今の、空耳? 去年までの針葉に聞かせてあげたい」
 針葉は癪にさわった顔で月を睨む。暁の笑い声が小さく耳に届く。
「じゃあ針葉、去年私が言ったこと、もう一度言っていいかな」
「何だよ」
「針葉は私に触れなくなったね」
 しんと沈黙が二人を包んだ。針葉が頬杖ついた手を外し、ゆっくりと暁の方へ顔を向ける。
「……何言ってんだ」
「そうでしょう」
「お前、あんなことがあってからまだ半月も」
「針葉は去年と同じ。不自然なくらい私に気を遣って、私から離れて、避けて、触れようとしない、言葉を交わそうとしない、顔も見ようとしない」
「んなこと……」
 否定しようとして釘付けになる。針葉の見た暁の目は濡れていた。暁は唇を歪めて笑う。
「今やっと目が合った」
 何か言おうと針葉の口が開き、何も紡げずまた閉じる。暁の肩が細かく震え、口を覆ってうつむく。
「身の回りの全てから遠ざけられて……私がどこにもいなくなったみたい。こんなこと思いたくなかったけど……でも同じだ、去年と。流れた後と」
 押し殺した息。肩が震える。暁はゆっくりと顔を上げる。
「私は、腫れ物ですか」
 涙がひと筋流れている。針葉はぎこちなく首を振る。違う。違う。
「俺はただ……お前の負担になるまいと。お前を――
 傷付けたくなくて。
 暁の嗚咽が重なる、去年の記憶に。それは針葉自身の声だ。飛鳥に逗留していた秋の夜、自分の生まれ育った汚らしい街を歩き、母の成れの果てを見た。痛む胸からはどす黒い思いが次から次へとこぼれ落ちて止まらなかった。一人では抱えきれなかった。
 あのとき暁は何も訊かず、否定せず、針葉が眠れるまで傍にいた。背中を抱き、髪を撫で続けた。
「お前を……」
 どうして同じようにしてやれなかったのだろう。
 傷付けたくなかった? 傷付きたくなかったのだ、自分自身が。直視できなかった。
 触れただけで壊れそうな暁に、向き合うことができなかった。
 針葉は暁に手を伸ばす。頬に流れる涙を拭い、ぐいと掻き抱く。震える肩。鼓動が伝わる。
「ごめん」
 じわりと布越しに熱が伝わる。しゃくり上げる声が治まり、震えが小さくなる。暁は針葉の胸に顔をうずめ、静かに肩を上下させていた。洟をすする音。
 針葉は暁の髪を撫でながら目を開く。月明りの中で、じっと前を睨む。
「暁。お前は今後どうしたい」
 ひと呼吸おいて針葉の肩に回っていた手が解け、針葉の胸を押して離れる。暁の目には戸惑いがあった。
「どうって……」
「まだ子を望むか」
「針葉は、違うの」
 針葉は厳しい顔で唇を結んでいる。
 望んでいる、願っている、だがその果てに待つ痛みは既に味わった。結局ずたずたに傷付くのは自分ではない、目の前にいる暁だ。
 自分一人の苦難ならいくらでも受けようが、自分は結局何もできず、膝を抱えて見ているしかないのだ。
「……どうして」
 暁の喉から囁くほどの声が漏れる。
「たまたま不運が重なったんでしょう。針葉……極端すぎるよ。じゃあ一生肌を合わせないつもりなの」
「それでもいい」
「冗談でしょう。出家でもするつもり? それとも……ああ、馴染みの人はどこにでもいるものね。相手には困らない?」
「馬鹿なこと言うなよ」
 茶化してみても煽ってみても針葉の表情は静かで、重苦しさが増すばかりだ。暁の背がすっと冷える。本気だ。いや、今が本気だというなら、昨年末に茅葺の家で同じ話をしたときも、きっと。
 暁はゆっくりと首を振る。
「嫌だ……私は嫌。針葉に触れたいし、触れてほしい」
「男冥利に尽きるね、どうも」
「話を逸らさないでよ。どうして。だってこの前は……っ! ……また次も同じように流れると思ってる? だから怖いの?」
「怖いよ。怖いに決まってんだろ。お前が……お前の母親みたいに」
 いつか壊れてしまうんじゃないか。
 八、二、五、合わせて十五。暁の母が産んだ子の数だ。そのうち不具なく育ち子を成したのは、暁ただ一人。
 もう生きた子を抱くことは叶わないかもしれない。暁はそのたび心から体から血を流し、深い絶望の沼に落ちていくのかもしれない。
 ――相次いで御子を亡くされるうちに心を病まれ、暁殿のことは、自ら抱くことも叶わなかった。年に四回の雨呼びを心の支えに生きておられる有様だった。
 子を亡くす苦しみ、失くす子を産む苦しみに身を焼かれて。
 彼女の母親がそうだったように。
「私の……母親? 母上が何だっていうの」
 針葉は暁の頬に触れる。もう冷え切ってこわばった肌。びくりと瞳が揺れ、当て所ない童のように針葉を見る。
「暁。明日、西の通りまで歩けそうか」
「……ゆっくりなら」
「疲れたら睦月もまとめて負ぶってやる。……菱屋に行こう」
 暁はいよいよ眉を寄せて不安そうな表情になった。
 結局、食い違いの原因はそれだ。彼女に明かされていることが少なすぎる。残酷でも知るべきだ。たとい彼女の抱える不安を拭い去ることはできずとも。
「お前もきちんと聞いておくべきだ」