小雨が降っていた。 もつれそうな足で針葉は坂を下った。細かな泥がいくつも裾に撥ねた。人通りの少ない道を選んで、無造作に置かれた桶や縄や笊を飛び越えながら家々の脇を駆けた。大通りを横切って橋を渡り、間地の狭い道を更に走った。 「黄月!」 先日訪れたばかりの戸を乱暴に叩いて開けると、中にいた若い男女が目を丸くして針葉を見た。 「おい、あいつはどこだ!?」 「あっ……え、えっと、秋月先生にご用でしょうか。先生は今ちょっと……」 「ねえ表札見ました? ここは金貸しとかはやってないんですけど! 乱暴なお客さんはお断りです!」 棚の整理をしている気の弱そうな男に、帳簿付けをしている気の強そうな女。針葉は肩で息をしながら部屋の奥までぐるりと見た。体中がしっとりと濡れている。体の奥から熱が湧いて汗が噴き出てくるのに、寒気がした。 「お前らじゃ埒が明かん。秋月はどこ行った」 「だから、知らない人に居場所を教えるわけには……!」 「騒々しい。その子たち、雇い始めたばかりなんだから脅かさないでよ」 針葉ははっと振り返る。隣家から顔を出して彼を睨み付けているのは里だった。針葉は里の手を取った。 「あんたでいい、いや、あんたのほうがいい。すぐ来てくれ」 「何、どうしたの」 「暁が。血が止まらん。苦しがってる。どうにかしてくれ」 里は目を見開いた。この二人のところに次の子ができたらしいとは聞いていた。だがこの焦りようは。 「坂の上だ。早く!」 里は手伝いの二人に言伝を残し、ゆきを任せて針葉の後を追った。 二人の距離はすぐに開き、そのたび針葉は立ち止まって里を振り返り、もどかしそうに道を戻り、最後には里を背負って坂を上った。揺さぶられる道すがら、里は針葉から事の次第を聞いた。 今日は針葉が休みで親子三人家にいたこと。朝餉を終えて様子を見に行くと、暁が呻き苦しみ、着物も蒲団も赤く汚れていたこと。身籠ってからずっと出血があり、しかし今日はその比ではないこと。 里は傘と下駄を置いて部屋に上がり込む。横たわった暁は蒲団の中で震え、その傍には睦月が一人ぽつんと座っていた。 「睦月、待たせたな。……暁、黄月のとこの産婆が来てくれた。もう大丈夫だ」 暁は脂汗を浮かべ、時折ぎゅっと瞼を閉じながら痛みに耐えていた。その視線がゆらりと動いて針葉と里を見た。 「おかーさん、おなかいたいって」 事の重大さを知らず睦月が言う。里は蒲団を剥がし見て顔を歪め、針葉を振り向いた。 「まずあなた、びしょ濡れだから着替えて。それからありったけの布と、盥一杯のお湯、あと空の桶か何かお願い」 「分かった」針葉は廊下へ走り去りかけて足を止めた。縋る声で、「……どうにかなるんだよな。どうにかしてくれるんだよな?」 肩の向こうに見えた里の顔は険しかった。 「酷なことを言うけれど、流れようとする命を留めることは誰にもできない。覚悟はしておいてちょうだい」 痛みを呑み込むようにぐしゃりと顔を歪め、また針葉は走り出した。 程なくして暁の部屋には家じゅうから引っ張り出した手拭いの山、そして湯気を上げる盥と桶二つが並んだ。針葉の目にあの夜が浮かぶ。赤黒い塊、生臭い血の匂い。同じだ、また同じように。 「おとーさん、なんかたべる」 緊張感のない睦月の声と、袖を引かれる感覚で針葉は今に引き戻された。軽く頭を振る。 「あ……、ああ、もう昼か。分かった。何か用意する」 「こっちは私に任せて、あなたは睦っちゃんを見てあげて」 「あんたにも何か持ってこようか」 「どうも。じゃあ塩握りでも何でもいいから軽くいただける?」 厨で朝の残りの飯を握っているうち、行李を背負った黄月が煮売りの椀を手に姿を見せた。針葉自身は食欲もわかず、気もそぞろに睦月に飯を出した。 睦月は覚束ない箸使い、時に指使いでキタキスとハタネの甘煮と飯を掻き込む。頬に指に飯粒が付き、甘煮が膝に落ちる。こういうとき暁は細かく注意していた。針葉は今ただ眺める、命が飯を食らう姿を。 今、すぐそこの部屋で命が流れようとしている。一方でここにいる睦月はこんなにも純粋に、ただ生きている。 かつてこの子に酷い言葉をいくつも投げた。誰の子か分からないと言って関わりを否定し、目をつむり耳を塞いだ。 その命に、今はこれほど救われている。 黄月は様子を聞きに行っては戻ってくる。まだ同じ状態だと首を振る。苦しみはまだ続いているということだ。どう手を尽くしても流れるのなら、早く楽にしてやってくれと祈るように思う。 睦月がごろりごろりと寝転がる。針葉はその傍で腕を枕に横になる。雨の音は既に止み、湯を沸かし直したか、厨と暁の部屋とを往復する黄月の足音が床を伝って遠く聞こえる。 やがて睦月は眠りに落ち、針葉が体を起こしたところへ黄月が現れた。 「今はどんな……」 「もう近いらしい。……よく頑張って耐えている」 「万に一つでも、助かるってことは」 「身籠ったのが暮れか年明けということなら、さすがに……」 針葉は目を閉じて頷いた。分かっている。当たり前のことだ。年明けから今では、十月十日の半分にも遠く及ばない。 ――遠くで暁の叫び声がした。 針葉はびくりと顔を上げた。黄月と目が合う。腰を浮かせる。 また声。 静寂。 針葉は暁の部屋のある方をじっと見つめる。息が震えていた。 しばらくして、足音が廊下を歩いてくる。 「隼くん、ちょっと」 里の低い声。黄月が立ち上がって部屋を出て行く。針葉はそれをじっと見送り、すやすや眠る睦月を見下ろし、ようやく立ち上がった。 ゆっくりと歩く。暁の部屋へ続くたった十数歩の道のり。早く寄り添ってやりたい、そう思う一方で、永遠に辿り着かなければいいと願った。鳥肌が立つ。寒い。寒い。 襖の向こうは静かだった。針葉は唾を呑む。 そっと襖を開けた。 あの日を繰り返していると、そう誤解するほど同じだった。同じ色、同じ匂い、血の気の失せた暁の顔。 まだ汚れものの山の残るその部屋を、ゆっくりと針葉は歩んだ。 暁の傍に膝を衝く。薄い色の目は疲れ切って焦点を結ばない。 冷たい頬に触れる。瞼がぴくりと動く。 「……駄目だった」 ぽつりと暁が呟いて顔を覆った。 程なくして黄月と里の二人が戻り、襖も障子も開け放たれて、部屋はみるみるうちに片付き血の痕跡を見失わせた。 暁は着物も蒲団も替えて、また横になっていた。その脇には針葉と睦月、向かい側には黄月と里が座っている。 「しばらくは出血が続くだろうから、横になって無理なく過ごすようにね。睦っちゃんの世話は当分代わってもらって。胸が張ったら軽く冷やして様子を見てね。また十日後に見に来るから。隼くんからは何かある?」 「今のところ浮腫みが目立つが、じき引くだろう。もしおかしいと感じることがあれば、俺でも里さんでもいいから知らせてくれ」 里と黄月が順に話す。暁は天井を見つめたままゆっくりと瞬きを繰り返す。里が身を乗り出して暁の顔を見る。 「具合はどう。痛みはまだある?」 「もう……随分ましです。つわりも……何だか嘘みたい。こんなに楽だったかな」 荒れた暁の唇に薄く笑みが浮かぶ。 「少しお腹が減った……ような気がします。久しぶり。……辛いなあ」 「おかーさん、おなかいたいのなくなった? いっしょになんかたべようか」 睦月が一切の陰なく言う。暁は首をそちらへ向けて睦月の頬に指を滑らせる。 「辛いわよね。でも気を落とさないで。前に言ったと思うけど、流れるのはそう珍しいことじゃないのよ。今回は気の毒だったけど、次はきっと……」 慰めるため掛けられた里の言葉に、暁は目を伏せた。沈黙。「去年の秋にも」針葉が呟いて、里ははっと口を覆った。 「そう……ごめんなさい」 「いえ……。……あの、前回はまだお腹が目立たない時期だったので、血の塊ばかりだったんですが……今回は随分目立ってからだったので、少しは育っていた、んですよね」 針葉は、黄月と里の二人にびりっと緊張が走ったことに気付いた。 「最後に一度だけ、抱っこしてあげることは……できないでしょうか」 「やめたほうがいい」 針葉は目を見開いた。里の顔が青ざめている。横たわる暁からは見えないだろうが、明らかにその顔は動揺していた。 「見て触れれば、どうしても執着が生まれるでしょう。もうあれは……流れた命なの。前を向くべきよ」 「でも、供養代わりに」 「悪いことは言わない。やめておきなさい」 暁は絶句し、里から顔を背けて「分かりました」小さく呟いた。 重い沈黙が流れる。黄月が障子の向こう、雨上がりの空を見上げて小さく声を掛けた。里が頷く。 「じゃあ……悪いけど、私たちはお暇させてもらいます」 二人が会釈して腰を上げ、傘を手に行李を背に去っていく。暁は何も言わず天井を見ている。 針葉は思わず立ち上がって二人の後を追った。 「ちょっと待てよ」 木々のある下り坂に差し掛かろうとしたところだった。二人は重い表情で振り向いた。里は唇を固く結び、針葉が追ってくることを知っていたようだった。 「来てもらった身でこんなこと言いたかねえが……あの言い方は無いだろ? なあ、やめろって言ったってことは見付けたんだよな。どれが子供か分かったんだよな。なら一目見せてやってくれてもいいだろ!?」 二人の表情は変わらない。苦いものを呑み下したような顔で懸命に何か押し殺している。針葉はぐっと歯を食いしばって黄月の胸倉を掴んだ。 「黄月、お前も……なんで何も言わねえんだ。生きろだの命が何だの偉そうな口叩いてるくせに、流れたら何の価値も無いのか?」 「針葉、落ち着いてくれ。あれは……違う、あれは」 「何だよ!」 針葉は燃えるような眼で黄月を睨み付ける。――ふっと下りてきた考えがあった。 「畸形でも……あったのかよ。一目で分かるような……。……だとしても暁に選ばせてやってくれよ。今日まで腹ん中で育ててきた命だろうがよ」 「違う」 里がやっと口を開いた。針葉は拳の力を緩めて彼女を見る。 「あれは命じゃない。……生き物じゃない」 「……は?」 ぞっと、頬を何かが撫でていった。針葉の体に鳥肌が立つ。 「何……だよ、それ。どういう……」 里はゆっくりと首を振る。何度も何度も、次第に速く、きちりとまとめた黒髪が振り乱れる。 「何って、私の方が聞きたい。これまで何百の産に立ち会ってきたけれど……見たことがない。第一いくら二人目だからって、三月そこらであんなにお腹が大きくなるはずないのよ」 怖気が全身に拡がる。牙と交わした会話が針葉の頭の中をぐるぐる回る。 「あれは何なの」 里は一歩前に出て針葉の腕を掴んだ。 「あの子は……一体何を産んだの?」 寒々とした沈黙がどれほど続いたか。 坂を上ってくる足音と話し声に、はっとその場の緊張が緩んだ。 「あれ、黄月と里さん。来てたのか」 「あらあ、夫婦仲良くって羨ましいわあ」 紅砂と静が連れ立って姿を現し、会釈をして通り過ぎていった。里は針葉を見る。彼の顔を覆っているのは怒りではなく底知れぬ疲れと哀しみだった。 「……何となく、次第は分かった。……ありがとうございました」 針葉は目を伏せて深く一礼し、踵を返した。 隼太と里は言葉なく青葉に囲まれた坂を下る。時折木々から雨の残りが落ちて弾ける。坂を下りきったところで里がぽつりと呟いた。 「成長できてないのは私の方ね」 里の歩みが遅くなり隼太と距離が開いていた。隼太は足を止めて振り返った。 「あなたを見くびっていたのもそう。あの子のことも……ただの悪餓鬼だと思ってたけど、あんな顔もするのね。……怒って殴り掛かられるかと思ってたのよ。まさか頭を下げられるなんてね」 今、里の足は完全に止まっていた。震える手で里は口を覆った。 「答えが分からないの。どう言えば良かったの? 自分の無知が許せない。そのうえあんなに取り乱すなんて」里は苦しげに瞼を閉じてうつむいた。「いたずらにあの子たちを傷つけただけね……情けないったら」 鳥の声。暮れ始めた空がぬかるむ地面に長い影を落としている。 隼太は自分の足跡の残る地面を踏んで戻った。 「全てを背負おうとしないでください」 里の背に手を添える。掌の重さと温かさに里は顔を上げた。 「あなたができることには限りがある。もちろん俺もです。それを思い知るのは苦しいけど悪いことじゃない、でしょう?」 里はじっと隼太を見つめる。「あれ」を目にしても、部屋の片付けと清拭を終えるまでは平静を装っていられた。彼を呼んでいなかったらあの時点で取り乱していただろう。悔しいが、背に添えられた彼の手は大きい。 「ありがとう。でも 硬くこわばっていた頬から、少しずつ苦しみが流れ落ちるようだった。赤らむ空の下を歩き出す。後ろで隼太の足音が続いた。 その日は四回目の待田家訪問だった。紅砂と静が横切った西の大通りはいつもに増して人出が多かった。 「今日は何かあるんですか」 「舶来市が今日で終わりなのよ。うちのお爺ちゃん、ずっと作業部屋に詰めてるらしいから今日こそは行くんじゃないかな」 紅砂は数年前に港で見た異国見世を思い出す。珍かな異国の生き物に口上言いの抑揚ある言い回し。 「お爺さんは何目当てですか」 「異国の飾り物とか工芸品ね。絵だの彫り物だの織物だの」 「そういえば、この前の本もそんな風でしたね。表紙が異国文字で中身が絵図の」 「阿漕な商いしおってーってやつね。そうそう、あれは異国の意匠が色々載っててね、この前は弟がかじり付いて見てたわ」 二人の歩く道は狭くなっていく。紅砂も既に覚えた道だ。 その日は待田家で昼を馳走になった。同じ部屋には静の父と弟妹が集まり、騒々しくもこれまでより打ち解けて話が弾んだ。一番の強敵である待田翁は、初めに顔を見せただけで作業があるからと別の部屋に籠ってしまっていた。 昼が終わって弟妹たちはばらばらと部屋を立ち去り、結局今日も今後の核心に迫る話はできないまま、辞去が近付いたとき。 「があああ……っ!」 遠くで静の祖父の叫び声がした。 静の父が立ち上がり、紅砂と静をそこに留め置いて部屋を出た。何事か話し声はするが戻らない。焦れた静が立ち上がり、紅砂も後に続いた。 静が歩いて行ったのは廊下の先、紅砂が立ち入ったことのない家の奥だった。途中通り過ぎた部屋の棚には納品前の品々、作業途中であろう品々が並んでいた。真ん中と下の弟が覗き込んでいる場所で静は足を止めた。 「お爺ちゃん、どうしたの……えっ?」 紅砂が続いて部屋を見る。そこには畳に突っ伏して微動だにせぬ待田翁、その横で弱り果てた静の父の姿があった。 「また腰をやっちゃったみたいだ。静、ちょっと蒲団敷いて」 「ええ? もう、また重い物でも……ああ、今日はそれ? 中は……割れてないわね、大丈夫みたい」 静の視線の先には大きめの木箱があった。それを持ち上げようとして腰を痛めたということだろう。紅砂は部屋に入り、痛みで震えている静の祖父の横に膝を衝いた。 「前にも同じことがあったんですか」 「まあこの歳だからねえ。もう去年の話なんだけど」 待田翁は痛みに脂汗を浮かべ、何も話せず細い息を吐き出すばかりだ。 「できるだけ深く息を吐いてください。少しでも体が緩むように」 ぎろりと目玉が紅砂を睨み付けるが声は出ない。紅砂は待田翁の背にゆっくりと触れては離し、深い息を誘導する。 「できそうなら少し体を起こしてみましょうか」 またしても血走った目玉が紅砂を睨み付ける、がやはり声は出ない。 静と真ん中の弟とで蒲団を整え、静の母が水を張った盥に手拭いを浸して持ってきた。 紅砂は静の父と共に待田翁を蒲団に移した。待田翁は腰を曲げたまま横向きになる。腰を冷やすため紅砂に着物を開かれても、彼はぎょろりと若造を睨み付けるだけだった。 「数日で痛みが引き始めると思うので、それまではこまめに冷やしてもらえますか。とにかく三日は安静に。三日経ったら少しずつ体を動かしていきましょう」 「あ、ああ。助かるよ。君、詳しいんだね」 妻にすかさず耳打ちされ、静の父は「えっ」と眉を上げた。 「そうか、正骨師……だったっけね? えっそうだった? 本当に? 僕も聞いてたかな?」 「父さん、今更何言ってんのよ!」 「悪い、悪かったって」 静の父は恐縮しきって気まずそうに笑う。紅砂は苦笑を返すしかなかった。 「もし馴染みの正骨師か医者がいなければ、またお伺いしましょうか」 「本当に? いやあ助かるよ」 「おい舶来の坊主」 突如割り込んだのは、これまで痛みに震えるばかりだった待田翁の声だった。 「舶来ではありませんが、何でしょう」 「今日歩けるようにしてくれ」 紅砂の苦笑が引きつった。 「……はい?」 「いやいや父さん、無茶言っちゃいけないよ。……無茶だよね?」 「無茶です」 「ほら無茶なんだって! 正骨師の彼が言うんだから無茶なんだよ。分かってくれよ」 紅砂は唇を結んで天井を仰いだ。 また我儘が始まったと言わんばかりに笑う静の弟、静は祖父を説得にかかり、静の父は待田翁からの風当たりの強さに弱り果てている。静の母は全て受け流して笑顔で手拭いを取り換えている。 これがこの家の在り方だ。落ち着こう。紅砂は頭の中に黄月を呼び出す。 「三日は安静が必要だと思いますが、動けるとおっしゃるのなら動いた方が体の戻りは早いでしょう。動けますか」 「動けるわけなかろう!」 「そうですね。では安静に」 待田翁は立ち上がろうとした紅砂にくわっと目を開いた。 「おい待て、そこを何とかするのが正骨師だろ。誇りは無いのか誇りは」 「誇りで痛みは引きませんよ」 「畜生……!」 待田翁の顔に浮かんだ脂汗を静の母が笑顔で拭う。紅砂は溜息を吐いて座り直した。 「何か今日なさりたいことがあるんですか」 「市で」 いち、と紅砂は繰り返す。 「舶来市で、この前の本の他に何かあるか見繕ってこにゃならん」 「そんなの父さんに任せりゃ済む話じゃないの」 「この弱腰に行かせてみろ、ふっかけられて諾々と受け入れて有り金全部巻き上げられて終わりだ」 「うーん、酷いなあ」 だらだらと続いていくやり取りを、紅砂は掌で制した。 「分かりました、じゃあ僕が行ってきます。中身については目が利かないので、静さん、付いてきてもらえますか」 「え、ええ」 「あの本はいくらで手に入れました。いくらまでなら出しますか」 「確か褪す葉が二枚だ。同等以上の価値がありゃ、五鈍まで上乗せしていい」 紙入れを受け取って外に出たときはもう日が傾いていた。二人は大通りまでの道を足早に進んだ。 市の端へ辿り着いたときには人通りはまばらになり、ちらほらと見世が畳まれて歯抜けの状態だった。 「まずいわね」 「まずいですね。……とりあえず探しましょう」 並んで歩きながら通りの左右に目を凝らす。しかし例の本をどの見世で手に入れたのかも分からない。ざざっと置かれた物に目を通して歩く、その間にも一つ二つと見世は閉じていく。 空が赤らんでいく。市の終わりが見え始めた。 「実にまずいわね」 「実にまずいですね」 そして通りの終わりへと来た。二人は無言で見つめ合う。 紅砂は空を仰いでぐしゃぐしゃと髪を掻きむしった。さすがの彼も顔に苛立ちが見え隠れする。静は慌てて取り成した。 「ご、ごめんね、我儘ばっかり。もう帰りましょ。ちゃんと探して無かったんだから早めに来なかったお爺ちゃんが悪いのよ」 「んー……でもどうにかしたいな」 「そのうち腰治して自分で探しに来るわよ。ね、帰りはちょっと冷やかしながら行きましょ」 なすすべなく来た道を戻る。そのときにはもう、少し歩いて店、また歩いて店という具合で祭りの終わりのうら寂しさだった。 その途中で声が飛んできた。 「おい、兄ちゃん」 初めは自分に向けられた声だと思わなかった。素通りしようとしてまた「兄ちゃん」と声。 「なに、客引き?」 静が紅砂に身を寄せて、紅砂はやっと声の主に首を向けた。そこにいたのは見世を畳もうとしている男だった。 「あ……あっ!」 一瞬の逡巡のちすぐ思い当たったのは、彼が数年前と変わらぬ特徴的な風貌をしていたからだ。木箱の上に腰掛けた香ほづ木売りは、数年前と同じ不精髭に落ち窪んだ目で、布の上に並べたものをまとめていた。 紅砂は香ほづ木売りに駆け寄る。静は男の風貌にぎょっと頬をこわばらせ、しゃがみ込んだ紅砂の数歩手前で足を止めた。 「おっさん、久しぶり。何年ぶりだ」 「さあ、何年だったかな。兄ちゃんは買いもんかい」 「そのつもりだったけど、もう店仕舞いしてたみたいだ。ひと足遅かった」 「おおっと、そりゃ残念。でもまた半年のうちにゃ市が開かれるさ。そんときゃうちの品もよろしくな」 相変わらず器用さは健在だ。話を続けながらもごつごつした手が素早く動いて数多の品を仕舞っていく。品揃えは以前とは多少違うようで、木片のほかに石や実のようなものもあった。 「今はここで商いしてるのか」 「普段は津ヶ浜の島のほうだがな、時々こうして船に乗って来るのさ」 「津ヶ浜か! そうだよな、あの境の市は人別改めのとき潰されたもんな。無事で良かったよ」 「そうなんだよ、あんときゃ肝が冷えたぜえ。明日番人が来るって分かったのが夕どきで、それからてんやわんやだ。でもこうして無事に商いを続けてるってわけさ。仕入れは不便になったがな」 香ほづ木売りはぐいと体を伸ばし、紅砂の後ろの静に黄色い歯を剥き出して笑った。 「あの姉ちゃん、もしかして兄ちゃんの女かよ。色っぺえなあ」 「ああ、……そんな目で見ないでくれるか」 「何だよ、見るくらいいいじゃねえの。あー羨ましい、眼福眼福ってな」 香ほづ木売りが拝むように手を擦り合わせる。舐めるような視線を浴びて静の顔が露骨に険しくなった。 「ちょっとせんりさん、帰りましょ」 「あ、はい」 「何だよ、もう帰んのか。あ……なあ、あの嬢ちゃんは元気にしてんのかよ」 紅砂が静に急かされて立ち上がったところだった。彼の言うのが上客だった暁のことだとはすぐに察しがついた。 「最近は色々あったけど、まあな。しっかり母親やってるよ」 「母親って……あの嬢ちゃんが?」 「おっさんは知らないよな。四つのやんちゃ坊主がいるんだ」 「産めたのか」 立ち去ろうとした、しかしその声が何か引っかかった。紅砂は数歩行ったところで立ち止まった。振り向くと、香ほづ木売りは木箱から腰を上げていた。 「本当にあの嬢ちゃんが」 「ああ」 「坊主も四つに」 「だからそうだと……」 紅砂は言いかけて眉を歪め、大股で男に歩み寄った。何かおかしい。これではまるで。 「あんた何を知ってる。……もしかしてあの、カゾとかいう人を狂わせるって葉か」 記憶の底から蘇ったのは黄月の父の話、そしてそれを打ち明けた黄月の険しい顔だった。 大柄な紅砂に詰め寄られて、香ほづ木売りは身をすくめた。口の中でもごもごいう声。紅砂は彼の襟首をぐいと掴む。 「聞こえない。はっきり言え」 「す、すまない。知らなかった、本当に知らなかったんだよ。俺らにとってのカゾはあくまで虫の匂いを取るためで……」 「弁解は後で聞く。産めたのかってどういうことだ。あんた何を知ってる!」 「せんりさん、もう暗くなるわよ! 帰りましょってば!」 急かす静の声に心がかき乱される、しかし確かに日は落ち薄暮が迫っていた。 香ほづ木売りが、自分の襟首にかかった紅砂の手をぐいと掴んだ。 「すまんが俺も船が来る。ひと月待て、来月末の船で必ずまたここに戻る。そんときゃ知ってること全て話すさ」 「おい……っ」 「またな」 木箱を蹴倒し、暮れた道を素早く走って香ほづ木売りは見えなくなった。それと同時に「もうっ」と強く袖を引いたのは静だ。 「いい加減にしてよ。今日はうちのお爺ちゃんのお遣いで来たのよ。一度戻らないと」 「静さん……」 「あたし一人で暗い道を歩かせたいの」 静の顔には怒りと同じだけの不安があった。紅砂は肩越しに転がった木箱を振り返り、振り切って歩き出した。 戻 扉 進 |