日に日に暖かくなり、目に映る花の色が増えていく。草と土の薫りが濃くなる。 目と鼻には美しい春の盛りだが、家を出ようとする紅砂の耳には鳥のさえずりに重ねて呻き声が聞こえた。 「……大丈夫かな」 「大丈夫じゃないでしょうけど、こればっかりは耐えるしかないわよね」 見送りに出た静がたすき紐を解きながら溜息を吐いた。 「去年の花を思い出しますね」 「花ちゃんより酷い気がするんだけど」 紅砂の背を見送って静は戸を閉めた。自分も支度しなければ。足を向けた先は暁の部屋だ。 そこでは暁が肩で息をし、その背中を針葉がさすっていた。睦月は事の次第が呑み込めていないらしく、母の呻き声に目を丸くしつつも蒲団の山の上で遊んでいた。 「全部吐けた? というか吐くものあった?」 暁が静を見るが、声にはならず小さく首を振った。ほつれた髪が青ざめた頬にかかっている。顎の線は遠出から帰った日より鋭くなったようだ。 「水すら駄目ってねえ……。睦っちゃんのときもそんなに酷かったの?」 「え? えーと」 話を振られた針葉が口ごもり、静にじろりと睨まれる。暁がかすれた声で「こんなに酷いのは初めてです」と答えた。 静は腕組みして宙を睨み、蒲団の大将を振り返った。 「睦っちゃん店に連れてくわね。そんな状態で見られやしないでしょ」 「……、すんません」 針葉は殊勝にも頭を下げた。彼は今、旧豊川領に残る水の道の視察のため、櫂持ちとして数日おきに遠出している。睦月を連れては行けなかった。 「睦っちゃん、ほら下りて。花ちゃんのお店に行こ」 「やー、おかーさんとあそぶから」 睦月は唇を尖らせて静の手を振り払った。 「睦っちゃんのお母さん、今体が辛いのよ」 「からだつらくないの!」 「じゃあゆきちゃん呼ぼうか。行く?」 「いく!」 睦月は従順に静の手を取り、山は即座に解体された。「餓鬼が一丁前に……」針葉が小さく呟き、暁も弱々しく笑う。 「じゃああたしも行くわね。もし何か食べられそうなら厨に朝の残りがあるから。お昼に一旦戻ろうか?」 「ううん、自分の世話くらいは」 「本当に無理しちゃ駄目よ。夕方には戻るから」 静と睦月が去り、家には針葉と暁の二人が残った。針葉は睦月の残骸の蒲団を敷き直し、暁はよろよろとその中に収まった。 また来てくれたかも、暁が下腹を押さえてぽつりと言ったのは、家に帰って半月ほど経った夜のことだった。聞けば年が明けてから月のものが無いという。命が流れ落ちた朝の記憶はまだ生々しく、手放しで喜ぶことはできなかったが、針葉は暁を抱き締めてその体に宿った奇跡を祝った。 穏やかな日々は束の間で、すぐに何も飲めない食べられないの酷いつわりが彼女を襲った。 今見下ろす彼女の頬からは血の気が失せ、唇も乾いている。 「出血はどうだ」 「うん、……まだ」 暁は目を伏せたまま答えた。 「今回は休みもらおうか」 「自分の世話くらいはできるって。私の代わりに存分に働いて稼いできて」 瞼が気だるげに開いて針葉を見た。針葉は遣り切れない思いで首を振った。 「俺にはお前が、腹の中のもんに食い潰されてくように見える。こうなるって分かってたら、お前を」 「言わないで」暁の声がぴしゃりと針葉を止める。 瞼は今しっかりと開き、茶色の目が天井をじっと見つめていた。 「私は大丈夫だから。私より先に針葉が諦めないで。……辛いよ。辛いに決まってる。でもまだ流れてないんだ、生きてるんだって信じられる」 何も言えずにいた、針葉の視線を避けるように暁は目を覆った。 「あなたが後悔するなら、私は一人で耐えるしかない」 針葉は暁を見つめる。青白い首筋を、荒れた唇を、痩せた頬を、袖から覗く細い手首を。呑み込んだ言葉が胸の底に重く溜まっている。 今の姿を望んだわけではない。見てもいない触れられもしない何者かより、大事なのは彼女なのだ。だが心に決めたはずだった――自分にできるのは、彼女の決断に寄り添い、共に歩み、全力で支えることだけだ。 また言葉を呑み込む。彼女の心を守るために、今は自分も堪えるしかないのだ。 暁の指に触れる。ひやりとした感触。その手が動いて、縋るような目が針葉を捉えた。 「……今はお前の頑張りに頼るしかないな。お前一人に背負わせて、ごめん」 針葉は倦んだ表情で立ち上がり、廊下から外を眺めた。暁の視線がそれを追う。 「あんまり自分が腑甲斐なくって嫌になる」 行ってくる、ぽつりと言い残して足音が去った。横になる暁には春の風と陽気が降り注ぎ、開いた襖の向こうではそよそよと青葉が揺れていた。 ふと目覚めると日は高く昇っていた。 意識を取り戻した途端に腹から喉にかけてぐぐっと重苦しくなり、暁は唾を呑み込んで目を閉じる。また船酔いが始まった。楽なのは眠っているときだけだ。それすらも最近は深く寝付けず、微睡むばかりだった。 ごそごそと横を向く。再びは眠れず、また目を開ける。 目の前に膝があった。 びくりと顔を上げると、黒烏の炎と目が合った。 「な……っ、え?」 「ああ、寝たままで結構です。ご心配なさらんでも、俺一人じゃない。櫻もいます」 さすが黒烏と言うべきなのか、姿を目にするまで一切の気配が無かった。 「あの、どうしてあなたが」 「そんな警戒なさらんでください。あなたが俺たちの介入を嫌がってるのは百も承知です。普段なら上がり込んだりしませんよ。見張りだけに留めときます。普段ならね」 つまり普段は見張られているということだ。東雲にさらわれてから五年、薄々感付いてはいたが、彼らの口からはっきり聞かされると複雑な思いだった。 「ハルが舟出前にうちに寄って、頭下げてったもんでね。気に掛けてほしいと。それで僭越ながら馳せ参じた次第です」 はぁ、と暁は頷いて廊下に目をやる。櫻は厨か、手水場にでも行っているのだろうか。 「ちょっと失礼」 炎が蒲団の中から暁の手を引っ張り出して脈を取り、爪を見、目を見、舌を見た。 「随分やつれましたね。肌が冷たいし血色も悪い。身籠ったそうで?」 「はい」 「だからかな、妙に浮腫みもあるな……再び失礼」 炎の手が蒲団の中に滑り込んで暁の腹に触れた。暁がびくりと体を固まらせる。悪心が酷いため蒲団の中では帯を解いていた。 「……身籠ったとお気付きになったのはいつ頃です」 「年が明けてから……その、馬が」 「つまり暮れまでは何とも無かったと。ふた月ちょいか。それでこんなに腹が出るもんですかね。苑は気分の悪いのが終わった頃に膨らみ始めたらしいですが」 「苑は元々鍛えていたでしょうし、それに私は前に睦月を産んでいるんです!」 とんだ辱めだ。暁は顔まで蒲団を被って炎のいない方を向いた。櫻はまだ帰ってこないのか。 「……失礼しました。まあ俺は産婆じゃないんで詳しいことは分かりゃしませんが」 「ええそうでしょうね」 「そんなら俺に分かることをしましょうかね。飲まず食わずが続いてるんですって?」 炎が立ち去る気配があった。部屋が静かになる。暁はそっと蒲団から顔を出して足音の消えた方を見た、と同時に足音が戻ってきて、また蒲団を被った。 何かを置く音、しゃりしゃりと削る音、水の音、紙の音。 「今、気分はどうです。起き上がれますか」 暁はゆっくりと起き上がって腰に枕を置いた。そこに炎が差し出したのは湯呑だった。 「口の中を湿らす程度で結構です」 暁は湯呑の中に揺れる水をじっと睨んでおずおずと手を伸ばした。たった一杯の水さえ受け付けなかったのに、今更だ。 しかし鼻を近付けると、その水からはふっと爽やかな芳香がした。ほんの少し口に含んでみると、甘さと塩気が染み込むように喉を流れ、その後にまた香りが通り抜けた。 「飲めそうならもう一口」 炎に後押しされ一口、もう一口、そしてほとんど一杯を飲み切った。 「……驚いた」 「しばらく吐き気が来なけりゃ成功です。今の水はこの瓶一杯に作ってあるんで、ちょびちょび飲んでみてください。足りなくなったらこの分量で」 炎は小さな書き付けと大瓶、紙の包みを暁に渡した。続いて彼が取り出したのは別の包みだ。 「体ん中が滞ってうまく動いてない様子なんで、良くする薬を出しときます。まあ五日飲んでみてください。吐き気の強いときは無理せずに」 薬包の束に加えて別の書き付けが暁の前に置かれた。 「ちょっとでもましになるようなら続けて飲まれるといい。金輪際俺の顔なんて見たくないってことでしたら、これを間地のお仲間に出してもらってください。ご質問は」 「あ……、いいえ。色々とありがとう、ございます」 「じゃあこれで」 炎はすっくと立ち上がり廊下へ出た。 「あの……櫻はどこに」 「いたってことにしといてください。あのハルって男は面倒臭そうだ」 暁はあんぐりと口を開けて遠ざかる背中を見つめた。嘘も方便とはよく言ったものだ。 暁は瓶の中身を湯呑に注ぎ、薬を一包体に流し込んだ。しばらくしてふらりと立ち上がり、厨へ向かおうとして、その前にと外に置いた草履を履いた。手水場へ行きたいと思うのも久しぶりだった。 遠くの山がぽんぽんと桜色に染まっているのが見えた。頬に触れるは春の風だった。 新と綾の双子は産まれてから半年が経ち、自分の手足で遊び、畳じゅうごろごろ寝転がるようになった。少し目を離せば腹を中心に回り、今までと別の方向に頭を向けている。歳の離れた弟妹のいる静によると、そろそろ動き出す時分らしい。 「動き出したら尚更大変になるわね」 静と交代で戻った紅花は背中から綾を下ろし、身八ツ口をぐいと広げて手拭いを挟むと、綾を抱き寄せた。あーあーと腹から声を出す新を抱き上げたのは帳簿を付けていた浬だ。 「この棚もうちょっと整理しとくよ。今度新を預かってもらえるから、その日でいい?」 「そうだ、斜向かいの石屋さんとこでも一人なら預かれるって言ってもらってんの。五日で根付一つ」 「前に一度預かってくれた人だよね。いいと思うよ」 紅花は口を離した綾を畳に下ろし、反対の身八ツ口を広げて新を受け取った。んく、んく、と小さな喉が動き、黒い目がきょろきょろと周りを観察する。 「ねえねえ、先月頼んだ分の飾り物一式、取りに行ってくれたでしょ。どんな感じだったの」 新の気を逸らさないよう平坦な語り口だったが、紅花の目は興味津々といった様子で輝いていた。浬は筆を止めて綾のよだれを拭った。 「待田先生のとこだろ。最初に対応してくれたのは多分お父さんかな。この店のお遣いって分かってからは妙に顔を見られたよ」 「浬の顔?」 「すごく遠慮がちにちらちらね。その後対応してくれた若い男の子からは、ずばり言われたよ」 「何て?」 「お兄さんはどこにでもいそうな顔ですねって」 思わず吹き出してしまい、新が不思議そうに母の顔を見上げた。紅花は髪の毛の少ない小さな頭をさらさらと撫でる。 「何それ、ちょっと失礼。紅砂って結局そこしか見てもらえてないのね。不憫ったら」 「本当にね。もう三回足を運んだっていうのに」 がらりと戸が開いて話を継いだのは静だった。「お二人さん、そろそろ店仕舞いにかかっていい?」 新が乳から口を離して「あー!」と大きく答えた。 静は畳に背を向けてちゃきちゃきと店仕舞いにかかった。雨模様の空を見上げて日除け暖簾を外し、通りにはみ出したものを引っ込めて戸を閉める。そのさなか、漏れ聞こえた夫婦の会話が耳に蘇った。 本当に、「もう三回も足を運んだのに」。それに尽きる。 十日ほど冷静になる期間をおいて再び静の家を訪れたのは先月のことだ。 祖父も両親も弟たちも一堂に会し、きちんと紅砂と静を迎えた。祖父は「この前は悪かったよ。あの饅頭うまいな」とばつの悪い表情で謝った。 紅砂と静の家族は改めて挨拶を交わし、前回とは比べ物にならないほど和やかに場が進んでいたはずだった。 会話の途中でふと静の父が言葉を止めた。 「そういえば……静がここ半年くらいよく泊まってくるようになって、奉公先で床を借りていると聞いていたんだが」ずずっと茶を啜って彼は朗らかに笑い、「まさか君と一緒にいた……なーんてことは、あっはは、まさかだよなあ」 「やだ父さん、何言ってんのよ。花ちゃんのとこに泊まってるんだってば。ねえせんり、さ……」 静は横に座る男を見て固まった。紅砂は沸騰しそうなほど顔を紅潮させてうつむいていた。にわかに待田家側が騒がしくなる。 「え……まさか? 本当にまさか?」 「んだと、この破廉恥坊主めが! そこん直れ!」 「あなたたち、別の部屋に行っときなさい」 「えー、何だよ、こっからが面白いんじゃん」 「いいから下がりなさい」 そこからは紅砂にとって針の筵だった。時に静も助け船を出すのだが、その一々が却って彼の立場を悪くしてしまうようなのだ。 「まあ、もう二十を過ぎた娘のことだからうるさく言うつもりはないが……くれぐれも節度を保って」 みっちり絞られた後でそうまとめられ、紅砂と静は帰路についた。 しかしその道中も紅砂は「静さんは自分の家に帰ったほうが」「お願いだから花の店に」と渋るばかりで、何とか押し通して坂を上ってからも、「せめて蒲団は別の部屋にしましょう」と粘られた。 「あのねえ、今更義理を立てようったって、昨日までのことが帳消しになりやしないのよ」 「でも」 「初めてうちに挨拶に来た日の、あの夜は何だったのよ。珍しく起きてたかと思ったら、いつになく激しく」 「静さん!」 「何よ」 紅砂の顔は湯気でも出そうな具合に赤く染まっていた。負けじと見返すと、彼は苦しげな表情でゆっくり首を振った。 「静さんの……お父さんの顔が、ちらつくんです」 閨で父の幻影を見るのも辛かろう。静は絶句し、脱力し、納得し、引き下がるほかなかった。 そしてその半月後に設けた三回目の席では、静の父との一対一だった。人数が減ったぶん気楽には見えたものの、静は父の話題選びに首を傾げる点が多かった。 紅砂の振った話題は、細工の生業のことや幼い頃の静のことだった。一方の静の父は口を開けば、 「言葉はどこで習得されたの。苦労しただろうね」 「親御さんの国は遠いの?」 どこにでもいる容姿だったら、馴れ初めだったり、生業だったり、今後のことだったり、もっと実のあることを語れただろう。だが今の父は、壁一つ隔てて見知らぬ生き物を眺めているようだ。静にはそれがもどかしい。 「だから、小さい頃から坡城で暮らしてるんだってば」 「ああ、そうだっけ。ところで今日はうちで昼を用意してるんだ。君の口に合えばいいんだが……、それよりまず箸って使えるのかな。分かる? 箸」 「父さん」 「だって。もし使えなかったら気まずい思いをされるだろう。普段何を口にされてるかも分からないし」 幼い時分からここで暮らしているというのに、いちいち確認するほうが余程失礼だ。やきもきする静の隣で紅砂は苦笑した。 「箸は何とか使えますし、大抵のものも美味しくいただけると思います。普段は……そうですね、蕎麦が好きで、一時期は港の屋台を順に回っていました」 「蕎麦」 「今朝は納豆飯に干物で済ませました」 「納豆。干物」 「ああ、あと静さんの漬けてくれたシラナも。お母さんから習ったと聞きました」 「漬物」 静の父は神妙な顔で、紅砂の口から語られる馴染みしかない食べ物の名を繰り返す。 やがて静の母が膳を運んできて、紅砂は嬉しそうに手を合わせ、何の問題もなく食事を終えた。一緒に腹を満たすことで話も弾んだ。だが最後に静の父が、お世辞のつもりか「箸の使い方、上手いもんだね」と言って、また静は脱力することになった。 ――ああ、もう先が思いやられる。 裏通りの道にぽつりと雨粒が落ちて、静はいつの間にか止まっていた手をまた動かし始めた。 奥では夫婦と双子が話に花を咲かせている。 「じゃあ預かってもらうとき、紅花ちゃん芝居見てきなよ。最近行ってないだろ、楽しんどいで」 「ええ、浬一人でどっちか見るってこと? それはちょっと」 「大丈夫だって。織楽とも話しておいでよ。あそこは二人目が産まれたんだっけ?」 「そろそろじゃない。先月の果枝さんの文ではもう少しって。ねえ浬、出歩くよりあたし、一晩でいいからぐっすり眠りたいんだけど」 誰もかれも仲の良いことだ。自分はこのひと月ご無沙汰だというのに。 次に自分の家へ赴くのは今月の終わりだ。何か一歩踏み込む切っ掛けが得られるといいのだが。静は肩で溜息を吐いた。 その日は珍しく隼太が早くに戻り、里の家で三人夕餉を囲むこととなった。 里が土間に立ち、隼太が盆に三人分の茶碗汁椀を置いて運び、ゆきは豆腐の小鉢を一つずつそうっと運んだ。三人揃って手を合わせるのは、籍を入れてからまだ数回目のことだった。 かちゃかちゃと器の音が響く。味噌汁を啜る音、次の湯を沸かす薬缶の湯気。 隼太は箸を止めて里を見た。 「最近仕事はどうです」 「相変わらず。この前はまた港に呼ばれたけど、女としちゃあんまり愉快なとこじゃないわね」 「港?」 「廓よ」 視線も合わないまま、色気のない会話が淡々と続いていく。 「あなたの方は?」 「相変わらずですね」 「人を雇ったら? 手伝いたいって言ってた子もいたじゃない」 「ああ、いましたね」 隼太は年明けに突然押し掛けてきた若者を思い出す。以前に同じ家の老爺を診に訪れたことがあり、顔は知っていた。 「先生のお役に立ちたいんです、なんて言って。見込みありそうじゃないの」 「でも女の子でしたからね」 「あら、聞き捨てならない」 「いえ、女の人が職を持つことを否定するわけじゃないんですが」 隼太はずずっと茶を啜って薬缶を取りに立ち上がった。 「ゆきはどう、今日の手習いも楽しく通えた?」 ゆきはもぐもぐと咀嚼しながら頷き、里の手に文字を書いた。 「ゆみちゃん、りっちゃん、きくちゃん……って友達?」 ゆきは再び頷いて答えた。そしてまた文字を続ける。 「へえ、弓って子は……梅、ってそこの家の? ああ、梅さんの姪っ子なのね。ふんふん、それで?」 箸を止めてゆきの会話に付き合っていた里の返答が、途中からつまずき出した。 「お姉ちゃん、に? ゆきが? ああ、ゆきもなれるんじゃない? だってもう睦っちゃんのお姉ちゃんみたいなものでしょ。……うん、……ん?」 湯呑を手に戻って来た隼太を、里が怪訝な顔で見る。またゆきの指文字が始まって、慌てて視線を戻す。 「弟か妹かって……どういうこと? なに、何の話?」 「だからね うめさん あかちゃん できたって わたしのところも すぐよって」 「おかあさんは おとこのこ おんなのこ どっちかな わたしもおせわするね」 ゆきの文字を読み終えても、里は唖然と小さな掌を見つめていた。はっと顔を上げた、そこにいた隼太は平然とした表情で空になった茶碗を重ねていた。 「隼くん。さっき……私が土間に立ってるとき、ゆきと何か話した?」 「聞いている限り、今のと同じ話だと思いますよ」 「だから何の話を」 「梅さんが身籠ったのは里さんも知っているでしょう。ゆきが遊びに行ったら、ゆきもすぐお姉ちゃんになれると言われたようで。ほら、籍を入れた時期がうちとひと月違いでしたから。それでゆきから、うちにはいつ産まれるのかと訊かれました」 里は口を開けた、が続く言葉が出て来ない。不思議そうな顔のゆきを見つめ、隼太に視線を戻し、恐る恐る問う。 「それで……あなたは何て?」 「何ても何も。お母さんの気持ち次第だと、正直に答えましたよ」 さっと里の顔が青ざめた。 やられた。先手を打たれた。 籍を入れる朝の隼太の言葉が耳に蘇る――里さんやゆきが望まない限り、俺はそれ以上を望まないということです。 「ゆきが望む」その状態になってしまった、いや持ち込まれた。 「あなたねえっ」 声を荒らげそうになり、里はゆきの眉が歪むのに気付いた。苦々しい思いでぎこちなく笑顔を作り、ゆきが食事を再開したところで鋭い視線を隼太に向けた。 「……話の続きは隣で」 「望むところです」 春に似つかわしくないひやりとした風の流れる中、何も知らないゆきは、空の茶碗を前に笑顔で手を合わせた。 夜、里が隣家の戸を開けると、隼太は短檠の小さな灯りの中で乾いた草を刻んでいるところだった。 「ゆきは寝ましたか」 「ええ。上がらせてもらうわね」 隼太が示したのは部屋の奥にある座蒲団だった。里は戸を振り返り、一瞬躊躇し、隼太を通り越して奥に腰掛けた。 隼太は薬草と机一式を片付けて眼鏡も外し、里の向かいに座り直してくくっと笑った。 「……何よ、人の顔見て笑うなんて」 里は眉をぴくりと上げて不機嫌に言った。 「いえ、果し合いみたいな顔をされているので。夜に忍んで来てくれるんだから、もう少し色っぽくなるのかと思ってましたが」 「馬鹿にしてるの? あんな騙し討ちみたいなことされて、さあ子作りしましょうなんて言いにくるとでも思った?」 「あ、いいですねそれ」 「良かないわよ」 とうとう声を荒らげる里だが、向かいに座る隼太は腹が立つほど穏やかに笑っている。 「何がおかしいのよ」 「嬉しいんですよ。この一件に関して、同じ土俵で話をしてくれるのは初めてですから。これまでなら改めて場を設けようとはしなかったでしょう」 里は隼太を穴の空くほど睨み付け、睨み付け、やがて額を押さえた。 「あなた、どこかで私をからかってるんだと思ってた。悪い冗談で、いずれ後悔するって」 「違いますよ」 「そうね。……ごめんなさいね、どこかあなたを甘く見てたみたい。いつまでも十歳の隼太くんじゃないのよね」 里は腕組みして真っ向から隼太を見据えた。 「ちゃんと話します。……まず、私はあなたと子を作るつもりは一切ありません。あなただけじゃなく、他の誰ともね」 隼太はわずかに眉を上げた。口元からは笑みが消えていた。 「亡くなった祖母も産婆で、幼い頃からずっと祖母についてたから、この歳にしちゃ産の場数はいくつも踏んでるつもりよ。極端な難産の末に子が亡くなってしまうこともあったし、母親が亡くなってしまうこともあった。どちらも亡くなることもあったし、病にかかった人も……子堕ろしも。妻子を亡くした夫や、母を亡くした上の子の嘆きや……辛い場面を見過ぎて、根っこのところに恐怖が植わってしまったのがまず一つ」 里が人差し指を立てる。 「もう一つは私の母の話になるんだけど、母は籍を入れずに私を身籠ったらしいのね。で、私を産むときに亡くなってしまったと」 「だからって里さんが同じようになるとは」 「限らない。もちろん分かってる。でももしそうなったら、この近くの産婆って今は私しかいないのよ。お花ちゃんの産のとき私が遠出してて、ここら一帯の産婆を探し回ったって話は聞いたでしょう。私が今いなくなるわけにはいかないのよ」 里が立てた二本の指を、隼太はじっと見つめていた。沈黙が流れ、里はおもむろに手を膝に戻した。彼女の視線はゆらゆら揺れる短檠の影に落ちていた。 「これが理由。あなたからすればちっぽけな理由かもしれないけど」 「……分かりました」 存外に穏やかな声で、里は思わず隼太の顔を見た。切れ長の目が里を見返した。 「分かってくれた、の?」 これまでの経緯から油断はできなかったが、彼の口元には再び笑みが浮かんでいた。 「里さんの意思を尊重します。そりゃあ心残りですが、里さんはきちんと話してくれた、それだけで今は充分です」 「……ありがとう」 無事に話し合いが終わって里の肩からほっと力が抜けた。その気の緩みが里を饒舌にさせた。 「隼くんを嫌ってるわけじゃないの。それだけは分かってね」 「はは。少しは好いてもらえてますか」 「籍を入れるくらいにはね。書類上のこととはいえ、あなたを縛ってしまって申し訳ないと思ってる。だから私に操を立てようだなんて思わなくていいのよ。どこで遊ぼうが口出しはしないつもり。あ、でもゆきには気付かれないようにしてほしいかな。さすがにもう少し大きくなるまではね」 短檠の火が揺れる。返答が無い、そのことに里は気付かず、ぱちんと両手を打ち鳴らした。 「やっぱり雇いなさいよ、あの女の子。若いし可愛らしかったもの。あの子に限らず良い人ができたら言ってよ、いつでも離縁に応じるからね。ゆきは元々私一人で育てていくつもりだったんだから」 「里さん」 重々しい声だった。里はどきりと動きを止めた。 「やっぱりあなたは何も分かっちゃいない」 「なに……何が」 隼太の顔からは今や一切の笑みが消え、閉ざした表情の向こうに怒りが見えた。 「俺には何を言ってもいいと思ってますか。俺だって人並みには傷付きます」 何かが彼の気に障ったらしい。しかしまだ埋め合わせができるものだと思っていた。里はぎこちなく笑って続けた。 「いきなり何を怒ってるのよ。傷付いたって、そんな……私はただ提案をしようと」 「あなたは! ……あなたは結局そうだ。高みの見物を気取って、傍観者面で話をはぐらかす。そういうところに腹が立つんです」 隼太の声が徐々に大きくなる。身を乗り出す。里は自分の発言を省みる間もなく、後ずさり首を横に振るばかりだった。 「分からないわよ、だって本当にそんなつもりじゃ」 「分からない。それならそれで結構」 隼太が立ち上がった。上背のある彼の迫力に、里はびくりと後ずさり掌を突き出した。 「ちょっと待って、何するつもり。おかしいわよあなた」 「いたって平静です」 「お酒でも飲んでるの」 「素面ですよ」 隼太が里の間近にしゃがみ込んだ。息が聞こえる。元々抱き合ったことすらない間柄だ、これほど顔を寄せたことなど無かった。里は火の届かぬ薄闇に、必死で彼の表情を読み取ろうとする。 「俺はきちんと言いましたよ。あなたを好いています、手を出さないのは本意ではないと。あなたがきちんと俺に向き合って、そのうえで拒むならば仕方ないと、そう思うからこそ辛抱しているんです。なのにあなたは俺に外で遊べと言う。妾を作れと。馬鹿にしてるのはどっちです」 「き……気に障ったなら謝るわよ。そんな脅かさないで」 背中が棚に当たった。狭い家の中ではそれ以上後ずされない。隼太の影がまた近付く。里の髪に触れる。 「嫌われてなくて嬉しいですよ。むしろ籍を入れるくらい好きだと」 「そこまでは言ってな……」 両の手首が押さえ付けられた。里が息を呑む。視界がぐるぐる回り、脳裡にいつかの静の声が蘇る。情が芽生えたところであわよくば―― 「安心してください、俺はいつでも里さんの意思を尊重します。子ができるようなことはしません」 影が近付く、息がかかる、唇が触れる――何だこれは、事態が呑み込めない、目の前に見えるこれは何だ、隼太の顔だ――その奥を貪るものがある――違和感と息苦しさに振り払おうとする、里の手首にぐっと力が加わる、その痛みでようやく理解する、これは……これは、 噛み付く。 「――っ!」 隼太が身を離した。 聞こえる息は自分のものか。里は肩で呼吸しながら、薄闇に慣れてきた目で隼太を凝視した。彼がぐいと口を拭った手には血が付いているだろう。 「里さん……」彼は信じられないものを見る目で、「知らないんですか、口吸いじゃ子はできないんですよ」 「……っ、知ってるわよ!」 里は触れたものを手当たり次第に投げ付け、隼太の脇をすり抜けて土間へ走った。下駄を履くのももどかしく、戸を開けて外へ出る。隼太が追ってくる様子は無かった。 外は涼やかな風が吹いていて、里は自分の頬の火照りに気付いた。近付いてくる彼の目に映った自分は、産婆でもない、隣家の頼れる姉でもない、ただの女だった。剥き出しで外に放り出されたかのように心許ない。恥ずかしくてたまらない、この歳にもなって。 「何なのよ……」 両の頬に手を当てる。混乱しているのか恐怖からか、泣き出しそうだった。夫に口を吸われて逃げました泣きましたと、そう言い換えればこれほど間抜けなこともない。笑いそうになり、また泣きそうになる。じんじんと痛む手首。頭の中はぐちゃぐちゃだった。 次の朝、隼太は平然と現れた。ゆきの手前動揺した素振りを見せることもできず、里は二人が飯を平らげるのを土間でそわそわしながら待った。 女の子が呼びに来てゆきが家を出た。見送った背後には椀を持った隼太が立っていて、里はびくりと体をすくませた。さっと距離を取る。 「里さんはまだ食べないんですか。今日は休み?」 「は……隼くんあなた、……よくあんなことした翌朝に来られたわね」 「あんなことって。夫が妻の口を吸ったぐらいで、そんな大袈裟な」 隼太は肩を揺らして笑いながら、盥に溜めた水で自分とゆき二人分の椀を洗っていく。 「吸った……」昨夜の感触が蘇る。里ははっと自分の唇を押さえ、「ぐらいって。ぐらいって、あなたねえ」 「俺がどれだけ自制してるか知らないから、里さんはそんなことが言えるんですよ」 ぐっと里の喉で言葉が詰まった。自制と言った、何を。いつから、どれだけ。 里はよろよろと後ずさり、彼から一番離れた壁に背中をもたせかけた。眩暈がした。 「……あなたの目当ては私だったの? ゆきのことは出しにしただけ?」 「まさか」椀を全てすすいで盥の水を汲み直し、隼太は手を拭った。「俺は、ゆきの命を丸ごと抱えて走る里さんの生き様に惚れたんです。比べたりできません」 惚れた、そうはっきり言われたのは初めてだった。だがゆきは今九つだ。それが真実なら、一体いつ始まった話なのか。また眩暈がする。 気付くと目の前に隼太が立っていた。 「心配しないでください。俺はいつだって里さんの」 「意思を尊重します?」 隼太は満足げに頷いて戸を開けた。春の柔らかな風が彼の癖毛を揺らした。 「人生は長いんです。子を成す以外でもできることは山ほどありますよ」 戸が閉まって部屋の中が薄暗くなった。隣家の戸が閉まる音を待って、里は再び戸を開け、目を細めて空を見上げた。 初めて会った十歳の少年の面影を今でも見ていた。それから十三年の時が過ぎ、彼の皮一枚向こうはもう計り知れない。それでももう籍を入れ、彼の子としてゆきは手習いに通い始めた。ゆきは彼に懐いている。三人分の飯の支度にも慣れた。支え支えられて日々は回っている。 「……うじうじしてらんないわ」 里は低く呟き、腹ごしらえに土間へ戻った。 戻 扉 進 |