坂の上の家に居着いていた静が数日間実家へ帰り、次の店番のとき現れた紅砂に手を振った。
「明後日なら皆いるって。都合つく?」
「昼からなら大丈夫です。静さん、ありがとう」
 微笑む紅砂に対して静は浮かない顔を隠さなかったし、手土産の相談をしても「何も要らないわよ」と素っ気なかった。
「何よ、とうとう挨拶にでも行くの? もうそこまで考えてるの」
 新を背負った紅花が棚整理の手を止めて首を突っ込んできたが、「ただ顔を見せるだけ、大ごとじゃないわ」静は客から受け取った銭を持って奥へ消えた。
「あら。喧嘩中?」
「そうでもなぁけど……なあ花、静さんの家んことちゃ何ぞ聞いとうか」
 紅砂が声を抑えたので、紅花も背中でばたつく新を揺すりながら考え込んだ。
「あー、細かぁことは葦さんに任せてたけあんま覚えんわ。職人の家系じゃ言うてたかなぁ。西の橋渡った向こうて」
「やぁ遠ぉから来とうな。職人て何の」
「そこまで知らぁわ。あ、あと五人兄弟ん一番上て聞いた」
「五人?」
 そのときようやく気付いた、静はおしゃべりなたちで彼女自身のことに関しても例外ではない、なのに彼女の家のことは語らないのだ。
 二日後の昼過ぎ、二人は間地を過ぎて西の橋を歩いていた。紅砂の腕には大通りの菓子屋の名物饅頭がずっしり収まっている。
「今日は晴れて良かったですね」
「雨よりましよね」
 いつもは静が弾ませてくれる会話も今日は続かない。紅砂はちらと腕の包みに目をやる。職人ということはよほど気難しいのだろうか。甘いものは間違いだったか。いや饅頭を嫌う人なんてこの世の中に、
「こっち」
「あ、はい」
 道を折れて狭くなる通りを行く。静が足を止めたのは通りの角、間口の広い家で「金工木工 待田」と小さな看板が掛かっていた。
「待田……」
 聞き覚えのある名だ。静が「待ってて」と言い置いて扉へ歩き出す。
 がらり、扉が内から開いた。そこにいたのは静より年嵩で、しかし母と呼ぶには随分若く見える女だった。静が足を止めて小さく会釈する。
「戻りました。皆家にいますか」
「静ちゃん、ごめんねぇ。さっきお爺さんが出掛けちゃって」
「え、だって今日……」声の調子が上がりそうになり、静は紅砂をちらと見た。「分かりました、中で待ちます」
 女が紅砂に視線を合わせて目を丸くし、「あの方?」と身振り手振りで聞いている。慣れた反応だ。紅砂は会釈してその場で待った。
「あ、じゃあ……どうぞ」
 広い土間の隅に下駄を並べ、静の後ろを進む。四人いるという弟妹の誰かか、幼い声が奥から聞こえる。廊下には所々に鳥の彫像や飾り箱が並んでいた。
 通されたのは小さな畳敷きの部屋で、開け放った障子の向こうの小さな庭では松が身をくねらせていた。いつもは作業部屋なのか、部屋の隅に寄せられた机にはたがねがいくつも置かれていた。紅砂は机に饅頭の包みを置いてぐるりと部屋を見回し、静と目が合った。
「待たせてごめんなさい。今、お茶を用意してくれてるから。運んでくるわね」
 静が立ち上がろうとしたところで玄関から何やら話し声が聞こえ、足音が近付いてきた。紅砂が慌てて腰を浮かせる。襖が勢いよく開き、その向こうに現れたのは白髪交じりの皺深い男だった。
「お爺ちゃん、今日はお客さんが来るって言ってたのに……」
 孫娘の非難には目もくれず、彼がきっと睨み付けたのは紅砂だった。
「この嘘吐き野郎が! 危うくぼったくられるとこだったわ、阿漕な商いしおって」
「はい?」
「この期に及んで白切るつもりか! お前がこの前売りつけようとしたこの本、足を運んでみりゃあ半値だったぞ」
 彼がばちんと机に叩き付けたのは異国文字が横に並ぶ本だった。拍子で紙がめくれて中に絵図が描かれているのが見えた。
 敷居の向こうにはわらわらと人が集まってきていた。その中の一人、年配の柔和な男が近寄って静の祖父だという老爺の肩を押さえた。
「まあまあ父さん落ち着いて、また倒れるよ。ちょっとごっちゃになってないか。前に来たのは、確かこの人じゃなかっただろ」
「本当か? じゃあこれは誰だ、紛らわしい顔しおって」
「だからこの人は、静が連れて来た……」静の父であろう男は戸惑うように娘を見て、「異国の物売り?」
「いい加減にしてよ!」
 静が両手を机に叩き付けた。場がしんと静まる。
「お客を連れて来るって言ってあったでしょ。どうして出掛けちゃうのよ。どうして変な言いがかり付けられなきゃいけないのよ」
「だってお前、いきなりそんな異国の男を」
「異国の人じゃないってば! あたしが働いてるくれなゐ屋の花ちゃんのお兄さんで、天神館で正骨師として働いてる、きちんとした人です!」
 静の祖父と父は毒気を抜かれた様子で、静と紅砂を交互に見る。
「それで……正骨師がうちに何の用だ」
「いやいや父さん、くれなゐ屋の注文でしょうよ」
 その掛け合いに、廊下から様子を見ていた青年が耐え切れない様子で笑い出した。
「お二人とも本気の本気で言ってるんですか。姉ちゃんが会わせたい人っていうんだから、そんなの決まってるでしょ」
 ここしかない。紅砂はすっくと立ち上がって一礼した。
「お初にお目にかかります、私は」
「まあまあまあお二人とも、こちらへどうぞ!」
 そこに割り込み、紅砂と静の腕を掴んでぐいと部屋の外へ連れ出したのは、最初に迎え入れてくれた女だった。ずいずいずいと人の波をかき分けて、二人は下駄の並ぶ土間まで連れ出された。
「な、何するのよお母さん」
「仕切り直しなさい!」
 にこやかだった女は、突然くわっと形相を変えた。
「仕切り直すの。お爺さんもお父さんも、あんなこと言っておいて、はいそうですかいらっしゃいって切り替えられないわよぉ。一旦落ち着かせてあげて。静ちゃんも、あれじゃ駄目よぉ。私でもびっくりしたんだから、まずどんな方なのか言っとかなきゃ」
「どんな方なのかって……それ、見た目で言ってるんですよね。そんなのって」
「静さん、一旦退きましょう」
「でも」
 紅砂を見上げた静は、彼の表情に熱が無いことに気付いて唇を止めた。
 口の中の言葉をぐっと呑み込み、「また帰ります」静は頭を下げて来た道を引き返した。

「俺に対しても、説明が足りないんじゃないですか」
 しばらく歩いて橋を渡ったところで紅砂が言った。静は眉根を寄せて紅砂を見上げ、ふっと視線を逸らした。
「そうよね、ごめんなさい」
「言いにくい事情があるのかとも思ってましたが、待田先生のお孫さんだって、それだけですか。隠すことでもないでしょう」
 細工師の待田翁と小間物屋は昔からの付き合いだ。小間物屋には彼の手による根付や簪、煙草入れに飾り箱といった小物をいくつも置いており、季春座から依頼を受けて作ってもらったこともあった。
 ――花ちゃんの店で働き始めたのって、あの店の品揃えが好きだったからなんです。
 ――あたし、結構目利きなんですよ。家がちょっとした店をやってて。
 思い返せば納得することも多かった。
 小間物屋の仕入れは静に一任しており、静が仕入れたものにも待田翁の作品は多かった。だが値に対して質は確かだし売れ行きも悪くなかった。待田家が暴利を貪っていたとも思えない。
「……あの家の話になるのが嫌だったのよ」
「今日は早とちりされたけど、悪い人じゃないでしょう?」
「短気だけどね」
 笑い声。静の口を重くさせていたものとは何なのか。紅砂は待田家で交わされていた会話を思い出す。
「静さん、失礼ですけどあのお母さんは後妻さんですか」
「あはは……変だと思うわよね、妙に丁寧に話すから。そうよ、あたしの本当の母さんは十年……十二年前かな、亡くなってるの。それから少しして、同じように父さんを亡くした兄弟が弟子入りしてきてね。さっきあたしを姉ちゃんって呼んだのは弟のほうよ。三つ年下。で、兄弟のお母さんがあの人。弟子二人を気に入った末に、やもめ同士でくっついちゃったわけね」
「え?」
 思ったよりこじれてきた。単純に継母継子の不和という話でもなさそうだ。
「それから歳の離れた弟と妹が産まれて、あっという間に五人兄弟。いいのよ、あのとおり悪い人じゃないし、家のことも楽になったし」
 歩き続けてもう一つの橋が見えてくる頃だ。風が一度びゅうと吹く。すれ違った人が着物の前を深く合わせる。
「職人の家だし、父さんは元々息子が欲しかったのよね。上の弟はすごく目がいいから魚々子ななこを蒔かせたら一級だし、下の弟も細かい透かしが得意で見事なもんよ。そのまた下の弟は九つの甘ったれだけど喜んで練習してるし、待田家は安泰。だから……気は楽なのよ」
 言葉とは裏腹に彼女の頬には寂しさが見える気がした。
 細い指が風に乱れた髪を耳に掛ける。いくら彼女を見つめても視線は合わない。もどかしくなり、紅砂は静の手を取った。
「静さん、俺は認めてもらえるまで何度でも足を運びますから、根回しだけはよろしくお願いします」
 やっと視線が合った、静の顔はまるで泣き出しそうに見えた。紅砂は握った手に力を込める。
「紅花の店は静さんの仕入れと客捌きがあってこそです。紅花が動けなくなって、俺や浬だけじゃ店は回せなかった。売り上げが保ててるのも、品選びの目が確かだからでしょう」
「そりゃ、産まれたときから飾り物に囲まれて目が肥えてるもの」静はうつむいてもう一方の手で顔を覆った。「慰めないでよ。自分に価値がないなんて思っちゃいない。変に気を遣われても困るわ」
 しばらくそのままだった。通りすがる人がちらちらと視線を投げていく。
 再び顔を上げたとき、目尻が赤らんでいたものの表情は穏やかだった。
「帰りましょう」
 大通りに近付く人ごみの中で指がほどけて離れる、紅砂は細い指を手繰り寄せるように追い、触れる。冷たい彼女の指を、何より離しがたかった。



 斎木が住んでいた間地の長屋には「薬師 医師 秋月」と表札が掛かっていた。
 黄月が忙しくしているという噂は本当らしい。針葉が仕事の合間に数回足を運び、隣家の里を言伝役にしてようやく訪れた今日は、時折暖かい風が吹く。家に戻ってから既にひと月近くが経っていた。
 しかし戸を叩いても返事は無い。がらりと開けた向こうは無人だった。
「おいおい……」
 針葉が渋い顔をしていると、隣の家の戸が開いて里が顔を見せた。
「悪いわね、さっき怪我人だからって呼ばれて行っちゃったのよ。入って待ってたらどう。お茶くらい淹れるわよ」
「いや、そんならぐるっと歩いてくるから」
 針葉は手を振ってその場を後にした。あの女は苦手だ、二人きりで膝を付き合わせるなんて冗談じゃない。
 あてもなくぶらぶらと歩き、ふとどこか見慣れた景色に行き当たった。昔の自分の家を彷彿とさせる、ごみごみと狭い家の立ち並ぶ通りだ。
「ああ、あのおっさんのとこか」
 針葉は自分の左腕を見下ろす。坡城に来て初めて彫りを入れた場所だ。
 だがどこにも看板は出ておらず、彫り師は廃業したのかもしれなかった。何せもう十年も前のことだ。
 当時はまだ前の長が存命だったが、既に赤烏として体が動く時期は過ぎており、自分の死後、拾った子供たちが食い扶持を稼げるよう腐心していた感がある。薬師の父に仕込まれた黄月を斎木のもとに弟子入りさせ、針葉に関しては菱屋との縁を繋ぎ、口入れ屋の使い方を教えた。
 その頃菱屋から紹介を受けた仕事は、単発のものと赤烏としてのものが半分、そして継続して続けていたのが届け屋だった。ヤソや酒など重くかさばるものを届け、次回の注文を取る。得意先は主に飯屋で、そのほか男手のない家からも注文を受けていた。
 女はそのうちの一軒、間地に住んでいた。二十歳前後かまだ上か、当時の針葉から見れば随分年上だった。彼女はいつでも一人だった。働いている様子はなく、一人で暮らすにしてはヤソの量は多く、だが疑問を持つには針葉は幼かった。
 彼女は届けに行くたび駄賃をくれた。女の一人暮らしは寂しいのよと、ちょっとした話に付き合わされた。針葉は単純に喜んだ。
 いつしか肌を合わせる仲となった。
 女に触れるのは初めてではなかった。赤烏の仕事で組んだ相手から、仕事終わりには港で血の匂いを落とすのだと教えられていた。人に触れ、人へ戻るのだと。
 だが彼女には港の女とは違って名があった、狭い長屋には昼の光が差していた。月に二回、五と廿の日、届け順を最後にして彼女の家に長居した。底も無くのめり込んだ。
 終わりは突然に訪れた。彼女は美人局の一味として男とともに港番に引っ張られたのだ。
 それを教えたのは近くに一人住まう女だった。ヤソの大俵を抱えて行き場を失くした針葉に、女は自分が買うと申し出た。便利だなと思ってたのよ、これからは月二でうちにも届けてよ。
 女は、針葉と美人局の女との間にあったことを執拗に知りたがった。
「何もないよ。俺みたいな餓鬼が、美人局に引っ掛かるほど銭持ってるように見える?」
「もっと単純な話よ。あの人、若い子が好きだったみたいで、届け屋だの何だのっていくつも呼んでたんだって。君もお気に入りだったのかなって」
 内心反発した。満たされたと感じていたあのひとときが、物笑いの種にされてたまるか。
 だが言葉を交わすうち絡め取られるように情が移り、ヤソを届けるたび女の家に長居するようになった。女は駄賃だと言っていくらかの銭を持たせた。初めは受け取っていた針葉だが、気持ちが傾くにつれ違和感を覚え始めた。
 どうして銭を渡したがるんだ。これじゃまるで身売りじゃないか。
 何の言い訳なんだ。
 こんなもの必要ないだろ?
 あんたと俺は対等だろ?
 俺はあの女とは――「千耶」とは違うんだ。
 次から銭はきっぱり断ろうと思っていた。それまでに受け取った分も返すつもりだった。その日は注文の前日だったが近くを回る用があり、ついでにとその女の長屋を訪ねた。
 戸を開けたのは男だった。縦にも横にも広く、見上げればがっしりと岩山のようだった。
「うん、何だお前?」
「あ……、外川屋です。ヤソを、届けに……来たんですが」
「届け屋ぁ?」男は家の中を振り返り、「おい、届け屋なんか使ってんのかよ。こういうのって割高なんだろ。無駄銭使うなよ。俺が帰ったときに言や買いに行くのに」
 彼は慣れた様子で女の名を呼んだ。女はこわばった顔で頷き、もう止めとくわと笑った。
 彼が戸を閉めてしばらく、針葉はそこに立ち尽くしていた。ようやく歩き出した背後で戸の開く音がした。女だ。中の男に何やら告げて戸を閉め、近寄ってくる。
 言い訳でもするのかと思った。今までに移った情と、許せないという思いが綯い交ぜになっていた。
 女は泣いて詫びることも、ごまかす素振りさえ無かった。
 彼女は鬼の形相で針葉の顎を掴んで問いを封じた。
「無駄口叩かずとっとと立ち去んなさい。分かってるから銭を受け取ってたんでしょ」
 今なら、と針葉は思う。女の家に戻って強面の夫に洗いざらいぶちまけてやるだろう。どんな言葉でひと回りも若い彼を誘ったか、何度あられもない恰好を見せたか。その後の修羅場が見ものだ。
 だがその時の彼には女の細腕をねじ上げる力もなく、彼女が長屋に消えるのを茫然と見送り、歩き出した。
 今まで受け取った銭が、今日返そうと思っていた銭が、懐に重かった。
 ――お前もどっかへ行くんだね。やっぱりあの男の子供だ、あたしを捨てるんだね。
 あの声が蘇る。左腕が痛む。これは呪いだ、あの女の声が聞こえる。
 ――誰もお前を選ばない。お前は誰からも捨てられる。お前の居場所はあたしのところにしか無いんだよ。
 左腕が痛む。鎖に締め付けられているように。
 ふと顔を上げたところに彫り師の家があった。
 餓鬼にゃ彫れんと一度断った彫り師は、針葉の左肩に青黒く伸びた鎖紋を見て表情を変え、針を手に取った。
 女から受け取った銭は消え、懐は軽くなり、左腕には激しい痛みが戻った。鼓動に合わせてずきんずきんと、まるで左腕にもう一つ心臓が入ったようだった。
 そのまま家に帰るつもりだったが、間地を出るより早く、斎木の手伝いに来ていた黄月に呼び止められたのだ。
「常々思ってたが針葉、お前は馬鹿だ。老い先短い長の心労を増やしてどうする。あの兄妹だってまだ小さいのに、怖がって逃げ出すぞ。何より自分の体に傷つけようって考えが気に食わない。傷がどうして治るか分かるか、それが命の在り方だからだ。つまりお前の足りない脳味噌は、お前という命に対する冒涜と重大な背信を」
 黄月はあの頃から実に黄月だった。
 それでも彼は針葉の傷を手当てし、皮が剥がれるまで斎木の家に留め置いたのだ。
 今は秋月と表札が掛かるそこは、針葉が戻ったときには戸が少し開いて主の在宅を教えていた。

 黄月が出した茶を啜って、針葉は家の中を見回した。相変わらず薬関係の物は多いが、余計な物の一切が排除され、斎木の家だった頃とは比べ物にならないほどすっきりとしている。
「生きていたか」
 何の感慨も無い声で呟き、黄月が向かいの座蒲団に座った。針葉は笑って湯呑を盆に置く。
「言うと思った。そっちは本当に忙しいらしいな。お前に会うのが順番待ちになるとは思わなかった。斎木の爺はこんなに忙しかったか?」
「人徳の差かな」黄月も眼鏡を曇らせながら茶を啜り、「俺の場合は薬作りや置き薬の管理もあるからな」何事も無かったように続けた。
「肩書が二つもあったもんな」
「ゆくゆくは紅砂を呼んで療庵の札も掛けたいんだが、いかんせんこの狭さじゃな」
「夢のでかいことで」
 針葉は胡坐の足を正して「ところで」と切り出した。
「この家乗っ取ったうえに隣の産婆とも籍入れたんだってな。女の好みはともかく、おめでとう、って言やいいのか?」
「存分に祝ってくれ」
「よし、おめでとう! 男秋月隼太、やっと身ぃ固めたな! いやめでたい!」
 澄まして答える黄月に、針葉は手が痛くなるまで拍手を送った。
 ふと線香の香りに気付いて振り向いた針葉は、思わず目を剥いた。部屋の隅に仏像が鎮座し、その前に線香が一本立っていた。
「あれ、まさか爺の仏壇のつもりか」
「いかにも」
「仏壇って普通、仏像だけを置くもんか?」
「先生の私物だ。元々天袋に収まってたんだ。一切合切捨てようとしたら里さんに叱られてな」
 体のいい追悼、その実はただの再利用というわけだ。呆れるほどに情より実、これでこそ黄月だ。針葉はまた笑い、やがて溜息を吐いた。
「まさかあの爺がぽっくり逝ってるとは思わなかったよ」
「なんだ、別れの一言でも言いたかったのか」
「聞きたいことがあったんだ」針葉はぐっと身を乗り出し、「お前、長に子がいたこと知ってたか」
 黄月は眉を高く上げて針葉の顔をまじまじと見つめた。
「子? いたのか」
「昔の長を知ってるって奴からそう聞いたんだよ」
「なるほど……、まあ、それほど意外な話でもないか」
 黄月は眉をひそめて空を睨み、湯呑を盆に戻した。
「何だよ、驚かねえのか」
「考えてみろ。俺が拾われたとき長は五十くらいだったから、もし今生きていたら六十半ば。その子となると、若いときの子なら今は四十過ぎだ。俺たちを拾ったとき既に子が成人していたとすれば、わざわざ話題に出すこともあるまい」
 淡々と説明されると納得しそうになる、しかし針葉は首を振った。
「いや、そんなに上じゃないと思う。俺にそれを教えた奴が言ってたんだよ。拾った餓鬼を手元に置くなんて気まぐれだ、自分の子は遠くに放っといたのにって。まるで俺たちと比べてるみたいだろ」
「……確かにな。歳取ってからの子なら俺たちと同じ年頃も有り得るか」
 それに、と針葉は思い出す。牙が言い掛けた「お前、知らずに?」という台詞。
 あれは何なのだ。俺は知らずに何かをしたのか。俺は長の子とどこかで会っているのか。
 黄月があっと小さく声を上げて針葉を指した。
「だとすると、あれがそうかもな。長から亰の女への文を託されただろ。あれが長の娘じゃないか」
 長が亡くなる直前に二人に託した文のことだ。中身は知る由もないが、二人は長の遺志どおり年の暮れに亰まで旅をし、若い女に文を渡した。だが。
「あれが? 長にゃ全く似てなかったぞ」
「似てない親子なんて掃いて捨てるほどいる。それとも娘じゃないなら何だ、あれが長の女か?」
 針葉は思わず吹き出して足を崩した。
「いやいや、さすがに無理がある。いくつ歳離れてんだよ」
「だとしても、あのときで三十手前くらいか。お前の言うように長の子が俺たちと同じ年頃だとすれば、ぎりぎり辻褄は合うんじゃないか」
「つっても……あんなの長の隣に並べたら」
 針葉は想像して思わず顔をしかめた。ひと回り上の女と肌を合わせていた自分も、周りからはそう見えていたのだろうか。
 こめかみを叩いて考え込んでいた黄月が顔を上げた。
「確かあの文は、亰の三輪屋付け、由良宛、だったはずだ。そこから更に別の店を案内されたんだったか……。暇なら調べるといいが、さすがに十年近く前だからどちらの店も残ってるかどうか」
 覚えてるのか、そう驚くと同時に、針葉自身にも聞き覚えのある名前があった。
「三輪屋……?」
「ああ」
「本当にそんな名前だったか」
「覚えていないか。三つ丸の書いてある看板を探しただろう」
 そうだ、字の読めない針葉に黄月が言ったのだ、三つの丸を見付けろと。三つの輪で三輪屋。そしてそれは牙との会話の中にも出てきた屋号だ。
 ――奴が逗留したのは烏の拠点の傍だった。亰の三輪屋からの報せを待っていたらしい。
 烏の拠点には去年幾度も世話になった。菅谷領の角野屋、旧上松領の玉置屋、飛鳥の巴屋、坡城の菱屋。長は確かに拠点の傍で暮らした。巴屋の近くで針葉を拾った後は、菱屋の近くの古巣で晩年を過ごした。
 彼が床に伏した後、文を渡しに訪ねてきた男がいた。あれこそが三輪屋からの報せだったのでは。そして子の所在を知った長は死の間際、針葉と黄月の二人に三輪屋への文を託した――
 これで繋がった。
 考えに没頭していた針葉が顔を上げると、黄月が盆に茶托と湯呑を乗せて立ち上がるところだった。
「お前、亰に出向くつもりか」
「……いや、さすがにそこまでは」
「それが賢明だな。十年経てば店も人も移り変わる。探し当てて何が変わるわけでもないしな」
 黄月は流しへ去って急須の茶葉を入れ替えた。しゅうしゅうと湯の沸く音を聞きながら針葉は胡坐を組み直した。
 違う、烏の拠点である三輪屋なら今も確実に残っている。そこで働くのが黒烏たちなら入れ替わりは少ないはずだ。由良という女を覚える者もいるだろう。
 ――だが今、針葉には身軽に動けない理由があるのだ。
 ここまでだ。長の残した跡に触れたい一心だったが、今は足を止めるときだ。

 がらりと戸が開いて小さな顔が覗いた。幼い娘だ。針葉を見付けてはっと口を開ける、その体をすぐ里が捕まえた。
「お客さんだから邪魔しちゃ駄目。戻ってなさい」
 何とかという産婆の娘だろう。里は去り際に針葉をじろりと見た。
「あなた、今日の夜はここで食べていくつもり?」
「いや、夕方にゃ退散するんでお構いなく」
「そう、手間が増えなくて助かるわ。次の鐘が鳴ったら用意を始めるから、適当に帰ってちょうだいね」
 ぴしゃりと戸が閉まる。針葉はじわじわと顔をしかめて里のいた方を指した。
「何っだあれ、可愛げのねえ」
 黄月は再び茶の乗った盆を運びながら笑った。
「悪気は無いさ。建前の無い人なんだ」
「よく庇おうって気になるよな。あんな女でも蒲団の上じゃ甘えてきやがるわけか、ああ?」
 針葉の前に茶托を置こうとした、黄月の動きが止まった。針葉は片眉をひそめてその顔を覗き込む。黄月は難しい顔のまま固まっていた。
 事の次第を聞き出した針葉はひとしきり笑って、「はあ?」と解せぬ思いを端的に放った。
「さっきの餓鬼のための籍入れで、金出して、後ろ見にもなって、寝る場所は別々って。おいおいおい、一番楽しいとこだけお預け食らってんのかよ。何だこれ、笑っていいのか」
「好きにしろ」
「ははは。……外に女でも作ってんのか?」
「そんなこと知れたら、いよいよ向こうに大義名分を与えるだけだろう」
 針葉は乗り出した身を戻して深く溜息を吐いた。肉欲を「そういうものだ、仕方ない」と割り切り、恥ずかしげもなく商売女を連れ込んでいたのは、さてどこの誰だったか。あの無愛想な産婆に、よくもここまで惚れ込んだものだ。
「お前、よくそれで納得したな。弱味でも握られてんのかよ……。ったく、生殺しじゃねえか」
「いずれ変わるさ、近いうちに」
「あ?」
 黄月の唇には確信めいた笑みが浮かんでいた。
 針葉は茶をぐいと飲み干して茶托に置いた。
「何か策があるみたいだな。うまいこといったら言えよ、また祝ってやる。じゃあそろそろ帰るわ」
「まだ鐘には早いぞ」
「お前の怖い女房に睨まれたかねえんだよ。暁もまた世話んなるだろうし」
 立ち上がった針葉を目で追って、黄月は「ああ」と頷いた。
「二人目か」
「まだ兆候だけだ」
「お前こそめでたいな。……それにしちゃ浮かない顔してるが、まさかまた「要らない」なんてふざけたこと言うまいな」
「言わねえよ」
 針葉は土間に足を下ろして下駄を履く。じっと鼻緒を睨み付ける。
「無事産まれるよう祈っててくれよ。邪魔したな」
 戸を開けたときにはもう、屋根の間から覗く狭い空は赤く染まっていた。飯の温かい匂いが漂ってくる。針葉は通りへ出て煮売り屋の声を探した。