目が覚めると既に天井は明るくなっていた。頬がひやりと冷たい。 紅砂は一つ瞬いて伸びをし、起き上がった。隣に人の温もりは無い。その背中は今は厨でたすき掛けをし、鍋から上がる湯気を背景にきびきびと働いていた。 「すみません、寝坊しました」 静の横顔がちらと振り返る。 「おはよう、あたしもさっき起きたとこよ。たまの休みだもんね」 「やることは残ってませんか」 「じゃあそれ拭いて片付けといて」 静は肩越しに積み重なった皿を指す。紅砂は粛々と従う。 野菜の煮える匂い、香の物の匂い、炊き上がった飯の匂い。しんと冴えわたる寒さに差す、温かな朝の匂いだ。 静はしゃがんで足元の味噌壷を開けた。 「ねえせんりさん、お味噌が切れそうだから買っといていい?」 静が持ち上げた味噌壷は底が覗いていた。 「本当ですね。今日街に下りたら買いましょうか」 つわりで苦しんだ紅花が坂を下りたのはもう随分前のことだ。厨から彼女の姿が消えて久しく、今やここを仕切っているのは静だった。 そしてもう味噌が切れる。次の味噌は静が選び、味噌汁は彼女の味へと変わるだろう。 鍋の中では黄金色を帯びた出汁湯の中で野菜と豆腐が揺れている。静は味噌壷から残り少ない味噌をすくい取って鍋に溶き入れた。かしゃかしゃと箸の音。ふわりと香りが広がる。 「朝ですね」 「やっぱり朝はこれよね」 静は椀にひとすくい入れて味見し、紅砂にも手渡した。 紅砂は目を閉じた。 ――初めにこの家から消えたのは長である針葉だった。出稼ぎだと言ってもう一年は帰らない。次いで暁と睦月が真か嘘か、壬びとを探しに東雲へ消えて久しい。 身籠った紅花は浬と小間物屋で暮らし始め、元々居着かなかった織楽は妻子を連れ戻すため家を借り、斎木医師の看病のため 紅砂は一人残された。 木々に閉ざされた長い坂を上って、広すぎるこの家に帰る。ここで暮らしてもう十年が過ぎ、不便な立地にも慣れている。 勝手知ったる我が家、一日は何の不都合もなく回った。 一人になったとて、自分の世話など自分で焼ける。 なに、一人分の飯など立ち食いでどうにでもなる。一人分の風呂など銭湯で充分だ。一人分の寝所など、…… ――眩暈がした。 どうしてここに帰る? 道場にでも泊めてもらえばいいのでは? しんと静まり返った家の中。自分の息の音、胸の音、虫の声、家鳴り、床の軋み。耳はどこまでも音を追い求める。 一日は降り積もり、ひと月となる。ひと月は降り積もり、一年となる。やがて一年は降り積もり、…… 自分はこの家と心中するのだろうか。 どうしてここに帰る? でも簡単には捨てられない。親の血の匂いで始まった年明け、前の長に拾われた兄妹はここで第二の生を与えられたのだ。目を開けていていいと、言われたのだ。 矛盾した思いを胸に暗い坂道を上り続けた。 いつしか隣に静が寄り添ってくれた。 サンザを見に行って半月。挫いた足が治ったと、彼女が裾を引いた年明け。紅砂は彼女の手を引いて雪の積もった坂道を上った。 泊まりを重ねるようになり、共に飯を作り向かい合って食べた。寝息を聞きながら眠りにつき、寝返りをうつと温もりに触れた。こまめな掃除が必要になり、洗い物は二人分に増え、風呂も沸かすようになり、その手間さえ愛しかった。 紅砂は椀を傾けて啜る。 「美味い。ダツの出汁も入れました?」 「当ったり。静さんの隠しきれない隠し味」 静は鍋に蓋をして香の物を小鉢に分けていく。 何でもない朝だ、何よりも得難い朝だ。 紅砂は杓文字に伸ばした手を止め――静を後ろから抱き締めた。 「なあに?」 静の声が笑っている。その声を噛み締めるようにそっと目を閉じて、開けたとき彼の目に映ったのは彼女の髪で揺れる季節外れのニチリンの簪だった。 「静さん、親御さんへご挨拶に行かせてください」 静の動きが一瞬止まって、かき消すようにいつもの声。 「えぇ、今そんな話する?」 振り向いた静は眉を寄せて笑っていた。その反応は紅砂としては心外だ。こちらも眉を寄せて彼女の肩に手を置く。 「俺はずっと言ってたじゃないですか。それに静さん、前はここに泊まるのも時々だったけど、今は頻繁だし何日も泊まっていくでしょう。親御さんだって変に思ってるんじゃないですか」 「だって、店に出るのもこっちのほうが近いし……うちの親はあたしのことなんか気にしちゃいないわよ」 「俺が気にするんです」 「どうしてよ」 彼女の足が治って以来、二人で過ごす夜のほうが多いくらいだ。彼女のいない家はやけにがらんとして、少しの気楽さが過ぎれば、後に残るは強烈な物足りなさだ。次の泊まりが待ち遠しい。 失いたくない。 でもだからこそ、このままではいけないのだ。 紅砂は掌をそっと静の帯に当てた。 「いつ子が宿るか分からないでしょう」 静ははっと紅砂の目を見た、が彼の顔はみるみるうちに紅潮し、静のほうが見ていられなくなって目を逸らした。 「あの……、俺自身が昔、花に説教したことがあるんです。嫁入り前、というより浬との仲なんて聞かされてもなかったのに、ややができたかもって突然言われて」 「あらら。花ちゃんがいきなり祝言挙げたのってそれでなの」 静は浬の言葉を思い出す。紅砂は真面目でいい奴だから――僕とは比べ物になりません。 「結局それは勘違いだったんですけど。そのとき深く深く思い知ったんです。いくら男女の間に睦み事がつきものだとしても、親は娘にどうあれと望むのか……。腹が膨らんでようやく相手が顔を出すのと、その前に祝言を挙げてる、せめて挨拶に上がってるのでは雲泥の差なんです」 「そりゃそうでしょうけど……」 静は呟く。やはり所帯じみたところへ放り込まれるのか。一貫した彼の態度にはほとほと頭が下がる。 正しいのは紅砂だ、それは分かっているのだが。 「親に会わせるまで泊まりは禁止?」 「そ……っ、それはその、そこまでは」 困ってもごもごいう声に背を向けて、静は朝餉の支度を再開した。 「分かりました。待ってちょうだい、一度家に帰って話してくるから」 紅砂の視線を背中に感じながら、何でもないふりをして味噌汁をよそう。 「ありがとう。よろしく頼みます」 茶碗の音がして飯の甘い匂いが流れてきた。静は盆に椀を乗せながらふっと息を吐く。 これでもう先延ばしにはできない。 紅砂が後片付けを申し出たので、静は箒を持って外へ出た。冷たい風が額に心地いい。肺腑の奥までぴりりとした冷たさを吸い込んだ。 考え事をするのは風の中に限る。 静には一つ信条がある。すなわち「男は付き合ってから見定めよ」。 どの男だって付き合う前はいい顔をしたがるものだ。女が自分のものになった途端にいくつもぼろが出る。そんな相手にだらだらと若さを貢ぐわけにはいかない。 その結果、痛い目も見たし不名誉な浮名も流された。だが人を見る目は養われたし、しょうもない男に溺れて身を持ち崩すこともなかった。 紅砂に関してはどうだろう。 彼はそもそも静を拒んでいたこともあり、不相応に取り繕った姿は見ていなかったように思う。付き合ってから知った悪い面と言えば…… 「ああ、思ったより 肌を合わせてから何度か泊まりに来たが、髪も肌も入念に手入れして挑んだ夜の半分は、彼が既に寝てしまっていた。 初めてこの家に招かれたのは紅花が双子を産んだ翌朝で、紅砂は蒲団を敷きに行ったまま深い眠りに落ちていた。その時は驚いた静だが、今思い返せば何の不思議も無かったのだ。 枯れ葉を掃きながら、その他は……と彼との一つ一つをなぞり、なぞり、手を止めてほうと溜息を吐いた。 なんと丁寧に日々を過ごしてきたことか。 静の帯に触れた紅砂の指。それは繊細で、まるで既にそこに命がいると言わんばかりだった。いつ子が宿るか分からない。子が宿る、彼と自分の。 「やだ、まだ早いってば!」 妙にくすぐったい気持ちになり静はざかざかと枯れ葉を掃いた、そこへ「おい」と低い声がかかった。 知らない声。静がぎくりと向き直ったそこには、凶悪な面構えの男が、薄汚れた服に身を包んで立っていた。 静は一瞬にして理解した。 野盗だ。 「あー、疲れましたねえ」 五つの影を見送って榎本が両肩を回した。 国から国へ駆け回る健脚な彼が、ただの道中で疲れるはずもない。ここで言う疲れたとは、彼が大の苦手とする黒烏、 針葉と暁、睦月の三人、榎本、そして牙をはじめとする黒烏五人は年をまたいで菅谷領からの旅路を終え、坡城の港町へ戻ったところだった。坡城の拠点、菱屋へ向かう牙たちと大通りの途中で別れ、家はもう坂を上ればすぐだった。 「おうち?」 「おうちだよ。睦っちゃんは覚えてるかな。もう忘れちゃったかな」 「おうち、なんで? なんでかえるの」 「大丈夫睦月さん。俺も上がらせてもらうのは初めてなんで、一緒に覚えたらいいですよ」 「なんでおぼえるのっ」 盛り上がる三人を振り向いて針葉は眉を寄せた。 「おいナツ、お前は菱屋でいいだろうが。何図々しく上がろうとしてんだ」 「やだなぁ兄貴、俺は暁さんと睦月さんの護衛中だぜ。きっちり家まで送り届けなきゃ。お、ほら睦月さん見て、地蔵さんだ。こうやって手ぇ合わせるんですよ」 「おじぞーさん、かわいいねえ」 「可愛いですねえ。暁さん暁さん、この地蔵さんちょっと睦月さんに似てますよね」 「そう? どのあたりですか?」 「おかーさん、おじぞーさんこうしてる。なんでこうしてる?」 更に盛り上がる三人に、針葉は肩で大きく溜息を吐き、一人坂道を歩き出した。 朝の道は濡れた土の音がするばかりだ。この道を上るのは一年と少しぶりだった。紅花はまた急に帰ってくるなと怒るのだろうか。いや、身籠ったらしいと暁が言っていたから飯を作るどころではないか。そもそも無事に産まれているのか。 黄月は何の感慨も無さそうに「生きていたか」とでも言うのだろう。 紅砂は相変わらずの堅物だろうし、浬はさしずめ子煩悩な父親か。父親。あの浬が。生意気な。まあいい。 「一年じゃ何も変わりゃしねえな」 そう呟いて笑い、最後の一歩を踏む。 道が開けたところでは知らない女の後ろ姿が箒を持って突っ立っていた。 針葉ははっと動きを止め五感を研ぎ澄ませた。何が見える、何が聞こえる、何か変わったところは――この女はすず一味の残党か? しかし感じられる全てに歪みは無く、家には他の気配も無く、女は隙だらけの背中を晒していたかと思えば、突然がむしゃらにそこらを掃き始めた。 ――紅花が手伝いでも雇ったのか? しかし赤子の声もしないが……。 「おい」 振り向いたのは妙に派手な顔立ちの女だった。その顔がさっと青ざめたかと思うと、「きゃあああああ!」甲高い声を上げて箒を放り出し、家の中へ駆けていった。 「……何だありゃ」 針葉が箒を拾い上げたところでやっと三人が坂を上ってきた。 「あれっ兄貴、どうしたんだよ帰るなり箒なんか持って」 「いや、これは」 「おとーさん、それかして!」 「睦っちゃん、人には向けないよ」 「いやぁ、それにしてもでっかい家ですねえ。え、何部屋あるんすか。二、四、五、あと向こう側にも? へええ〜」 「睦っちゃん、転ばないようにね。気を付け……ああ!」 収拾が付かない。針葉が再び家へ目を向けると、女が駆け込んで開いたままだった戸から紅砂が出てくるのが見えた。その後ろに隠れているのは先程の女か。 紅砂は針葉たちの姿を認めると、たたっと駆け寄ってきた。 「無事だったか! 針葉、暁に睦月も! 旅先で会ったのか? ……と、そちらの人は」 「あああ、俺なんてただの榎本ですってぇ! 俺のことなんて気になさらず、ささ、涙溢れる再会を続けてください!」 嬉しそうな顔をしていた紅砂は、ふと唇を結んで辺りを見渡した。 「ちょうど良かった、今さっき野盗が出たらしいんだが見かけなかったか」 「野盗? 針葉、見た?」 「待って待ってせんりさん、見間違い! きっとあたしの見間違いだから!」 そこで会話に割り込んだのは紅砂の後ろに縮こまっていた女だ。紅砂が首を振る。 「いや、でもはっきり見たんでしょう。野放しにしちゃおけません」 「見間違いなんだってば。ね、そんなことより早く家で休んでもらいましょうよ」 「静さん、どうしてここに?」 「暁さん久しぶり! 睦っちゃんも大きくなったわねえええ」 女は大袈裟に声を上げ、手を広げて睦月を抱き締める。その顔は引きつって決して針葉を見ようとはしない。 「野盗。へえ、野盗ねえ。そりゃ大変だ。長らく家を空けてた身としちゃ、ここで一つ家のために動かなきゃなあ」 針葉は口元を歪ませて女を見下ろす。女はこわばった笑顔で目を逸らす。 「お前がそう言ってくれると助かるよ」 「長としちゃ当然だろ? なあ娘さん、その野盗とやらの人相を細かく教えてくれよ」 二人の不自然なやりとりを見ていた暁は何かを察し、紅砂に身振り手振りで伝える――「きっと野盗とは針葉のことだ」。 紅砂は怪訝そうな面持ちで暁の妙な動きを見つめ、彼女が指し示す二人を見つめ、ようやく「なるほど」と頷いた。 「おい紅砂、なに納得してんだ」 「いや、でも兄貴、言い得て妙ってやつだ」 「便乗すんなナツ! お前ら二人とも無礼もんか!」 暁が笑い出し、よく分からないまま「おもしろいねえ」と睦月も笑い出し、とりあえずその場は治まった。 榎本は睦月との別れを存分に惜しみつつ、「また来ますね」と軽い調子で坂を下っていった。 土間に湯を張った盥を置いて三人は足を浸した。ぱしゃぱしゃと湯を蹴る睦月を、暁が素早く掴まえて拭き上げた。 「湯加減どう? はい、手拭い追加ね」 「ありがとう静さん。睦っちゃん、あんよ拭いたからもう入らないよ」 「もっと!」 「駄目だってば」 静と呼ばれた女は暁と面識があるらしい。後から現れた紅砂に睦月はじゃれつき、静はにこやかにそれを見守り、針葉は足を拭いながらそれを観察する。 「針葉、盥を片付けといてもらえる?」 「そりゃいいけど、なあ、それより他の奴らは? 黄月はまた間地か。紅花は? そこのあんたは妙にこの家に慣れてる様子だな。一体どうなってんだ」 「あ、それ私も思ってた……というか、あの」 暁は口元を覆っておずおずと二人を見上げた。 「もしかして、二人きり?」 ――その答えは昼餉の席で改めて明かされ、針葉と暁は目を丸くして紅砂から語られるこの一年の話に聞き入った。 「つまり、えーと? 浬と紅花は小間物屋に暮らしてて、黄月は斎木のおっさんの家で、織楽は別に家を借りて、だからお前だけがここに残って暮らしてたって?」 「そうだ」 「それで早速女を連れ込んだってか。好き放題だなお前」 「人聞きの悪いこと言うな。誰も住まなかったら本当に野盗の棲家になるだろ」 針葉はふんと鼻で笑って湯呑に手を伸ばした。睦月の食べこぼしを拾っていた暁が続いて口を開いた。 「じゃあ紅花は無事に産んだんだね」 「ああ、新も綾も元気に育ってる」 「……誰って?」 「新と綾。新が男の子で綾が女の子。また会いに行ってやってくれるか」 「うん。……で、どっちが紅花の子?」 「双子だったのよ」 紅砂に会話を任せていた静が助け舟を出した。針葉と暁は再び目を丸くする。 「子ができたと言えば、織楽のとこも。二人目ができて腹が目立たないうちに田舎へ帰ったらしい」 「じゃあまたやもめ暮らしか」 からかい口調の針葉を暁が目でたしなめた。早々と飯を終わらせて遊び歩こうとする睦月を座らせ、眉根を寄せる。 「黄月もまだ帰らないんだね。斎木先生の具合、そんなに悪いの」 「亡くなったよ」 「ええっ」 「はあ!?」 針葉までも驚きの声を上げた。 「三月くらい前かな。だからこの家は、ひとまず黄月の名義にしたらしいが」 紅砂は針葉に視線を送るが、当の本人は家の名義のことなど頭にも入らぬ様子でじっと箸を睨んでいた。 「……参ったな、斎木の爺に訊かなきゃならんことがあったんだ。黄月はまだあの家にいんのか」 「ああ、でも出てることも多いから里さんに言付けしとくといい。斎木先生の跡を継いで、今じゃ間地の秋月先生だからな。往診だ湊屋だ薬草採りだ置き薬の取り立てだと、随分忙しそうだ」 針葉は溜息を吐いて空を見上げた。 「もう何言われても驚かねえよ。何だお前ら、俺らがいないときに限って色々始めやがって」 空になった椀を重ねて立ち上がった針葉を、「これからが二人の馴れ初めでしょう」と暁が引き止める。それに重ねて「そういえばもう一つ」と紅砂。 「もういいって、腹一杯だ」 「黄月は里さんと籍を入れたって」 「はああっ!?」 針葉と暁の声が重なる。針葉は不承不承また腰を下ろし、その横に睦月が寝転がり、暁の膳はなかなか進まない。 紅砂と静の馴れ初め話まではまだまだ遠かった。 日のあるうちに風呂を終えて、夕餉の後。 積み重ねた器を厨まで運んで、紅砂は布巾を手に部屋へと戻った。静が器を洗い桶の水に沈めていると、「静さん、私も何か」と暁の声がした。 「いいわよ、旅の疲れもあるでしょうし……」 振り向いた先、暁の背後に例の凶悪な顔を認めて静は顔を引きつらせた。ごつごつと凶悪な手が暁の肩を掴む。 「暁、それより睦月の面倒見てやれ。こっちはやっとく」 「でも」 「眠そうに転がってた」 「行ってくる」 暁の足音が去り、ぎっぎっと重たい足音が近付いてくる。静は努めて気にせず洗い物に集中する。 「よう、女狐ちゃんよ」 「誰のことかしら」 「あんただ、あんた」 静はようやく手を止めて振り返った。凶悪な目付きが二つ並んでいるのを負けじと睨み返す。 「随分な言いようじゃないの」 「お互い様だろ。留守の間に入り込んでたくせに、遠路はるばる帰ってきた家の主に向かって野盗だって?」 「それは……悪かったですよ。ついついうっかり見た目で思い込んじゃってすみませんでした!」 言いたいだけ言うと、静はくるりと背を向けて洗い物に専念した。凶悪な気配は動かない。背中に圧を感じる。何かしてみろ、大声出してやる。 「今ので謝ったつもりかよ。図太いな」 聞こえた声は意外なほど落ち着いていた。静はざざっと洗い桶の水を流して肩越しに針葉を見た。 「暁さんに、こっちはやっとくとか言いませんでした? 邪魔しにいらしたの?」 静は洗った皿をこれ見よがしに重ね、布巾をひらひらと振って針葉へ放った。針葉は口を歪めてそれを受け取り、億劫な手つきで椀を拭き始める。静は桶に新しい水を汲み、次は椀と湯呑をすすいでいく。 「仕方ないじゃないですか」 針葉の視線が自分に向くまでひと呼吸待って静は続けた。 「……だって暁さんの惚れた相手でしょ。睦っちゃんのお父さんでしょ。もっと何て言うか……穏やかな人だと思うでしょ。あたしは悪くありません」 「穏やかだろうが」 言い終わらぬうちに静が鼻で笑い、「あ?」と低い声が飛んでくる。 「正直に言いますよ、あなた顔が怖いです。持って産まれた土台は仕方ないけど、もうちょっと笑うとか何とかできません?」 「あんたは媚び売るのが上手そうな顔してるもんな」 「媚びを売れって言ってんじゃなくて、……って本当に失礼ね! そういうあなたは、たった今人を殺してきたような顔してるじゃないの」 静は言いたいだけ言って、今度ばかりははっと口を押さえた。さすがに言い過ぎた。そもそも静が彼を誤解したのが始まりだったのに。 返ってくる言葉は無い。一歩挟んで隣にいる男はかちゃかちゃと面倒くさそうに湯呑を拭いている。 「あの、今のはちょこっと失言……」 「人くらい殺せる」 あ、殺される。 はっと包丁の場所を確認する静だったが、針葉は眉ひとつ動かさず次の湯呑に手を伸ばした。 「暁と睦月のためならいつだって人くらい殺す。そんくらいの覚悟で生きてる。あんたはどうだ、紅砂にそう言ってほしくないのか」 「あ……ああ、例えばってこと、よね。やだやだ、そんな怖い顔して、本当に殺してきたのかと思うじゃないの」 静は顔をしかめて首を振り、唇を尖らせた。 「あたしは刃傷沙汰なんて御免ですね。お芝居でよくあるような、血なまぐさい命懸けの恋なんてお腹いっぱい。あたしは泣くんじゃなくて笑いたいんですよ」 「あんた幸せもんだな」 「馬鹿にしてます?」 桶の水をざっと流して、今日の洗い物は終わりだ。静は手を振って水を払い、赤くかじかんだ指先に息を吹きかける。 「考えてみりゃ、笑わせるより泣かせるほうが多かったかもな」 ぽつりと言葉。その顔を見上げようとして、足音が近付いてきたので静は廊下を振り返った。布巾を持った紅砂だった。 「部屋の片付けと蒲団の用意、終わりました」 「ありがと。こっちも終わり」 針葉は最後の湯呑と布巾を置いて廊下のほうへ歩き出した。 「お前ら一緒の蒲団で寝てんのか」 もうからかう口調に戻っている。彼の表情は背後の静からは窺えず、どんな顔で先程の言葉を吐いたのかも分からないままだ。 「どうだっていいだろ」 「そうだな」 言うなり針葉は紅砂の肩を引き寄せて何やら耳打ちし、紅砂は目を剥いてその手を払いのけた。 「馬鹿言ってないでさっさと休め」 「じゃあな」 ひらりと手を振って消えた背中は揺れ、笑っていた。 「あの人何言ったの?」 「何でもありません」 「でも」 「静さん、手が真っ赤じゃないですか。早く温めないと」 紅砂はひやりと冷たい静の手を引いて暗い廊下を歩き出した。 ――お互い部屋は離しとこうな。覗きも盗み聞きも無しだ。 言えるか、あんなこと。 ほてった正直すぎる頬には、痛いくらいに冷たい足元とひんやりした静の手がちょうど良かった。 六ノ年 扉 進 |