港番の受付が人別方の番になり、喪が明けた日の夕方、外回りから帰った黄月は里の家の戸を叩いた。
「今から行ってきます」
「あ……、ちょっと待って」
 里が本を閉じて腰を上げかけると、黄月は土間へ入って後ろ手で戸を閉めた。戸を向いて座した里は真正面から見下ろされる形となり、圧迫感を覚えながら腹にぐっと力を入れる。
「もう一度確認なんだけど、本当にいいのよね? あなたは紙の上ではゆきの父になる、私とあなたも紙の上では夫婦になる、でも実際の生活はこれまでと同じ。つまり……あなたのご飯くらいは作るけど、妻としてのそれ以上は無いわよ。本当にそれで納得してる?」
「前に答えたとおりです。里さんの意思を尊重します」
「その、意思を尊重、っていうのがよく分からないのよ。結局あなたはどう思ってるの」
 里の脳裡に蘇るのは、静の緩んだ頬と、両手を広げて襲いかかる仕草だ――情が芽生えたところであわよくば。
 黄月は片眉をひそめて畳に腰を下ろした。里から見えるのは彼の後頭部から左頬の輪郭までとなる。
「俺は病を和らげるのが生業なりわいですし、里さんは子を取り上げるのが生業ですね。だから感覚として分かってもらえると期待したいんですが、俺個人の意見としては、全ての生き物は命の限り生き、次の代へ命を繋ぐべきだと思っています。より安全に、より健やかに、より豊かにと願うのは、全体としては次の代を存続させるためだと」
 突然壮大な話になり、里は大仰に眉を寄せた。
「その目的に立ち返れば、子を成さぬ間柄は避けるべきでしょう。一方で、俺一人そこから弾かれたところで大勢に影響ないとも言えます」
「……つまり、何?」
 黄月は肩越しに振り返って笑った。
「里さんやゆきが望まない限り、俺はそれ以上を望まないということです」
「あ、そう……」里がほっと息を吐いたところに、「本意ではありませんが」呟きが重なって、里はぎくりと顔を上げた。
 黄月が畳から腰を上げる。
「これでいいですか。行きますよ」
「あ……え、ええ、行ってらっしゃい」
 戸が閉まって足音が去る。これで良かったのだろうか、床の木目を見ながら里は今更ながらに思いあぐねていた。

 黄月は長屋の並びを歩いていく。彼が今通りすぎた端の家に、たたっと本を抱えたゆきが近付いて戸を叩いた。がらりと戸を開けたのは若い女だ。先月ここに嫁いできたばかりの梅だった。
「いらっしゃい。待ってたわよ、上がって上がって」
 ゆきはぺこりと頭を下げて家に上がり込む。女はゆきに座蒲団を勧め、その脇に湯気の立つ茶を置いた。
「ゆきちゃん今日はなんだか嬉しそうね。気のせい?」
 戻ってきた女の手にあるのは、ゆきが抱えているのと同じ本だ。ゆきは頷いて人差し指を出した。
「おかあちゃんと はやくん きょう せきをいれるの」
 間地に来たばかりで事情を知らない梅は、小首を傾げて微笑んだ。
「えーと、ゆきちゃんはお父さんがいなかったのよね。お母さんがいい人と一緒になるの? じゃあ私と同じ新婚さんになるのね。おめでとう」
 ゆきはにっこりと笑って頷き、自分の本を開いた。それを梅が止める。
「あのねゆきちゃん、私からも一つ話があって。弓、入ってきていいわよ」
 梅が土間に下りて呼びかけると、おずおずと顔を出したのはゆきと同じ年頃の娘だった。ゆきはぐっと拳を握る。それはゆきをいじめていた三人の一人だった。
「弓は私の姪っ子でね。前に遊びに来たとき、私が読んでる本を妙に気にしてて、あの子が持ってた本だ、なんて言うもんだから読んであげたのよ。そしたら弓のほうが夢中になっちゃって」
 弓と呼ばれた少女が二人の近くに寄り、きまり悪そうにゆきを見た。ゆきも戸惑った表情で梅を見る。
 梅は困ったように笑って二人の目線まで体を屈めた。
「この子がしたことも聞いてるわ。でも弓も反省してたの。ゆきちゃんに酷いことした、でももう近付くなって言われてるって。ほら弓、何て言いたかったんだっけ」
 梅が少女の背をぽんと叩くと、少女はばっと頭を下げた。
「ごめん! あんたにやなこといっぱいして……声出ないこととか、本読んでんのとか馬鹿にして、あの……ほんとに悪かったと思ってる」
 ゆきはまた戸惑った顔で梅を見、弓を見、恐る恐る手を伸ばして弓の肩に触れた。弓がそっと顔を上げる。ゆきは首を振って弓の手を取り、文字を書き始めた。しかし弓はその途中でぱっと手を振り払った。
「あたし、まだ字はうまく読めなくて、梅ちゃんに教えてもらってるとこで……それで、あの」
 顔をうつむけて恥ずかしそうに言い、覚悟を決めた表情でゆきに目を合わせた。
「あたしも二人に混ざっていい? 早く読めるようになりたいの」
 ゆきは目を丸くし、花がほころぶように表情を和らげて、大きく頷いた。



 約束していた日の前夜は、坡城には珍しく年が明ける前から雪が降った。日が昇っても所々に雪の残る中、紅砂と静は紅葉狩りと同じ道を辿っていた。
 静は息をはーっと吐き、目の前が白く染まるのを楽しみながら歩いた。
「今日は本当に冷えますね」
「ですね。すみません、こんな寒い日に」
「だからぁ、どうしてせんりさんが謝るんですか。いいんです、サンザだって雪化粧のほうが映えますよ」
 彼らが目指しているのは山手にある社だった。何を祀っているのかも知れない寂れた場所だが、大きなサンザの木があり毎冬見事な花を咲かせるのだ。
「雪化粧、でしょうね。これだけ降れば」
 紅砂は脇に残る雪に視線を落とした。蘇るのは自分の声だ。
 ――山手の社に植わってるサンザは朝に見に行くと、薄雪を被って見事なもんだ。
 まだ囚われている。かつて放った自分の言葉に。
 静は長く続く石段を見上げてよしっと気合を入れた。
「張り切って上りますよー! 一番上に着いたらきっと体も温まってるはず!」
 元気に腕を振り上げ、誰もいない石段を軽やかに上っていく。「足元に気を付けて」紅砂の声も届いているのかどうか。紅砂もゆっくりと後に続いた。
 最後の段を上りきったときには、静は既にサンザの木の下にいた。
「せんりさん、来て来て。綺麗よ」
 紅砂を手招きし、彼女はまた頭上の赤い花にほうと見惚れた。紅砂もそちらへ歩む。サンザの木は細かな雪を浴び、未だ溶け残った白と花の唐紅、花蕊の黄、葉の緑がそれぞれを鮮やかに引き立て合っていた。
「こっち、メギの実もありますよ。映えますねえ」
 静は無数の赤い目のような実を指し示した。こちらも細い枝にこんもりと雪を積もらせている。
「冬でも賑やかなものですね」
 しばらく花や実を鑑賞した後、二人は形ばかり参詣してまた石段に戻った。静は冷えた手に息を吐きかけながら足を踏み出す。
「もうすぐ季節がひと巡りしますね」
 紅砂が彼女に顔を向けると、彼女は視線だけを寄越して手をすり合わせた。
「もう少しで年が明けて、そしたら梅に椿、それが終われば桜。早いですね」
「そうか、もうそんな時期ですか」
 静が黙ってしまったので、二人が石段を踏む音だけが響いた。
「関係を深めるってどういうことですか」
 唐突な問いだった。紅砂は眉を上げて「はい?」と問い返す。
「せんりさん言ったじゃないですか、あたしとの関係を深めたいって。それってどういう意味で言ったんですか」
「あ。ああ、ええと、正式にお付き合いを始めたいという意味で……」
「だからその正式なお付き合いって、一体何を指してるの。一緒に出歩いてたまに手を繋いで、同じ屋根の下にいても別々に寝て、ずっとこのまま? 一年後も、五年後も、十年後も?」
「まさか」
 紅砂が足を止め、静も一段下で足を止めて紅砂を見上げる。
「そんなに引き延ばすつもりはありません。静さんさえ良ければ、いつでもご挨拶に伺います。今日これからでも」
「ご……挨拶?」
「親御さんに」
 予想を遥かに超える答えに、静の口角が引きつった。
「ちょっと待って、あたしいつそんなこと言いました?」
「迷惑、でしたか」
 打ちのめされた表情の紅砂に静は慌てて縋り付く。
「違っ、迷惑とかそういうんじゃなくて……嬉しいけど、嬉しいけど……そういうんじゃないのよぅ」
 静の視線が徐々に下がり、紅砂をその場に置いてずんずんと石段を下り始めた。彼が真剣なことも、それを形にしようとしてくれることも喜ばしいが、自分はまだ恋に浸っていたいのに。甘酸っぱい痛みに胸をときめかせていたいのに。親に挨拶。また最後まで結ばれていない今、そんな所帯じみたところに心が放り込まれるなんて。
「せんりさんって腰が重いんだか軽いんだか分かんない!」
「静さん、足元に気を……」
 紅砂が言い終わる前に静は石段を踏み外した。
「静さん!」
 鈍い音が連なり、静は丸くうずくまる。「ったぁ……」幸いだったのは、彼女が地面のすぐ傍の段で踏み外したことだった。
 紅砂が駆け寄ると、静は涙目の顔を彼に向けた。押さえているのは右足首だ。
「捻りましたか」
「ちょっと。でも大丈夫、すぐ痛みも引くから」
「失礼します」紅砂は静の前にしゃがみ込んで右足を取った。「どこが痛みますか、ここ? 曲げられますか」
「ぃたっ、痛い、そこ」
 紅砂は静の反応を見てぐるりと向きを変え、彼女に背を差し出した。
「負ぶいます。乗ってください」
「え? やだ、ちょっと捻ったくらいで。自分で歩けますって」
「歩かせません!」
 厳しい声だった。静は躊躇いつつも彼の肩に腕を回し、広い背に体を預けた。紅砂がゆっくりと立ち上がり、歩き出す。
「すみません。今、手当するものを持っていないんです。道場に寄らせてください」
「あたしのほうこそ……迷惑かけてごめんなさい」
「迷惑なんかじゃありませんよ」
 紅砂の背に揺られながら、静は、声の調子で彼が微笑んでいることに気付いた。
 二人分の重さを抱えながら、紅砂は雪の残る山道を一歩一歩進む。静は目を閉じて彼の髪にぴたりと鼻を寄せた。どきどきと、この鼓動が彼には伝わっているだろうか。
「静さんのことが好きです」
 静は目を開けた。
「その気持ちに嘘はありません。親御さんに会いに行きたいし、もし容姿や仕事や、他のどんなことでも苦言を呈されるなら、納得してもらえるまで通います。静さんに手こそ出していませんが、真剣にこれからのことを考えているつもりです」
 静は彼から視線を逸らした。そう言われれば自分の訴えは封じられてしまう。これまでもそうだったように。
「……子供を作る気が無かったのは昔の話でしょ。じゃあ今手を出さないのってもしかして、あたしの親に申し訳が立たないとか思ってます?」
「それも、少しあります。でもそれよりも、自分の汚さが許せないんだと思います」
「汚い?」
 足音だけが、誰もいない山道に続く。静は黙って彼の声を待つ。
「人を失くしたと、前に話しましたよね。静さんは俺が、その人と歩む道が欲しかったんだと言ってくれた」
「ええ」
「静さんは俺と色んなところへ行ってくれましたね。一緒に色んなものを見て、話をして……楽しかった。満たされました。でも時々分からなくなるんです。あなたを楽しませたいと思う、あなたに何かしてあげたい、色んなものを見に行きたいと思う。でもそれは、あなたと失くした人を混同しているんじゃないか、前にできなかったことをあなたで代用しているんじゃないかと」
 静は紅砂の肩に手を掛けて身を離した。
「何、言ってるの」
「花見だってそうだ、祭りも、紅葉狩りも、それに今日見に行ったサンザの花だって、その人に約束していたんです。そして、何一つ果たせなかった。俺は……ただ自分の気持ちを満たすために、あなたを利用しているような気がして」
 静はぐっと手に力を込めた。
「下ろして」
「え……、でも足が」
「下ろしてよ、今すぐ!」
 紅砂は足を止め、ゆっくりと腰を屈めた。静は左足から着地してひょこひょこ歩き、幹に体を預けて振り返った。
「せんりさんって純粋でいい人だけど、ちょっと馬鹿ですよね」
 その目はぎらぎらと燃え立つように鋭かった。人差し指を真っ直ぐ紅砂に突き付ける。
「何なのよ、次から次へとぐちぐちぐちぐち。悩むのが生きがいなの? 悩んでなきゃ生きていけないの? あなたが今言ったこと……あたしのこと利用してるとか馬鹿真面目に考えてたんでしょうけどね、あたしが何も考えずへらへら付いて来たと思ってるの? 自分の望みどおり動く女に見えてた? 馬鹿にしないでよ、あたしだって自分で望んであなたの隣にいたのよ」
 紅砂は唖然と口を開けてそれを聞いていた。静は細く息を吸う。もう止まらない。
「あたしだって一年近くあなたのこと見てきた。あなたのこと、ちょっとくらい分かってるわよ。あなた、全っ然女慣れしてないわね。遊び慣れもしてないから、行き先の引き出しが少ないのよ。その少ない引き出しを漁って、前に好いた人に自分のできる精一杯をしてあげたかったんでしょ。それで今あたしにも精一杯してくれようとしてる。どっちも全力なの。じゃあいずれは、見せたいものややりたいことが重なるでしょうよ。当然でしょ!」
 まくし立てるうちに右足に体重がかかり、静は顔をしかめて幹にもたれ、しゃがみ込んだ。紅砂が慌てて歩み寄る。静は手でそれを制し、自分の髪から簪を引き抜いた。それは紅砂が夏祭りで渡した、冬にはそぐわないものだった。静は悔しげな眼差しでじっとそれを見つめ、顔を上げた。
「……混同してる? 前の人とあたしを? でもあたしの付けてるこの簪は、あたしに似合うと思って選んでくれたんでしょ。今あたしを負ぶってくれたのは、あたしが足を挫いたからでしょ。あなたは今ここにいるあたしのために、どうすればいいのかって精一杯考えてくれてるはずでしょ」
 きちりと纏まっていた豊かな髪は今は肩に落ち、見る影もない。紅砂は言葉もなくそれを見つめる。
「それに、前に好いてた人に対しても失礼よ。その人はあなたに呪いでもかけたの? 一生自分を忘れず墓守りして世捨て人のように暮らせって?」
「そんな……ことは」
 紅砂の耳に若菜の声が蘇る。あなたは陽の当たる場所で幸せにならなきゃ駄目なのよ。
 最後に会ったときも彼女は笑っていた――涼やかに、愛おしむように、慰めるように。これから起こることを知っていたはずなのに。助けられると意気込んでいたのは紅砂だけだったのに。
「そんな、ことは」
 声が詰まった。顔が歪む、首を振る。その頬を、静の冷えた手が包んだ。
「自分から不幸に飛び込まないで。あたしは幸せになりたいし、幸せにしてあげたくて、あなたと一緒にいるんだから」
 紅砂の目がわずかに潤んだように見えた、と思ったら瞼が下りて見えなくなる。彼の手が静の手を包んだ。噛み締めるような表情。
 瞼が上がる。真剣な眼差しがそこにあった。
「静さん、足を痛めたあなたに申し訳ない。……でも尻込みする前に伝えておきます。今、心の底からあなたを抱きたい」
 視線がかち合ったまま、沈黙が過ぎた。どこかで雪が落ちる音。静はふっと視線を左右に巡らせ、また紅砂に戻すと、上目遣いでもじもじと言った。
「えっと……、ここで?」
「違いますよ!」
 紅砂はぱっと赤面して体を離した。静の笑い声が追い掛けてくる。
「良かったぁ。さすがにちょっと寒すぎて、ねえ?」
「問題はそれだけじゃ……! 全く、あなたって人は本当に……」
 紅砂は深く嘆息して額に手を当てた。静は簪でさっと髪をまとめ、紅砂に向かって両手を広げた。
「負ぶってください」
「……、どうぞ」
 紅砂がまた背を差し出し、静は肩に手を回す。静の膝をしっかりと腕で支え、また紅砂は歩き始めた。
 山道は終わり木々が開けて、人の姿が多くなる。道場まではもうすぐだ。
「こんなの見られたら、またからかわれるでしょうね。そしたら言っちゃおうかな、いよいよ今夜なんですぅって」
「やめてください。……って、え、今夜?」
「何よ、また先延ばしにするの」
 通行人とすれ違いながら賑やかにお喋りは続き、行く手にはケイカの木が見えてくるところだった。



 針葉の傷は治りつつあったが、治りが遅いのは創傷よりも、川に落ち流されたときの骨折だった。
 それでも、牙と苑が辞去した数日後には彼一人で身を起こせるようになり、安静にと言い置いても、目を離すたび体を動かす訓練をしているようだった。炎の許可が下りてからは日常の動作に留まらず、ヤソの大袋を持ち上げたり、片腕で体を支えたり、脚を使わずともできる訓練を続けた。暁や榎本に頼る部分は日に日に少なくなっていった。
 月が替わり、炎が二回目に来たときには無理のない範囲で歩くよう指示され、そしてその十日後、暁が針葉と再会してからひと月が経った頃に、炎はまた顔を出した。
「妙に肉の戻りが早いな。無理しただろ」
「安静にしてたよ。なぁ」
 炎に睨まれ針葉がしらを切る。睦月は訳も分からず「あんせーしてたよ!」と炎の荷を見分しながら言い、暁は肩を竦めた。
「この考えなしが。段階踏まねえと、結局治りが遅くなるぞ」
「んなことよりどうだ、もう帰っていいのか。俺はもうどっこも悪くないんだが」
 針葉が律儀に炎の許可を待つのは、そうしなければ手形も路銀も出ないと言い含められているからだ。もし手元に手形と充分な銭があったなら、歩けるようになった時点で引き払っていただろう。
「菱屋までは数日歩きどおしになるぞ。あと十日待て。今度は無理せずにだ」
 針葉が舌打ちして脚を引っ込めた。炎はそ知らぬ顔で散らかされた荷を片付け始める。がらりと戸が開いて、姿を見せたのは買い出しに行っていた榎本だった。彼は囲炉裏端に炎の姿を認めると、うっと表情を固めた。
 菅谷領までの道で散々脅された彼は未だに炎が苦手なようで、ウスアカザやハタネ、オオネをどさりと板間に置き、また家から出て行った。一方の炎は榎本など歯牙にもかけず、暁と睦月の体調を確認してさっさと辞去した。しばらくして榎本がそろりと戻ってくる。
「あー、びっくりした」
「買い出しありがとうございます。お茶淹れますね」
 榎本は円座わろうだを引き寄せ、囲炉裏に手を翳して冷えた体を温めた。改めて戸を振り返る。
「あの人、暁さんと兄貴のことは知ってんだよな」
「こいつのおとーさん呼ばわりで動じないってことは、そうなんだろうな」
 青物を引きずって走る睦月を、針葉が連れ戻した。暁はまだ熱い急須を睦月から遠ざける。
「苑もそうだったけど、菱屋の面々には知らされているみたい。まあ、坡城で針葉の顔も見知っていただろうから」
「却って隠すほうがおかしいってことですか」榎本は暁に小さく頭を下げ、出された湯呑に手を付けた。

 その夜、家の中は早いうちから寝静まり、暁は小さな火を頼りに土間の片付けをしているところだった。囲炉裏には夜も火が埋めてあるものの、足元からは冷たさが這い上り、暁はぶるりと体を震わせた。
 そこに近付いた足音は針葉だった。分厚い掻巻を肩に掛けている。
「まだ起きてたの」
 針葉はゆるりと頷いて暁の前に腰を下ろした。暁が眉を上げてその隣に腰掛けると、針葉は暁の肩にも掻巻を掛けた。
「ここもあと十日だな」
「針葉がきちんと養生してくれればね」
「分かってるって」針葉の笑い声。「お前をきちんと向こうに帰さなきゃな」
 暁は針葉を見た。視線が合う、ひと呼吸、ふた呼吸。
「暁。俺は飛鳥の生まれだったよ」
 暁の眉が上がった。それでも視線は外れず、針葉を見つめている。
「そう。……最近分かったの」
「七塚の宿に泊まってるとき、偶然知った。長と会ったのはあの神社で、暮らしてたのもすぐ近くだった」
「そう」
 暁は一旦言葉を区切り、針葉の頬に手を伸ばした。ひやり、冷えた指先が針葉を触れる。
「怖い顔してる。私がそれを聞いて怒り出すと思った? 酷い、騙された……とか」
「言わないんだな」
「言わないよ。……ううん、昔なら言ったかもしれない。でもこの一年、東雲も菅谷領も飛鳥も旧上松領も、色々な国を回って、色々な人と話して、色々なものを見てきたよ。いかに自分の見聞が狭かったか思い知らされた。だから、驚いたけれど、平気。……聞いたのが今で良かった」
 今でなければ、暁は衝撃を受け、混乱の末に針葉を傷つけていただろう。
 針葉はじっと暁を見下ろし、顔を背けて膝と同じ方向を向いた。
「あの夜……一人で抜け出した夜は町に行ってた。昔、自分が暮らしてたとこに。小汚いちっぽけな町だった。あの頃は、どう足掻いても抜け出せないと思ってたのに」
「針葉が遅くに帰ってきた夜?」
 針葉は目を伏せ、また上げた。夜の中に浮かび上がる戸をじっと睨む。
「母親に会った」
「……針葉の?」
 針葉はぐっと眉を寄せて目を閉じる。
「病で気が触れて、蔑み者だった。痩せて、汚くて」
「針葉のことは……気付いた?」
「覚えてたのは春って息子のことだけだ。あの人の中では七つで時が止まってた。何でだろうな、憎んでた相手が底の底で這いずり回ってんの見て、胸がすくと思ったのに」
 針葉の右手が、自身の左腕を強く掴んでいた。その下にあるのは母に彫られた文身だ。暁はその手に自分の手を重ねる。針葉の指が緩んで離れ、膝の上に戻った。
 再び暁を見た彼の顔は、穏やかだった。
「お前が待ってたから、帰れた。何も訊かずにいてくれて、救われた。お前がいてくれてよかった」
 針葉の腕が伸びて、暁を強く抱き締めた。あの夜の泣き声は、数月の時を経て彼の中で始末がついたのか。暁も目を閉じて針葉の背に手を伸ばす。
 じわりと着物越しに熱が伝わるほどの間を置いて、針葉は体を離した。
「このまま押し倒す流れだよな」
「な……っ、何の確認?」
 暁はびくりと体をこわばらせ、腕を振りほどいた。針葉は自分の手足をぶんぶんと振って一つ頷く。
「いや、もうどこも痛くないし、体も持て余してるし。お前が自分から誘ってくるくらいだから、よっぽど我慢してたんだろうと思ってな」
「あれ……あれはね、急に針葉が素っ気なくするから、こっちも不安になって……流れてしまった後だったし、怒ったんじゃないかとか、落胆したんじゃないかとか、もう私のことが嫌になったんじゃないかとか」
「それで毎夜悶々と」
「言い方がやらしい!」
 暁が振り上げた手を、針葉は簡単に掴まえてしまう。振り払うに振り払えず、暁は顔をしかめて耳まで赤くなった。
 針葉はひとしきり笑った後、真っ直ぐ暁を見た。
「また流れるかもしれないぞ」
 目は笑っているが、真剣な表情だった。暁の腕が力を失って下がる。
「確かにそうだけど……、でも、それじゃ、流れるのを恐れて一生肌を合わせないの。流れるのはそう珍しいことじゃないって、前に里さんから聞いたよ。なのに……一回流れた、それだけで?」
 困惑の表情も当然だ、と針葉は思う。彼女は自分の母に起きたことを知らないのだ。暁は眉を寄せて首を振る。
「針葉はそれで平気なの」
「俺は、まだ宿ってもいない子よりお前のほうが大事だ」針葉は暁の腕を放し、彼女の両肩に手を置く。「お前の体と、心が」
 暁は歪めたままの顔で針葉を見つめ、肩に置かれた手に自分の手を重ねた。
「次を恐れて踏み出さないなら、私は今ここにいなかったよ。坡城との協定は成らなかったし、談義に出ることもなかった。私は坡城で、偏った考えしか持たずに生きて……飛鳥びとのことも国と一括りにして憎んだままだった」
 暁は指の力を強める。
「私は踏み出したい。また、ややが欲しいよ」
 針葉は暁の顔から視線を離さなかった。確かめるように、見定めるように。そしてふっと笑みを漏らした。
「そんならいいんだ。あー良かった、頷かれでもしたらどうしようかと思った。一生抱けねえなんて生殺しだもんな」
「な……っ、何その変わりよう」暁の抗議もどこ吹く風、針葉はへらへらと笑うばかりだ。
「一応聞いとくのが礼儀だろ」
「本気じゃなかったの? こっちは真剣に答えたのに」
「辿り着いたとこは同じなんだから堅いこと言うなって」抱きすくめて動きを封じ、「こっちも持て余してんだ、色々」口づけてそれ以上の言葉を塞ぐ。
「やだ、もう」
 顔を背けて逃げようとする暁に、針葉は諦めずじゃれついた。
 ――この選択がどう出るのか、今は分からない。見えていないだけで、昏く深い沼の淵に立っているのかもしれない。自分にできるのは、彼女の決断に寄り添い、共に歩み、全力で支えることだけだ。
 針葉は暁を抱き締める。強く、強く。



 十日後に来た炎は「また無茶しただろ」と針葉を睨んだが、人数分の手形と当面の路銀を渡してくれた。
「明日の朝にゃ角野屋から菱屋への一団がここに到着しますんで、それを待ってください。今日は俺もここに泊まらせてもらいますよ」
「えぇ、炎さんも一緒に行くんすかぁ」
 榎本が悲痛な声を上げ、炎にぎろりと凄まれて慌てて身を隠した。
 その夜には全ての荷をまとめた。何事もなく夜は明け、朝飯の片付けを終えたところで牙、真、櫻の三名が到着して、暁たちは茅葺の家を出た。豊川の刀は、丸腰で運び込まれていた針葉が佩いた。睦月は暁に手を引かれ、「おうち、またねー」と名残惜しそうに家に手を振った。
 年が明けるまで、あと数日を残した日のことだった。





          七ノ年