暁と睦月、榎本の三人は、角野屋の青年に連れられて山間の古い小屋で雨をやり過ごし、囲炉裏の火に当たりながら炎と真の戻りを待った。
「おとーさんは?」
 睦月が呟く。返事は無く、また「おとーさんどこ?」と呟く。何度もそれを繰り返し、やがてまた静寂が訪れる。
 雨が止んで曇り空に変わる頃に炎と真は姿を見せたが、もたらされた報せは、あの橋は落ちて、近くに骸が二つと争いの跡が残るばかり、というものだった。
「迂回して向こう岸に着いたときには、足跡や血も全部雨で流れちまってて」
「その骸の……左腕は見ましたか」
 暁が恐る恐る尋ねると、頷いたのは真だった。
「一人の腕には蛟、つまり黒烏でした。もう一人には何もありませんでしたが、そのハルとやらは」
「ハルの左肘から上は一面文身でした」
「それでは恐らく、あの骸は金で雇われた男でしょう」
 囲炉裏に近付こうとした睦月を榎本が抱き寄せる。
「そんじゃハルの兄貴と、待ち伏せしていたもう一人は」
「橋を切って、もしくは意図せずして切れちまって、双方川に落ちたんだろうな」
 あの高さから。あの濁流に。暁は背すじが凍る思いだった。
 叶うことなら叫びたい。あの人は私の夫です、睦月の父です、今まで幾度となく私を救ってくれた人です。どうかあの人を探して。もう一度会わせて。
 しかしそれを表に出すことはできない。表向き、暁の夫は浬であり、「赤烏のハル」は榎本同様に牙直属の部下ということになっていたからだ。暁は目を伏せ、感情を殺した声で言った。
「道中、大変世話になった人です。どうか下流を探して……たといもう生きていなかったとしても、骸を揚げてください」
 捜索は暁と睦月が角野屋へ到着してから、というのが炎の出した条件だった。一行は菅谷領を東進し、次の日には角野屋へ辿り着いた。
 到着の翌日からは調印式に向けての打ち合わせが始まった。協定書の修正事項の反映と確認、調印式の挨拶や段取り、やることは次から次へとやって来る。わずかな合間に顔を見せたのは、睦月を抱いた榎本だった。暁は紙の束を文机の下に隠して睦月を膝に抱く。
「いや、さすがに忙しそうですね。気の休まる暇も無いでしょ」
「ええ……でもそのほうが楽です。余計なことを考えずに済むので」
 榎本が痛々しい表情でじっと暁を見つめた。
「弱音、吐いてくださいよ。誰にも言いませんから。暁さんが平気なふりしてんの見ると、俺のほうが辛くなりますよ」
 牙以外で唯一暁と針葉の事情を知っているのが彼なのだ。暁は睦月の髪の毛に鼻をうずめ、やがて顔を上げた。
「……出立の前の夜に約束したんです、豊川の名に生まれた責任を全うすると。だから今頑張るのはあの人のためでもあるんです。ここで立ち止まったら、二度と顔向けできませんから」
 榎本は顔を歪めて今にも泣き出しそうだった。
「きっと大丈夫ですよ。兄貴がそう易々と死にゃしません」
「私もそう思います」
 睦月は退屈して母の膝から立ち上がり、部屋の中をぐるぐると探索し始めた。榎本が眉を下げてそれを眺める。
「睦月さんも健気でねえ。あの日以来兄貴のことは口に出さず……。俺や櫻さんしか相手できないってのに、文句一つ言わずにいるんですよ。調印式が終わったら存分に甘やかしてあげてください」
「そうですね」暁も睦月を目で追い、ふと眉を上げた。「そういえば苑は姿を見ませんが」
「あぁ、何か知らないけどひと月くらい前に任を解かれたらしいですよ」
 暁は首を傾げた。苑に限って、何かやらかしたということは無いと思うが。
 至の声がして襖が開き、短い休憩は終了となった。榎本が睦月を連れて退出した後は、また次の作業が始まった。

 日に日に寒さが深まり夜が長くなった。調印式まで十日を切った日、襖の向こうから暁を呼んだのは牙だった。
「失礼いたします」
「また何か手直し?」
 協定書に目を落としたまま言う暁の向かいに牙は腰を下ろした。視線だけそちらへ向けるが、彼の手には何も無い。暁は顔を上げた。
「ハルが見付かりました」
 驚きが大きすぎて、咄嗟に声も出なかった。やっとのことで息を吸う。
「川を辿った先の岸に打ち上げられていました。傷は酷いですが、命には別条ないでしょう」
「どこ……、今どこに。会わせて」
「長い距離を動かせる状態ではなかったので、近くの廃家に運び込み、信頼のおける者に世話をさせています。調印式が終われば御案内いたします」
 暁は細かく揺れる瞳で牙を見つめた。本当に見付かったのだろうか、本当に無事なのだろうか。信じることが怖い。調印式に向けて気持ちを盛り立てるための作話かもしれない。真か偽か、暁に知るすべは無いのだ。
「……目は覚めているの。話はできる?」
「暁殿へ言伝を預かっていますよ」牙はふっと笑みを漏らして言葉を区切り、「自分は勤めを果たした、お前も自分の責任を果たせ……とのことです」
 ――赤烏として盾になって、お前ら二人を守るためだ。
 ――私も調印式が終わるまでは、豊川の名に生まれた責任を全うします。
 暁の目に涙がにじんだ。
 間違いなく針葉だ。生きていた。瞼が熱くなって止まらない。顔を覆ってうつむく、畳にぼたぼたと大粒の滴が落ちる。
 牙は暁から目を逸らして立ち上がった。
「いよいよ大詰めです。乗り切りましょう」
 襖の閉まる音。暁は息を落ち着けて涙を拭い、背を伸ばして協定書に向かった。



 十一月十六日。冷え込みの厳しい澄み切った朝だった。調印式は割譲談義と同じ松の間で執り行われた。豊川側の出席者は暁の他に牙、至。坡城側は伊東の後ろに二名が控えていた。そして立会人として不破の席もある。
 三者が席に着き、不破、坡城、豊川の順で短い口上を述べて調印式が始まった。
 初めに豊川の刀が伊東から返還された。続けて至から談義及び合意内容の概要とこれまでの協議経過の報告、そして伊東の後ろの男から取り纏まった協定書の理念の説明。それが終わると暁と伊東の前に協定書が並べられた。
 そらで唱えられるほど読み込んだ協定書の条文を、暁と伊東とで一つずつ読み上げていく。その重みを噛み締めるように、ゆっくりと声を置く。
 この一年は今日この日のためにあった。
「各々、宜しければ署名と花押を」
 不破の声で暁は筆を執った。既に記された日付の左に一行ぶんを空けて文字を連ねる。

  壬国国守職 豊川暁

 花押の墨が乾くのを待って、暁の元にある協定書は伊東のものと交換になった。伊東の名の左に同じく署名し、二部の協定書は不破の元に集まる。不破が筆を取って二部ともに署名し、筆を置く。不破の後ろから二名が進み出て、協定書を掲げ持ち披露した。
「さて、これにてめでたく坡城国、壬国豊川領の協定調印が相整いました。この協定書の内容は翌年一月一日より発効と相成ります」
 不破が厳かに宣言する。
 松の間に集まった者たちが一様に頭を下げる。
 調印式の終了だった。

 暁は豊川の刀を持ち、牙に付き添われて退出する。至は伊東に呼び止められて別室で話を続けていた。振り返った暁に牙が説明した。
「河川の整理を行うに当たって、来月には早速櫂持ち組合との協議を行うようです」
「まだまだ忙しい日が続くね」
 元々細面だった至は、会わぬうちに更に顎が尖り、艶の失せた髪に数本の白髪が交ざっていた。
「一番の山場は越えました。補佐役も付けますので心配には及びません。暁殿はこれからいかがなされる」
「どうする、とは」
「角野屋で心身を落ち着けるのも良し、お望みであれば今日これから例の者の元へお送りすることもできます」
「向かいます。今これから!」
 体中を漂っていた疲労感が一瞬にして吹き飛び、暁は牙に詰め寄っていた。牙はゆるりと笑う。
「そうおっしゃると思いました。榎本を近くまで呼び寄せてあります。共に向かいましょう」
 表門には町人が集まりざわついていた。暁は牙に刀を託して別々の駕籠に乗り込んだ。門を通過し、しばらく揺られて下りたところは町の外れだった。
 睦月を連れた榎本と合流し、牙が向かったのは南行きの道だった。針葉が消息を絶ったのは旧上松領と菅谷領の境にかかる川だったが、そこから南に流されて豊川寄りの領地で見付かったという。
「刀傷のほか川に流されたときの傷も酷く、今だから申しますが、助かるかどうかは五分五分の状態でした。ですが幸い数日で気が付き、その後は順調に回復しているようです。炎の話では、川に落ち体が冷えたことが功を奏したのでは、と」
 途中、昼飯を調達して進む。日暮れには宿を取って朝を待ち、更に進む。
 いくつか街を通り過ぎて川沿いを進み、昼過ぎにはうら寂しい木立の中に分け入った。空に日があるというのに薄暗い道だ。その奥に一つ、古い茅葺の家が見えた。
 暁が牙を振り返る。牙は小さく頷いた。暁ははやる胸をぐっと抑え、枯れ葉を踏んで歩いていく。
 戸を叩いて手を掛ける。戸はがたがたと揺れながら開き、その奥の人影が振り返った。
「遠いところをようこそ。お上がりください」
 ゆっくりと立ち上がって土間へ下りたのは苑だった。暁は目を丸くして口を覆う。
「苑? ここにいたの」
「ええ、訳あってここでお世話を。どうぞ中へ」
 暁に続いて睦月の手を引いた榎本、最後に牙が土間に入り、戸が閉まった。黒ずんだ板間の中央には囲炉裏が設けられ、自在鉤から鉄瓶が下がっている。古い家だが囲炉裏の火で暖かく保たれていた。
 そして囲炉裏の向こう、少し離れたところに蒲団が敷かれ、針葉が眠っていた。
「おかーさん、おとーさんいたね。ねんねだね」
 暁は、はっと睦月を見下ろした。苑に視線を向ける。苑は微笑んで首を振った。
「私は全て聞かされております。どうぞ話していらしてください」
 唇が震えた。睦月を伴って針葉のもとへ歩む。蒲団の脇に腰を下ろして顔を覗き込む。頬に触れる。
 あたたかい。
 息をしている。
 暁は口を覆って涙をこらえた。その横で睦月は。
「おっきするよー!」
 大声を上げ、針葉の腹によじ登った。
「ちょ……睦っちゃん、やめて!」暁は感傷も吹き飛び、楽しそうな睦月を引きずり下ろす。その拍子に蒲団が剥がれ、針葉が顔をしかめて呻いた。
「てっ……、こら、何なんだお前ら」
 目が開いて暁と睦月を見上げる。睦月が笑って「おとーさん、おっきしたねえ!」と叫ぶ。暁は睦月を膝の上に掴まえて洟をすすった。
「おはよう」
 針葉は腕をぎこちなく伸ばして睦月の頭を撫で、暁に視線を向けて苦笑した。
「もっとましな起こし方してくれ」
 そのひと言で、ようやく暁は笑うことができた。笑っているうちに泣けてくる。涙声で、途切れ途切れに報告する。
「調印式、終わったよ。全部終わった。……責任、果たしてきた」
 針葉の腕が睦月の頭から暁の頬に移る。
「よくやった」
 その指に、涙がひと筋伝った。

 その後、榎本は食材調達のため町へ走り、牙も睦月を連れて外歩きに出た。暁は苑が淹れた茶を飲みながら、あの日雨の中で起きたことを針葉の口から聞いた。
 待ち伏せしていたのは三人、そのうち二人は容易く仕留められた。しかし残る一人はすずが選んだ首領格の黒烏だった。
「調印式まで日が無かったからな。どっかから戻って来ると踏んで、全ての関に分散して張ってたんだろうな」
 その男は手強く、いくつも傷を負わされ、押されて橋の上での戦いとなった。針葉は相討ちの覚悟で綱を切り、橋を落としたのだという。流れに呑まれ、その後のことは覚えていない。気が付いたら囲炉裏の傍で暗い天井を見つめていた。
「炎が手当をして様子を見、その後は私が世話をさせていただいておりました」
「そう……。苑にも世話になりました」暁は苑に頭を下げ、湯呑を取った。「任を解かれたと聞いて気になっていたけれど、まさかここにいたなんて」
「ここはどの拠点からも離れていますでしょう。私は故あって暇を貰い、体も落ち着いたところだったので」
「具合が悪かったの」
「暁」針葉の声で暁が振り向くと、彼は小さく首を振った。それ以上聞くなと言うように。暁は訳が分からず苑を見る。苑は躊躇った末にゆっくりと目を伏せた。
「子を授かりまして」
 彼女の視線の向かう先は自分の腹だった。暁もやっと気が付く、その帯の下がゆったりと膨らんでいることに。
 暁は湯呑を置いて苑のほうに乗り出した。「おめでとう。ごめんなさい、気が付かなくて」そして慌てて針葉を振り向く。「やめてよ、気を悪くするわけないでしょう」
 針葉は何も言わず天井を睨み、ふいと顔を背けた。
「俺が深傷を負ったら、どこからか身重の女が現れて介抱してくれるもんらしい」
 苑が首を傾げ、暁が苦笑して肩を竦めた。
「でも、子をって……知らなかった、いい相手がいたの。角野屋の人?」
 苑は柔らかく唇を結んで戸のほうへ顔を向けた。暁もそちらを見るが誰もいない。彼女の言わんとすることを考える――
「ええっ」暁は慌てて口に手を当て、そろりとそれを外した。声には出さずに口の形だけで問う、「きば?」。
「左様でございます」
「左様でございますか……」暁はほぅと息を吐き、改めて苑の腹を見つめた。苑の手が優しく帯を撫でる。
「牙は代々名を受け継ぎます。その子が男児であれば、父烏が亡くなったときに。……ですが豊川家の名も国守職も無くなり、烏は今後、緩やかに失われてゆくでしょう。この子には、鳥とは関わりのない名を与えるのが良いのかもしれません」
 苑とは坡城から菅谷領まで共に旅をした。睦月が連れ去られたときも山を駆け回って探してくれた。そのとき感じた強さや逞しさとはまた違う、包み込む暖かさが今の彼女からは感じられた。
 戸ががたがたと開いて三人が戻ってきた。

「改めてお聞きします。暁殿は今後いかがなされますか」
 その日の夕、飯の支度をしている最中に牙が問い掛けた。暁は包丁の手を止めてしばし考える。
「苑は身重なのでしょう、落ち着けるところへ連れ帰りなさい。針葉が動けるようになるまで私がここに留まります。町まで少し遠いから、誰か置いてもらえると助かるけれど」
「そうですね。調印式が終わった以上、すずの手の者たちが無駄な手出しをするとは思えませんが、一定の警戒も必要でしょう」
「適任は俺しかいないでしょ」
 榎本がひらひらと腕を振った。その背に睦月が突進してじゃれつく。
「ええ、睦月も慣れているし、針葉も気を遣わずに済みます。針葉が治ったら坡城へ発つので、そこまで供をお願いできますか」
「喜んで!」
「十日に一度、炎を寄越します。こちらの出立に併せて私どもも菱屋へ移動するので、必要があれば何なりとお申し付けを」
 針葉は助けを借りれば身を起こせたが、少なくとも半月は安静が必要との見立てだった。苑から針葉の世話を引き継いで、暁一人で助け起こし、清拭したり着替えさせたり手水場まで運んだりと奮闘する。体格の差で難しい部分は榎本の手を借りつつ、新しい遊びと思った睦月に真似されつつ、全てこなせるようになるまで数日を要した。
 牙と苑が去る前日の夜、針葉や睦月が寝静まった後、暁は苑と二人で鍋釜や器の片付けをしていた。
「暁殿を働かせて申し訳のうございます」
「気にしないで、明日からは私が家のことをするんだから。それに坡城で暮らしていたときは働くのが当然だったもの。甘やかされて居心地が悪かったくらい」
 きびきびと動く暁を見て、苑はふっと微笑んだ。
「牙から御夫君のことを聞かされたとき、驚きはしましたが、腑に落ちたところもあったのですよ
「腑に落ちた?」暁は身を屈めて鍋を仕舞い、また腰を伸ばした。
「浬殿の隣にいらっしゃるときの暁殿は肩に力が入っていて、どこか無理をなさっているように見えたので。今は笑ったり泣いたり忙しくて……とても幸せそうに見えます」
 暁はそろりと自分の頬に触れた。幸せそうに見えている。今自分は幸せなのだろうか。
 幸せだ。大事な人と共にあること、必要とされること、心を尽くせること。
 暁は苑の手を取った。
「苑も体に気を付けて。どうか元気な子を産んでね」
 そして朝が訪れる。刀を残し、牙と苑は去っていった。



 開幕からひと月近くが経っても、顔見世公演は大盛り上がりだった。朝一番から並んだというのに、紅砂と静の二人が入れた升席は後ろ寄りだった。それでも季春座から出た静は楽しげだった。
「乙ノ組のも盛り上がって楽しかったけど、やっぱり甲ノ組は良いですね。この前会った役者さん、菊の役の人でしょ。出て行く恋人に縋りつく場面なんか鬼気迫るって言葉がぴったり。あー、鳥肌立っちゃた」
 静は思い出したように腕をさする。隣を歩く紅砂は、織楽の妻子が田舎へ帰ったことを聞いていたので、彼の役に因縁じみたものを感じて苦笑いするしかなかった。
 二人が向かったのは間地の黄月の長屋だった。しかし戸を叩いても応答は無く、中へ呼び掛けていると、隣の家から里が顔を出した。
「隼くんなら呼ばれて出て行ったわよ」
「キタキスの種を取り寄せてもらうことになっていたんですが、どこにあるか分かりますか」
「お花ちゃんの分ね。ちょっと待って」
 里が黄月の家の戸に手を掛けようとして、ふと紅砂の後ろの静に目を留めた。「あなた、この前の……」そして二人を見比べ、ははぁと頷いて紅砂の肩を叩いた。
「やるじゃない」
「な、何がですか」
「お兄さんには肝の据わった子が合うと思ってたのよ」
 里は戸を開け、勝手知ったる他人の家、土間から畳へずかずかと上がる。紅砂と静は土間へ入って待った。
 元は斎木の家だったここは、今は全て黄月仕様だった。申し訳程度に線香の匂いが漂うほかに余計な物は何も無く、仕事と暮らしに必要な最低限のものが隅にまとめられている。紅砂は改めて家の中を見回した。あの家で暮らしていたときの彼の部屋と同じだ。
 里は壁際の箪笥を漁っていく。「あれ、この辺りに置いてそうなんだけど……」そしてふと手を止めた。
「私たちのこと、何か聞いてる?」
 探りを入れるように低い声だった。紅砂から見えるのは里の後姿だけだ。彼女の意味するところが分からず「里さんとゆきのことですか?」と問うと、里はまた手を動かし始めた。
「いいの、気にしないで。あー、もしかしてあれかな」
 箪笥の上には袋が二つ積まれていたが、里の背では届かない。「俺が取りましょうか」紅砂が下駄を脱ごうとしたとき、戸ががらりと開いた。行李を背負った黄月だった。
「隼くん。キタキスってどこに置いてる」
「ああ、今日だったか。その上です」
 黄月は行李を置いて畳に上がり、里が手を伸ばそうとしていた袋をひょいと取った。中を改めて紅砂に渡す。
「確かに預かった。あとこの前頼んでた鎮痛の湿布だけど」
「用意してる、ちょっと上がって待っててくれ。茶くらい飲んでいくか。あの人も」
 黄月が静に顎をしゃくる。里が男二人の脇を通りすぎて土間に足を下ろした。
「それじゃ私はこれで。ゆきもそろそろ戻ってくる頃だし」
「手間を掛けてすみませんでした。……あ、そうだ紅砂」下駄に爪先を掛けた里の後姿を黄月が掌で示し、「籍を入れることになった」
「は」
 黄月以外の三人の動きが止まる。
「だから、里さんと俺とゆきで籍を」
「ちょっと! そんなの今言わなくたっていいでしょう?」
「じゃあいつ言うんですか。もう喪が明けるのに」
 食って掛かる里に、黄月は淡々と返す。紅砂は二人に視線を彷徨わせ、ぽつりと呟いた。
「つまり喪が明けたらすぐに……?」
 里ははっと紅砂に視線を移し、身を翻した。
「ゆきのお昼を用意しなきゃ。失礼します」
「あ、あ、えっと……あたしも手伝います」
 静はぱちぱちと瞬いて里の後を追った。すぐ隣の里の家は間取りこそ同じだが、幼い子がいるだけあって物が多かった。静は壁に立て掛けられた本に目をやる。あれは小間物屋で取り置いたゆきの貸本だ。
「……ごめんなさいね、突然変なこと言って。あなたたちの馴れ初めでも聞こうと思ってたのに」
 里に声を掛けられ、静は慌てて振り向いた。
「いえ、あたしたちのことよりお二人の馴れ初めのほうが」
「馴れ初めなんか無いわよ、好き合って一緒になるわけじゃないもの。お茶飲む?」
「え。あ……いただきます」
 薬缶がしゅうしゅうと音を立てるのを待って、里は急須に湯を入れた。静は座蒲団に腰を下ろし、ゆきの本をぺらぺらとめくりながら待つ。
「ゆきは覚えの早い子でね、どんどん字を覚えていくのよ。読むのも書くのも。この前試しに算盤を教えてみたら、面白がって一人で練習を始めてね。年が明けたら手習いをさせようと思ったけど、今はあの子、てて無し子でしょう。手続きが面倒になるから隼くんが父代わりになってくれる、それだけ」
 里は急須の蓋を押さえ、とぽとぽと湯呑に茶を注ぐ。静は頭を下げて一口啜った。
「あなたたちは? もう今後のことは決まってるの」
「全然です。せんりさん……花ちゃんのお兄さんってお堅い人で、振り向いてくれたのも最近なんです、双子が産まれた後」
「そうなの。あなたあのとき頑張ったものねえ」
 里も自分の湯呑に口を付けた。
「あれからもう三月経つけど、せいぜい手を握ったりってとこですよ。最近まで子供を持つ気は無かったらしくて。でもちょっとは考えを変えてくれてるのかなぁ」
「身籠った後で捨てられるよりは、ちょっと身持ちが堅いくらいのほうが良いわよ」里は小さく笑い、「子供なら、私だって作る気ないわ」
「作らないんですか? 肌を合わせないってこと、一緒になるのに?」静は目を丸くする。
「さっきも言ったとおり、隼くんはゆきの父代わりになるだけだもの」
「じゃああの人……隼さん? はそれで納得してるんですか」
「それを呑んでくれたから一緒になるのよ」
 静は眉をひそめて湯呑をじっと見つめる。
「それって里さんからお願いしたんですか。ゆきちゃんの父親になってちょうだいって」
「まさか。さすがに、五つも若い子の将来を奪えやしないわよ」
「じゃあ隼さんから言い出したってことですね」
 里は頷いてもう一口啜る。湯呑から顔を上げた彼女が見たのは、むず痒さを堪えるような静の笑みだった。
「それ、絶対諦めてませんよ」
「え?」
「やだもう、里さんって鈍いんですか? 一度拒まれたくらいで諦めるわけないじゃないですか。じわじわじっくり距離を縮めて、情が芽生えたところであわよくば、がばっ、ですってぇ」
 静は両手を上げて抱き付く振りをした。里の表情が固まり、落ち着かない様子で視線を揺らす。
「でもそんな……隼くんに限って」
「まああたしの言うことなんて適当に流してもらって構わないんですけど。いいじゃないですか、触るのも嫌ってわけじゃないでしょ。二人お似合いですよ」
 静は茶を飲み干して湯呑を置き、土間に目を向けた。
「それで、ゆきちゃんのお昼って」
「あ……ううん、朝の残りがあるから。あの場に居辛くて言っただけ。ゆきもそろそろ戻るはずなんだけど」
「どこに出掛けたんですか」
「最近、この並びの一番向こうの家にお嫁さんが来てね。梅さんっていうんだけど、その人も本が好きらしくてゆきの話し相手になってくれてるのよ」
 静が相槌を打ったところで軽やかな足音が近付き、ゆきが戸を開けた。静はゆきに手を振ると、入れ替わりで家を出て隣の家の紅砂を呼んだ。

 その後二人は屋台に寄り、早売りを二部と昼飯を買って小間物屋に寄った。浬と紅花の二人は、首が座って抱えやすくなった双子をあやしていたが、今仕入れたばかりの情報に上々の反応を見せた。
「嘘でしょ!? ちょっとやだ、顔見世の話聞くつもりだったのに吹っ飛んじゃったわよ」
「あの二人の間にできる子って……頭は良いかもしれないけど、考えただけでとんでもないな」
 紅砂と静の二人は、浬が朝炊いた飯の残りを貰って昼飯の足しにしていたが、静は箸を止めて首を振った。
「違うのよ。里さんいわく子は作らないんだって」
「え、どうして? 作らないったって、そのうちできちゃうもんでしょ」
「一緒に寝ないつもりみたい。ゆきちゃんを育てるために夫婦になるって言ってたけど、ねえ、あの隼さんって人どうなの。むっつりした人だけど、とことん女嫌いだったりするの?」
 紅砂、紅花、浬の三人は顔を見合わせた。黄月の色事と言われてまず思い出すのは、家に商売女を連れ込んだことだった。浬があの家に来てすぐのことだ。女遊びをするのは針葉も同じだったが、やっと二桁の歳を越えた紅花に気を遣ってか、外で逢引したり理由を付けて泊まってきたりと、色恋沙汰を家の中に持ち込むことはなかった。
 あまりに鮮烈なのは黄月の態度だった。兄仕込みの貞操観念で憤慨する紅花に彼は、怒るでも、にやつくでも、ばつの悪い顔をするでもなく、いつもの調子で淡々と言ってのけた。「そういうふうにできてるんだから仕方ない」。
「えーと……ちゃんとお付き合いしてる人の話は、あたしは聞いたことないかな。浬、ある?」
「いや」
「なぁんだ、本当にお堅い人なの? せんりさんみたいね」
「頼むから一緒にしないでください」
 振った話をはねのけられ、困った顔で紅花と浬に助けを求めた静だったが、赤子を抱いた夫婦は笑いを堪えるのに必死だった。
 紅花は、大きく深呼吸して笑い出しそうな気持ちを押しやり、綾を抱きなおした。
「それにしても、暁も全然音沙汰が無いのね。話したいことばっかり溜まっちゃって。今どこにいるんだろ。……無事なのかな」
 浬は新を片腕で支え、紅砂から受け取った早売りに手を伸ばした。開くと、大きく取り上げられているのは先日の調印式の話題だった。中央に老人と老婆の絵が添えられており、本文にざっと目を通すと、老人が坡城の務番処筆頭であり、老婆が豊川領主であることが分かる。
「大丈夫、きっと元気にしているよ。そのうちひょっこり帰ってくるんじゃないかな」
 浬はふっと笑って早売りを畳んだ。