紅花の出産に立ち会った勢いで唐突に始まった紅砂と静の関係は、大きな波風も立たず、かと言って大きな進展もなく、穏やかに続いていた。
 浬と紅花の夫婦は双子の世話で想像以上に参っていたので、小間物屋は開ける日時を縮小して、静がほぼ一手に引き受けていた。紅砂も甥姪の様子を見がてらちょくちょく店に顔を出し、それを手助けした。
 夜芝居の一件はうやむやに終わらせ、清らかな気持ちで秋公演を観に行った。
 十三夜の月は紅砂の家に招かれて共に見た。話が途切れたところで静が頭をもたせ掛けても、紅砂が避けることはなかった。どれだけ待っても静の肩を抱く手は伸びてこなかったが、それは期待のしすぎだったのかもしれない。風呂も当然別々、蒲団も別の部屋に敷かれていたが、これも想定内だった。
 力技で同衾したあの朝以来、静は紅砂に抱き寄せられたこともなければ、耳元で甘い言葉を囁かれたこともなく、熱く唇を交わしたことも、ましてやそれ以上のことなど皆無だった。平気だ。全て想定内だ。
「あたしはよく我慢してると思うのよ! ねえ思うでしょ?」
 秋の終わりの昼下がり、小間物屋の二階で、静は赤子を揺らしながら力説する。紅花は寝不足の濁った目でもう一人の子に乳を与えていた。
「あのねぇ……正直、今は紅砂が静さんとどうなろうが、どうっでもいいのよ」
「何よ、前はきらきらした目で色々聞いてきたくせに」
「前? ……ああ、産まれる前ね。そんなときもあったわね、懐かしい」
 紅花は眠ってしまった赤子の唇に指を差し入れて外し、そっと寝かせた。先に産まれた女の子で、綾と名付けた子だった。
「何よぅ、つまんないの」
 静も腕の中で眠ってしまった子を隣に横たえた。こちらは新と名付けられた男の子だ。襖が静かに開いて浬が顔を出した。
「紅花ちゃん、ご飯できたから食べな。こっちは代わるから眠ってきていいよ」
「ありがと。洗濯物取り込んでから横になるわ」
 ふらりと立ち上がった紅花の袖を引いたのは静だった。
「洗濯物くらい畳んどくわよ。食べた後も片付けといてあげるから、ちょっとでも休みなさいな」
 紅花は神妙な顔つきで静を見下ろし、小さく頷いた。
「じゃあお願いする。ごめんね。紅砂に会ったら、早く静さん襲えって言っとくわ」
「やだ花ちゃん、甘く優しく激しくねっていうのも付け足しといてよ」
 襖が閉まり、静が振り返ると、赤子の傍で浬が笑いをこらえていた。静は両手を広げてひらと振る。
「大丈夫ですよ、あたしからは襲わないって決めてますから」
「ええ、そのほうがいいかな。でも誤解しないでやってくださいね。もどかしく感じるかもしれないけど、あいつは本当に真面目でいい奴だから」
「浬さんより?」
「比べ物になりません」
 静もくすくすと笑いを漏らした。「やめてくださいよ、花ちゃんかわいそう」
 浬も笑ってお揃いの恰好で眠る双子を見下ろし、上掛けを直した。
「そういえば今日は紅砂待ちですか」
「そうなんです、ようやく道場を案内してもらえることになって。あ、じゃあそろそろあたし下りますね」
 静は双子の頬にそっと触れ、手を振って二階の部屋を後にした。

 取り込んだものを畳み、厨を片付けたところで紅砂が顔を出した。日が傾きかけた肌寒い中を、二人は間地へ向かう。
「今日は道場じゃなかったんですか」
「ええ、何件か得意先を回った帰りです」
 ふっとケイカの花が香り、静が大きく息を吸い込んだ。紅砂が「あれです」と前方を指す。大きなケイカの木の向こうに門が見え、行儀よく並んだ敷石が奥の建物まで続いている。夕暮れが近いこともあって人の姿はまばらだったが、建物の中からは威勢のいい声が聞こえていた。
 紅砂は静を連れて自分の仕事部屋である正骨室を見せ、続いて道場を案内した。礼に始まり二人一組で技を掛け合う姿、掛け声。奥では乱取りを行っている。鮮やかに決まる技。そしてまた礼で終わる。
「お、その人か」
 技に見とれていた静に、大柄な影が近付いた。丈も幅も奥行きもがっしりとした男だった。紅砂が片手を上げる。
「勝手に上がらせてもらったが」
「いいっていいって。こんにちは、ここの跡取りの忠良です。お嬢さんが確か……」
「静です」
「静さん。いやぁ会いたかったですよぉ。この朴念仁が綺麗なお嬢さん連れて歩いてるって、ちょっとした噂になっててね。本物派と見間違い派でこの道場は真っ二つですよ」
 忠良は歯を見せて笑いながら、紅砂の首に片腕を回して締め上げる。紅砂は仏頂面のまま「本気にしないでください」と言っただけだった。
 練習中だった者が、静に気付いて一人二人と寄ってくる。
「おいおい、まさかの本物だったよ」
「嘘だろ、どこで口説いたんすか」
「ほら、やっぱり言ったとおりだったろ」
 重なる声とともに汗の匂いが一気に濃くなる。「だから連れて来たくなかったんです」忠良に小突かれながら、紅砂はうんざりと言った。
 そのとき奥の方から紅砂を呼ぶ声が上がった。人だかりの中から、男が一人立ち上がって大きく腕を振る。
「良かった、来てたんですね。タツの奴が肘を痛めちまって。診てやってください」
「今行く」そう答えた後で紅砂は静を振り返った。静は眉を上げて頷く。
「行ってらっしゃい。ここで待ってますね」
「すみません」
 一人取り残された静は、数人の門弟に囲まれて談笑しながら紅砂を待った。練習していた者の年齢層は幅広かったが、今彼女の周りにいるのは十代から三十手前か、若い者ばかりだ。その中では年嵩の男がおっとりと笑う。
「それにしても、紅砂くんにこんな綺麗なお相手がいるなんてねぇ。どこで出会ったんです」
「よくある話ですよ。あたし、せんり……紅砂さんの妹さんの店で働いてて」
「あの店なら俺も行ったことありますよ! でも変なおっさんしかいなかった」
「葦さん? 変な人ってひどい。あの人ならあたしとほとんど入れ替わりでした」
「畜生、もっとちょくちょく通っとくんだった。俺が先に口説いてたら、ちょっとは望みありましたよね?」
 身を乗り出して大声で話すのは、弟のような歳の若者だ。静は小さく笑って首を振る。
「口説かれてなんかいませんよ。先に惚れたのはあたしですから」
 おおっとどよめきが上がって、また静は苦笑した。
「ちなみに紅砂くんのどこに惚れたんです」
「えーと……初めはちょっといいなって思っただけで、でも一緒に出掛けて話すうちに、すごく誠実な人だと思って」
 語るうちに自分で照れくさくなり、静は口元を隠した。そこににやと笑って口を開いたのは日に灼けた青年だった。
「誠実と言や聞こえはいいけどよ、とんだ堅物だったろ。実際に付き合ってみてどうだった」
「まあ……堅物ですよね。こんな人もいるのねって驚いてばかり」
「あっちは満足できてるのかい」
 彼の言わんとすることは分かったが、静はにこりと笑って首を傾げた。
「あっちってどっちです?」
 青年もにっと笑って同じ方向に首を傾げた。
「退屈してんなら夜だけ相手になるぜ」
 彼はすぐ他の男たちに小突かれて輪の外へ出された。静は笑みを崩さずにそれを見送り、戻ってきた紅砂に手を振った。
 帰り道はもう日が暮れかかっていた。紅砂が朝炊いた飯が残っているので、二人は屋台で好きなものを調達して家へ向かった。
「さっきは一人にしてすみませんでした。盛り上がってたみたいだけど話が合いましたか」
 紅砂は左手に天麩羅の椀を、右手に焼き魚の椀を持っている。天麩羅を選んだのが紅砂で魚が静だ。半歩後ろを歩く静は、口から首元までをすっぽり覆った手拭いから笑い声を吐き出した。
「ぜーんぜん。あたし客あしらいが上手いんですよね」
「口の悪い奴もいたでしょう。嫌な思いしませんでしたか」
「嫌な思いだなんて。それどころか、堂々と夜のお誘いしてくれて笑っちゃったわ」
 紅砂が血相を変えて振り向いたので「断ったわよ」と付け加えておく。しかし彼の顔は険しいままだった。
「誰ですか」
「気にしないで、あんなの冗談よ。あたしは何とも思ってないから」
「俺が嫌なんです。大事な人をそんなふうに扱われるのは」
 せっかく笑い飛ばそうとしたのに、彼はこうして辛そうな表情をするのだ。静も足を止める。
 本当に、こんな面倒な人は見たことがない。面倒で、でも誠実で、自分の言葉の一つ一つを丁寧に汲み取ってくれる。以前の自分なら見向きもしなかっただろう。もっと軽く交わせる言葉を好んだだろう。何も考えずに一緒にいられる相手を。
 そして相手からも軽んじられ、すぐに失うのだ。傷付くほどの繋がりもなく、それに気付く間もなく、互いの心にどんな楔を打ち込むこともなく、終わる。
 それが、今まで自分が繰り返してきたことだ。
 静は紅砂に一歩近付いた。
「あたしは大事な人ですか」
「そうだと言ってます」
 それだけで充分だった。静は手拭いの下で小さく微笑み、また歩き出す。
「やっぱり言ーわない。せんりさんが仕事しにくくなったら困るもの」
「静さん」
 すたすたと進む静を、両手に椀を抱えた紅砂が追い掛ける。大通りを抜けると人影もまばらになった。静は立ち止まってすっと手を差し出した。
「はい?」
「魚のお椀、自分で持ちますから」
「いいですよ、重いものじゃありませんし、家ももうすぐそこに」
「あなたの大事な人が。……日の落ちた道を歩いてるのに、手も引いてくれないんですか」
 唖然と口を開ける紅砂の右手から椀をもぎ取り、静は、自分の左手を絡ませた。そのままゆっくりと歩き出す。坂に入ったところで、静の耳に、紅砂が後悔の溜息を漏らすのが聞こえた。
「すみません……本当に、気が利かなくて」
「本当にね」わざと不機嫌な声で答えるのは、ひと月前と同様に小さな仕返しだった。静は絡めた指の一本一本にぎゅっと力を込める。
「ねえ、確かにあたし、触れたいときに触れてって言いましたよ。せんりさんがゆっくり進みたいのに、あたしばっかり気が急いてるのも分かってます。でもね、このひと月、手の一つも握りたくなりませんでしたかっ」
「そ……、そんなことは」
「じゃあ悶々としてたの?」
「も……っ」
 紅砂が言葉を詰まらせた。静は自分で責め立てておきながら笑いそうになり、夜に乗じてむず痒い唇を隠した。紅砂の息の音。
「触れたいですよ、でも……。好いた相手を大切にしたいと思うのは間違いですか」
「せんりさんにとっての大切にするってどういうこと。自分勝手にその時期を決めるってこと? あたしが触れてほしいと思ってるのに?」
 もう紅砂の反論は聞こえなかった。木々を抜けて坂が終わり、目の前に家の影がそびえ立つ。
 家に着いたところで二人の指は離れた。火を起こして遅い夕飯を済ませ、静が厨で片付けをしている間、紅砂は蒲団を敷いて眠る支度をする。
 結局、今日も同じだ。まだ水の滴る椀を伏せて、静は冷えた手を拭う。どんな押し問答をしても、結局は彼の気が変わるのを待つしかないのだ。それを受け入れざるを得ないのが惚れた弱みだった。
「あたしって結構健気かも」
 自分で言って笑ってしまう。暗い廊下に戻ると、紅砂が部屋から顔を出したところだった。
「静さんの蒲団はそっちに敷いてあるので」
「いつもと同じとこですよね」
 いつもと同じ別々の部屋。分かっている。納得してもいる。突然豹変したりしない彼だから、静は惚れたのだ。
「おやすみなさい」
 ぺこりと頭を下げて静はいつもの部屋へ歩む。紅砂の返事は無い、と思ったところに近付く足音、振り向いた静に伸びる腕。
 抱きすくめられて、静はごくりと唾を呑んだ。息が聞こえる。自分の息、すぐ近くで彼の息、どくどくと脈を打つ胸。頬がかっと熱を帯びる。今夜だったのか、どうして突然、でもそれはそれで有りだ、とうとう彼もその気に。
 しかし耳元で聞こえた彼の声は、絞り出すように苦しげだった。
「すみません……情けなくて、臆病で、本当に……」
 すっと胸に冷たい風が流れ込んだ。
 静はゆっくりと息を吐き出して目を閉じた。
 ああ、本当に面倒な人だ。この期に及んでまだ悩んでいる。それが恥じらいなのか、静に手を出すことへの躊躇いなのか、彼自身の過去に原因があるのか、それすらも内に隠して自分の中で迷っている。
「待ちますから」
 静は広い背に手を這わせた。あれほど先へ進むことにこだわっていたのが、今では酷くちっぽけに感じるから不思議だ。
 もう底の浅い付き合いは繰り返さない、この人を失いたくない、そう願ったのは自分だったのに。



 冬風が冷たさを増したある朝、黄月は、斎木が息をしていないことに気付いた。織楽が訪れたあの日から半月後のことだった。
 一年近くに及んだ養生生活の末だった。容体は徐々に悪化し、うわ言を口走ることも増えていたが、最期は日が沈むように穏やかだった。
 黄月が人を送るのは、九年前に前羽を亡くして以来だった。寺と港番に連絡を入れ、里を初めとする長屋の者たち、間地自治組からも手伝いが出て、別れの儀式は滞りなく進んだ。野辺送りの白い行列は間地の人々に合掌で見送られて、長屋から墓地までを粛々と練り歩いた。
 全てが終わり、家の片付けも済むと、斎木が使っていた長屋は随分広々として感じられた。
「お疲れ様。他に手伝うことは?」
 風を通すために開け放っていた戸から、里が覗き込んでいた。黄月は「いえ」と首を振る。里は土間まで入って家の中を見回した。
「がらんとしたわねえ。お爺ちゃんがいかに溜め込んでたかってことね。仕事はいつから再開するの」
「もう明日には」
「あら。もう少しゆっくりすればいいのに」
 畳に腰掛けた里に、黄月は笑みを返した。
「有難いことに、「間地の秋月先生」はすっかり馴染みになりましたから。里さんだって祖母上がお亡くなりのときにはすぐに再開されたでしょう」
「産は待ってくれないもの」
「病も同じことです」
 冷たい風が吹き込み、里が肩を震わせた。黄月は土間に下りて戸を閉めた。がたがたと戸が鳴る。里が手をすり合わせて息を吐きかける。
「ここは引き払うの?」
「いえ、引越も面倒ですから。それに俺が離れると、ゆきが気軽に来られなくなるでしょう」
 里は顔を上げて黄月を見据えた。
「隼くん、そのことだけど……」
「あのときは大変失礼なことを言いました」黄月は里の言葉を待たずに頭を下げた。「里さんは人別改めの話が持ち上がったとき、迷わずゆきを子として記帳されましたね。時々面倒を見るだけの俺が、同じ立場で語ることなんてできるはずがなかったんです」
 里はきまり悪く眉を寄せ、土間に散らばる小砂に視線を落とした。
「私の方こそ悪かったわ。大人げなかった」
「考えていたんです。どうしたら同じ立場で話せるのかと」
 里は、ふと視線を上げた。目の前の男はいつもと変わらぬ淡々とした表情で続けた。
「俺がゆきの父親になれば、あの子の今後を対等に話すことを認めてもらえますか」
「は……、はぁ?」
「だってそうでしょう。母親である里さんと同じ立場になるには、そうするしかない」
 里はしきりに瞬きを繰り返してあちこち視線を彷徨わせる。
「そりゃそうかも、しれない、けど……あなたがそこまでゆきに肩入れする理由が無いでしょう?」
「里さんがゆきを育てると決めたときも、子として記帳するときも、同じように言う人はいましたね。里さんは何と答えましたか。……俺は前にも言ったとおり、あの子が産まれる前から関わっていて愛着もありますし、それにあの子は聡い子です。然るべきところで学ばせればきっと結果を出すでしょう。庶子というだけでその道を閉ざしたくない」
 里はくらくらする頭に手を当てて目を閉じた。
「隼くんがゆきのことを考えてくれてるのは分かった。でも、それよりもっと大きな問題があるでしょう」
「大きな問題?」
「頭のいいあなたが気付いてないはずはないと思うけど。ゆきの父親になるってことは、私と籍を入れるってことよ」
 黄月は表情を変えずに「はあ」と間の抜けた相槌を打っただけだった。「それが大きな問題ですか」
「そうでしょ。あなた、この先誰かと一緒になる気は無いの。一生?」
 里の声に苛立ちが混ざり、早口になる。一方の黄月の声はあくまでゆったりと諭すようで、笑みすら含んでいる。
「一緒になるも何も、里さんと籍を入れれば同じことでしょう」
「ねえ、さっきから何なの、からかってるの? 本気で一緒になりたい相手ができたときに、面倒くさいことになるわよって言ってるのよ」
「里さんこそ、俺が伊達や酔狂でこんなことを言ってると思ってるんですか」
 里は、今度こそ唖然と口を開いた。目の前に立つ長身の男を頭から爪先まで眺め、理解できないものでも目にしたかのように眉をひそめる。
「あなた……、私のこと好いてるの」
「好いているというよりは尊敬のほうが近いです」
「……尊敬?」
「俺の中では最上級の褒め言葉なんですが」
 黄月は困った表情で眉を掻く。里はしかめた顔をうつむけて両手で覆った。そのまま考える。呼吸を一度、二度、三度、そして顔を上げた。
「喪が明けたら籍を入れましょう」
 彼女の目は黄月ではなく真正面の戸を見据え、まるで自分に言い聞かせるようだった。黄月の口元がふっと緩む。
「ただし」里は黄月に鼻先を向け、「ゆきに父親を作ってあげるためよ、あなたの妻になるためじゃない。だから子供は作らない。それでもいい?」
 黄月は一瞬の間をおいて「今のところは」と小さく頷いた。
「今のところ?」
「里さんの意思を尊重するということです」
 里は危ういものを見るような表情を黄月に向け、ぎこちない空気を残して隣の家へ帰った。
 戸が閉まる音を聞いて、黄月は長く長く溜息を吐いた。まったく、あの人には敵わない。きっとこれからも一筋縄ではいかないのだろう。だがいつも冷静沈着なあの人の、泡を食ったようなあんな表情を、今までに見たことがあっただろうか。
 今、彼の心は晴れやかだった。



 冷え込みの厳しい日が続く中、ぽっと現れた穏やかな小春日和だった。紅葉は今が真っ盛りだ。
 昼過ぎで店を閉める支度をしていた静は、通りに紅砂の姿を見付けて手を振った。紅砂も会釈を返す。
「こちらの都合ですみません」
「ううん、ちょうど暖かい日で良かった」
 二階からは泣き声が二重に落ちてくる。紅砂は苦笑して天井を見上げ、ふと自分の袂を探った。
「すみません、ちょっと待っててもらえますか。黄月から預かったものがあるので」
 小さな紙袋に入ったそれは、傾いてさらさらと音を立てた。静は中を覗き込んで首を傾げた。指の先ほどの小ささで細長い、見たこともない茶色の実だ。
「何ですかこれ。干した海藻?」
「キタキスの種だそうです」
「そんなの何に使うの。植えるの?」
「煎じて飲むと乳の出が良くなるそうで、里さんに頼まれたとか」
 へえ、と静が感嘆の声を上げた。「じゃあ早速やっとくわよ。どのくらい煮出せばいいの」
 静に種を託し、紅砂は下駄を脱いで二階へ上がった。さっきぎゃんぎゃんと響いていた声は、今は少し落ち着いているようだ。紅砂が襖を開けると、ぐったり疲れた顔の妹が視線を寄越した。浬は窓辺に立ってもう一人を揺らしている。
「お疲れさん」
「もー駄目、一人が泣くともう一人も泣いちゃって」
 紅花の腕の中にいるのは新だ。産まれたときにはよく似ていた二人も、ふた月が経ち見分けやすくなってきた。もう泣き声は止んでいるが唇がむくれ、恨めしそうな目で紅砂を見てくる。
 紅砂は甥っ子の首と尻を支えて紅花から受け取った。ゆらり揺らして声を掛けると、新は不満げな表情のまま紅砂に視線を返す。まばらに生えた髪も、目も、真っ黒だ。紅砂は目を細めてそれを見つめる。
「あー、いいわよ。静さん楽しみに待ってたんだから行ってきてよ。葉っぱの一枚でも持って帰ってきてくれたらいいから」
「今、下でキタキスの種を煎じてくれてる」
「もう届いたんだ。効くといいけど」
「黄月の様子はどうだった」
 綾を揺らしながら浬が問う。半月前に亡くなった彼の師のことだろう。紅砂は眉根を上げて首を振った。
「いつもと変わりない。家の中なんかさっぱりして、前よりずっと暮らしやすそうだったよ。斎木先生のもの、一つでも残ってんのかな」
「それはそれであいつらしいか。今年はずっと看病続きだったから、心の準備ができてたのかもね」
「いや、あいつは長が亡くなったときも平然としてた」
「針葉は取り乱してびーびー言ってたのにね」
 兄妹に畳み掛けられて浬は苦笑した。ふと、鼻をすんと鳴らして眉を寄せる。
「何だこれ、ものすごい匂いが……」
「……うわ、本当。え、どこ? ご近所?」
「そういえば黄月が、あれはとにかく苦くてまずいらしいって……」
 言い終わらぬうちに襖が開いて湯呑を持った静が現れた。匂いは途端に濃くなる。紅花は慄いてしきりに鼻の前を煽いだ。
「し……静さん、何よそれ、煎じ方間違えたでしょ」
「失礼ね、言われたとおりきっちり作ったわよ。さあ飲んで」
「こんなの人の飲むもんの匂いじゃないわよ!」
 追う静、逃げ惑う紅花。浬は部屋の隅に立ってそれを避け、口の端を引きつらせた。
「紅花ちゃん、ほら、味は意外といけるかもしれないから」
「ちらっとでも思ってないくせにっ」
 最後には観念して湯呑を乾した紅花だったが、予想を違えぬ味に思いきり噎せ、しばらくしかめっ面が消えなかった。

 紅砂と静が川を越えて神社の近く、赤く染まる山道へ着いたときには、既に日が傾き始めていた。
「ぐるっと歩いたら戻らなきゃな、遅くなってすみません」
「いいですって。紅葉狩りなんてじっと立ち見するもんでもないでしょ。それに、あれはあれで楽しかったし」
 さっきの騒動を思い出して静はくくっと笑いを漏らす。それを微笑んで見る紅砂の視界を、はらはらと紅葉が舞う。頭上に伸びた枝も、足元に積もる葉も、赤や黄色や橙の賑わいだ。二人と同じように紅葉を楽しむ人がちらほら見える。人の声や風、葉擦れの音で道はざわざわと騒がしかった。
 先に手を差し出したのは紅砂だった。静はそっと手を重ねた。
 山をぐるりとひと巡りし、紅砂は綺麗な葉をいくつか袂に仕舞って、その日は何もかも順調に過ぎるはずだった。しかし帰路についたところで、静を呼び止める声があった。
 静ははっと足を止めて振り返った。そこにいたのは一人の青年だった。
「やっぱり静だ。何だ、山見に行ってたのかよ」
 静はさっと表情を曇らせて前に向き直り、紅砂の腕をぐいと引いた。
「せんりさん、行きましょ」
「でもお知り合い……」
「何だよ、逃げんなよぉ。お前は相変わらず冷たいなあ」
 男はさっと静の前に回り込んだ。静が身を固くする。男はようやく静の隣にいる紅砂に気が付いた様子だった。ひひっと頬を上げて二人を交互に指す。
「え、え、何なに、これ新しい男? もう見付けちゃった? さっすが静さま」
「……あんたにゃ何の関係も無いでしょ」
「いやいや、挨拶くらいはしとかないとだろ。どうもぉ、静の昔の男でぇす」男は紅砂にひらひらと手を振り、「で、どんくらい続いてんの。俺の後に何人目?」
「放っといてよ、そこ通して!」
 静が声を荒らげても、青年は手を上げて怖がる真似をするだけだ。彼はにやと笑うと紅砂に身を寄せた。
「なぁあんた、もうやらしてもらった? ちょろかっただろ。でも気を付けなよ。こいつ目移り激しいから、飽きたらぽいっと捨てられるぜ。俺みたいになぁ」
「やめてよっ」
 涙声で掴みかかる静を容易く引き剥がし、男は笑う。彼の腕を掴んだのは紅砂だった。男が笑うのをやめて紅砂を睨む。
「あぁ? 何ぃ?」
「静さんとあんたの間のことに俺が口出しすべきじゃないが、……静さんがあんたを捨てたって言うなら、それは正しい判断だったな」
「はあぁ? 静、何だよこいつ、偉っそうに。お前の好みってこんなんだっけ」
 人差し指を紅砂の鼻先に突き付けてせせら笑っていた彼は、ふと紅砂の瞳に目を留めた。
「あんた、よぉく見ると舶来もんか? そういうことかよ静。色の違う弾かれもんを味わってみたくて――
 ぱんと乾いた音。静の平手が男の頬を張った。
「取り消して!」
「っつー……」男は顔を歪めて頬を押さえ、「取り消す? 何をだよ。俺間違ったことなんて言ったかぁ?」
「うるさい! あんたが今この人に言ったこと、全部取り消せ!」
 静はもう一度腕を振り上げる、だが男はそれを呆気なく掴まえた。ぐいぐいと力で押され、静は歯を食いしばる。
 突然男の腕が離れた。はっと顔を上げると、紅砂が男の腕を掴んで後ろ手に捻り上げていた。
「昔の相手と自称しておきながら未練がましいな。お引き取り願えるか」
「んなことあんたに指図される覚えは……」紅砂は表情を変えずに腕の力を強めた。男が顔をしかめ叫ぶ。
「て、てて……痛い痛い、折れる! 分かった、分かったよ! 分かったから!」
 紅砂が腕を放すと、男はさっと離れて振り返った。
「へっ、弾かれもんに尻軽女でお似合いだ。せいぜい仲良くやるがいいさ」
 最後まで悪態を吐いて、男は足早に立ち去った。紅砂は舌打ちをして静を振り返り、小さく声を上げた。彼女は夕暮れの中でも分かるほど顔を青くし、目に涙を浮かべていた。瞬いた途端にぼろりとこぼれ落ち、彼女の手は乱暴にそれを拭った。
「ごめんなさい、あんな奴に……あたしと一緒にいたばっかりに……っ」
「どうして静さんが謝るんです。もう見切った相手でしょう」
「一瞬でも……あんな奴の隣にいた自分が、情けないし悔しいし……っ、あたしだけじゃない、せんりさんにまで酷いこと言って」
 涙声の合間に嗚咽が混じる。紅砂はその背をさすってゆっくりと歩かせた。
「俺ならどうってことありません。見た目で色々言われるのは慣れてます」
「あたしは嫌よ。大事な人を侮辱されて怒らないほうがどうかしてるわ」
 それは、いつか彼自身が言ったことだった。紅砂は小さく笑って蒼く暮れていく空を仰ぐ。
「前に俺の祖父母の話をしましたよね」
「蓮さんと絹さん……すゆさん?」
「祖父は海の外から流れ着いた人で、容姿がまるで違ったそうです。父と母はどちらも混じり子で黒い髪と目でした。そしてその親から生まれた俺や花は、この目です。髪も、花は元々黒いけど、俺は昔はもっと色が薄くて。染めずに外を歩けるようになったのは最近です。幼い頃は、このくらい暮れた空の下でしか遊ばせてもらえませんでした」
 静は洟をすすりながら道を歩く。いつしか涙は乾いていた。
「両親と花の育ての親は、俺が十のときに妙な連中に絡まれて命を落としました。それであの家に引き取られたんですが……誰も何も教えてくれなかったし、花も理解できる歳じゃなかったはずですが、あの一件は俺たちの容姿が遠因だったようなんです」
「え?」
「そこまで危ない目に遭ったのはそれっきりですし、良くしてくれる人も多かった。でも、あのときからずっと胸に靄がかかったようで晴れなくて。自分は子を作るまいと思っていました」
 静は唾を呑み込む。苦しげな声が耳に蘇った。情けなくて、臆病で、と絞り出すように謝る声。四人を失った責任を、たった十の子供が一人肩に抱えて、さぞ重かったことだろう。
「だから触れようとしないの」
 自分の口から出た言葉を聞いて、静はぞくりと震えた。彼が頷けばこれ以上の進展は望めない。それを急かすことも、こんな話を聞いた後ではもうできない。
 紅砂が静に向けた顔は笑っていた。
「綾と新、あの二人が本当に可愛くてね。髪や目の色が浬寄りでほっとしました。でもそれ以上に……きっと何色を持って産まれようと、それこそ祖父と同じ色であろうと、あの子たちは可愛いし、もし困難が立ちはだかるなら護ってやりたいと、心の底から思ったんです。……だから大丈夫。あの頃より俺は図体もでかくなったし、少しは強くなりましたから」
 この人は進もうとしている。静は眩しいものを見るように目を細めた。それに対して自分は。
「……あたしのこと幻滅したでしょ」
「幻滅? どうして」
 静は口籠る。あの男に投げ付けられた辱めの数々を、自分で口に出すのは避けたかった。
「さっきの奴が言ってたことなら気にしてませんよ。静さんに未練があるのが丸分かりだったし、どうせ誇張した言い分でしょう」
「ま……丸っきり誇張ってわけでも……」
 庇ってくれるのが気まずく、静はそっと顔を背ける。
「俺もこの半年ちょっと一緒に過ごして、少しは静さんの人となりを分かってるつもりですよ。花からも色々聞かされてますし」
「は、花ちゃん? 何よそれ、あの子何話したの!?」
「え、いえあの、恋多き人でいつも楽しそうだとか……まぁそんなことを」
 食って掛かる静に気圧されつつ、紅砂はやんわりと答える。静は熱くなる頬を押さえた。これはきっと、他にもたくさん聞いているはずだ。
「そうですか……。またあの種煎じてあげないと」
 小さな仕返しを呟きつつ、行く手には小間物屋が見えてくるところだった。