暁たちが旧上松領に入ってから三日目。移動を続け、拠点となる玉置屋の隣町で宿を押さえて、ようやくひと息ついたところだった。
 畳に荷を下ろして身軽になると、榎本は早速玉置屋へ到着を告げに出て行った。睦月は新しい居場所をそわそわと歩き回り、針葉は荷解きの手を止めて窓辺に寄り掛かった暁を見た。
「具合はどうだ」
「大丈夫、無理はしてないから」
 飛鳥の宿からここまでは天候に恵まれ、街道も整備されて歩きやすかった。関での調べも形ばかりで緩く、ここは既に飛鳥の一部なのだと思い知らされた。
「この辺りは下町だけど随分賑わってるね。同じ飛鳥の支配下でも、菅谷領とは違うみたい」
「いち早く飛鳥の傘下に入ってどんどん金が流れ込んだし、水面下じゃその前から結託してたからな。菅谷も豊川も、立ち直りが遅いのは飛鳥に抵抗してたとこばかりだ」
 そして菅谷は力で飛鳥に絡め取られた。豊川はそうなるまいと、暁は坡城を交渉先に選んだが、結局それが正しかったのかは分からない。
 いずれ壬という国は消え、非公式な地域の名となるのかもしれない。そこに根付いていたものは緩やかに周りと溶け合って馴染んでいくのだろう。新たに壬の名で国史が書かれることはない。壬が歩んだ道は、後に残る飛鳥や坡城、津ヶ浜といった国の歴史の一つとして、好きなように描かれるのだ。
 かつてここに大国あり。
 ……暁は静かに目を閉じる。
 どんと睦月がぶつかってきて感傷は唐突に途切れた。
「睦っちゃん、危ないよ」
「おかーさん、おそといこ。おーそーと。いきたい!」
「まーだ。榎本さんが帰ってきてからね」
「えのともさん、はやくかえってこーい」
「帰ってこーい。榎本さんね」
 睦月とじゃれながら暁は、先程までの湿っぽい思いは何だったのだろうと思い返す。国や家がその名を失くしても、人々の営みは続いていく。それは自分自身も同じことだった。
「そんなに遊びたいなら遊んでやろうか」
 針葉が背後から睦月の脇を掴んで、ばっと持ち上げては落とすふりをする。睦月は身を反らせ、げらげらと部屋中に響く声で笑い転げた。
「ちょっと、落とさないでね。気を付けてよ」
「それは、どうか、なっ」
 畳に落ちるすれすれのところでまた脇を支え、睦月が笑う。それを数度繰り返して、針葉は睦月を胸に抱き上げ、とんとんと落ち着けるように背中を叩いた。暁はほっと胸を撫で下ろす。
「暁」
 満足しきった表情の睦月を胸に抱え、針葉が暁を見下ろしていた。
「落ち着いたら上松の邸の近くに行ってみるか。まだ補修して使われてるらしいぞ」
「邸?」
 暁は怪訝げに眉を寄せる。それは彼女が義兄を殺した忌まわしい場所だ。しかし針葉の目には懐かしむ色があった。
「あの場所はさすがに、もう残ってないだろうけどな」
 あ、と暁は思い出した。二人が初めて出会ったのも、この上松領なのだ。
 榎本は夕方に戻った。現在のところ調印は再来月を予定しており、来月頭には玉置屋に協定書の案文が届く見込みとのことだった。榎本は暁に早売りを手渡し、じゃれてきた睦月を抱き上げた。
「菅谷領はまだごたついてるみたいでした。何も無ければ、調印まではこっちで過ごすのが良さそうです」
「おそといこ」
「んんっ? いやぁ睦月さん、さすがにもう暗いし寒いですよ」
「さむいくない。いくのー! おそと!」
「それよりも睦月さん、あと四回朝が来たら、北の大通りででっかい市を開くそうですよ。きっと色んな物が見られて楽しいですよ」
 顔を赤くしていた睦月は、榎本の腿の上で跳ねるのをやめて首を傾げた。
「おまつり?」
「そうですねぇ、お祭りですね」
「むっちゃん、おまつりいきたい」
「いいですね、行きましょ行きましょ」
「きょういく。いまから」
「今はまだやってないんですよ。睦月さんが早く寝たら早く朝が来ますよ」
 榎本はうまく睦月の駄々を収めたが、その代わり夕餉の間じゅう、おまつりと騒ぐ声を聞かされる羽目になった。暁が食べこぼしを拾いながらたしなめる。
「お利口に食べてねんねしないと、お祭り逃げちゃうよ」
「にげちゃうくないの! や!」
「やだよねぇ。じゃあちゃんと食べようよ」
「暁、代わるから自分のぶん食え」
 先に食べ終えた針葉が膳を入れ替えて睦月の世話にあたる。睦月があらかた食べ終えたところで、針葉は向かいの榎本に呼び掛けた。
「北の大通りってのは上松の邸のお膝元だな」
「ああ」
 暁は箸を止めた。四日後、あの場所を通る。怖いようで、懐かしいようで、心がざわついた。
 風呂から上がった榎本は隣の部屋へ去った。暁も閉まる襖に会釈を返す。振り向くと、針葉は睦月の寝顔を見ながら蒲団の上に横になっていた。暁の視線に気付いて身を起こす。
「火ぃ消すぞ。蒲団入れ」
「あ……、うん」
 針葉は夜が早くなった。榎本が去るとすぐに火を消し、蒲団に入ってしまう。暁自身、協定書の案が届いたら夜更かしは必至なので、今体調を整えておけるのは有難かったが。
「おやすみ」
 火が落ちて針葉が蒲団に戻る音、そして部屋は静まり返る。
 自分だけなのだろうか、暁は暗闇を見つめてぼんやり考える。なかなか寝付けず息をひそめているのは。彼が身動きする音に耳が反応してしまうのは。
 そしていつの間にか眠りに落ち、気付けば日が昇っているのだ。

 朝起きるたびに「きょうおまつり?」と聞いてくる睦月に首を振り続け、とうとう四日後の朝。「そうだよ」と暁が頷くと、睦月は両手を上げて大喜びだった。
「飯が終わったら早速出ましょうか。なんせ通りの端から端までずらっと見世が並ぶそうなんで、じっくり見てたら夜になっちゃいますよ」
 榎本に案内されて宿から北へと足を進める。通りはいつもより人出が多く、暁たちと同じほうへ流れていく。睦月がそわそわと落ち着かないので、途中からは針葉が肩に乗せて歩いた。しばらく行ったところで榎本が人だかりを指す。
「ほら、きっとあれが市の端っこですよ」
 暁は足を止めて小さく声を上げた。人が手を広げて十人並べそうな広い通りの中央付近に、見世が二列内向きにずらりと立ち並んでいる。見世目当ての客は挟まれた道を、ただの通行人は両端の道を行けば良いようだったが、明らかに混雑しているのは中央の道だった。
 笊に並べた物を売る者、買う者、交渉する者、口上を述べる者。坡城の西の大通りでもたまに市が出るが、比べ物にならない道の広さ、見世の多さ、そして人の数だ。
「そんじゃ入りましょ。止まって見たいもんがあれば声掛けてください。くれぐれも睦月さんから目を離さないでくださいね」
 暁はすっと深呼吸して人の群れの中に足を踏み入れた。
 わっと人の声に包まれる。
「安いよ、安いよ。寄ってらっしゃい見てらっしゃい」
「これかってー」
「あっちも見たい!」
「ここでしか手に入らぬニイの実、舌がとろけるよ。さあさ味わっておゆきなさい」
「そっちのと合わせて二枚にならんかねぇ」
「持ってみなさいこの重さ、これだけ入って小札一枚で結構。これ以上は負かりません」
 水菓子、青物、干物に木の実。着物に刃物、本、小間物、人形、鉢植えに草花。歩き疲れた者のために餅や菓子、茶に冷や水、天麩羅を売る店もある。
 睦月は針葉の肩の上で目を輝かせ、方々を指さした。
「凄いねえ」
「見ろよあれ、セノカだろ。化け物みたいにでかいぞ」
「あっちも。ミツベニだけであんなに種類があるの?」
 自然と交わす声が大きくなった。前を行く榎本が振り返る。
「これが年に四回あるらしいですよ。北方の特産品や珍しいもんを中心に、色々と集まるそうです」
「おとーさん、あれ!」
「こら、身ぃ乗り出すな」
 睦月が心惹かれたのはつやつやと深い茶色のコノリの実だった。生のものが笊や袋にぎっしりと詰まれ、奥では火鉢で実を焼いている。
「坊ちゃん、味見するかい」気のいい店主が焼いた実を睦月にくれた。もぐもぐと口を動かす睦月だが、その視線が熱烈に注がれているのは棘の付いた堅い殻のほうだ。
「あー、じゃあそっちの棘付きの実を一つと、焼いたのをあと三つ」
「はいよっ」
 睦月は実を手に入れてほくほく顔だ。じろじろと心ゆくまで眺めまわした後は、おもむろに父の頭に打ち付ける。
「こらお前、ふざけんな。やめろって」
「にてるねえ」
「似てるって何が……はあ!?」
 笑って見ていた暁はふと足を止めた。こちらへ戻る人波の向こうに見える店、そこに並べられているのは香ほづ木だ。針葉たちに取り残されそうになって足を速め、もう一度振り返った。遠く人の切れ間に覗く店、笊の向こうに座る店主が抱えている大きな葉。あれはカゾだろうか。
 人の波に押されてまた足を速めた。もう振り返っても何も見えない。
「暁さん、気になるもんでも?」
「あ……、いいえ。何も」
 かつて暁が香ほづ木を入手した境の地には、もう長らく足を踏み入れていない。人別改めであの地は一度壊されたと聞くが、香ほづ木売りたちは別の地で商売を続けていたのだ。あれほど金のかかる遊びを好むのは一体誰なのか、壬五家や旭家という大口の顧客を失っても、ああして香ほづ木は残っている。そして恐らく、カゾも。
 あれは今や係争の種だ。暁は談義の席で伊東と交わした言葉を思い出す。彼は暁の話の裏を取ると言っていたが、その後何か掴めただろうか。
 壬を解体した飛鳥と坡城は、次は自らが外つ国の脅威にさらされることになる。永世の天下など無い。
「暁」
 針葉の声にはっと我に返る。彼が差し出していたのは楊枝に刺さった大ぶりなコノリの実だった。「ありがとう」受け取って口に放り込むと、柔らかく崩れてふくよかな甘みが広がった。
「うまいだろ」
「おいしいね」
 店の切れ間で足を休めて、暁は市の賑わいを眺めた。今まで壬びとの立場で見た飛鳥は、いつも牙をむいた姿だった。だが飛鳥の宿の者たちは良くしてくれた。神楽で会った老人は睦月を可愛がってくれた。祭りを心待ちにして楽しむ姿は、どこの国の人でも同じだった。壬も坡城も東雲も飛鳥も、人がおり続いた風習があり、根付いたものや護りたいものがある。
 いずれ外つ国は陸を狙う、そのとき暁は何の力も持たない一人の坡城びとだ。
 どうかこの賑わいが絶えぬように。口に残った最後の欠片を呑み下して、かつて憎んだ国の平安を、暁は願った。

 ずらりと並ぶ見世にも所々に切れ間があり、それは南北の通りとの交差点だった。日は高く昇り、穏やかに晴れている。針葉はクマイモの天麩羅を頬張りながらふと通りの北を指差した。
「ナツ、あれが上松の邸か」
「ああ。ちょいと邸見物してくか」
 通りを北に進んでいくと、遠目に見えていた邸は徐々に塀に阻まれた。門越しに覗く広い敷地と三階建ての御殿。
「この辺りも結構火にやられて見えたけど、よく残ってるもんだな」
「漆喰を分厚く塗り籠めてあったってよ。だから表面がちょっと煤けて見えても、まだまだしっかりしてるってわけだ。飛鳥の何とかってお役人が使ってるらしいぜ」
 塀に沿って歩き、南東の角で北へ曲がる。榎本に手を引かれた睦月が、「おまつりどこいった?」と大人たちの顔を見た。
「あの辺りだったかな」
 針葉が指した通りに顔を向けて、暁は目を細めた。民家が立ち並ぶばかりで当時を偲ばせるものは何もない。だが、確かに暁はあの朝、邸を出て日の昇るほうへ足を向けた。ここで彼らは出会ったのだ。
 それ以上の言葉は交わさなかった。北東の角で西に曲がり、北門から木々の向こうに邸を臨む。
 兄の遺体は誰が見付けたのだろう、暁は邸の二階に目をやる。体をめった刺しにされ両目の潰れた若い男、分かるのはそのくらいだ。盗賊の仲間割れとでも思われただろうか。他の骸と一緒に棄てられたのだろうか。
 北西の角を南に曲がり、西門の手前で暁は立ち止まった。門の程近くに見える格子窓を指差す。
「あれ、今でも覚えている。兄から逃げるとき、縞の影が瞼の裏でずっとちかちかしてた」
「縞?」
「西日が差し込んでね、窓の影が天井に映って……何度瞬きをしても消えなくて気持ち悪くて。体もあちこち痛くて、怖くて、必死で、自分がばらばらになるみたいだった」
 前を行く榎本は睦月に付き合ってしゃがみ、虫の行列を見ているようだった。地面を指す人差し指がゆっくりと動いていく。針葉が一歩暁に近付いた。
「今は苦しくないか」
「うん、……全部きちんと思い出したのが良かったんじゃないかな。忘れていた頃は、それが何だか分からずに何度も悪夢を見たの。そっちのほうが余程怖かった」
 針葉は去年の正月、熱で倒れた暁がうなされていたことを思い出す。呻き声、脂汗、瞼の向こうで動く目。目が覚めてもしばらくは針葉のことが分からない様子だった。
「私はあの窓の傍にいてね、突き飛ばされて頭を打って……眩しくて目が開けられなくて……起き上がろうにも体を押さえ付けられて」
 それは去年にも彼女から聞かされた話だったように思う。だが実際にその場所を目の前にして思い描いたとき、針葉は奇妙な違和感に気付いた。
「それは夢の話、だよな」
「うん。あの日見たことを、夢の中で何度も思い出してた」
「見た? その目で、本当に?」
「本当、だけど」暁は怪訝そうに眉をひそめ、睦月に呼ばれて二人のしゃがむところへ行ってしまった。
 針葉は再び門の向こうの窓を見つめる。ぞわぞわと背を立ち上る不快感。
 暁は兄と口論になり、突き飛ばされて頭を打った。そのとき窓から覗く日が眩しくて目をつむり、起き上がろうとしたのを兄に押さえ付けられた。
 そして突然、兄の目に得体の知れぬ恐怖を感じて、護り刀で彼の目を突き逃げ出した。そのとき彼女の瞼に焼き付いていたのは天井に移った影だ。
 暁が突き飛ばされたときに見たのは、まだ空にある日。
 暁が逃げ出す前に見たのは、沈みゆく日。
 いつの間に時が経った?
 ぞわり、冷たい手が背すじを撫でる。
 睦月の傍にしゃがみ込んで笑う暁の背中、それを見ながら、針葉の喉には言葉が溜まっていく。
 暁、お前は本当に全てを思い出したのか? 突然兄の目に抱いた恐怖心、衝動的にその目を突き刺し、殺してしまえるほどの。それは、日が沈みゆく間に起きたことを、その時はまだ覚えていたからでは?
 ――兄は、分かったか、と言った。逃がすものか、家の途絶は許さない、自分の子を産むのはお前だと。
「分かったか」、それは、力の差を相手に思い知らせた後で吐き棄てる言葉だ。
 ――兄の目は、これから正に何かをしようとする目だった。
 これから? もしかするとそれは、既に何かを成し遂げた後の、
 針葉はぐっと喉を押さえた。吐き気がこみ上げるのを、どうにか堪える。
「暁、……」
 やっと出た声は蚊の鳴くように小さく、彼女には届かなかった。針葉は唇を堅く結んで自分の爪先を見下ろす。何を言おうとした、何を言うつもりだ、今更。
 ――その日は動かない兄の隣で眠った。頭も体も昂ぶっていたはずなのに眠気に負けたの。耐えられないくらい辛いことがあると眠くて仕方なくなって。
 その辛さの正体として暁が当てはめたのは兄殺しだった。しかしその奥にもう一つ、未だ眠っている闇がある。
 問いただせば彼女は記憶の欠落に気付くだろう、それが何故かを考えるだろう、そしてどうなる。全てを明らかにすることが必ずしも正しいのか? 彼女が自分を護るために閉じた目を、無理やりこじ開けることが?
 ――あと一日待ってくれりゃ、俺が片付けてやったんだがな。
 かつて暁から打ち明け話を聞かされたとき、針葉は冗談交じりにそう言った。今は胸の奥が引き攣れるように痛い。もう叶わぬ願いに締め付けられる。
 あと一日、たった一日だけ、早く着いていたら。
「針葉」暁が振り返って手招いた。「虫の行列。面白いよ、葉っぱとか実とか運んでる」
 のどかな光景を告げる、呑気な声だった。針葉の唇が緩んだ。もうそこから零れる言葉は無い。
 針葉は三人の元へ足を踏み出した。
「どこだよ、見せてみろ」
 胸の内を押し殺して、明るく楽しく安らかに、その場を装う。今は嘘でもいい。積み重ねて振り返ったとき、それが真になるのなら。
 やがて戻った市は相変わらずの盛況ぶりだった。針葉はちらと後ろを振り返る。邸をほんの一回りしただけなのに、何年も歩き続けたような疲れが心に染み付いていた。振り切るように前を向いて、三人の待つほうへ歩んだ。



 月が替わって暦の上でも冬となり、榎本が玉置屋から分厚い紙の束を持ち帰った。
 睦月を針葉に預けて、暁は榎本と膝を突き合わせた。榎本は暁にどさりと紙の束を渡して、自分は懐から書き付けを引っ張り出した。
「調印のときに読み上げる協定書は上の束で、最後のとこに日付と、豊川、坡城、立会人として飛鳥、この三者の名と花押を入れるそうです」
「あ、これですか」暁は幾分ほっとした表情で数枚の紙をぺらぺらとめくった。ではその他の束は。
「その次の分厚いのは付属文書で、実際の運用ではそっちのほうが参照されるらしいです。それから地図と河川図、調印式の流れと、牙の旦那からの連絡事項と」
 つまり全て読み込んだうえで臨まねばならないのだ。暁は表情を堅くしていくつかある束にぱらぱらと目を通した。
「十日後までに是か非かお返事を。是ならそのまま調印の準備にかかるそうです。調印式は一番早くて来月中頃になるでしょう。向こうからの報せを待って、こちらも菅谷領へ発ちましょう」
「分かりました」
 そして昼夜を問わない読み込みの日々が始まり、暁が睦月と顔を合わせるのは三食のときのみとなった。暁にとっての幸いは、至の字が整って読みやすかったことだ。
 調印書は、談義の日に暁が伊東と合意した内容を元に作成されており、これといった難は無かった。一方の付属文書では、豊川領に置かれる番処の位置や名称から、そこに登用される者について、税のありよう、豊川家が有していた土地財産について、坡城国内法令の豊川領民への適用とその例外など、微に入り細に入り定められていた。
 驚いたのは、豊川家に仕えていた者の一部が、監査役として坡城の務番処で登用されることだった。この協定が坡城による豊川領の吸収ではないと端的に示している。しかし、と暁は思う。これはつまり、津ヶ浜や外つ国の動きに備えて、黒烏を手元に置いておきたいのかもしれない。
 暁は地図を畳に広げ、今後番処が置かれる場所を確かめた。その次に広げるのは河川図だ。豊川領に広がっていた水の道は、大火以来使い物にならないものがいくつもある。今回の協定には含まれないが、牙からの文によると、伊東は防災及び防衛の観点からそれらをまとめようとしているようだった。今後は櫂持ちとの協議も必要になるだろう。付けられた印を一つ一つ確認していく。
 そんな暮らしを続けて五日が過ぎ、期限まで残り半分となった。腹の虫で日が落ちたことに気付き、隣の部屋で食事を取り、湯を浴びて綿入れを羽織ると、また文字の中へ戻る。
 睦月の寝かし付けは、不慣れながら針葉が代わってくれていた。蝋燭の頼りない火で紙を照らして、暁はひたすらに字を追う。
「踏ん張り時だと思うが、無理するなよ」
 はっと顔を上げる。声を掛けられるまで、針葉がすぐ後ろに立っていることも気付かなかった。奥では既に睦月が眠っているようだ。暁は大きく肩を回す。
「ありがとう。いい具合で進んでるから心配しないで。きりのいいところで休むよ」
「寒くないようにな」
 針葉の手が伸びて、肩から落ちそうになっていた綿入れをきちんと暁に羽織らせた。暁は微笑んで肩に置かれた手に頬を寄せる。
 するり、手がすり抜けた。振り向いた暁に見えたのは針葉の背だった。
「先に休ませてもらう。早く寝ろよ」
「うん、……」
 部屋が静まり返る。暁は数行を読み進めて火を消し、蒲団に入った。

 期限まで残り一日となった日、全ての書類にひととおり目を通して読み返しに入ったところだった。
 寝付けず不快そうだった睦月の身動きがようやく静まり、針葉が立ち上がる気配がした。暁は目を止めて振り返る。
「お疲れ様。いつもありがとう」
「いや。お前も大詰めだな」
「明日だからね。ひととおり読んだけど問題は無さそう」
 針葉は暁のすぐ後ろに膝を衝き、いつかのように綿入れをきちんと着せた。
「じゃあ今日くらい早く休め」
 そのまま彼の手は遠ざかる。暁はくるりと身を反転させてその手を取った。
「そうする」
 目が合った、それを逸らしたのは針葉だった。そしてまた遠ざかる背中。「そうか。火はちゃんと消しとけよ」
「針葉」
 彼は足を止め、わずかに首を後ろへ向けた。暁は淡々と言葉を繋ぐ。
「針葉は私に触れなくなったね」
 反応は無かった。しばらく沈黙が続き、針葉は振り向きかけた顔をまたあちらへ向けてしまう。
「何言ってんだ、こんなときに」
「こんなとき……すずの仲間から逃げているから? 私が協定書の読み込みで忙しそうだから? それとも調印式や、菅谷領への移動を控えているから?」
 淡々と、できるだけ淡々と。問い詰めて聞こえないように。次の言葉を吐き出す前に、浅く息を吸う。
「……流れてしまった後だから?」
 針葉は眉根を寄せて暁に向き直った。
「お前、牙って奴が来たときに自分で言ったこと覚えてるか。俺がこうして宿代も飯代もあいつら持ちで暮らしてられる理由は何だ。あいつの父親だからでも、お前の連れ合いだからでもない。赤烏として盾になって、お前ら二人を守るためだ。なのに、目の下に隈作ってるお前を夜更かしさせてどうする。吐き気でふらふらしながら調印式に臨むか。お前らを無事に菅谷領まで送り届けて調印式が終わるまで、俺は手ぇ出したくても出せないんだ」
「それだけ?」
「他に何かあるとでも?」
 暁は物言いたげな目でじっと針葉を見つめていたが、小さく頷いて立ち上がった。
「分かりました。私も調印式が終わるまでは、豊川の名に生まれた責任を全うします」
 すたすたと蒲団へ向かい、おやすみ、と振り返った顔は穏やかだった。彼女が蒲団にもぐり込むのを見届けて、針葉は蝋燭の火の揺れる文机の前に腰を下ろした。
 暁が言ったことは皆そのとおりだし、針葉が言ったことも嘘ではない。そしてその他にも、理由ならいくらでもあった。
 牙から知らされた事実。暁の母は十五人の子を産み、きちんと育ったのは暁ただ一人だという。では睦月は、その十五分の一の当たりくじを奇跡的に引いただけなのか? この先に横たわるのは暁の母が陥った底知れぬ絶望なのか。
 上松の邸で気付いた記憶の欠落。国を焼かれ家を失い兄に裏切られ、彼女の心は既に、自分自身を騙してしまうほどの絶望を味わったというのに。
 そして彼自身の出自も、まだ明かせずにいた。
 ふ、と火を吹き消す。しんと冷たい夜の満ちる中を、針葉は静かに歩いた。



 そして訪れた期日、是の返事を抱えて榎本は玉置屋へ走っていった。その数日後には玉置屋を通じて調印式の日取りが伝えられ、新たな手形も届いて、暁たちは旅支度を始めた。
「見てくださいよこの早売り。もう調印式のことが書かれてる。どこから仕入れてくるんだか」
 いち早く荷をまとめた榎本が、仕入れてきた早売りを見て溜息を吐く。受け取った暁は、その部分を針葉の隣で音読して唇を尖らせた。
「今回は小さな記事ですけど、調印式の後にはまた大きな記事になるんでしょうね。割譲談義のときのように」
「そりゃそうですよ」
「今度は年相応に描いてほしいものです」
 針葉が噴き出し、同時に榎本も口を押さえた。
 夏の割譲談義についてはどの国の早売りでも大きく扱われたが、それまで隠れていた豊川家領主がとうとう表舞台に姿を現し、しかもそれが女ということで、書き手によっては、談義の内容そっちのけで謎の女領主に紙面を割く始末だった。そのうえ、まともに暁の姿を見た書き手などいないため、妙な尾ひれが付け足されたり、皺くちゃ強面の似絵が付いていたり、暁は大いに肩を落としたものだ。
「ま、まあ、あれはあれで隠れ住むのに一役買ったかもしれませんよ」
 そう言う榎本の方は未だに細かく震えている。何がそんなに面白いのかと、睦月は母から奪い取った早売りを広げて首を傾げた。
 ようやく笑いの収まった榎本はその隣に地図を広げ、辿るべき道を指し示した。
「出立は明後日の朝です。菅谷領は以前より落ち着いてるらしいですが、念のため関を抜けた先に、角野屋から迎えを寄越してもらいます。合流予定は五日後ですから無理なく進みましょう」
 そして迎えた二日後の朝は雲一つない快晴だった。四人は白い息を吐きながら道を辿り、途中で宿を取って、朝が来ればまた歩いた。睦月はいつの間にか、ぐずらず長い距離を歩けるようになっていた。
 出立して三日目には山道に入った。関が近くなった証だ。辺り一面の木々は燃えるように赤く、空に近い方からはらはらと散って地面を染め上げていた。ふかふかの足元に睦月ははしゃいで走り回り、疲れて負んぶをねだった。
「もう少しで関です。合流は明日ですし、今日はこの辺で泊まりましょうか」
 関の周辺にはいくつか宿が点在していた。一部屋を借りて夜を明かした翌日、四月半ぶりの菅谷領入りとなる朝は小雨がぱらついていた。小さくまとめた荷の中から合羽を取り出して羽織り、宿を出て関へ向かう。道には関へ向かう者と関を通って来る者が入り混じっていた。
 関での調べは、飛鳥から旧上松領へ渡ったとき同様に形式的なものだった。四人は菅谷領側の門で合流した。雨は朝よりも強くなり、土はぬかるみ始めていた。関へ駆け込んでくる者たちの足も泥で汚れている。榎本は睦月を抱き上げて背中に結わえ付け、その上から合羽を被せた。暁は溜息を吐いて灰色の空を見上げる。
「早く合流できるといいですね」
「もうすぐだと思いますよ」
 雨脚が強まったためか、すれ違う人影は少なくなった。水と泥の跳ね返った足元が冷たい。雨音に閉じ込められて話し声も絶え、ただ足を前に出す。
 やがて行く手に橋が現れた。ごうごうと増水した川の渦巻く音が聞こえる。榎本が睦月をぐいと負ぶいなおす。
「ナツ」
 そのとき、一番後ろを歩いていた針葉が足取りを緩めて呟いた。
「暁を連れて走れ。立ち止まるな」
 暁が目を見開いた。榎本の苦笑。「あーあ、やっぱりか。あとちょっとってとこなのによ」
 それはどういう――、問うより早く榎本が暁の腕を引っ掴んだ。
「行け!」
 何を考える間も無かった。転びそうになりながら駆ける、泥の跳ね上がる地面を、揺れて滑る橋の上を、そしてまた地面に至る。落ちて踏まれて潰れた赤い葉の筵、ふわふわと沈む道。
 ちらと振り返る、揺れる視界、木々の向こう、橋の向こうに、針葉の背、そのまた向こうに影が二つ――三つ。
「暁さん走って!」
 足がもつれる、何も見えない、考えられない、手を引かれるままに、ただ無我夢中で走り続ける。そしてどれほど経ったか。
「おい榎本!」
 聞き覚えのある声に呼び止められて、二人は足を止めた。暁は屈み込み、肩で激しく息をする。体が燃えるように熱かった。濡れた頬や髪から鼻頭へと伝い、落ちる滴。ばしゃばしゃと泥水を蹴って近付いてくる音に、どうにか顔を上げた。炎と真、そして最初に菅谷入りしたときも迎えに来ていた背の高い青年だ。榎本が一歩前に出た。
「待ち伏せされてました。敵は三人。関を出て一つ目の橋の向こう、赤烏のハルが一人で」
「分かった」
 炎と真が駆けていく。暁は、未だ整わない息であの夜の声を思い出していた。
 ――赤烏として盾になって、お前ら二人を守るためだ。
 どうか、どうか。
 着物に染み込んだ雨の冷たさが、じわりじわりと体の熱を奪っていった。