小間物屋の客足が鈍ってきた。そろそろ昼だ。静は棚の陰でぐぐっと伸びをして奥の戸を開けた。
「花ちゃん、あたし休憩に……」
 戸の向こう、畳の上では、紅花がこれ以上ないほど膨らんだ腹を押さえて顔をしかめていた。書き物の仕事をしていた浬も、席を立って彼女の背をさすっている。静は思わず畳に膝を衝いた。
「産まれそうなの!?」
「いえ、いつものやつみたいです」浬が首を振って立ち上がった。「じゃあ代わりますね。ご飯、朝のが残ってるんで良かったらどうぞ」
「ん、花ちゃんの傍にいとくわね」
 少しすると紅花の具合も落ち着き、静は厨から二人分の膳を運んだ。
「そろそろよね。楽しみね」
「うー……、でもあれよりずっと痛いんでしょ。もう怖くて」
「ここまで来たら逃げらんないんだから腹くくって。大丈夫よ、花ちゃんお尻大きいし」
「うるさいな」
 話しながらも静はささっと食事を終えて膳を下げ、自分の仕事を持つ浬と店番を交代した。夕方になり、店を閉める用意をして戸を開けると、紅花はやはり腹を抱えていた。
「また痛むの? 今日は結構多いのね」
「うん、本当にもうそろそろなのかも、……つっ、……」
 話している途中にも痛みの波が来たらしく、紅花は声を止めて目をぐっとつむる。浬がゆっくりとその背をさすった。「息止めないで。ゆっくり吐いて」
 その様子を見ていた静は、黙って下駄を脱ぎ畳に上がった。
「あたし、もう少しついててあげようか」
「え?」
「あたし五人兄弟の一番上で、四番目と五番目の産は覚えてるんだけどさ。まだだまだだって言ってるうちに進んじゃったみたいで、産婆さんが間に合わなかったのよね。父さんが手で受け止めて、へその緒も切って」
 紅花はそっと浬を振り返った。
「……できる?」
「えっ……うん、え、手で?」
「まあまあ」一気に緊迫感の増した二人を和ませようと、静が明るく笑い飛ばす。「深く考えないでよ。夕飯どきになっても大丈夫そうなら帰るしさ」
 紅花もつられて笑い、「ありがと。でも痛いのもさ、すぐ来たかと思えば間が空いたりして、なんかまだ大丈夫そうかもって、……っ」
「息吐いて。ゆっくり」
 紅花は聞こえているのかいないのか、瞼に力を入れながら息を震わせていた。明らかに昼よりも痛みが増しているようだ。「大丈夫?」静が一歩寄った、そのとき。
 紅花がはっと目を見開いて自分の腹を見下ろした。
「花ちゃん?」
 紅花は手を恐る恐る裾に差し入れる。
「静さん、手拭い……」
 引き出したその指は濡れていた。静の顔色が変わる。
「手拭い! 手拭いね! 浬さん、どこにある!?」
「取ってきます」
「ありったけね!」
 紅花がまた腹を抱えてうずくまる。落ち着かせているうちに浬が手拭いを抱えて現れた。静は奪い取るようにして紅花の周りに敷き詰める。
「どうも。それから浬さん、いよいよ近いみたいだから産婆さんを呼んできて」
「分かりました」
 浬が足を縺れさせながら走っていく。静は紅花の腰をさすりながら、自分も息を落ち着けていた。母の産は覚えている、とは言え自分が産んだわけではない。今はただどっしり構えて、紅花の不安を取り除くだけだ。
 紅花がまた歯を食いしばった。
 それからどれぐらい時が経ったのか。浬が出て行ったのは随分前のことのようだが、まだ彼は戻って来なかった。
 静はうろうろと部屋を見回し、浬の文机から物を退けて紅花の前に運んだ。
「これにもたれて。辛くても、寝るより起きてたほうが進むみたいよ」
「ほんと……?」
「本当本当。ややだってひゅーって下りてくるのよ」
「静さんが言うと冗談に聞こえる……」
 弱々しく笑う紅花は、いつもの元気はどこへやら、汗にまみれて疲れて見えた。だが、と静は思う。まだ夜には早い。辛いのはまだこれからのはずだ。
「それからね、あんまり歯を食いしばると砕けるかもよ。これ噛んどきなさい。何か握りしめたいときは、ほら、手拭い団子」
 紅花に手拭いを渡して火の様子を見る。厨へ走って茶を湧かす。脛の内側を押してやる。
 休みなく動き回りながら静は時の鐘を遠く聞く。浬はまだ戻らない。何をやっているのだろう。
 裏戸の開く音がした。
「花ちゃん、浬さんよ!」
 足音は悠長にも歩いて進み、ひょいと顔を出したのは煮売りの椀を両手に持った紅砂だった。「花、夕飯まだなら――
 苦しそうな妹と真顔の静に見つめられ、紅砂はぎくりと足を止めた。今になって張り詰めた空気に気付く。どうやら自分は招かれざる客だったらしい。静が眉を八の字に寄せた。
「せんりさん……」
「静さん、これは……。もう産まれそうなんですか」
 手拭いを噛んでいた紅花が、長く息を吐いて頷いた。「浬が里さん呼びん行ったがやけど……まだ帰らぁで」
「それがもう随分前なんです」
 紅砂が逡巡したのは一瞬だった。大きく頷いて妹を、そして静を見る。
「俺も行ってきます。必ずすぐに帰ってくるんで、後を任せます」
 駆けていく足音。紅花はまた痛みに襲われ叫んだ。静はその腰を強くさする。
「ゆっくり息して。大丈夫、大丈夫よ」
 紅花の痛がり方はどんどん激しくなっていた。浬でも紅砂でもいいから早く、とじりじりしながら待っていると、しばらくしてようやく足音が聞こえ、みるみるうちに近付いて裏戸が開いた。
「花!」言うなり激しく息を切らす。紅砂だ。
「里さんの家は誰もおらぁで……黄月に聞いてきた。一昨日、境のほうの家から産で呼び出しがあって、それから戻らぁて……」
「一昨日? それならさすがに産まれてるんじゃ」
 静の言葉に、紅砂は肩を上下させながら頷いた。
「黄月も、難産でそのまま休ませてもらってるんじゃないかって。ちょっと遠い家らしいんで……それで浬が呼び戻しに行ったって」
「もう、それどころじゃないのに! ねえ、他に産婆さんっていないの。せんりさん、誰か知らない?」
「え、……っと、あっ、近くの家に聞いてきていいですか」
「お願い!」
 紅花の叫び。夕方に比べると随分と間が縮まってきたようだ。わずかな合間にぐたりと身を休ませ、また痛みに耐える。
「静さ……、足りない、全然、もっと強く」
「これでも力一杯押してるってば。これ以上やったら痣んなるわよ」
「痣、くらい、何よ……早く!」
「知らないから、ね!」
 痛みをやり過ごしても、波は次々やって来る。気付けば静も叫んで押してで汗だくだった。ぐいと拭って声を掛け続ける。大丈夫、大丈夫。
 前に鐘を聞いてからどのくらい経っただろう。さっき聞いたのはどの刻だったか。紅花は波と波の合間に目を閉じる。ほんの一瞬、気を失うように眠っているのだ。
 しばらくして帰ってきたのも紅砂だった。息を切らしながら首を振る。
「駄目です。この辺は里さんに取り上げてもらった人が多くて、一軒はもう廃業してて、他には郷で産んだって人も。それで」彼の後ろがざわざわと騒がしい。「産婆じゃないけど手を貸すって人は何人もいたんですけど……」
「花ちゃん! 産気づいたんだって?」
「安産守りやろうか? うちの娘のお下がりだけど」
「ちょっと、あんたんとこの娘っこはえらい難産だったろ。縁起でもないよ」
「それより体力だって。握り飯作ってやろうか」
「ふん、普段から動いてりゃすぽーんと産まれるさ。ここら一周走ってきな」
「産気づいてるってのにそりゃないだろ。意地の悪い婆ぁは家に帰んなよ」
 収拾のつかない野次馬に、紅花が無言で首を振った。痛みが切れたところでどすの利いた声を吐き出す。
「賑やかしなんぞ要らぁわ……帰ってもろうて」
「そ……そうか」
 紅砂がこくこくと頷く、紅花はまた振り絞るように叫ぶ。
「ねえ、どうにかして他のとこ探せません?」
「……、分かりました、もう一度回ってきます」
「静さん……っ」
 駆け出そうとした紅砂が止まる。
「どうしたの」
「何か……あるっ、……挟まって」
 さっと静の顔から血の気が引いた。ぐっと呑み込んで息を吸う。
「せんりさん、あっち向いてて」
「すっ、すみません」
 紅花は膝を立てて文机にもたれている。静はその足首のほうからそっと手を差し入れた。
「ごめんね花ちゃん、ちょっと触らせてね」
 また強い痛みの波が来て、紅花は叫ぶ、細く息を吸う、手拭いを握りしめる。静は目を見開いて手を裾から出した。今、確かに髪の毛に触れた。
 どくどくと鳴る胸を押さえる。もうすぐだ。
「せんりさん。さっきの人たち、今すぐ呼び戻してきてください」
「え、いいんですか」
「……もう頭に触れるんです」
 紅砂が息を呑んだ。静は息を長く吐ききって無理やり笑顔を作った。
「花ちゃん、鋏と盥使うわね」
 落ち着いているのは表面だけだ。きっと自分の顔は蒼白だろう。胸を突き破りそうな早鐘、ぐるぐる回る視界、それでも立たねば。
 裏戸が強く閉まる音、足音が遠ざかっていく。次は、次は何をすれば。紅花に声を掛けながら静は回らない頭で考える。そうだ、湯を沸かして、鋏を熱して。
 ばたばたと足音が近付いてきた。紅砂にしてはやけに早い。ばたんと裏戸が開く。
「紅花ちゃん!」
 細く短く息を吐きながら、紅花はわずかに顔を上げた。それは浬の声だった。下駄も脱がずに膝で上がり、紅花の顔に流れた汗を拭う。彼自身もまた汗だくだ。
「待たせてごめん。里さんもすぐ来る」
 すぐに足音が近付き、姿を見せたのは紅砂と里だった。張り詰めていた糸が一気に切れ、静はへなへなと座り込んだ。
「花ちゃん、もう産まれそうなんだって? 頑張ってるわね」
 里の声は落ち着いていた。彼女にとっては日常茶飯事なのだろう。里は男二人を下がらせ、静に代わって紅花の様子を確かめた。
「順調じゃない、もう頭が出てるわよ。次に痛いのが来たら力入れてみようか。ねえあなた、お湯沸かしてくれる」
「は、はい」
 畳の部屋を出た途端に、静の目からぽろりと涙がこぼれた。
「良かった……」
 自分がどれだけ張り詰めていたか、そして今どれだけ安堵しているか、深く思い知らされていた。静はぐいと頬を拭って前を向いた。
 それからは里の指示するとおりに動き、三度目のいきみで最初の子が産まれた。里が小さな鼻と口を拭う。猫のような産声が上がった。
「おめでとう、女の子よ」
 それから少しの間を置いて、また次の波が来る。次の子は二度のいきみで産まれ、すぐに大きな産声を上げた。
「男の子。二人とも元気よ、頑張ったわね」
 涙を浮かべてぐたりと双子に目を向けていた紅花は、突然顔をしかめた。
「里さん、また痛い……っ、三つ子!?」
 戸の向こうからも浬の動揺した声が上がる。しかし程なくして産まれたのは胞衣えなだった。里はへその緒が白くなるまで待って糸でぐっと縛り、煮た鋏でそれを切った。続いて静の手を借りながら双子を盥の湯で洗い、きっちりと包む。
「もう入っていいわよ」
 がらりと戸が開いて浬と紅砂が入ってきた。浬は静から渡された小さな命を、一人ずつ恐る恐る抱いて、ようやく安堵の溜息を漏らした。
「紅花ちゃん、……ありがとう。本当によく頑張ったね」
 紅花の処置をしていた里が笑って振り返った。
「頑張るのはこれからよ、お父さん。それにしても、滅多にない双子だから私も冷や冷やしてたけど、びっくりするくらい安産だったわね。良かったじゃない」
「安産……これで?」
「安産でしょ。一昨日の人なんか丸二日かかったのよ」
 賑やかに沸く声を聞きながら、静は土間に下りて外を見た。外は暗闇の中にも青みが混じり、朝が近いことを教えていた。いつの間にか夜を明かしてしまったようだ。ぐぐっと伸びをする。
「静さん」
 紅砂の声がして、静は慌てて欠伸の口を閉じた。彼は静の前に立つと腰を折って礼をした。
「本当に、本当にありがとうございました」
「やだ、あたし馬鹿みたいにおろおろしてただけですって」
 頭を上げた紅砂は困ったように笑った。
「静さんは俺にはぐらかすなと言うけど、静さんだってそうやってはぐらかすじゃないですか」
「だってあたし、本当に何も……」
「里さんからも言われました。静さんがうまく声を掛けてくれたから、無理にいきまず耐えられたんだろうって。俺自身、静さんが花に付き添ってくれて心強かったです。とても、頼もしかった」
 静は唇が震えそうになり、慌てて目を逸らした。無理に笑ってみせ、「頼もしいなんて、こんな細腕の女にかける言葉じゃ……」言い終える前に、堪えきれず涙が溢れた。
「……っ、本当に良かった、花ちゃんも……ややも無事で」
 紅砂が一歩近付き、頬を伝う涙を拭った。
「静さんも、お疲れ様でした。店もさすがに今日は閉めるでしょう。家まで送りますよ」
 静は涙を拭って頷いた。二人は荷を取りに明け方の街から店の中へ戻った。



 そして、それから何があったのだったか。
 はっと静が目を覚ましたとき、彼女は見知らぬ場所にいた。畳敷きの部屋だ。あちらには襖、こちらには障子、そして傍らには寝息を立てている紅砂。障子の向こうは明るい。二人は行き倒れさながらの状態で眠っていたようだった。
 ぼうっと考える。汗だくの体は今はさっぱりとし、腹も適度に膨れている。そしてここは……どこだ。
 静はふっと思い出す。そうだ、確か自分は店を出てすぐに足を止めたのだ。
「あたし、やっぱり湯屋に寄ってから帰ります。元々そのつもりだったし、あたしの家って湯屋からはちょっと遠くて」
 紅砂は困惑した様子で振り返った。当然だ、まだ空には月が浮かび星が瞬いている。
「まだ当分開きませんよ」
「でも、こんな汗だくで眠るのも嫌でしょ。平気ですよ、目も妙に冴えちゃってるし」
 目が冴えているのは紅砂も同じだった。紅花の一大事に立ち会ったばかりで気が昂ぶっているのかもしれない。そして体中が汗まみれなのも同じだった。
「じゃあうちの湯を使いますか。俺も汗流したいと思ってたんで」
「えっ」静は耳を疑って目の前の男を見る、これはなんとまあ大胆な、しかし彼のことだから何も考えずに、いやいやまさか、……いや、そのまさかが有り得るのが彼だ。
「一緒に入ります?」
「な……っ」
 紅砂は明らかに狼狽していた。かすかな下心すら無かったのだろう、どうせ自分はその程度だ。静はそっぽを向いて舌を出す。
「冗談ですってば。家にお風呂なんかあるんですね、贅沢。行っていいなら、是非お邪魔させてください」
「でも、くれぐれも湯屋を期待しないでくださいね。人ひとり入るのが精一杯ですから」
「じゃあどっちにしろ襲えませんね」
 紅砂は咎める視線で静を見た。静は視線を逸らしてその横をすり抜ける。仕返しのつもりだった。こちらに気など無いくせに、こちらが誘うと身を躱して窘める、真面目一辺倒な彼への。
 彼が家と呼ぶ場所は、前に道を教えてもらっていた。静は角を右手に折れ、木々が迫る丁字路まですたすたと足を進める、その背中を紅砂の声が追ってくる。
「静さん。……静さん! これまでのことは俺が悪かったです」
 さすがに何を言われているのか分からず、静は足を止めて振り返った。紅砂はずんずんと近付いて静の前に立つ。
「俺はあなたの好意を知りながら、自分には応えられないとはぐらかしてばかりいました。でももう終わりにします。自分勝手ですが、今はあなたとの関係を深めたいと思っていて……だからこそ、あなたの口からそんな安っぽい言葉を聞くのは辛いんです」
 次々と畳み掛けられる言葉に頭が回らないのは、徹夜した後だからだろうか。静が目を白黒させているうちに、紅砂は「口うるさくてすみません」と一人で完結し、静を追い越して足を進めてしまう。
「とにかく行きましょう。さっと汗を流して、何か腹に入れて、休まないと」
「あ……っ、じゃああたし何か作ります。ヤソと青物くらいあれば」
 静はたっと彼の背中を追い掛けて後ろを歩き、今聞いたばかりの言葉を頭の中で繰り返す。あなたとの関係を。それは何ともお堅い言い方なのに、今まで仲良くなったどの男の囁きよりも胸をざわめかせた。
 地蔵の傍を通り過ぎると、道は木々に囲まれた坂となる。静は前を行く紅砂の左袖にそろりと触れた。紅砂はぴくりと動きを止めて掌を差し出し、静が指を乗せるとぎゅっと握ってまた歩き出した。
 聞き間違いではなかった。徹夜明けの妄想でもなかった。
 静は叫び出しそうになる口を自由な左手でしっかり覆った。手を繋いだだけでこんなに浮き立つのは、まだ頭が昂奮しているのだろうか。程なくして木々は途切れ、その先に年季の入った建物が見えてくるところだった。
 そして家に着いた紅砂は湯を沸かし、静は紅花の使い癖を窺える厨に立ち、日が昇る頃には体はさっぱりと、腹も満たされ――
「随分ゆっくりしちゃいましたね。すみません、お送りします」
 紅砂は言ったそばから大欠伸だった。箱膳を部屋の隅に積み上げた静は笑って首を振る。
「今帰っても昼過ぎに帰っても同じですって。お互い一眠りしましょ」
 腹が満たされた今、眠気に襲われているのは静も同じだった。紅砂はほっとした表情で頷いた。
「じゃあ蒲団の用意を……あ、大丈夫ですよ! 部屋はきちんと分けますんで!」
 そんなの一緒でいいのに、危うく喉元まで出かかって静は口を押さえた。
 しかし出て行った紅砂がなかなか戻って来ない。焦れて席を立った静は、廊下へ出て両向かいの襖を一つずつ細く開けていき、右手の奥から二つ目で足を止めた。
「あら、……」
 蒲団を敷き終えたところで力尽きたらしい。掻巻も無いままで紅砂が寝息を立てていた。
 いつもきちんとしている彼の珍しい姿に、思わず笑みが零れた。静は上から掻巻を掛けてやり、ふっと考えて自分も隣にもぐり込んだ。彼はまた怒るだろうか、安っぽい行動を取るなと叱るだろうか。でも仕方ない、ここにしか蒲団は無いのだから。
 障子の向こうが明るくなる。動き始める街をよそに、静も深い眠りへ落ちていった。

 そして今に至るわけだ。
 静は乱れた髪を解き、手櫛で結い直す。最後に挿すのは紅砂から貰った簪だ。
 紅砂はまだ眠っている。その隣に再び戻ると、寝ぼけているのか、彼はううんと呻いて静の背に腕を回した。
 これは、いいのかしら。彼の胸にぴたりとくっつけた顔を、静はわずかに上げた。無精髭。共に街を歩くときはいつも綺麗に剃っていたはずだ。そんな気の緩みさえもが愛しくて、そっと顎に触れた。
 紅砂が目を開けた。「……ん」と部屋を見回し、「ん」と肩の掻巻を退け、「……ん?」そこにいる静に気付く。
「ぅわっ」
 大声を上げて紅砂が飛び退いた。状況が掴めていないらしく、目線だけ部屋をひと巡りさせ、改めて静に視線を戻す。「……静さん?」
 静も身を起こして弁解する。「違いますよ、あたしが襲ったんじゃないですから」
「じゃあ俺が!?」
 彼の顔は赤くなったり青くなったり、今にも土下座せんばかりの慌てように、静は肩を揺らした。抑えきれず、声を上げて笑い出す。
「静さん、笑いごとじゃないんです」
「あーあ」静は涙を拭い、「心配しないでください、なーんにも無いですよ。いつもどおりの堅物なせんりさんでしたとも」
 紅砂は深く息を吐き出して胸を撫で下ろした。
「良かった……」
「良かったぁ?」静はむくれて紅砂に詰め寄る。「それあたしに対して失礼ですよ。いい歳した男女が一つの蒲団に入ってね、何も無かった、あー良かった、だなんて」
「いや、でも……っ。その場の勢いで襲うほうが失礼でしょう! それではあまりにも静さんを馬鹿にしている」
 煽ったつもりが真っ直ぐ返されて、静は口籠った。頭の中に浮かんだ言葉を取捨選択しようとして、絡まる。もういい、どうにでもなれ。
「あたし今、ずーっと好いてきた人と心が通って、家にも招いてもらって、ほんっとに嬉しいんです。だからちょっと先走ったことも言いました。ごめんなさい。……でもね、あたし、適当なことばっかり言ってるように見えるかもしれないけど、……まぁ実際そうなんですけど、でも。家に上がるのに、少しの覚悟もしてないわけないでしょう。肌を合わせるのも嫌な人に好きだなんて言いませんからねっ」
 紅砂は面食らって目を丸くし、ゆっくりと額に手を当ててうつむいた。
 それを見つめながら静は、頭に上っていた血が徐々に冷めていくのを感じていた。自分の心に正直になった結果とはいえ、彼のこの反応は……まずいかもしれない。
 しかし叱る声は無かった。やっと彼が上げた顔は真っ赤に染まり、静のほうがうろたえる始末だった。
「せんりさん……?」
「あの」それだけ吐き出して紅砂はまたうつむいた。「そういうことについては……また改めて、時期を相談させてください」
 小さくなっていく声。唖然と見つめていた静の顔に笑みが戻っていく。彼女は紅砂の前まで膝を進めて顔を覗き込んだ。
「男女の話に、そんな堅苦しいのやめましょ。触れたいと思ったときに触れればいいの。あたしの涙を拭ってくれたみたいに」
 障子から差し込んだ光で彼の目は碧く透き通っていた。彼は逡巡の末、手を伸ばして静の頬にそっと触れた。
 静は目を閉じた。



 秋も終わりに近付き、つい先日まで暑かったのが一転、急に朝晩冷え込むようになった。今日は風が強いらしく、長屋の戸も始終かたかたと音を立てていた。
 黄月はふと書物から顔を上げた。人の叩く音が混じっている。土間へ下りて開けると、そこに立っていたのはふて腐れた顔の織楽だった。
「慰めて」
「……どうした」
 ふと視線を落とすと、彼の草鞋はくたびれ、脚も砂と埃で汚れていた。長い距離を歩いてきたらしい。
「どこまで行ってきた」
「果枝の郷。果枝と梨枝送ってきた」
「郷って……ついこの間帰ってきたばかりだろ。まだ半年も経ってないのに、もう里心がついたのか」
 織楽はむすっと不満げな顔を更にしかめ、しかめ、がくりとうつむいて自分の腹に手を当てた。
「次の子ぉが入った」
「は」
「せやし! ……身籠ってんて」
 織楽に合わせて身を屈めていた黄月は、それを聞いて顎を上げ、腕を組んだ。
「愚痴かと思ったらのろけか」
「のろけちゃうわ」
「めでたいことだらけじゃないか。夫婦仲も宜しく、何の悩みも無く子を授かって、おまけにこれから大変になる二人の世話は郷に任せられる」
 織楽はきっと顔を上げて黄月を睨んだ。
「俺は三人で暮らすために家用意してんで。必要や言うもん全部揃えて、遠いとこまで何日もかけて迎えに行って、付きっきりで梨枝の世話覚えて。それがたった半年。たった半年てあるか!?」
「お前の嫁は間男でもいるのか」
「おるわけないやろ」
「じゃあ仕方ない、お前の招いた結果だ」
 これ以上ない正論だった。ぐっと詰まった織楽に、黄月は淡々と畳み掛ける。
「お前は前に何て言った。梨枝は宝だ、可愛くて仕方ない、目に入れても痛くない。その宝が増えるんだ、喜ばなくてどうする。それにお前はもうすぐ顔見世の稽古が始まるんだろ。今で良かったじゃないか。これを逃したら次に体が空くのは初夏になって、また産み月、いやもう産まれてるかもな。今度こそ恨まれるじゃ済まないぞ」
 口を挟む隙もなく滅多打ちにされて、織楽は耳を塞ぎ、情けない声を上げながらしゃがみ込んだ。風が彼の髪を揺らす。しばらくして織楽は手を外し、ぽつりと呟いた。
「……こんなに早よできる思わんかってもん」
「おめでとう。どうせ公演が始まったら泊まり込みになるんだから、そう落ち込むことも無いだろう」
「距離がまるでちゃうわ。……あーあ、慰めてもらお思った俺が阿呆やった。ほなな」
 身を翻して手を振った織楽の腕を、黄月ははっと思い出して掴んだ。織楽が拗ねた目で振り返る。
「何」
「ま、まあ、折角寄ったんだから先生にも顔くらい見せてやってくれ」
「は? お前もほんっま人の傷に塩塗り込むなぁ」織楽は腕を振り払い、「妻子と離れ離れになった俺が、何が悲しぃて変態爺の顔拝まなあかんねん」
「そう言うなって。今年に入ってから具合が悪くて、ずっとお前が見舞いに来るの待ってたんだよ。最近じゃ身も起こせないし、うわ言も多い。もう長くないんだ。頼む」
 黄月は両の手を合わせて目をぐっと閉じる。織楽はそれをじっと見つめて肩を落とした。いつも頼りにしている彼から頼み込まれると弱い。
「勝手に冥土の土産にせんとってぇや」
 織楽は戸を開けて黄月の横をすり抜け、汚れた足をさっと払って畳に上がった。万年床のせいか老人特有の匂いが籠っている。無造作に置かれた座蒲団、書物、そして奥には蒲団。その中の膨らみがもぞっと動いた。
「隼坊よ……、お客かい」
 弱々しい声だった。もう長くないというのは本当らしい。織楽はそろりと足を進める。表に出ているのは首から上だけだが、披露目以来の再会となる斎木は、水気を失い縮んで別の生き物のようだった。
 斎木の目がうっすらと開いて織楽を捉えた。織楽はぎくりと足を止める。
「お前は……」
「……見舞いに来たったで、黄月がどうしてもて言うから」
 今までの生気ない姿が嘘のように、斎木は目をかっと見開いた。次の瞬間、織楽の顔面に斎木の匂いの染み付いた枕が飛んできた。思いがけぬ一撃をまともに食らい、織楽は鼻を押さえる。そこに斎木が人差し指を突き付けた。
「とうとう迎えに来おったな、前羽……。死に損ないは死んでも死に損ないと見える。お前なんぞ大人しく成仏しとれ!」
「下がれ織楽、錯乱してる」
 ぽかんとしていた織楽は、黄月に引きずられて土間まで戻った。身を起こせない斎木からこちらは見えないらしく、彼は骨と皮ばかりの腕を振り上げて誰もいない場所へ喚き続けている。
「すまない、今日はいつもより状態が悪いみたいだ」
「せやなぁ、思った以上やったわ」
 力無い腕で投げられた枕は痛くも何ともなかった。織楽は鼻を覆った手を外す。
「幻でも見てるんかな。さきう、て言うてたけど死に別れたお稚児さんやろか」
「気持ち悪いこと言うなよ。針葉の前の長だ。お前は会ったこと無かったな」
「ああ、お前を拾てくれはった人な」
 その老人は織楽が家へ連れられる少し前に亡くなったと聞いていた。間違えられた相手が顔も知らない仏では感慨も湧かない。そして、あんなに忌み嫌っていた斎木でさえも、あの哀れな姿を見せられては居心地が悪かった。
 織楽はがりがりと頭を掻く。
「とにかく、混乱してはるしそろそろ退散するわ」
「行かん、儂はまだ行かんぞ! 愛しの織楽をもう一度抱くまではな!」
 喚き声が追ってくる。織楽は草鞋に下ろそうとした足を引き上げ、据わった目で立ち上がった。
「殴ってくるわ。目ぇ覚めるやろ」
「おいおい」
 今度は止めにかかった黄月が引きずられる番だった。