葉擦れの音。どこにもナツの姿は無い。
 針葉はゆっくりと息を吐いて待つ。目を閉じて耳に全ての感覚を預ける。
 ――さ、
 針葉はばっと頭上を見た。木刀を振り上げたナツが音もなく降ってくるところだった。針葉も木刀を構える、二つの刃が十字を描く、針葉の腕にびりびりと重みが加わる。ナツが針葉の体を蹴って後ろに飛び退く、すぐさま地面を蹴って体勢を変える、針葉も素早く踏み込む、激しく打ち合いまた離れる。
 宿の裏に広がる木立の中、体が鈍るからと巴屋に都合してもらった木刀で、こうして手合わせするのが日課となっていた。
 ナツが逃げる、幹を蹴って枝を掴み、ぐるりと体を反転させる、針葉も跳び上がって刃を打つ。また離れる、距離を保ったまま木立の中を走り抜ける。
 頭の中が限りなく澄み渡っていく、いつもの感覚。
 ――お前はこの辺りに見覚えがあるか。
 あの牙という男は言った。その言葉でようやく腑に落ちた。針葉自身も薄々気付いてはいたのだ。
 あの祭りの夜、何故自分は神社への道を知っていたのだ。
 忘れるわけもない。同じ祭りの夜に、幼い彼は一人で提灯の下を彷徨い、道を外れてあの石段を上った。そうして前羽と出会ったのだから。母親から逃げるまでの約ひと月、毎日のように通ったのだから。
 あのとき前羽は、今の榎本と同じように巴屋に通っていたのだという。行動範囲が被るはずだ。
「遅いぜ兄貴!」
 ナツが細かく打ち込んでくるのを、かわし、打ち返し、また走る。
 冬の冷たい風に吹かれるとき、瞼を閉じると白く冷たいものが見えた。温暖な坡城で雪が降るのはほんのひと刹那なのに。
 冬が嫌いだった。あの狭い土間に尻を付けると、外も同然の寒さだった。指はかじかみ爪先が赤く腫れて痒かった。
 雪が嫌いだった。母親がなかなか帰ってこないとき、家に来た男がなかなか帰らないとき、飢えと渇きに耐えかねて雪を食べ、腹を壊した。
 ここで暮らした。飛鳥が彼の生まれた国だった。
 暁が恐れ憎んだこの国が。
「よそ見してんなよ!」
 その場に伏せて突きをかわし、起き上がりざまにナツの足を狙う。ナツはすんでのところでそれを避け、草むらにごろごろと転がった。さっと立ち上がりまた構える。
 針葉も構えて踏み出す、その途中でナツの後方にいる暁が目に入った。足を止める。
「ちょっと待てナ」
「いっぽおおおぉぉん!」
 咄嗟に出した手にまともに木刀をくらい、針葉はその場に倒れ込んだ。暁の短い悲鳴。「暁さん、見てましたか今の!」妙に嬉しそうなナツの脛を、針葉は柄で思いきり殴り付けた。ナツは足を抱えて転げ回る。
 暁と睦月が草むらを踏んで二人の顔を覗き込んだ。
「二人とも、大丈夫? 鈍った?」
「鈍ってねえよ」
「いたいのいたいの、とんでけー。ほら、とんでったよ」
「てて、睦月さん、脛です。とんでけーしてください」
「こらナツ、俺が先だ」
「えぇー」
 息が落ち着き、じんじんと脈動に合わせた痛みも治まって、針葉は暁を見上げる。
「お前は。少しはましになったのか」
「あー……、睦月も起きちゃったし」
 彼女は気分が悪いと言って、睦月の昼寝に合わせて横になっていたのだ。針葉が睦月の頭にぽんと手を置く。
「こいつは見とくからもうちょい横になっとけ」
「こいつはみとくから!」
「大丈夫、ここにいる」
「じゃあ皆で戻りましょう。俺らも随分汗かいちゃったんで」
 ナツが睦月の脇を持ち上げて立たせた。
 坡城ならまだ暑さが残る頃だろうが、飛鳥では既に肌寒さが押し寄せてきている。汗で濡れた体は風で冷えていた。

 汚れた服は、宿に預ければ他のものと一緒に洗って干してくれることになっていた。暁が畳の上に脱ぎ散らかされた二人の服をまとめながら呟く。
「ご飯も出てくるし洗濯もしてもらえるし。こんなに甘やかされると帰ってからが怖いな」
「へえ、五家の皆さんでも自分の飯作ったりするんですか?」
 暁ははたと榎本を見て口籠る。もし今も豊川家の中で過ごしていたら、今の暮らしを贅沢とは思わなかっただろう。
「家借りようにも、いつ動くか知れねえんじゃ仕方ないだろ。甘えとけ甘えとけ」
「そうですよ、そろそろここも動いたほうがいいかもしれないし」
 暁は、手を伸ばした睦月から服を遠ざけながら「何か怪しい動きでも?」
「や、飛鳥は寒くなるのが早いですし、それに菅谷がね。小火が続いてるらしくて、まあ角野屋のある辺りは大丈夫でしょうけど、関が閉まると面倒ですからね」
 暁は菅谷領に入ったときのことを思い出す。表面上は不破家に従っていても、水面下で人々の不満はくすぶっているのだろう。
「今持ってる手形はもう切れちゃったでしょう。新しいの巴屋に頼んどきますよ」
 榎本が各々の持っている手形を回収した。



 それから十日ほど経った雨の日だった。榎本は巴屋に出向いており、針葉たち三人が宿に残っていた。おそとと騒ぐ睦月に合羽を被せて宿をひと回りしてきた針葉は、襖を開け、ぼうっとうつむく暁を見付けた。
「おかーさん! あめふってるよ。むっちゃんばちゃばちゃしてきた」
 針葉は駆け出そうとする睦月を捕まえて暴れる足を拭き、暁に目をやる。彼女は睦月の声で我に返ったようだった。
「お帰り。ありがとう」
「お前最近どうした。まだどっかおかしいのか。医者でも呼ぶか」
「ううん……今日は大丈夫。気付いたら、気持ち悪いのも全く無くなってて」
 それにしては浮かない表情だった。針葉は首を捻りつつ合羽を窓から出してばさばさと水を払う。ふと身を乗り出すと、窓の下にいた榎本も針葉に気付いて傘をちょいと上げた。
 榎本は部屋へ上がると、新しい手形をめいめいに手渡した。
「角野屋から送ってもらったんで遅くなったけど、これでいつでも動けますよ。晴れた日に発ちましょうか。暁さん、具合はどうです」
「あ……」手形に視線を落としていた暁は、明らかに言い淀んでいた。「あの、具合はいいです。もう全く以前どおりで」
「そんじゃ決まりだ」
「あの、でも。少し待ってもらえませんか。あと十日だけでも」
 榎本は目を丸くしてぱちぱちと瞬いた。
「や、構いませんよ、十日くらい。調印式の予定はまだ先ですし。でもどうしたんです」
 暁は力なく笑って首を振る。「ちょっと……」そう濁したきり、彼女が語ることはなかった。
 針葉はじっとそれを見つめ、自分も視線を落とした。あと十日。彼にとっても、それは最後の猶予だった。
 雨はそれから四日ざあざあと降り続き、上がってからもどこかぐずついた空模様だった。

 そして出立まであと三日となった日のことだった。
 その日、早い夕餉を終えた針葉は榎本を廊下まで引っ張っていって耳打ちした。
「今からちょっと出てくる。暁にはうまいこと言っといてくれ」
「いいけど……何だよ。まさか兄貴、暁さんたちを置いて夜遊びに出るってんじゃないだろうな」
 軽口を叩く榎本に、針葉は重い表情のまま小さく笑って返した。榎本の顔からにやにや笑いが引く。
「ちゃんと戻って来いよ」
 針葉はひらと手を振って宿を出る。まだ残る泥濘を避けて歩き、川沿いに出てからは小走りになった。
 祭りの日には人だらけだった道も、今はぽつぽつと影が見えるのみだ。露店が立ち並んでいた場所を抜け、木々の中を走り抜け、神社へ続く道を横切ってなお走る。
 神社への道には見覚えがあった。しかし曲がった方向が逆だ。あの頃住んでいたのはきっと七塚ではなく、神社の向こう。
 空が赤く染まる。日は滑るように傾き、ぽつぽつと火が灯りだす。針葉は駆ける足を遅め、止まった。肩で大きく息をする。額に浮かんだ汗をぐいと拭って歩き出す。
 川沿いの道を外れて家々の影が並ぶほうへ歩いた。明らかに灯った火の少ない暗い町だった。狭い道を挟んでごちゃごちゃと傾いた家や汚い長屋が立ち並んでいる。屋根板の外れた家もちらほら見えた。細いどぶからちょろちょろと水音、そして鼻を衝く嫌な臭い。犬の鼻息。
 話に聞いていた貧民街だ。
 はっきりと覚えているわけではないし、あれから十五年の時が経って町も変わっているはずだ。それでも分かった。
 自分が住んでいたのは、この町のどこかだ。
 針葉は鼻の頭ににじんだ汗を拭い、当てもなく歩き出す。
 人の気配はあった。よろよろと片足を引きずって歩く中年の男、狭い路地裏に複数の子供の影、細く開いた長屋の戸。見慣れぬ侵入者に視線を向けて、しかし針葉が左腰の得物に指を掛けているのを見ると、そ知らぬ顔をして去っていく。
 道は暗く狭く、生き物の匂いに満ちている。息が詰まった。針葉こそが、腰に提げた重さを、左手で掴んだ冷たさを拠り所としていた。
 いつしか道は広くなり、提灯や店の灯りが増えていた。針葉ははっと足を止めて振り返る。一直線に歩いてしまえば、すぐに突っ切ってしまえる小さな町だった。
 首に手をやる。ぬるり、冷や汗に濡れていた。どうかしている。顔を覆ってうつむく。
 帰ろう、暁と睦月のいるところへ。
 針葉が足を踏み出した、その少し先の横道から男が二人、足を縺れさせながら飛び出してきた。顔をしかめて後ろを振り返り、へへっと馬鹿にしたように笑う。
「気味悪ぃんだよ、この老いぼれ婆ぁめが」
「おい」
 男の一人が針葉に気付いて、もう一人をつついた。罵声を浴びせた男はきまり悪そうに顔を歪め、ぺっと唾を吐く。もう一人の男は懐を探って横道へ銭を投げ捨てた。二人が脇を通り過ぎ、立ち止まっていた針葉は足を進めた。
 男たちが飛び出してきた横道で立ち止まる。日の差さない通りなのだろう、地面には水たまりが残り、その奥に人影がうずくまっていた。
「おい……、あんた大丈夫か」
 人影がむくりと頭をもたげ、壁を支えによろよろと起き上がる。針葉は顔をしかめてそれを見た。泥で汚れている、しかしそれ以前に、いつから換えていない着物なのか。提灯の当たるところによたよたと歩いてくる痩せた影は薄汚れて、汗と脂の饐えた臭いがした。
 影が顔を上げて、針葉は息を呑んだ。鼻が落ちている。かさの女だ。老婆と言うには若いようだが、艶のない少ない髪と痩けた頬、水気の失せた肌がその女を十は老けさせていた。
「お兄さん、あたしを買わないかい」
 がらがらと痰のからんだ低い声だった。針葉は耳を疑った。女の足はよたりよたりと彼の方へ歩みを進める。
 針葉は後ずさった。女は進む。また後ずさる。
 背中が壁に当たった。女はなおも近付いてくる。
「ねえ、買っておくれよ。綺麗なもん着てるじゃないか……金ならあるんだろ」
 針葉が動けなくなったのは怖気のためだけではなかった。
 風貌は変わり、声も濁って低くなっているが、この女には覚えがあった。
 彼はこの女を知っていた。
 かつてこの女の名を呼んだ。
 喉が凍り付く。
 女の落ち窪んだ目から涙が落ちた。
「お願いだからさ……。ねえ、あたし一人ならこんな惨めなことしないよぉ。あたしはごみを漁りゃどうにかなるけど、春はそうはいかないんだよぉ」
「はる……」
 ようやく針葉が言葉を漏らす。女は過剰なほどに頷いて媚びるように彼を見上げた。
「あたしの息子さ。まだ七つでね、可愛い子なんだよぉ。あんただって子供くらいいるんだろ、可哀想だと思っておくれよ」
 息が震えた。胸が潰れるようだった。
 縺れた指で袂を探り、紙入れを探す。触れた分を全て骨と皮の手に押し付ける。女は瞬きをして、見慣れないもののように銭を眺めた。汚れた頬にはくっきりと涙の跡がついている。
「おや……いいのかい、こんなに。気前がいいねぇ」
「……それで美味いもんでも食わせてやんな」
 針葉はそう言い残すと、振り返らず早足でその場を立ち去った。どくどくと鼓動が鳴っていた。あの夏の夜、祭りに憧れて吸い寄せられるように歩いた道。それから連夜、前羽に会うために通った道。文身を彫られた日、痛みと恐怖で泣きながら逃げた道を、ひたすら辿る。
 もう水たまりも泥濘も避けなかった。気付かず走り出していた。息が足りない。顎が上がる。収縮を繰り返した胸がはち切れそうに熱かった。
 あれっぽちの金でどうにかなるものでもない。次の身売りをほんの数日延ばすだけだ。そしてまた買う者もなく、哀れまれ、蔑まれ、気の狂った妖怪のような夜鷹だと物笑いの種にされるのだ。
 針葉は足を止めた。川沿いにはもう誰の影も無かった。息を求めて激しく喘ぐ。額の汗が流れ込んで目を閉じた。そのまま天を仰ぐ。
 叫んだ。目を開けてもう一度、星のない空へ叫ぶ。
 針葉はまた走り出した。
 宿はもう火を落とした後だった。寝ぼけ眼の主人に頭を下げて、寝静まった廊下を歩く。
 そっと開けた襖の向こうは暗闇の中に三つ蒲団が並び、そのうち二つが膨らんでいた。じっと見つめ、畳を踏んで襖を閉める。
 衣擦れの音がした。
「……お帰り」
 暁が体を起こしていた。針葉は足音を殺してそちらへ歩む。
 彼女の傍に膝を衝いた。腕が伸びてきて針葉の頬に触れる。
「冷たい」
 温かい手だった。針葉はその手を上から包み、彼女の髪に手を伸ばした。柔らかな手触り。そのままうなじに手を回し、蒲団の上に横たえる。
「もう遅い、よ?」
 戸惑った口調だった。針葉は何も答えずその肩に鼻を近付ける。肌の温もりと匂い。波打った髪が鼻をくすぐる。
 彼の左肩には今もあの時の文身が残っている。長ずるに従って醜く伸びた青黒い鎖紋。知らず彼の心を縛り付けていたそれは、今日解けたはずだ。あの狭い家、ごみごみした町、狂った母。自分一人では抜け出せなかったあの場所を、彼は今日自らの足で歩いた。あの哀れな女に憐れみをかけてやることすらできた。
 なのに、どうしてこんなに痛むのだ。
「針葉……」
 暁の腕が彼の背を抱いた。もう一つの手がゆっくりと頭を撫でる。
「泣いてるの」
 繰り返し撫でる手が、それを赦してくれているように感じた。泣いてもいいと。甘えていいと。与えるから、受け止めるからと。反吐が出るほど都合のいい解釈だった。
 ――お前の父親に、お前はよく似ている。
 ――お前も俺を捨てるのか。
 自分の父は母に何をした。母は自分に何をした。そして俺自身は、お前に何をした。
 堰を切ったように涙が溢れた。次から次から、彼女の肩を濡らし、髪を濡らす。洟をすすり、肩を震わせ、しゃくり上げる。暗闇の中に嗚咽が漏れる。
 暁は蒲団を引き上げて針葉の背を覆った。
 針葉が泣き疲れて眠るまで、彼女は髪を撫で続けた。



 次の朝暁が目を覚ますと、針葉は既に起き出し、濡らした手拭いで目を冷やしていた。彼が何か語ることはなく、暁も何も聞かなかった。あの夜の痕跡を残すのは、暁の襦袢に残る涙と洟の跡だけだった。
 榎本との打ち合いはいつも以上に容赦なかったし、冗談も言えば悪態もついた。しかし彼の表情や態度からは、どこか棘が抜け落ちたように見えた。
 そして一日が過ぎ、出立予定日の前日となった。
 榎本が西空を眺めて満足げに頷く。
「よしよし、明日も晴れそうだ。特に何も無ければ予定どおり明日の朝に発とうと思うんですが、えーと、暁さんはそれで大丈夫ですか」
「あ、はい。大丈夫です」頷いた暁の顔を針葉が覗き込む。
「本当に平気か」
「ああ、無理に明日じゃなくても、不都合ならもうちょっと延期してもいいんですよ」
 焦った様子の榎本に、暁は笑って首を振った。
「ううん、本当に。思い過ごしだったのかもしれないし」
「だから何がだよ」
 針葉が詰め寄るが、暁はやはり笑って答えなかった。
 その日の夕には荷をまとめた。不要になった大物は既に榎本が巴屋に返し、明日の朝一で細々したものを返しに行くことにしていた。
 夕餉と風呂を済ませて蒲団を敷きながら、暁は感慨深げに部屋を見回した。
「飛鳥も長かったね。今まで三人一緒に過ごす機会が少なかったから、何だか凄く印象深かった。この宿の人にも本当に良くしてもらって」
 睦月は既に眠たげで不機嫌だった。暁の膝にごろりと横になってはぐるりと反転し、また膝に甘える。
 針葉も思い返す、夏から秋にかけて短い間だったが色々なことがあった。
 睦月は程なくして寝息を立て始めた。深く寝入ったのを確認して暁がそっと蒲団の中に移動させる。いつもより早かったが、針葉と暁の二人も明日の出立に備え火を消して蒲団に入った。
 そのまま何事もなく夜は明けるはずだった。

 ……ふっと眠りが浅くなった。
 針葉が目を開けると、目の前はまだ真っ暗だった。どうして目覚めてしまったのか。ぼうっとした頭で寝返りを打ち、蒲団を引き上げる。
 ……息遣い。
 はっと目を開けて耳を澄ました。苦しそうな喘ぎが、絶えず静かに続いている。
 暁、と囁いて身を起こす。答える声は無いが、声は確かに彼女の蒲団から聞こえていた。そっと肩を叩く。彼女が顔を向けたのが分かった。
「どうした」
「ん……うん」
 額に手を当てるが熱は無いようだ。そっと蒲団を剥ぐ。彼女は身を丸くして震えながら、細く長く息を続けていた。
「腹でも壊したか」
 彼女が小さく首を振るのが分かった。痛みを逃がすように、長く震える息。
「お願い。……まとめた荷の中に、手拭いがたくさん……。全部出して、持ってきて」
「手拭い? ……、ちょっと待ってろ」
 部屋の隅へ行き手探りで石を取る。手間取りながら火を起こし、ようやく荷解きにかかる。その間も苦しそうな声は続いている。
「すぐ行く。もう少し辛抱しろよ」
 手拭いは一抱えあった。ここ数日、出立前だというのに暁が巴屋から借りていたのだ。訳も分からず暁のもとへ運ぶと、彼女は壁際まで体を引きずって背中をもたせかけ、手拭いの山の上に座った。
「それから……、もし可能なら、睦月を隣の部屋に……」
 言われたとおりにするしかなかった。ナツを揺すり起こして隣に蒲団を敷き、両方の部屋の襖を開けてそっと睦月を運ぶ。ナツは目をこすりながら針葉と睦月とを見比べた。
「ど、どうしたんだよ」
「分からん。暁の具合が悪い。もし睦月が目ぇ覚ましてもこっちで見ててくれ」
 そう言い置いて暁のもとへ戻る。彼女は壁を背に座り、辛そうな顔で目を閉じていた。針葉は蒲団を壁との間に噛ませてやり、顔を寄せる。
「痛みはどうだ。何か他にしてほしいことは」
「大丈夫、……予感はしてた。覚悟もしてた……」
「覚悟?」
 暁は目を閉じたまま小さく頷いた。
「つわりが、突然無くなったから、……おかしいかも、って。……出血も少し続いてて、でも……今日まで何も起きなくて、大丈夫かもしれないって……思ったけど」
「……つわりって」
 聞いたことはある言葉だったが、この夜が来るまで彼女の口から聞かされたことはなかった。なのに。
 暁は目を開けた。疲れた表情を時に歪めながら針葉を見る。弱々しい火の中でも、その目が潤んでいることが分かった。
「ごめんなさい……、流れるみたい」
 針葉の顔が歪む。だが掛けられる言葉など無く、首を横に振るしかなかった。
 痛みとの闘いは朝まで続いた。暁の表情はますます険しくなり、時折眉に力を入れて耐え、小さく呻いた。
 じわりじわりと手拭いが染まる。
 針葉は明け方まで待って盥を借りに降り、血だらけになった手拭いを放り込んだ。時々触れるどろりとした塊も、声を堪えて放り込んだ。
 睦月のことは産まれた後で知った。誰かが命を産む場面に立ち会ったことなど無かった。ましてや流れる場面など。
 平気で刀を振るっておきながら、血を流しておきながら、命を奪っておきながら、今はただ胸が苦しかった。
 いつ宿ったのだろう。彼女はいつそれに気付いたのだろう。
 暁と再会してからの三月余り、幾度となく肌に触れた。いつか子を望めるかもしれないと、漠然と考えていた。子ができるならそれで良かった。彼女に手を伸ばす以上、その覚悟はしているつもりだった。
 だが流れる覚悟はしていたか。その痛みを彼女が一人で引き受けることに気付いていたか。
 八人、二人、そして五人。偶然か必然か、いずれにしろ起こり得ない話ではなかったのに。
 手拭いは次々に血を吸う。赤黒い塊は増えていく。彼女の細い体のどこかから次々と剥がれ、流れ落ちる。生臭い匂いが部屋に満ちる。
 どれが命なのだろう。どこに散っていくのだろう。この塊を全て繋ぎ合わせたら命になるのか。
 やがて一際強い波が訪れ、大きな血の塊を産み落として、暁は落ち着いた呼吸を取り戻した。青ざめていた頬にも少しずつ血の気が差す。
 暁は疲れ切った虚ろな眼差しを針葉に向けた。睫毛が濡れていた。
「……ごめんなさい」
 日は高く昇っていた。
 血に染まった手拭いの山を築き、二つ目の命は終わりを迎えた。



 暁の出血が完全に止まり、体調が戻るまで半月を要した。その間に菅谷領ではまた小火が起き、民の煽動を企んだとして関近くの荒家に潜んでいた一団が捕まった。不破家も黙ってはおらず、一度は撤廃されていた夜間外出禁止令や集会禁止令がまた出された。治安悪化はさざ波のように広がり、飛鳥側が一時的に関を閉じると決定したのは昨日のことだった。
 睦月が昼寝に入り、榎本は地図を畳の上に広げて頬を掻いた。
「ちょっとまずいですねぇ」針葉にじろりと睨まれ、慌てて「や、何も暁さんが悪いと言ってるわけじゃなくて」
「いえ、こうなるくらいなら十日も待たずに発っていれば良かったです。結局あれからひと月も経ってしまって……申し訳ありません」
 暁が頭を下げると、榎本は弱り切った顔で首を振った。
「もう、謝らないでくださいって。一番辛い思いしたのは暁さんなんですから。……でも菅谷入りは難しくなっちゃったなぁ。関が開いても、その向こうはいきなり治安の悪いとこでしょ。無事に角野屋のある辺りまで辿り着けりゃいいけど」
 榎本が地図を広げて首を捻る。針葉も顔を寄せて指で南下する線を描いた。
「東雲から入ればどうだ」
「飛鳥と東雲にゃ正式な国交が無いから山越えになるんだよな。それに……今回はどうか分かんないけど、前に東雲から菅谷領に入ろうとしたとき、峰上の奴らに襲われたんだよ」
「峰上?」
「ほら、あいつらだよ。前に兄貴が半殺しの目に遭って、俺が一昼夜負ぶって駆けてやった」
「そういうのを要らん誇張ってんだよ」
 針葉が榎本の額を指で弾く。暁も地図に視線を落とした。
「調印は前と同じ邸で行われるの」
「あー、まあそうじゃないですかねぇ。坡城のお偉いさんも、協定書の確認とか江田家との談義とかで今もあの邸にいるっていうし。坡城の都は遠いですからねえ」
「江田家? 交渉決裂のように見えたけれど、まだ続いていたの」
「なんかねぇ、やっぱり地震の余波が大きすぎて不満が噴き出して、江田家の力じゃ抑えられなくなったみたいですよ」
 談義再開は内々の話なのか、この辺りの早売りでは得られなかった情報だった。暁は地図とそこに描かれた拠点の印を見る。
「上松領はどう。ここからなら前に言ってた拠点もそう離れていないし、そっちの関なら通れるでしょう」
「そうしますか。こう、ぐるっと回って……うん、菅谷領も西側ならそんなに荒れてないみたいだし」
 榎本が大きく頷いて地図を畳んだ。後は荷をまとめるだけだった。
 翌日は雲一つない秋晴れだった。四人は宿を出て西を目指した。