季春座にとって夏は暇な時期だ。客の集まる派手な舞台や長丁場は秋から初夏にかけて集中しており、暑い盛りは短期間の小さな芝居がいくつかと、下の組の役者が祭りに華を添えたり、売れない役者が夜芝居で小金を稼ぐ程度だ。
 親元を出てきている役者には里帰りする者も多く、役者長屋は日頃の半分ほどの人数に減っていた。
 そのとき本川は暇を持て余し、片桐たち仲の良い者と賭け札に興じていた。去年まではこの中に隣室の織楽もいた。彼は強気な賭け方をするのが常で、勝つときは大勝ちだが、時には破産寸前の大負けをするので、場が大いに盛り上がったものだ。今年は田舎から帰ってきた妻子と過ごすのだと言って、納涼公演を一本終えると早々と姿を消してしまった。
「ほれ、四、一と」
「甘いな、五六七」
 次々と札が場に出される。本川は勝負をかける声を聞きながらぱたぱたと団扇を煽ぐ。
 今年は残暑が厳しい。今日は特に蒸し暑い日だった。外では蝉がわんわんと鳴き喚いている。団扇を置いて窓に肘をついたが、日差しがきつい一方で風はほとんど流れていない。秋とは名ばかりだ。
 足音が聞こえて、ふと窓の下に目をやった。森宮の娘が彼の部屋の真下にある裏戸に走ってくるところだった。
「おい本川、お前の番だぞ」
 本川は腰を上げた。「悪い、ここで抜ける」
「はあ? 盛り上がってきたとこだろうがよ」
「抜けるんなら、負けを認めて支払いお願いしますね」
 本川は持ち札の中から三枚抜き出して場に放った。三が三枚。
「げ」
 総取りとなる大勝ちだった。晴れて誰にも引き止められることなく、本川は階段を下りて裏戸へ向かった。ちょうど茱歌が上がってきたところだった。よほど走ってきたのか、額と言わず首と言わず汗で濡れている。
 彼女に会うのは久々だった。本川が彼女の書いた筋を気に入って、焚きつけなじった春の日。本川は気まずい気持ちを押し殺し片手を上げる。
「久しぶ……」
「座長さんはいらっしゃいますか!」
 茱歌は切羽詰まった表情でずかずかと歩み寄った。
「墓参りに行くって昨日から出てるが」
 本川の答えに茱歌は眉を寄せた。泣きそうな瞳を彷徨わせてきっと本川に目線を定める。
「お父ちゃんが倒れて……助けてください」
 かくして、茱歌に連れられて数年ぶりに訪れた森宮の長屋は、むわっと熱気に満ちている他は、あの頃から時が止まったかのようだった。飾り気が無く、ただ紙ばかりが積み上がった家の中。その中で森宮はぐったりと倒れていた。
 本川が呼ぶとうっすらと目を開けたが、自分で起き上がることはできない様子だ。これは茱歌一人ではどうにもならなかっただろう。文机を退け、どうにか引きずって仰向けに寝かせる。髪が汗で濡れている。息が浅く、体が熱い。
「いつ倒れた」
「さっき……ずっと籠って本を書いてて、ふらっとしたと思ったらこんな状態で」
 ぽたり、本川の顎から汗が垂れる。はっと家の中を見回した。家の中でも森宮が座っていた場所は奥まり、熱気が溜まりやすいはずだ。
「水汲んでこい。親父さんに飲ませて、体も冷やしてやれ」
「分かりました。あの、お医者とか呼んだほうが……?」
「馴染みの医者はいるか」
 茱歌は首を横に振った。「お父ちゃんお医者嫌いで」
 本川は頷いて立ち上がった。医者なら近くに一人当てがある。
 桶一杯の水を抱えて戻った茱歌に後を任せて、彼は森宮の家から南へ下った。まさか自ら赴くことになるとは思わなかった。
 足を向けたのは、一部の役者には極めて有名な斎木医師の長屋だった。
 ぐいと汗を拭い、自分が既に彼の好みから外れていることを祈りながら戸を叩く。すぐに返答があって、出てきたのは斎木より遥かに若い細面の青年だった。本川と同じくらい背が高く、目や髪の色からすると同郷のようだ。切れ長の目がわずかに見開かれる。
「季春座の……」
「織楽か!?」
「違います」
 本川は首を拭った。今青年の後ろからした声が斎木ではないか。青年は本川に向き直ると首を振った。
「織楽はここにはいませんが」
「それは知っています。知り合いが倒れたので、早急に診ていただきたいんだが」
 青年の顔色が変わった。
「どんな方です。状態は」
「六十……くらいかな、男だ。家で倒れた。朦朧として自分じゃ動けない。体が熱かったから、水を飲ませて体も冷やしてる」
 青年は頷くと奥に引っ込み、行李を背負って現れた。
「あの、斎木先生は」
「引退したので私が参ります。秋月と申します。案内を」
 青年を伴って今走ってきた通りを戻る。森宮の家では茱歌が不安そうに待っていたが、本川の姿を見るとほっと肩の力を抜いた。森宮は額に絞った手拭いを乗せ、目を閉じていた。
 青年はぐるりと家の中を見回した。一歩戻って戸を開け放ち、改めて板間に上がる。
 森宮の脈を取り舌を見て全身を観察し、茱歌の話をひととおり聞いて、青年は行李を下ろした。
「この暑い日に、書物だらけの風通しの悪い家で、ほぼ飲まず食わず、ろくに休みもせず物書きを続けていたと」
 呆れた口調だった。茱歌は縮こまり、「お父ちゃんは時々憑りつかれたみたいに書くので」と呟く。
「絵に描いたような中暑です。高齢の方なんですからもっと気を遣わないと。水は飲めましたか」
「少しだけ」
「塩を少し混ぜたほうがいい。体を冷やすのは正しいが、額ではなく首や脇、股を」
 青年は早口で話しながら森宮の着物を緩め、茱歌が手渡した手拭いをてきぱきと脇や褌の脇に置く。その途中で森宮は一度目を開けた。青年は森宮の顔を覗き込んでゆっくりと声を掛ける。
「森宮さん、間地の秋月と申します。分かりますか」
 森宮はそちらに瞳を動かしてかすかに二度頷いた。
「お医者先生か、申し訳ないな……」
「謝るのは私ではなく娘さんでしょう。今は体を休めてください」
 森宮はかすかに頷いてまた目を閉じた。青年はその息が落ち着いたのを確認して茱歌を振り返った。
「家の中も少しは片付けてください。まだ暑い日が続くのに、風の通りが悪いとまた同じ目に遭いますよ」
「でも、全部お父ちゃんの物書きの……」口答えした途端に青年から睨まれ、茱歌は本川の陰に隠れた。青年は行李からいくつか散薬を取り出し匙で分けて包んだ。
「それで治るんですか」
「清熱の助けはしますが、水を飲ませて体を冷やすのが先決です。体が楽に動かせるようになるまで続けてください。体を起こせるようになったら水で薬を飲ませると良いでしょう。もし状態が悪くなるようならすぐに呼んでください」
 茱歌が頭を下げた。彼女が新しい水を汲みに出て行った隙に、本川は青年に顔を寄せた。
「ここは俺が払うので。いくらです」
 青年は開けたままの戸に目をやり、「歳の離れた御内儀ですね」
「この爺さんに恩があるんですよ。この人は季春座の本書きなんです」
 青年は改めて紙だらけの家の中を見回し、ふっと笑って行李を背負った。
「失礼、要らぬ詮索をしました」
 青年を見送ったときには既に日は傾き、ぬるい風が流れていた。本川は父の世話を焼く茱歌を振り返り、自分も腰を上げた。
「とりあえずはひと安心だな。また様子を見に来るよ」
「あの」
 本川を見上げる茱歌の顔はまたしても切羽詰まったものに変わっていた。
「まだ何かあるのか」
「あの……お父ちゃんが書いていたのは顔見世公演の本で。甲と乙の二本分」
「もうそんな時期か」
 本川はゆっくりと頷く。顔見世公演は季春座の興行の中でも一番の大舞台だった。初日までは三月以上あるが、来月終わりには役振りが行われ、秋公演と並行して読み合わせが始まるだろう。嫌な予感がする。
「どちらもまだ途中で……。来月頭には見せてほしいって座長さんに言われてたみたいなんですけど。だからお父ちゃん急いでて」
 茱歌は頬を引きつらせて無理に笑ってみせた。
「お父ちゃん、大丈夫ですよね。それまでに元通り快復して、仕上げられますよね?」
 そんなこと分かるか。相対する本川の口元も引きつっていた。先ほど退けた文机の上の紙の束に目をやる。硯は乾き筆の穂先も固まっていた。
「途中ってのはどのくらいなんだ。三割か五割か、終わりかけなのか」
「たぶん半分くらい……」
 半分とは言え、この紙の束が丸々もう一つ分だとすれば結構な量だ。病み上がりの森宮に書き上げられるものだろうか。
「お前はこの先の筋を聞いてたか」
「まさか」
 本川は紙の束に、そしてぐたりと横たわったままの森宮に視線を移した。
「お前さん、まだ本書きの夢は捨ててないのか」
「それは……今もまだ書いてますけど、……え、まさか続きを書けなんて言わないですよね」
 本川の視線が茱歌の上で止まる。
「え、そんな、冗談でしょう。だってお父ちゃんが治ったら、そんなもの無駄に」
「書けないのか。無駄になるかもしれないから書かないのか」
 茱歌は言葉を失った。じわじわと文机に視線を落とし、父を振り返る。そして本川に向き直ったとき、その目には決意が灯っていた。
「書きます」
「よし」
 本川は彼女の頭をぽんと叩いた。かつて低すぎるところにあったそれは、八年の時が過ぎ、今では彼の胸と同じ高さにあった。



 その日小間物屋は店を閉め、織楽一家を迎えていた。
 紅花の腹ははち切れんばかりに大きくなり、起き上がるときや立ち上がるときには浬の手助けが必要なほどだった。
 紅花の腹に興味津々な梨枝の体を、果枝がぐっと押さえて指先で触れさせる。梨枝は分かっているのかいないのか、膝の上から母をきょとんと見上げた。
「凄いなぁ、果枝の産み月よりでっかい」
「そりゃ二人入ってるもん」紅花は左手で団扇を煽ぎながら、織楽たちが手土産に持参した煎餅をつまむ。「美味しい。これ果枝さんが選んでくれたの」
「はい」
「さすが。もうね、お腹が減ってお腹が減って。でもどかっと食べると気持ち悪くなるから、こういうちょっとしたものがいいのよね」
「そろそろ止めときなよ」
 横から口を出した浬を、紅花はじろりと睨む。
「いいわよね、つわりの無い人は。あたしこれで二度目よ。ぶり返すなんて聞いてなかったわよ。ちょっとくらい好きに食べたっていいじゃない」
 そう言ってまた伸ばそうとした手を浬が止める。
「里さんからも言われてるだろ」
「何、どうしたん」
 二人の顔を見比べる織楽に、浬は苦笑いを返す。
「そんな喫緊の問題じゃないんだけどね。むくみが出てるから薄味にしろって」
「そうなんですか。ごめんなさい、お煎餅は駄目でしたね」
「いいのいいの。ちょっと浬、折角選んでくれた果枝さんに悪いでしょ」
 そう言いながら再び煎餅に伸ばした手を、浬はしっかりと捕まえた。紅花が悔しそうに唇を噛む。そんな二人を見て果枝はくすくすと笑いを漏らした。
「産まれる前になるとややが下りるから、もうちょっと楽になると思いますよ」
「それ里さんにも言われたんです。じゃあまだ先なのかな。……もー、今でもこんなふうふう言ってるのに、これ以上大きくなったらどうしたらいいんだろ。暑くてたまんないし、夜も眠れないし、お腹がつかえて包丁も握れないし、自分の体が自分のものじゃないみたい。お腹蹴られるのも、最初は嬉しかったけど今はただただ痛いし」
「ですよね、大変なことばかり」果枝は笑って膝の梨枝を立たせた。「でもね、当たり前のことだけど、一度産まれちゃうとそれってもう感じられないんですよ」
 果枝が紅花の腹に手を伸ばし、紅花が頷くのを待って、帯の下の突き出した膨らみに触れた。
「私もね、産まれるまでは、まだかなってずっと思ってたんです。早く会いたかったのもあるし、不安でもあったし、紅花さんの言うように大変でもあったし。でも一度産まれると大変だったことって全部忘れちゃってね、大きくなっていくお腹を撫でるのって幸せだったなぁって思い出すんです。……梨枝が夜中に泣き止まないときなんかは特に」
 神妙な顔をして聞いていた紅花は、果枝が付け足した言葉でふっと笑った。果枝も笑みを返す。
「お腹の中では泣きも喚きもしなかったのになぁ、なんてね。……今のは半分冗談ですけど、私、紅花さんがお腹大きいのを見てると羨ましいですもん。おはよう、今日も元気ねって話し掛けて、男の子かな女の子かなって想像して、毎日楽しみにしてたなぁって。もちろん今でも成長は楽しみなんですけど、それとはちょっと違う、二人でずっとくっついていられる貴重な数月でした」
 果枝の手が紅花から離れる。紅花は団扇を脇に置き、見慣れた自分の腹を改めて見つめた。ぐにょぐにょと動いている、と思った傍から強烈な蹴り。うっと顔をしかめて、でも苦笑して蹴られたところに手を当てる。
 織楽が浬に目配せした。お互い妻を労ってやろうと。
「それに紅花さんは双子ちゃんですからね。怖がらせたくはないけど、産まれた途端に今よりずっと大変になりますよ。……でも優しそうな旦那さんが付いてるから大丈夫かな?」
 果枝がにこりと柔らかな笑みを寄越す。突然矢を飛ばされ、浬は肩をすくめて頭を下げた。
 今のは自分にも宛てた言葉だろうか。じゃれつく梨枝と遊びながら、織楽はぞっと目を逸らした。
「お茶冷めちゃったよね。淹れ直してくるね」
「あれ、りっちゃん退屈なん? しゃあないな、ちょっと表歩いてこか」
 男二人と梨枝がそそくさと退席し、残された二人は顔を見合わせて噴き出した。
「今のはちょっと露骨だったかなぁ」
「果枝さん、前から思ってたけど結構図太いですよね」
「そんなことないですよ」
 紅花は鬼の居ぬ間に煎餅を一枚取り、袋の口を縛った。やればできるのよ、と自分を褒めてやる。
「そういえば果枝さんは季春座に戻るの」
「私ですか。梨枝がいるから当分は無理かなあ」
「あ、そっか。うちの店じゃないんだから、負ぶって働けるわけないですよね」
 果枝はうーんと空を仰いで考え込んだ。
「織楽さんはね、梨枝がもっと大きくなったら戻ってほしいみたいです。でもちょっと夢見がちと言うか」
「夢見がち?」
「戻る場所なんてあるのかなぁって思うんですよ。仮に戻るとしても数年先だし、その間に若い子だってどんどん入ってくるでしょう。それに私はどんなに励んだって乙ノ組だから、そう稼げるわけでもないし。実際、子持ちの女の人なんて誰一人。家のことをしながらできるのかって疑問もあるし。茱歌、覚えてます? あの子なんかは小さい頃から季春座に入り浸ってたみたいですけど、お母さんがいないから仕方なかったわけで、梨枝にそこまでさせなきゃいけないのかとも思いますし」
 紅花自身は店を辞める選択など無かったから、果枝の立ち位置から見た話を聞いてただ頷くばかりだった。
「それにね」果枝の口角がきゅっと上がった。紅花に顔を寄せて、内緒話をするように「二人目だって欲しいでしょ」
「ああ……そうですよね」
 一人目と二人目が同時に出てくる身としては、曖昧に濁すしかなかった。果枝が身を戻して何も無いところを仰ぐ。
「織楽さんは梨枝にも季春座に入ってほしいみたい。でも私は梨枝に、自分と同じことで悩んでほしくないなぁ。そう言ったら織楽さん、じゃあ次は男の子って。男役者なら甲ノ組にも上がれるしお腹が膨らむこともないからって。そう言われると何だか、ねぇ」
「あいつ、またそんな勝手なこと言ってんの? そんな自分の思いどおりになりゃしないわよねぇ」
 紅花と果枝がたっぷり話せるだけの間を置いて浬が急須と湯呑の盆を手に戻り、続いて梨枝を抱いた織楽も戻ってきた。
 程なくして梨枝が不機嫌になり、そろそろ暇乞いをしようとしていたとき、裏戸の開く音がした。
「あれ、今日はまた大勢で」
 顔を出したのは紅砂だ。「よ、色男!」織楽の軽口をいなし、彼が紅花に差し出したのは餅菓子だった。
「ちょっとつまめるものって、こんなのでいいのか」
「さすが紅砂、分かってる!」
「紅花ちゃん」
「だって塩辛くないじゃない! 折角選んでくれた紅砂に悪いでしょ」
「それさっきも聞いたよ」
 賑やかな二人に肩を揺らしつつ、織楽は紅砂の脇をすり抜けて梨枝に下駄を履かせた。
「もう帰るのか」
「りっちゃんがお腹ぺこぺこて。あの別嬪さんとの話はまた今度聞かせてな」
 三人は手を振って裏戸から出て行った。紅砂は畳に胡坐をかき、傍らの煎餅の袋を持ち上げた。
「あいつら、これ持ってきてたのか。別の日にしたら良かったな。悪いことした」
「ううん、何も悪くない。塩辛いのと甘いので収支は合ってる」
「合うわけないだろ」
 浬は呆れ顔で言い、とうとう堪えきれなくなって笑い始めた。この隙にと紅花は人差し指を立てて浬に迫り、とうとう餅菓子の袋を手に入れた。一つ頬張ってぎりぎりまで袋を遠ざける。やればできるのよ、あたし。
 ようやく笑いの収まった浬が団扇を取って煽いだ。
「織楽が言ってたのは静さん?」
「ああ、この前の祭りであいつらとばったり会ったんだ」
「そう、それ聞こうと思ってたのよ」紅花は茶を飲んで口の中を綺麗にし、「静さんの簪があの頃から変わったんだけどさ、あれってもしかして」
「ニチリンの簪なら俺が」
「やっぱり!? ねえ、結局今どうなってるのよ」
 目をきらきら輝かせる妹に、紅砂はげんなりと眉を寄せた。
「静さんは毎日ここに来てるんだろ。なんでわざわざ俺に」
「だって、もし二人が妙なことになってたら静さんと気まずくなっちゃうじゃない。毎日顔会わせるのに嫌でしょ」
「血を分けた兄となら気まずくなってもいいのか」
「じゃあやっぱり妙なことになって……?」
 紅花は元々大きな目を更に大きく見開いて両手で口を覆った。話がおかしな方向へ進んでしまう。紅砂は苦笑して餅菓子を一つ取り出した。
「何もない。あの簪だって、静さんが梨枝に人形をくれたからお礼に渡しただけだ」
「えー、つまんなーい」
 紅花は明らかにがっかりしていた。芝居を見に行けない今、人の恋路は彼女にとって楽しみの一つなのだろう。紅砂は餅菓子を口に放り込む。
 楽しそうに話を聞いていた浬が、それぞれの湯呑に茶を注ぎ足して急須を置いた。
「じゃあ祭りの後は二人で会ったりしてないの」
「いや、西の大通りの市に何回かと、納涼公演に一回。秋公演も行こうって話にはなってる」
「なんだ、順調じゃないか」
 浬が自分の分の茶を啜る。紅砂も湯呑を取り、その中に緩く広がる波紋を眺めた。
「これは順調って言うのかな」
「お互い楽しいなら順調なんじゃない」
 そういうものか。吐息で細かい波紋が立つ、それを口に運ぶ手前で紅砂は手を止めた。
「そうだ。一つ、誘われてるけど行けてないものが」
「えぇ? どうして行かないのよ」
「どこでやってるのか分からなくて。知ってるか、夜芝居って」
 浬が盛大に噎せた。紅花も表情を堅くして兄から顔を逸らし、浬の背をさする。
「季春座ではやってないみたいで。……おい、大丈夫か浬。えらく噎せるな」
「大丈夫!」
「大丈夫だから!」
 紅砂は首を捻りつつ上げかけた腰を戻す。
 やがて紅砂が手水場に立ったとき、二人は息を長く吐いて崩れ落ちた。
「あー、びっくりした」
「静さん、もー……。全く懲りてないんだから」
 今日口論の多かった二人は、ようやく顔を見合わせて笑った。



 月が替わり、本川が顔見世公演の正本を座長へ届けたのは数日前のことだった。
 そして今日彼が森宮の見舞いに足を運ぶと、開け放たれた戸の向こう、蒲団の上に座る森宮の向かいには座長が座っていた。眉を上げて戸の脇に背を預け、二人の会話を聞く。
「前に見たときより随分すっきりしましたね」
「医者から風通しを良くしろと叱られましてね。娘が頑張ってくれましたよ。……それで今日はいかがなさった。こんな荒家までわざわざ足を運んでいただかなくても」
「何でも倒れたそうじゃないですか。大事なお抱え本書きの不調を聞いて駆け付けない者がおりますか」
「そりゃ何とも情に厚い」
 二人の笑い声。「こりゃどうも」と座長の小さな声が聞こえたので、茱歌が茶でも渡したのかもしれない。
「どうですか、お体は」
「さすがに死にかけたんでね。本調子とはいかんが、筆くらいは握れますよ」
「左様ですか。率直に訊きますが、今回本川が持ってきた正本は、あなたが書いたもので間違いないんでしょうね」
「ありませんとも。何か気になる点でも?」
「いえ、……何日か寝たきりだったと聞いたものでね、少し気になって」
 茱歌が物書きを目指しているのは既に座長の知るところなのだ。本川は腕を組み、壁にごつりと頭をもたせ掛けた。
 家の中から茱歌が出てきて、本川に気付くと目を丸くした。彼女も足を止め、本川とは戸を挟んだところにある壁に背を付ける。
「……残念だったな」
「いえ、お父ちゃんが快復して良かったです」
 茱歌はよく頑張った。父の世話、家の中の片付けと並行して、途中でぶつ切りになった父の話を読み込み、続きの筋を二本ずつ考えた。そしてそれを紙に起こし、九割がた終わったところで森宮は体が起こせるようになった。
 しかしその時点で座長の期限まで五日だった。茱歌は自分の考えた話を語り、それがほぼ書き上がっていることも伝えた。その場には見舞いに来ていた本川も立ち合い、自分がそれを勧めたこと、森宮の体調ではとても書き切れないことを説明した。
 森宮が怒り出すことはなかった。
「お寝んねしてる間に涼しくなったし、やってみるかな」
 そう楽しそうに呟き、それからの五日で本当に二本を仕上げてしまったのだ。書き上がった正本を見せられたからには何も言い返せず、本川はそれを恭しく受け取って座長のもとへ運んだのだった。
「俺は悪くないと思ったよ、お前さんの話も」
 茱歌は笑って首を振った。
「お父ちゃんの話が一番面白かったですし、顔見世にもあのくらい派手なほうが似合うでしょう。これで良かったんです」
 家の中では話が終わったらしい。座長の挨拶、そして下駄の音が近付いてくる。
「お」
 彼は戸の両側にいる二人に目を留めたが、すぐに後ろを振り返って一礼し、去っていった。
 二人は戸を開けたままで家の中に上がる。茶を啜っていた森宮が湯呑を置いて手を上げた。
「よう、清坊も来てたのか」
「具合が戻って良かったですよ」
「はは。今回はお前らに迷惑かけちまったなぁ。俺も歳だな」
 二客の湯呑を片付けようとした娘を、森宮は呼び止めた。
「お前も、短い間によくあれだけ書いた。急いだぶん雑な部分も多かったが、一つ一つの場面はきちっと締めてるし、前半の役の持ち味を殺さんよう気を付けてるのも伝わった。……だが顔見世の本はお前にゃ荷が勝ちすぎる」
「分かってる。お父ちゃんの本が仕上がって、私もほっとしてる」
 心を押し隠すように淡々と答えた茱歌に、森宮は「だから」と続けた。
「次の夏を目指してみるといい」
「夏?」
「夏公演は規模が小さいぶん色々と融通も利く。顔見世じゃ決して通らんことが通ったりするんだ。この前の納涼公演だって、どれか甲ノ組の奴が書いたのがあっただろ。そこでだ。お前が乙ノ組の二本目で入れてた虎二の話、あれなんかいいんじゃないか。膨らませてみな」
 茱歌は瞬きを忘れて父を見ていた。視線がつっと落ち、唇をぐっと結び、しかし頬は染まっている。本川には分かった、彼女は今走り出そうとする胸を必死に抑えているのだ。茱歌の書き換えた筋を初めて読んだときの自分と同じだ。
「もし座長の許しが下りたなら、俺も出てやろうか」
「な……っ、やめてください。あなたで客寄せすることになるじゃないですか」
「何が悪い。本だけで勝負しようなんざ甘いぞ。まず本があって、演じる者があって、裏方がいて、初めて芝居だろうが」
 森宮がぱんと手を叩いて二人の言い合いを止めた。
「皮算用はそこまで。何事もまず書き上げてからだろ」
 茱歌は決まりの悪い顔でそそくさと湯呑を運んでいった。森宮はくくっと喉で笑い、後ろに肘をついてゆっくりと蒲団に横になった。
「疲れてるんじゃないですか。まだ無理しないほうがいい」
「つっても、この前の五日間で充分無理したがな」
 本川は森宮を見下ろして叱るように睨んだ。
「……歳なんだから、馴染みの医者くらい作っといてくださいよ。右往左往するのはあの子ですよ。この前の感じじゃ、もしあんたに何かあっても葬式出す前に腐っちまう」
「その時はまた清坊が助けてやってくれよ」
 森宮は笑いながら言い、本川の仏頂面に気付いて「冗談だよ」と付け足した。
「茱歌はなぁ……。幼い頃から色々と頭に詰め込んだぶん、頭でっかちで頼りないとこがあるんだよな。……おい誤解するなよ、それ以外は申し分のない自慢の娘だぞ!」
「何も言ってませんよ」
「ふん。……そろそろ本気で嫁の貰い手を探さにゃならんのだろうなぁ」
 本川ははっと森宮に視線を投げた。遠いところを見つめる年老いた父親の目がそこにあった。
「そうなるとつまり……本書きの道は」
「あの子が路頭に迷うよりましだ」
 眼差しは柔らかいが、そこには自分亡き後の子を案じる真剣味が宿っていた。親子の話に口を挟むべきではないと、本川は自分に言い聞かせる。しかし次に森宮が呼んだのは本川の名だった。
「清坊よ、お前はもう白菊を稼いでるんだろ」
「はい……?」
「出世払いだ。茱歌を任せられる相手を見繕ってやってくれないか」
 それは九年前、白菊など夢のまた夢だった彼が何の気なしに約したことだった。冗談半分だった。
 本川はごくりと唾を呑んだ。ようやく開きかけた彼女の道を閉じる手助けをするのか? 彼女の才に惚れ込み、その先を見たいと願っているのは、他ならぬ自分自身なのに?
 しかし、と思う。森宮は本書きとしてではなく父として自分に望みを掛けている。この人もきっと娘の才に気付いて、だがそれよりも遥かに強く、娘の安泰を願っているのだ。
「誰か……いたかな。ちょっと当たってみますよ」
「頼んだぞ」
 森宮の水気の無い手が蒲団から出て、しっかと本川の手を握った。気圧される、だが振りほどいてはならない。本川は両の手で握り返した。
「安心して待っててください」
 当てなどどこにも無かった。茱歌が芝居馬鹿を貫き通せる相手、包丁より筆を持つことを喜ぶ相手、跡継ぎを急かすよりも紡がれる物語を待ちわびる相手。
 森宮の家を辞去するとき、土間で夕飯の支度をする茱歌と目が合った。
「あの、さっきの話。もし座長さんが認めてくれたら、やっぱりお願いしていいですか」
「皮算用だぞ」
 本川は笑みを残してその場を去った。ぬるい風を蹴りながら次第に早足になる。遣る瀬ない思いが胸に満ちていた。