暁たちが菅谷領から飛鳥に入ったのは、榎本の言葉が切っ掛けだった。
 数日に一度、角野屋へ行って情報を仕入れてくるのは面の割れていない彼の仕事だったが、いつ足を運んでもすずの一派らしい者が辺りをうろついており、今回はとうとう後を尾けられたのだという。
「まぁ俺の足にゃ敵いませんけどね。でもここで粘るのももう限界ですよ」
「他にも烏の拠点ってのはあるんだろ。そろそろ動くか」
 針葉は蒲団を引っ張って睦月を転がしながら言った。睦月の笑い声。また反対側から引っ張り、睦月が笑い転げる。
 待ってましたとばかりに榎本が胸からよれよれの地図を取り出す。暁も身を乗り出して眺めると、それはまだ五家があった頃のものだった。所々に付いている印が烏の拠点なのだろう。榎本の指がうろうろと印を辿る。
「上松領はちょっと遠いかなぁ。豊川領ならいくつかあるけど、あいつらも張ってそうだしな」
 つっとその指が東側に動いた。
「いっそ飛鳥に渡りますか。関さえ越えたらそんなに遠くないですよ」
「飛鳥……ですか」
 暁が彼の地へ入るのは五年ぶりだった。あのときは混乱が続いていたから、香ほづ木売りの手を借りて水路で侵入できたが。
「心配いりませんよ。上松領や菅谷領にいた壬びともかなり入り混じってるから、暁さんが目立つこともないし、仮に見咎められても俺らにゃれっきとした手形がありますからね」
「れっきとした偽もんのな」睦月の笑い声の向こうから針葉の茶々。
「それに夏は少しは過ごしやすいはずですよ。冬は雪だらけですけどね」
 暁は手形を取り出してじっと見つめ、頷いた。「分かりました。行きましょう」
 そして関を越えて飛鳥へ入り、烏の拠点にほど近い七塚の町の宿へ辿り着いたのが三日前のことだ。東雲や菅谷領とそう変わらない、落ち着いた小さな町だった。菅谷領から歩いて数日の距離だったが、夏だというのに肌寒く感じる朝もあった。そして何より雨がしとしとと降り、まだ梅雨明けしていないようだった。
「坡城ならもう梅雨明けした時期だよね」
「祭りも終わっただろうな」
「この辺じゃ梅雨明けてから祭りをやるみたいですよ。来るとき渡った橋があるでしょ、あれをずっと行った先。花火も上がるし神楽か何かもやるそうです」
 朝一で早売りを仕入れてきた榎本が、濡れた頭をぶるぶると振りながら言った。彼が雨から死守した早売りは今、睦月が上下逆にして読んでいる。
「何か面白い話は聞いてきたのか」
「えー、兄貴の好きそうな話か。五塚の町にゃ妖怪みたいな年増の夜鷹がうろついてるって話だぜ」
「夜鷹って?」
 針葉は榎本の頭を脇に抱えて締め上げた。「何が、俺の好きそうな話、だ」
「夜鷹って?」
「お前は早売りでも読んでろ」
 しつこく首を伸ばした暁に、睦月から奪い取った早売りを握らせる。睦月は「むっちゃんの!」と抗議し、暁の膝に座って満足そうに母の音読を聞いた。
「だいたい、五塚なんて貧民街の向こうなんだろ。あえて今そんな危ないとこ行くかよ」
「ちぇー、喜んでくれると思ったんだけどな」
 針葉にまたじろりと睨まれ、榎本はそっぽを向く。そこへ軽快な睦月の足音が近付き、二人をぐるりと周ってまた遠ざかる。暁は早売りを畳んで二人を振り返った。
「読み終わりました。榎本さんは」
「や、俺は売り手から粗方聞いてるんで」
「じゃあ針葉、読もうか」
「膝に座らしてくれんのか」
 榎本が睦月を豪快な肩車であやしている間、針葉は暁が早売りを読むのを寝転がって聞いた。取るに足らない記事ばかりだ。針葉はごろりと窓の方を見る。灰色の空を縦に切り取るのは、廂からのべつ幕なしに垂れる雨だ。
「長いな」
「睦月も外に出たそう。早く上がるといいのにね」
 雨はなおも数日降り続き、からりと晴れ間が覗いたのは祭りまであと十日を切った日のことだった。



 睦月は頭にねじり鉢巻きをし、嬉しそうに団扇を振った。暁も合わせて手拍子を打つ。
「睦っちゃん、今日は何の日?」
「おまつりー!」
「そうだねぇ、お祭りだねえ」
「おまつりっ、おまつりっ。たのしみだねえ」
 一行は衣替えをし、今着ているのは榎本が烏の拠点から借りてきた浴衣だった。浮かれる二人を見て針葉が溜息を吐く。
「本当に大丈夫かよ」
「まあまあ」榎本は目尻を下げ、「暗いし人も大勢いるし、はぐれなきゃ大丈夫だって。ここに来てから怪しい奴は見てないし。それにさ、三人連れで出掛けるのなんて随分久しぶりなんだろ」
「そりゃあ……」
 針葉は口を噤む。暁と和解してから出掛けたことなど、片手で足りるほどしか無かった。
「暁さんのあんな楽しそうな姿、俺初めて見たよ。笑ってやんなよ、兄貴。今日は難しいことは忘れて楽しもう」
 針葉の顔もようやく緩む。
 そして日が傾き始めた頃、四人は宿を出た。川沿いに歩いていくと、親子連れや男女連れが脇道から現れ、ぞろぞろ増えていく。暁はほっと息を吐いた。飛鳥へ来てからこうして堂々と通りを歩くのは初めてだったが、いつか榎本が言ったとおり、壬びとは珍しくないようだ。彼女の姿に目を留める者もなかった。
 睦月は暁に手を引かれ、もう一つの手で団扇を振る。
「おまつり、たのしみだねえ」
「楽しみだねえ」
 やがて太鼓の振動が遠く聞こえ、笛の音も響き出す。道が混雑して歩みを遅めたところで、針葉が睦月の脇腹を掴んでひょいと持ち上げ、自分の肩に乗せた。
「これではぐれないだろ」
「おとーさん、いけーっ」
 睦月は機嫌よく団扇を振り上げて叫ぶ。暁も愛おしげにそれを見つめ、榎本は少し歩幅を空けて三つの影を追う。
 空は次第に赤く染まり始めていた。
 露店には既に人が溢れていた。威勢のいい声、食べ物の焼ける匂い、ずらり並ぶ鉢植え、風鈴の音。あちらではヤソ細工師が巧みな技を見せ、こちらでは放下が小刀でのお手玉を披露する。
 暁たちはめいめいが好きなものを買い寄り、人込みを外れて木々を背に立ち止まった。餅や団子を頬張って光と音の波を眺める。おおっとどよめきが広がり、見れば群衆の中から突き立った梯子の天辺で男が逆立ちをしていた。拍手が沸き起こり、睦月もぱちぱちと手を打ち合わせる。
「賑やかだな」
 興奮して騒ぐ睦月を肩の上に乗せ、針葉は静かに喧騒を見る。暁は汗ばんだ肌をぱたぱたと煽ぎながら針葉を見つめた。お祭り男に見える彼は、いつか祭りが苦手と言った。幼い頃、たった一人で祭りの中を彷徨った記憶があるからだ。しかし今彼の顔は穏やかだ。
 暁は針葉の肩にそっと耳を寄せる。
「ずっと前、針葉は祭りの中で息苦しくなった私を連れ出してくれたね。私もあのとき祭りの熱気に馴染めなくて、自分がたった一人で歩いているように感じた。どうして自分はあちら側へ行けないんだろうと、そればかり思ってた」
「今は違うか?」
「うん……。それに針葉も、今はずっと楽そうに見える」
「放っといても盛り上げてくれる奴がいるからな」
 針葉は頭上を見た。それに合わせて睦月が父の顔を覗き込む。暁の胸に温かいものが満ち、針葉の肩に頭をもたせ掛けた。
 榎本が咳払いして、暁ははっと針葉から離れた。忘れていた。邪魔をしないよう気遣ってくれているが、ここには彼もいたのだ。
「あ……、あっち。神楽ってあれじゃないかな。ねえ榎本さん!」
「あ、俺のことはお構いなく。黒子とでも思ってもらえれば」
「そんなこと言わずにほら、行きましょう!」
 暁が榎本を引っ張り、針葉もその後を追っていく。ぽっかりと木々の開けた空き地に茣蓙が敷かれ、その奥には簡易な舞台が設けられていた。茣蓙は既に半分ほど埋まっている。
 四人座れそうな場所を見付け、暁、次いで榎本が腰を下ろす。隣に座っていた老人が席を詰めてくれたので、暁は小さく礼を言い、老人も眉を上げて応えた。老人はまた舞台に向き直りかけ、針葉の肩から降りる睦月に気付いて目を細めた。
「こりゃまた可愛らしい坊っちゃんだ」
 睦月はとことこと歩いて頭を下げる。「こんにちは」
「はい、はい、初めまして。私も孫がいましてねぇ。もう一緒に祭りに来ることも無くなったが、このくらいの頃は可愛かったですねぇ」
 老人と睦月が戯れている間に茣蓙はみるみる埋まり、拍子木が鳴った。ざわめきが引いて人々の顔が舞台を向く。暁は睦月を膝に座らせる。
 最初に出てきたのは面を付けた語り手だった。彼が舞台の中央に座ると、また拍子木が鳴る。
「これより皆々様に御覧に入れますのは遥か昔の物語でございます」
 ゆっくりと、腹の底から響く声。拍子木の音。
「ここはツクモの地。荒れた大地の果てしなく広がる厳しい土地でございました。一方ツクモの西には肥沃なる土地の広がる大国が横たわっていたのでございます。さて、ここはツクモの村長の家。長には二人の男児がおりました」
 そして語り手は舞台の下手へ下がり、上手から村長と二人の男児役の三人が現れる。
 暁はうろうろと視線を彷徨わせた。
 これは、何だ。
 ツクモの地、兄と弟、そして西国。これは、あの芝居ではないか?
 しかし話し掛けたかった針葉は榎本の向こうに座っていた。暁はまた舞台に目を戻す。
 村長は西国へ赴いて訴える、ツクモの民に土地を分けてほしい。しかし西国の長は蛇王との異名を持つ冷徹な男だった。彼は村長の言葉を聞き入れず殺してしまう。村長の子である兄弟は怒りに震え、必ずや暴君を打ち倒すと誓うのだ。二人は西へ行軍を続ける。兄は荒らかに勇猛果敢に、弟は粘り強くしたたかに、蛇王と戦う。しかし決着は付かず、兄弟は疲弊していく。
 そして彼らは決意する、道を分かとう。二手に分かれて必ずや蛇王を亡き者にするのだ。
 最後に兄が弟のいる方へ刀を持った腕を振り上げ言う、「オトゴ懐かし彼岸の彼方」。続けて弟が刀を振り上げ、「ヒクラビ懐かし此岸の彼方」。
「いずれ必ずやカガチの国討ち果たさん!」
「水のハハ滅ぼし再び巡り合わん!」
 二つの刀が天を指し、動きを止める。
 拍手が沸き起こった。茣蓙の上の人々から、立ち見をしていた人々から、いつまでも鳴り止まぬ音。睦月も嬉しそうにぱちぱちと手を叩く。
 やがて茣蓙から一人二人と立ち上がり、去っていく。暁は膝から睦月を下ろして針葉の袖を掴んだ。
「ねえ、今の。針葉、分かるよね」
「同じだったな」
「どうして。だってあれは季春座の」
 二人に挟まれた榎本がそっと身を避けて睦月を捕まえた。針葉は困惑する暁にふっと笑みを返す。
「別に、ただの芝居だろ。似た筋のもんがあるなんてよくある話だ」
「似てるどころじゃない、全く同じだった」
「だとしてもだ。季春は前に亰の一座と合同公演したって聞いたぞ。そうやって同じ筋が広まったって不思議じゃない」
 そう言われると否定はしきれなかった。何よりこれは、織楽が持っていた朽ちた絵物語にもある古い話なのだ。あの絵物語が飛鳥にも存在しないと、どうして言い切れるだろう。
「それより俺が気になったのは最後だな。あれは季春のには無いだろ。かがちのくに、とか何とか」
「カガチは蛇のことだよ。西国のことを言ってるんでしょう」
「じゃあその次のは。水の母って聞こえたが、親殺しか何かなのか」
「御覧になるのは初めてですかな」
 二人の会話に割り込んだのは、まだ茣蓙に腰を下ろしたままの老人だった。すっかり馴染んでしまった睦月が「ついてるよ」と老人の顔のしみを指で押さえ、榎本が慌てて止めさせる。
「あ……、すみません、ちょっと気になって」
「ハハも同じですよ。蛇のことです」
 老人は笑顔で睦月に手を振り、ゆっくりと腰を上げて茣蓙を後にした。茣蓙の上に残っているのは、もう数えるほどの人数しかいなかった。
 四人も茣蓙から草むらに出た。針葉がまた睦月を肩の上に乗せる。
「そんならまあ分かりやすいか。最後まで蛇憎しって話だろ」
「そうなんだけど……」
 カガチの国、水のハハ。
 蛇の国、……水の、蛇?
 引っ掛かるものを感じつつ暁は季春座の芝居での最後の台詞を思い出す。確かあちらは弟が先に、兄が後で呼び掛けていたはずだ。こちらとは逆だ。それに。
「彼岸と此岸が逆だ」
 突然足を止めた暁を、針葉がしかめっ面で振り返る。
「んな細かいことまでよく気付くな」
「だって。坡城ではヒクラビが向こうでオトゴがこちらで、飛鳥では逆にオトゴが向こうでヒクラビがこちらで……入れ替わっている? 視点が逆? 坡城にオトゴがいて飛鳥にヒクラビ?」
 始まったよ、と呆れ顔で針葉は榎本に目配せする。そして茶化すように、「じゃあ暁大先生、そのオトゴとヒクラビとやらは何なんだ」
「そんなもの。オトゴは、兄がそう呼び掛けるんだから弟児のことでしょう。じゃあヒクラビは兄……日比び、昆弟? ああ、なんだ、やっぱり兄弟のことだ」
 針葉はぎょっと目を剥いた。
「だから坡城に弟がいて、飛鳥に兄がいる……って読み取れるんだけど、じゃあそもそも兄弟のいたツクモって」
 ツクモ。暁は口の中で唱える。ツクモ、ツクモ。
 土蜘蛛。
 暁はぎょっと思考を止めた。唐突に浮かんできた言葉に、自分が一番驚いていた。
 待て、それはあまりにも突飛すぎる。
 しかし、……似ている。
 暁は、東雲の宿で浬と交わした会話を思い返す。旧壬国史の描かれた時代、壬と東夷、つまり土蜘蛛との争いがあった。その頃の壬は、今の東雲をすっぽり包むほど大きい国だったが、東夷から中心地である西を護るため、国の東側を切り分けて盾となる東雲を作った。
 もしツクモが土蜘蛛のことだとしたら、あの兄弟が戦った西国とは。蛇王とは。
 ――壬しか無いではないか。
 絵物語では西の沼に棲む大蛇。芝居では水の蛇。それは壬の水信仰、龍神信仰を表したものではないのか。
 暁は胸に手を当てた。どくんどくんと押し返してくる強い鼓動。ぐっと目をつむって息を整える。
 では兄弟が二手に分かれるのは? そこで唐突に物語が終わっているのは?
 それはあの絵物語や芝居が現実を写し取ったものだから。飛鳥と坡城に分かれて、今まさに両側から壬を打ち取らんとしているところだから……なのでは。
「おかーさん?」
 睦月の声ではっと我に返る。針葉が怪訝そうに、榎本が心配そうに彼女の顔を覗き込んでいた。
「あ……、あの、神楽って神社に縁の深いものだと思うけど……この近くの神社を見に行ってもいいかな。祭神って何なんだろう」
「坡城の祭りは神社に縁もゆかりも無いけどな。ここのはそうなのか?」
「あ、でも神社も近くにあるみたいでしたよ」
 榎本が指したほうへ、暁は大股で歩き出す。人の流れを逆流して、木にぶつかりそうになりながら足を前に出す。その途中で針葉が強く腕を引いた。
「わ」
「そっちじゃない」
 彼が示したのは木々の中を行く暗い道だった。暁は眉をひそめつつも道を折れて草むらの中を進む。虫の声。喧騒が後ろへ去っていく。
 程なくして砂利道となり、石段が現れた。灯りは無い。所々の石も欠けて草が生えている。祭りの賑々しさからは置いてけぼりで、坡城の神社と同じ寂れ方だ。
「針葉、今の道知ってたの」
 針葉が振り向いた、その顔は驚きに満ち、今気付いたと言わんばかりだった。信じられないものを見るように、ゆっくりと石段のほうを向き直る。
 彼は何も言わずに石段を上り始めた。暁も続き、榎本の足跡が最後に続いた。
 上り終えたところで針葉が睦月を地に下ろした。暁も遅れて最後の一段を上りきる。
 暗く静かな場所だった。後ろで提灯がいくつも並び、音が溢れているのとは裏腹に、誰の姿もない。敷石は所々外れ、草が生い茂っている。ひっそりと立つ鳥居の注連縄は切れて垂れ下がっていた。その向こうに佇む影が拝殿らしい。
「祭神どころか……」
 榎本が溜息を吐く。これではただの廃墟だ。
 暁は両脇にある石の台座に触れた。神使の像でも飾られていたのだろうか、今は跡形も無い。
「狛犬か」
「分からない。狐を飾るところもあるようだし、壬は龍だったけれど」
 針葉はうろうろと歩く睦月に目をやりながら、「坡城は蛇みたいなのがあったぞ」
「蛇?」暁の反応は早かった。「坡城って、いつものあの神社だよね。蛇の像なんて飾られていた?」
「いや、あそこもここと同じだろ、朽ちて寂れて。あそこの拝殿の中に投げ捨てられてた。暗かったし割れてたから確かじゃないが、少なくとも狐や狛犬じゃあ」
「龍……?」
 沈黙。それを打ち消すように、ひゅうと音が響き、腹に響く低音とともにぱっと夜空に花が咲く。
「おかーさん、あれ! あれ!」
「花火ですよ。一緒に見ましょうか」
 榎本はちらと二人を振り返り、睦月の隣にしゃがんで空を見上げる。
 向かい合う針葉と暁は、花火の音に合わせてぱっと顔の片側が照らされては消えた。
「龍……に見えなくもなかった。そう思ったこともあった。お前の正月飾りを見たとき。でもあの神社は壬からも離れてるし、そんなはずないと」
「元々壬だったとしたら」
 針葉の怪訝そうな顔。無理もない、さっき暁の頭の中に渦巻いた奔流を、彼はまだ見ていないのだ。
「榎本さんが持っている壬五家の載った地図は、今はもう通用しない。同じように、あの地図も昔の勢力図が書き換わった後のものだ。数代昔がどうだったかは分からない。飛鳥だけでなく坡城も、削り取る側だったとしたら」
 江田家は過去に史書を焼失した。旧史には触れられていない部分がある。
 ――兄は荒らかに勇猛果敢に、弟は粘り強くしたたかに。
 誰の記憶からも消えたそれは、北方にて苛烈な攻撃を繰り返す飛鳥の陰で、南方から着実に領地を抉り取る坡城の姿だったのでは。
 花火はまだ続いている。針葉は拝殿のほうに顔を向けた。
「あの中も見てみるか」
 大股で歩んでいく彼を、暁も追う。ちらと振り返った榎本と睦月は、夜空に人差し指を突き付けて花火に熱中していた。
 鳥居をくぐって拝殿へ向かう。敷石がぐらついて音を立てる。石段を五つ上り、格子戸の前に辿り着いた。暁は頭上を見る。鈴緒が朽ちて落ちたか、鈴も既に無かった。
 針葉が戸に手を掛ける。それはごとりと軋みながら呆気なく横に滑り、細い隙間を見せた。
 針葉が暁を見る。暁が頷くのを待って、彼は再び腕に力を入れた。
 何度か引っ掛かりながら戸が開く。中は暗闇だ。
 後ろで花火が開いた。ぱっと目の前が明るくなり、腐った床に二人の影が映る。
 何も無かった。
 暁は自分の胸に宿っていた熱がすっと散りゆくのを感じていた。今はこれ以上解き明かせない。この神社で調べられることは、これ以上無い。
 戸の向こうはまた闇に沈む。針葉はゆっくりと戸を閉めた。
「……戻るか」
 花火はそれから数発上がって終わり、四人は祭りの群衆に混ざって帰路についた。誰も何も言わなかった。
 川沿いには涼やかな風が吹いていた。睦月は宿に帰り着く前に針葉の背中で寝息を立て始めた。



 榎本はそれからも数日おきに烏の拠点である巴屋に行っては、路銀を受け取り、物や情報を調達していた。そして季節は秋に入り、暑さの中にも蝉の鳴き声が変わり始めたのを感じる頃、彼は人を連れ帰ってきた。
 最初に気付いたのは針葉だった。ぴくりと身を起こして睦月の手の届かない高さに吊るしていた刀を取る。
 暁は疑わしげに襖を指差したが、針葉は何も答えない。やむなく暁は睦月を抱き寄せて待つ。
 足音が近付いて榎本の声がした。「暁さん、開けてもいいですか」
「ナツ。お前、誰といる」
 おー、と襖の向こうから榎本の声。襖が開いて、彼の後ろに立っていたのは牙だった。
「さすが兄貴だ。ほら旦那、あれがハルの兄貴です。暁さんも、どうも遅くなりまして」
「誰だそいつは」
 針葉は左の親指を鍔にかけ、今にも鯉口を切らんとしている。その肩に触れたのは暁だった。
「下ろして。黒烏筆頭の牙だよ」
「あぁ?」
「ここの宿代とか針葉のご飯代を出してくれている人!」
 針葉は鼻白んだ表情になり左腕から力を抜いた。牙は小さく笑って畳の上に腰を下ろす。
「暁殿、睦月殿も御健勝そうで何よりです」
「おぶたさいちょります!」
「御無沙汰しております」
 針葉はまた刀を吊り下げながら牙を睨んだ。あの妙な挨拶はあいつが仕込んだのか。
「そちらも滞りなく進んでいると聞いているけれど……何かあったの」
「私の方は一定の区切りが付きましたので、至たちに後を任せて伺った次第です。暁殿と睦月殿の御様子を拝見したかったのと」牙は後ろで腕組みする針葉に目を向け、「彼と一度話がしたいと思いまして」
 部屋中の者の目が自分に集まり、針葉は眉を上げた。
「俺?」
「宜しいかな」
 牙は隣の部屋を目で合図して立ち上がった。針葉は鼻頭に皺を寄せてその後に続く。その袖を素早く掴んだのは暁だ。
「喧嘩しないでよ」
「話による」
「喧嘩しないでって!」
 暁の声を襖で遮る。隣の部屋に入った針葉を迎えたのは、牙の左右非対称な笑みだった。
「血の気の多い男だと聞いていたが、なるほど確かに」
「……筆頭とやらが赤烏一羽ごときを知ってるとは、黒烏も暇になったもんだな」針葉は彼の前に胡坐をかき、「そうか、大事な大事な豊川家の娘に手ぇ出したからか」
「煽ったつもりか」
 牙は両目を閉じたが、その口元にはまだ笑みが漂っている。
「怯えるな。お前の命を取りに来たわけではない」
「誰が怯えて……」
 針葉は言葉を切った。牙が、頭を深く下げたからだ。
「遅くなったが、まずは暁殿を護ってくれたことに礼を言おう。壬の大火が起こったとき、我々はあの方をお救いできなかった。本邸、別邸と回って閑ノ地へ辿り着いたとき、既に暁殿は分家の惟直殿に連れ去られた後だった」
 頭を下げられるのも居心地悪く、針葉は腕を組んで視線を逸らす。
「別に豊川の女と知って連れ帰ったわけじゃねえよ」
 頭を上げた牙はやはり目を伏せ、その唇には笑みがあった。奇妙な男だと針葉は思う。まさか黒烏筆頭自ら出てくるとは思いもしなかったし、斬りかかられるどころか礼を言われるとは。
 黒烏の総意とこの男の思惑は違うところにあるのでは。そう思ったとき、牙は針葉に目を向けた。
「先の当主殿に知れたら私の首は無かっただろうな。しかし、私一人の思いとしては、あの方が選んだ道なら口出しはしたくなかった。賭けだった。そしてその結果、睦月殿は無事にお産まれになり、今まで健やかにお育ちだ」
 彼の言葉の意味するところに気付き、針葉はごくりと唾を呑んだ。
「豊川の血族婚のことか。兄が不具だったっていう」
「豊川家は旧三家の一つでありながら忌まれる。あまりに血が濃くなりすぎた。……暁殿の母君は名を槙野殿という。豊川家の血筋だ。八人の御子をお産みになった。うち三人は人ならざる見目をし、産まれて一日で息を引き取られた。他の一人はひと月で、二人は一年足らずで。残る二人が惟道殿と暁殿だ」
 津山家の男の声が蘇る、水蛭子が次々産まれてこっそり始末してたんじゃ――
「そしてその他に、産声を上げずお産まれになったのが二人、流れたのが五人」
 針葉の背を嫌な汗が流れ落ちた。八、二、五、合わせて十五。そのうち不具なく育ち子を成したのは、暁ただ一人。
「分家の惟直殿の母君は市井の女だった。当主殿なりの賭けだったのだろう。しかしそれでも、育ったのは惟直殿だけだった。……先の当主殿は、東雲を見張るという口実で暁殿を豊川家から出そうとされた。それまでの慣いに従えば、惟道殿、もしくは惟直殿に暁殿を娶せることとなる。しかしそうなったとき、その先は無いとお分かりだった」
 そうして徐々に血を薄め、健やかな子が望めたなら養子にでもするつもりだったのだろうか。針葉は顔をしかめて黄色く焼けた畳を見つめる。
「結局は家、家、家だな。血族同士で結びついた代々の豊川も、それを転換させたあいつの父親も。お前もだ。どこの者とも知れぬ赤烏でも、産まれた子さえ丈夫なら万々歳ってか。俺はあいつの出自なんぞ知らなかった。豊川の存続のためにあいつと一緒になったわけじゃない」
「私が暁殿の御子の無事を願ったのは、豊川家のためではない」
「あ?」
 牙は目を伏せている。懐かしむように、憐れむように。
「槙野殿はお優しい方だった。豊川家にとっては駒にすぎぬ我々一人ひとりの名を覚え、話し掛けてくださった。惟道殿のことも、初めは槙野殿自らが献身的に世話なさっていた」
 その目がゆっくりと閉じる。
「不憫な方だった。相次いで御子を亡くされるうちに心を病まれ、暁殿のことは、自ら抱くことも叶わなかった。年に四回の雨呼びを心の支えに生きておられる有様だった。暁殿の歳が三つを数え、健やかにお育ちと知って、ようやくあの方は子を亡くす苦しみから……失くす子を産む苦しみから解放された」
 牙の目が開いて針葉を見据えた。
「暁殿が何事もなく睦月殿を抱けたことが、どれほどの奇跡か」
 針葉は、今は言葉を失い、ただ牙の話を聞いていた。暁たちは表へ出たらしく、窓の下から睦月の元気な声が飛び込んでくる。針葉の目がすっとそちらに引き寄せられた。牙も追って視線を向け、ふっと肩の力を抜いて「それに」と続ける。
「全く素性の知れぬ赤烏というわけでもあるまい。お前は前羽が拾った子供だろう」
「前羽……? 長を知ってるのか」
「奴と後羽の二人は腕が立ち、よく働いたそうだ。赤烏ではあったが、私の祖父の代の牙からのお気に入りだった。ちょうど私が榎本を使うようにな」
 長とナツでは随分違うように思ったが、針葉は口を挟まず続きを促す。
「しかし奴は後羽が命を落とした後からほとんど仕事を受けなくなった。戻って来るようしつこくつついてみたら、ようやくお前を連れて豊川の邸に姿を見せたらしい」
「俺を連れて?」
「私はそのとき幼いお前を見ている」
 針葉は思わず身を乗り出して大声を上げた。
「嘘だろ、長が俺を連れて遠出したのなんて……」
 黄月を拾ったときくらいしか。
 針葉は記憶の糸を手繰る、黄月はどこにいた? 枕探しの罪を着せられた父を追って豊川の仕置場に、そしてそれを針葉と前羽が見付けたのだ。黄月との出会いが鮮烈すぎて薄れていたが、その直前、針葉は確かにどこか退屈な場所へ連れて行かれた。前羽は珍しく丁寧な口調で、偉そうな男と何か話していた。
 思い当たった表情の針葉を認め、牙は口元を緩めた。
「子がいては仕事は受けられないと断りに来たらしい。拾った子を手元に置いて、気まぐれな奴だと父は笑っていた。自分の子は遠くに放り置いたくせにと」
 針葉は肩を竦め聞き流す、その途中でささくれた棘に触れた。この男は今、何と言った?
「自分の子? そう言ったな今。長にゃ子がいたのか」
「お前、知らずに……?」
 前羽は針葉とは四十ほど歳が離れていたはずだ。子の一人や二人いてもおかしくはない、だが彼の口からそれを聞いたことは一度として無かった。前羽と長年の付き合いだったはずの斎木からも聞いたことがない。
「お前は知ってんだな。どんな奴だよ。黒烏にいるのか、それとも赤烏か」
 衿首を掴んで詰め寄る。しかし牙はふっと笑って針葉の視線を受け流しただけだった。
「話し過ぎたようだ。あえて聞かせることでもなかった」
 緩く結ばれたその口から、それ以上の言葉は漏れて来ない。分かっている、この男に脅しは効かない。それでも針葉は牙の衿から手を離せずにいた。
 牙が針葉の手首を掴んで引き剥がす。それでも針葉の目は向かい合った男から離れない。
 たった数年だった。しかし前羽は針葉をあの狂った家から連れ出し、横になって眠れる場所を、共に暮らす者を、言葉を与えてくれた。人と関わるということ、刀の使い方、銭を稼ぎ生きること、全て前羽が教えてくれたのだ。
「そう睨むな。代わりに一つ教えてやろう」牙は衿を整えながら言う。「後羽を亡くして亰を出た後、どこへ動いても奴が逗留したのは烏の拠点の傍だった。亰の三輪屋からの報せを待っていたらしい。そして菱屋に移る以前、奴が顔を出していたのは巴屋だった」
 菱屋は坡城の家の近く、そして巴屋はこの近くにある烏の拠点だ。この男は何を言いたい。針葉が頭を整理し終わる前に牙は立ち上がり、その脇を抜けて襖へ歩んだ。
「お前はこの辺りに見覚えがあるか」
 針葉がようやく振り返ったとき、襖は音もなく閉まるところだった。