紅花はその朝、重い腹を抱えながら店の前を掃いていた。ふと顔を上げると、早足でこちらへ向かってくるのは浬ではないか。
 視線が合う。浬が歩みを緩める。通りに人影は無く、早朝の清々しい空気に満ち満ちていた。鳥の囀りが聞こえる。一歩一歩近づく、互いの表情が柔らかさを増す。
 感動の再会となるはずだった。なのに。
「……どうしたの、そのお腹」
 視線を下げた浬が目をひん剥いて紅花の膨らんだ腹を指したものだから、紅花も思わず箒を地面に放り捨てて、
「あんたのややが入ってるに決まってるでしょ!」
 そう叫ばざるを得なかったのだ。
 浬は小間物屋の裏戸に面した土間で盥に湯を張り、脚を拭う。表からは雇っている女と客の声が聞こえてくる。よく喋るはずの紅花は今、無言で茶を淹れていた。湯呑をずいと突き出すと、口を不満げに尖らせたまま手拭いを広げる。
「だから、単純に驚いただけだよ。忘れるわけないだろ。もう産み月なの」
「まだ先。秋くらいじゃないかって」
「暁より随分大きく見えるね」
「里さんは、二人入ってるんだろうって」
「二人!?」また目を剥いて振り返った浬は、紅花が差し出した手拭いを今気付いたように受け取った。
「確かにね、ぐにょぐにょ色んなとこで動くなぁとは思ってたのよ。でも一度に二人ねえ……。実はつわりが明けてから、とにかく色んなものが美味しくてさ。ちょーっと食べすぎちゃったんだけど、まさかそれで一人増えたなんてことは」
「冗談で言ってるんだよね?」
 紅花は肩をすくめた。彼女に似合わない下手な笑顔が剥がれ、視線が落ちていく。
「着るものも食べるものも倍でしょ、おっぱいもおしめも夜泣きも二回分。もう想像するだけで怖くなっちゃって」
 この少女は肝が太いように見えて、意外と心配性なのだ。浬は笑って紅花の背中をさする。
「まあまあ、今心配したって仕方ないよ、まずは無事に産んでから。きっと嬉しさも倍になるよ。それに僕もいるからね」
 紅花もふっと微笑んだ、ところで静が土間から続く戸を開けた。
「花ちゃん、この前言ってた飾り太刀って届いてる?」
「あ、まだ。季春座のぶん? 届いたらこっちから持ってくって伝えて」
「分かった。……あら、そちら旦那さん? 帰ってきたのね。ご無事そうで良かった」
 引っ込もうとした体をもう一度乗り出して、静が浬を見た。浬も会釈を返す。
「初めまして、静さんですね。とても気の付く方だと聞いています。妻の体も気遣ってくださっているそうで、有難うございます」
「あ、ううん、そんなそんな。あの、あたし何も見てませんからっ」
 静ははっと態度を変えて戸を閉めた。唐突すぎる退場に、浬が呆気に取られて紅花を見る。
「……ちょっと変わった人?」
「あたしが黄月と逢引したと思ってんのよ」
「え」また目を剥く浬を紅花は軽く睨み、「本気にしないでよ、ただの誤解なんだから。こんなお腹の大きい女が好みって人がいたら会ってみたいわよ」
「あのね紅花ちゃん、世間は広いし色んな嗜好があるんだから、滅多なことは言わないほうが」
「そんなとこ食い付かないでよ」
 再会の風情もあったものではない。紅花はよいしょと立ち上がり、ふと振り返る。
「暁と睦っちゃんは? 家に向かっちゃったのかな。向こう全然片付けてないんだけど」
「あ、ううん。無事知り合いに会えて、しばらく向こうに留まるみたいだ」
「そうなの。……なんか残念、暁も驚くと思ったんだけど」
 紅花は自分の突き出た腹を撫でた。右上にいる子が今、ぐにょっと動いたところだった。



 夏至を数日過ぎた夕、紅砂は道場を出て小間物屋へ向かった。
 浬が遠出から帰ってひと月。今まで紅砂がしていた小間物屋の雑務を含む家事は、浬が受け持っていた。紅砂は今までどおり正骨師として道場通いの暮らしに戻り、眠るためだけにひと気の無い家へ帰る日々だった。家に住み着いていた猫は、知らぬ間にどこかへ去っていた。
 紅砂にくっついていた静とも交わす言葉が少なくなり、最後に約した今日の夏祭りが終われば、もう会うことも無くなるかもしれなかった。
「あ、お兄さん」
 店仕舞いをしていた静が手を振り、紅砂も会釈を返す。
「良かった、忘れて帰っちゃったらどうしようって」
「約束してたことなので」
 含みのある笑みの浬に見送られながら、夕焼けに向かって歩く。ぞろぞろと男女連れや親子連れが多くなり、囃子の音が聞こえる頃には、蒸し暑さよりも人の熱気で汗が噴き出した。
「今年ってほんと暑い。お兄さん、団扇取ってもらえます」
 静は帯に団扇を挿していた。彼女はそれで自分ではなく紅砂を煽ぐ。
「俺はいいですよ。……あ、すみません、汗臭いかな。男だらけのとこにいたので」
「花ちゃんに聞きましたよ、道場! ね、あたしも見に行っていいですか」
「面白いもんじゃないですよ。俺は別に人を投げ飛ばしたりしてるわけでもないし」
「ほら、またはぐらかす。あたしはただ、お兄さんが普段どんな顔してるか見たいだけなのに」
 紅砂は口元だけで小さく笑って、ずらりと並ぶ露店に目をやった。静は真っ直ぐに好意をぶつけてくる、しかし自分には応え方が分からない。静のことは明るく楽しい女だと思う、話していて思わず笑ってしまうこともある。だが彼女がこちらに近付けば近付くほど、彼女の良さを知るほど、どこを向けばいいのか分からなくなるのだ。
 いっそ誰か別の男と幸せになってくれれば、心から祝福できるだろうに。
「露店から回りますか」
「そうね、まずは露店で、季春のお芝居が始まったらそっちも見たいんです。で、色々食べ歩いて、最後は花火」
 目の輝かせ方が紅花と同じだ。紅砂は笑って彼女に付き従う。人の頭の波の向こうに見える注連縄の張られた場所が季春座の舞台のようだった。いくつか見世を冷やかしながら足を進め、的矢を見付けると静は大喜びで走っていった。
「あたし上手いんですよ。見ててくださいね」
 自分で言うだけあって弓を引く姿は様になっていた。矢がひゅっと飛んで的に見事当たる。静は飛び跳ねて喜び、また弓をつがえる。腕を組んで意外な一面を興味深く見守っていると、肩を叩く者があった。
「お前も来てたん」
 嬉しそうに言ったのは織楽だった。髪を引っ張られるのも気にせず娘を肩車し、小さな膝と背中を押さえている。その後ろからは果枝も顔を出した。
「いいな、家族で祭りか。この子が、えっと」
「梨枝。りっちゃんって呼んでなぁ、おっちゃーん」
 織楽は幼子の手を持って振ってみせるが、当の本人は紅砂よりも露店の明かりに興味津々のようだ。早速父の手を振り払って何か指差し、あ、あ、と主張する。
「産まれてから一年ちょっとか、大きくなったな。どっちかというと果枝さん似かな」
「そやねん、皆そう言う」
 織楽はしゅんと拗ねたように言い、辺りを見回した。「他に誰か来てんの。紅花?」
「いや、あいつは腹が張るからって浬と留守番してる」
「浬帰ってきたん! 良かったなぁ、紅花喜んだやろ。ほなまた顔出さななぁ」
 織楽が益々嬉しそうに言ったとき、「お兄さん、見ててくれました?」腕一杯に人形や風鈴や面を抱えて静が現れた。紅砂は目を丸くして、いくつかこぼれ落ちそうな物を受け取る。
「どうしたんです、これ」
「あ、やっぱりよそ見してた。全部あたしが取ったんですよ」
 彼女はそこで傍らの織楽たちに目をやり、あっと口を開けた。
「季春の役者さん!」
「はぁい、季春の役者さんです。夏は休業中やけど。紅砂どしたん、えらい別嬪な妹さん連れて」
「紅花の店で働いてくれてる人だよ」
 にやにや笑いの織楽に静の紹介をしている間に、静は果枝に景品の数々を持たせ、梨枝にも一つ小さな人形を渡した。梨枝は人形の頭を掴んでじっと眺め、おもむろに鼻に噛み付いた。
「やだ。駄目でしょ梨枝、せっかくいただいたのに」
「いいですいいです、気に入ってくれたみたいだし。可愛い。奥さん似ですね」
「よう言われます」
 賑やかに時は過ぎ、拍子木が鳴ったところで紅砂と静は注連縄のほうへ急いだ。季春座の芝居が始まるのだ。
 まず語り手が現れて話の背景を歌うように話し、続いて旅の兄弟が現れる。観客の大半にとっては何度も見た筋だろうが、祭りの浮き立った雰囲気も相まってか、皆舞台に引き込まれていた。西国の暴君に立ち向かう場面では掛け声が飛び、兄弟が道を分かれ旅立つ場面では目頭を押さえる者も見られた。
 最後に弟が兄のいる方へ刀を持った腕を振り上げ言う、「ヒクラビ懐かし彼岸の彼方」。続けて兄が刀を振り上げ、「オトゴ懐かし此岸の彼方」。
 割れんばかりの拍手が沸き起こる。同じ芝居を続けてもう一度演じるようだったので、二人はその場を離れた。人込みで汗ばんだ体を、川沿いの涼やかな風で冷ます。
「あー、良かった。毎年同じなんだけどつい見ちゃうんですよね」
「ここの祭りの風物詩ですね」
「でもね、あたしいつも思っちゃうんですよ」静はふふっと笑い、「最後の一番いいとこあるじゃないですか。弟が兄に彼岸の彼方って言って、兄が弟に此岸の彼方って言うなら、結局二人は離れてるのか一緒にいるのか分かんないって」
「ああ、確かに。そもそもオトゴは弟って意味で合ってますよね。じゃあヒクラビは兄かな。兄が向こうで弟がこっち……とすると、弟から見た話なんでしょうか」
 紅砂が相槌を打つと、静は驚いた表情で彼を見つめ、恥じらうように自分の口元を団扇で隠した。
「やっぱりお兄さんって面白い。こんな話まともに聞いてくれる人なんていないですよ。芝居の台詞を一々考えるな、なんて怒られたりして」
「怒ることないでしょうに」
「ね」
 静は照れ隠しのように歯を見せて笑った。ふと紅砂が袂を探り、簪を一つ取り出した。静が足を止める。
「それ」
「あ、いや、深い意味は無いんですが ……さっき織楽の娘に色々くれたでしょう。礼になるか分かりませんが」
「選んでくれたんですか。あたしに?」
「いや、その……趣味に合うといいんですが」
 静が受け取ったそれは素朴な玉簪だった。つるりとした硝子の中にニチリンの花があしらわれ、一本だけ垂飾りが揺れている。
「夏の花……」
「前に春の花はあまり、と言っていたので。静さんに似合う季節を考えたら夏かな、と……あの、気に入らなければ捨ててもらっても」
 静はくるりと紅砂に背を向けて簪を肩越しに差し出した。「付けて」
「今ですか。でももう挿しているものが」
「そんなの外してください。今付けてほしいの」
 静の豊かな長い髪は、途中で輪を描くようにゆるやかに結わえられていた。紅砂は今挿されているものと重なるようにニチリンの簪を挿し、もう一本を慎重に抜き取った。
 静が振り返る。垂飾りが揺れる。
「ニチリンって花火みたいでしょ。今付けなきゃ勿体ないもの」
 太鼓の音が響く。ぞろぞろと人の波が動いていく。辺りはいつしか宵闇に包まれていた。
 ひゅうと甲高い音が長く長く続き、夜空にぱっと弾けて散る。続けてもう一つ、もう一つ。二人は堤に腰を下ろして花火を見た。それは確かに、大きく華やかなニチリンの花を写し取ったように見えた。
「大事に想ってる人とも、前にこうやって花火を見たの」
 夜空を見上げたままぽつりと静が問う。
「え。いえ、見てないです」
「じゃあお祭りだけ」
「祭りも来てないですよ」
 静は空から紅砂に視線を移す。音に合わせて明るく染まる横顔を見つめ、見つめ、とうとう眉根を寄せた。
「じゃあどこに行ったの。夏を迎える前に別れたの?」
「いや、……一緒に出歩いたことはほとんどありませんでした」
「体の弱い人だったの。病で亡くなった?」
「そういうわけでも」
 静は顔をしかめて膝に突っ伏した。「分かんない! お兄さんとその人のこと全然分かりません」
 紅砂も思わず自嘲を含んだ笑みを漏らした。言われてみればそうだ。若菜と外で顔を合わせたのは、初めて会ったときに港の屋台前で話した一度きり。その後は彼女が身を売る店の狭い部屋で数度、彼女が捕われた後は暗く湿った港番の牢で数度、数えるほどの逢瀬だった。唇を交わしたことも肌を合わせたこともない。
 なのに消えがたいのは、きっと彼女を取り巻く思い出全てが鮮烈だから。人別帳、異人、擂り鉢のような里、外つ国の思惑。彼女を救うため按摩取として徳慧舎へ潜り込み、津ヶ浜の離島へ渡り、外つ国の特使の前で織楽と共に舞い、会話を盗み聞いた。上申書を書き上げた。
 何のことはない。自分がしがみ付いているのは、自分が必死だった記憶なのだ。救おうとした彼女に救われたときと何一つ変わっていない。どこまでも独り善がりだ。
「そっか」いつの間にか顔を上げていた静が、ぱちんと両手を鳴らした。
「その人は最後に会ったとき、綺麗なものを色々見せてほしいって言ったんですよね。桜とか紅葉とか、それにお祭りとか花火とか、二人で見に行けなかったから。果たせなかったから心残りなんですね」
 静の横顔も花火の音に合わせて光を浴びている。
「お兄さんは、その人と歩いてきた道を懐かしんでるんじゃなくて、その人と歩む道が欲しかったんですね。ううん違う、今も欲しいんだ」
 違う、そんな綺麗なものではない。
 そう思うのに、彼女のその言葉に縋りたかった。
 紅砂の動揺に気付くことなく、静は頬杖をついてぶつぶつと唇を尖らせる。
「でも、そんなのあたし一生勝てないじゃないですか。無いものは塗り替えらんないんですよ。清らかな思い出はどこまでも美化されちゃって敵いっこないし」
「静さん」
 静が紅砂のほうを向く。垂飾りが揺れる。
「俺の呼び名なんですが。織楽はふざけてああ言っただけですが、お兄さん、だとやっぱり誤解されかねないので」
「あ。ごめんなさいね、癖になっちゃって。こうさ、さん? ……は呼びにくいかなぁ」
せんり
 懐かしい響き。その名を教えたのは過去に一人しかいなかった。聞き慣れない音に静が首を傾げる。
「せんり?」
「俺の祖父は外つ国から流れ着いた人で、母も祖父が拾った混じり子でした。俺が貰った名は外つ国のもので、それを縮めてせんり、それは砂って意味にもなるそうです」
 静の目がゆっくりと見開かれていく。やがて満面の笑みが咲き、「すごい!」紅砂のほうへ身を乗り出した。
「外つ国? 流れ着いた? すごい、一本お話が書けるじゃないですか」
「いや、そんな大層なものでは」
「ね、またきちんと聞かせてくださいよ。お兄さん……じゃなかった、せんりさんの知ってる話、全部聞きたい」
 胸が詰まった。またできるだろうか。話せるだろうか。
 ――次はあなたの昔話でも聞かせてちょうだい。
 いつか、ただ一人にだけ語った話を、他の誰かへ。
 心にはまだあの夏の日が焼き付いている。動き出すには手も足も重すぎる。それでもどうか、新しい一歩を。
 ――港町の蓮とすゆの話をしようか。
 最後の花火がひゅうと上がった。



 戸を引いた中年の女は、客人が黄月と分かって頬を上げ笑みを作った。
「あら秋月先生。この暑いのにご苦労様ですねぇ」
「薬の補充をさせてもらっても?」
「どうぞ上がってくださいな。水出しのお茶があるんですよ、良かったら召し上がってください」
 黄月は一礼して家に上がり込む。茶を待つ間、黄月は女が引っ張り出した薬箱を開けて中のものを数えた。
「腹を壊しましたね。喉も痛めましたか」
「先生には何でも筒抜けですね。うちの亭主が刺身で当たっちゃったんですよ。下の子も咳が長引いて可哀想でねぇ。手元に薬があって助かりましたよ」
 女が湯呑とお絞りを盆に乗せて現れた。黄月は下ろした行李から薬を補充すると、小さな算盤を取り出して額を弾いた。
 財布を閉じた女は、黄月に膝を寄せて内緒話でもするように口に手を当てた。
「でもねぇ、ほんと先生に代替わりしてくれて良かったですよ。斎木先生はねぇ、大きな声じゃ言えないけど、ちょっと近寄りにくいというか。妙な怪我した人が出入りしてるって話もあって、子供がいる身としちゃねえ」
 充分大きな声だった。黄月は小さく笑う。あれだけ家を汚く散らかしたり、若い男の尻を追いかけ回したりして、この程度の言われようなら上々だ。
 戸が引かれ、あどけない声がした。
「母ちゃん、何か食べるもん」
「今お客さんがいらしてるんだよ、ちょっと待ちな」
「待てねえよ、腹減ったもん」
 十に満たないくらいの少年だった。黄月と目が合うと、彼は足を止めて固まった。黄月はにこりと口元だけで微笑む。
「久しぶりだね」
 優しげな口調とは裏腹に、その声には毒が含まれている。女は黄月と子とを見比べて眉を上げた。
「あれ、あんた先生と会ったことあるのかい」
「し……っ、知らねえよこんな奴!」少年は顔をぶんと背け、耳を疑う表情でそろりと戻した。「……先生って?」
「秋月先生だよ。斎木先生の具合が悪いからって代替わりして、間地の家に置き薬してくださってるんだ。お前もこの前飲んだだろう」
 少年の顔に苦いものが広がった。それをじっくり見つめ、黄月は女に視線を戻す。
「実は私の親戚の女の子が、あの子と同じくらいの歳でしてね。読み書きの早い子で、将来を楽しみにもしているんですが、最近ひどくいじめられているようで」
「あらまあ」
「この前は髪を引っ張られ、蹴られ、罵倒され、借りたばかりの本を破られ。子供同士のじゃれ合いとするにはいささか目に余ったもので」
「そりゃそうですよ、可哀想に」
 大仰なほどに顔をしかめて話に聞き入る女の背後で、少年はじりじりと戸の方へ後ずさる。黄月は眉を寄せて悲しげに息を吐いた。
「私の見間違えでなければ、その場にいたのは御子息でした」
「え」
 女の顔の皺が濃くなり、ぐりんと後ろを向いた。ひっと少年が声を上げる。
「あんた……今の話、本当かい」
「しっ、知らねえって言ってんだろ! 俺、そのおっさんもその女の子も見たことねえもん。なあ母ちゃん、実の息子よりこんな怪しい男を信じんのかよ」
「いいや」黄月が立ち上がり、土間の少年を見下ろした。
「その子も震える声ではっきり言っていたよ、君たちにやられたと」
 高みから見下ろされてごくりと唾を呑んだ少年は、しかしそれを聞いて鼻頭に皺を寄せ、笑った。黄月に人差し指を突き付ける。
「ほら嘘だ、嘘吐き野郎だ」
「何が嘘だって」
「声の出ない奴が喋れるわけねえじゃん! おっもしれえ、口のきけない交じりっ子のうえに、嘘吐き野郎の薮医者ととぐるだって、よ……?」
 自分以外が静まり返っていることに気付き、少年の声が徐々に萎んでいく。
 これ以上なく険しい顔で母が近付いてきたとき、彼は自分の失態を知った。

「誠に申し訳ございませんでした!」
 数日後、里の家に三組の親子が謝罪に訪れた。狭い長屋にぎっちり六人並んで親が子の額を畳に押し付ける、その向かいに座るのは黄月だ。ゆきは不安そうな顔で彼の背に隠れている。
「もう金輪際お嬢さんにちょっかいはかけませんので」
「破いたのはその本だけですか。きっちり弁償させてもらいます」
 黄月は頭が並ぶさまを冷たく見下ろした。本どころの話ではない。金では決して買い直せないものを、ゆきは踏みにじられたのだ。
「結構です。今後はゆきに関わらない、その一点のみお守りいただけますか。……お帰りください」
 親子はぞろぞろと頭を上げて立ち上がる。土間へ降りたとき、黄月が平坦な声で言った。
「今後も正しい薬を正しい調合でお届けしたいものです。……お互い、仲良くいたしましょう」
 振り返った親子が見たのは、先ほどと同じところに座って深く頭を下げる黄月だった。夏のさなかだというのに寒気が走り、彼らは足早に長屋を後にした。
 足音が消えて黄月は頭を上げた。ゆきが心配そうに顔を覗き込み、指で問う。「あのひとたち はやくん こわがってたみたい」
「怖がらせちゃいない。仲良くしようと言っただけだ」
「こわがらせちゃ だめ はやくんが かなしいよ」
 この少女の方がよほど大人だ。黄月は苦笑する。しかしどれほどゆきが大人であろうと、集る虫が醜悪なら餌食になるのは彼女なのだ。
 戸が開いて里が入ってくる。「終わったみたいね」
「すみません、お騒がせしました」
 里は板間に座ってゆきを手招き、何事か囁いた。ゆきが頷いて家を出て行く。里は下駄を脱いで板間に上がった。座蒲団にきちりと膝を揃えて座ると、腕を組んで顎を上げ、見据えたのは黄月だ。
「さて、説明をお願いできる? この家の主は私だし、ゆきの母は私なの」
「説明するほどの話でもありませんよ。ゆきをいじめていた近所の子が、罪を認めて謝りに来ただけのことです」
 黄月は小さく微笑む。里は表情を変えずに一度頷き、くっと眉を上げた。
「そう。隼くんはあの子たちを洗い出すために、お爺ちゃんの懸場帳を使って間地を回ったのね」
「使ったというか、あれは先生から譲り受けたものですから。代替わりに伴う挨拶回りは当然のことでしょう。粛々と仕事をこなす中で、たまたまあの子たちを見付けた。それだけです」
 二人の視線がかち合う。部屋を満たす沈黙。ふっと視線を逸らしたのは里だった。転がった団扇を取ってぱたぱたと煽ぐ。
「まあいいわ、今回はゆきも参っていたみたいだから。助けるためにしてくれたことだとは分かってる。……でももう結構」
「結構というのは」
「介入しないでいいって言ってるの。あの子の周りで起きたことは、あの子が自分で解決しなくちゃいけない」
「里さん」
 立ち上がろうとした里の肩を黄月が押さえた。里は上げかけた腰を再び下ろす。
「それはあまりにも冷たくありませんか。ゆきはまだ八つですよ。そのうえ声が出せない。圧倒的に弱い立場にいるのに」
 話し終わらぬうちに、里は黄月の手をぱんと払った。
「そうね、まだ幼いし声も出せない。だからってそれを周りが考慮してくれる? 弱い相手だからこそ、そこに付け込む卑怯者がいるのよ。今回みたいにね」
「だから守ってやらないと」
「守る、いつまで? どうやって? 誰が? あなたが、私が?」
 矢継ぎ早に言葉を繰り出され、黄月はぐっと声を詰まらせた。里はふっと肩で息を吐く。
「私には無理よ。家を空けることも多いし、二六時中あの子を監視したりできない。家に閉じ込めて本だけ与えておけば傷付くことはないかもね。でもそれはすべきじゃない。声が出せないからこそ、人と深く関わるべきだと思うのよ、違う? そのうえで傷付いたり不当な目に遭うのなら、あの子が自分で周りに訴えて変えていかなきゃいけない。身振り手振りでも指文字を書くでも、どんな手を使ってでも、あの子自ら」
 黄月はじっと里を見つめた。この人は強い、そしてゆきを強く育てようとしている。それが書類上とはいえ母となった彼女の覚悟なのだろう。非情にも見える、危うくも見える、痛々しくも。ゆきの母と声を奪った責任を、この身一つで引き受けようとしている。
 しかし。
「里さんの気持ちは分かりました。でも、俺が関わってはいけませんか。ゆきを守りたいと思うのは間違っていますか」
 黄月はゆっくりと言葉を繋ぐ。
「里さんの仕事のことは理解しています。でも俺は日を調整しやすい仕事ですし、今までだってそうやってゆきを預かってきました。里さんが一緒にいられないぶんは俺が一緒にいます。甘やかすばかりではいけない、その通りです。でも突き放すばかりではゆきが潰れてしまう。安心して帰れる場所も必要でしょう」
「あなたがその帰る場所になるとでもいうの」
 里は黒々とした双眸で挑むように言う。
「いけませんか」
 里はまた団扇を取って煽ぎ始めた。耳に掛かった黒髪がふわりと揺れる。
「……無理だと思うわ。あの子が生きる限り続くのよ。生半可な気持ちで手を出してほしくない」
「どうして。俺もゆきの母の代から事情を知っているし関わっています。里さんと立場は同じはずでしょう」
「同じ? 面白いことを言うのね」
 強く冷たい声。黄月の鼻に団扇が突き付けられた。
「私はあの子の母になった。もう一生外れない楔よ。あの子と暮らし、あの子を食べさせ、あの子が一人で生きていけるまで世話をする。あの子の命を背負っていく覚悟をしたの」
 つっと黄月の背を汗が流れ落ちる。
「じゃああなたは何。あの子の何になれるというの」
「俺は……」
 その団扇を払いのけることはできなかった。里がゆっくりと視線を下ろし、また団扇を煽ぐ。
「……隼くんのためにも言ってるのよ。いずれ添い遂げたくなる人とも出逢うでしょう。自分の子も欲しくなるでしょう。そうなったときに自由に動けないんじゃ辛いわよ」
 じゃあ、あなたはどうなんだ。
 添い遂げたくなる相手と、自分だけは出逢わないつもりか。人の子を取り上げるばかりで、自分の子を産みたいと思わないのか。
 頭の中に浮かんだ台詞はどれもこれも青臭く、自分より長く生きて多くのものを見てきた彼女に言えるものではなかった。
 たとい言えたとて、彼女は笑って横に首を振っただろう。
 黄月は苦々しい思いを抱えながら、その場を後にするしかなかった。