邸の裏門を抜けるとすぐに木々が立ち塞がった。榎本は息も落ち着き、今炎の肩に担がれているのは裏門の門番だった。
「本当にこっちに消えたってのか」
「ほ、本当ですよ。今日は色んなお客人が集まるって聞いてましたけど、それにしちゃ若い娘さんで、妙に急いでるもんだから声を掛けたんです。でも振り向かずに行ってしまって」
 突然攫われて目を白黒させていた門番は、舌をもつれさせながら答える。
「その人が抱えていた荷は子供のように見えましたか」
「子供って言われりゃ確かにそんな大きさでしたが……えっ、ありゃ子盗りなんですか」
 暁は唇を強く噛んで木々の中を進む。行く道には確かに人の通った跡があった。
「と、とにかく放してくださいって! ここから先はほとんど一本道です。探してるのがあの娘さんならすぐ見つかるでしょう。私は戻ります!」
 炎の肩から降ろされた門番は走って行ってしまった。暁たちはそのまま木々の中を行く。水の音が近付く――木々が途切れて立ち止まる。
「おいおい、これが一本道ってか」
 肩で大きく息をしながら、炎が眼下を覗き込む。山の中に深く刻まれた亀裂、そこに架かる釣り橋は、こちら側が切れて落ちていた。苑が両脇の塔に残った綱を見分する。
「自然に落ちたように見える。この前の揺れで傷んだのか……。向こう側から切ったわけじゃないから、どこか別の橋を渡ったのかもしれない」
 炎が頷いて左手に駆けていく。「では私はあちらを見てきます」苑は右手へ。
 暁は荒く息をしながら、どちらへ踏み出すべきか考えた。そろそろ日が傾く頃だろう、木々に遮られて道は翳り、汗ばんだ肌にしっとりと緑の涼しさがまとわりつく。地面にぽっかりと空いた裂け目、落ちた橋。本当に見付かるのか。どうしてあのとき自分は。睦月はどこに。
「悪いほうに考えちゃ駄目ですよ」
 ぽんと暁の背を叩いたのは榎本だった。
「大丈夫、きっと見付かりますって。さ、どっちに進んでも二つに一つ。暁さん、どっちがいいですか」
 彼の気楽さが今は有難かった。肩に入っていた力がふっと緩む。暁は榎本と共に右の道を進んだ。
 崖沿いにしばらく進んだが橋は無く、苑の姿も見えなかった。揺れの影響か、向かいの崖は所々崩れて谷底の川まで階段状に岩が落ちている。だが流れをせき止めるには至らず、木の葉がゆらゆらと流れてくるのが見えた。
「苑さんも随分遠くまで行っちゃったみたいですねぇ。まだ戻って来ない」
 暁は川を見下ろして考える。すずは小柄だ。眠った睦月を抱えて、この山道をどこまで行けるだろう。元から攫うつもりだったなら何か策を講じているはずだ。
 ――烏は舟旅に慣れているのですよ。
 崩れた岩の陰で、何か動くものが見えた。ふと足を止めて目を凝らす。その場に膝を衝いて更に目を凝らす。
「暁さん?」
 榎本が戻ってきて身を屈め、暁の見るほうに目を向けた。谷底に近い岩場を動く影。「あれは……」息を呑む。
「すず!」
 ふっと暁の方へ見上げたその顔は、確かに彼女だった。ぐずった睦月に近付いてきた、人当たりの良い笑顔。四年前、烏の根城から抜け出そうとした暁にしたたかに殴られてさえ、崩れなかったその笑み。
「あら」
 焦るでもなく驚くでもなく、彼女は鷹揚に笑ってみせた。水音の向こうに、鈴を転がすような美しい声。
「そんなに急いで追っていらっしゃらなくても、後で文を出しましたのに」
 彼女の腕には睦月らしき影があった。眠らされているのか、未だぐたりと体を預けている。
「すず……! どうして睦月を」
「覚えていてくださって光栄です。それから、先ほどは忘れていてくださって、とても助かりました」
 榎本が辺りを見回すが、やはり橋も、彼女のもとへ下りる道も見当たらない。胸元を探るが、旅のとき使った縄はそこには無かった。すずの指が睦月の髪を撫でる。歌うように軽やかな声。
「暁殿、あれはいけません。豊川の名が消えることも、清き流れを受け継ぐあなたがその座を退くことも。まだ間に合います、撤回なさいませ」
「撤回って……そのために睦月を?」
「豊川は消えてはなりません」
 夕暮れの赤を浴びてきらきらと輝く丸い目、疑いなき目。笑みを湛えた大きな目の向こうに宿る、狂気。
「あの話を聞いていたのなら、もう引き返せないことは分かっているはずだ。豊川の刀は坡城に渡った」
「暁殿はもう一口ひとふりお持ちではないですか。上松の刀を渡したことになされば宜しいでしょう」
「そんな小細工を弄すれば、今後坡城との対等な交渉は一切できなくなる!」
 すずは唇に笑みを湛えたまま、眉尻をわずかに下げた。腕の中の睦月を愛おしげに見つめる。
「そうですか……お可哀想に。それでは、これが御子との今生の分かれということですね」
 暁はぐっと自分の胸を押さえた。大丈夫、これは脅した。彼女にそんなことはできない。息を整え腹から声を出す。
「それは豊川家の正統な流れを汲む私の息子。豊川に固執するお前が、手を掛けようというのか」
「だからこそです」すずは即座に答える。「この御子は、暁殿の御子ではありましょうが、旭家の血は流れておらぬそうではないですか」
 暁は胸を強く押さえる。詰まるな。
「誰がそんな戯言を……っ」
「ひよです。そしてひよは暁殿の身近な者から直接確かめたとか。であれば、この黒は忌むべき色。豊川の次期当主として認めるわけにはまいりません」
 暁は浅く息をする。胸が潰れそうだ。睦月の命の価値を決めるのは彼女なのか。暁は豊川家当主として最後の仕事をしたというのに。豊川家に次期当主はいないのに。彼女はあくまでそこに意味を見出し、そぐわない者を笑顔で排除する。
「私どもも、いとけない御子の命を望んで奪いたいわけではないのですよ。思慮深い暁殿なら、どうすべきかお分かりですね」
 榎本が短く声を発した。彼の指が示す先は谷底の川の向こうだ。暁は目を凝らす。小舟だった。笠を被り腰に刀を差した櫂持ちが二人、すずのほうへ舳先を向けている。すずと共に消えたという黒烏だろうか。舟は川の流れに沿ってみるみるうちに近くなる。
「改めて文をお届けします。調印まではたっぷり時間がございますよ。よくよくお考えなさいませ」
 すずが岩を蹴ってひらりと舟に乗り込んだ。睦月を大事そうに足元へ横たえ、ゆったりと手を振る。一度大きく傾いだ舟は何度か揺れて安定を取り戻し、流れに逆らってまた離れていく。
「すず、待って! 待っ……」
 伸ばした指は何にも触れない。暁はぐっと目を閉じて項垂れた。見える場所にいたのに。声の届く場所に――
「あ……、あっ!」
 榎本の声。暁ははっと目を開けて舟を見た。
 視界を染める赤。
 櫂持ちの一人が刀を抜き、すずの首を刎ねたところだった。
 暁は口を覆う。
 そのまま返す刀でもう一人の櫂持ちを斬りつける。ぱっと血が飛び散り、舟には鮮やかな花が開いたようだった。ひと呼吸おいて、二つの体が崩れる。舟がまた大きく傾ぐ。その後は静かなものだった。ゆるり、波紋が広がる。夕暮れに染まる川に、血の赤がじわじわと溶けていく。
「あ……暁さん、あいつ……!」
 暁の目はその光景に縛り付けられ、榎本に返す声も出なかった。今や喉の奥は凍り付いていた。
 二つの体から流れ出た血がひたひたと底板を這い、一人残った櫂持ちの足元に到達する。彼の顔が向く先は、首のないすずの足元に横たわる、睦月の小さな体だ。右手に提げた刀の切っ先からは未だ血が滴っている。
 暁は崖に指を掛けた。続いて膝を出そうとしたところで榎本に抱き止められる。
「榎本さんやめて、止めないで!」
「暁さんが降りられるわけないし、もし降りられたって丸腰でしょう! あなたに何かあったら、牙の旦那にどう言い訳すればいいんですかっ」
「じゃあ、だって……睦月が!」
「俺がどうにかして降りますから!」
 がつんと音。はっと見下ろすと、櫂持ちを失った舟が流されて岩にぶつかっていた。今、あの舟は二つの骸と睦月、そして血を浴びた男を乗せ、暁たちの真下にあった。がつん、がつん、舟が揺れるたび小さな音が続く。不気味な沈黙。暁と榎本は息を止めてそれを見つめる。ぶるぶると指が震え出す。
「おい」
 きゅっと暁の胸が縮む。しかし彼女の耳は今聞いた声を何度も頭の中で繰り返した。
 そんなはずはない。まさか、そんな……。
 笠に隠れた櫂持ちの顔が、睦月から離れて崖の上を向いた。
「どうしてお前がここにいる」
 険しい顔だった。懐かしい顔だった。叫び出しそうになり、暁は口を覆った。
 どうして、いつもあなたなのだろう。
 どうしようもなくなった私を、救ってくれるのは。
 血を浴び、刀を提げ、笠をぐいと上げた彼は、昨年の暮れに別れた針葉だった。
 何と答えればいいのか、咄嗟に浮かばなかった。有難う、ごめんなさい、どうしてここに、実は私は。溢れた言葉で喉が詰まった、その隣で声を上げたのは榎本だった。
「あ……兄貴こそ、こんなとこで何やってんだよ」
 暁は目を丸くして榎本を見た。針葉の視線もちらりと動く。
「ナツか。久しいな」
「おう、久しぶり……じゃねぇよ! いや、そいつらやっつけてくれたのは助かったけど、その子供。その子にゃ頼むから指一本触れるなよ。すぐそっちに行くから」
「どうして」
「あんた、その子が誰か知らずに引き受けたのか?」
「誰か、だと」
 針葉は刀を強く降って血を払うと、倒れた櫂持ちの衣で拭い、鞘に収めた。そしてそっと足元の睦月を抱き上げ、しなだれかかる小さな体を胸で受け止めた。
「おい、だから触るなって……」
「俺の子だ」
 榎本は今度こそ口を閉じるのを忘れた。青ざめた顔で暁の肩を支え、「だ、大丈夫です暁さん、落ち着いて、気を確かに、あの人ちょっとおかしくて、とりあえず俺に任せて」おろおろと言葉を継ぐ。針葉の目は真っ直ぐに暁を見ていた。
「そうなんだろ」
 榎本は眉根を寄せて暁を見た。喪神するのではと心配した彼女は、落ち着いた眼差しで血まみれの男を見つめていた。
 ゆっくりと頷き、彼女は口を開いた。
「そうです……紛うことなき、あなたと私の子です」
 えぇ、と榎本が素っ頓狂な声を上げて二人の顔を見比べる。暁の目には涙がにじんでいた。
 こんな状況で、どうかしている。
 でも、自分の子だと。彼が自分でそう断言するのは初めてだったのだ。

 針葉は岸の平たい岩の一つにそっと睦月を横たえると、二つの骸を川に落ちた岩まで引っ張り上げて強く蹴った。骸は岩を滑り落ちて下流に落ち、浮き沈みしながら流れていく。
「もう少し行ったとこに橋が架かってる。渡って来い」
 足を伸ばした先には確かに橋があった。地面には大きくソノと彫られている。彼女は向こう岸でまだ睦月を探してくれているらしい。
 岩場まで戻って榎本は身軽に、暁は榎本の手を借りながら舟のあるところまで降りる。暁が睦月を抱き上げると、潰れていた目が眠たげに開いた。暁は細い髪に顔をうずめて、温かい体を強くかき抱く。
「あの女の仲間はまだ残ってる。骸が見付かったら面倒だ、離れるぞ」
 針葉に急かされて舟に乗り込んだときには、もう日も落ちる間近だった。針葉の隣では榎本も慣れぬ手つきで櫂を動かす。暁は血の浸っていないところに腰を下ろして、まだぼうっとしている睦月をただただ抱き締めた。
「あれ、苑さんじゃないですか」
 榎本が頭上を指す。追って暁が見上げると、先ほど通ってきた橋を戻る影があった。
「苑!」
 影がぴくりと動いて辺りを見渡す。「暁殿!?」
「睦月も私も無事です! 榎本さんも一緒! 後で必ず報せを入れるから安心して!」
 言葉の途中で橋を通り過ぎ、振り返ってなおも叫ぶ。橋はやがて薄闇に紛れ見えなくなった。
 しばらく進んだところで針葉は舟を止めた。まだ山の深くだった。
「降りるぞ。こんだけ血まみれじゃ、日が昇った途端に悪目立ちする」
「あの女の仲間ってのは多いのか」
「俺が知ってるだけで十人近くいたな」
 暁は胸に抱えていた睦月を一旦下ろして背に負う。睦月は今日の分を取り戻すかのように、夕闇の中に見えるものを盛んに喋っていた。
「行く当てはあるの」
「真っ直ぐ下りればすぐ邸町の北に出る。奴らが隠れてんのは南、江田の近くだ。どこか宿を見付けるぞ。おいナツ、お前いいもん着てるみたいだな。一枚寄越せ」
 針葉は血だらけの服を水の中に沈め、体をざっと流して榎本から剥ぎ取った服をまとった。
 辿り着いた町では榎本が二部屋空きのある宿を見付け、四人はようやく畳の上に落ち着いた。興奮して喋りどおし、更に宿に着いてからは針葉の姿に大はしゃぎだった睦月も、夕餉の匂いを嗅いだ途端に腹の虫が騒いだらしく、怒って喚き出した。
「俺、日が昇ったら角野屋まで走ってきます。で、こっちの状況を伝えるのと、談義の結果も聞いてきますね」
 飯を掻っ込みながら榎本は暁に言う。彼は牙の命を受けた自覚あってか、針葉と暁の間に陣取り、針葉に対しては積極的に話し掛けようとしなかった。その後ろから針葉の顔が覗く。
「おいナツよ、面白そうな話してるな。それから暁も。何だその恰好は」
「あのなあ兄貴。いくら兄貴だって、気安く暁さんに話し掛けたらただじゃおかねぇからな」
「そのあきさんってのはあいつのことか」
 二人の会話を聞きながら、暁は睦月の食べこぼしを拾う。宿に辿り着くまでは、血の浸った舟で川を進み、日が暮れた山道を歩くだけで必死だった。互いの事情には触れず終いだったのだ。
 暁が針葉と呼ぶ彼は榎本には兄貴と呼ばれ、暁が榎本と呼ぶ彼は針葉にはナツと呼ばれ、そして彼女自身は暁とあきさんの二つの名で呼ばれる。互いが互いを知っているようだが、まだそこに至る話すらできていない。
「とにかく。睦月さんを助けてくれたことにゃ礼を言うけど、牙の旦那の命令を受けてんのは俺なんだ。余計な手出しはしないでもらうぞ」
 そう宣言した榎本だったが、風呂から上がって再び四人が一部屋に集うと、とうとう眉尻をつり上げた。肩に掛けていた手拭いをぱんと足元に投げ付ける。
「だーかーら、なんで兄貴がここに戻るんだよ。隣の部屋も取ってんだから、そっちで寝りゃいいだろ」
「ふざけんな、お前さっきの聞いてなかったのか。暁は俺の女で、そいつは俺の息子だ。邪魔者は明らかにお前だろうが、とっとと出てけ」
「ちょっと暁さん、本当なんですかあれ。もう訳分かんねえや、俺」
 二人の語気は荒いが、どこかじゃれあっているように聞こえて暁はふっと笑みを漏らした。彼女は二人に背を向けて、蒲団の中に入れた睦月をとんとんと叩いていた。あれだけ気を失っていたのに、日が落ち満腹になって風呂に入れば、また瞼が重くなるものらしい。
「この際、睦月さんの父親が誰だろうと関係ない。暁さんは牙の旦那の大事な御方なんだ。突然現れたあんたに、はいそうですかって渡せるわけないだろ」
「その牙の旦那ってのは誰だよ」
「俺の親父の代から取り立ててくれてる人だよ。黒烏にゃ俺の恩人がいるって前に言っただろ」
「んなこといちいち覚えてねえよ」
「ひっでえ」
 右に左に転がっていた睦月が深い寝息を立て始めた。暁は灯を遮るところに衝立を移動させて、自分も蒲団の前に腰を下ろす。鏡の中にいる女は櫻仕込みの化粧がさっぱり落ちて、結い上げた髪も肩に下り、自分でもこれが豊川家当主とは思えなかった。
「あのな、旦那と兄貴じゃ旦那のほうが格上なんだからな」
「んなこたどうだっていいわ」
 やり取りは泥沼化し、馬鹿馬鹿しさを増していた。暁は未だ後ろで続く水掛け論を聞きながらそっと髪に櫛を入れる。
「仕方ねぇな」
 針葉の溜息とともに足音が近付いて、暁のすぐ後ろで止まる。振り向いた暁は抱きすくめられ、そのまま蒲団に押し倒された。鏡立てが倒れる音。
「な……え、どうしたの針葉。何」
 暗い天井板の手前に針葉の影があった。逆光だがその目は笑っているようだ。彼の指は既に暁の衿にかかっている。
「野暮なこと聞くなよ。半年ぶりに会った夫婦の夜の過ごし方なんて一つだろ」
 言い返す間も無く唇が塞がれる。榎本が息を呑む音。暁は必死でもがき、ぬるっと割り込む舌を阻止した。無精髭の顎を押し退ける。
「こっ……この流れでどうしてっ。睦月がすぐそこにいるでしょう」
「起きやしねえよ。この前だってぐーすか眠ってただろ」その手が帯にかかり、しゅると解ける。
「やっ、ちょ、榎本さんが! 榎本さんがそこに」
「出て行かねぇってんだから仕方ねえだろ。たっぷり声聞かせてやれよ」
 膝は彼の足に押さえられて動かず、手首も押さえられている。恥ずかしさで顔が紅潮するのが分かった。何なのだ、一体。暁が顔を背けたとき、覆い被さった針葉の陰で榎本の気配が動くのが分かった。彼は畳を静かに踏んで、そろりと襖が閉まる。
 針葉は動きを止め、榎本の気配を目線だけで追っていた。おもむろに体を起こして暁から離れる。暁はさっと衿を合わせて後ずさった。ふと首を伸ばして衝立の向こうを見ると、睦月の姿が消えている。榎本が隣の部屋へ連れて行ったらしかった。何という気の遣い方だ……暁は顔を覆う。
「うまい具合に邪魔者が消えたな」
「馬鹿! 明日どんな顔して会えば……」
 暁は言葉を止める。針葉の声は遠くから聞こえた。覆った手を外すと、彼は短くなった蝋燭を取り換えているようだった。そのまま短檠を手に戻ってくる。
「さて」針葉は短檠を隣に置き胡坐をかいた。火のゆらめきにあわせて、その顔に影ができる。先ほどまでのにやけた笑みは消えていた。
「聞かせてもらうぞ。お前は誰だ」
 暁は乾いた唇を湿した。衿を直し、帯を結んで彼の前に膝を揃えた、ところで髪に引っ掛かったままだった櫛に気付き、慌てて外した。
 針葉は睨むように暁を見て腕を組んだ。
「俺はそもそも、こう聞いてた。割譲談義における豊川の交渉を優位に持ち込むため、鍵を手に入れると。だから櫂持ちとしてそこに加わったんだ」
 暁は、針葉が一昨年から乗り子をしていたことを思い出す。山の上流で材木を切り出し、筏にして川を下る仕事だ。そして去年は地図や水脈図、河川図を見る彼の姿を何度か目にしていた。
「その鍵が人だって知ったのはつい最近だ。そして……あの女、すずが抱いてきたのは睦月だった。あいつは何だ。お前は誰だ。どうしてあんな恰好であの場所にいた。どうして黒烏の牙とやらがお前を護る」
 体の裡に籠っていた熱が、指先からはらはらと散らばっていくようだった。暁はすっと息を吸い込む。もう黙っておくべき時は過ぎたのだ。
 暁は膝の前に三つ指をつき、ゆるりと頭を下げた。
「私は……豊川家当主、豊川暁と申します」
 顔を上げたところに見える針葉の瞳が、細かく揺れていた。

 沈黙があった。火が揺れて、針葉は思い出したように一つ瞬く。
あき……あきさん、か。豊川ってのはもちろん、国守の豊川だろうな」暁が頷くのを待って、「じゃああいつ、睦月が交渉の鍵ってのは」
「あの子を人質にして私を操れるということでしょう。それが叶わなければ私を殺して、あの子を当主として擁立したかもしれない。……私は今日、割譲談義に出て豊川の名も領主の座も捨てると告げたの。すずは豊川家の血を狂信していたようだから、それを絶やすことは断じて避けなければならなかった」
「豊川の血? ……分家筋がほとんど無いって、……」
「知っているの」
 暁が眉を上げたが、針葉は唇を結んだままだった。
「確かに分家は一つだけだった。前に話したね、私を連れて上松領まで逃げた義兄が、その分家の人」
「……黒烏の奴らを避けてたのは」
「大火の次の年、黒烏に攫われて東雲に閉じ込められたの。あの人たちからすれば連れ戻したってところだろうけど……それが突然解放されて、事情があって坡城で私を見張ることにしたみたいで。でも私にはその事情が分からないから怖くて。そのときはひよさんがいる団子屋のことしか知らなかったけど、菱屋が大本の拠点だったみたい」
 浬のことは、さすがに黙っておくべきと暁は判断する。許嫁、人別帳上の夫婦、ひよやすずの言う清らかな血。あまりに刺激が強すぎて、坡城の家に戻った後が恐ろしい。
「針葉こそ、榎本さん……ナツさん? とはどこで」
「前に一緒に組んで動いてただけだ。俺が傷を負ったときに斎木の爺の家まで届けてくれたのも奴だしな」
 睦月が産まれる直前のことだ。雨の降る夜にどんと斎木の長屋を叩いた音。あのときすぐ戸を開けていれば、彼がいたというのか。
「俺がハルって名を使ってたから、妙に懐いてきやがって。春と夏で兄貴だとよ」
「ハル?」暁は針葉の字を思い浮かべ、「はり、じゃなくてハル?」
「母親が俺を呼んだ名だ」
 暁はごくりと唾を呑む。さらりと言ったが、それは元々は彼の父の呼び名だったはずだ。消えた男に執着した女が、男によく似た息子を偏愛し、同じ名で呼び、呼ばせた。遂げられなかった想いを、閉じた家の中で息子に重ねた。
 しかし。暁は笑う、無理やりにでも。
「榎本さん、私の名を知ってすごく喜んでた。これで冬さえいればって」
「春夏秋ってか。餓鬼かよ」
 針葉は破顔して、その場に横になり頬杖をついた。気だるげな表情で何もないところに視線をやる。
「あの女の下で働いてたのは、豊川のことで思い詰めるお前を見てたからだ。何か一つでも交渉で有利に働くんならと思った。でもまるで見当違いだったな」
「そんなことない。あそこにいたのが針葉じゃなかったら、睦月は連れ去られてたし、命だって危なかった」
 針葉の視線が暁に移ってふっと笑う。そこに憂いを見た気がして、暁の胸がどきりと鳴った。
「豊川、暁、ね。……本当の名が今分かるか。何度も寝て餓鬼までこさえてよ」
「だって。黄月の父様が国守に処刑されたって……そんなの聞いて、言えやしない」
「違うな。上松領で初めて会ったときから、お前は名を偽ってた」
 針葉に指を突き付けられ、暁はぶんと首を振った。
「偽ってない。言おうとしたのに遮るから」
「遮る?」
あかつきと書いてあきって、言おうとしたのに……暁かって。じゃあもうそれでいいかって……男物を着ていたし、あきって名乗ると変に思われるかもって」
 ごにょごにょと言い訳を続ける暁だが、針葉が引っ掛かったのは別のところらしかった。
「あかつきとかいて、あき」
 はっと気付く。彼が満足に読み書きできるのは仮名だけなのだ。針葉が暁の表情の変化に気付いてむくりと起き上がる。
「今、俺のこと馬鹿だと思っただろ」
「思ってない思ってない!」
「いいや思ったな」
 針葉は暁の両頬を指でつまんで、そのまま倒れ込む。「本当に思ってないから!」笑って逃げようとする暁の衿を、また針葉の指が開いた。思わず暁の動きが止まる。
「えっ、今度は何」
「お前なぁ、二度も同じこと言わせんな。半年ぶりに会った夫婦の」
「だってそれ、人払いをするためのお芝居……」
「俺がいつそんなこと言った」
 言ってはいない、けれど。また頬が染まり出す。そこに触れた針葉の掌は、今度は優しかった。おずおずと蒲団の上まで移動する。
 薄闇の中に露わになる肌を、互いの指が確かめる、絡まる。その途中で、針葉はぽつりと暁に尋ねた。
「お前、十くらい歳の離れた兄がいたか」
 房事からはかけ離れた問いに、暁は戸惑いつつも頷く。いつか牙から聞いた話だ。
「話に聞いたのみだけど……体の弱い実兄がいて、烏と一緒に逃げたけれど大火の年に亡くなったって」
「そうか」針葉はまた暁に口づけ、それ以上の言葉を塞いだ。
 膝を持ち上げ腰を進める、熱った体を隙間なく繋ぐ、暁の喉から押し殺した喘ぎが漏れる、その向こうの闇の中から蘇る声を、針葉は聞いた。
 よく動く舌だった。あの津山家の男はよく喋った。ねちっこい声で、聞いてもいない五家の内部事情を、他の四家の悪口雑言を。
 ――髪も目も肌も、色が薄ければ薄いほどいにしえの系譜を汲んでるって尊ばれるんだ。でも豊川はやり過ぎだよ。
 暁は髪も目も色が薄い。黄月よりも、あのすずという女よりも、恐らく今までに見たどの壬びとよりも。
 ――あそこは、あの気持ち悪い風習のせいで分家筋がほとんど無いからね。豊川同士でくっついちゃうんだよ。やってることが人じゃないよね。
 いつか暁から聞いた話の中で、明らかな違和感を覚えた部分があった。大火の混乱の中で本家に成り代わろうとした分家の義兄が、実の妹となる暁に子を産ませようとしたという。しかし今なら分かる、その義兄は実に「本家らしい」行動に出たのだ。
 ――あんまり血が濃すぎて、産まれてすぐ死んじゃう子供もいたみたいだ。あそこの長男は、自分一人じゃ歩くことはおろか、まともに物も食べられなかったよ。
 今となっては聞きたくなかったことまでが、この耳にこびりついている。
 ――次の子は十年以上産まれなかったって言うけど、本当かなあ。水蛭子ひるこが次々産まれて、こっそり始末してたんじゃないのかなあ。
 その「次の子」が今、彼の体の下にいた。
 針葉は肘を曲げて暁に覆い被さった。その体を強くかき抱く。違う、何も変わっちゃいない。気味の悪い因習を繰り返した末の得体の知れない生き物と、突然入れ替わったわけじゃない。
 暁は元から豊川暁だった。上松領で初めて会ったときも、神社で初めて唇を交わしたときも、初めて抱いたあの夜も。
 暁が何か問いたげに針葉を見た。小さな火に照らされてさえ分かる、薄い色の瞳で。
 胸が痛む。
 彼女は何も悪くない。
 針葉は目を閉じた。心の裡に生まれた揺らぎを押し潰すように、彼女の体の奥深くへ。



 翌朝の膳は、前日の夕餉と同じように針葉と暁のいる部屋に全て運ばれてきたので、榎本は睦月を連れて気まずそうに顔を見せた。
 言葉少なに朝食を終えて「今から角野屋に行ってきますけど……」と振り返った彼を、暁は頷いて安心させた。
「大丈夫、動かずここで待っています。豊川暁が共に行動しているのは榎本さんですから」
「何だよ、半年ぶりに会った夫と出歩きたくねえのか」針葉の茶々入れを無視して榎本を送り出す。
 昼過ぎに戻ってきた彼は、懐から出した書き付けを読みながらたどたどしく説明を始めた。
「まぁ結論から言いますと、昨日の談義は恙なく終わったらしいです。これからは詰めとして、えー、合意した大枠をもう一度確認しながら書き言葉にして、豊川領に坡城が関与できる範囲と内容とか税の取り決めとか例外とか例外の例外とか……とりあえず色んなことをそれぞれ章立てして、逐一の施行規則ですか、そんなのを決めてくって。それでこっちの今後についてなんですが」
 彼は書き付けを畳んで懐に仕舞うと、少し困ったように唇を曲げて眉を掻いた。
「実は角野屋の近辺に、俺が見て分かるくらい怪しい奴らがうろついてて。牙の旦那も、暁さんや睦月さんを狙ってるんだろうって。俺の面が割れてなくて助かりましたよ」
「じゃあ戻らないほうが?」
「そうですね、角野屋はもちろんのこと、坡城にも手が回ってるだろうってことでした。で、俺ら今四人でしょ。このくらいのほうが動きやすくて目立たないから、調印までの間、こっちはこっちで見付からないよう過ごしてくれって。調印さえ終われば、こう言っちゃ何ですが暁さんたちを攫う意味も無くなりますからね。烏の拠点も色んなとこにぽつぽつあるんで、ちょっとした物はそこで調達できるし、路銀も出せるってことなんで。とりあえず手形。全員分受け取ってきたんでどうぞ」
 榎本が懐から縦長の紙を取り出す。
 思ったより長旅となりそうだ。暁は大きく息を吸い込んで、手形に記された偽の記録を頭に叩き込んだ。