談義が十日後に迫っていた。
 ここ最近は至の講釈の合間に牙も同席し、暁の考えに助言と肉付けをする形で、豊川領主としての主張や話の進め方のすり合わせを行っていた。
 今日届いた報告では、今回菅谷の邸に集まるのは壬の豊川と江田、坡城、そして菅谷の統治者として飛鳥の四者だった。豊川家当主として暁が、江田家からは病床の当主に代わって若き長男が、坡城からは務番処つかさのばんしょ筆頭の伊東が、飛鳥からは不破家三男が、それぞれ集う。
 広げた書き付けをぱたんと閉じて、至は地図を引き寄せた。
「地理から考えると、恐らく不破家は様子見に徹するでしょう。元から協力的だった上松領はともかく、菅谷領の統治にこれだけ苦労していますので。今回の談義で主に相手方となるのは坡城と思われます」
 暁は地図で四者を確認し、ふと西の一国を指した。
「津ヶ浜は出て来ないの。あそこも元から友好的な津山を自治区にしたから、体力は残っているはずでしょう」
「今回は出て来る様子はありませんね」
 暁も地図に視線を落とす。津ヶ浜の入り組んだ湾、転々と散らばる小さな島。浬から渡された写しによると、紅砂はここにも渡ったらしい。
「牙。津ヶ浜にも烏の拠点はあるの」
「ございます。小さなものですが」
 暁は少し考えて口を開く。
 そして談義の前夜、牙と至の二人が現れるのを待って、暁は睦月の傍からそっと身を起こした。上申書の写しを手に、三つ並べた座蒲団まで歩む。
 親子で使うには広すぎる部屋の片隅で、睦月は寝息を立てている。菅谷領に入ったその日から極端に少なくなった睦月の発語も、角野屋の面々に可愛がられるうちに復活しつつあった。
 暁は上申書の写しを脇に置いて、自分の向かいの座蒲団を示した。二人は会釈して膝を折る。
「今掴めたのは大枠のみですが」
 牙が差し出した紙に目を通し、暁はゆっくりと考え込んだ。
「暁殿。明日の話の進め方について、最終の確認ですが」
 そう切り出したのは談義に同席予定の至だった。暁は紙の上に置いた視線を一度伏せ、覚悟を決めて二人を見た。
「一つ考えていることがあります」
 坡城を発つ前に胸に宿った思いと、紅砂の上申書、そして今もたらされた報せ。その三つを組み立てながら話す。二人は腿に手を置いたまま、暁の話が終わるのを静かに待っていた。暁の唇が閉じるのを待って至が口を開いた。
「それが暁殿のお考えですか」
「無謀でしょうか」
「やってみねば分かりませんね、伊東というのがどの程度の者なのか……」
「しかしそれとはまた別に懸念もございます」
 暁は牙に視線を移す。「懸念とは」
「暁殿の案を快く思わぬ者もおりましょう。壬五家のうちでも豊川はとりわけ、古き慣いを護ってきた家でございますから」
「鷹に狙われると?」
 暁の頭に浮かんだのは団子屋のひよだった。しかし彼女の一派は、そうと知らずに針葉が壊滅させたはずだ。
「いえ、確かでないことを申しました。我々は全力であなたをお護り申し上げるのみ。談義では思うまま話されるが良いでしょう」
「……分かりました。ありがとう」
 二人が頭を下げて去り、部屋は静かになった。何か呻いてごそごそ動いた睦月もまた眠りに落ちたようだ。
 暁は何度めくったか知れぬ上申書の写しをまた開く。浬の字にももう目が慣れてしまった。その名が出てくるのは本文ではなく覚書だった。「織楽に付き添い港番へ 特使のもとへ向かう途中イトウなる男とすれ違う 声のみだが五六十 特使との交渉方か」。そして後で付け足したと思しき字で、「都から忍びの役人あり 矛番ほこばんか」。
 やるしかない。
 暁は火を消して枕に頭を預けた。



 翌日、暁は起きて早々髪を結い上げられ化粧を施され重い仕立ての着物を着せられた。
「豊川家当主なのですから、それなりの恰好をしていただかないと」
 張り切る櫻に全て任せ、牙、至と最後の打ち合わせをし、昼過ぎ。準備が整ったところで駕籠に乗り込み菅谷の邸へ向かう。しばらく揺られて駕籠が止まり、降り立ったところは広い敷地の中だった。後ろの駕籠が止まり、睦月を抱いた苑が降りてくる。
 暁はきょときょと落ち着かない様子の睦月を撫で、改めて邸を見た。正面には堂々たる構えの御殿、その手前には池とそれを囲むように木が植わっている。脇には土蔵がいくつも並び、奥には詰所らしきものも見える。どの向こうにはすぐ山影が見えた。昔父に連れられて足を運んだことがあるはずだが、記憶とはまるで違う真新しい建物だ。菅谷領も大火で大きな被害を受けたから、不破家が入るにあたり新しく建て直したらしい。
 ここは菅谷の邸、しかし中にいるのは飛鳥の不破家。今から踏み込むのは飛鳥の領地なのだ。気圧されるように感じ、ごくりと唾を呑み込んだ。
 牙たち黒烏は既に御殿の前で待っていた。炎から離れたところで榎本が小さく手を振るのも見える。護られている、大丈夫。暁は足を進める。
 案内役の男に連れられて二階へ上がり、通されたのは板の間だった。
「お連れの方はこちらでお待ちを。談義の席に着く方は、刀剣の類をここに置いてお進みください」
 至が苑から睦月を受け取り、暁に付き従う。角を曲がり、辿り着いたのは畳の間だった。
「坡城の伊東殿が到着されるまで、こちらでお待ちください」
 中には顔色の悪い三十ほどの男が一人、座して待っていた。はっと暁に視線を定め、がじっと親指の爪を噛む。その髪や目は濃い茶色だ。
「……失礼いたします」
 暁は襖近くの座蒲団に腰を下ろす。男の視線が舐めるように自分を見分しているのを感じた。
「豊川からは当主がお見えになると聞いていましたが」
「私が当主です。豊川暁と申します」
「ほう、これはお若い。失礼、私は江田家当主が長男、江田典史と申します。そちらは……あなたの御子、とその父御?」
 江田に指を差された至が睦月を膝から下ろして頭を下げる。
「私めは侍従でございます」
「はあ、そうですか。……豊川家はいつまで経っても談義に出て来られないのでね、よもや亡くなったのではという話も出ていましたが、なるほど御子を授かって。それはそれは。国守殿は一体どんな怖い御方かと思っておりましたので、お若く可愛らしい方で驚きましたよ」
 言葉とは裏腹に彼の声にはざらりとしたものが混ざっている。がじっとまた爪。暁は彼の親指の爪が短くかじり取られているのを見て目を逸らした。
「豊川は古の血を護るとも聞いておりましてね、……しかしあなたは失敗したようだ」
 くくっと彼の肩が揺れる。至が片膝を立て身を乗り出した。
「江田殿、無礼な口は謹んでいただきたい」
「おや、見たままを申したに過ぎませんが、図星ですか」
「至、座りなさい」
 至が苦々しい顔で腰を下ろす。その横で、何も知らずに座蒲団を叩いている睦月。暁は怒りを吐き出すように深く息をした。「俺知ってる、ああいうの交じりっ子ってんだぜ」……あの子供と同じだ。程度が知れる。
「私が仕込んで差し上げましょうか。少しは壬らしい御子が望めましょう」
 その意味するところに気付いて暁はかっと頬を紅潮させた。江田はくっくっと笑い続けている。
「お断りします。……江田殿は髪や目の色こそ壬の片鱗を残していますが、その皮一枚向こうは飛鳥びとより黒いようですね」
「な……んだと」
 江田がぴくりと眉を動かした、そのとき襖が開いた。「伊東殿がおいでです。ご移動願います」
 江田はふんと鼻を鳴らし先に立って歩き出す。少し離れてその後ろを暁と至、睦月の三人が歩く。廊下を行った先には松の描かれた襖が現れた。案内の男が膝を衝いて襖を開く。
「江田家当主代行、江田典史殿。豊川家当主、豊川暁殿。ご両名をお連れいたしました」
 部屋の中には四辺に沿って座蒲団が置かれていた。奥と右手には既に男が座している。奥の男の後ろには数人の男が控えていた。
「どうぞお掛けを。豊川殿はお付きがおられるか」
 奥の肥えた男が合図するともう一つ座蒲団が運ばれてきた。やはり、と暁は思う。あの男が飛鳥の不破家三男。そして右手の白髪交じりの皺深い男が坡城の伊東だ。茶が運ばれてきて襖が閉まり、奥の男がさっと手を上げた。
「さて。私は菅谷領主をしておる不破宗昌です。そちらから」
「坡城の務番処筆頭に任ぜられております、伊東忠勝と申します」
「壬国守豊川家当主、豊川暁と申します」
「壬筆方江田家当主が長男、江田典史です。病床の父に代わり馳せ参じました」
 ぐるりと順に名乗り終わり、不破は大きく頷いた。「ではこれより最終の談義を始めましょうぞ」

 談義はまず不破の口上で始まった。
「初めに、この度の災禍では坡城から東雲、壬に至るまで被害がありました。特に被害の大きかった伊東殿、江田殿には心よりお見舞い申し上げる。今回のことでも改めて認識されたと存ずるが、国は大地で繋がっております。どこかが災厄に見舞われたときは手を差し伸べるが地の縁というもの。この談義も、大火で国力を失った壬を周辺国で支えんとするものです」
 大火の原因が何かはそ知らぬふりらしい。暁は真向かいに座る不破をじっと見つめる。
「壬の大火からはや五年。その間、壬の民は幾度も流行り病や食糧難にあえぎ、暴動も数知れず。そのたび周辺国から救いの手を差し伸べてまいりましたが、できることにも限りはある。新天地を求めて移住しようとする民を受け容れきれず、関を閉じたこともありました。この現状を打開すべく三年前から始まったのが割譲談義です。すなわち壬の領地を周辺国に組み込み、等しく責任をもって、そこに暮らす民を救済せんとするものですな」
 不破は唾を飛ばして口上を続ける。
「最初の談義では上松領北部が飛鳥に併合となり、続いて南部も併合。昨年はここ菅谷領を我が不破家が統治、津山領を津ヶ浜が自治区とすることにめでたく相成りました。そして残るは豊川領と江田領。それぞれの領民が暮らしよい国とする道筋を付けるため、本日は存分に話し合い、有意義な談義としましょうぞ」
 不破はふんと自慢げに鼻息を立て、三者を見回した。暁は苦い思いを呑み込んで目礼を返す。全て勝者の言い分だった。こうして史書は書かれるのだ。不破の後ろに控える者たちは既に筆を走らせている。
 そしてまず口を開いたのは江田家の長男だったが、談義は早くも暗礁に乗り上げていた。彼の主張は、江田領はどこにも属さず壬もしくは江田として国土を保つというものだった。伊東が眉根に皺を刻んで腕を組む。
「江田殿。私は前回の談義まで幾度も、当主であるお父上と意見を交わしましたが、お父上は坡城に付くことで概ね合意しておられました。しかし領内の調整が付かぬので次回こそは次回こそはと、毎度それで逃げられて……いや失礼、調印には至らなかったのです」
「つまるところ、公式には何も決まっておらぬということですね。私は病床の父から江田の全権を任され、江田はどこにも属さぬと、それだけを宣言しに参ったのです。伊東殿の頭の中だけにある口約束など何の意味も持ちませぬ」
 伊東は苛立った様子で中指を組んだ腕に打ち付ける。
「坡城が江田からどれだけ移民を受け入れているかご存知か。境の地で何度暴動が起こったか。飢饉のたび坡城に助けを求めてきたのはどこですか」
「その節は世話になり衷心より感謝しておりますよ。お陰様で江田は国力を取り戻し、もはや坡城の手を借りるまでもありませぬ。なに、坡城が困窮したときは真っ先に江田が助け舟を出しましょう」
 江田は血色の悪い唇でにやと笑った。伊東は瞑目して深く息を吐き、かっと目を開いた。
「江田は、揺れの被害が坡城の東と同様に大きかったと聞いておりますが、家や田畑を失った者への援助は済んだのですか。怪我で職を失った者への救済は。塞がった道や崩れた山は、堤塘の復旧は」
 一気にそこまで吐き出し、しかし江田が涼しい顔をしているのを見て、伊東は額に指をやった。
「それよりも江田の名が大事ですか。……結構、進まぬ話を長引かせても詮無いことです。豊川殿。今度はあなたのご意向を伺いたい」
 伊東が左手に座る暁に視線を投げた。暁は膝を彼の方へ向けて座り直し、ゆっくりと一礼する。背すじを伸ばし、真っ向から彼を見る。
「……豊川は、領主の地位にも領地の名にもこだわりはございません」
 ふっと江田が鼻で笑うのが聞こえた。
「既にお聞き及びと存じますが、豊川家には私と、後ろにいる息子しか残っておりません。これまで談義の席に現れなかったのは、息子が幼かったため。豊川領は大火で甚大な被害を受け、私自身も隣国に身を寄せておりました。豊川領に留まっていたら、息子が無事に産まれたかも分かりません。……豊川領を離れて暮らしていた私に、領主の名は不相応です」
「では併合を受け容れると」
「坡城が豊川領の統治に前向きであれば受け容れましょう。ですが条件が一つ。豊川領民を坡城びととするのではなく、壬びとのまま受け容れていただきたいのです」
 伊東が眉をひそめた。暁は細く息を吸って先を続ける。
「壬には長い歴史と、それに裏付けられた豊かな文化がございます。張り巡らされた水の道があり、それを知り尽くした技能職の櫂持ちがおります。山菜を多く取り入れた壬料理、質の良い水をふんだんに使った染物、染糸から織り出される豪奢な紋織、高い技術を必要とする上手物の数々。豊かな水を恐れ尊び生まれた龍神信仰は、正月の飾りから祭り、舞や謡、幼子の読む本に至るまで生活に密に息衝いております。それは国や豊川家が作ったものではなく、民の暮らしに根付いたもの、民の力です。豊川の名が消えるのは構いません。ですがどうか、民の力を奪わないでください」
 みずのえは ほかのくににまけて きえそうなの でもぶんげいは きえないの。くにが つくったんじゃなくて ひとが つくったものだから。
 根付いたもんは消せやしないんです。祭りがあるってのに立ち止まっちゃいられませんよ。
 力だ。
 東雲は、自分たちの風習さえ守られるのであれば首が挿げ替えられたところで構わないんだろう。
 あれが強さだ。
「津山領のように自治区化、ということですかな」
「伊東殿は芝居見物がお好きとか。壬の文芸保護にもご理解いただけると期待しております」
 伊東の皺の深い顔に一瞬笑みが宿った。
「……確かに私個人としては、壬が長く培ってきた文芸を廃れさせるのは忍びない。しかし豊川殿。あれは元々、津ヶ浜と津山が友好関係にあったために成し得た話ですが、豊川領との間で坡城が得るものは何でしょう」
 諾々と容れるよりも真実味がある。暁は唇に薄い笑みを浮かべた。
「それより先は、どうか二者での談義を願います」
 伊東が片眉を上げた。「それは――
「昨年の、「ねえさん」に関することで」
 その頬に緊張が走るのが分かった。だが彼は巧妙にそれを隠し、何事かと身を乗り出して話の行く末を見守っている不破を振り返った。
「とりあえずは話をお聞きするとしましょう。ひと部屋お借りできますかな」
「ああ……ご用意差し上げろ。梅の間が良かろう」
 不破の後ろに控えていた男が部屋を出た。暁はふっと息を吐く。二者談義に持ち込んだ。あともう一手。
 ちらと後ろを振り返ると、至も小さく頷いて寄越した。そして困ったように自分の腕の中を見る。暁も視線を落として、あっと口を開いた。慣れぬ場所に来て疲れたらしく、睦月はすやすやと眠りに落ちていた。道理で静かなはずだ。
「こちらへ」
 案内人の声に伊東が立ち上がる。やむなく暁も立ち上がり、至も腕を動かさぬようそろりと後に続いた。襖が閉まるその向こうで、江田が思わぬ展開にきょろきょろと目を動かしていた。
 梅の間は廊下へ出てすぐの小さな部屋だった。途中で睦月の眠りが浅くなったらしく、至の腕の中で不機嫌そうにもがき、体を逸らせて暴れ出す。慌てたところに、使用人らしき若い女が微笑んで近付いてきた。
「あらあら、ぐずっちゃって。まだ眠そうですね。宜しければ負ぶっておきますよ」
 伊東は既に梅の間の前で待っていた。暁と至は顔を見合わせる。
「どうぞお任せを」
 女が鈴を転がすような声で笑うと、左右に長く垂らした前髪の向こうで、大きな目がきゅっと細くなった。不破の邸にいるものの、容貌からすると壬びとだ。どこか懐かしさを感じさせる女だった。やむを得ない。暁は至を見上げて小さく頷く。
「ご安心くださいな。この辺りにおりますので、終わったらお声掛けください」
 女は睦月を背負い、ゆっくりと揺れるように歩き出す。睦月はむずがって顔を左右に振ったが、程なく眠りに落ちたようだった。暁と至は梅の間へと進んだ。

 今度は伊東が奥に、暁と至が手前に座した。
「さて。豊川殿は一体何をご存知なのですかな」
「わずかばかりのことです。ネイサンという異人が坡城の異国見世に紛れて上陸、国々を縦断し、山向こうの旧上松領まで辿り着いたこと。そこで捕えられ、釈放の交渉のため外つ国の特使が港町を訪れたこと。交渉方として港町へ向かわれたのは伊東殿であったこと。そしてそこで行われた交渉は実のところ、国同士の交易に係るものであったこと」
「驚いた」伊東は両手を打ち鳴らす。「よく調べられたものだ。豊川殿は耳がいくつおありか」
「ではもう一つ。伊東殿はご存知ですか、今その特使たちは津ヶ浜の島の一つに逗留し、津ヶ浜と交渉を行っております」
 伊東が唇を結んだ。それは昨日ようやく至を通じてもたらされた報せだった。
「それは真ですか。ではあの国は津ヶ浜を通って彼の地へ入ろうと」
「それは違います」
 紅砂の記録では、特使は西廻りの路を物騒だと敬遠し、東廻りの路を求めていたらしい。
「津ヶ浜から彼の地へ入るとすれば、峰上の東から回り込む必要があります。峰上は山険しく、また北西にある都以外は閉じており、内情は杳として知れません。できれば避けたい道でしょう」
「では何ゆえ津ヶ浜と」
「考えられるとすれば一つ。津ヶ浜を拠点として武力で一気に東廻りの道を切り拓くつもりでしょう。津ヶ浜が今回の談義に出て来なかったのは、どう進むか分からぬ談義に労力を費やすより、外つ国の尻馬に乗るほうが確かだから。外つ国が真に目指すのは国同士の交易ではなく、上松領北部の地、あの地にしか自生しない植物の奪取です。そこへ続く道となる坡城や壬がどうなろうが黙認するでしょう。津ヶ浜は異人の居留や大きな船の来航を認め、物資を差し出す。外つ国は蹂躙した地の支配を認める。それが現在行われている交渉の中身です」
 暁は言い切って唾を呑み込んだ。胸が早鐘を打っている。汗のにじむ拳を握り締める。半分ははったりだった。
 伊東は険しい顔を崩さない。ごくり、暁はもう一度唾を呑む。
「……豊川殿は長らく表舞台に姿を現されなかったが、裏ではそういった調べを行っていたわけですか」
「豊川は壬の国守、古くは検断方です。国の治安維持を生業としておりますので」
「豊川家が恐れられる理由が分かりますよ」
 伊東は腕を組んで中指をとんと打ち付ける。「坡城や壬は、単なる道ですか」とん、とん、何度も打ち付ける。
「正直なところ、豊川殿の話を全て信じられるわけではありません。こちらとしても裏を取らねば……。ですが早急に備えが必要であろうことは理解しました。坡城にも、壬にも。……豊川殿は自治区として文化風習を護りつつ坡城の庇護に入ることをお望みか」
「豊川家には、領民をまとめ護りきるだけの力は残っておりません。先ほど伊東殿が江田殿にお掛けになった言葉。災禍の後に国がすべきことは、どれも明確でした。あなたは坡城の名を負って来られましたが、国益のみならず領民を護ることを分かっておられる。あなたとなら交渉できましょう」
「調印までには私や控えの間の牙が細かな詰めをさせていただきます」
 至が暁の隣で頭を下げた。伊東は目礼し、両手を腿に置いた。何か考え込むように片方の口角が歪む。
「しかし領主の座から退く、名も残さぬというのは並大抵の決意ではありますまい。単刀直入に申しましょう。私が懸念しておりますのは、先ほどの江田家若君のように翻意なさらぬか、ということです」
「憂慮なさるのもごもっとも。こちらの証をお示しするためにお持ちしたものがあります。今は控えの間にございますが、豊川の刀です」
「刀、とは」
「壬最古の正史である旧壬国史にもその名のある、由緒正しき刀です。いわく、建国三士の長兄たる菅谷が、次兄豊川と末弟上松に双刀を授けたと。調印まで伊東殿にお預けいたします」
 伊東がふっと口元を緩めた。
「質草ということですか。豊川殿はどこまでも用意周到であられる。しかし私は代わりに差し出せるものを用意しておりません」
「構いません。この至も牙も、豊川が誇る番人衆、烏の一羽です。伊東殿の御身が人質とお考えください」
 伊東の垂れた瞼がぐいと上がった。慄くように目を見開き、しかし口は笑っている。
「はは、私を脅しますか。よくよく恐ろしい方ですな」
「とんでもない。協定が成った暁には、烏は坡城のためにも働きましょう」
 最後のはったりを吐き出して、暁はゆっくりと唇を結んだ。微笑む形に。



 伊東の背中を見送って、暁はへなへなと体を崩した。至が慌てて肩を支える。
「暁殿」
「大丈夫。……至、私は少しはそれらしく見えましたか」
「ご立派でした。後は私どもにお任せください」
 櫻がきちりと結い上げた髪が、ほつれて数本頬にかかっていた。暁はそれを耳にかけて衿を整える。
「次は調印か」
「今回固まったのは大枠のみ。これからしばらく月日を要しましょう」
 大きく頷いて立ち上がる。まだ気は抜けない、だが梅の間へ来たときよりも肩は随分軽くなっている。暁は首をぐるりと回して襖を開けた。
「そろそろ睦月も起きたでしょう。迎えに行ってきます。至は刀の用意を」
「はっ」
 至が控えの間へ去るのを見送って、暁も廊下を歩く。四者談義を行った松の間の襖を過ぎて、角を曲がり、また歩く。歩く。……立ち止まる。
「……睦月?」
 裾を持ち上げて小走りになった。角を曲がる。すれ違う者は、誰もあの女ではない。睦月を背負っていない。ぞわっと頬が粟立つのを感じる。そのまま控えの間へ足を向けた。
 控えの間からは、至が刀を両手で捧げ持ち歩いてくるところだった。その後ろに牙の姿もある。
「暁殿?」
「至。牙。睦月がどこにも……。さっきの女の人も見当たらなくて」
「女?」
「ぐずりそうな睦月を負ぶってあやしてくれて……私と同じくらいの歳の壬びと」
 牙が大股で控えの間へ戻り、中で待つ苑たちに呼び掛けた。「睦月殿の行方が知れない。二十歳ほどの壬の女に連れられている。お探ししろ」
 烏たちは案内人に声を掛け、邸の内外に散らばる。至の顔も青ざめていた。
「暁殿、何と詫びれば良いのか……。泣かせてでもあのままお連れすべきでした」
「いえ……安易に預けたのは私です」
 暁は震える指で口を押さえる。でも、もしこのまま見付からなかったら。
「何か用があって離れたか、もしかどわかしだったとしても、まだ遠くへは行っていないはずです」
「分かっています、大丈夫。二人は松の間へ。後は頼みます」
 至と牙がいなくなるのと入れ違いに、邸をぐるりと回ってきたらしい炎が現れた。続いて別の方向から苑も現れる。
「邸の中にはいなさそうだ。そもそも、使用人が客人の子供を預かりやしないってのが向こうの言い分なんですが」
「外で聞いて回らないと。その女について、何か思い出せそうなことはありませんか」
「本当に少し見ただけで……壬びとの容姿で、歳は私と同じくらいで」
 どこか懐かしさを感じさせる女だった。
「小柄で、綺麗な声で……目が大きくて」
 今にも二つ、ごろりと零れ落ちて眼窩を覗かせそうな、大きな目。なんと似合いの名だと、あのとき思った美しい声。
 ぞくり、足元から背すじまで怖気が立ち上る。
「……すず」
 暁が連れ去られた東雲の地で、世話役となった少女。菱屋でも角野屋でも彼女を再び見かけることはなかった。
「すず? 雀でございますか」
 暁は小さく頷く。あれから四年が経って、記憶は薄れている。だがあれは、きっと。
「雀ってことは俺らの一羽か? 苑、お前は顔を知ってるのか」
「見たことはあるけど……昨年だったか、若い数羽を率いて領内偵察中に姿を消したって」
 遠い呼び声が近付き、騒々しい足音とともに階段を駆け上ってきたのは榎本だった。ぜえぜえと息を切らしている。
「あっ、まだここにいたんですか。外の番人に聞いてきたら、裏の門の奴がそんな女を見たって。子供は背負ってなかったけど、布に包んだ重そうな荷を抱えて……げっ」
 言い終わらぬうちに、騒々しい音を聞きつけた使用人たちが集まってくる。
「行きましょう!」
 炎が息の切れた榎本を肩に担ぎ、階段を駆け下りる。暁も打掛をそこに脱ぎ捨て、裾を持って三人の後を追った。