日がどんどん長くなる夕方、小間物屋を閉める準備をしていたところに近付いてきたのは珍しい顔だった。 「黄月」 「差し入れだ」彼が寄越した椀には煮売りの魚が入っていた。「もう動いて平気なのか」 「まあ……」紅花は急に大きくなり始めた腹を抱え、「どうにかこうにか」 彼は地震の直後に一度店を覗きに来て、それ以来だった。静に後を任せて奥の部屋に上がらせ、茶を出す。黄月は茶を啜るのもそこそこに紅花の脛を指で押した。 「え、何」 「むくみは無いな。眩暈は。食欲は戻ったか」 「ああ、里さんのお使いで来たの? 大丈夫よ。むしろ、つわりが明けてから食べ物が美味しすぎて困ってるわよ。見てこのお腹。今がこんなんなら、これからどうなんの? あたしよりあんたこそ、ちゃんと食べてるの。今日の夕飯は? ここで食べてく?」 「いや、ちょっと立ち寄っただけだ」 そう言って黄月が取り出したのは飾り気の無い小さな巾着だった。 「なあに、お小遣い?」冗談のつもりだったが、受け取ったそれはずしりと重かった。 「湊屋から売り上げが入った」 「売り上げって……これ結構あるんじゃないの。大丈夫なの」 「針葉も浬もいないんだから、入ってくる金が足りないはずだ。紅砂だってお前の世話にかかりきりで、自分の仕事は減らしてるんだろ。俺の心配は要らないから滋養のつくものを食べるように」 紅花はじっと手の中の巾着に視線を落としていたが、やがてそれを包み込むようにして立ち上がった。黄月に背を向け、棚の引き出しを開けてその中に入れる、と思いきや取り出したのは別の袋だ。口を縛った飾り紐が揺れている。 「同じようなこと言ってさ、織楽も置いてったのよね」 新春の公演が千秋楽を迎えたところで家に戻り、紅砂の置き文を見付けたらしい。少し前に小間物屋を訪れた彼が置いていった袋は、黄月に負けず劣らずの重さで、中身も可愛くない額だった。 「でもあいつ、今は物入りのはずでしょ。果枝さんと梨枝ちゃんを迎えるのに家借りてさ、蒲団だの箪笥だの鍋だの一式用意してさ、だから要らないって言ったんだけどさ……。あの馬鹿、まだ家に物を置いてるから間借り代だって」 「手を付けてないのか」 「だって使えないじゃない。家にだってほとんど帰って来てなかったうえに、今や立派な所帯持ちよ?」 黄月がふっと笑って茶を啜る。 「あいつらしい」 「でしょ、本当に馬鹿。どうせ要らない物ばっかりなんだから、早く片付けちゃえばいいのに」 「そうじゃなくて。紅花、あいつはわざと物を置いてるんだと思うぞ」 紅花が眉を寄せてくいっと首を傾ける。 「そうしておけば間借り代として金を入れられる。あいつなりの恩返しだろう。……家の奴らは皆お前の作ったものを食べて、お前の洗って干して繕ったものを着て、何年も過ごしてきた。お前の世話にならなかった奴はいない。汲んでやれ」 紅花は黄月をまじまじと見つめ、改めて織楽から受け取った袋に視線を落とした。この重み。そして、今気付いた温かみ。 「……じゃあ遠慮なく使わせてもらおうかな」 「そうするといい」黄月は膝を起こして立ち上がりかけ、「浬からは。何か便りはあったか」 紅花の顔がさっと曇った。押し込めた思いが喉で詰まり、息が苦しくなる。 「……何も」 「今回は随分と長旅だな」 「東雲に行くって言ってたけど……ねえ、東雲って酷いとこだと山が崩れたり川が溢れたり、家がいくつも潰れたりしたって聞いたけど」 「そうだな、湖の南から西で大きく揺れたらしいが」 「でもきっと大丈夫よね? 浬に限って巻き込まれたりしてないわよね?」 縋り付くように同意を求めたが、黄月はぴくりと片眉を歪めただけだった。 「そんなこと、俺に分かるはずがないだろう」 紅花の頬がさっと紅潮した。ぷるぷると震える唇を噛んで鼻の穴を膨らませ、黄月の衿をむんずと掴む。 「馬鹿っ! こういうときはね、こういうときは……っ、分からなくても、嘘でも、大丈夫って言うもんでしょ!」 涙目で怒り猛る紅花を、黄月は動じた様子もなく見上げていた。おもむろに彼女の腕を取る。 「紅花。お前は励ましてほしかったのか」 真っ向から問われて、紅花はまた顔を赤らめた。どうせ子供だと笑うのだ。ぷいと横を向いた彼女の手首を、黄月が掴んで座らせた。そのまま顔がぐいと近付く。 「大丈夫だ。あいつは見た目よりずっと図太いししぶとい。あの大火の中心地で生き延びた奴が、そう簡単に死ぬものか。巻き込まれようが何しようが、必ず帰ってくる」 険しい顔だった。紅花の瞳が揺れ、揺れ、やがてぐしゃりと顔が歪んだ。その肩を黄月がゆっくりと叩く。 黄月は不確かな言葉を好まない。それでも浬の無事を断言したのは、初めて会ったときの姿を思い出したからだ。 赤く染まった空。墨を塗りたくったように焼け果てた見知らぬ土地。山一つ手前には嘘のようにのどかな景色が広がっていたが、そこにも交戦の跡はあった。東雲びとらしき骸、飛鳥から送り込まれたらしき者たちの骸、瑞々しい春を凌辱するかのような血なまぐさい光景。それを越えた先、桜の花の振り積むその下で、浬は禍々しい血の匂いを放って佇んでいた。 彼の体には傷一つ付いていなかった。彼が着ていた血まみれの服に、彼の血は一滴も染み込んでいなかった。 あんな奴が、そう簡単に死ぬものか。 紅花がぐすっと洟をすする。黄月はしばらく彼女の肩をさすり、そっと止めた。 「……少し落ち着いたか」 「ありがと。……ごめん」 「あのー、花ちゃん」 突然割り込んだ声。紅花がはっと横を向くと、土間に続く戸が細く開いて静の顔が覗いていた。 「片付け終わったから、あたし帰らせてもらうね」 「あ……うん」 静の目がちらりと黄月に移り、紅花の肩に置かれた手に移り、紅花の赤らんだ目元に移る。そして突然握りこぶしを作った。 「大丈夫! あたし、これでも結構口は堅いのよ」 これほど不安になる「大丈夫」も無いだろう。紅花の声も間に合わず、静は戸の隙間から去った。黄月がぴくりと眉を動かして紅花から手を離す。 「何だ、今のいかにもお喋りそうな女は」 「うちで雇ってる静さん。変な誤解してたよね、今。ちょっかい出すのは紅砂だけにしといてほしいんだけど」 「紅砂の女か? あれが?」 「今どうなってんのか知らないけど、二人で出掛けたりはしてる」 「じゃああれが傘の相手か」 首を傾げた紅花に黄月が語ったのは、大雨の日に紅砂が斎木宅へ傘を借りに現れたという話だった。茶を誘ったところ、人を待たせているからと走り去ったという。 「桜の頃の話? えーと、確か揺れの前日の。じゃあ静さんよ」 黄月は神妙な顔で頷きつつ立ち上がる。紅花も裏戸まで見送りに立った。 「お爺ちゃんの具合はどう」 「相変わらずだ。もう長くないかもな」 前を行く背中からぽつりと帰ってきた言葉に、紅花ははっと息を呑んだ。こういうときは、そう。 「大丈夫、きっと大丈夫よ。あのお爺ちゃんがそうそう簡単に死んだりしないわよ」 「先生だって人だから、いつかは死ぬだろう」努めて明るく振る舞った紅花の声は一蹴された。 「早めに身辺整理をしておいてほしいんだが、あの人も強情で困る」 「あ、そう……」 裏戸を開けるとまだ通りは明るかった。夏至まであとひと月余り、日は長くなる一方だ。黄月の行く手から紅砂が帰ってくるのが見えた。すれ違いざまににやりと笑い肩を叩いていった黄月を、紅砂は訝しげに何度も振り返った。 役者たちの読み合わせの席で談笑していた織楽の頭を、誰かの拳が乱暴に叩いた。織楽は大仰に顔をしかめて上を向く。天井との間に割り込んできたのは片桐の顔だった。 「……ったー、何やな」 「何だじゃねえよ。お前ぁもう帰っていいって言われてんだろ。かみさんと娘が帰ってきたって、さんざ喜び回ってたのはどこの誰だ」 織楽は飛んでくる唾を手で払って不満げに後ろを振り向く。反論しようと口を開いたところで、周りから「お疲れさん」「またな」いくつも言葉が飛んできて何も言えなくなった。正本を掴んで立ち上がる。 「ほな帰るわ」 「おい」 廊下に出ても片桐の声が追ってくる。織楽は足を止めなかった。片桐は足を速めて織楽の横に並ぶ。 「何を苛ついてる」 「何も」 「じゃあ何だっていきなり……。ついこの前まで、娘が待ってるからって誰より早く帰ってただろ」 織楽は視線を前に向けて歩き続ける。自分を案じているらしき片桐の声が、今はただ鬱陶しかった。 織楽が一念発起して果枝たちの帰る家を用意したのが、ふた月前のことだ。舞台の合間を縫って家を探し、家財を選び、果枝と文をやり取りし、ようやく迎えた千秋楽の翌日、彼は打ち上げもそこそこに果枝の郷へ出発した。その途中で揺れにも見舞われたが、幸い彼の通った道や果枝の郷に大きな被害は無く、郷での歓待を受け大いに惜しまれながら、ようやく妻と娘を連れ帰った。 それからしばらくは良かった。季春座にほど近い長屋に果枝が馴染むのにも、よちよち歩きを始めた梨枝が織楽の顔を覚えるのにも充分な間があった。織楽自身も、果枝と梨枝を連れて季春座に挨拶回りをし、梨枝の癇癪をなだめ、おしめを替え、ぐちゃぐちゃになった食事の後片付けに手を焼き、危なっかしいあんよに付き合った。 しかし夏の納涼公演を控え、読み合わせのため季春座へ通うようになって数日が過ぎた頃。その頃は織楽も早めに帰っていた。彼が長屋の戸を引くと、梨枝が目をらんらんと輝かせ、しゃもじ片手に嬉しそうに歩いてきた。織楽も目尻を下げて、下駄を脱ぐのももどかしく娘を抱き上げた。 「りっちゃぁん、寂しかったわぁ。お父ちゃんの顔ちゃんと覚えてんねんなぁ。賢い賢い」 「織楽さんが帰ってくると、はしゃいじゃって」 最初はそう笑いながら織楽の飯を用意していた果枝だったが、その暮らしが数日続くと、その後にひと言付け足されるようになった。――はしゃいじゃって、「なかなか寝てくれないんです」。 確かに織楽が休みの間よりも、梨枝は夜更かしになったようだった。織楽が気付かない夜泣きもあるようで、目をしょぼつかせながら朝の用意をする果枝の姿も頻繁になった。 ある日、織楽は少し帰りを遅めた。梨枝はもう眠っているだろう、そう思って引いた戸の向こうでは、今まさに果枝が寝かし付けをしているところだった。寝返りしながらうつらうつらしていた梨枝は中途半端に覚醒して大泣きし、果枝は織楽に目もくれず、娘を抱いて長屋を出て行った。取り残された織楽が冷めた飯を食べ終えた頃、果枝がようやく眠りについた梨枝を抱えて戻ってきた。謝る織楽に、果枝は押し殺した表情で、何も言わず首を振った。 以来、更に帰りを遅めた。梨枝が確実に眠ったであろう遅くに、冷たい飯の残る家へ、寝顔を見に。果枝の声を聞きに。そろりと戸を開ける。 「ただいま。梨枝、もう寝てる?」 「お帰りなさい。ぐっすりです」 小声で交わす会話にも、もう慣れた。暗い灯りの中で食べる冷たい飯にも。起こさぬようそっと衝立の脇から眺める娘の寝顔にも。 果枝は織楽の器を洗う。織楽はその後ろで季春座の話をする。 「早瀬が皐月に言い寄ってたんは知っとるやろ、何やかんや貢ぎたおして。とうとう皐月も根負けしてくっついたみたいやで」 「えー、早瀬くんですか。あの人どうなのかなあ。ちょっと調子がいいというか、口が上手い人って感じで心配」 「ほんで本川は本書きの森宮の娘の、何やったかな、その子にご執心で」 「茱歌ですか? 本川さんが? でも茱歌って私より年下ですよ」 「そうなん? あいつもようやりおる……いや、その子の書き物の腕に惚れてるだけかもしらんけど」 果枝の笑い声。彼女は器を立て掛けて手を拭う。これで片付けは終わりだった。 「あ、じゃあ私、そろそろ休みますね」 織楽は唇を結ぶ。もう慣れた――片付けが終わると、途端に話を切り上げて眠る支度を始める果枝にも。 「果枝」 背後から抱き締める。耳元に顔を寄せる。布越しに伝わる柔らかさを指で味わう。そしてその奥、 「あの」 果枝の手が、織楽の手を押さえていた。今の今まで水を使っていた冷ややかな手。 「ごめんなさい。昨日ね、梨枝の夜泣きが酷くて……私も眠たいし、今日また突然泣き出すかもしれないから、できれば早く横になりたいんです」 「夜泣きしてた?」 「夜中、二度起きましたよ。気付かなかったんですか」 果枝が振り向く。非難するように向けられる視線に、返す言葉は無かった。果枝は黙った織楽から顔を背ける。 「いいんです、起きてほしいって思ってるわけじゃなくて……。ごめんなさい、何言ってるんだろ私。やっぱり休みます」 土間から上がる果枝の背中を見送り、織楽は板間に腰掛ける。果枝は梨枝の手前に置いていた衝立を動かし、二人分の蒲団をその隣に広げる。 「果枝」 果枝は口を閉じたまま視線だけをちらと投げた。 「お前に早よ帰ってきてほしくて、色々言うたし用意もしたつもりやったけど、……間違いやったか。お前は郷で気心知れた人らとおるんが幸せやったか」 果枝の顔が歪んだような気がした、が暗い中ではよく見えず、彼女は蒲団を被って横になった。黒い髪がひと房こぼれている。 「明日にさせてください」 「果枝」 静かな夜に自分の声だけが響く。織楽は項垂れて下駄を脱ぎ、 「……私はずっと待ってました。こっちに帰れる場所を作ってくれるのを」 背中から聞こえてくる声が現のものと気付いて、織楽は目を開けた。 「上手くいかないですね。ごめんなさい。ちゃんとしたいのに……」 声がかすかに震えている。夜闇が刺すように痛い。織楽は少し迷って、また瞼を下ろした。 目が覚めると既に果枝は起き出していた。とんとんと包丁の音。彼女がいた場所には蒲団の代わりに衝立が置かれて、すうすう眠る梨枝を朝の光から守っている。 「……おはよ」 「おはようございます」 果枝は手を止め、何事も無かったかのように振り返って笑った。その目元が腫れている。 「俺も何かしよか」 「ううん、あと切って火にかけるだけなんで」 織楽は自分の蒲団を畳み、土間に足を下ろして座った。果枝は湯気の立った鍋からオビノモを引き上げ、まな板の上のハタネを手際よく放り込んでいく。 「……私ね、結構不安だったんですよ、こっちに帰る場所が無くて。梨枝を負ぶって舞台に立てるわけもないし、じゃあ役者長屋は使えないし。あんな狭い集落で一年も家にいると、捨てられたんだろうとか勝手なこと言う人もいて。織楽さんは一緒になろうって言ってくれて、それは本当に嬉しかったけど、一緒に暮らす場所のことは考えてくれなかったし」 「いや、考えてへんわけちゃうて、お前が帰りたいて言うてくれたら、すぐにでも家借りよう思ててんで」 「私がそう言ったら?」 「すぐにでも、借り……うん」 声が徐々に小さくなる。実際は、公演中の慌ただしさも災いし、全て整えて暮らせるようになるまでひと月近くかかった。 「梨枝がお腹にいるときだって。お腹が目立ち始めてからは舞台にも上がれなくて、でも役者長屋に居座るしかなくて、肩身が狭かったです」 「それは……ほんまにごめん。自分でも阿呆や思うけど気ぃ付かへんかった」 包丁の音。果枝は順々に切ったものを放り込んで蓋をする。 「なあ、これからのことやけど、納涼公演が済んだら顔見世まで休もうか思て」 「え」果枝が目を丸くして振り返る。「どうしたんですか」 「そもそも夏公演は規模もちっちゃいやん。暇やったらちょこちょこ出て稼ぐけど、今は蓄えもあるし、そこまでせんでええかなて。それより果枝と梨枝と一緒におりたい。一年離れてたぶん取り戻したい」 暇さえあればいくらでも役を引き受けるのが織楽だった。だから二人で出歩く機会も数えるほどしか無かったし、果枝の郷へ向かうのも遅くなったのだ。あまりの変わりように呆然としていた果枝は、鍋の煮立った音に慌てて蓋を取った。 「なあ、俺の組の宮村とか、乙の組やったら泉崎でもいいねんけど、家が割と近くやねんて」 「はあ」果枝は味噌を溶き入れながら生返事をする。 「どっちも梨枝と同じくらいの子がいる言うてたし、今度会いに行ってみぃひん。それから紅花、覚えてる? あいつも今腹大っきいねん。色々教えたって」 果枝の目が織楽を見つめる。少しうつむいた視線が再び織楽に向けられたとき、彼女の頬は少しだけほころんだように見えた。 「……あ?」 きょとんとした声が割り込む。二度くしゃみ、続いて衝立の向こうからごそごそと蒲団を乗り越える音。織楽は体をひねって振り返った。 「りっちゃん、おはよ」 寝癖のついた娘がよいしょと立ち上がり、よたよたと足を踏み出したところだった。 正月に風邪をこじらせた斎木は、一時は快復したもののまた肺を患い、起き上がれない日が続いていた。このところ、一時期より容体は良くなり悪態は増えたが、体力そのものが落ちたようだった。 庭から草や根を摘んで戻ってきた黄月を、彼は腕を上げて呼び止めた。 「おい愛弟子」 「俺のことですか」 黄月は足を止めず、顔すら向けずに答える。 「儂の可愛い織楽はまだ見舞いに来んのか」 「先生の可愛い織楽と同じ奴かは分かりませんが、俺の知ってる織楽なら、最近妻と娘が帰ってきたようですよ。芝居以外はそちらにかかりきりでしょう」 笊ごと盥に入れて土を洗い落とし、引き上げて水を切る。斎木の惨めったらしい声が蒲団の中から這ってくる。 「先の短い哀れな老いぼれの見舞いにくらい来てくれてもいいだろうに……一体儂が何をしたっていうんだ」 「先の短い老いぼれの自覚があるのなら、とっととこれまでの取引先を吐いてください」 「こら、誰が老いぼれだ! 恩を仇で返しやがって。口が裂けてもお前にだけは言うもんか」 いつまでたってもこの調子だ。埒が明かない。黄月は大笊を取って草や根を並べていく。全て並べ終わっても斎木はへそを曲げたまま、蒲団を頭まで引き上げて何も聞かぬふりをしている。黄月は溜息をついて呟いた。 「……顔見世までには一度顔を出すよう言っておきますよ。一応は後ろ見ですからね」 「夏のうちに来てくれ」 即座にくぐもった声が答えた。呆れた人だ。黄月は蒲団の中の膨らみに目をやる。 「あいつの都合もあるでしょう」 「夏のうちだ。儂が夏を越せるか分からん」 言い返そうとして開いた口を、黄月は閉じた。斎木は自分の状況を、意外と冷静に見ているのかもしれなかった。 「……言うだけ言いますよ」 「本当か!」 斎木は蒲団をがばっとはねのけた。痩せた手足が露わになる。痩けた頬は、それでもほくほくと緩んでいた。 「言うだけです。来る保証はしません」 「お前が言えば来るさ。あいつはお前に惚れてやがるからな」 「何を馬鹿な。いいですか、言うだけですよ」 念を押すが、だらしなく口元をにやつかせる斎木がどこまで聞き入れるか。黄月が項垂れて、織楽を売った罪の念に苛まれ始めたとき。 「よし、そうと決まりゃ。何だ、取引先か、お前が知りたがってたのは」 「……え、言う気になったんですか」 「墓場まで持って行っても仕方あるまい。どれ、書くもん寄越しな」 斎木は腰に枕を当て、蒲団を膝まで寄せる。黄月は慌てて大笊をそこに置き、文机を運んできた。斎木の気が変わらぬうちにと急いで墨を磨る。それを見てしゃがれた笑い声。 「そう焦らんでも逃げやしない。……いつかこんな日が来ると思ってたが、お前に継がせることになるとはな。 黄月は一心に墨を磨る。硯の海に溜まった黒を伸ばし、波止へ押し、また引く。 「可愛くもない餓鬼が来たってがっかりしたもんだ」 黒と黒、いつまでも続く墨の往復が、あの日の記憶が呼び覚ます。 黄月が針葉の前の長、前羽と出会ったのはまだ九つの秋だった。 その年の初め、雪解けと同時に彼の一家は壬北部の擂り鉢のような里を抜け出した。初めはただ峠を越え、飛鳥に乗っ取られつつある里の状況を上松本家に訴えるつもりだったが、そこで見たのは、謂れのない罪状を書き連ねた父の人相書きだった。 行く先々に顔と名が貼り出される、追い掛けてくる。国を出るより他に道は無かった。侵されつつある里を護ろうとした黄月の父は、国から追われる立場となった。そして坡城まであと一歩となった豊川領の関の手前で、彼の母は不運にも枕探しに殺され、遅れて宿に着いた父が枕探しとして捕われた。 彼の父は、息子が無事であることを知らなかった。救おうとしたものに裏切られ、名に泥を塗られ、年明けから続いた逃避行で身も心も擦り切れていた。それでも家族だけは護ろうと、心を繋ぐ最後の支え、最後の綱だったのだ。それがぷつんと切れ、もう生きる気力を失っていた。仕置場へ引っ張られていくときも、見物人から罵倒され嘲笑されてさえ、彼の父は何も言わなかったそうだ。 黄月は右も左も分からぬまま、父の潔白を晴らしたい一心で仕置場へ辿り着いた。そこで前羽と針葉に出会った。 後で聞いたところによると、前羽たちは仕置場ではなく、その近くにある豊川の邸を訪れた帰りだったらしい。黄月は彼らのことを、歳の離れた親子、もしくは歳の近い祖父と孫だと思った。 前羽が機転を利かせて真の枕探しを捕えたが一歩遅く、黄月の父は首を落とされ帰らぬ人となった。前羽が枕探しの処遇を黄月に任せたので、黄月は迷うことなくその男を、父に仕込まれた草の知識でもって殺した。 前羽は止めなかった。後悔するなと言っただけだ。 それでも思うところはあったのだろう。彼はそのまま黄月を連れ帰り、年が明けて坡城の生活にも慣れたころ、間地の斎木のもとへ連れて行ったのだ。 前羽が黄月だけを連れて出掛けるのは初めてだった。狭く入り組んだ道の先に辿り着いたのは、何の変哲もない長屋だった。その一つの戸を前羽は遠慮なく引いたが、中は薄暗いうえに際限なく散らかり、誰の姿も見えなかった。 「おい、いないのか」 前羽はずかずかと中に入り込む。歩いたそばからもうもうと埃が上がるのを見て、黄月は眉をひそめ戸の外で待った。 「斎木!」 すると、廃墟に思われたその奥からごそごそと物音が聞こえた。前羽は立ち止まり、黄月も鼻と口を覆ったまま首を伸ばす。 「るっせえな……まだ昼にもなっちゃいないだろ」 現れたのは目の腫れた男だった。寝起きの声がかすれている。艶のない髪には白いものが混じり、年の頃は前羽より上のようだ。ぼりぼりと頭を掻いたところからふけが落ちて、黄月は更に顔をしかめた。 男は眉間にぎゅっと皺を寄せて前羽と黄月を見分し、ふんと鼻を鳴らして手を振った。 「何だお前ら。今日は誰も診ないぞ、帰った帰った」 「怪我なんざしてねえよ、とにかく茶くらい出せ」 前羽はどっかと座り込んで黄月を手招いた。黄月は静かに首を横に振る。 「おいおい、んな事されちゃあ本当に困るんだって。あんた餓鬼の前だろ、悪いこと言わんから黙って帰んな」 「そう言う手前は、まともに餓鬼の一人や二人作ったのかよ。昔ぁ男の尻ばっかり追い掛けてやがったが」 男はぽかんと口を開け、前羽の顔をまじまじと見つめた。 「まさか……いや、でも面影が……。えー、どっちだった、確か」 「前羽」 「そうそう、可愛かったほうだ。……ってお前、えらい汚く老いさらばえたなぁ。昔は可愛かったのに……。畜生、こんな風になるまで生きやがって、この死に損ないめが。俺の夢を返せ」 「死に損ないはこっちの台詞だ、色呆けの糞爺めが」 黄月は顔をしかめたまま事態を見守る。どうやら二人は旧知の仲らしい。ひととおり悪態をついた後、男がきょろきょろと周りを見回した。 「でかい方は来てないのか。挨拶に来るんならあっちだと思ってたが」 瞬きの間を挟んで前羽が口を開く。 「 「しくじったのか」 「危ないとこまで足を突っ込み過ぎてな。俺もすぐにあっちを離れる羽目になった」 「……そうかい。じゃ、あの坊主が忘れ形見か。にしちゃ似てないな」 「あいつはこの前壬で拾ったんだ」 前羽が黄月を手招く。黄月は顔をこわばらせたまま戸をくぐり、下駄を脱いで上がった途端、足の裏のざらつきに顔を引きつらせた。 「利巧そうな顔してるだろ、手前んとこでこいつを鍛えてほしくてよ。ほら黄月、お前も頭下げろ。斎木はこれでも医者だぞ」 頭を下げたい相手ではなかったが、その前に斎木が首を振った。 「冗談じゃない。んな七面倒くさいこと、ここじゃ扱ってないね。帰んな」 「冷たいこと言うなよ。昔のよしみだろ、ここは一つこっちの顔を立てろって」 斎木は小さく舌打ちして黄月を上から下まで睨め回した。すぐに顔を背ける。 「好みじゃない」 「だから安心なんじゃねえか」 黄月は掌の汗をそっと袖で拭った。もし自分があの男の好みだったら、一体どうなっていたというのだ。 「お前、名は」 「秋月隼太です」 「ふん。お前なあ、どうせこいつに適当なこと言われて来たんだろうが、ただで何でも身に付けられると思うな」黄月を指差し、顔を歪めて笑う。「お前の仕事はここの世話だ。飯と寝る場所より他は知ったこっちゃない。腕を得たいなら勝手に盗みな。一度でも泣き言を言いやがったら、そのときは容赦なく追い出す。分かったな」 「結構です。よろしくお願いします」 前羽が自分をここに送り込む以上、やるしかなかった。この汚い男が本当に医者なら悪い話ではない。この家は胸の悪くなるような汚さだが、一度片付けてしまえば、狭いぶん山の上の家より維持しやすいだろう。 あっさりと頭を下げて返され、斎木は調子を狂わせて黙った。前羽がくくっと笑う。 「な、利巧だろ」 ――前羽はその三年後の初冬に亡くなった。彼も、そう遠くない自らの死期を悟っていたのかもしれなかった。 黄月は斎木の書き付けを手に取る。薬問屋、薬屋、医者仲間、本屋、金払いのいい往診先。思ったとおり、黄月が知る以上に手広い関わりを持っていたようだった。 「全部が全部使えるとは限らんぞ。後は自分で好きにやれ」 斎木はそう言ってまた蒲団にもぐり込んだ。黄月は書き付けを棚に仕舞い、ふと戸を見る。日はとうに傾いたが、本を受け取りに小間物屋へ行ったゆきがまだ帰ってこない。 胸騒ぎがして表へ出た。角を曲がり、ゆきの姿を探す。次の角を曲がり、また一つ曲がる。 ふと足を止めて道を戻った。狭い路地裏の奥で小さな影が揉み合っている。「おい」一歩踏み出したそのとき。 「生意気なんだよっ」 ぺっと土の上に引き倒されたのはゆきだった。何かを守るように丸く小さくうずくまっている。それを蹴る足。三つの小さな影が、ゆきを取り囲んで見下ろしていた。 「口もきけないくせに、んなもん大事そうに抱えやがって。ん、文句あんの? あるなら言ってみろよ、ほら」 「おい行くぞ」 ん、と顔を上げた子供は、駆け寄る黄月を見て顔色を変え、さっと姿を消した。 「ゆき」 黄月が抱き起こすと、ゆきは恐る恐る目を開けた。顔も衣も土で汚れている。はっとその視線が土の上に注がれた。 彼女が小さな体で守っていたのは借りてきたばかりの本だった。それも土に汚れ、所々破れている。ゆきが顔をぐしゃりと歪めた。涙がぼろぼろと零れる。土で汚れた頬に涙の筋が走る。 この少女は自分のためでなく、踏みにじられた大事なもののために泣くのだ。黄月は遣り切れない思いで彼女の体の汚れを払う。 「大丈夫、本なら直せる。それよりお前の手当てが先だ」 汚れた本を小脇に抱えてゆきの手を引き、家路を急ぐ。黄月の耳に蘇ったのは暁の言葉だ。「間地の子供がゆきに嫌なこと言ってるみたい。ゆきと同じくらいの歳の子が三人」。三人、あれか。 薄暗い路地ではあったが、黄月ははっきりと三人の顔を見た。 彼の目には怒りが灯っていた。 戻 扉 進 |