川を渡ったところには数歩ほどの狭い河原があり、すぐに岩だらけの崖が立ち上がっていた。見上げた先にほんの少し枝が突き出し、赤い紐が揺れている。対岸からは低い崖に見えたが、真下から見れば途方もない。
「じゃあちょいと行ってきます」
 榎本が川に渡していた縄を回収し、ぐるぐると肩に担いで岩に手を掛ける。
「き、気を付けて」
「へへ、任しといてくださいって」
 軽口を叩いたそばから、彼の足を支えていた小石がぱらぱら落ちる。黒烏や浬は平然と見守るが、これはできて当たり前なのだろうか。暁が口を押さえてはらはらと見守る中、榎本はひょいひょいと確かな道を選んで幹に縄を二本結んだ。
「さ、どうぞ」
 牙はぐいと縄を引いて強度を確かめ、榎本の通った道をゆっくりと辿った。続いて全員の荷物をまとめ、次々に引き上げる。それが終わると苑が縄を握り、一本を暁の腰にしっかりと結わえた。
「暁殿、私と同じところに手足を掛けてください。もし何かあってもこちらの縄が支えています。浬殿、後ろから支えてくださいますか」
「分かりました。暁、両手両足の四つのうち三つは、必ず安定したところへ置いておくようにね。一つを離して体がぐらつくようならすぐに言いな」
 縄にいくつも付いた結び目が手助けとなった。苑と浬に挟まれて、斜めよりも垂直に近い岩場を辿る。時には、爪先分しか足を掛ける場所が無かった。
「暁、右足はもっと右。……そうだ。ゆっくりでいいから気を付けて」
 ずるっと足が滑る、浬の腕が腰を支える、持ち直す、苑の指示どおり進む、縄を掴む掌がひりひりと痛む。
 苑は既に上り切ったようだ。見上げたところに赤い紐が揺れている。その前に見下ろす影が三つ。縄を握る。
「よし、後は引き上げます」
 牙の声がした途端、ぐいっと体が浮き上がる。暁が身を縮めた次の瞬間には膝が土に着いていた。
「よく上られました」
 今更に胸がどくどくと鳴るのを感じていた。掌はすりむけて赤く染まっている。爪には土や砂利が詰まっている。脈に合わせて痛みが体を巡る。上っている間は気付かなかった。
 振り返ると、浬が腕をついて体を引き上げるところだった。
「炎、次はお前が上がってこい。暁殿が手を痛めておられる」
「あ、いや、このくらいは」
 否定する間もなく、炎が大柄な体を物ともせずに上がってきた。
「そう酷くはありませんね。洗い流したいところですが川の水も濁ってるし、今はこれで」
 布に飲み水を湿して傷を拭い、晒しを巻く。暁が崖に戻ると、残った至と真が睦月の体に縄を結わえていた。不思議そうに胸の縄を触る睦月を、至が改めて背負い紐で縛る。
「では次は私が」
 至が縄を掴む。細身の彼なら容易く上がれそうなものだったが、背中の睦月がきょろきょろと周りを見ては枝や石に手を伸ばし、半分ほど上ったところで「こわい、おりる!」と暴れ出した。
「睦っちゃん、危ないよ! おとなしくして!」
「大丈夫、もう上がります」
 至が笑ったそのとき、遠く唸るような音が聞こえた。彼は縄を掴もうと伸ばした手を引っ込めて左右に目をやる。細かな揺れ。
「また揺れ!?」
「いや、違います。これは……」
 彼の目が水面を捉えた。川の水が先程よりも濁っている。上流は緩やかに曲がり、その先は見えない。だがそちらから近付いてくる響き。濁りが意思を持った手のように素早く水の中を広がっていく。息を呑む。
「真、急いで上れ!」至はそう言うなり猛然と次の縄を掴み、体を引き上げる。「山津波が来る!」
 真が慌てて縄に取り付く。
 濁った水がしぶきを上げてどうと流れ込んだ。土砂や枝葉を巻き込んだ重い流れ。崖の下にあった河原は瞬時に濁流に呑まれる。
 真の足場ががらりと崩れた。ずり落ちそうになる体を必死で手の力だけで支え、流れをやり過ごす。上流からは枝葉や土砂の他に、大きな板や縄がいくつも連なって流れてきていた。
「さっきの橋……!」
「真、縄を離すな! このまま引き上げる」
 炎が縄を掴んでぐいと引くと、濁流の中から泥に汚れた真の半身が現れた。次々に加勢の手が加わり、真はさんざん岩に体を打ちながらも崖の上へ引き上げられた。
「無事か」
 真は荒い息のまま自分の腰を示した。
「色々ぶつかってった。……進むのは厳しい」
 炎が見るまでもなく、真の着物には血の滲みがいくつも広がっていた。
「もうこのまま行くだけだ、道案内は必要無いでしょう。足手まといは置いてってください。その代わり、櫻を拾うときには俺のことも忘れないでくださいよ」
 真が牙ににやりと笑ってみせる。崖の下では未だごうごうと濁流が渦巻いていた。

 櫻と真の二人を失いながらも一行は進む。まずは先に行った群れと合流しようとしたが、三人のうち誰一人として呼び掛けに応じなかった。炎が榎本を睨み付ける。
「おい、本当にこの辺りで合ってるんだろうな」
「合ってますって。昨日俺も崖の下まで来たし、赤い紐が結んであるの見えたでしょう」
 浬ががさりと草をかき分けて現れた。「向こうに野営の跡もありました。この辺りにいたのは確かなようです」
「日が暮れるまでに越えねば。とにかく進みましょう」
 牙の一声で緑深い道なき道を進んでいたが、程なくして先頭を行く牙が足を止めた。
「暁殿、お下がりください。……炎、苑、至」
 牙が黒烏たちを伴って丈高な草の向こうに消えた。後には至に代わって睦月を背負う浬と、暁、榎本が残された。
「何……?」
 互いの顔を見合わせてそろそろと歩を進める――途中で浬が立ち止まって腕を上げ、暁の行く手を遮った。
「行くな。下がれ」
「浬?」
「人が殺されてる」
 暁は目を見開いた。顔を背けるまでの一瞬に目に焼き付いたもの。だらんと弛緩して倒れた二つの体。浬の脇から覗き込んだ榎本がひっと声を上げた。「た、橘さん。橘さんだ、あれ」
 遺体を見分していた四人が、その声に気付き戻ってくる。榎本は真っ先に牙に走り寄った。
「あれ、橘さんですよね」
「ああ。もう一人も共に放った黒烏だ。だがあと一人、玲がいない。逃げ延びたか連れ去られたか」
「そんな。昨日会ったとこなのに……どうして」
 しかし取り乱す彼の首元に、炎が刃を突き付けた。榎本が動きを止める。ごくりと唾の音。
「お前がやったんじゃないと、どうして言い切れる。最後に会ったのはお前だろう」
「そんな……俺はそんなこと」
 炎の手を掴んだのは浬だった。
「やめてください。野営の跡があったということは、榎本さんと別れてから殺されたということでしょう。それとも昨日殺された確かな証拠がありましたか」
 炎はじっと浬を睨み付け、刀を鞘に仕舞った。榎本はささっと炎から離れて胸を撫で下ろす。
 浬は負ぶい紐を解いて睦月を胸に抱えた。
「苑さん、申し訳ないけれど睦月をお願いできますか」
「ええ」
「それから、真さんの分の刀があるでしょう。使わせてください」
 牙が荷を下ろして刀を抜き取る。刀はひとふりを残して暁を除く全員の腰に下がり、苑も胸に小刀を忍ばせた。
「心せよ。……参りましょう」
 暁と睦月を背負った苑を囲むようにして、一行は進む。誰もがぴりぴりと神経を尖らせているのが、暁にも分かった。周りに目をやり、木々の伸びる空を仰ぐ。誰もいない。鳥の声がのどかに響く。
 牙の隣に浬が並んだ。
「野盗の類ではないでしょうね」
「野盗に殺される者たちではありません」
 葉擦れの中にちゃらちゃらと水の音が混じる。涼やかな風が吹く。
 草と倒れた灌木の枝に覆われ獣道のようだった足元は、いつしか人に踏み固められた道となっていた。行く手にせり出した大きな岩を回り込んで先へ進む。
「菅谷領の周りに網を張っているんでしょうか」
「恐らく。その上で道がいくつか潰れて絞り込みやすくなったのでしょう」
 見通しの悪い道だった。ぐるりと回り込む先が見えず、勾配もきつい。人が二人やっと並べるほどの細さで、道を外れると麓まで転げ落ちてしまいそうだ。浬はぐるりと辺りを見回す。
「静かですね」
「ええ、気味が悪いくらいに」
「もし僕が仕掛けるならここですね」
 暁は弾かれたように顔を上げた。彼女の前を歩く至が、しかし、と声を挟む。
「この狭さでは、仕掛けてくる相手も命を落としかねませんよ」
「いえ、仕掛けるというのは……」
 そのとき暁の足が何かに引っかかってもつれた。生き物のように地面から突き出した木の根だ。後ろを歩いていた苑がしゃがむ。
「暁殿」
「大丈夫です」
 立ち上がろうとしたところへ、ぱらぱらと砂が触れる。はっと天を仰ぎ、
 ――黒い影が落ちてくるのが見えた。
「走れ!」
 牙の声。木の根に足を取られながら一目散に駆け抜ける。どす、どす、と背後にいくつも鈍い音が続き、そのまま転がり落ちて枝をぼきぼきと折っていく。岩だ。赤子の頭ほどもある岩が、次々に降ってくる。人の手によるものか、そうなるように仕掛けたのか、上を見る暇すら無い。
 急な曲がり道では至が暁の手を引いた。喉を涸らしながら、落ちぬよう、転ばぬよう、とにかく足を前に出す。
 ――「仕掛けるというのは」。何も、人が刀を手に現れるだけではないのだ。
 暁は息を切らしながら足元と前とに交互に目を向ける。牙が駆け抜ける先の道が広くなっているのを見る。もう少し、あと少しで抜ける。
 あと少し。
 ――ぎいん、と大気を揺らす刀の音。
 突然岩の後ろから現れた影と、牙が抜いた刀の、刃が交差していた。ざざっと葉擦れの音。
――――っ、」
 牙はそのまま力で押し切り、相手を跳ね飛ばした。
「止まるな!」
 待ち伏せていたらしき影が、見えるだけで五つ六つ。牙が、続いて浬が、至が、細い山道を抜けた順にその中へ躊躇いなく飛び込んでいく。
「こちらへ!」
 暁の手を引いたのは苑だった。牙たちが突き進んで作ったわずかな隙間を縫うように、刀の音から離れて身を隠す。振り返ると、炎、榎本らしき影も刀を抜いたところだった。
 暁は体を折り、激しく肩で息をしながら、目を丸くして怯えている睦月の口を手で覆う。
「大丈夫です。落ち着いて息をしてください」
 苑の手が背中に触れて、暁は少しずつ息を取り戻した。改めて刀の音の響くほうを見る。敵らしき影は更に増えていた。
 牙は頭領と呼ぶにふさわしく、無駄のない動きで一人ひとりを確実に追い詰めていく。それを補佐するように素早く駆け、容赦なく間違いなく急所を狙うのが浬だ。大きな刀を軽々振るい力で押すのが炎。至は岩が当たったのか足をかばって押され気味だが、頼りなさそうに見えた榎本が、至を狙う者を軽々とした身のこなしで斬りつけていく。
 影が現れては消える。いくつかは地に倒れ、いくつかは退いて隙を窺い、また現れる。
「今のところは押しています。ですが相手の数が多い……。足場の悪さにも慣れていますね。もし途切れぬようであれば、危なくともここを抜けて走りましょう。命に代えてもお護りいたします」
 暁は頷き、また戦地を見た。
「……浬が戦う姿を初めて見ました。黒烏や、榎本さんがこういう場に慣れているのは分かっていましたが、……」
 彼は顔色一つ変えずに刀を振り、血を浴びていくつも骸を築く。もはや動かなくなった体を躊躇なく盾にし、塵のように投げ棄ててなお進む。
「四年前……私どもが暁殿を東雲へお連れしたとき、浬殿が迎えにお見えでしたね。湖から続く森には護り衆が散らばっておりましたが、浬殿のことを知る者は、牙の他にはおりませんでした。侵入者を立ち入らせんと、皆が仕掛けました」
 紅砂と浬が助けに来たときだ。暁の世話をしていたすずが突然姿を消し、程なくして暁が助け出されたときには黒烏の一羽も残っていなかった。
 苑の目は血飛沫の舞うほうから離れない。ゆっくりと瞬く。
「護り衆はあの日、半分に減ったのです。浬殿お一人の手によって」
 暁は目を見開いた。
 刀の音は続いていた。至は動きが鈍くなり、榎本が彼を庇うように応戦する。残りの三人は疲れが見えるものの、じりじりと場所を変え、岩壁のあるほうへと敵を追い詰めていく。
「押してる。押して、ますよね」
 しかし苑は厳しい表情のまま、じっと目を逸らさなかった。
「あの三人は散らばっていましたよね。それが今、同じ場所へ……誘い込まれている?」
 苑は暁の腕をぐっと掴んだ。
「とにかく、今なら道が空いています。行きましょう」
 苑に倣って低い姿勢で草をかき分けながら、暁は移動を始める。足元は元々の地面の起伏に加え、木の根が絡み大きな石がごろごろ転がっている。この足場でよく刀を振り回せたものだ。浬たちも、何者か知れない敵も。
 風が澱んでいるのか、血の匂いが突然鼻に流れ込み、暁はうっと口を覆った。
 視界の端に赤いもの、人の肌、髪、体の一部、衣。右にも左にも、どこに目を向けても。胃から酸いものがこみ上げる。
 睦月は、前を行く苑の揺れる背にしがみ付いている。何を見、何を聞いて、何を嗅ぎ、何を思うのか。
 どうか、と強く祈る。どうか、睦月が今日のこの日を忘れてしまうように。
 骸の山を抜けたと思ったそのとき、足首に何かが引っ掛かった。危うく木の根に手をついてこらえる。振り返ると、血まみれの手が暁の足首をがっちり掴んでいた。地面に突っ伏していた男が、体をわずかに持ち上げて暁に這い寄る。その顔は土気色をしているのに、目ばかりがぎらぎらと血走っている。もう一方の腕には刀が。
 さっと背すじが凍った。振り払おうとするが指の力は強く離れない。
 男が腕を振り上げる。
「っ――!」
 苑が音もなく戻り、その腕を小刀で斬り落とした。動けずにいる暁の目の前で、更に首に刃をめり込ませる。完全に動かなくなったところで、未だ暁の足首を掴む指をぐいと外した。
「お怪我は」
 暁は首を振って答える。声も出なかった。足首には指の跡が生々しく残っていた。
 どすっと鈍い音。はっと顔を上げると、榎本がとどめを刺したところだった。彼は額を拭って周りを一瞥し、戦の中心地から彼と至の二人が取り残されていることに気付いたらしい。未だ刃打ち合う音の響く岩壁へ駆け寄り、力の限り叫ぶ。
「気を付けて! そっちは危ない!」
 枝を掴み、幹を蹴って大きく跳び上がる。
 岩壁の上から音もなく降ってくる人影。浬たちからは完全に死角だった。刃が振る――
 その脛を、榎本の切っ先が捉えた。
 それでも刃は止まらない。
 頭上を覆う影にはっと飛び退く牙、浬、しかし炎が一瞬遅れた。その肩からぶしゅっと血が飛び散る。呻き声。
 そこからの決着は早かった。ひとところに集まった敵を容赦なく薙ぐ刀。榎本が軽々と樹の上を駆け、葉影や岩の上に潜んでいた者たちを斬りつける。
 最後の一人の喉を貫いたのは炎だった。音が止み、静寂が訪れる。
 息を殺していた苑が、すっと立ち上がった。暁も続いてそろりと立ち上がる。遠目に見た牙の顔は誰のものとも知れぬ血にまみれ、表情が窺えなかった。
「……ご無事でしたか。良かった。……しかし苑、お前が先へお連れすべきであろうが」
「はい、申し訳のうございます」
 深々と頭を下げる苑の声は、しかし安堵に満ちていた。

 少し歩いた先で沢を見付け、男たちは着物を替えた。至の足は腫れ上がり、炎の肩の傷も大きかったが、どちらも深傷ではなかった。
 睦月は苑の背から下り、何も喋らず暁にぴたりとくっついている。時々自分の細い髪を引っ張るので、暁は小さな手をただ握るしかなかった。
 浬の手を借りて傷の処置を終えた炎が、一行の元に戻って握り飯に手を伸ばした。その目がじろりと榎本を捉える。
「榎本とか言ったな。お前、何故あのとき分かった」
 刀の手入れをしていた榎本はびくりと縮こまり、炎が手出しをしてこないと分かってほっと息を吐いた。
「いや、俺、前にあいつらみたいなのに襲われたことがあって。……あ、違いますよ、全く同じか知らないけど同じような戦い方をする奴らです。足場の悪い場所で突然仕掛けてきて、でもこっちの手応えもあって、いけるかなって懐深くに攻め込んだ矢先に死角から斬り付けられて……俺は危ういとこで避けたけど、一緒に組んでた奴は深傷を負って。斜面を転がり落ちるふりしてようやく逃げられたんですよ」
「炎、そんな怖い顔をするものじゃない。榎本くんがいなければ全滅だったかもしれないよ」
 至に諭されて、炎はふんと横を向く。
「それにしても奴らは何者なんだ。菅谷が自分で飼ってる私兵か? それとも東雲か?」
「顔貌からして恐らく峰上おのえだ」
 答えたのは骸だらけの場所から戻ってきた牙だった。後ろに苑の姿もある。
「峰上? って……こことは真逆にある国じゃないですか。確かにあそこは山だらけっていうけど、こんなとこを護る意味は」
「金で雇われたか、峰上自体が国策としてああいった者たちを育てているのか。何しろ痩せた国だ、命の値段などあったものではあるまい。あれほどの数でも送り込めるだろう」
「娘も何人か混じっていました。それから玲の亡骸も岩の上で見付けました。拷責を受けた跡がありました」
 苑が手を拭って握り飯を取った。炎が眉根を寄せて口を噤む。
 やがて握り飯が無くなると、誰ともなく立ち上がり道を進んだ。道はいつしか下りとなり、菅谷領入りが近いことを感じさせた。
 睦月は暁から離れることを泣いて嫌がり、今は彼女の背にぴたりとくっついていた。重さからすると、恐らく疲れて眠ってしまったのだろう。その前を歩いていた榎本が歩調を緩めて暁の隣に並ぶ。暁が彼をちらりと見ると、くしゃっと笑い「あの人怖くって」と小さく前を指した。恐らく牙と並んで前列にいる炎のことだろう。
「お姉さん。これってお姉さんを送り届ける旅路なんですよね。えっと……」
「あ……あきです」
「あきさん。……ん、あきさん!? そりゃ良い名だ。これで冬さえいれば」
「いえ、季節の秋ではなく朝のあき、あかつきと書いてあきです」
 前を行く苑が窘めるように榎本を睨むが、暁が受け答えしているので口を挟めないようだった。榎本は気付かずなおも暁に顔を寄せる。
「それで暁さん。これだけ黒烏が動いて牙の旦那も一線に立ってって、聞いたことないですよ。暁さん何者なんですか」
 榎本が彼女を知らないということは、果たして隠し通したほうがいいのか、それとも牙が彼に話す機会が無かっただけか。口籠っていると牙が険しい顔で振り向いた。
「榎本、無礼な口を叩くな。大事なお方だ」
 さすがの榎本も口を噤み、ただただ足を進める。しかし麓の道まで下りたところで、彼が大きな誤解をしていることが明らかになった。
「まさか、旦那の大事なお人とは思ってもみませんでしたよ!」
 内緒話でもするように口の横に手を当て、妙に嬉しそうに言う彼の首根っこを、牙が掴んで引きずった。

「菅谷領には角野屋という拠点がございまして、談義まではそこに逗留することとなります。そろそろ迎えが見えるはずです」
 牙の言葉どおり、街道沿いに歩くと、程なくして二つの影が見えた。中年のがっしりとした男と背の高い若者だ。
「良かった、今日か今日かとお待ちしておりましたよ」
「早速だが、負傷した者を二人置いてきた。一人はこの山を東雲まで突っ切って、山津波の起きた川を臨む崖手前。もう一人はその向こうの千賀の集落だ。名はそれぞれ真と櫻。迎えを寄越してもらいたい」
「了解です。人を集めてきます」
 若いほうが走って姿を消し、暁たちは中年の男に連れられて日の傾き始めた道を歩いた。
 草の生い茂っていた道は、しばらく行くとぽつぽつと建物が増え始めた。
「暁殿、菅谷領に入ったことはおありですか」
「幼い頃に何度か」
「そうですか。同じ場所と思わぬことです」
 牙は前を向いたままそう言い、それ以上は口を開かなかった。更に足を進め、家々や店の立ち並ぶ中を歩く。戸が外れたままの家に崩れた石垣、道には未だ瓦礫が散らばっていた。すれ違う人々の髪や目は暁には懐かしい色だが、その表情はどこか暗く見える。
「この辺りは揺れが激しかったんですか」
「いえ、東雲のほうが激しかったようですよ」
 それにしては、と暁は思う。爪痕は残れども、たった半日でお囃子が聞こえてきた東雲とはまるで違う。宿の女将は言った、祭りがあるってのに立ち止まっちゃいられませんよ。
 ここは立ち止まってしまったのか。
「それから、日が落ちたら外に出ないようにしてください。女性一人で出歩くのも避けるが良いでしょう。昨晩は、壊れた店やら家やらがいくつも押し入りに遭ったようです」
「では見廻りに炊き出しにと、さぞ慌ただしいことでしょう」
「それは誰がするとお思いで?」
 男はにこりと笑って暁を振り返る。
「お上……や、豪商や……」
「お上は何もいたしませんよ。菅谷を乗っ取って引っ掻き回しただけです。そして自分の無策が知れると、批判を封じることにのみ躍起になって、この半年で何人捕えられたことでしょう。ここはお坊ちゃんの玩具箱ですよ」
 飛鳥の有力家である不破家の三男のことだ。彼は妻子がありながら菅谷家の年若い娘を娶り、実質的な菅谷領の統治者となっていた。
「豪商といっても税は随分重たくなったし、余力のある店は少ないでしょうね。かくいううちも、炊き出しくらいはしますが、人出も割かれるしそう何日も続きませんね。……このくらいにしておきましょう。どこに耳があるか分かりません。さあ、そろそろ着きますよ」
 見える景色は、それでも幾分ましなものとなっていた。大きな通りには間口の広い店がいくつも並び、行き交う人々はきちんとした身形をしている。
 角野屋は、菱屋によく似た外観で、菱屋より小ぶりな店だった。

 ひと部屋を都合され、畳の上に膝を着いたときには、もう立てなくなると思った。暁はそのままべったりと倒れ込んで足をさする。土間で洗ったばかりの足は、あの指の跡はまだ残るものの、汗も土埃も落ちてさっぱりとしている。睦月は相変わらず暁にくっつき、足をとんとんと叩いて「ないない」と呟いた。血の降り注ぐ森を抜けてから、ようやく発した言葉だった。
「お疲れ。慣れない道で大変だっただろ。睦月もよく我慢したね、偉かった」
 浬の声と襖が閉まる音。暁は半身を起こして裾の乱れを整える。
「浬こそ……」
「僕?」
 血を浴びた後も彼は変わらなかった。朝起きて顔を洗うように、衣に袖を通すように、当たり前のように人を殺して道を開いた。家で見るのとまるで変わらぬ穏やかな顔で。
 同じだ。知れば知るほど分からなくなる。
 ううん、と首を振ったところで廊下から牙の声がした。さっと襖が開いて一礼する。その手には折り畳んだ紙が握られている。
「早売りです。目を通しておかれると良いでしょう。それから浬殿、菱屋から伝令が入っております」
 早売りを開けようとした手を止めて、浬が顔を上げる。
「坡城の菱屋周辺は、さほど揺れなかったようです。ですが奥方の店は閉まっており、中の様子は窺えないとのこと。建物自体に見て分かる損傷は無いので、恐らく無事であろうとのことです。棚の品を並べ直しているのでは、と。昨日の朝時点の話ですので、今朝の揺れでどうなったのかは分かりかねますが」
 浬は詰めていた息をふっと吐いた。やっと人らしくなった、と暁は思う。
「他の領地への関は地震なえのために一時閉じているそうです。開き次第、こちらから菱屋へも使いを出すつもりです。浬殿も同行なさると良い」
 浬は暁に視線を投げる。暁は一度頷いて答えに代えた。浬は牙に向き直る。
「はい。よろしくお願いします」



 日が経つごとに、各国におけるこの度の揺れの状況が明らかになった。
 一度目の揺れが大きかったのは坡城の都にあたる東側、翌日の二度目は東雲の南側。その後の小さなものも含めると、揺れは坡城の東から東雲の南を通って壬の南東、菅谷領と江田領に挟まれる地域に集中し、まるで一本の線のようだった。この線の中を、大鯰は泳いだのだ。
 談義の席に座るはずだった江田と坡城の双方が被害を受けたことから、日程はまた先送りとなっていた。
 暁は至の講釈を聞き、睦月は角野屋を駆け回り、一日一日を過ごす。そうして角野屋に逗留すること数日で関は開き、浬は店の者に混じって坡城へ発つこととなった。
 その前の晩、睦月が寝静まった後で彼は自分の荷を整理し、暁にいくつかの本を渡した。そして最後に紙の束を取り出して、迷うように手の動きを止める。
「それは何」
「これは……うん、渡しておこう」
 暁はずしりと重い紙の束を受け取った。これまでの本とは違う、日焼けも虫食いも無い真新しい紙だ。右側が簡単に綴じられている。怪訝な顔をして一枚めくり、うっと顔を背けた。
「何だよ」
「浬の字だ」
「そうだよ。悪い?」
 暁は読み解こうと目を戻し、またうっと逸らす。元々浬は癖のある字だが、輪をかけて読みづらい。
「……しかもいつもより酷い。走り書き? 何なのこれ」
「急いでたんだから仕方ないだろ。談義までの間に読んでみな」
 浬はそれだけ言って荷を結んでしまう。暁は途方に暮れつつも一つ一つの字を推測しながら読み進め、途中で眉根を寄せた。
「浬、これ」
「読んだことあるだろ」
「紅砂の上申書?」
 それは暁が手直しした鑑文だった。ということは、とその下に続く紙の束をぱらぱらめくる。
「僕にも見せてみればいいって、暁が言ったんだってね。ありがとう」
「でもこれ、紅砂は私には絶対に本文を見せてくれなくて」
「僕にも見せてくれなかったよ」
「それじゃ、これは」
 暁の目が浬と紙の束とをうろうろする。「急いでたんだから仕方ないだろ」。これは浬の字だ。急いで、書き写した。これだけの量を。
 一気に理解すると、はあ、と溜息が出た。それでこの字なのだ。
「そんな顔するなよ。……結局、出した相手が悪くて揉み消されたみたいだけど、一読の価値はあるよ。しかもそれは特別だ」
「特別?」
「紅砂が港番に提出したものには入っていなかった覚書も書き写してる。本文の後に付けてるよ。そっちのほうが面白いかもね」
 暁は一番下の紙を開いて一枚ずつぱらぱらと戻っていく。どちらにせよ、この量を読み解くのはなかなか骨だ。
 眉をきりりと上げて灯りを近付けようとした、その手を浬が止めた。
「今日はもう寝な。……江田はいくつか道が塞がってるらしいから、遠回りだけど豊川を通ることになったよ。もし何か気付いたことがあれば角野屋宛てに送ってもらうから、暁はこっちに集中するといい」
「至の講釈もね」
 睦月は寝息すら立てずに深く寝入っている。暁が蒲団に入るのを待って、浬は灯りを落とした。