紅花が動けなくなって以降、紅砂は坂の上の家を閉め、兄妹二人で小間物屋に泊まり込んでいた。元々紅花の養親が暮らしていた家なので、大人二人が過ごすだけの広さはある。
 つわりが一番重かったのは紅砂が店に立ち始めた日から十日弱で、その後は和らぎ、紅花は胸のむかつきを訴えながらも店に出られるまで快復した。彼女の帯の下にはゆったりとした膨らみが見られるようになっていた。
 紅花が店に復帰してからも、紅砂は頻繁に店番を交代しに来た。
「あたし嬉しいです。花ちゃんが元気になったら、お兄さんいなくなっちゃうんじゃないかって思ってたから」
 いつも通りの満面の笑みで言う静に、紅砂は首を振る。
「元々の仕事先には話をしてしまってますし、また何かあったときに静さん一人じゃ迷惑を掛けるでしょう」
「やだ、あたしのためですか? お兄さん優しい」
 紅花は帳簿と仕入れた品とを照らし合わせながら二人のやり取りを聞く。傍から見ると静の態度は分かりやすいほどだが、果たしてあの兄は分かっているのか。
 客が入ってきてしばし二人の会話が途絶える。二点のお買い上げ。続けて一点、四点。
「ねえ、前に桜の話したのって覚えてます。ほとんど満開みたいですよ」
「それは良かったですね。あ、そうだ。良かったら今日はいい天気だし……」思わず紅花は耳をそばだてる、「見に行ってきたらどうですか。後は花と二人で回しますよ」頭を抱える。全くあの兄は、鈍いのか巧妙なのか。まるで漫才だ。
「えっ……あの、ええと、花見って夫婦連れとか男女連れが多くて、良かったらあたし、お兄さんと行けると嬉しいなと思ってたんですけど……」
 さすがの静も口籠ったが、ここで一気に勝負に出た――が。
「それなら尚更、俺なんか誘ってちゃ駄目でしょう。ご主人と行ってきてください」
 吹き出しそうになって、紅花は咄嗟に口を押さえた。
「ごっ、ご主人っ? あたし独り身なんですけど」
「え、……あ、すみません失礼なことを」
「いつから? いつからそう思ってたんです? あたし馬鹿みたいじゃないですか」
「すみません、本当にそんなつもりは」
 一体ここは何の店なのだ。紅花は溜息ひとつ、そろそろ仲裁に入るかと腰を上げかけたとき。
「ああ、だからか。それで誘ってくれたんですね。気が付かなくてすみません、是非一緒に行きましょう。……でも店があるから今日は」
「いいわよ、あたし一人で」紅花が土間に降りる。「棚も整理したいと思ってたし、閉める準備だけしていってくれる」
 静が目を輝かせて紅花を見る。紅花は口の端だけで笑う。
 ねえ静さん。あなたが独り身と知って、やっと紅砂がその気になったと思ってるでしょ。でも違うのよ、その兄を甘く見ない方がいい。今のはね、静さんが一人での花見を恥じらっていると思って、善意で付き添いを志願したのよ。
「お前も一緒に行くか、花」
 また戯言を言い出した手の掛かる兄に、紅花は首を振って答えた。

 河原は人で溢れていた。出店がずらりと並び、行き交う人々のゆったりとした歩み、仲良く腰を下ろして団子を頬張る男女。桜はすいと伸ばした枝に零れんばかりの花をつけ、光を受けて淡く輝く。風が吹くたびちらちらと花片が天を舞っていた。
 小間物屋から二つ川を渡ったこの通りは、山の中腹から桜が植わっており、遠目に見れば桜の一本道のようだった。緩やかな水の流れに花片が少しずつ積もり、薄紅の川となる。
 紅砂は眩しそうに目を覆い、静はその後ろをはしゃぎながら付いていった。
「おやつにしましょ。お兄さん、何食べます? あ、桜餅! ねえ、桜餅食べません?」
「払いますよ。好きなもの買ってください」
 楽しそうに出店を覗く静の後姿から、紅砂はふっと視線を移した。見えないものを見るように、聞こえない声を聞くように、風に吹かれて佇む。
 ――せんり、もう花の季節は終わったの?
「今咲いてるよ。どこもかしこも満開だ。綺麗だ……」
 風が薄紅を撒き散らす。
 胸が痛む。
「お兄さん、お待たせ。どうし……」
 ちらと紅砂の顔を覗き込んだ静は、くるりと河原を向いた。
「食べましょ食べましょ。あの辺空いてますよ、座りません?」
「足元に気を付けて」
 二人は草の中に腰を下ろす。家族連れや男女が点々と座り、駆け回る子供の姿もあった。
「桜餅なら絶対ここのですよ。葉っぱまで美味しいんです」力説する静に気圧されながら紅砂も一つ手に取る。満足げに頬張る静を横目に見ながら、紅砂は思う。気付かれただろうか。
 しかし彼女の態度は何ら変わらず、幸せそうに餅を食べ、桜飯の握りを買いに立ち、戻ってくると桜の枝を自分の髪に飾ってみせた。
「似合いますよ」
「本当に? あたし春の花は似合うかなぁ。言われたことないな」
 あ、と紅砂は口籠る。深く考えずに言ってしまった。静は気にした様子もなく桜の枝をくるくる回した。
「やっぱりその季節の飾りがいいですよね。うきうきしちゃう。あたしね、花ちゃんの店で働き始めたのって、あの店の品揃えが好きだったからなんです」
「そうなんですか」
「自分で付けるのも可愛いし、男の人に選んであげるのも……あ、ううん、何でも」静は笑って言葉を濁し、「でも何年か前に、ちょっと季節ものが並ぶのが遅くって、聞いたら仕入れに詳しい人が具合を悪くしたって。だからその場で花ちゃんに頼み込んじゃったんです。それからちょこちょこ店に入って、その人が辞めちゃってからは仕入れも任せてもらって。あたし、結構目利きなんですよ。家がちょっとした店をやってて。まさか花ちゃんが店主とは思ってなかったけど」
「元々店をやってたご夫婦に子供がいなかったから、あいつが養子になったんですよ」
「あ、それで!」静がぱちんと手を鳴らす。「花ちゃんがお兄さんを名前で呼ぶのって、別々に育ったからですか。最初ね、あたし、お兄さんは花ちゃんのいい人なのかなって思ってたんです」
 紅砂は思わず破顔した。日の傾き始めた空をのたりと大きな雲が行く。
 近くに座っていた顔ぶれが少しずつ入れ替わる。道行く人々の声が近付いては遠ざかる。花の向こうに見える空には雲が多くなってきたようだ。どちらともなく腰を上げ、二人は桜の道を北へ歩き始めた。
 どこまで行っても花の雨だ。先を行く静が腕を広げてくるりと振り返った。
「あー、嬉しい。桜は綺麗だしお腹はいっぱいだし暖かいし、それに何より、お兄さんとこんなにたくさん話せたし」
「俺と話しても面白くないでしょう」
 静が珍しく静かになった、と思ったら彼女は眉を寄せていた。
「そういうの良くないですよ、お兄さん。なんかはぐらかしてばっかり。あたしと来るの嫌でした?」
「いや、そんなことは」
「じゃあ花見が嫌? ……誰か思い出す?」
 もう取り繕う笑みも浮かばなかった。
 やはり彼女は気付いたのだろう、あのとき自分の瞳は濡れていたはずだ。紅砂は幹の一つに寄り掛かった。視界をひらひらと横切る花びら。
「人をね、失くしたんです。最後に会ったときにその人が、桜とか紅葉とか折々の美しいものを見せてほしいと言って、それを思い出して。……でも嫌々来たわけじゃないですよ。来られて良かった。一人では、きっと来られなかった」
 来られて良かった。もう来られないと思った。彼女を連れてくると決めた場所に、自分一人で来られるとは思えなかった。
「静さん。あなたは俺を気遣って、笑い掛けてくれる。でも俺は、あなたと一緒にこんな見事な桜の下を歩いていても、その人のことを思い出している。見下げた奴でしょう」
「その人に操を立ててるんですね。一生?」
「……分かりません」
 行き交う人の数が減った、と思ったところへぽつりと雨が落ちた。紅砂は空を仰ぐ。いつの間にか薄暗い雲が垂れこめていた。
「降るとは思わなかったな。戻りましょうか」
 満開の花に遮られてか、雨はそれほど気にならず、歩みの遅くなった静に合わせて紅砂もゆっくりと歩いた。屋台も店仕舞いの支度を始めている。河原に数え切れないほどあった人影は、もうほとんど見えない。
 橋を渡って間地に入ったところで、さあっと雨脚が強くなった。紅砂は静の手を引いて近くの建物の軒下まで走る。少し待っても雨の勢いは強まるばかりで、二人の足元も跳ね返った水で汚れていた。
「いきなりでしたね。……もうしばらく降りそうだな」
 紅砂は軒下から少し顔を出して暗い空を見る。静は雨でほつれた髪を耳にかけ、自分たちが避難している建物を振り返った。
「ここ、旅籠ですね」
「え……ああ、そうですね」
 静の睫毛にも細かい雨粒が乗っていた。髪から垂れた水滴がつっと頬を流れる。紅砂の耳元に吐息。
「このまま泊まっちゃいましょうか」
 紅砂が黙ったままでいると、静はちらと彼の顔色を窺って、取って付けたように笑った。
「やだ、冗談ですってば。本気にしちゃいました? やだなぁ、もう」その肩を紅砂が掴む。
「静さん。冗談でも、そんなことを言わないでください。あなたはそんなに自分を安売りしなくても生きられるでしょう」
 険しい顔だった。もう静の唇は動かなかった。紅砂ははっと気付いたように手を離して小さく謝った。
「……少し弱まったかな。近くに知り合いの家があるんです。傘を借りてくるので待っててください」
 紅砂が雨の中に走って行くのを、静は言葉も無く見送った。

 紅花は空を見上げる。突然降り始めた雨は一気に強くなり、今ようやく弱まったようだ。取り込んだ物をせっせと畳む。この雨で桜は散ってしまうかもしれない。兄と静は相合傘でもしているのだろうか。
 裏戸のほうで音がした。重たくなった体を持ち上げてひょいと覗く。
「静さん!?」
 そこには濡れそぼった静が立っていた。袖と言わず裾と言わずぽたぽた水滴が落ちている。彼女は何も言わずに濡れた前髪をかき分けた。
「ちょっと、どうして……紅砂は? ああもう、ちょっと待ってて」
 今畳んだばかりの手拭いをありったけ運び、自分の着物も引っ張り出す。静はまとめ髪を解いてきゅっと両手で絞った。すたすたと水が落ちる。
「心配しないで、頭冷やしてたの。借りるわね、ありがと」
「このくらい構わないけどさ、……紅砂とははぐれたの? 頭冷やしたって、喧嘩でもした?」
「振られちゃったぁ」
 静の脱いだ着物は雨を含んでずしりと重かった。紅花はぎょっと目を開いて、雨に降られちゃった、のではないことを静の表情でそっと確認する。
「でもすっきりしてる。あたし、また自分を安く売るとこだった。お兄さんって本当に堅物ね。失くした想い人に操を捧げてるんだって。でも諦めきれなくてさ、雨に閉じ込められて、もうどうなってもいいやって……旅籠に泊まっちゃおうかって言ったら、冗談でもそんなこと言うなって怒られちゃった」
「静さん……」
 紅花は頭を抱える。紅砂の想い人の話なんて初耳だし、そのうえ旅籠に泊まる? 昼過ぎに二人を見送って、今はまだ夕暮れだ。どこでどう話が飛んだのか。
「ま、まぁいいじゃない、紅砂なんて忘れてさ。静さんならすぐに別の相手が見付かるでしょ」
「何言ってるのよ花ちゃん」
 慰めたつもりが、静は笑い飛ばしただけだった。
「一途に人を想って、色仕掛けにも落ちない、むしろ叱る。あんな男の人あたしの周りにいなかった。忘れるどころか、ますます惚れ直したわよ」
「はあ?」
 紅花が眉を寄せたところで、ばちゃばちゃと水たまりを蹴る音が近付き、けたたましい音を立てて裏戸が開いた。
「花、静さん帰ってきとうか!?」
「はぁい、お先に帰ってまぁす」
 静が髪を拭いながら顔を出すと、紅砂は体の底から息を吐き出してへなへなとしゃがみ込んだ。彼の体もずぶ濡れだ。
「良かった……、どこへ消えたのかと」
「やだ、身投げなんてしませんよ」
 静は土間に降り、余っていた手拭いを紅砂の肩に掛けた。紅砂は肩を上下させながら静を見上げる。
「すみません、さっきは……偉そうなことを」
「えっと、何でしたっけ? そんなことよりお兄さん、早く着替えないと風邪引きますよ」
 紅花が畳んだばかりの兄の着物を手渡す。ようやく息も落ち着いて、紅砂は静に背を向け着替えにかかった。静が彼の広い背中に声を掛ける。
「ねえお兄さん、夏になったら一緒にお祭りに行きません? 秋になったらお月見で、冬は紅葉狩り」
「え?」
「だって一人じゃ行けないって言ってたじゃないですか。あたしが付いてってあげますよ」
 紅砂は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で数度瞬いた。迷うように紅花に視線を寄越したので、紅花は両手を広げて部屋を出た。あたしは行かないから二人でお好きにどうぞ、だ。
 紅砂のような男が周りにいなかったと静は言ったが、紅花からすれば、静のような女こそ周りにいなかった。なんて逞しい。なんて清々しい。
 兄さえその気になれば、あの二人は意外といい組み合わせになるかもしれない。部外者ゆえの気楽さで紅花はそう独り言ちた。
 雨は強まり弱まりしながら、日が落ちてからもざあざあと降り続いた。
 地面が大きく揺れたのはその翌日、明け方のことだった。



 ふと目を覚ましたとき、暁は自分がまだ舟の上にいると思った。はっきりしない頭で周りを見る。睦月が隣にいる。その向こうで起き上がっている影は浬だ。目をこする。ここは宿だ、雨が降り始めて舟を下りて、そして。
 ぐらりと体が揺れる。自分は酔っているのか?
「浬……」
 浬がさっと蒲団を持ち上げて暁と睦月の頭を覆った。揺れのたびにぎしぎしと家鳴りがする。何事か分からずじっとしていると、ぐらり、ぐらりと揺れは小さくなり、やがて止まった。どくどくと体が脈打っている。
「……この宿、揺れてた?」
地震なえだ」
「なえ?」
 浬はさっと窓辺に寄ってまだ暗い外を見渡した。雨はもう止んでいる。騒ぐ人影がいくつか見える。
「暁、出られる?」
「まだ睦月が眠ってて」
 言い終わらぬうちに襖の向こうから二人を呼ぶ声がしたかと思うと、隣の部屋にいた烏たちが音も無くなだれ込んできた。苑が睦月をそっと抱き上げ、彼らは日も昇らぬうちから宿を出ることとなった。膳が用意できないからと女将は握り飯を持たせてくれ、しがみつく息子の頭を撫でながら彼らを見送った。
「さっきのは大きかったですねぇ。うちも父ちゃんが怪我するし、しっちゃかめっちゃかで片付けが大変で。道中どうぞ気を付けて」
 昨日と同じ道を戻って川まで歩く。通りには瓦がいくつも落ち、家の内や外の片付けに立ち働く人々で騒然としていた。元から古かったのだろう、傾いた家もある。
「大丈夫かな」
 暁が誰のことを言ったか分かったはずだが、浬は視線を前に向けたまま一度首を振っただけだった。
「紅砂がついてるし、店ならもう一人働いてくれてるだろ」
 橋の下に繋いだ舟は無事だったが、河原に引き上げたはずが、嵩の増した濁り水にちゃぷちゃぷと浮かんでいた。
「流れが速いな。行けるか」
 牙が問うと、真と炎はにやと笑って櫂を取った。握り飯で腹ごしらえして壬を目指す。しかし舟が進み始めて少しばかり経ったところで、走ってくる足音が聞こえて牙は顔を上げた。
「榎本?」
 それはいつも夕暮れに姿を見せる俊足の男だった。河原を滑り降りた彼は身振り手振りで止まるよう促した。体をくの字に折ってぜえぜえとで息を上げる。
「どうした」
「この先が、……っ、崩れて、通れませんっ」
 真が櫂を持ったままずいと前に出る。「岩裂街道は」
「駄目です」
「では小壺の道は」
「どこっすかそれは。……いや、とにかくあの山の南側全部が崩れてて、どうにも抜けられないんですよ」
 牙と真が顔を見合わせる。
「一旦舟を降りましょう。小壺か、あるいは和久の道なら生きているかもしれません」
「分かった。榎本、お前は前の群れとの連絡を試みよ」
 榎本と呼ばれた男が去り、牙は暁に向き直った。
「お聞きのようにこれから陸路を取ります。日にちは充分ありますし、あとは山越えのみですので憂慮なさらぬよう」
 荷を背負って陸路に切り替えた一行だが、昼過ぎには早くも暗雲が立ち込めた。俊足の男の言ったとおり、山は鋭い爪でえぐられたかのように表面がずり落ち、麓の道をことごとく潰していたのだ。真は苦々しい顔で額に手を当てた。
「申し訳ない、私の誤りです。闇雲にこれ以上進むより、足場は悪くなりますが、一昨日の道に戻って山の中を進みましょう」
「それまで持つかな」
 睦月を背負った炎が空を仰ぐ。薄暗い雲が低く連なり、いつ雨が落ちてもおかしくなかった。一行は笠を深く被り、来た道を足早に戻る。
 夕暮れを待たずに雨がぽつりと笠を打った。
 暁は睦月の背が濡れないよう笠を留める。前を歩く真が「申し訳のうございます」と肩越しに振り返った。首を振って笑みを返す。
「あと山越えだけなのでしょう。構いません、まだ揺れも残っているし確かな道を選んでください」
 空元気だった。それでも堅くこわばっていた皆の顔が緩んだ。
 舟を通り過ぎたところで、向こうから走ってくるのは例の男だった。牙に気付いてぶんぶんと両手を振る。
「どうだった」
「会えました! 向こうもこっちへ来る道を探してたみたいで、煙を上げてくれて。道がぐいっと曲がるのを突っ切った先です。岩だらけの場所さえ抜ければなんとか行けますよ」
 それは真が行こうとしていた道だった。彼は牙と顔を見合わせて深く頷く。
「あっちは野営するそうですが、皆さんはどうされます。昨日の宿だったら、寝るだけならできるみたいですよ」
 ぐるりと一行を見て榎本が言うと、炎は強い視線を牙に向けた。
「止めるべきです。まだ小さな揺れが続くかもしれない」
「でも雨ですし、暁殿と睦月殿だけでも屋根のあるところへ」
「その屋根が危ないと言っているんです。多少濡れたとて、すぐ出られる場所にいるべきです」
 炎と苑は言い合うように牙に進言する。榎本は困ったように二人に視線をさまよわせ、ぴんと人差し指を立てた。
「あ、じゃあ軒下を借りるのはどうでしょう」
「赤ごときが口を挟むな」
 炎に一喝されて榎本が居心地悪そうに口を噤む。「あの人は赤烏らしいね」浬が暁の耳元で呟き、暁も頷いた。鳥に縁の無い名と妙にくだけた態度で浮いていた彼だが、ようやく合点がいった。暁は炎の背にいる睦月を撫で、一歩前に出た。
「私も睦月も軒下で結構です。参りましょう」
 宿へ向かう道は既に大きな瓦礫が除かれ、破片くずも道の端に除けられていた。鋳掛屋や焼き接ぎ屋らしき者が家々を回っている光景に、お囃子の声が重なる。日常を取り戻そうとしている。宿の前では子供が笛を吹いていた。一行を見て家の中に声を掛け、現れたのは頭に包帯を巻いた主だった。
「ああ、災難でしたねえ。なんでも山が崩れて色んな道が塞がってるそうで。それでうちも、お泊まりいただくのは全く構わんのですが、凝ったものをお出しできる状態じゃなくてですね」
「朝と同じく握り飯で結構。それから部屋は要らぬので、軒下をお借り願いたい」
「の、軒下あ? でも娘さんや坊ちゃんもいるのに……いや、まあこっちは構いませんが……はあ」
 小さな軒下に全員は入らず、牙を初めとする黒烏の数人は借り物の傘や向かいの木の影で雨をしのいだ。しばらくして女将が握り飯を山のように盆に乗せて現れた。
「皆さん用心深いんですねぇ。もうほとんど揺れやしませんし、いつでも上がってくださいよ。風呂も沸いてますんで」
 櫻が盆を受け取って飯を振り分ける。家の中からは笛の音が続いている。暁は、しがみついて離れようとしない睦月を揺らしながら小さく笑った。
「通りでもお囃子が聞こえました。皆さん祭りを楽しみになさっているんですね」
「一年に一度ですからねぇ。山車も蔵の中でぶつかっちまったみたいだけど、男衆が頑張って直してくれてますよ。ちょっと瓦が落ちようが器が割れようが、根付いたもんは消せやしないんです。祭りがあるってのに立ち止まっちゃいられませんよ」
 笛はしばらく続き、女将の叱る声がして静まった。それでも夜の町に遠くお囃子が聞こえる。祭りの前の浮き立った空気。
 根付いたものは消せやしない。女将の言葉に重なるのは、ゆきが指で描いた言葉だ。国が作ったものは消えても、人が作ったものは消えない。
 睦月は暁の腕の中で寝息を立てた。浬が代わって腕に抱える。
 お囃子の音が聞こえなくなる頃には雨も止み、暁たちは浅い眠りに落ちた。

 何事もなく夜は明けた。女将と息子が人数分の熱い手拭いを持って出てくる。
「ほら、そう揺れやしませんでしたでしょう。体が固まってやしませんか。よかったら熱い湯も持ってきますが」
「お気遣い痛み入るが、飯だけいただいたら発ちます」
 睦月が笛に手を伸ばす。宿の息子は自慢げに触らせ、一曲披露した。暁が拍手してみせ、睦月もぱちぱちと手を叩く。一行は腹ごしらえを済ませて立ち上がった。
「それでは向かいましょう。榎本、案内を」
「任せてください」
 笛の音が遠ざかる。祭りに使うのか、提灯を箱に積んだ男とすれ違う。いくつかの角を曲がったところで、櫻に抱えられていた睦月が自分で歩きたがって仰け反った。
「睦っちゃん」暁が子の方へ一歩踏み出したそのとき、浬がふっと顔を上げて辺りを見回した。
 声を上げる間も無かった。突然地面が大きく揺れた。
「……っ!」
 姿勢を保てず腰が落ちる。悲鳴。落ちる音。崩れる音。土煙。ずっと続くかに感じられた揺れは、その実ほんのわずかな間だった。
 揺れが収まって暁はそろりと目を開ける。耳元で吐息。
「……ご無事ですか」
 牙の声。すぐ前にいた彼が暁に覆い被さっていた。牙が離れ、暁ははっと声を上げた。
「睦月!」
 櫻が地面に倒れていた。ぐっと肘を付いて上体を持ち上げ、その下からもぞもぞと睦月が這い出てくる。はっと安堵した途端、周りの状況が目から耳から流れ込んできた。
 そこらじゅうに飛んだ瓦礫、崩れた石垣に材木、壊れた木箱、家から飛び出てくる人の声、声、声。土埃が薄く舞ってつんと鼻を刺す。そして煙の匂い。
「……火が着いたか」
 浬は煙を睨んだ。暁はまだ震える腕で睦月を抱き上げる。べそをかいているが怪我は無いようだった。小さな温もりを抱き締めながら、炎の懸念は正しかったことを知る。夜のうちに今の揺れが来ていたら、どうなっていたか分からない。
「牙、櫻、ありがとう。助かりました。……櫻?」
 櫻は脂汗を浮かべて足を押さえていた。炎がさっと寄り彼女の裾をめくる。
「何か当たったな。歩けるか」
「いや、こっちの足は使い物にならない」
 ばたばたと人の行き交う中、炎は櫻を道端まで担ぎ、落ちていた板きれを添えて彼女の片足を縛った。牙を振り返る。
「うまくいけば今日の夜には菅谷の角野屋に入れますね」
「ああ」
「じゃあ明日まで辛抱しろ。誰か迎えに来させる」
「ま、待って」暁は慌てて炎の前に立つ。「どうにかして連れて行けないの。それとも誰か付き添うか……だって街もこんな状態で」
「暁殿」牙の声。同時に暁の肩に手が掛かった。浬だった。振り向いた暁の目をじっと見つめる。ゆっくりと間を置いて、「今、君は誰だ」
「誰って……」
「豊川暁。今すべきことは何だ」
 その名前が頭にじんと響き、体に染み渡っていく。暁はすっと息を吸い込む。前を向け。
「分かりました。急ぎましょう」
 胸をぐっと押さえて櫻を振り向く。睦月が彼女の前にしゃがみ込み、眉根を寄せていた。
「いたいの? いたい? ここ? とんでけーするね」
 櫻の眉間には皺が寄ったままだったが、眉尻が下がって柔らかい表情となった。櫻は睦月の肩に手を置く。
「そのお気持ちだけで充分でございます。……苑」
 苑が頷いて睦月を抱えた。榎本を先頭にして一人少なくなった一行は進む。
 もうお囃子も笛の音も聞こえない。耳にうるさく響くは半鐘の音だ。遠く見える煙の数は増えているようだ。あの宿が無事であったかも分からない。川沿いの道へ出て黙々と歩く。川向こうの緑には花がいくつも咲いて、街の様子が嘘のようだった。
「水が減りましたね。舟を置いてきて良かったな」
 至がぽつりと呟く。暁も川に目をやるが、小さな橋が落ちて流れかかっているのが濁りの中に見えただけだった。枝葉が引っ掛かって無残だ。
「雨が止んだら水だって減るでしょう。雨の前はこんなものじゃなかった?」
 苑が言うが、至は何か気にした様子でちらちらと川に視線を投げていた。少し歩くと道が川から離れた。道を外れて木々の中に踏み込み、なお歩いたところで榎本が足取り軽く駆け出した。
「あの先です、ほら見えてきた。良かった、崩れてない」
 木々が開けて目の前に川が広がる。榎本が指したのは川を横切った先の崖だった。岩が剥き出しに連なったその上の枝に、赤い紐が揺れている。
「橘さん、おーい。……あれ、聞こえないかな。橘さーん。近くにいないのかな」
「とりあえず向かおう」
 榎本がまず川を渡り、向かいの幹に結び目がいくつも付いた縄を渡した。睦月は苑の背から至の背に移り、紐でしっかりと結わえ付けられた。暁も裾をたくし上げて縛り、意を決してざぶりと踏み入る。
「……あれ」
 濁りで分からなかったが、水は思いのほか浅く、膝が見えていた。一昨日自分たちはこの川を通ったはずだが、この浅さの中を舟が行ったのだろうか。
 水が減りましたね、そう言った至は暁のすぐ前にいた。彼はやはり気がかりな様子で水面を見つめていた。