出立の前日に暁が連れられて行ったのは、西の大通りの外れにある菱屋という大店だった。針葉の稼ぎが菱屋から払われると聞いたことがあったが、見るのは初めてだった。質屋と口入屋を兼ねており、右手に見える質屋では特に忙しく人が出入りしていた。 浬がくぐった黒無地の暖簾は左手の口入屋だった。暁はあっちこっち駆け回ろうとする睦月を抱え上げ、騒ぎ声に頭を下げながら後に続く。忙しいときだろうに、暁たちが通りかかる前から店の者たちは脇に下がり、頭を垂れて三人を迎えた。 男に連れられて木々を通り抜けた先、敷地の奥には小さな離れが建っていた。暁は暴れる睦月を抱え直して今通り過ぎた建物を振り返る。 「……大きな店」 「烏の巣だよ。多分この店のほとんどの人がそうなんじゃないかな」 暁はぎょっと浬を見た。 「前来たときに聞いたんだよ、僕が大怪我させられたとき。怖がらなくていい。雅兄……牙殿が言ってただろ、あれは烏の数羽が群れを離れて動いたって」 先を行く男が戸を開けて深く礼をした。二人は敷居をまたぐ。廊下を進んだ先の六畳間には六人が既に座していた。十二の目に曝されて暁の足が止まる。 「お待たせしました。豊川家当主の 浬は、暁や自分の家を名乗るとき一切躊躇しなかった。暁はごくりと唾を呑む。迷わずに上座へ行く彼に続いて腰を下ろし、改めて目の前に座した人々を見た。屈強な体躯から細面、女まで様々だ。端にいる牙が口を開く。 「改めまして、黒烏の牙にございます。そしてこの者たちは近い方から、 「道中はそれほど危ないものか」 「虫払いは先に発った一群が担っておりますが、念には念をと申します。それぞれ相応の使い手であることは基本として、炎は医術の心得があり、真は道に長けております。苑や櫻は睦月殿の御世話もできましょう。また道中、至からは壬国史及び旧壬国史、その他時間が許す限り講釈をさせていただきます」 至と呼ばれた細面の男の手には分厚い本があった。道中は色々な意味で気が抜けないようだ。暁は心の中で苦笑いする。 「明朝は坂の下まで迎えを送ります。談義は菅谷領の邸で行われますが、北上ではなく、坡城の東から東雲を経て壬入りする道を採りたいと考えております。水路陸路はその時に応じて」 「了解した。ではこれで――」 その時、浬が牙と視線を交わした。牙は五人に向かってさっと手を振る。五人が礼をして音も無く部屋を去った。追いかけようとする睦月を連れ戻して、暁は戸の前を陣取る。 「申し訳ない」 「いえ、いかがなさった」 「今回の道中には関わりの無いことですが、牙殿には念のためお伝えしておきます。私の実の妻が身籠りました」 暁はひと呼吸遅れて浬を見た。それはつまり紅花のことだ。浬は暁の笑顔に気付き、しかし小さく頷いただけだった。 「でも、じゃあ一緒にいてあげないと」 「いや、自分のすべきことは心得ている。今彼女の傍にいたところで何もできないよ。それに、仮に僕に何かあっても、あの家にいる限り困窮することはないだろう。……ただ、もしそうなったときは、髪か爪か、残るようなら骨を、彼女に届けていただきたいのです」 浬は淡々と告げた。暁の顔から笑みが剥がれていく。牙は表情を変えずに浬を見つめていた。その口元が、ようやく動く。 「あなたはもはや群れの一羽ではありません。それだけの価値があって旭家に上がられたのでしょう。命を張るのは我ら烏だけで充分です」 「ですが……」 「そして、今回の談義の主題は豊川家と江田家、及びその領地の今後です。東雲のことは恐らく俎上に載りません」 浬はふっと笑って、膝の前に出していた拳を腿に戻した。 「ええ、私もそう思います。そしてあの地に暮らす者たちは、領主に誰が置かれても気に留めず、容易く支配もさせぬでしょう。逞しくしぶとい土地柄です」 「つまり、旭家の長子の立場で同席する必要はなく、また睦月殿の父であったとて、豊川家の血を引くのは暁殿と睦月殿のみです」 談義に浬の席が無い以上、浬の役目は烏たちと同じということだ。そして浬は群れの一羽ではないと、牙は初めに釘を刺している。 牙はぐるりと視線を巡らせて障子を開いた。控えめな緑の中に並ぶ蕾の桜。 「小間物屋に見張りを付けましょう。あなたに何かあるより、身重の奥方に何かある可能性の方が高い。髪でも爪でも結構、御自身でお持ち帰りなさい」 それ以上浬が食い下がることはなかった。追い抜けない兄を前にしたような悔しげな笑みを唇の内に隠し、深く一礼をした。 やはり暴れ騒ぐ睦月を、帰りは浬が抱えた。菱屋のある通りを曲がるとき、暁はちらと烏の巣を振り返った。 髪か爪か、残るなら骨を。 使命感に燃える彼を讃えればよいのか、残される紅花と腹の子のことを考えろと責め立てればよいのか。暁は浬の肩を見つめた。彼のことは知れば知るほど分からなくなる。温和で思慮深く、和を乱さず場を荒立てず、かと思えば壬の風習を目の敵にし、笑顔の裏で知略を巡らせている。一体どう育てば彼が出来上がるのか。 道が間地に差し掛かる。昼前にしては珍しく人通りはまばらだ。 「浬は東雲の烏だったの」 浬が足を止めて振り返った。 「さっき、もはや群れの一羽ではないって。昔はそうだったような言い方だったから」 「烏なんて名前は無かったよ。それに烏は壬や豊川のために働くんだろ。僕らはそんなものじゃなかった。大火のときだって、旭家の臆病な当主殿をひたすら護っただけだった」 浬は睦月を地に下ろした。いきなり駆け出そうとする腕をぐっと引いて笑う。 「ああ、でも昔々は烏だったみたいだよ。江田の分家が東雲に追いやられたときに豊川から分け与えられたって、兄が」 「兄……泰孝様? じゃあ泰孝様も同じ、その群れの一人だったの」 浬が肩越しに振り返る。含みのある視線だった。 「兄はとてもできる人だったよ。才長けて腕も立つ。あの人は僕の憧れだった。……僕らはね、群れでは名を与えられないんだよ。土塊みたいなものだ。そんな曖昧な自分に嫌気が差して、あの人のように頂へ上ろうと思ったんだ。……その結果、名を与えられ、僕らは人になった。そして兄は神憑りの姉君に殺され、僕は手の掛かる当主殿の盾だ」 淡々と、穏やかに、しかし彼の口調は冷めている。東雲の話をするときも、祖国ではなく書物の中の地を語るかのようだった。 「浬は東雲にも旭家にも愛着は無いんだね」 「そうだね」 「じゃあどうして旭の長子の立場を捨てなかったの。私に関わり続けた。私の本当の名を知ってから、ずっと」 雨呼びを阻止しようとした。捕われた暁を救い出した。泰孝の名を借りて睦月を人別帳に組み入れ、甲斐甲斐しく睦月の世話を焼き、牙と密に連絡を取り続けた。 「今日は随分とお喋りだね」 「もう隠す必要は無いでしょう」 睦月が不機嫌そうな顔で暁の裾を引っ張り、「なんかたべる、たべたい」とぐずった。しゃがみ込んだ暁が「もうすぐお家だから」となだめる。浬が足を止める音。 「兄が言ってたんだ。夏至の翌日……封じ夜に姉の来訪を受けた夜の翌日に、自分はもうすぐ殺されると」 暁が顔を上げる。 「そして、生きたいと。国や家に報いたいと。可愛らしい姫君を悲しませたくないと」 風が吹く。懐かしい声を聞いた気がした。あたたかな声。どれほど望んでももう会えない人の、残した想いを。 「……らしくないこともしたよ。今思えば憑りつかれてたのかもね。余計なお世話だったら悪かった」 ざわめいた大通りを抜けて、家へ続く坂道が見えてくる。踏み入れた途端に木々が光を遮ってうっすらと寒くなる。 「浬。この談義が、私の豊川当主としての最初で最後の役目になると思う」 小さな相槌。 「だから浬も、談義から帰ったら自分のために生きて。それから何より、紅花の気が済むまで甘やかしてあげて。……浬と紅花は似合ってると思うよ」 「少なくとも暁と僕よりはね」 「本当にね」 互いに軽くにらみ合って、笑った。睦月が不思議そうに母を見上げ、すぐに不機嫌な声で唸る。浬が坂を戻って睦月を抱き上げた。 「早く帰ろう。お坊ちゃんがお怒りだ」 翌朝、家から見下ろす景色は霧に沈んでいた。明け方の空には青い雲がぽつぽつ浮かんでいる。夢うつつの睦月を掻巻で包んで、暁と浬は坂を下りる。地蔵の脇には昨日菱屋で会った苑という長身の女、そして真という逞しい体躯の男が控えていた。苑が慣れた手つきで睦月を抱くと、一度開いた目がまだ閉じて寝息を立てた。 二人に導かれて人通りの無い大通りを北上し、河原を下りたところで、橋の下に繋がれている一艘の小舟が目に入った。いくつか荷が積まれ、黒烏たちも既に乗り込んでいる。暁たちが乗り込むと、櫻というもう一人の女が笠と綿入りを差し出した。 「参ります」 櫂が水を掻いて、舟はゆっくりと動き出した。 そこから数日は何事もなく進んだ。折々に停まっては食事を調達し、用を足し、はしゃぎ回る睦月を複数の手がなだめた。しばらくは行き交う舟も見えたが、川幅が広がる頃にはひと気も無くなり、丈の高い草の生い茂る中をすり抜けて進んだ。四年前に東雲へ攫われたときと同じ道だろうか、と暁はぼんやり思い出す。 途中、舟を下りて山の中を進んだときは東雲との境を抜けていたらしい。そこいらに緑が芽吹き、ちらほらと花が咲き始めていた。 麓へ下りてからはまた長い水路だった。 初めは興奮して楽しげだった睦月も、日が経つにつれぐずりやすくなり、疲れが見えてきた。それでも苑や櫻は辛抱強く睦月をあやし、草笛を作ったり虫を見せたり水場の実を取ったりと、狭い舟の上でも退屈させないよう計らっていた。暁が労い、子がいるのか問うと、二人は笑って首を振った。「烏は全て群れで育ちます。それに舟旅にも慣れているのですよ」 櫂持ちは主に真と炎が受け持っていたが、浬も時には櫂を持ち、時には睦月に指遊びを見せ、時には牙と話し込んでいた。 そして水の上だろうが土の上だろうが暁の隣には至が控え、のべつ幕なしに史書の講釈が続いていた。 細かく針路を調整しながら東雲を北上し、壬の菅谷領入りを目前に控えた日だった。昼過ぎから雲が広がり、牙は空を見て何事か考え込んでいた。 しばらく行った川辺に小柄な男の影が一つ佇んでおり、真と炎は舟をそちらへ付けた。先に発った一群との連絡を受け持っている俊足の者らしく、夕刻にはいつも彼が姿を見せた。先に降りて話していた牙が振り向く。 「暁殿、夜から強い雨となりそうです。近くに宿を取りましたのでお降りください」 暁は空を見上げる。どんよりと暗い雲が低く垂れ、時折吹く風も重たかった。 岸に上がって少し歩くと家がちらほら現れた。どこからかお囃子の音が聞こえる。辿り着いた宿は中年の夫婦が営んでおり、睦月より年嵩の子供が一人いた。その手には小さな笛がある。 「あと十日と少しで祭りがありましてね。その頃まで居られるなら覗いてみてください。この子も山車に乗ることになって張り切ってるんですよ」 「お稚児さんですか」 浬が少年に微笑むと、宿の主である父親は肩を竦めて笑った。 「その引き立て役ですけどね、笛も吹かせてもらえるってんで頑張ってて。これがなかなか上手なんですよ。夕飯の後には止めさせますんで」 暁と浬、睦月で二階のひと部屋があてがわれ、久々の畳に腰を下ろす。外ではもう雨がさらさらと降り始めていた。その中に軽快な笛の音が混じっている。暁は深く息を吐いて横たわり、畳を撫でた。 「床が揺れないっていい」 「至さんと離れて寂しくないの」 暁は泣きそうな顔で眉根を寄せた。 「からかわないで。ひと晩くらい離してくれてもいいでしょう」 「確かにずっと隣に付いてたね。手水場まで付いていくんじゃないかと思ったよ」 「やめて。……国史は休憩だっていうから、ひと息つけるかと思ったら、壬の作物のことから染物、織物、工芸品に龍神舞の成り立ちまで話し始めて。あの人、どこまで話を広げるつもりなんだろう」 暁がぼやくと、睦月に窓の外を見せていた浬は笑って振り向いた。 「そりゃそうだよ。国史だけで足りるはずもない」 「ええ?」 「暁は、自分の国のことも語れずに他の国とやり合うつもり?」 暁の顔から不満げな表情が消えた。そこにとことこと睦月が寄る。 「おかーさん、ねんねするの?」 「ああ……ううん、ちょっとね。痛いの飛んでけってして?」 睦月は母の頭に手を伸ばす。「いたいのとんでけー。ほら、とんでったよ」撫でるというより叩く小さな手を、暁は無心で享受した。 「おっきしよ、おかーさん。おっきしようよー。あれ、こんなところにおやまかな?」 睦月が暁の体に登ろうとしたので、浬が脇に手を入れてぐいと引き寄せた。 「ちょっと休ませてやりな」 言うなり腕一杯持ち上げたりぐるぐる回ったり、睦月が大笑いする手荒さで遊んだ後、膝に座らせ背中を撫でて落ち着かせた。睦月の手を取って指で順につつき、明るい曲調で歌う。いぃゆぃめぇりしいぃだぬやぁや、さてぃむかぁいゆしふでぃぬかん…… 暁が顔を上げた。「舟にいたときから訊こうと思ってた。それ何、東雲の歌?」 「わらべ歌だろうね、幼い頃に聞いた覚えがあるんだよ。去年だったかな、紅花ちゃんからも同じこと訊かれたんだ」 「そりゃ気になるでしょう。何を言ってるのか分からないし」 「と思ってね、東雲の古い言葉を調べたんだよ」 浬の口調が物語るものに変わった。 「西より来たるは江田の家、さてもめでたき筆の神。 暁が一つ瞬く。「そう言っていたの? さっきの歌で?」 「そう。江田の分家が東雲に渡って旭家になったのは知ってるだろ。そのことを歌ってるみたいだよ。筆の神は言い過ぎだけどね」 「じゃあもう一つの歌は? ちょっと古めかしい調べの」 浬が口ずさむ。あがりんくむたてぃみじぬうみぃ、つてぃぐんながんとぅ……、暁が頷く。 「暁が言うようにこっちのほうが随分古いみたいだ。そして興味深い。……東に雲が立ち、水の海となった。土蜘蛛を薙ぎ払うために生まれたのだ。東の方へと流れる雲路、雨と散って彼の地へ帰ろうぞ」 暁は大きく二度瞬いた。東の雲、湖、土蜘蛛。何だそれは、それはまるで。 「これは東雲が東雲になる成り立ちの歌なんだよ。土蜘蛛と言えば聞き覚えがあるだろ」 「旧壬国史に出てくる、東夷と呼ばれる東の異部族の蔑称でしょう。至から毎日聞いているから……でも旧史はあくまで物語でしょう」 「どうして」 「だって、東夷と争った場所は東雲がある場所で……でも壬と東雲が争ったことなんて……」 そう、同じことをいつか斎木にも話した。東雲公紀にもそんな記述は無いのにと。でも、東雲が土蜘蛛を薙ぎ払うために生まれた? 「時代にずれがあるんだよ。まず東夷との争いがあって、その後で東雲ができた。つまり東夷が攻めてきた頃の壬は、今の東雲をすっぽり包むほど大きい国だったんだよ。そして東夷から中心地である西を護るため、国の東側を切り分けて、盾となる新たな国を作ったんだ」 暁の頭の中に地図が浮かぶ。旧壬国史に書かれた交戦、その頃の壬の東に東雲は無い、東の異部族とは東雲ではなく別の何かだ。東雲公紀に東夷の記述は無い。それは、東雲が交戦の後に作られたから。その頃の東雲の歴史は、壬の歴史であり、旧壬国史に描かれているから。 「でも、じゃあどうして知らなかったんだろう」 「旭家の元となる江田分家が東雲に追いやられたのは、本家から史書焼失の咎を負わされたからだと聞いたことがある。消えた記録をみだりに書き直すことはできない。正当な史書、特に旧史には、触れられていない部分があるんだと思うよ」 「正当な……?」 「前に言ったとおり、旭の書物庫には聞いたことのない史書があったんだよ。恐らく史書焼失の後に、覚えている分だけでも書き起こしたんじゃないかな。当然表には出せないけどね」 「それはまだ残っているの」 「大火の翌年に足を運んだら、ただの焼け跡だったよ。僕もほとんど読んでいない」 暁は深く息を吐いた。肩に入っていた力がしゅうと抜けていく。今回の談義には関わりなくとも、失われて二度と手に入らないのは惜しいことだった。 「そんな向学心溢れる暁に見せたいものがあるんだ」 浬が睦月を下ろして、部屋の隅から自分の荷を取った。結び目を解き、その次に見えるは油紙だ。何事かと見つめる暁の前に差し出されたのは分厚い本だった。 「東雲公紀……」 暁の顔が引きつる。 「壬国史と旧壬国史もあったんだけど、至さんが持ってたからね。東雲のはなかなか手に入りにくいだろ」 「そう……。このためにわざわざ取り寄せたの」 ずしりと手首にひびく重みに苦笑いしたが、浬は首を振った。「織楽から押し付けられた」 「織楽?」 「暇を貰ってたときに色々読み漁ったんだって。ほら、家を用意するとかで物を片付けてるだろ」 妻子が里から戻って来ないと嘆く織楽の情けない顔を、暁は思い出した。 「それと、これも」 続いて浬が取り出したのは二冊の古い絵物語だった。紙が朽ちて色褪せ、今にもぱらぱらと散りそうだ。「よーむ! よませて!」しきりに手を伸ばそうとする睦月を、もう一度浬が捕まえて膝に座らせた。暁はそっと紙をめくっていき、最後まで読んで小さく笑った。 「これ、壬の旧三家の話だね」 雲に手が届くほど巨漢の三兄弟が、龍を従え国を作る話だ。旧壬国史に描かれた建国の話を子供向けにしているらしい。長兄たる菅谷、次兄たる豊川、そして末子が上松だ。 暁はもう一冊に手を伸ばすが、そちらは壬の話ではないようだった。二人の兄弟が西の沼に棲む大蛇を仕留めるため旅立つ。兄は荒らかに勇猛果敢に、弟は粘り強くしたたかに、大蛇に立ち向かうがなかなか歯が立たない。二人は大蛇を挟み撃ちにしようと道を分かつ。 暁の手が止まった。 「あれ、これで終わり?」 さあどうなるか、と思った矢先に話は終わった。紙が破れたか抜け落ちたか、しかし縫い目はまだしっかりしている。 「そっちはただの子供向けの本みたいだね」 「でも何か……どこかで聞いたような」 この唐突な終わり方。兄弟が蛇を討つため旅をして、やがて道を分かつ。どこかで……どこかで。 「……季春座の芝居。夏祭りのときの」 弾かれるように顔を上げた暁に、睦月を肩車して歩き回っていた浬が立ち止まる。 「え? こんな話なの」 「浬は見たことないっけ」 「祭りのときは人も多いし騒々しいし、ほとんど見てないな」 「私、季春座で通しの稽古を見せてもらったことがある。全く同じじゃないけれど……確か、こんな話だったような」 ヒクラビ懐かし彼岸の彼方、オトゴ懐かし此岸の彼方。兄弟が分かたれる場面で交わされる台詞が蘇る。 睦月に髪を引っ張られた浬が、いてっと顔をしかめる。暁が本を片付けるのを待って彼は睦月を畳に下ろした。 「織楽が持ってたんだからそうかもね。戻ったら聞いてみるといいよ」 襖の向こうから声がする。食事が運ばれてきたらしかった。浬の荷には他にも紙の束が見えたが、彼はそれには触れず本を載せて結び直した。 外からはざあざあと強くなった雨の音が続いていた。 そろそろ紅花が来る時分かと通りを見た静は、よろよろと歩く紅花と、その後ろに背の高い男を見て目を丸くした。 「あらっ」 「ごめん静さん、ちょっと具合が悪くて……奥で休ませて。兄に代わってもらうから。紅砂、向こうで引き継ぎを」 紅花は青ざめた顔で、兄を従えて奥に入ってしまった。客を捌いた静が声を掛けると、代わりに出てきた彼が小さく会釈して土間に降りた。 「迷惑かけてすみません。代わるのでちょっと休んでください」 「あ、じゃあ花ちゃんの様子だけ。すぐ戻りますね」 書き物の散らかった狭い畳の上で、紅花は掻巻を着て丸くなっていた。静が眉を下げて部屋を片付ける。 「大丈夫? 吐きそう? 盥持ってこようか」 「吐きたくないぃ」 「はい、とりあえず盥ね。他に何か欲しいものある? これなら食べられるってものとか」 「何も食べたくない……」 気弱な声が涙を含んでいる。静は紅花の背中をゆっくりとさすった。 「つわりは人それぞれって言うから無理しないで、時期が来たらすっと楽になるらしいから。帯は緩めたほうがいいわよ。それから飲み物。お茶と、ちょっとつまむ物だけ持ってくるわね」 いつもはあけすけな静が、今日はこんなに優しい。逃げ場のないつわりに弱っていた心がじんわりと暖かくなる。静は盥と盆を手に戻り、また背をさする。 「お茶だけでも飲みなさいね」 「うん……こんなに気持ち悪いなんて知らなかった。暁にもっと優しくしとくんだったぁ」 「まあまあ」 ふと静は手を止め、紅花の傍にぐっと身を屈めた 「まさか今日とは思わなかったわよ。でも嬉しい。花ちゃん、まさか忘れてんじゃないかなあ、なんて疑ってごめんね」 「へ?」 「お兄さんよぅ。連れて来てって言ってから随分待ったわよ。その間に花ちゃん、祝言挙げるわお腹にややが入るわ、自分の幸せに夢中であたしのことなんか忘れてるんじゃないかなーなんて」 花ちゃんのお兄さん、あたしに紹介してみない。あたしが店番のときに連れて来てよ。 そんなこともあったような……? とは言え静の一方的な願いだから、紅花が縮こまる必要は無いはずなのだが。 「まさか、そんなことあるはず無いわよねぇ?」 「ま、まっさかぁ。お客として来るより、一緒に店番したほうが長いこと過ごせる……でしょ」 「そうよね! さっすが花ちゃん分かってるぅ。じゃああたし戻るから、何かあったら呼んでねぇ」 静の後姿が消えて紅花は目を閉じる。紅砂、ごめん。でもまあ、静さんも綺麗だし明るいし悪い人じゃないから。多分。 昼過ぎて客の入りが一段落し、紅砂は大きく伸びをした。店に立つのは久しぶりだ。すぐに思い出せないことも多かったが、客の応対は静と呼ばれた女が進んでやってくれたので、随分と助けられていた。 紅花の具合が悪くなる一方なのを見て、紅砂は迷わず自分の仕事を調整した。全ては浬の代わりと思えばこそだ。 奥の部屋に目をやる。当分は自分が代わらねばならないだろう。こうなると、がらんとした家の様子が有難くもあった。自分と妹の分くらいなら飯も作れるし掃除も楽だ。いや、むしろ店に泊まり込んだ方が互いに楽なのでは。 「お兄さん、お疲れ様です。花ちゃん心配ですね」 振り返ると静が埃を払う手を止めて笑っていた。上背のある紅砂にも物怖じせず話し掛けてくる。 「いえ、すみません、本当に助かりました。……つわりはどうにも。薬も無いしやり過ごすしかないみたいで、可哀想でも何もしてやれないから」 「そんなもんですよ。大丈夫、ややが育ってるって証ですから。お兄さんがこうして代わってくれるのが、何より花ちゃんの助けになると思いますよ」 ね、と首を傾げて笑う。明るく朗らかな客商売向きの娘だ。押されるように紅砂の顔にも微笑みが戻った、そのとき。 「花と言えば! お兄さんご存知です? 河原の桜がようやく開き始めたんですって」 「は?」 突然話が飛躍したような気がしたが、静は相変わらずにこにこと笑っている。強引だが花繋がりということだろうか。 「咲く方の花ですか。西の川の」 「そうです。あたし、桜の花って大好きなんですよ。特にあの河原は絶景ですよねえ」 「確かにあれは見事ですね」 相槌を打っても、静は何かを待つように満面の笑顔を浮かべるばかりだ。沈黙が流れる。 「…………。お兄さん、もう見に行かれました?」 「え? いやいや、だってまだ開き始めたところなんでしょう」 「あ、やだあたしったら。見に行くんなら満開の頃ですよね。今年も綺麗だろうなぁ、見に行きたいなぁ」 「はぁ……花見がお好きなんですね」 また笑顔で沈黙した後、静はぷいと横を向いてまた埃をはたき始めた。鈍い、鈍すぎる。この人は女を誘ったことが無いのかしら、それともわざと? そうか、と呟く声。振り向くと紅砂が簪の一つを手に取っていた。 「だから桜の花飾りの付いた品が色々仕入れてあるんですね」 「やっぱり季節ものは売れ行きが良いんですよね。それ、あたしが仕入れたんです。可愛いでしょ」 彼の横顔が寂しそうに微笑んでいた。 「また季節が巡るんですね」 遠く誰かを思い出す眼差しだった。この 戻 扉 進 |