珍しく暖かい日だった。
 間地の里の家では今、ゆきが文机に向かい、その傍らに暁が睦月を遊ばせている。
 里は今朝、神社の麓の家の女が産気付いたため呼び出しを受けたらしい。今日中に産まれるか分からず、代わってゆきを見ていた黄月も、湊屋に用があるからと小間物屋に助けを求め、字でゆきと会話できる暁が昼前からここにいる。勝手に鍋のものを使って、どうにか三人の昼飯を済ませたところだった。
 ゆきが筆を置いたのを待って、暁は紙を自分の方へ寄せた。目を通している間は、ゆきが代わりに睦月を見てくれている。
「うん、上手。凄いね、よく書けたね」
「よくかけたねー」
 暁の拍手に応える声は無いが、ゆきも誇らしげだ。大きく頷いて机に人差し指で字を書く。「おかあちゃん いつも おしえてくれる たのしいからすき」。
「そう。ゆきとお喋りできるの、私も楽しいよ」
 ふと暁は差し込む光に気付いた。今日の日は高く昇り、照らされた背中がぽかぽかと暖かい。
「ねえゆき、字を書くのもいいけどお外で遊ぶのも楽しいんじゃない。この近くにも同じくらいの歳の子がいるんでしょう」
 ゆきは暁の顔を見つめ、ぶんぶんと首を振った。くしゃくしゃになった髪のまま、やっと思い出したように人差し指で喋る。「わたし ほんをよんで じをかくの おそとよりおうちがいい」。
「そう……」ふと暁は思い当たってゆきの髪を撫で、「嫌な子でもいる?」
 ゆきの人差し指が忙しく動き始めている。「あ、待って最初から」暁の声にぴたりと動きを止め、また動き出す。「いないよ わたし みんなとなかよし だいじょうぶよ」。
 暁の胸に漠然とした疑問が広がる。家の中がいいと言う一方で、皆と仲良しと言う。それに今の焦ったような話し方。何かを取り繕うような。
 取り繕うなんて言葉、ゆきはまだ知らないだろう。それでもこの小さな胸は言葉では言い尽くせない、説明しようのない細やかな想いを抱えている。
「ゆきちゃ、なにいってる?」
 割って入った睦月にゆきは笑顔を返し、暁もそれ以上の言葉を呑み込んだ。睦月が硯に手を伸ばそうとするのを止めながらもう一度日差しに目を向ける。
「ごめんゆき、私もうそろそろ小間物屋に戻らなきゃ。花ちゃんのお店。黄月のおじちゃんもまだ帰って来ないし、ゆきも一緒に来る? 字は見てあげられないけど、ご本を読んでたらいいよ」
 その前に、と隣宅の斎木にひと声かける。彼は年明けてこちら体調を崩しがちだった。
 生返事が返ってきたのを聞き届けて、幼子二人を両手に連れ、長屋の並びを抜ける。角を曲がったところで小さな子供の声が聞こえた。
「あ」
 声を上げたのは子供たちだった。ゆきと同じくらいの歳の子が三人、男の子が二人に女の子が一人だ。狭い道いっぱいに広がって石でも蹴っていたのか。ゆきをじろりと見つめ、手を繋いでいる暁も一瞥する。
「ゆき、知ってる子?」
 ゆきは暁の影に身を隠すようにして歩いた。顔をうつむけ、手はしっかりと暁の腕を掴んでいる。
 暁は睦月を胸に抱え上げると、もう片方の手でゆきの手をぎゅっと握り返して足早に三人のもとへ向かった。
「ごめんね、そこ通してくれる」
 じろりと暁を見上げる六つの目。彼らは何も言わずに道を譲った。角を曲がったところで笑い声が聞こえる。
「ごめんねぇーそこ通してくれるぅーだって」
「あれ壬だよね」
「でも小っちゃいのはどっちも黒髪だった。俺知ってる、ああいうの交じりっ子ってんだぜ」
「黙りっ子は別の人と暮らしてるじゃん。黒髪の」
「違うんだって。母ちゃんが言ってたんだけどさ……」
 声が徐々に遠ざかって聞こえなくなる。暁はゆきの手をもう一度強く握った。
「嫌だねえ、あんなふうに言われると」
 ゆきが暁を見上げ、小さくこくりと頷いた。暁自身、表情には出さなかったが胸は早鐘を打っていた。二人を連れていたから堂々としていられたようなものだ。
 小間物屋に戻ったが、昼過ぎまでの予定だった静が夕方までいられるとのことで、暁は奥で帳簿の点検をすることとなった。睦月は遅い昼寝に入り、ゆきは本に夢中だ。紙をめくる静かな音が重なる。暁はいくつか朱を入れて帳簿を閉じ、大きく肩を回した。
「ゆき、さっきの子たちって近くに住んでるの」
 ゆきは本から顔を上げて暁の隣へ座り直した。「そう」
「そっか。これまでさっきの子たちに何か言われた?」
 ゆきの人差し指がしばし止まる。ゆっくりと書き始めた文字は、「まじりっこの もらわれっこ って」。
 暁は息を呑む。何の躊躇も無い残酷さだった。
 ゆきの指は止まらない。暁は漏らさぬように読み続ける。
「でも わたししってる」「まえのおかあちゃんは しんじゃったって だからいまは おかあちゃんが わたしのおかあちゃん」「まじりっこっていうのは まえのおかあちゃんが みずのえだったって」
 ゆきの目が暁を捉える。「むっちゃんの おかあちゃんとおなじ」
 暁は驚いて口を押さえた。里は自分たちの事情をゆきに話しているらしい。
「だからほんとうなの へいき でもあのこたちは ばかにするために いうみたい」「わたしが ほんをよむのも えらそうにっていう しゃべれないくせにって」
 ゆきは少し考え込んで「わたしが じをおぼえるのはね」と続けた。
「じで しゃべれるから それに はやくんがいってた みずのえは ぶんげいなんだって」「ほんとか おしばいとか えとか おどりとか いっぱい」
 はやくん、とは黄月のことだろう。里がそう呼んでいるのを聞いたことがある。ぶんげい、とは文芸が盛んと言いたいのか。
「みずのえは ほかのくににまけて きえそうなの でもぶんげいは きえないの」「くにが つくったんじゃなくて ひとが つくったものだから」「わたし みずのえのまじりっこって はずかしくない」「もっとおぼえて みずのえのおはなし いっぱいよむの」
 ゆきの指が止まったところで、暁はようやく息を吸った。現れた途端に消えてしまう一文字一文字を、頭の中に留め置いて文章にする。何度も反芻する。国が作ったものは消えても、人が作ったものは消えない。
 それは、人こそが国の実態だから。そこに国や家という見えない枠をはめ込んだとして、それが崩れ落ちたとしても、人々の暮らしは続いていく。今までの風習を傍に置き、今までの神に祈り、今までの楽しみを胸に抱いて、ゆるやかに人の営みは続いていく。
 壬という国の名を失っても――豊川という家の名を失っても。
「みずのえのほん よんだことある」
 自分に問われているのだと気付いて、暁は口元を緩めた。
「あるよ。たくさん読んだ。ゆきの前のお母さんがいたら、きっとゆきに話してくれてただろうね。ゆきが読めそうなもの、貸本屋さんに頼んでおこうか」
 ゆきが顔じゅうで笑って大きく頷く。暁は、自分が昔読んだ本を思い出し、仮名が振ってありそうなものをいくつか書き付けた。ゆきは浮き立った表情で、話の中身を想像するように目を閉じた。
 本当は。
 本当は、仮名が振っていなくても読ませてやりたい本が、いくつもある。きっと聡いゆきなら話を理解し面白がるだろう。叶うことなら暁が読み聞かせてやりたかった。
 でもそれは、もうできない。取るべき道が見えてしまったから。
 土間に続く戸ががたりと鳴った。
「暁、開けていいか」
 黄月の声だった。答えるより早くゆきが立ち上がって開けてしまう。すっと流れ込む冷たい風。がらりと敷居の砂の擦れる音で、眠たげに身動きしていた睦月も起き上がった。
「遅くなって悪かった。助かった」
「こっちも人手要らずだったから大丈夫。里さんはまだかかりそうかな」
「多分な。もう日も落ちるし、今日は家に泊まらせる」
 黄月が振り返ると、ゆきは既に本を小脇に抱えて土間へ下りていた。追いかけようとする彼を暁が呼び止める。
「里さんに言ったほうがいいのかもしれないけれど……間地の子供がゆきに嫌なこと言ってるみたい。今日ここに来る途中で見かけて。ゆきと同じくらいの歳の子が三人」
 黄月は表情を止めてゆきを振り返った。飾り物を見ながら歩く姿からは何の陰も見えない。
「やっぱりおかしかったよな、最近。気を付けておく」
 それはまるで父親のようで、冷たく見える彼の意外な面倒見の良さに、暁はふっと笑みをこぼす。
 紅花と静は店仕舞いの準備をしていた。暁は膝に甘える睦月を抱えて土間へ下りる。歩き慣れた家までの道を、大小の影に続いて行く。
 次の朝、暁は睦月を連れ、浬と共に牙のもとへ向かった。二階最奥の牙の部屋にはもう一人中年の男がいた。暁の姿に目を見開いたところを見ると、彼もまた黒烏の一羽かもしれない。
 男が階段を下りたのを確認して浬が襖を閉める。
「今日はいかがなさいました」
 じゃれついてくる睦月に笑みを返し、牙が問う。暁は彼の前に膝を揃えて座った。昨日のゆきの言葉をもう一度頭の中に浮かべる。胸の震えが喉元まで上がってくる。呑み込む。口を開く。
「壬の割譲談義に参る。手筈を整えてもらいたい」
 静かな部屋に睦月の声。小さな手に髪を引っ張られながら、牙が身を乗り出して暁の瞳の奥を覗き込む。
「談義はふた月後に迫っております。出立まで日は取れず、また、引き返すこともできませぬ。心は確かにお決まりですか」
 暁が深く頷く。牙は身を戻して睦月の指を解き、額衝いた。
「畏まりました」



 八年前だった。
 まだ暑さが残るその日、本川は同じ組の片桐正親と共に、座長から組分けの件を聞いて役者長屋へ戻る途中だった。
 本川と片桐とは歳も近く、昔からつるんだ仲だった。どちらが早く上の組へ上がれるかで競ったこともあったし、祭の夏芝居では花形の兄弟役を演じたこともあった。結局肩を並べて組を上がることとなり、高揚したまま、じゃれあうようにして廊下を歩いた。
 角を曲がったところで、本川は本を抱えてこちらへ歩いてくる少女に目を止めて片手を上げた。久々に見る茱歌だった。彼女も立ち止まって会釈する。
「今、座長のところに行ってたんだ。次の顔見世で上の組に上がることが決まった。親父さんにもよろしく伝えてくれ」
 茱歌はにこりともせずに本川を見返していた。ただ見定めるように、じっと目を合わせる。
 不自然な沈黙に耐えかねて片桐が破顔した。
「おいおい、こんな小さな追っかけまでいんのかよ、花形役者の本川くんは」
「違うって。行くぞ。悪いな、引き留めて」
「あなただけが」
 通り過ぎようとしたとき、やっと彼女が声を発した。本川は振り返る。
「あなただけが特別なわけじゃありません。今までにもたくさん、うちに来ました。お父ちゃんは時期が来たらその人が一番当たりそうな本を書いて、大なり小なり成功しました。……でもそれが続いたのはほんのひと握りです。大抵はどこかで失速しました。大きい役を貰えなくなった人も、季春座からいなくなった人もいます」
 息を詰めて聞く本川の隣で、片桐が怪訝げに「何だあれ」と幼い少女を親指で示す。「何の話だ」
「いや……」本川は言葉を継げずに小さく首を振る。
「甲ノ組へ上がるんですね。おめでとうございます。でもそれってつまり、甲ノ組からも誰かが弾かれたってことです。……花形だなんて、自分では言わないほうがいいです。花は散るものです。奈落はどこにあるか分かりません」
「おい嬢ちゃんよ、さっきから聞いてりゃ不吉なことばっかりべらべらと」
 片桐がつかつかと茱歌に歩み寄る。上背のある片桐に凄まれて、茱歌はぎゅっと体を縮めた。
「やめろ片桐」
 本川の声に片桐は足を止め、眉間を寄せたまま身を翻した。小さく舌打ち。
「別に何もしねぇよ、こんなお嬢ちゃん相手に。先に戻っとくぞ」
「荒れんなよ」
「あのかわいこちゃん可愛がってやるだけだよ」
 先日下の組に入ってきた織楽のことだ。衣装をすり替えるか嘘の風習を教え込むか間地の役者狂いのところへ送り込むか、織楽はああ見えて打たれ強そうだから放っておいても平気だろう。
 片桐の姿が次の角に消えるのを見送って、本川は茱歌に近付いた。彼女が身を縮めたときに落ちた本を拾う。
「悪い奴じゃないんだ。ついさっき組が上がるって聞いて、いい気分になってたとこなんだよ」
 茱歌は何も言わずに本を受け取る。
「さっきの話、失速したっていう他の役者には言ったことあるのか」
 ぶんと一度かぶりを振って、呟くほどの声で「名の売れた人に会う機会なんて無いです」。本川より頭二つ小さい彼女は、近寄って見下ろせば旋毛しか見えなかった。
「そうか、それなら聞けた俺は運が良かったってことだな」
 茱歌がわずかに顎を上げる。本川は、森宮が彼に託した先の長すぎる願いを思い出していた。
 ――いずれ白菊を稼げる役者になった日には、茱歌の連れ添う相手を見繕ってやってくれ。あの子が年頃になっても、まだお前が役者として生き残ってたらの話だ。
 あれはむしろ、その日まで役者として生き残ってほしいという願掛けでもあったのでは。
 そうだ、幼く見えても彼女は季春座を中から外から見つめ続けてきたのだ。名も無い役者が、ある日突然整えられた舞台で名を上げ、花形の名をほしいままにする。それはただ、売り時を見極めて目立つ棚に置かれ、それがたまたま当たっただけのこと。そこに胡坐をかいた途端、盤石に見えた床は腐れて奈落へと落ちる。幾度となく繰り返される栄枯盛衰、彼女の目はその移ろいをつぶさに見てきた。
 彼女の言葉を流してはいけない。不吉だからと、その警鐘に耳を塞いではいけない。
 座敷童は本来、吉を呼ぶ童神なのだから。
「俺は消えないよう精一杯やってみるよ。だからお前さんも、嫁がされるのが嫌だってんなら、本書きで食えるよう精々頑張ってみな」
 本川はまだまだ低いところにある小さな頭をぽんと叩いた。
「この頭ん中にゃ、坡城びと全員を熱狂させるような面白い話が渦巻いてんだろ」
 それが、彼ら二人がまともに声を交わした最初だった。

 その日の公演が終わった夕刻、本川は座長の元へ向かった。その手には茱歌の書き込みで真っ黒になった正本があった。
 今回の公演が終わるまであと二十日も無い。もし修正を加える機会があるとすれば今が最後だろう。
 座長の部屋はまだ暗かった。前の廊下に胡坐をかいてしばし待つ。程なくして座長と数名の役者の声が近付いてきた。役者は挨拶をして遠ざかっていく。本川は腰を上げた。見慣れた鬼の面相が眉を上げる。
「お、どうした」
 ゆっくりと一礼し、本川は座長に続いて部屋に入った。座長は部屋の隅から引っ張り出した平たい座蒲団を本川に投げて寄越す。寡黙な仏頂面が一転、一切の動きの間も無駄にせず喋り続けるのは、公演明けの彼の常だった。
「お前の橋助は評判がいいぞ。しかし今日の気付いたか、大島の口上。なかなか様にはなってきたが、終わりにかけて少し声が上ずっただろ。あれはお前からも指導してやれ。その代わり脇田の動きは切れがあって良かったな。しかし殺陣の最後に刀をこう一度振ったのは、お前どう思う」
「あの」
「ああ、そういえばどうした、肩でも揉みに来たのか」
 本川は正本を差し出した。「とりあえず目を通してみてください」
 座長は受け取った正本を鷹揚にぱらぱらとめくる。
「……これがどうした」
「その書き込みです。もし一つでも面白いと思う箇所があれば、手直しをしてみませんか」
 座長は四半分ほど指を進めて突然ぱたんと閉じた。
「無理だと言ったはずだが、さて。あの娘はお前が来れば話が変わると思ってるのか」
「……って、茱歌が来たんですか」
「そんな名だったかね。まあ、ものを見たのは今が初めてだが、今やってる芝居に手を入れることは可能かと。ふざけた話だ。森宮の娘か知らんが、一座として契約している森宮とは赤の他人だ。森宮本人が変えたがっているならまだしも……仮にそうだとしても、明らかな誤り以外は手を加えられない。舞台に立つ者の負担もあるし、客にも失礼な話だ」
 思った以上にばっさりと切られて本川は項垂れた。茱歌が自分より前に座長に会いに来ていた。本川に発破をかけられて奮い立ったとすれば喜ばしいが、彼女の落胆は本川以上だろう。座長から突き返された正本を手慰みにめくる。
「……では稽古が始まる前、例えば正本が上がって間もなくの時期であれば、まだ変える余地もあるということですか」
「お前は何を聞いていたんだ」
 座長のひと睨みは、慣れた本川でさえ肝が冷えた。長い嘆息。
「一座として契約しているのは森宮だと言っただろう。あの娘は一座としては何の関わりも無い。ずぶの素人のお話に頼らにゃならんほど、うちは落ちぶれちゃいないぞ」
「落ちぶれるとか、そんな言い方はないでしょう。この本。ほんの少しでも面白いと、演ってみたいと思いませんでしたか」
「しつこい。やけに入れ込むな、あの娘はお前の何だ」
 本川は顔にぴりっと嫌悪を滲ませ、それを礼で隠して立ち去った。乱暴に閉まる襖にふんと鼻を鳴らし、座長は一人足を崩した。
 間違ったことは一つも言っていない。興行日も半分を終えて千秋楽が見えてきた今、息切れしやすい時期だ。一座を率いる者として、誰も潰さぬまま、客入りを保ち、走り抜かねば。
 ふと自分の手に視線を落とした。ごつごつとしたこの手で、墨だらけのあの本を強引に閉じた。
 それは、次の場面を追おうとしてしまう目を引き剥がすためだった。



 貸本屋が壬の本を届けに来たのは、出立まであと数日に迫った夕刻だった。
 牙のいる宿を出て小間物屋に立ち寄ったところでそれを知り、もう一度間地へ戻ろうか暁が迷っていると、紅花がそれを胸に抱えた。
「ゆきに届ければいいんでしょ。ついでがあるから持ってくわよ。睦っちゃん遊ばせてていいから、静さんと一緒に待っててくれる」
 間地に用があるのか、と首を傾げた暁だったが、店じまいの最中に帰ってきた紅花が煮売りの鉢を持っていたので納得した。まだ冷える夕暮れの道を、体を傾げて睦月の手を引きながら歩く。坂道に入ってからはもう他に人通りも無い。
「紅花、急で悪いんだけど、しばらく留守にしようと思うの」
 前を行く紅花が振り返る。
「どうしたの」
「東雲に壬びとの落ち延びた集落があるらしくて、知り合いが見付かるかもしれないから、じっくり回ってみようと思って」
「あ、そう……え、今更? って、いやごめん、そう言ったら悪いけど」
 怪しまれるのは覚悟の上だった。暁は動揺を悟られぬよう深く頷く。
「最近知って、どうしても行きたいの」
「まあ、そりゃ気になるわよね。別に止めないけど……睦っちゃんも連れてくの」
 もう一度頷く。普段見ない暁のきっぱりとした様子に、はぁ、と紅花は呟いてまた歩き出した。暁はその背中を見つめて息を整える。
「それで、東雲の地理に明るい浬が案内をしてくれるって言うんだけど……いいかな」
 紅花の足が止まった。今度は振り返るまで間があった。暁は唇を舐める。
 図々しい話だった。浬は紅花の夫だ。たとい東雲の旭家の長子であろうが、暁の許嫁に据えられた過去があろうが、それどころか人別帳では彼扮する「泰孝」が睦月の父であろうが、紅花の知るところではないのだ。
「浬が行くって言ったんなら、そうしてもらったら。睦っちゃんも慣れてるし」
 紅花の背がまた離れていく。彼女の声は平然としているようで、どこか拗ねて聞こえた。暁は申し訳なさに眉を寄せたが、浬抜きで進む話でもない。
 坂道に疲れた睦月が抱っこをせがむ。暁は重くなった我が子を抱え上げる。睦月以外は無言のまま、程なくして家の灯りが見えてきた。

 その夜だった。二つ敷いた蒲団、その傍で紅花は髪を梳って彼を待つ。
 しばらくして現れた浬は、すまなそうな顔で「暁から聞いたかもしれないけど」と前置きした。
「ちょっと遠出してくるよ。明後日か明々後日か、天気を見計らって出立する。危ない行程じゃないし、心配しないでいいから」
「うん、聞いた」紅花は鏡に映った自分の顔をちらと見て、もう一度櫛を当てる。
「あたしも話があるの。今日、間地に行ってきたのよ」
 振り返ったそこには、きょとんとした顔の浬がいた。ああ、笑ってしまう、これでは去年と同じではないか。少しは察してくれても良さそうなものを。
「里さんのとこ。ここんとこあんまり食べられなくて、そういえば最近お馬が来ないなって。……今度こそ本当にややがいるみたいよ」
「ええ? あ……えっと、それは」
 目が泳ぎそうになる浬を繋ぎ止めるように、笑う。
「何よ、もっと喜んでくれてもいいじゃない」
「あ、いや、勿論嬉しいよ、嬉しいんだけど……そんなときに遠出の話をしてしまって」
「いいわよ別に。つわりを代わってもらえるわけでもないし、あんたたちが出て行くなら家に残るのはあたしと紅砂くらいだもん。黄月も最近ずっと間地だし」
 確かに今日の夕餉は五人だった。昨年暮れに出て行った針葉、季春座で忙しく舞台に立つ織楽、間地で斎木の世話をする黄月、そして今度は暁と睦月に浬。この広い家に二人とは随分寂しいものだ。
「……ねえ、浬。あんたと暁って何なの」
 紅花は梳る手を投げ出して、力ない目で浬を見つめていた。浬はその目を真っ向から見つめ返す。その唇は薄く笑みを湛えている。
「何って?」
 瞬きを何度したか、じじっと火が揺れて紅花は目を伏せた。長い睫毛が影を落とす。
「何でもない」
「それより紅花ちゃん、体の具合はどう。気分は悪くない」
 浬は膝を寄せて紅花の頬に触れた。そしてまだ小さな膨らみの腹に手を近付け、目で合図してそっと触る。じんわりと伝わってくる熱。紅花はその手をじっと見つめる。
 本気で、何か聞けると思ったわけではなかった。本当に彼らの間に何かがあるのかも分からない。
 確かなことは、浬が紅花の夫であること、宿った命の父が彼であること、紅花が彼ら三人に付いていくことはできないということ。そして、本当に彼に秘め事があるなら、彼は徹底してそれを秘め続けるだろうということ。
 だから、彼は何があっても紅花を見捨てない。紅花のところに帰ってきて、また良き夫であり続けるに違いない。
 紅花は浬の手に重ねて自分の手を腹に当てた。
「ねえ浬、男の子だと思う、女の子だと思う」
「うーん、どっちかな」
 浬が笑う、その顔には少なくとも嘘は無いように見えた。



 紅花が身籠ったことを知った同じ日、浬が遠出すると知って紅砂は不機嫌になった。妹夫婦のことには口出しすまいとしていたが、さすがに今回はと浬の部屋へ向かうと、浬も紅砂に会いに出てくるところだった。
 久しぶりに入る浬の部屋は、またしても織楽に押し付けられたか、珍妙なものが一辺を占拠していた。隅にある包みは旅支度だろうか。浬が座蒲団を二つ並べる。
「暁に付き添って遊山だそうだな」
 浬が座るのを待たずに言うと、彼は困ったように笑った。
「そういうことにしといてくれる」
「嘘が必要な行程か」
「去年さ。上申書を書くときや出しに行くとき、紅砂はそれを皆に言いふらしたかな」
 紅砂の脳裡に蘇った苦い記憶。若菜を助けたい一心で書き連ねた分厚い紙の束は、極力、家の者には見せなかった。文章を読み慣れた暁と浬に校正を頼んだのみだ。
 そしてその結末は惨憺たるものだった。
「何か知らないが、港番を相手にしに行くつもりならやめとけ」
 紅砂の眉間にしわが寄るが、浬は和やかな表情を崩さなかった。
「違うよ、心配いらない。あえて言うなら……そうだな、暁は亡国のお姫さまで、僕は亡くなった許嫁の弟なんだよ。今回は亡国へ遠征だ」
「何だそりゃ。お前にしちゃ面白い作り話だな」
「あ、信じてないだろ」
「誰が信じる」紅砂は大きく伸びをして笑いを振り切る。その視界の端で、浬が畳に両手をついて深く頭を下げた。
「謝るんなら相手が違うぞ」
「謝るわけじゃない。留守を頼みたい。どんな理由があっても、紅花ちゃんの傍にいてやれないのは事実だ。僕が帰るまでの間、紅花ちゃんを護ってやってほしい」
 お兄さんに謝るつもりは無いよ、と言った浬の挑戦的な目を思い出す。こいつは紅花を貰いに来たときでさえそうだった。厄介な男だ。そして更に厄介なことに、それを選んだのが紅花なのだ。
 紅砂は顔をしかめて頭をがりがり掻いた。
「何でもいいんだよ。お前が何をしてこようが俺は構わない。でも紅花に顔向けできないことだけはするな。子供を作った以上は無事で帰って来い」
 浬が頭を上げて小さく頷いた。それをじっと見つめ、次に項垂れたのは紅砂だった。
「……知ってると思うけどな、紅花は元々、思ったことは何でも言うたちなんだ。でも最近は違う。口数が減って、その分考えてる。何を言うべきか言わざるべきか。大人になったと思えば喜ばしいが、俺には少し、無理をしてるように見える」
「僕が我慢をさせている、んだろうね」
「これは俺からの頼みだ。できるだけ早く帰ってきてやってくれ」
 浬は今度は大きく頷いた。
「帰ってきたらちゃんと尽くすよ。お姫さまの付き添いは今回で最後だからね」
「まだ言うか」
 紅砂が睨むと、浬は屈託なく笑った。その翌朝に紅砂が起きると、もう彼らの姿は無かった。