ふっと梅の香が鼻腔をくすぐった。紅花の話に頷くばかりだった顔をちらりと巡らせると、灯の届かない部屋の隅、板の間とは名ばかりの場所に灰白色の花瓶が置かれており、そこから節くれだった一枝が頭を出していた。蕾らしき白い点の中で、一つがふわりとほころび始めている。
「あ、そうそう」
 紅花は腰を上げて花瓶を手に取ると、また浬の前に腰を下ろした。
「もう梅の時期なのよね。これも今日睦っちゃんがくれたの。正確には通りがかったおばちゃんが睦っちゃんにくれてさ、睦っちゃんもにこーっとして、いいにおいねーって」
 その時のことを思い返して紅花の顔が甘やかになる。
「それでさあ、おばちゃんが、好きな子にあげると喜ばれるよって言ったわけ。そしたらあたしに手渡してきて、はなちゃ、あげるって。もうさ、子供ってほんと澄んだ目でそういうことしてくるから、たまんないわよね」
「僕だってそこにいたら、紅花ちゃんにあげてたよ」
 拗ねたような口調の実、浬の目元は笑っている。
「もー、そういうことじゃなくってさ……。とにかく可愛かったわけよ」
「紅花ちゃんは睦月に夢中だね」
 笑顔のまま言葉を返そうとして、ふと紅花の唇が止まる。頭の中で一度考えを巡らせてから、また口を開いた。
「ご飯作ったり洗濯したりっていうのは、これまで何年も同じことやってきたけどさ、子供って目まぐるしく変わるじゃない。だからつい話題にしちゃうのよね。でも……ごめんね、確かにその話ばっかりだったかも」
 こうだ。夫婦となったからには、気安い口をきくだけでなく、このくらいの殊勝さも大事だろう。これでどうだとばかりに、紅花は夫に笑みを向ける。
「浬はどうなの、あんたの話も聞きたいな」
「別に僕はいつもと同じ、変わったことは何も無いよ」
「な」肩透かしをくらった気分で、「何よそれ」
「ほら、もう遅いよ。どいたどいた」
 衝立の向こうから蒲団を引っ張り出した浬に、紅花はやむなく立ち上がる。灯りも随分薄暗くなってきた。部屋の隅へと押し遣られたまま、紅花は花瓶を元に戻し、二つ並ぶ蒲団に視線を落とした。
「夫婦になったからって何が変わるわけでもないのね」
「ん、何て?」
 紅花はそっぽを向いて口を尖らせた。確かに蒲団は二つ並ぶし、こそこそしなくて良くなったし、でもそれだけだ。元々同じ家に住んで、紅花は浬を含む大勢の稼ぎで暮らし、浬を含む大勢のために飯を炊き洗濯をしていた。むしろ、一緒にいるのが当たり前になったぶん、浬が改めて紅花を傍に置こうとしなくなったようにさえ感じる。
 去年は、なかなか一緒になろうと言い出さない浬に随分やきもきしたものだが、今となってはその気持ちも理解できてしまうのだ。何も変わらない。いや、隠れて逢瀬を重ねる方が浬の心を昂ぶらせたのでは、とまで言うのは穿ちすぎか。
「紅花ちゃん、おいで」
 口を尖らせたまま、浬の隣に滑り込む。
「体冷えちゃったかな。寒くない」
 髪を撫でる手は優しく、紅花はやっと唇を元の形に戻した。
「睦月のことは可愛いけどさ、何も、睦月が一番って考えてるわけじゃないのよ」
「ん? ああ、別に本気で妬いてるわけじゃないよ」
「その、あんたが妬いてると思ってるわけじゃなくてさ、あの……あたしにややがいたら、その子が一番になると思うし、そっちにかかりきりになると思うし」
 暗闇の中であえて視線を外す。紅花が口を噤んでも何も聞こえない、身動きすらしないのが、彼の答えだろうか。
「それだけ。ごめんね、変な話して。おやすみ」
「紅花ちゃん」
 呼ばれると同時に体の自由を奪われた。身動きも取れないほど強く抱きすくめられ、飼い主に再会した犬さながら、頬にぐりぐりと顔をうずめられる。
「な……何、何、なに」
 しばしの沈黙があって、犬のような浬のような黒い影はがばっとその身を起こした。
「ごめん、何かぐっときた」
「今の流れのどこでよ」
「改めて訊かれると……」
 浬はごまかすように笑い、また紅花の首元に顔をうずめた。大きく吸い込む息の音。彼の左手は紅花の髪から頬へ、肩へと移っていく。
「紅花ちゃん」
 なに、と答える声に息が混じる。そうだ、紅花にだって分かる。夫婦となったからには、こんな夜はしめやかに過ごすべきなのだ。
 浬はまさぐる手を止めて、紅花に顔を寄せた。
「男の子と女の子ならどっちがいい」
 答える間もなく唇が塞がれ、手が衣の裡に滑り込んだ。



 季春座に届く文は、その都度下働きが振り分けて、数日ごとに役者たちへ届けられる。
 昨年末の顔見世公演から始まった興行に次ぐ興行、その一日からやっと解放された夕刻、織楽が部屋に戻るとその隅に文の束が置かれていた。白粉を落としたばかりの顔から水気を拭いながら、一つ一つ手に取って眺めていく。お得意さんはこちらの文箱に、一見さんはこちらに、よくできた似顔絵は壁に留めてと、粗方整理をして最後の一通だった。
「あ」
 思わず声が漏れた。何ということだ、先に差出人だけ確認しておくのだった。もどかしく文を開けて中に目を通す。
――っ」
 息を詰めるように一度目を走らせ、呆気なく最後まで辿り着いて、祈るような心でもう一度目を通す。文面が変わるわけもなく、一度目で胸を襲った焦燥はじわりじわりと底へ落ちていく。
 目を伏せて、文の最後に付けられた墨の跡に手を伸ばした。小さな手形と足形が二つずつ。愛おしむように輪郭を指でなぞり、自分の手を重ねてみる。なんと愛らしい。この手がかつて自分の指を握ったのだ。この足がかつて自分のくすぐりでさかんに仰け反ったのだ。
 叶うなら、手足だけでなく顔を見たい。声を聞きたい。抱き上げて、隙間もないほど抱き締めて、乳臭い匂いを吸い込みたい。だが。
 織楽は文を元通り畳んで腰を上げた。隣の部屋へ続く襖に手を掛ける。
 ……ふと耳を寄せる。話し声が聞こえるようだ。くぐもった声が段々大きくなって――
「言っていいことと悪いことがありますよ!」
 突然の大声に弾かれるように耳を離したところで、廊下に続く襖が開く音がして足音が遠ざかっていった。
 そろりと襖を開けると、本川が廊下側の襖を締めて振り返るところだった。ぎょっと立ち止まり露骨に眉をしかめる。
「……んだよ、立ち聞きか。戻ってたのか」
「いや、初めから聞こう思てたわけちゃうねんけどな。聞こえてもうたもんはしゃあない」
 いそいそと本川の前に胡坐をかいて顔を覗き込んだ。逸らされた顔を更に覗き込む。
「痴話喧嘩か。お前にもそういう相手おったん」
「違う」
「言うても、看板役者の本川様ともあろうお人がただの客を部屋には上げんやろ。女やろ今の。それも年頃の」
 本川はむっつりと黙り込んで視線を合わせようとしない。
「ここの役者の声やないやろ。言うてみ、どこの女なん」
「茱歌だよ」
 しゅか。織楽はその名を頭の中でぐるりとひと巡りさせた。しゅか。
「森宮の娘だ」
 苛立ったように発せられるその名が本書きの森宮と結び付くまで一瞬の間を要した。
「ああ、森宮の……でもあの子、あれ? ほなお前あの子と」
「だから痴話喧嘩じゃないっちょうとるが」
「あ、さよか。そら失礼」
 畳を睨み付けていた本川は、ふと気付いたように顔を上げた。
「というよりお前、立ち聞きしょうたなら痴話喧嘩じゃないっちゃすぐ分かったろ」
「せやし、立ち聞きしよう思てたんちゃうて、たまたま聞こえてんて」
「どこから聞いてた」
「えぇ。看板役者の本川様が、言うてええことと悪いことも分からん女泣かせの阿呆やいう辺り?」
「……っ、最後の最後じゃねえか」本川は大仰にしかめた顔を手で覆う。「やられた。……お前、いつからそんな汚いやり口覚えた」
「んなもん、本川兄さんと片桐兄さんにみっちりねっとり仕込まれた手練手管やないですか」
 しなを作って答えた織楽に反吐を吐く真似で対抗し、本川は今一座で公演中の芝居の正本に手を伸ばした。ぺらぺらとあてもなくめくる音。
「……お前、披露目のときうてたな。季春は安易な焼き直しをせんからええとか」
「その代わり俺らの休みなんてあったもんちゃうけどってな」
「そうだそうだ」本川が笑みをこぼす。「とんでもないな、ここは。……でも俺は、休みが無いのは別として、ここのやり方が嫌いじゃない。古典劇を大事にするっちゃ勿論やが、時事もんはどうしても廃れやすい。移り変わりを察して次を産むことは、苦労はあれど無駄にはならんろう。だから言うたっちゃがなぁ」
 嘆息の落ちる先は正本だ。織楽はそれを取り上げてめくっていく。
「あれ、えらい書き込み多いな。ここも……ここも、え、これなんか新しい紙挟んで丸々書き直したあるやん」
「茱歌のだ」
 え、と顔を上げた織楽の目に映ったのは、やけに焦った表情の本川だった。ぐいと体を乗り出して書き込みを指す。
「読んでみろよ、とりあえず。どう思う」
 織楽は正本の最初から、書き込みの前後だけを拾って目を通していく。それは所々、箇所によっては場面ごと、紙面が黒く染まるほど、紙を足すほど書き加えられていた。まだ半分も読まないうちに「どう思う」とまた本川。
「いや……ええんちゃうの。元を知ってるぶん結構ばっさりいったなーいうとこもあるけど、まあ話は繋がるし、その代わり掘り下げられてるとこも面白い。どっちかいうと抒情的いうか、女に受けがええかも」
「だろ!?」
「でもこれ、その森宮の親父さんの書いた本やんな。しかも今まさに千客万来上演中。さっきのあの子との話、ただ褒めただけとちゃうやろ」
 本川はぐっと詰まって壁に背中を預けた。
「そりゃ急きすぎたかもしれん。でももたもたしょうたら公演が終わって、これも日の目を見んままになる」
「こう変えてみろ言うたん。この道やって長い親父さんや役者連中に、まだ駆け出しの、何の実績も無い本書きの娘が言えて」
「俺が代わりに言おうちゃした。でもそれすら嫌がって止めてくれとさ」
「公演中やで。稽古の間もろくに無いのに」
「でも」
 本川の熱い目。
「惜しいちゃ思わんか」
 駄々を捏ねているような言い分とは裏腹に、その目は真剣だった。織楽は笑う。こいつもとんだ芝居馬鹿だ。
 日々の舞台をこなす。年数を重ねるほど熟達し、反面滑らかになりゆく感性を、芯から震わせる鮮烈な出会いが時にある。彼はたった今、新しい才覚に触れたばかりなのだ。
「分かるで」
 本川はやっと落ち着く場所を得たように深いところから息を吐き、目を覆った。
「それで……。お前はこのまま本書きの娘で終わるつもりなのか。書きたいものがあるのに押し黙って、父親の書いた筋をそっくりそのままなぞるだけなら、その右腕に意味なんか無い。とっととここを出て嫁入り修行でもしてろ。……って」
「言うたんか」
「ようた」
「阿っ呆やなあ」織楽は大仰に肩を落とす。「これやからちょっと見目のええ奴は」
「見た目なんか関係ねえだろ」
 食って掛かる本川の高い鼻に、織楽は人差し指を突き付けた。
「どうせ今まで大した苦労もせんでも、わらわら女が寄ってきてたんやろ。ろくに口説き方も知らんのやから」
「そういうお前は、さぞ上手く口説くんだろうな」
「知ってたか、俺二年前に祝言挙げて娘もおんねん」
 本川はしばし黙り、悔しそうに膝を叩いた。織楽は勝ち誇ってそれを見下ろし、ふと視線を逸らす。とは言えその妻も娘も今は遠く離れた山の向こうにいる。もうこちらへ戻る気は無いのかもしれない。
 ――梨枝は相変わらず風邪を引いてばかりです。私も世話に追われてなかなか体が休まらず、そちらへ戻るのは当分先になりそうです。寒い日が続きますのでご自愛を。
 果枝から届いた文は、愛娘の小さな手形足形で締めくくられていた。
 果枝は産後の肥立ちが悪く、郷での長い静養が必要だった。その原因の一端は織楽にもある。季春座での披露目が終わるまで、身重の果枝は里帰りを延ばさざるを得なかったからだ。そのうえ、そのとき果枝が暮らしていたのは狭い役者長屋の共同部屋だった。ようやく里帰りが叶ったとき彼女は既に産み月だった。負い目を感じるには充分だ。
 それ以降に会ったのは、夏芝居の暇を得た織楽が山を越えた一度きりだった。
 織楽としても、具合の悪い二人を無理に呼び戻したところで、彼女の生家以上に手厚く世話できるとは思えない。彼女自身が帰る気になるまでゆっくりさせるのが一番だろうと、こうして文のやり取りをするに留めている。しかし。
 果枝には根が生えている。あの里に深く広く張り巡らされた根。
 彼女が、あの里を振り切って自分と歩む道が、今はうまく描けない。
 むしろ、カンカ畑を継いでくれと言われる方がよほど有り得る。織楽は小さく自嘲の笑みを漏らした。そこにしぶとい本川の声。
「なあ、今回は諦めたほうがええちゃ思うか。座長に見てもらうだけならありじゃないか」
 織楽は彼に視線を戻して眉を上げた。確かに茱歌の書き換えた筋は面白い、若さと娘の視点が吉と出ている。が、よくよくここまで惚れ込んだものだ。
「まあまずは座長が順当やろな。そもそもあの子も、ようお前に見せたもんやな。そない仲良かったん」
「……森宮のおっさんに恩があるだけだ」
 本川はそれっきり口を噤んで、また正本に視線を落とした。



 本川が季春座に入ったのは十二のときだ。役者半分、小間使い半分で半年が過ぎた頃、ふと疑問に思って年上の役者に尋ねたことがある。
「あの子供、いつ見たっちゃ居るけど誰かん娘ですか」
 がらんどうの升席の一つに、年端もいかぬ童女が座ってじっと稽古を見ているのだ。つまみ出される気配も無いので忍び込んだ浮浪児ではないらしい。子役かと思ったが、本川が属する下の組の芝居では見たことがない。まさか上の組かと驚いたがそうでもないようだ。
 訊かれた男はにやと笑って腰をかがめ、本川に耳打ちした。
「聞いて驚くなよ、ありゃ座敷童だ」
 本川は眉をひそめて童女を見た。客のいない升席は灯が入らず薄暗い。男の言葉を信じるわけではないが、薄闇にぽつんと佇む小さな影は、どこか気味悪さを感じさせた。
 それから数年が経ち、本川も端役ではあるがほぼ毎回舞台に立てるまでに成長していた。上の組の役者の芝居をつぶさに観察した。立ち回りを覚え所作を覚えた。本を読み込み演じ分けに気を配った。訛りの無い話し方を舌に覚え込ませた。声変わりと共にぐっと伸びた背丈に見合うよう、無駄のない肉を付けた。それでもいまいち当たり役に恵まれない。
 ある日彼は座長から、本書きの森宮のもとへ使い走りを頼まれた。
 これだけ経ってもまだ使い走りかと、半ばくさる思いで辿り着いたのは間地の北にある小さな長屋だった。
「先生。森宮先生」
 戸が開いてのっそりと顔を出したのは初老を過ぎた男だった。無遠慮に本川を上から下まで眺めて名を問う。
「清之進ね、えらく恰好つけた名を貰ったもんだ。清坊でいいか」
「何とでも。ああ、座長から伝言で、次の本はあと十日で上げてくれって。今書き上がってる分だけでも持ってきますよ」
「じゃあきりのいいとこまで持たせるから中で待ちな」
 戸の内には飾り気が無く、ただ紙ばかりが積み上がっていた。早売り、読本、地図、史書、絵、今までに彼が書いたであろう本、本、本。くらくらと酔う気分で眺め回す。そこへ紙の束を抱えた森宮が現れた。
「お前さん、歳は」
「十八です」
「入って長いのか」
「季春では六年経ったけど、どうなんでしょうね。俺としては、もうこんな使い走りをさせられる小物じゃないつもりなんだが。先生のように第一線を突っ走ってる人からすれば、まだまだひよっこなんでしょう」
 とはいえ、と本川は笑って続ける。
「食っていける限りは続けていきたいと思ってるんです。とすれば、まだ走り始めたばかりかな」
 森宮はにやりと片頬で笑った。
「言ってることは謙虚だが、お前さん実はなかなか野心家だろう」
「そうじゃなきゃ役者なんてやれますか。人に見られて描かれて好き勝手言われる立場ですよ。俺だって怖く思うことはある、でもそれより面白さが先立つから舞台に上がるんです。先生も同じじゃないですか。まず書きたいものがあって、誰より面白くできる自負があるからこそ、この街で他のどこよりも人が集まる季春座の本を書くんでしょう」
 名も無い若手役者に好き勝手言われながらも、森宮は満足げだった。
「そんな清坊に一ついいことを教えてやろう。ここに使いで来る役者は次に当たるって話があってな」
「だから使い走りも厭うなって、単なる口実でしょう。いいですよ、それなら事実にしてみせるから、先生、俺にいい役くださいよ」
「甘えるな、役は勝ち取るもんだ。どんな役でもやれるくらい豊かな役者になってみろ」
 そのとき本川の後ろからすっと茶托が現れた。「あ」、その上に置かれる湯呑み。そういえばしゅうしゅうと湯の沸く音がしていた。てっきり内儀かと思っていたが。
「どうぞ」
 小さな手で茶を勧めて去ったのは、彼より十は若く見える少女だった。そしてそれは、ここ数年は見かけることも少なくなった、升席の座敷童だった。本川は目を丸くして少女の後姿を見送り、ひと口啜る。
「驚いた。あれ、いやあの子、先生の娘だったのか」
「茱歌だ。俺に似て愛くるしいだろ」
「ええ、きっと母親似ですね」
「こら。……かみさんの忘れ形見だよ」
 それで幼い時分は一人にしておけず季春座に連れて来ていたのか、と納得する。遅くにできた子なのか、森宮とは随分年が離れているようだ。
 本川はもう一度振り返る。少女は積み上がった本の中で静かに字を追っていた。
「凄いな、あれ早売りじゃないですか。あの歳で読めるのか」
「大した遊び道具もやれなかったからな。本書きのネタや芝居があの子の遊び相手みたいなもんだ」
「先生みたく物書きになるんでしょうかね」
「さあな。何にせよ、俺もこの歳だろ。せめてこっちが生きてるうちに道筋が見えるといいんだが」
 本川に途中までの束を持たせて送り出し、森宮はまた文机に戻った。硯に筆、何も書かれていない一枚の紙。
 本川清之進。若さゆえの傲慢さは否めないが、話していてなかなか面白い坊主だった。何より眼差しに力がある。あれを家に寄越した座長の意図を思い、森宮は白い紙を前にひとりごちた。
「なるほどな……あれを売り出すんなら小細工なしに、ひとつ派手な見せ場を作ってやらないとな」

 森宮の家に出入りするようになって数回目、また一つ歳を取った本川が白い息を吐きながら春公演の本を督促に行ったときだった。
「ほらよ」
 森宮から渡されたのは、まだ墨の匂いの新しい紙の束だった。端を二箇所紐で縛っただけの簡素なつくりだ。初めだけ目を通すが、途中まで受け取っていたものとは明らかに筋が異なる。
「何だこれ」
「昨日の夜ようやく書き上げた」
「おいおい、次の分がまだ上がってないってのに何遊んでんですか。座長からは、取り立てが終わるまで帰ってくんなって言われてんですよ」
「そんなら丁度いい、全部読んでみな。茱歌、茶ぁ淹れてやってくれ」
 釈然としないままかじかんだ両手をこすり合わせ、本の山に埋もれていた台を引っ張り出してぺらぺらとめくっていく。春公演はしっとりとした人情ものだが、これは活劇もののようだ。
「次の顔見世公演の本だ」
「は……顔見世? つったら年末じゃないか。今がいつか分かってますか、年明けですよ」
「いいから読む。俺も今書いてるからうるさくするな」
 本川は顔をしかめて次の一枚に目をやる。狭い長屋の中で、三人が何も言わずにひたすら字と相対する。
 本川が紙をめくる音が徐々に早くなる。指がもどかしく縺れる。茶は口も付けられぬまま冷め、息の音は止まり、そして最後の紙をめくる――
 はっ、と大きく吐き出して天を仰いだ。薄暗い板のたわむ様を見て、ああ、今戻ってきたのだと熱っぽい頭で感じる。
「読み終えたか」
 森宮の声にひっとのけぞる。「おっさん……いたのか」
「俺の家だぞ」
「あ……それよりおっさん、これ面白いよ。顔見世まで引っ張らずに、これ次で使えばいいって。今書いてるやつと入れ替えよう。絶対受けるから」
「ふん、そんなに良かったか。だがそれは顔見世用だ」
「なんで勿体ぶるんだよ」
 森宮は筆を置いて紙を入れ替える。「お前、自分で演ってみたいと思わないか」
「演るって……え、そりゃあ勿論、……え、え? つまり高市をってことだよな。俺が演っていいのか」
 高市はこの活劇の主役となる青年だった。話の筋そのものは古典的で分かりやすいのだが、とにかく高市が魅力的に描かれている。
「あくまで決めるのは座長だがな」
「あ……、だよな」
 本川はばつの悪さを隠すように、今更冷えた茶を取る。森宮は紙の束をとんとんと揃えながら「だが」と続けた。
「俺はお前が演るのを想定して書いた。もしお前が演れることになれば、きっとはまり役になるはずだ」
 本川は目を丸くして森宮を見つめる。森宮は涼しい顔で指を舐め、枚数を数えていく。
「おっさん……!」
「だから顔見世なんだよ。たっぷり時間をかけて、一年で一番ど派手な舞台を用意しなきゃ勿体ないだろうが」
「いいのか、甘えんなとか言ってたのに。どう礼をしたら」
「は、ひよっこがもう皮算用か。その役に決まるかも、それが当たるかも、まだまだこれからだろうが。どうしてもっていうなら出世払いで充分だ」
「出世払いって」
 森宮はふっと笑い、黙々と早売りを読む幼い娘を親指で示した。
「お前がいずれ白菊を稼げる役者になった日には、茱歌の連れ添う相手を見繕ってやってくれ」
「ええ? 何だそれ、嫁ぎ先ってことか? つっても、あんたの娘はまだ子供でしょうが。それに、そんな重大なことをどうして俺に」
「だから、あの子が年頃になっても、まだお前が役者として生き残ってたらの話だよ。それも白菊役者だ。どうだ、俄然難しくなっただろ」
 本川は娘に目を向ける。聞こえているのかいないのか、未だ本を読みふけっている幼い横顔。いや、その唇がむくれているような。
「見てのとおり、あの子は歳取ってからできた子だ。嫁入りを考える頃に俺がどうなってるか分からん。それにあの子はなんというか、大人ばかりの中で育ってきたし、歳の近い役者と引き合わせてみても芝居の話ばかりで、この先浮いた話をする相手もできるかどうか……。まあ気にするな、お前だけだけに頼んでる話じゃない。何よりまず、その役に選ばれてからだな」
「そうやってまた人を煩わせるのやめてよ、お父ちゃん」
 突然割って入ったのは、当の本人である茱歌の声だった。ぱたんと本を閉じて立ち上がり、二人の近くに膝をつく。
「何度も言ってるでしょ、私はお父ちゃんの跡を継ぎたい。芝居を作りたいの。嫁いで家に入って、たまに升席から見るだけじゃ我慢できないの」
「ほら分かるだろ、いっつもこの調子なんだ。心配でおちおち死ねやしない」
「ねえってば」
「分かった分かった、じゃあ年頃になる前にお前が本書きで身を立てられたらな」
 袖を引っ張る娘を軽くいなす森宮。半分じゃれあいのようになってきた親子喧嘩に苦笑し、本川は二種類の本を抱えて立ち上がった。その背中に声。
「清坊、お前は初めてここに来たとき嘯いてたな。自分は小物じゃないとか何とか」
「あれは……」口籠る。去年のことなのに、威勢のいいことを言った自分が気恥ずかしかった。「戯言と思って流してくださいよ」
「いいから聞け。お前は飼い殺しにされてたわけじゃない。売り時を見極められてたんだろうよ。大事に温めてくれてた座長をがっかりさせるなよ」
 振り返った目に映った森宮の背中を覚えている。彼の袖を掴んで本川を見つめていた茱歌の丸い瞳も。
 果たして、本川は座長から正式に高市役を言い渡され、その年は、顔見世公演のために全てを注力した一年となった。高市役は大いに当たり、客入りは今までの記録を塗り替えた。公演は期間を二度延長したため、下の組の春公演は初夏まで後ろ倒しとなった。本川が次に演じた役も同じく人気を呼び、その次の公演でも、主役ではなかったにもかかわらず彼の役者絵が飛ぶように売れた。
 本川が、荒事役で評価を得た片桐と共に上の組へ上げられたのは、その次の秋のことだった。