間地あわいじの路地奥に建つ古い長屋の一角、いくつもの棚や風呂敷や器具が端に積み上がり、輪郭を失った狭いひと部屋。その残り少ない平地である畳に腰掛け、黄月は薬缶を見つめていた。鈍色の口からしゅうしゅうと吹き出す湯気の音に混じって、衝立の奥からは止まず乾いた咳が聞こえる。
「おい」
「はい」
 しわがれた斎木の呼び声に、黄月は視線を寄越すこともなく答えた。
「駄目だ」
「何がですか」
「このままくたばっちまうのかもしれん。仏さんが見えてきた」
「それはこの前、置き場所が無くて梁の上に押し込んだ仏像です」
 しばし声が止む。黄月は薬缶の蓋がかたかたと鳴ったのを見計らい、火から下ろして土瓶に注ぐ。
「おい」
「はい」
「やっぱりもう駄目だ。天井隙間なく仏さんだらけだ」
「それは随分賑やかだ。もう薬湯が出来上がるので待ってください」
「薬湯じゃ効かん!」せわしない咳を挟み、「もう寿命だろうよ……儂も長く生きた」
「何を気弱な」
 黄月は盆を手に、奥の部屋に所狭しと敷かれた湿っぽい蒲団の脇に腰を下ろす。墨で引いたような切れ長の目は平然とし、老体を案ずる様子も無い。
「いや、もういいのさ。あの死に損ないの前羽さきうがくたばってから、もう十年くらいになるかね……きっとあいつもお天道さんの横から呼んでるんだろうよ。斎木よ、もうお前は走りすぎた、そろそろ休めってな」
 斎木の声に涙が混じるのも気に留めず、黄月はとぽとぽと薬湯を湯呑に注ぐ。黄みがかった緑色からは、湯気とともに噎せかえるような薬草の匂いが立ち上る。
「ああ……仏さんが呼んでる……おい、愛弟子よ。お前にも苦労かけたな。この一生、悪かなかったよ。ただ……心残りは一つ」
 黄月は肺の底から息を吐いて、師の言葉の続きを待つ。
「どうか……最後に我が織楽を呼んでくれ……!」
「薬湯が入りました。どうぞ」
 師の背を無理やり起こして、ひび割れた唇に有無を言わさず湯呑を押し付ける。
 斎木が年始に風邪を引いてから、毎日繰り広げられる茶番だった。

「だいたいお前は師匠に対する敬愛ってもんが無いんだ。可愛げが無いんなら、せめて何か行動で示せ」
 咳だけは続いているものの、斎木の口は達者である。黄月はちらと顔色を見る。
「行動とは」
「だから織楽を」
「馬鹿言わないでください、公演中ですよ。自分の我儘で一人の贔屓役者の命を絶つことが、先生の望みですか」
 斎木はぐっと言葉に詰まると、蒲団を鼻まで引き上げてわざとらしく咳を放った。付き合っていられないと盆を手に背を向けると、後ろから毒づく声が追ってくる。
「全く可愛げの無い。お前の手柄は、織楽を亰から連れてきたことだけだったな」
「この五日間の薬代は一割引きで結構です」
「お前! この上、師匠相手に銭を取ろうっていうのか! 嘆かわしい……いつからそんな金の亡者になっちまったんだ」
「一体何が、この上、なのか解せませんが、先月の支払いも全て済ませてから心置きなく旅立ってください」
「外道!」
 やんややんやと子供の喧嘩のような罵りを背に、黄月は土間に立って土瓶の中身を空ける。……すぐ外を、たたた、と走る小さな音があった。
 がらりと戸を開けると、隣の戸がぴしゃりと閉まるところだった。
「ゆき、帰ったのか」
 がらりと戸を開けて呼び掛けるが、部屋は薄暗く、あの小さな姿はどこにも見えない。
「ゆき?」
 畳に上がり呼び掛ける。奥を覗き込むと、そこにうずくまる小さな影があった。
「ゆき。お前が読んでた本なんだが……」
 黄月がはっと言葉を止めたのは、一瞬黄月に向けられた眼差しがあまりに大人びていて、その目が赤く染まっていたからだった。ゆきもさっと視線を逸らして、さも床に置いた草双紙を眺めていたというようにめくり出す。もつれた指。
「何かあったのか」
 ゆきは横顔でにっと笑い、首をふるふると横に振った。だがその目が黄月に向けられることはない。
「……貸本屋が、続きが入ったと言っていた。ゆき、ここは寒くないか。一緒に茶でも飲もうか」
 また首がふるふると振れる。肩より上で切り揃えられた黒髪がさらさらと揺れる。
「そうか。里さんは日が暮れるまでには帰ってくるから、何かあったら隣に来るようにな」
 うん。そう言うように小さな頭がぺこりと下がったのを見て、黄月は足を戻す。何度振り返っても、ゆきが顔を上げることは無かった。黄月は口を結んで隣の斎木宅へ戻った。
 斎木の家にはまだ薬草の匂いがかすかに残っている。奥の間の斎木は不機嫌そうに蒲団から起き上がっていた。
「おい隼坊。寒い。病人を置いて戸を開けっ放しにする間抜けがいるか」
「風通しを良くしないと、治るものも治りません。それより先生、ゆきのことですが、様子がおかしくないですか」
「どうせ里の平べったい乳でも恋しいんだろ」
「先生」
「知るかい。餓鬼にゃあ餓鬼の世間てものがあるんだろうさ」
 ゆきの世間。やむなく口を噤んだものの、喉の辺りには嫌な味が留まったままだった。
「そんでお前、織楽は今の公演が終わったらどうすんだい。ここらで儂の最後の思い出を作っちゃくれないかね」
「お涙頂戴を狙うなら、せめてそれ相応の弱り方をしてからにしてください。それにここに来る暇があれば、娘の様子でも見に行くでしょう」
「娘だと!? 娘、娘……あの嫁御は腹ぼてだったかね」
 黄月は、織楽の披露目の席に忍んできた老体がすぐ織楽自身に蹴り出されていたと思い出す。
「それにしても娘……娘か。そりゃああいつ似ならどっちでも別嬪だろうが、役者にするなら男だろ。勿体無いねぇ」
 ――果枝がな、もしかするとこのまま向こうに居着くんちゃうかて思うねん。考えすぎやろか。
 黄月の脳裡に蘇ったのは、顔見世から続く長丁場の中、たった一日の中休みで家に戻ってきた織楽の、どこか遠い目だった。そうだ、自分にはまだまだいくつも懸案があったのだと思う。
 黄月はやれやれと息を吐いた。新年早々肩の凝る話だ。



 紅花の小間物屋の奥に下ろされた睦月は、よいしょと戸を開けてそこにいる静にぺこりと頭を下げた。
「おぶたーいちょります」
「ちょっと、駄目よそれじゃ。ここんとこ毎日会ってるでしょ、それなら、昨日より更に美しくなったね、くらい言わないと」
「うくつし……ったねー」
「美しく、よ。麗しいでもいいわよ」
 暁は無言で睦月の両脇を抱え上げ、静の前から引き離した。
「変な事を教え込まないでください」
「変な事じゃないわよぉ。睦っちゃんがちょっとでもいい男になるよう仕込んでるんじゃない」
「この子には十年早いって言ってるんです」
「あ、言ったわね。十年なんてあっという間なんだからね。すぐにひょろっと背が伸びて、だみ声になって、ありとあらゆる毛がもっさり生えて可愛げなんか無くなるわよ。股間ぼりぼり掻きながら、お袋ぉ、飯ぃ、なんて言い出すのよ」
 お互い引かない二人の間に、「はいはい」と紅花が帳簿をひらひらさせて割り入る。
「言い合いすんなら出てってちょうだいよ。静さん、交代」
「えっもう? やだ、ちょっとだけ待って」
 静は湯呑の茶を飲み干すと、指をすり合わせながら戸の向こうへ出て行った。紅花がふっと息を吐いて静のいた場所に腰を下ろし、暁もようやく腰を落ち着ける。紅花が手に持っていた帳簿を暁に差し出す。
「じゃあこれ、昨日の分ね。って言ってもそんなに多くないけど」
「じゃあ算盤だけ借りるね。ほら睦っちゃん、こっそり旅立たないの」
 脇をすり抜けようとした小さな体を、紅花が阻止して自分の膝に座らせた。駄々をこねる甲高い声も力強く暴れ回る手足も受け流し、暁は早速、帳簿をざっと眺めて珠を弾き始める。ちゃかちゃかと小気味のいい音。親指と人差し指が素早く小さな珠を移動させるのを眺めながら、紅花は脇に積んだ早売りに目をやった。とは言え字を読むのは得意ではないので、絵を眺めるくらいだ。
「あんたならすぐ終わっちゃうでしょ。毎日来なくたっていいのよ、大して出せないんだし。本作るほうが稼ぎはいいんでしょ」
「いいよ。本を作ろうにも先生が本調子じゃないし、睦月もずっと家じゃかわいそうだし」
「この子のことなら今までみたいに預けたっていいんじゃない。浬は今日空いてたみたいよ」
 暁は指を止めた。……計算が終わったところでよかった、紅花に気付かれてはいないだろう。
 ちゃっと天珠を弾く。暁は頭の中で独り言つ、だからこそだ。
 昨年の暮れ、針葉が出て行ったあの日。浬に連れられて行った宿、三年ぶりに会ったあの男。豊川を護る烏の長、牙。
 浬に睦月を預けることは、豊川の血を牙に託すことと同義だ。豊川を壬の割譲談義にねじ込みたがっている、あの男に。
 護っていたという浬の言い分を真っ向から否定することはできない。彼の計らいが無ければ、暁は東雲で烏に捕われたままだっただろうし、正直に睦月を針葉の子として記帳していたら、今その命があったかは分からないのだ。二年前、大怪我をして戻ってきた浬。あれこそは、狂信的なひよの一派から、身を張って暁や睦月を護ろうとした証ではないか。
 だが。
 ――泰孝殿の弟君も、泰孝殿に似て良くできた若者だと名高い。楽しみにしておくといい。
 心が付いていかない。かつての許嫁への淡い慕情、雨呼びを邪魔した彼に抱いた憎しみ、カゾの葉が毒だと知った日、人別帳に記された泰孝の名。心を許して、訝しんで、救われて、それでもこうして絶望に沈められて。全てはお前を護るためだと、今更。
 暁は顔を上げた。笑いながら暴れる睦月を膝に乗せて相手をしている、紅花。気が強く面倒見が良く、裏表の無い彼女。きっと何も疑わず、一途に浬を想っている。
 あの計算高い男は、紅花の前でどんな顔をしているのだろう。
 そっと目を伏せた、そのとき静の声が戸の向こうから近付いてきた。
「ん、上れる? それ持ったげるわよ」
 すっと開いた戸の向こうにいたのは、本を抱えて静に手を振るゆきだった。
 きゃーう、と甲高い声は睦月だ。とことこと近付く睦月に微笑み返して、ゆきは本を置く。
「こんにちは。返しに来たのね。次のが届いてるけど、今日持ってく?」
 ゆきは、睦月の手から本を遠ざけてこくりと頷く。暁は紅花が示した本を棚の上から取り、ぱらぱらと中を見た。
「凄いね」
 ん、と身を乗り出した紅花に、本を開けたまま手渡す。小間物屋で貸本屋から取り置いた本は、仮名ばかりではあるが、絵より字の方が多いくらいだった。
 紅花は複雑な顔で紙をめくっていく。彼女がすらすらと読める限界もまた、ゆきと同じく仮名までなのだ。
「ゆき、今いくつだっけ。七つ?」
 ゆきは首を振って八と指で示す。
「八つ。それにしたって凄いなあ。うちの睦っちゃん、五年後にこんなに読めるかなあ」
「あんたの子なら読めるでしょ」
「針葉の子でもあるからね」
「おつむの中身があいつに似ないよう精々祈ることね。はい、ゆき」
 紅花が手渡すまで、ゆきは自分の裡にある何かを見ていたようだった。黒い目がはっと見開く。
「……どうかしたの」
 ゆきはぶんと首を振り、本を胸に抱えてぺこりと頭を下げる。肩の上で切り揃えた黒い髪を翻し、小さな背中はあっという間に戸の向こうへ消えた。
 表情を見られまいとしているように。
「ゆき……」
 腰を上げようとした暁が、息を吐いて戸を閉める。その裾を引く手があった。
「ゆっちゃ、おなかたーいの」
 悲しそうに暁を見上げる視線は、暁と紅花が本の話をしている間も、じっとゆきの表情に注がれていたはずなのだ。一瞬、紅花と視線がかち合う。
 ふわりと柔らかい黒髪に、暁はそっと指を通した。
「大丈夫。ゆきお姉ちゃんは痛い痛いじゃないよ」
 慰めるように伝えても、睦月の小さな手は、ぎゅっと暁の裾を握っていた。





 里は白の上張りを着て間地を出る。港の西門前に立っている番人は一人。男ばかりの流れの中を歩く里に、じろりと窪んだ眼を向けた。
 面倒臭い方の番人だ、何度も顔を合わせているのに。うんざりした顔を悟られまいと、里は胸元に視線を落として通行証を取り出す。番人は一瞥しただけだった。
 今日向かうのは港通りに面した赤い壁の内側だ。公の廓である店々は間口が広く、堂々とした構えからも気位の高さが窺い知れる。女たちの教養も高く、花代は更に上を行く。
 港の内側に入るときはどこか重苦しさが付きまとう。数多の男と女が毎夜出会い、交わり、日が昇ればそれは一夜の幻となる。その先は無いのだ。ここでは小さな命は厭われるものでしかない。
 それでもまだ今日は救いがある。赤い壁の内側では店ごとに時期をずらして、一年に三度は全ての女郎を診ることになっている。病が分かることもあれば身籠っていることもあり、いずれにせよただでは済まないが、裏道に並ぶ小店、「魚の目玉」に模した蜻蛉玉の吊り下げられた店とは比べるべくもない。ああいった小店ではそもそも女郎に銭をかけない。たまに呼び出されてみれば、すっかり腹の膨らんだ女があざだらけの肌を無残にさらして横たわっている。そして遣手婆が憎々しげに言うのだ、ちゃちゃっとやっとくれ。あと何日したら使い物になるんだい。
 出てきたものは、小さくても、ばらばらでも、人の形を成している。
 里は足を止める。格子の向こうに誰の姿も見えない店があった。「おはようございます」声を掛けて中へ入る。(もぐさ)の煙がぷんと鼻についた。
「ああ、待ってましたよ。二階に集めてますんで、よろしくどうぞ」
 里よりいくつか年配に見える女が帳簿を取り出して階段を示す。その後に続いて一段一段進むごとに煙の匂いは強くなった。軋みを聞きながら、そうか、今日は二日かと思い出す。
 一足先に二階に上った女がぱんと両手を打ち鳴らす。
「ほら、いらっしゃったよ。(やいと)はお止め。しだらない、安く肌を見せるんじゃないよ」
 広々とした畳の上には鮮やかな仕掛け、惜しげもなく見える襦袢に匂い立つような肌。色の群れだ。圧倒される艶やかな光景を遮るように艾の煙。里は軽く咳き込んで顔の前を手で払う。
「男にゃ見せませんよ」
 はは、と笑い声。里は端の部屋の襖を引き、帳簿の一人目を呼ぶ。
 すれたことを言っても、中年増の里からすれば十程は若い。一対一で話せば年相応なところも垣間見えた。
「ねえねえ、ここに灸すると孕まないって姐さんから聞いたんだけど本当なの」
「少なくとも私は聞いたことないわね。期待しなさんな、それより手遅れになる前に気付くことよ」
「ちょっとお里さん。次の女、すっごく痛くしちゃってよ。あたし、大事なお客取られたんだからね」
「自分たちのことは自分たちで片付けなさい。私はすべきことしかしません」
「ど……どうですか。何ともないですよね、私」
「今のところはそうみたいね。でも明日どうなるかは分からない、それは分かっておいて」
 そして時には、涼やかに見える顔が歪むことも。
 その日は、帳簿を三枚ほどめくったところに名のある女だった。女は脚を閉じると、はだけた裾をさっと合わせて立ち上がった。
「冗談じゃないよ! なんでそんなこと、あんたに指図されなきゃいけないのさ!」
「落ち着いて。座ってちょうだい。月のものが最後に来たのは去年の冬の初めなのよね」
「……そうだよ、やっと稼ぎ時が来たってときにさ」
「月のものが止まってもう四月が経ってる。加えて、さっき聞いたとおり具合が良くなかったんでしょう。恐らく、そろそろお腹も出てくるわよ。産めないのなら早い方がいい」
 ふいと顔を背けていた女が、途端に眉を寄せて里の前に座り直す。
「待って、待ってよ。せめてあとひと月。二十日でもいいから待ってよ。客を取らなきゃ。じゃなきゃさ、借金がどんどん増えてくのよ。休んだからって誰も助けちゃくれない。後で酷い目見るのはあたしなんだよ。可哀想だと思ってよ」
「私は見たまま聞いたままを報告します。それにお腹の子を放置して酷い目を見るのもあなたよ」
 女は唇を震わせていた。顔中を怒りで満たして、それ以上喚くことはなく、ふっと腹に視線を落とす。息を吸う音。次に顔を上げたとき、その目は赤く染まっていた。
「なんで……あたしなのよ」
 こわばった手が下腹を触ろうとして、怯えたように拳を握った。里は彼女から目を逸らさず、その表情の奥にあるものを見ようとする。
「あたしたちが一体、何を……どうしていつも……っ!」
 項垂れて畳に伸びたひと筋の髪が、嗚咽のたびに揺れる。里もそこで瞼を伏せて帳簿に一つ書き入れる。
 彼女の怒りは、不運や重くのしかかる借金や誰とも知れぬ子の父、その一つ一つに向けられたものではない。彼女や他の女郎を縛って放さない、この港全て、この苦界に向けた叫びだった。
 震える肩を見下ろしてぽつりと呟く。
「ちゃんと聞いたからね」
 誰にも覚えられず消えたとしても、いつしかがらんどうになった腹で彼女自身が忘れたとしても、と里は誓う。私は忘れない。刻んで刻んで強く固くなった心に、新たな叫びを刻み続けていく。
 ようやく落ち着いた彼女が部屋を出て行く。次に呼んだ女郎はただならぬ様子を感じたようで、ふっくらと若い頬が青褪めてこわばっていた。帳簿を見ると前回は名が無いようだ。この冬に女郎に上げられたか。
「こんにちは、里といいます。大丈夫、恐がらないで。あなたの体に変わりがないか確かめるだけだから」
 ゆっくりと、安心させるように。借金を膨らませずに休むことのできる、わずかばかりの日を恐れずに済むように。
「そこ閉めたら、ここに座ってくれる」
 彼女は戸惑いがちに瞳を揺らしながら頭を振った。

 結局、病も子も含めると全員の一割弱を数えることとなった。
 騒ぐ女もいれば、平然としている女もいた。どこで吹き込まれたか、病と知って「これでややができにくくなるんでしょ」と喜ぶ女さえいた。
 眩暈がするほどの生々しさ。息苦しくなるほどの。
 港通りを西に進む。空はもう朱に染まり、容赦なく目を刺した。手を翳す、その隙間から鳥の羽ばたきが覗く。裾や袖から忍び込む肌寒さにぞくりと震える。
 かつて里が匿った女がいた。祖母を見送って一人となっていた家に住まわせた、壬北部の訛りの強い身重の女。しかし彼女の腹に宿った命は、訳も分からず夫と引き離され、故郷を蹂躙された結果だった。その命を受け容れることができず、彼女は腹の子を殺そうとし、叶わず産み落としてからも乳を与えることを厭うた。そして口論の末、里に全てを打ち明け、間もなく幼子の首を掻き切り自らの命をも絶った。
 血の匂いと跡が消えないあの家で、港番の調べはほとんど、事情を知っていた隣家の斎木と、その弟子であり訛りの橋渡し役だった隼太が答えてくれた。里は、打ち砕かれた心で、目覚めない幼子の世話を続けていた。一日一日の繋ぎ目が曖昧だった。虚ろな頭で、この日々はどこまで続くのだろうと探した。何を選ぶべきだったのか、何が答えだったのか。夢の中を彷徨うようだった。
 思えばあれは、理想に燃えていた自分を捨て去る期間だったのだろう。
 全ての命は望まれて産まれ、やがて来る終わりのときまで精一杯光を放つものだと。子を憎む親など、ましてや殺そうとする親などいるはずがないと。子堕ろしなど命の理に反するものだと。
 やがて子は目を覚まし、ようやく暮らしが落ち着いたのはその年の暮れだった。命は繋がったものの喉には大きな傷が残り、声の一切は失われた。名さえ無かった幼子にゆきと名付けたのはその頃だ。
 斎木の家へ仕入れに来た帰り、隼太が里の家に顔を出した。隼太はゆきの母が来た頃からよく顔を見せていたが、彼女がいなくなり、橋渡しが必要なくなってもなお、頻繁にゆきの様子を見に来ていた。
「ゆきって呼ぶことにしたの」
 幼子をあやしていた彼にぽつりと言った。名付けと言えど番処に届け出るわけでもなく、その呟きこそが名付けの儀式のようなものだった。
「ゆき、ですか」
「私が付けていいのか迷ったけど、いつまでも呼び掛けられないのは良くないでしょう」
 言い訳をするように顔を背けて乾いた襁褓を畳む。隼太が手を止めて膝を正したのが視界の端に見えた。
「ご立派だと思います」
 体の怠さか心の怠さか、彼に振り向くまでひと息を要した。
「里さんのなさったことは間違いではありません。あの人をこの家に住まわせたことも、この子を産む助けになられたことも、この子を救うため懸命に世話をされたことも」
「この子から母と声を奪っても?」
「あなたのどこに咎がありますか。あの人は心を病んでいた……不幸な巡り合わせに立ち会ってしまっただけです。あなたは精一杯、命を正しい方へ導いた」
 その口調にはいつもより熱がこもっていた。彼の目には曇りが無かった。
 私と同じだ。
 嘲るように思った。そう、私は正しかった、彼の言うとおり正しい道をとった。たとい一年前に戻れたとして、やはり私は自分の信じるままにゆきの母を匿い、子を産ませ、そして殺してしまうのだ。ゆきから母と声を奪うのだ。
 この心に、ほんの少しの揺らぎがあれば。自分の信じる唯一より、もう少しだけ広く見渡せる目があれば。
 静かなこの家。まだ歩けもしない赤子がいるというのに。この子は大きくなる。自分の声を知らぬまま、母の血の染み込んだこの家で大きくなる。
 不意に涙が零れた。乾ききった心のどこから湧き出たものか、次から次から頬を熱く濡らした。
「里さん」
 隼太の表情は、瞬くたびに揺れて分からなかった。まだ疑いを持たない彼には、これが安堵の涙と見えただろうか。
 違う。
 これは悔悟と決別の証だった。私はこの小さな命を背負って歩いていく。今そこにある命と、まだ目に見えない命と、この手が引き起こす結果と。秤では到底測れない重さが、この肩に乗っている。潰れるわけにはいかない。
 年が明けると里は、祖母が亡くなってから使うことのなかった竹べらを取り出し、ひっそりと子堕ろしを再開した。





五ノ年