白い息を吐き吐き坂を上る。
 枯れ葉と枯れ枝に覆われた暗い土の上、自分の足元を睨みながら、暁は坂を上る。何かに追われているかのように必死で腿を上げる、足を前に出す。肌は冷え切っているのに吐き出した息が熱い。
 頭の中で嵐が吹き荒れている。何も考えられない。見聞きした全ては断片ばかりで何も形作らない。
 ――泰孝、となっているが。
 やめて。
 目をぐっとつむった、その途端に足の裏に感じる傾斜が変わった。はっと顔を上げると、木々が開けていつもどおりの家が見えていた。耳に音が戻ってくる。途切れ途切れの自分の息の音が、何よりまず真っ先に。
 ゆっくりと歩んで息を落ち着け、家の中に入る。ほんのわずかな暖かさが却って身を震わせた。
「遅かったな」
 厨の方から紅砂が盆を持って現れた。暁は履物を脱ぐ手を止める。
「番処は疲れただろ。もうできてるから、部屋に座っといていい」
「あ……ありがとう。あの、睦月は」
「夕方に針葉が連れてったぞ」
 紅砂の後を追って廊下を歩く。彼は右手三つ目の部屋に入り、暁はそのまま突き当たりまで行く。引手に手を掛ける前に襖が開いた。ぎょっと足を止めても部屋の内側が覗くだけだ。「こら、戻って来い」針葉の声。視線を落とすと睦月が満面の笑みで暁を見上げていた。
「たーたん!」
 肘を付いて寝転がっていた針葉がぐるりと暁に顔を向けて起き上がった。
「ああ、帰ったか。どうだった」
「うん……」
 足を踏み入れようとしたところで襖が閉まろうとする。見下ろしたところには睦月の無邪気な笑顔。こんな悪戯までできるようになった。引きつった片頬は次第に笑みに溶け、暁は襖を開けると幼子の背を押して針葉の前に座った。
「言ってたやつは無事済んだのか」
「ううん、もうちょっと」
「やっぱり俺も行ったほうが良かったか」
 暁は笑って首を振った。違う。もう手続きどころの話ではなくなってしまったのだ。彼女には亡者の夫がいた。
「大丈夫。心配しないで」
「そうか、なら良かった」
 針葉は笑って睦月に目をやる。穏やかな情景。暁が今までどれだけ焦がれたか分からない、それが目の前にある。それを手放しで喜べないのは、今日知ったしこりが胸に重くこごっているからだ。
 静かに息を吸って吐き出す。今は見ないでいい。今は。そう唱えて口元に笑みを取り戻す。
「針葉こそ、今日は思ったより早かったんだね。それに……この子のことも」
 睦月の額を撫でる。子はきょとんと暁を見上げる。どうして母がこれほど嬉しそうなのか、分からないと言うように。
「そのことなんだが」言い淀むような口調に暁は顔を上げた。針葉の指が髭を摘まんでいる。
「うん」
「明日からちっと遠出するから」
 一瞬、息が吸えなくなった。ご飯よ、と遠くで紅花の声。足音。はっとそちらに目を向け、躊躇いながらも顔を戻す。
「明日、なの」
「急で悪いな」
「どうしても?」
 どうしても明日なの。違う、本当はそうではない、「どうしてあなたが行くの」と。棒手振りでも網引きでも乗り子でも、それ以外なら何でもいい。何でもいいのに。
 針葉の目が暁を捉えた。「ん?」聞き逃したというように。暁は視線を外して首を振る。
「ううん、……そう。そっか。分かった」
「握り飯いらねぇからな。朝早いし」
 それだけ言うと針葉は立ち上がった。
「おら餓鬼、飯だってよ。行くぞ」
「まんまー?」
 暁も灯を消して立ち上がり、大小二つの影を追う。「なら良かった」、先程の彼の言葉はそういう意味か。
 いつもこうだ。少しずつ少しずつ慎重に色を重ねて、そっと細部に手を入れて、やっと一つの絵が出来上がる、それを目前にしてあちこちが綻びていく。
 夕餉の席でも針葉は同じように遠出の旨を告げた。紅花が飯の量に言及しただけで、他の誰も、これと言った反応は見せなかった。
 それは呆れるほどいつもと同じ夜だった。

「針葉」
 襖の向こうの彼はやはり襖に足を向けて寝転がっていた。今は体の下に蒲団を敷いているだけの違いだ。先程暁が消した火がまた部屋を小さく照らしている。静かな夜だった。
「ん」
「今日、ここにいていい」
 針葉は身を起こして暁を見つめ、その胸に抱かれた睦月に目をやり、また暁に戻した。
「明日早いんだが」
「うん。聞いた」睦月の体が重たくなり、ずり落ちそうになるのを抱え直す。「駄目?」
 陰ほどに昏くしか見えない部屋の中、彼の肩が小さく下がるのが見えた。「そこにいたら寒いだろ。入って来い」
 暁は睦月を抱く腕に力を入れ、うつむく。前にこうして闇を忍んだのは二年前の初夏、自分はその頃よりずっと図太くなって、でもその頃よりずっと胸が締め付けられる。
 ふと視線を上げると、針葉は蒲団を抜け出していた。二人の脇をすり抜け、入れ違いに廊下へ出てしまう。
「し……針葉っ」
「ん」
 廊下に目を移せばもう影でしかない。それが立ち止まって振り返った、ように見えた。
「あの、違う、そうじゃなくて」
「は」
「だから、その、部屋を取り換えようっていうんじゃなくて」
 彼が溜息を吐いたのは耳で分かった。
「何言ってんだ、お前は」
「だって針葉」
「三人一つの蒲団にゃ入れねぇだろ」
 闇に紛れる小さな影が途中で左に折れて、きっとあれは暁の部屋だろう、蒲団を抱えて戻ってくる。暁は恥ずかしさに唇を噛み、逃げ込むように部屋に入って彼を待った。
 一人分の部屋に二人分の蒲団を並べ、睦月を挟んで三人横になる。部屋のものを足元に寄せてもまだ狭く、蒲団の端は折れて衝立に寄り掛かった。息が触れるほどの近く。元から目をしょぼつかせていた睦月はすぐにすうすうと寝息を立て始めた。
 暁はすべすべの頬を指で撫でる。穏やかな息の音。こんな日が来ると去年の自分には到底想像しえなかった。そしてそれが今日で途切れてしまうことも。
「お前は」
 夜の隙間を縫うような囁き声だった。うん、と顔を上げる。
「こいつを、あの間地の産婆のとこで産んだんだったな」
「うん。里さんに取り上げてもらって」
「俺が出て行ってどのくらいだ」
「……同じ日だったんじゃないかな。……あ、違う、しきりが来たのはその日だったと思うけど……産まれたのは夜が明けてからだったかな」
 ひと呼吸の間があった。
「しきり」
「えっと、産まれる前の強い痛みのことで、それが始まってから産まれるまでが長いの。この子の場合は半日くらい。何日もかかる人もいるんだって。本当に辛いときはまるで握り潰されて腰の骨が砕けるんじゃないかってくらいで、喪神できたらどんなに楽かって――あ、ごめん、詳しいのはやめておくね」
 彼の声が止まっているのが、どうやら聞き入っているのではないらしいと気付いて口を噤む。
「……うん。そんで、餓鬼ってのはそれに見合うもんか」
「見合う?」
 いつの間にか止まっていた自分の指を、暁は見つめた。すやすやと眠る小さな生き物。ゆっくりと健やかに育ちゆく、この生き物。一日として同じ日を辿ることなく、一度として同じ顔を見せることなく、歩き、笑い、言葉を話すまでになった。
「……痛みなんてもう思い出なの。産まれてこの子の顔を見た途端に全部吹き飛んだ。下手な喩えに聞こえるかもしれないけれど、本当に、不思議なくらいさっと晴れてしまった。分かってもらえるか、分からないけど……」
 もう一度、滑らかな頬を指でなぞる。
「私は、この子に逢えて幸せ」
 ひと呼吸。その手に針葉の手が触れる。雪降るあの日とは違う、温かい掌だった。
「こっち来るか」
 雪降るあの日とは違い、触れたそばから肌に染み馴染んでいく声。
「朝早いんじゃなかった」
「お前がそれ言うか」
 ああ、やっぱり私は図太くなった。悟られないようそっと笑いを殺し、暁は身を起こす。
「睦月が寝てるからね」
 眠る吾子に触れぬようそろりと身を浮かせて、川の字が崩れた。
 睦月を起こさないよう気を遣いながら、喉の奥から溢れ来る声を細かな息の中に逃がしながら、暁はふと考える。今の針葉の問いは、自分自身の生を認めるためのものだったのかもしれないと。
 息を落ち着ける背中を撫でる手。
「遅くなったね。ごめん」
「よく眠れる気がする」
 暁は小さく笑って、向かい合う首元に額を押し付ける。そう、瞬く間に気は遠のき眠りへと落ちるだろう。瞬く間に夜は明けて、そしてこの人は。
「行かないで」
 口の中だけで呟く。繋ぎ止めておくことなどできないと、奥底では分かっている。こちらにまだ見せていない顔があるのは、彼も同じことなのだ。譲れないものがある、互いに。
 背を撫でる手はやがて止まり、寝息が聞こえた。

 針葉が目を覚ますと、まだ暗い天井にぼんやりと障子から光が差していた。妙に窮屈だ。起き上がって周りを見ると、一人分を空けたところで子供が寝息を立てていた。
「起きたの」
 囁くような声で、暁がくしけずりながら現れる。針葉は大きく伸びをして自分の蒲団を畳んだ。暁が髪を結わえる、その背で針葉は着物を替える。ひやりとした朝に体が目覚めていく。
「針葉、夢見てた?」
「あー、どうだったかな。何か言ってたか」
 結い終わるまで間を置いて、暁が振り返る。
「ナツさんって綺麗な人なの」
 ナツ……ナツ?
 そのひと言で思い出す。烏の傘下にいた頃の夢を見た。忍ぶ、見張る、待ち伏せる。追う、捉える、吼える。振るう。腕に加わる重み。肉が裂ける音、骨が砕ける音。かつて人だったものの匂い。寝惚けきった体に先んじて頭が勘を取り戻そうとしたのか。
 しかし。そっと暁に視線を移す。彼女は笑っている。目元を除いて。
「……いや待てよ。あのな、ナツは男だからな」
「いいよ今更」
「良かねぇよ。ちゃんと聞け」
 折悪しく子供が気張りだし、暁はすんと鼻を動かして自分の部屋へ走って行った。針葉は額を抱えて出立の支度を続ける。
 やがて何もかもが整ったところで、暁が湯呑を盆に乗せてやって来た。茶の香が鼻をくすぐる。
「ご飯食べないなら、せめてひと口でも」
 頷いて口をつけると、茶が喉から胃までを温めていった。半分を残して盆へ戻し、腰を上げる。がちゃりと腰の物が重い。
「行ってらっしゃい」
 何かを覚悟したような低い声だった。針葉は振り向かず、一度だけ手を振った。



 七年前。
 暁が泰孝と再会したのは、あの花見の日から四月が経った、同じ川辺でのことだった。桜はもう花も実も落ちて青く茂り、水面には強い光が落ちて細かにきらめいている。全てが目に痛いほどの鮮やかさで息をしていた。
 父から東雲行きを告げられたときに予想はしていたものの、やはりあの笑顔を見ると胸が高鳴った。
「奇遇ですね」彼は花の頃と変わらぬ柔和な笑みを暁に見せた。「久しゅうございます。壬からの舟旅はお疲れでしょう」
「いいえ……」
 胸が詰まってそれ以上は言えそうにない。だが心の裡では四月分の憧れを紡いだ、「何度でも参ります。いくらでも居とうございます。あなた様のお傍になら、いつまででも」。
 楽しい時は足早に過ぎ、長い昼も終わりに近付いた。
「また近いうちにいらっしゃるのですか」問う泰孝に暁は頷きを返す。
「はい、紅葉狩りに参ろうと」
 そのとき彼の顔が曇ったように見えて、暁は言葉を止めた。すぐに彼は表情を繕い、「そうですか、楽しみですね」と、いつもと同じ柔らかな声で言った。
 彼の表情の意味するところを知るには暁はまだ幼く、紅葉の美しさを話す彼に何を問うこともできず、後ろ髪を引かれながらも壬へ戻った。
 そしてそれからたったふた月、秋分を過ぎて幾日か経ったある日、豊川家の父の居所が少し騒がしかった。それでも暁のところには何の報せが来ることも無く、やがて紅葉狩りの季節を迎えた。しかし父が暁を呼びに来ることはなかった。
 紅葉の見頃が終わる頃、焦れた暁はとうとう、父と話す数少ない機会に、次はいつ東雲へ行くのかと尋ねた。父は片眉をちらと上げてふんと鼻息を立てた。
「来秋まで待て。一年は喪に服さねば」
「喪? どういうことです」
「泰孝殿はお亡くなりだ。何とも惜しいことだ、彼なら申し分無かったのに」
 目を見開いたまま硬直する娘の姿を見て、豊川家当主は「お前そんな顔もできたのか」と鼻で笑っただけだった。
「案ずるな、一年待てばまた東雲で顔合わせだ。泰孝殿の弟君も、泰孝殿に似て良くできた若者だと名高い。楽しみにしておくといい」
 何をどう誤解すれば、恥ずかしげもなく笑ってそんなことを言えたのだろう。喪に服すと言いながら、彼女が問わねばこの話は彼女の耳には入らなかったに違いない。
 父様。人を名でしか判ずることのできない父様。私は所詮、あなたの思惑を実現させるための駒でしかないのでしょう。
 私は家の名などどうでも良かった。私は旭家の長子ではなく泰孝様をお慕いしていたのです。他の誰でもなく、あの優しい人を。
 次の春、大火で東雲の中心地である旭領は焼け果て、あのでっぷりとした当主も、良くできた弟君とやらも、行方が知れなくなった。しかしそれも、暁のもとへ伝わったのは全てが終わった後だった。
 湖周辺を除く地域は大半が無事だったものの、旭家という牽引役がいなくなってはあの地は小部族の集まりに過ぎず、豊川家との婚儀の話は立ち消え、壬そのものが久方の戦の気配に曝されることとなった。
 壬の大火は、そのわずか二年後のことだった。



 暁は睦月をしっかりと抱えて廊下を歩んだ。大股で、顎を引き、目に燃えるような光を宿して。
 昼前に戻った彼が自分の部屋に一人でいることは分かっていた。
「今、いい」
 本に目を落としていた彼が顔を上げて頷く。暁は睦月を畳に下ろす。喜んで走っていこうとする子の手を、暁はぎゅっと握り締める。子が不思議そうに母を見上げる。
「来ると思ってたよ」
 浬は本を置き、膝ごと二人に向き直った。暁は目の前に置かれた座蒲団をじっと見つめ、おもむろに腰を下ろす。その間も子の手は離さない。
「暁、昨日は番処へ行ったんだってね」
 いつもと同じ柔和な顔だ。記憶のずっと向こうにいる初恋の人を思い出させるような、穏やかな顔。
「慣れないことしなくても、言ってくれたら代わりに行ったのに」
「代わりに行って、それでどうなったというの」
 よくも、これほど堂々と人を騙せたものだ。こうやって優しい顔で笑いながら。善人面を崩すことなく。呆れを通り越して恐ろしいくらいだ。
「番処ではどこまで聞いたの」
「私が、針葉とは違う人と籍を共にしていたこと。浬はあの証文で私を記帳したと言ったけれど、違ったんだね」
 浅く息をしながらゆっくりと言葉を吐く。焦ってはいけない。取り乱してはいけない。彼に近寄らせまいとして膝の上に座らせた睦月の小さな体は、今や拠り所だった。
「驚いただろうね。悪かったよ」
「旭泰孝という人を、浬は知っているの」
 浬は面白がるように目を丸くした。
「姓は付けなかったと思うけど、そう、じゃあ暁はその人を知ってるんだね」
「今更とぼける気」
「とぼけやしないよ。こんなに嬉しがってるのが分からないかな」
 立ち上がった浬を追って、暁の視線がつっと上へ滑る。「嬉しがる?」彼の姿は障子から漏れる光に照らされて影となる。
「暁、今からちょっと出られる。良かったら睦月も連れて」
「どこへ」
「そんな怖い顔しなくても、危ない目に遭わせやしないよ。間地向こうの宿まで。会わせたい人がいる」
 逆光で彼の表情が読めない。
「話す時が来た」

 浬は二つ目の川を渡ったところで左へ折れた。子に合わせて足取りの遅くなる暁を振り返っては「抱えようか」と言ったが、暁が首肯することはなく、そこへ辿り着くまでに日は傾き始めていた。
 暁は浬の後姿を睨み付ける。話すと言いながら、彼は家を出た途端に口を噤んだ。
「そろそろ着くんでしょう。誰に会わせようというの」
「そろそろ着くんだから待てないの」
「……突然訪ねて本当に会えるの。それともずっと隠れてなくちゃならないような身の上なの」
 浬は笑って肩越しに振り向いただけだった。
「二年前も暁に随分責め立てられたよね。ほら、身籠ったって僕が気付いたとき。あの時より怒ってるんだろうけど、でも口調は随分柔らかくなったよね」
「話を逸らさないで」
「頼んだからだよ、居ててほしいって」
 浬が小道に面した建物の中へ踏み入る。古びた小さな宿だった。暁は少しの間足を止め、腹に力を入れて中へ入った。勝手知ったる様子で階段を上る浬を、睦月の手と尻を支えながら追う。
「頼んだって、いつ」
「今朝」
「今朝……って」
「番処に行った暁が僕のところへ来ることなんて分かり切ってたからね」
 暁は唇を舐めた。改めて、ここへ来たのは間違いではないかと思い始めていた。こんなところへ来るべきでは……いや、浬の部屋へ行ったときから、番処へ行ったときから、針葉と籍を共にしようと考えたときから?
 胸躍る気持ちで過ごした、あのひと月。
 間違いであってたまるか。
 浬は階段を上り終えて右へ折れた。誰もいない廊下を見上げて、暁は次の段へと足を進めた。
 浬は最奥の部屋の前で待っていた。襖は細く開いているようだ。自分の胸がざわついているのが分かる。たった数歩の距離が嘘のように遠い。
 そして細い隙間の前に立ったとき、暁の目は、狭い部屋の中、額を畳に擦り付けんばかりに辞儀をする男を捉えた。
 旋毛だけでは誰か分からない。茫然と見ていた暁は、その男が十分に間を置いて頭を上げたとき、小さく悲鳴を上げて後ずさった。
 暁よりひと回り近く上の男だった。鋭く隙の無い目付き。前に会ったのは三年以上も前、それでも忘れやしない。忘れるものか。
「牙……」
 豊川の抱える黒烏の長が、そこにいた。記憶が奔湍となって押し寄せる。三年前の夏、彼率いる黒烏は東雲まで暁を攫い、ひと月の幽閉のち唐突に解放した。口の中に嫌な味が蘇る。きっとこれは彼が暁に噛ませた指の味、彼の血の味。
「お前……どうして」
「お久しゅうございます、暁殿。御健勝のようで何より」
「黙れ! 浬、これはどういう――
 しかし本当に喉が凍り付いたのはそのときだった。後ずさった弾みで暁は睦月の手を離していた。自由を取り戻した子は部屋の中へ歩いていく。ぺたぺたと可愛い足音を残し。
「睦っちゃん、睦月! 戻ってきなさい!」
 母の叫びなど聞こえないかのように、睦月は迷いなく牙の前に腰を下ろすと、彼が今そうしていたようにぺこりと頭を下げて見せた。
 暁が目を瞠る。そして、吾子の口から、耳を疑う言葉が。
「おぶたーちょります」
 向かい合う彼ももう一度深く頭を下げた。
「御無沙汰しております、睦月殿。また大きゅうなられましたな」
「おーちゅーなー、な?」
「牙めはもうそれほど大きゅうはなりませぬ」
 部屋の中で繰り広げられる和やかなやり取りに、暁の唇が震え出す。視線をゆっくりと動かす、自分の隣に佇む男に向けて。
「浬……睦月の子守りを厭わず引き受けてくれてありがとう。この一年、何度も何度も」
 唇がかさついている。
「いつも、ここへ連れて来ていたの」
 彼はわずかに眉を寄せて詫びるような表情を見せた。
「いつもってわけじゃないよ」
 ぽつりと付け足された言葉に、暁の腹が火をまとったように熱くなる。限界だ。
「それが……それが言い訳になるとでも思っているのか!」
「畏れながら暁殿、睦月殿の前でございますよ」
「黙れと言っただろう! 睦月、こっちに来なさい。こんなところで聞く話なんて無い。どれだけ……どれだけ人を騙して……虚仮にしたら気が済む」
 涙声になるのをぐっと飲み込む。部屋に踏み入って睦月の手を引くが、こんなときに限って子は嫌がり立ち上がろうとしない。膝を衝いて抱き上げようとしても暴れて手に負えず、幼子の顔がぐしゃりと崩れて部屋に泣き声が満ちる。泣きたいのはこちらだというのに。
「睦月……っ!」
「暁殿、どうかお聞きください。浬殿はあなた様を陥れようとなさったわけではありません。無論それは、私ども烏とて同じこと」
 暁は睦月の体から手を離して荒い息を落ち着ける。
「……浬殿、だと。あれは、ではやはり烏の手の者か。それとも壬の――
 牙が浬に目を向け、小さく頷いた。
「暁殿。浬殿は、東雲は旭家の長子であらせられます」
 暁は向かい合った男の顔をぽかんと眺めた。静寂の中、子のぐずり声だけが続いている。ゆっくりと振り返る。暁を拾い、以来五年間同じ家で暮らした彼は、それまでと変わらぬ顔でそこに立っていた。
「長子……? 何を馬鹿な……。牙、そんなものは出放題だと、お前が気付かなかったのか」
「嘘じゃないよ。旭泰孝は僕の兄だった。どちらも養子だったけどね」
 浬が口を開く。「お前は何者だ」、二年前から問い続けた、その答えを初めて彼が口にしたのだ。
「泰孝の上にも兄がいたという。きっとそれも養子だろうが、あの家ではね暁、男兄弟は取り換えのきく駒だったんだよ。母の部族が巫女家系だというそれだけの理由で、父以外に男の血族は許されず、実子は姉だけだ。亡くなった養子など頭数に入らず、最後には僕が長子だった。秋分からのたった数か月だったけどね」
「秋分……」
「秋分だったよ、兄が亡くなったのは。封じ夜の節……暁が雨呼びと呼ぶ、あれを行った直後の姉に殺されたんだ。姉が直接手を下したわけではないけれど同じことだ。冬至には僕も姉の来訪を受けた。春分には僕の番だったんだろう。僕が暁にあれを止めさせようとしたのは、あの記憶が強かったからだ」
 浬は後ろ手に襖を閉めて暁の隣に座った。部屋はいつしか薄暗くなり、その中にまだしゃくり上げる声が続いている。暁は睦月に視線を落とし、そっと抱き締めた。ゆっくりと頭を、背中を撫でる。自分だって泣きじゃくりたい。気が済むまで泣いて、眠って、全て忘れてしまえたらどんなに楽か。……でも。
 睦月が落ち着くのを待って、暁は姿勢を正した。
 もう、その選択は取らない。私の道は私だけのものではないのだ。それは睦月に、そして針葉に誓ったことだった。
「勝手に兄の名を使って籍を入れたのは悪かったよ。でも睦月を庶子とするわけにはいかなかった。……それに、睦月が産まれたと知って団子屋の彼女が番処に忍び込んだんだ。人別帳を確かめるためにね。もし針葉さんの名で記帳していたら、睦月は首も据わらないうちに連れ去られて……いや、それどころか殺されていたかもしれない」
「……じゃあ浬が去年大怪我して帰ってきたのは」
 答えたのは深く首を垂れた牙だった。
「ひよを中心とする烏の数羽が群れを離れて動いたためにございます。全ては私の手落ち、申し開きのしようもありませぬ」
「あれは本当に偶然だった。あのとき針葉さんが訪ねて来なかったら僕は間違いなく東雲に送られていただろうし、暁も攫われていたはずだ」
「待って」
 暁は顔の前に掌を翳して重なりくる二人の声を止めた。頭の中でぐるぐると混ざり合う言葉を懸命に解きほぐす。
「……三年前私を攫ったのは烏の総意。牙、お前がいたからにはそうなんだろう。そして浬が迎えに来た途端、一転して解放したのも烏の総意。それ以降一切の手出しをしなくなったのも、浬が何らかの話を付けたから……つまりそのとき二人は初めて顔を合わせて何らかの合意に至った、ということ」
 言葉を切り、顔を上げて順に二人と目を合わせる。
「浬が旭の者だというのがその理由? 確か……誰かが言ったのを覚えている。何のために攫ったのかと私が尋ねて、理由など無い、と。攫うこと……私を豊川の座に据えることそのものが目的だと、泰孝様が存命ならともかく、と。つまり……私が家に戻されたのは浬がいたから? 泰孝様ではなくとも、旭の長子だから、私は浬と添わせられるために」
 再び目を合わせたとき、浬はわずかに眉をひそめていた。
「今更いい気分はしないだろうけど、怒るなよ」
 ゆっくりと瞬く、視線が落ちる。違う、怒っているわけではない、だって何の感慨も湧かない。心に引っかかっているのはもっと、それよりも。
「それなら私には、あの人の……ひよさんの行動のほうが理解できる。睦月が針葉の子だと知って、つまり旭には何の関わりも無い、それどころか赤烏の……あの人は赤烏なんでしょう? ねえ牙、お前だって知っていたでしょう。少なくとも去年までは、ひよさんから仕事を都合してもらっていたはずだもの。浬と関わりがあったなら他の群れがどうであれ、お前だけは知っていたはず。それなのに、この子のことを黙認してきたのはどうして」
 窓の外にはまだ辛うじて陽が見えるのに、すぐそこにある表情が見えない。暁は唇を湿して細く息を吸う。
「群れを離れて動いているのは、牙、むしろお前のように見える」
 一瞬の沈黙、暁の左耳にふっと笑い声が届く。
「なに、照れるな。僕と添うほうが良かったの」
 暁は茫然と浬のいるほうを眺める。反論する気にもならない。こんな台詞は浬にはまるで似合わない。
「……豊川は他のどの家よりも古の流れを護ってきた家でございます。その婚儀は御当人の意に沿わぬものも多かったことでしょう。口には出さねど、先代の牙はかねてより哀れに思っておりました」
 牙の影に視線を向ける。歯に物の挟まったような話し方だった。彼らのどちらも、これ以上話す気は無いということだ。諦めて畳に目を落とす。
「もう結構。話せることが尽きたのなら帰ります」
 睦月を膝から下ろそうとしたとき、牙の膝がわずかに動いた。
「お待ちを。暁殿、御存知でしょうが割譲談義が進んでおります。上松は既に飛鳥の一部と化し、菅谷も落ちました。津山は津ヶ浜を後ろ盾に高みの見物を気取り、江田は東雲もろとも坡城に吸い取られようとしています。この国です。これほど穏やかに見えるこの国でさえ、切り分ける側なのです」
 喉に重いものが引っかかって、暁は瞬きもできずに牙を睨み付ける。
「それを言ってどうしろと。祖国を侵す国に身など寄せるなと? 幼子を連れて早く壬へ戻れと言いたいのか」
「お気付きになりませんか」
 牙の目もまた、瞬かずに暁をじっと見つめる。断罪するように。
「豊川は、切り分けられる側の名にすら挙がりませぬ。それは何故か。豊川にはもう、あなたしかいないからです。あの家には分家が一つのみ、それももう無い。代理という形で私どもが末席を堅守してはおりますが、周辺国や家がどこまでまともに取り合うつもりがあるのか。最悪の場合、来年にも談義は終わり、豊川不在のまま壬はその名を消すでしょう」
「そんな、こと……。……浬は? 旭家として談義に出たの」
「旭は東雲の領主でも何でもないよ。談義に出たことはあったし、他の部族とも話す機会はあったけれど、そもそもが壬の緩衝地として名を与えられた、壬に作られた国だからね。どこも身が入っているようには見えなかったよ。自分たちの風習さえ守られるのであれば首が挿げ替えられたところで構わないんだろう」
 浬はふと言葉を止めて暁に目をやった。
「そうか、この話は初めて? 江田は公文書管理をする家だったからね、その流れを汲む旭の書物庫にも結構な量の史書があったよ。耳ではついぞ聞いたことのないものまで色々」
「……話を戻しましょう。暁殿、年が明ければ間も無く次の談義です。これが最後の機会とお考えいただきたい」
「どうして今、そんなことを」
 自分の喉から出たはずの声が聞こえない。頭の中に雑音が鳴り響く。渦巻く。考えることを先延ばしにするため、間を繋ぎ言い訳を探しているようだった。
「睦月殿が、談義にお連れできるほど大きくおなりだからです」
「この子、を? ……こんな小さな子を、そんな場所へ?」
 耳を疑った。しかし牙の影は大きく頷く。
「申し直せば暁殿、これは最早あなただけの話ではない。良いですか、睦月殿は豊川の流れを継ぐ御方、正当なる豊川の御子でございます」
 茫然と腕の中の吾子に目を向ける。疲れて眠り込んでしまった、その子はいつもと変わらぬ顔で静かに息をしていた。
 私は何を産んでしまったのだろう。
 私はなんという重荷を、生まれながらに与えてしまったのだろう。自分が背負いきれなかったものを、どうして。
 ――でもこの子は壬を、豊川の地を一度も踏むことなく長ずるのか?
「考え……させて。しばらく、どうか」
 子をそっと膝から下ろす。子は目をしょぼつかせながら体を反転させて母の膝に縋り付き、また眠りに戻ろうとする。
「畏まりました。ただし日はあまり無いことだけはお忘れなきよう。そして、あなたがどう御自身を疑おうとも、正当なる血の流れは何よりも強いことを。うまく事が運べば、江田や菅谷と手を結ぶこともできましょう。……我ら烏は命に代えてもあなたと睦月殿をお護りいたします」
 いつしか闇のように暗く沈んだ部屋の中、暁は睦月を立たせて自分も立ち上がった。浬が襖を開けて先に廊下へ出る。
「私は当分ここにおります。浬殿に御言付けいただいても結構。何かあればいつでもお声掛けを」
 暁は廊下へ踏み出した足を止め、闇に額衝く男を振り返った。
「この子の父を、今度はどこへ送ったの。談義の場?」
「……いえ、私どもは存じませぬ。ひよの一件以来、菱屋へは顔を見せておらぬゆえ」
「黒烏の命ではないということか」
「私の知る限りは」
 その先を待ったが、牙は頭を垂れるばかりだった。惑う心を振り切り、小さな手をぎゅっと握りしめて、墨を塗り籠めたように暗い階段へ向かう。縮こまった胸は何も考えられず、ただ一人を思い浮かべた。
 今朝離れたばかりのあの人が、こんなにも恋しい。どこへ行ったかも見失ってしまった、あの人が。
 眠たげに足が遅くなる睦月を、帰り道は浬が抱えた。冷たい風に身が縮む。すれ違う者も少なくなった夜の道を歩きながら、暁は前を行く踝をじっと見つめた。
 逢いたい。あの温もりが、今欲しい。
 頭の中でさえ形にできない密やかな祈りは、先延ばしを正当化する方策だったのかもしれない。姑息で、独り善がりで、浅ましい。
 それでもひと月を待たずに、彼女の体は血を流した。
 




          六ノ年