浬と紅花の祝言は月の終わり、紅葉が朱を通り越して茶に近くなり地面を埋め始める頃に行われた。 とは言え場所は家のいつもの部屋、並ぶのはいつもの家の面々、並べられたのはいつもの箱膳だ。綿の潰れたいつもの座布団だけは端へ追いやられ、膳の前に置かれたものはふかふかと新しい。 襖の近くに置き畳で高砂が設けられ、羽織袴に身を包んだ浬が居心地悪そうに座していた。睦月から遊ぼうと袖を引かれてはやんわりと断り、着席した針葉や織楽から冷やかしを浴びせられて苦笑している。 彼の隣は空席だ。 花嫁はまだ厨で指揮を執っているのだ。 「お待たせっ」 大盆に所狭しと器を乗せて暁が現れる。続いて紅砂。暁は盆から土瓶を取って針葉に押し付ける。 「暇でしょう、注いで回って」 「暇じゃねえよ」 「どう見ても暇でしょ」 受け取って自分の湯呑に注ごうとし、「上座から」との叱りに渋々立ち上がる。その間に暁と紅砂は皿や小鉢を置いて回り、織楽も面倒を言い付けられる前にと厨へ立つ。程なくして戻った彼の手にも小盆があった。折よく、湊へ足を運んでいた黄月が徳利を抱えて戻る。 「紅花は」 「なんか片付けとったけど」 「もー! 織楽、化粧直し!」 暁は織楽を従えて苛立たしく廊下を走り、いつもの着物にたすき掛けのまま厨で包丁を洗っていた紅花を彼に押し付ける。 「暁。その鍋ひびが入ってたから気を付けてよ。駄目になる前に鋳掛けに出さなきゃ」 「いいからさっさと行きなさい。織楽、髪も結い直して」 暁はようやく静かになった厨でほっと息を吐き、山盛りの鍋や釜に向き直った。家にある金物全てを使ったのではなかろうか。一度に洗える量ではなく、ざっと頭の中で三つの塊に分けると、一つ目の塊を重ねて水に浸け、他も汚れが固まらぬうちに水で湿しておく。さあ、取り掛かろう。 紅花さえ望めば料理くらい他で用意することもできただろう。織楽の豪奢を極めた披露目は例外としても、普通はそういうものではないか。厨で自分の祝言のために立ち働く花嫁など聞いたことがない。 そこが紅花らしさなのかもしれないが。 一人ぽつねんと高砂に座る浬を思い出して笑いを漏らしながら、暁は手の水気を払い、厨を後にした。 心配して立ち寄った紅花の部屋にも既に彼女の着物の抜け殻しか無く、暁が宴席へ戻ると、今まさに挨拶が終わって皆が酒のひと口目を呑んだところだった。傍へ寄ってきた睦月の頭を撫で、そっと自分の席へ戻る。 「あ、ありがと暁」 紅花がぱっと顔を上げた。暁は思わず足を止めて見入る。着物を替え、髪を結い直し、化粧を施された彼女は、いつに増して美しい。唇に引いた紅がはっとするほど艶やかだ。やっぱり思ったとおり、この子の白無垢はなんて映えるんだろう。そのくせその唇が声無く形作る言葉は。「なべ、だいじょうぶ」。全く、この子は。 仕方なく頷いて、針葉の奥隣に設けられた自分の席へようやく腰を下ろし、杯の酒をひと口含む。自分もと手を伸ばした睦月にはすかさず甘茶を渡す。 「お疲れさん」 針葉が自分の杯を近付けて、小さく音を鳴らした。 「傑作だったぞ、浬と紅砂のやり合い」 「なに、喧嘩したの」 「喧嘩ってほどでもなかったが、やっぱりあれ、ひと悶着あったに違いねえよ」 針葉は自分ばかり笑って、一つも再現してくれない。焦れて向かいの席の織楽に声をひそめて尋ねてみても、彼は今にも溢れんばかりの笑いを顔に溜めて、「二人の名誉のために黙っとく」と言うだけだった。暁以外の皆が聞いていて、今更黙っておくも何もないものだ。 悔し紛れに杯の酒を一気に流し込む。格好だけはつけてみたものの、残っていたのはほんの少しだった。 家の者しか並ばぬ宴席は、いつもと変わらずくだけて和やかだった。違いは高砂の二人が話題の中心になっていることだけだ。今も織楽が絡みに行き、紅砂が追い払い、その隙に黄月が薬包らしきものを浬の手に忍ばせ、いつもの仏頂面で何事か耳打ちしている。 「いいね、こういう席って」 「ん」 暁は睦月の口に運ぶ箸をしばし止めて、高砂の二人を見つめる。その周りで繰り広げられる騒ぎを。黄月から身を引いて苦笑する浬、織楽に人差し指を突き付けて言い返す紅花、額を押さえて嘆息する紅砂。 「普段どんなに言い合いしていようが……今も何か言い合ってるみたいだけど、でも皆、純粋に二人のことを思っているでしょう。あの二人が幸せになるようにって。やっぱり一つの区切りなんだろうね。明日にはきっと皆、二人が夫婦であることを受け容れていると思うの。……それに、紅花が本当に綺麗。あ、浬が見劣りするってわけじゃないけど」 自分で言って自分で弁解し、笑う。同じく高砂を見ていた針葉が、ぐるりと暁に視線を移した。 「嫁入りって憧れるもんか」 「うーん、そりゃあ一生に一度の晴れの日だから、憧れる人は多いんじゃない」 「お前もか」 暁は針葉の意図するところにやっと気付いた。はっと目を合わせ、思わずうつむく。自分の言葉を頭の中で繰り返す。そうと思って聞いてみれば、なんと浅ましい、なんと物欲しそうな言葉。 「……まさか」 睦月がきょときょとと辺りを見回して、退屈そうに針葉の背中をぺたぺた叩く。「あっち行ってきな」針葉の言葉を解したか、睦月は高砂へと歩いていく。それを見届けて針葉はまた暁に向き直った。 「お前はいつでもそう言うな。自分から着飾りもしねえし、自分が耳目集めるようなことはしたがらねぇ」 「だって、分かるでしょう、柄じゃないもの」 「……本心ならいいんだ。心の底からそう思ってるんなら。でももし、口ではそう言ってて後で引きずるんなら、頼むから今言え」 針葉は杯を一気に乾した。 「他人の晴れ姿でお前が笑ってんの見せられて、たまったもんじゃねえよ」 暁は向かいや斜向かいの、主のいない膳に目をやった。紅花があれだけ手を掛けたのに、大半は箸も付けられないまま冷めている。 「私が祝言を挙げたいと言い出したら、針葉がああやって羽織袴を着て隣にいてくれるの」 「俺は」 針葉は途中で言葉を切って膳を睨み、勢いよく椀や小鉢を空け始めた。やはり、あんなことを言いながら彼自身ああいう場は嫌いなのだ。暁が小さく笑ったとき、彼は乱暴に箸を置いた。 「お前がどうしてもってんならいてやるよ」 籠った声。口に目一杯ものを詰め込んで、咀嚼混じりに、怒ったように、全く、どうしてこの人は。 「私は……」暁が口を開いたとき、睦月が黄月を従えて高砂から戻ってきた。黄月は腰を屈め、いつ睦月が転んでも支えられるよう手を用意している。密やかな気遣いに気付かぬうちに、無事暁の手が睦月を抱えて自分の膝に座らせた。「たーたん」睦月の手が暁の膝を叩く。その口がまだもぐもぐと動いている。 「睦っちゃん、何貰ってきたの」 「とと」 「お魚あーんしたの」 「とと、あーんった」 「そう、良かったねぇ。美味しかったの」 「ん」 黄月が席へ戻り、ようやく食事を再開する。織楽は自分の箱膳を高砂前へ運んでそこで食べ始めた。紅砂も溜息を吐いて自分の席へ戻る。 「さっき紅花見てたときの顔とか、そいつと話すときの顔とか」小さな声。暁は針葉に視線を戻す。「俺が、そういう顔させたいんだ」 じっと針葉を見つめる。彼の横顔。視線はもう交わらない。その横顔のずっと向こう、高砂で見慣れた二人が笑っている。 本当は羨ましい。胸が焼けるほど。ああやってきちんと手順を踏んで、周りから祝われて、認められて、そして誰もの心の中に当たり前が根付く。二人共にある、なんて得難い「当たり前」。 そうだ、いくら羨んだとて、着飾りたいわけでも、高砂に座りたいわけでもない。この晴れの一日が欲しいのではなく、本当に手に入れたいのはその先にあるもの。 暁は睦月に視線を落とす。 「無理してるわけじゃないよ。綺麗な着物や飾り物は、見ていて気持ちが浮き立つけれど、それくらいならこの子に仕立ててあげたい」 「じゃあお前とそいつに一着ずつってことか」 暁は笑って首を振った。 「そうじゃない。それよりも……ねえ、じゃあ一つだけ、あの……お願いしたいことがあるんだけど」 暁へ視線を移した針葉は、照れたような、はにかんだような、堪え切れない嬉しさに悶えるような、あまりに見覚えが無くて奇妙にさえ思える暁の表情を目にした。 「人別帳?」 月が替わって数日後、朝餉を用意しているときだった。聞き返した紅花に、暁はこくこくと頷いて答える。紅花が訝しむように暁を見つめたのは、その目がきらきらと輝き、頬もつやつやと、あまりにいつもと違う顔だったからだ。 「あたしは多分浬がやってくれたはず。港番で何かするんだと思うけど」 「その、何か、が何か分からないかな」 「男連中なら知ってんじゃないかと思うけど……どうしたの、いきなり」 「えっ」 暁はわざとらしく頬を押さえた。その目はらんらんと輝き、口角がうずうずと上がるのを抑えきれずにいる。そのまま沈黙。「だからどうしたのって」やむなくもう一度問うと、暁は両手で口を覆ってぴょっと視線を逸らした。紅花の片頬が引きつる。面倒くさい。 「あの、私、籍を、入れることに、その、なりまして」 「誰と」 「し……針葉」 ああ、と紅花は寄せていた眉を戻した。 「そっか、そういやあんたら、そういう手続き何もしてないんだったわね。……って、あんたと針葉のことくらい皆知ってるわよ。なに今更もじもじしてんのよ気持ち悪い」 「だって」 「真剣に聞こうとして損した。針葉に行ってもらえば」 「駄目なの。針葉は字が分からないし、手続きも詳しくないし、そもそも人別移しなんてやってないみたいで」 暁に背を向けてとんとんとシラナを刻む紅花、のすぐ脇に暁も移動して紅花の言葉を待つ。紅花は暁に視線を合わせず、煮立った鍋にショウイモとシラナを放り込んで蓋をする。 「そういやあいつ、改めのときはずっと外にいたんだったわね」暁がうんうんと忙しく頷くのもあえて見ないふりをする。「じゃあ籍なんてどうすんの、人別移ししてないんじゃ」 「私のが正証文だから、私が身元引受人になればいいはず。確かほら、姻戚ならそれができるって前に」 紅花はネブカを刻んで均等に椀に入れ、出汁を取った後のジャクにウゴマを混ぜて火にかけ甘辛く和える。 「そりゃできるでしょうけど、何て言うんだっけ、あれってその、後で記帳された方が何かやらかしたら正証文のほうも罰せられるんじゃなかったっけ」 「縁座制」 「それ。大丈夫? あんな明日にも捕まりそうな奴」 紅花の嫌味も通用しない。うふうふと気味悪く笑う暁を押し退けて、煮立った鍋の蓋を取って火から外し、味噌を溶き入れる。釜の飯に杓文字を入れて解す。結局暁が役立たずのうちに朝餉は出来上がった。 針葉は最近また日中の留守が多い。仕事が増えたのかと喜ぶところかもしれないが、少々事情が違うことに暁は感付いていた。 「当分握り飯はいらねえや」 夏の間は止めていた飯の用意を、昼でも涼やかに過ごせるようになって再開し、ふた月と経たない頃のことだった。 それとなく聞いても杳として知れない。だからと言って、危ないことでもやってるんじゃないの、そう問うと笑い飛ばされる。だから分かった。きっと彼は、また。 今は夜には帰ってくる。まだ深入りはしていないのかもしれない。そもそもひよを手に掛けたというから、今の彼は赤烏ですらないのかもしれない。でも彼はまた戻ろうとしている。 闇へ向かおうとする彼を「戻る」のだと感じた自分を、暁は悔やんだ。 「籍を、入れたいの」 日常の延長のような祝言の夜。暁は怯えと期待を振り絞ってそう告げたが、対する彼の反応は鈍かった。片肘をついて寝転がっていた彼は、眠る睦月の鼻を摘まんだり息を吹きかけたりといった悪戯を止めて鷹揚に体を起こす。 「せき。何だそれ」 「あの、人別帳。今は睦月と私だけでひと纏まりになってるんだけど、そこに、その……針葉も」 目には見えない籍というものを身振り手振りで説明する。針葉が身を乗り出し、一瞬たりとも目を逸らさないものだから、暁の声は徐々に萎んでいく。そこでやっと彼は身を戻し一つ頷いた。 「何か知らねぇけど、大した害になるもんでもないんだな」 「無い! 害は無い!」 「じゃ適当にやっといてくれ。なんか聞いてると、今までにやっといても良さそうなもんなんだな」 「そう、そうなの」 大袈裟なほど激しく頷く暁を、針葉は笑った。 「俺ぁまた、お前が値の張るもんねだるんじゃねぇかと思ってひやひやした」 「値の張るもの? 今までに私、そんな」 「東雲の証文」 あっと暁は息を呑み、おずおずとうつむいた。考えてみれば、どう転んでも正規の手段で入手できるものではない。 「高かった……よね。ごめんなさい。ねだったつもりじゃなかったんだけど」 「んなこと言うな。何だった、脅かされずに暮らしたい、か? どんぴしゃりだったろ」 困りながらも頷くと、針葉は「ならいい」と満足げに歯を見せた。ふと蒲団に包まる睦月に目を戻す。 「つっても俺は無宿だと思うぞ。前の長に攫われたようなもんだから」 「あ……そっか。でも確か姻戚なら大丈夫だったはず。私が針葉の後ろ見みたいになって」 「いんせき」 「あの……えっと、あの、夫婦、ってこと」 恥じらいを注ぎ込んでようやく唇を出た言葉にも、針葉は「ふうん」と呟くばかりだ。 「ま、そんなら好きにやってくれ。お前が後ろ見ってことは、俺が行っても何の役にも立たねえんだろ。どうせ字も分かりゃしねぇし」 「え……どうなんだろう、その場で出自の調べがあるのかも」 「番処なんざ好んで行きたい場所じゃねぇよ。開いてるうちに帰んのも簡単にゃできねえし。一回行ってみて、どうしても駄目だってんなら呼べ」 暁は大きく一度頷いた。今までが今までだから、これほど呆気なくことが進むのが信じられない。心がぽくぽくと湯気を上げている。 だが、早々にまた寝転がってしまった針葉は、暁がどれほど嬉しさを口にしても素っ気ないままで、ちっとも思いを共有してくれない。勢い余って抱き着いたときのほうが、余程嬉しそうだったくらいだ。 とは言え暁自身も番処に進んで足を向けたいわけではない。人別帳では東雲の生まれとなっていても、実際この体に流れる血は壬のものだ。番人と会話してぼろが出ないとも限らず、できるだけ下調べをして手短に済ませたかった。 「浬に訊けば」 紅花は言った。暁のために東雲の偽証文を作って人別写しを済ませてくれたのは彼だ。それが一番手堅いだろう。しかし。 「きっと付いてきてくれるわよ。何なら代わりにやってくれんじゃない」 そのひと言に、暁は思わず首を振った。「明日には皆、二人が夫婦であることを受け容れる」。紅花たちの祝言の日に暁自身が口にしたことだが、それを深く実感したのもまた暁自身だった。 人が知らず纏う薄衣。今、二人の纏うそれが一枚多くなったように感じる。「紅花の夫」、「浬の妻」、立場がそれぞれ一つ増えただけなのに、ひと呼吸置いてしまう。これまでと同じように軽々しく物を頼んではいけないと。二人はきっと、そんなことは微塵も気にしていないのだろうが。 紅砂は幼い時分から坡城にいるうえ番処を快く思っていない様子だった。やむなく黄月に尋ねたが、「ようやく仲直りしたか。これ以上の面倒は勘弁してくれ」と嫌味を言われた挙句、彼自身の記帳については遥か昔に前の長か斎木が行ったということで、正確なことは何も得られなかった。 「直接番処へ行って訊けば済む話だろう。堂々としていればいい」 事も無げに言う黄月を肩越しに振り返る。正しいことを言っているのは彼だ。反論することを考えただけで喉が怠くなり、暁は力無く頷く。気が進まないが浬に訊くべきか……。 「里さんはどうだ」 足ごと振り返ると、彼はずり落ちそうになった眼鏡を直して顔を上げた。 「ゆきを子として記帳したのは、改めの話が出てからだから最近のはずだ」 ――かくして暁は間地へ向かい、斎木の家でゆきに本を読んでやりながら不在の里を待っている。 「むっちゃんはげんき」暁の膝の傍に寝転がったゆきが、たどたどしく指で問う。 「元気にしてるよ。この前ちょっと風邪引いちゃったけど、もう歩き回ってる。今日は浬と一緒なの。浬おじちゃん。……お兄ちゃん、かな。今度連れて来るね。ゆきも遊びに来てやって」 ゆきが笑って頷く。笑い返しながら暁はふと気付く、睦月の世話もそろそろ浬に任せるのは控えねばならない。浬は年が明けてこちら、暁が不思議に思うほど頻繁に、熱心に睦月の世話を焼いてくれた。しかし彼には紅花との暮らしもあるだろうし、睦月が浬に懐きすぎてしまっている。下手でも針葉に任せるようにしなければ。今のうち、針葉が家にいる間に。 ふと思い出した。「あの子、針葉に任せちゃ駄目なの」、「頼るのが当たり前にならないようにね」。耳に痛い紅花の声、棘のある声。暁ははっと口を押さえる。もしかするとあの時から二人は恋仲だったのでは。 暁が自分の発見に一人で沸き立っているところへ、押入れの整理をしていた斎木が疲れ顔で現れて腰を下ろした。 「なんだ、あいつはまだ帰らんのか」 「そうですね」 「どこほっつき歩いてるんだか。いや、あいつのことだから仕事だろうな。どこぞの男とほっつき歩いてくれたほうがまだ救いようがあるが」 「若い男の子ばっかり追いかけてる救いようの無いお爺ちゃんに言われたくないわよ」 戸が開くと同時に、「ゆき、来てるんでしょ」片手に風呂敷包みを抱えた里が姿を見せた。 ゆきはぱっと立ち上がって駆け寄っていく。里はその頭を撫でながら暁に目を留めた。 「あなたも来てたの。納品?」 「あ、いえ。お疲れのところ申し訳ないんですが、里さんにお訊きしたいことがあったので」 「私に。ふうん、じゃあこっちへどうぞ」 里はゆきを先に表へ出した。何事か反論していた斎木を置いて、暁も隣の里の家へ上がり込んだ。 疲れた様子の里に代わって茶を淹れ、自分の事情を話す。里は最後ぐぐっと飲み干して湯呑を置いた。 「話は分かったけど、あなたちょっと勘違いしてるんじゃない。隼くんも」 「勘違い」 暁は急須を取り、もう結構と里が手で合図したのを見てまた置く。 「確かにこの子の記帳は去年したけど、この子が私の夫に見えるの。私の立場は今のあなたと変わりないのよ」 あ。思わず口が開いた。ゆきが急須に手を伸ばすのを見て、里が代わりに注いでやる。熱いから気を付けなさい。ふうってしてごらん、うん、上手上手。 「ま、いいわよ。付いていってあげる。容姿で難癖つけられることは無いと思うけど、この子や睦っちゃんと違って大人の記帳だからね。しかも男。何度か足を運ばなきゃならないかもね。えーと……人別方の番は二十日からかな。二十五か来月二日なら私も体が空くけど、どう」 今抱えている仕事は今月でひと区切りつけるはずだ。是非にと額を畳に付ける。とぽとぽと音がして、顔を上げると里が暁の分の茶も足していた。いつも厳しい口元に笑みが浮かんでいる。 「あんなどうしようもないところから、ここまで漕ぎ付けるなんてね。それもあのどうしようもない子と。よく転がしたじゃない」 暁は里の表情にうろうろと目を動かして考える。これはよくある皮肉なのだろうか、それとも。 「今度こそうまくいくといいわね」 その表情にも言葉にも嘘は無い。そう分かって、暁は改めて深く頭を下げた。 外はもう夕暮れに近かった。斎木に途中まで付いてきてもらえと言う里に首を振り、早足で間地を抜ける。何事も無く。間地で一年近く暮らして感覚が研ぎ澄まされたことも一つあるだろう。しかしそれ以上に。 橋が見えて暁は足を止めた。団子屋。ひよがいた店。あの女は針葉が始末したと浬は言った。今客と楽しげに話している女も黒烏に違いないが、彼女を含め誰一人として暁に近付く者はいない。手を大きく広げた、更にその向こうに、緩やかな護りを感じるだけだ。 月が替わって二日目、暁は紅砂に睦月を託して家を出た。手には去年浬が作った暁自身の出自と、針葉から聞き取った、彼の分かる限りの出自を書き付けた紙を握っている。間地の里の家を訪れ、水を一杯もらって港へ向かう。 西門の番人は女二人と見ると怪訝そうに用を尋ねた。暁がごくりと唾を呑む。しかし里が一歩前に出て、慣れた様子で何事か話したかと思うと、番人はすっと下がった。 「私はよく来るもの。女郎の数だけお客がいるのよ」 不思議そうな顔の暁を振り返って里はそう言った。 番処の門の両側にも番人が立っていた。「人別方に取り次いでいただけます」里の言葉に、左手に立っていた番人がひとところを指し示す。里が頷いて向かった先にも若い男がいた。 「こちらへ」 短く言うと、男はくるりと背を向けて歩き出す。暁はその後を追いつつ、ちらちらと周りに目をやった。建物、建物、向こうに木々の影。時折見える正装姿の男。平屋でゆったりとした造りの番処は、自分が暮らした豊川の家に少し似ている。考えてみれば自分の家も壬で番処と呼ばれる場所だった。 男は建物の一つに入って立ち止まった。下駄を揃えて上がった、そのすぐ先から細い廊下が始まり、交わった奥の廊下に人が行き来しているのが時々見える。 「ここで待つように。書き換えの申立者は」 「私です」 男は暁に目を留めた。今気付いたと言わんばかりに、薄い色の目を、そして髪を。声を上げた方を見たと言うには違和感を感じるほどの、微妙な間だった。 「字は書けるのか」 「はい」 男は手元の紙に何か書きつけると、続けて暁の名と現在の居処を聞き出し、その場を去った。 息を落ち着けて待つ。しばらくすると細面の男が現れ二人の顔に視線をうろうろと彷徨わせた。 「間地奥、二の通りの斎木方、暁と申すは」「私です」暁が小さく手を上げると、男は顎をしゃくるように小さく頷いた。「もう一人はここでお待ちなさい」そう言うなりさっさと背を向けて廊下を歩いていく。目を瞬いていた暁は、早く行けと里に急かされてようやく後を追った。 廊下は途中交わり、曲がり、なかなかに長く続いていた。男は途中振り返ることなく一つの木戸の前で立ち止まる。 戸を引いた向こうには本でできた壁が見えた。思わず目を瞠る。直後、墨の匂いに圧倒される。 さほど広くはない部屋、の三面がほぼ天井まで本でできている。部屋に入ってすぐ衝立が横一列に並び、はっきりとは見えないが、その奥には文机が並べられ、何人もが書き物をしているようだ。部屋を埋め尽くす低いざわめきの半分は紙の音だった。 衝立の手前には真中に男が一人、右手にもう一人。それぞれ別の用らしく、衝立の向こうの番人と何事か話している。小間使いらしき男が引っ切り無しに部屋中を動き回り、壁から本を引き抜き、仕舞っている。 「左手へ進んでこれを渡しなさい」細面の男は暁に紙を渡して去った。ちらと見れば暁の名や居処を書き付けたものだった。 左端の衝立の前にそろりと腰を下ろす。衝立は格子状になっており、近付けばその向こうの番人の姿も見えた。「あの」声を掛けると、ようやく番人が顔を上げる。髪にちらほら白いものが混じった男だった。結った髪がほつれている。 「すみません、あの、これを」 衝立の端から紙を差し出す。男は暁の顔から目を離さずそれを取った。「女か」紙を開いて机に置く。 「用は」 「あの、人別帳の書き換えを、お願いしたく、参りました」 男は小間使いを呼んで紙を渡し、右手奥の壁を指した。小間使いは梯子片手に壁に立ち向かい、分厚い一冊を男に手渡す。男がそれをぱらぱらとめくり、再び暁に目を向けた。 「まずはお前さんの産まれと育ちを簡単に話してもらおうか」 暁は懐をぐっと押さえる。そこに仕舞った紙を。大丈夫、自分に言い聞かせる。 暁の話を聞いている間、男はひと言も言葉を発さず頷きもせず、目だけを紙と暁の顔とに行き来させた。 「……よし。それで、何がどう変わる」 「籍を、共にしたいんです」 「子が増えたか」 「いえ、そうでなく、あの、夫婦になるので」 男がぴくりと眉を動かす。 「どこの誰と」 「あの、今は記帳されていないと……その、無宿だと思います」 男は本にばんと掌を打ち付けた。暁がびくりと肩を縮める。うんざりとした溜息が格子越しに流れてくる。 「話にならん。いいかお嬢さん、そういうのは女の申し出一つでできるもんじゃないんだ。それも無宿者と? 馬鹿を言うな」 「もちろん、連れて来なくてはならないのならそうします。でも……あの、姻戚であれば、無宿の者でも記帳ができると」 「そうだ。現にお前さんはそうやって記帳されている。だが無尽に記帳できるわけじゃないってことは分かるな、夫婦は男と女が一対、そこより他には増えようもない。つまりお前さんが新たに夫婦になるってことは、今の亭主とは別れるってことだろう。そんなら亭主から申し出てもらわんといかんし、その途端にお前さん自身が無宿者だ。追い出されたくなかったら、無宿者でない他の男を捕まえて、別れたその場で夫婦になるしかないな。ただし言っとくが、番処の中で喧嘩なんざ御法度だぞ」 暁は何も言えずに衝立を見た。その向こうの二つの目、無精髭の生えた口元。頭の中でぐるぐる回る声。彼は今、何と。それは一体。 唇が震える。 どういうことだ。私には「今の夫」がいて、私自身がその男の姻戚として記帳されている? 私は、私が知らぬうちに、誰かと夫婦になっていた? 「分かったらとっとと帰って、今の亭主とやり直すか、新しい男を捕まえるかしてもらいたいな。こっちも暇じゃない」 「あの、私の夫の名は」 筆を取ろうとしていた男はむっと暁を睨んだが、面倒な女を追い払えると考えてか、もう一度本に視線を落とした。 「ええと――」紙をめくり、「いや、今はこっちか。泰孝、となっているが」 暁は目を見開いた。慌てて頭を下げ、逃げるようにその場を立つ。 「おい女。まさかお前、名を騙っているんじゃあるまいな」 戸を閉めると男の声は遠くなり、わざわざ追ってくる者の姿も無かった。どくどくと鳴る胸を押さえ付け、廊下を足早に進む。どこをどう歩いたか分からない。来たときの倍にも等しい距離を歩いて、最後は走り出しそうになりながら、ようやく里の待つ場所へ出た。 「お帰り。遅かったわね。無事済んだの」 肩で息を繰り返し、里をじっと見つめる。見知った彼女がここにいてくれなければ、体がばらばらに砕けてしまっていたかもしれない。暁は口元だけで笑う。「少し、足りないものがあって」 「……その顔、どうしたの」 里は笑い返しもせず問う。いつもの鋭い眼差しで暁の顔を覗き込む。 「番人に何か不当なことでも言われた?」 暁は首を振る。早くここを離れたい。 瞬きのたび、瞼の裏に桜が浮かんだ。ちらちら、ひらひら、絶えず降る淡紅の花片。空を埋め尽くすほどの、地も川も埋め尽くすほどの満開の、その中で笑うひと。幼い彼女が初めて恋を覚えた、あの春の日。 でもそんなはずはない。 ――何とも惜しいことだ、彼なら申し分なかったのに。 縋り付くように里の袖を掴んだ。あの甘やかで朧げな、底無き記憶の中へ落ちぬように。 ――泰孝殿はお亡くなりだ。 あの優しい人は、もう七年も前にこの世を去ったはずだった。 戻 扉 進 |