その日は針葉の休みと暁の仕事の切れ目が重なり、睦月を連れ三人で染まりつつある山へ向かった。睦月は自分の足で歩いたり抱っこをせがんだりを繰り返しつつ、初めての遠出はたっぷりと時間をかけ、昼を随分回ってようやく帰路についた。
「睦っちゃん。紅葉、赤い葉っぱ、綺麗だったねぇ」
「ん。あっぱ。きえーねっ」
 暁は睦月と手を繋ぎ、狭い歩幅で歩く。前を行く針葉が振り向いた。
「色はもうちょいだったな。前来たときのほうが良かった」
「いいの。また来るから。何度でも見られる」
 立ち止まって裾を引く睦月をよいしょと抱き上げ、暁は針葉の横へ歩む。
「この子に色んなものを見せてやりたいの。綺麗なもの、そうじゃないもの、全部自分の目で見せて、触れさせてやりたい」
 睦月は眠り込んでしまったらしく、ずっしりと腕が重くなる。歩みの遅くなった暁に気付いて針葉が腕を差し出した。暁は目を丸くしてじっと針葉を見つめ、恐る恐る、睦月を支える腕を自分の胸から離す。
 ――針葉。抱っこ、してみない?
 あれから実に半年以上が経っていた。
「お尻ちゃんと支えてやって。眠ってるから落ちないよう気を付けてね」
 いくつか注文を出すと何とか様になった。数歩ごとにずり落ちそうになる体を抱え直しながら、針葉はがに股で進んでいく。
「思っ……たより、重いな」
「眠ってるからね。辛くなったら言って、代わるから」
「いや、いい」
 もう裏通りを過ぎて上り坂に入ろうかというところだったから、針葉が睦月を抱えてくれるのは願ってもないことだった。
「暁。こいつ鼻詰まってんぞ」
「ん? ……だね」
 耳を近付けるとぴぃぴぃと鼻が鳴っていた。
 草に埋もれそうな地蔵が見えて二人は道を折れ、針葉が睦月をぐいと抱え直して、ゆっくりと坂を上る。
「なあ」
「うん」
「お前知ってたか、あいつらのこと」
 今朝のことだろう。暁は首を振った。
「全然。だから驚いた。確かに物干しとかちょくちょく手伝ってたし、芝居にも一緒に行ってたみたいだけど」
 顔見世公演を来月に控えた織楽が昨夜から戻り、久々に全員が揃った朝、紅砂が突然手を上げて皆の目を引いたのだ。「うちの妹が浬と夫婦めおとになることになった。家の中のことだから大袈裟にするつもりは無いが、今月中に祝言を挙げさせるから、その日には居てやってほしい」
 紅砂と当の二人以外は皆、あまりに唐突なことに仰天するばかりだった。いや、約一名にやにやと笑みを浮かべる役者がいたが。
「まさか紅砂が引き合わせるわけもねぇし、こっそり懇ろになってたんだろうな」
「紅花と話しててもまるでそんな素振り無かったよ。最近なのかな」
 暁が首を傾げると、針葉もからかうように同じ向きに首を傾け、ちらと視線を寄越した。
「つってもお前、紅花と部屋隣だろ。何かこう、声とか聞こえたりとかしなかったのか」
「声?」
「夜に」
 数歩行き過ぎて針葉は足を止め、立ち止まった暁を振り返った。彼女は面食らったように眉を寄せ、顔を赤らめていた。
「お前なあ。餓鬼産んだ女が未通女おぼこぶったって可愛かねえぞ」
「馬鹿。あの二人に限って祝言前にそんなことするわけないじゃない」
「してねぇわけねぇだろうが、馬鹿」
「やめてやめて。まだ全然頭が追い付いてないんだから」
 すたすたと針葉を追い抜き、暁はひと足先に木々に囲まれた坂道を抜ける。暁の隣の部屋の障子はぴっちりと閉まっていた。中では紅花が当日借りる着物を試し着しているはずだ。



 紅花は白い着物に手を伸ばし、ふと動きを止めた。朝、とうとう兄が浬とのことを明かした。あんまり呆気なくて、全て嘘のようで、まだ頭がふわふわしている。着物や飾りを選んだり料理を考えたりといった小さな一々は目の前にあって分かりやすいのに、そのすぐ先にあるはずのものが見えない。
 あの日、浬を殴り飛ばした紅砂はすぐ間地へ向かい、産婆の里を連れて坂を上ってきた。厠でひと通りの処置を終えて戻ると、ちょうど浬が二人に話し終えたところのようだった。六つの目が紅花に向く。
「勘違い?」
 複雑な表情で問う兄に紅花は肩を竦めるしかない。里はぴくりとも顔を変えず紅花に歩み寄る。
「それ本当に月のものなのね。流れたんじゃなく?」
 彼女の後ろで男二人がぎょっと目を剥く。紅花は慌てて首を振った。
「違います! 違う……と思います。何かほんと、何でか分かんないんだけど……とにかく、お騒がせ、しました」
 うつむき、徐々に小さくなる語尾。紅砂は空に深々と嘆息し、里に近付いた。「わざわざ来ていただいたのにすみません、そういうことなので……」
 里はくるりと向きを変えるとすたすたと家へ歩いて縁側に上がり、まだ同じ場所で突っ立っている三人を振り返った。
「何やってるの」
「何って……」
「お花ちゃん。あなたの部屋でもどこでもいいからさっさと案内なさい」
 有無を言わせぬ口調に、三人も顔を見合わせつつ縁側へ上がり、紅花の部屋に並べられた座蒲団四枚に腰を落ち着けた。里は紅砂の隣で二人の顔を無遠慮に眺める。誰も何も言わず、やむなく浬が口を開きかけたとき。
「ふた月くらい?」
 里が唐突に口を開いた。
「そのくらいかしら。月のものが止まっていたのは」
「はあ」
「そのくらいよね、疑い出すのは。あなたたち今どう思ってるの。勘違いだったと分かって安心した? それとも残念だったのかしら」
 紅花は左に座った浬にちらと目線を投げる。一瞬のことだったのに視線がかち合った。慌てて戻す。どっちなのだろう。相手はどう答えるのだろう。
「ま、どっちでもいいのよ。後でゆっくり話し合ってちょうだい。ただね、特にあなた。浬くん? なんだ遅れただけか、良かった良かった、もしそう思ってるんだとしたら、そういうことじゃないのよ。お花ちゃんの身にはこの間、身籠ったのと同じくらい大きな負担がかかってたの。今ぴんぴんしてようが、そうなの。あなただけが原因だとは言わないけど、……でもまあ、その顔見る限りまともな付き合いじゃなかったみたいだから、責任の一端はあるんでしょうね」
 黄月だ。紅花は喉をぐっと固める。淡々と畳み掛ける話し方も、容赦なく混ざる棘も、黄月そのものだ。その棘が暁に向いているときは何とも思わなかったのに。
 浬の息の音。鼻を覆っていた手拭いをようやく外し、血の付いた面を内にして畳む。
「何をおっしゃりたいんです」
「そうね、まだるっこいのは止めにしましょうね。私は子堕ろしは好きじゃないの。知ってる子なら尚更よ。意図して流すんじゃなくても、そういう立場に追い込むんなら同じこと。もちろん黙って追い込まれるお花ちゃんもお花ちゃんだけどね。あなた、どういうつもりだったの。お花ちゃんを」
「里さん」
 紅砂が引きつった顔で隣の彼女を止めた。「そこから先は俺が」
 虚を突かれたかたちで口を止めた里は、渋々といった様子で身を引いた。
「お兄さんがいたんだったわね。ごめんなさい、妹の一大事だっていうのにあんまり静かだから忘れてました」
 口を挟む隙も無かったんじゃないか。ぼやきを引きつった愛想笑いの中に押し込めて、紅砂は紅花に、そして浬に視線を移す。
「痛むか」
「去年の今ほどじゃないよ」
 紅花が視線を向けても、やはり紅砂が殴り付けた頬は彼女からは見えない。
「もう二、三発殴っておけば良かったな」紅砂は片頬を歪めて笑い、「浬。俺はお前がこの家に来た当初からお前を見ている。お前なら申し分ない、安心して紅花を任せられる」
 紅花は耳を疑って兄を見つめた。紅砂の顔に浮かんでいる薄い笑み、しかしそこからふっと表情が抜け落ちる。
「こんなことになる前にお前らのことを知ってたら、そう言ったと思う。だから残念でならない。本当に、残念だ。……隠そうと持ち掛けたのはどちらだ」
「あ……あたしっ」
 浬が口を開く前に紅花が言った。さっきから里も紅砂も、浬にばかり風当たりが強い。自分の中に浬に対する不満があったことは確かだが、他人に非難してほしかったわけではない。
「あたしが躊躇ったの。別に紅砂を騙そうとしたわけじゃなくって、そんな悪気なんて無かったけど、何となく言いそびれて」
 紅砂はちらと妹に目をやっただけだった。
「だとしても、浬。俺はお前に、紅花を諭してほしかったよ。紅花は考えの足りないところがある。ちょっとやそっとの間隠しおおせたって、一生そうしていけるはずもない。お前なら分かったはずだ」
 紅砂がごくりと唾を呑んで、目を伏せ、覚悟を決めたように顔を上げた。
「お前は紅花と添い遂げるつもりがあったのか。それとも目先の愉しみのために、紅花を使ったのか」
 な。
 紅花は眉を歪めて無理やり笑みを吐き出す。何を言うのだ。いくら何だってそんな言い方。まさか、そんな。
 なのに部屋には静寂が満ちている。息継ぎできる場所を探すように、浬に目を移す。彼の表情は動かない。紅砂にぴたりと視線を合わせたまま、落ち着き払った顔で座っている。
 紅花の眉間に皺が刻まれる。視線が膝に落ちる。
 浬。何とか言ってほしい。早く。浬。
 長い長い息が聞こえた。紅花は目だけを自分の左隣に座る男へ向ける。視界の端で捉えた彼は倦んだように目を閉じていた。息の音が止んで、目が開く。
「舐めるなよ」
 低い声。紅花はまたしても耳を疑った。顔を動かすことができず、左側の頬がぴりぴりと痛む。
「な……」
「さっきから黙って聞いていれば。お二人の頭の中では、余程彼女が頭の足りないように見えているらしいが、侮蔑も甚だしい。この子の一挙手一投足が他人に左右されているとでも言う気か。紅砂、お前は自分の妹がそこまで愚かしいと本気で思っているのか
 呆気に取られていた紅砂の顔に、徐々に感情が追い付き、怒りに震え出す。
「……つまりお前は、一つも悪いとは思っていないし、一つも後ろめたいことは無いと、そう言うつもりか」
「なるほどね。紅砂は今まで男女が親しくなることを、後ろめたい、悪いことだと思って、紅花ちゃんにもそう言い聞かせてきたわけだ。可哀想に、紅花ちゃんが隠したくなるはずだね。期待に沿えず恐縮だが、僕はお兄さんに謝るつもりはないよ」
 部屋が静まり返る。紅花は無心で正面を見る。里の更に向こうに焦点を合わせて、ひたすら心を落ち着かせる。この争いは一体いつまで、どうやれば彼らは、――この先に決着はあるのだろうか。
「謝りはしないが、感謝はしている」
 静寂を破ったのも浬の声だった。
「この子がこの家で誰からも下手なちょっかいを出されずにいたのは、怖いお兄さんがいたお陰だ。その堅すぎる考えのお陰で、この子はまっすぐ育った。心から感謝している。だからさっき貰った拳は返さずにおく。誤解するなよ、僕らは責めを負うようなことは何一つしていない。お前に恩があるから、帳消しにするだけだ」
 紅花は無心で正面を見る。もうどちらの顔も見られない。ただ、少し流れが変わったのは感じられた。圧倒的に弁が立つのは浬のほうなのだ。
「添い遂げる気か、それとも遊びかだって? じゃあこう言えば分かるか」
 突如浬が腕を伸ばして紅砂の襟首を掴んだ。里が目を見開く。紅花の短い悲鳴。
 互いの息が触れるほどの間近で、浬は紅砂を睨み付けた。
「妹さんを僕にください」
 脅しているようにしか聞こえない低い声で、据わった目で、彼はそう言った。
 紅砂はじっと彼を睨んでいた。やがて浬の手首を掴むと、紅花に視線を移した。
「花。お前はこやぁ男好いとうか」
 呆れるほどの騒動の中にありながら、紅花は胸が締め付けられるように感じた。青い目。彼女のものと同じ色。幼い頃から親代わりとなって彼女を護ってくれた、ただ一人の家族。
 大きく頷く。
「言うのが遅うなってごめん。ちょっと先走ったかしれんけど、浬選んだことは絶対恥じん」
 紅砂はじっと妹を見つめ、その目が揺らがないことを知ると、浬の手を引き離した。
「好きにしろ。ただし祝言だけはきちんと挙げてからだ」
 退屈な顔でことを見守っていた里を連れて出て行き、部屋には浬と紅花とくたびれた座蒲団二枚が残された。紅花の目はまた焦点を失い、自分の両頬を手で包む。頭がぼうっとしている。
 浬が深く息を吐き出して足を崩した。紅花はゆっくりと視線を巡らせる。
 視線が合う。一瞬どちらも言葉を躊躇った。紅花は浬の顔に疲れを見た、そしてそれはきっと彼女自身の顔にも。
「随分と……派手にやったわね」
「紅砂に勝てって言ったのは紅花ちゃんだろ」
 何もあんな修羅場を繰り広げろと頼んだ覚えはないのだが。常には見ない浬の険しい顔を思い出し、紅花は曖昧に笑って流しておく。
「具合は。お腹痛むの」
「いつもと同じよ。大丈夫」
 浬は小さく頷き、背を曲げて紅花の顔を覗き込んだ。間近で見た左頬は、やはり腫れて形が変わっている。
「僕は、少し残念だったよ」
 あ。また頬が火照り出す。頭がぼうっとする。浬の目は探るように、からかうように紅花を見つめた。
「紅花ちゃんは?」
 今でも結局分からないままだ。人目を忍んで過ごした一年間が、あの人の優しさだったのか、勘定高さだったのか。
 それでも紅花はすぐ隣で聞いたのだ。この耳はまだ覚えている、いつだって思い出せる。一年間の沈黙を破って彼の口から飛び出した、信じられない言葉の数々を。



「暁、ちょっと」
 細く開いた襖の隙間から当の紅花が手招きしたのは戻って軽く腹を満たして間もなくだった。針葉を振り返ると、寝転がったまま眉をちょいと上げて答えが返ってくる。暁は睦月の上掛けを直して腰を上げた。
 睦月が目覚めもせぬ短い間に暁は戻った。針葉は片肘から顔を浮かせて迎える。
「何だった」
「ん……うん、白無垢着てみて、どの簪が合うかって」
 いやに神妙な顔つきだった。暁はおもむろに両手で椀の形を作って自分の胸の前に上げ、視線を下ろした。針葉はじっとそれを見る。次第に唇がむず痒くなる。
「凄かった。毬……うん、あれは毬。毬が付いてるみたい」
「身に付けるもん見に行ったんじゃねえの」
「あ、うん、着物も簪も綺麗だった。……うん」
 針葉は耐え切れず、口の中に溜まった笑いを吐き出した。ひとしきり笑ってもまだ唇がむずむずする。
「そうかそうか、今更自覚したか」
「じっ、自覚」
「へえ、毬ねえ。そいつは凄いな」
「な、なに考えてるの馬鹿。紅花に謝って!」
「お前が言い出したんだろうが」
 暁の顔は紅潮し、目もぐるぐると落ち着かない。
「い、今まで板っきれ板っきれって……そ、そりゃ、私ももう板っきれじゃないけどっ! ……針葉は、あの」
「ん」
「ああいうの、が、良かったの」
 暁のせわしない瞬き。針葉はつと視線を上げて体を起こした。
「ああいうの、がどういうのか分からんから見てくる」
「駄目っ」
 咄嗟に腕を広げて襖に立ち塞がるのに、返ってくるのは押し殺した笑いばかりだ。この男はどこまで人を弄べば気が済むのだろう。暁の顔がこれ以上ないほど赤くなる。やっと笑い止んだ針葉は、余裕綽々といった表情で頬を緩めた。
「言いやしねぇよ。お前と喧嘩したいわけじゃない」
「喧嘩になるようなことを言うつもりなんだ?」
 眉を寄せて詰め寄っても、鼻で笑ってかわされるだけだ。
「そりゃ欲を言やぁきりが無いけどお前にそれを求めやしねぇよ。お前だってあれがいいこれがいいあるだろうが、全部満たす男なんていやしねぇだろ」
 それとも俺が全部満たしちまう男だったりするわけか。ったく参っちまうよな。おい良かったな暁、俺って男がこの世にいて。――ふざけた言葉にはきっちりと睨みを返しておく。
 ふっと暁の目が遠いところを見た。
「……いたよ」
「あ?」
「理想そのままの、これ以上ないってくらいの人」
 針葉が目を見開く。いつの間にか彼の顔からは人を食った笑みが消え失せ、代わりに暁の口元には懐かしむような微笑みが浮かんでいる。
「あ。……女だろ。あたしもこういう人になりたいわーって」
「違うよ」
「分かった、芝居の役だ」
「生身の人です」
 くすくす笑う暁を見る針葉の顔は、不機嫌そのものだ。
「……誰だよ」
「言わないよ」
「なんで」
「喧嘩したくないもの」
「お……っ、お前は喧嘩になるようなことをっ」
「大声出さないで。睦月が寝てるんだから」
 唇に人差し指を立ててぴしゃりと叱られ、針葉はむっつりと黙り込んで、また寝転がり二人に背を向ける。
 笑みを浮かべてその背中を眺めながら、暁は思い出していた。初めてその人に出会った春の日のこと。空も水面も桜に彩られた、あの美しい記憶を。



 それは暁が覚えている限り初めての遠出だった。彼女が十一になった春も半ば、いつも傍にいた三津という女と、父、そして初めて見る数人の大人に囲まれて、長い間舟に揺られた。
 桜のある場所に辿り着いたのは木漏れ日の美しい昼下がりだったように思うから、途中でどこかに泊まったのかもしれない。景色は移り変わり、知らぬうちに国境を越え、川幅は広くなり狭くなり、とうとう緩やかな岸辺に舟を着けて、彼女の足は東雲の地を踏んだ。
 久方ぶりの地面に体が傾ぎ、三津に支えられて辺りを見回す。
 川べりに桜の木が並んでいる。柔らかな風が吹くたびに花片が舞い散って、きらきらと、空を、地を、水面を染める。色濃く逞しい根は地から立ち上がって無骨な幹となり、節くれ立った枝となり、突如可憐な花を咲かせる。
 本とも絵とも違う、枠も縁取りも無い世界。頬を撫でる風、水の音、土の匂い。夢の中にいるようだ。
「来なさい」
 父が背中を向けて歩き出す。そのすぐ後ろを護るように二人の男が続き、父の姿を隠してしまう。暁はもう一度花の天を見上げて足を踏み出した。
 途端、足元で何かが跳ねた。悲鳴を上げて足を引く。
「小虫でございますよ。ご安心なさいませ」
 三津が耳元で囁く。暁は足元に目をやりながら恐る恐る歩き、しばらくすると前を向いて歩けるようになった。足を速めて父の背中に近付く。
「美しゅうございますね、父さま」
 誰の頭も振り返らなかった。暁は口を噤み、辺りに目をやりながら歩く。肩越しに振り向くと、やはり見知らぬ大人が後ろを固めていた。
 しばらく行くと桜が途切れて日の光が差し込んでいた。その向こうに横たわる細い川の前で父が足を止めた。暁も横に並ぶ。桜の切れ間から除く遠景には緩やかな山影が青く座していた。その景色にも時折ちらちらと花片が舞う。
 ふと暁は川の向こうに目を向けた。向こうの川岸に並ぶ桜、その陰から大人たちの一団が姿を見せた。
「おや、花見ですか。奇遇ですな」
 父が親しげに声を掛ける。向こうの一団のうち派手な着物のでっぷりとした年配の男が会釈して寄越した。
「ご一緒しても宜しいですかな」
「勿論。宴は多いほうが盛り上がろうというもの。あきも、良いな」
 暁は父の顔を見た。父が彼女に意見を求めるなど。とは言え肢は一つしか無い。暁は小さく頷く。
 その一団は川沿いにぞろぞろと右へ歩き、小さな橋を渡ってこちら側へ近付いてきた。全部で四人。暁の一団より少ない。父が暁の肩に手を掛けた。
「お会いするのは初めてでしたな。娘のあきと申します」
 会釈した暁が顔を上げたときに見たのは、でっぷりとした男のにんまり笑う顔だった。値踏みするような小さな目が二つ、らんらんと光っている。
あき、こちらは東雲の旭家当主、兼良殿であられる」
「初めまして。噂には聞いておりましたよ、小さなお姫様」
 差し出された手に、暁がわずかに身を引いたのを察し、当主という男は唇を結んで縮めた背を伸ばす。そして後ろにいた男を前に出させた。四人の中でただ一人若い男だった。
「豊川殿には以前一度拝謁しましたかな。長男の泰孝です」
 許嫁の名も顔も、そんなものがいることすら知らなかった暁が、その人に初めて逢った、春のことだった。

 始まってみれば、それは花見とは名ばかりの酒宴の席であった。父は旭家当主の男とばかり話している。人が多いほうが良いと父は言ったが、こちらも向こうも、当主とその子の四人の他は従者のようだった。彼らは話をするでも飲み食いするでもなく、表情を消して少し離れたところに控えている。
 暁は家をぐるりと囲む小堀を思い出した。自分に許されたのはその内側だけ。場所は違えど、ここでもやはり同じことなのだ。更に今は三津さえも彼女から離れ、彼女の隣には泰孝と呼ばれた青年がいる。
 父たちの話を漏れ聞くうちに暁はこの花見の目的を察していた。これは見合いだ。
 実のところ彼は暁が産まれたときからの許嫁で、これは見合いどころか婚儀の前の顔合わせに過ぎなかった。そもそも暁は彼の家へ嫁ぐために生を受けたのだが、当時の彼女にそれを知る由も無い。
 考えてみれば、今まで年に数えるほどしか会えなかった父が、突然花見に連れ出してくれるはずもないのだ。それも国境を越えてこんなところまで。そうと知らず無邪気に胸を膨らませていた昨日の自分が哀れだった。
 帰りたい。
 胸に去来する声。あれほど外に焦がれたのに、ここはこれほど美しい地なのに。
あき殿は静かに花を愛でるのがお好きなのですね」
 隣の彼は、あの当主の息子とは思えぬほど優しい眼差しをしていた。騙し討ちのように連れて来られて打ち解けられるはずもない。彼はこれが見合いと気付いているのだろうか。分からぬものか、彼は暁より十近くも年上に見えた。
「こちらへお越しになるのは初めてとお聞きしました。東雲の桜はお気に召していただけましたか」
 目を逸らして猪口を手に取る。口を付けるまでは間が持つ。それでも呑んだふりだけだ。こんな苦いもの。
「これ、きちんと答えんか」
「いえ、構いませぬ。慣れぬ舟旅でお疲れなのでしょう」
 父の声が胸をきつく縛り上げるようだった。平気なふりをする、猪口に口を付けるふりをする、その視界がじわり滲む。ここはこれほど美しい地なのに、鳥の軽やかな囀りがそこかしこから聞こえるのに。胸が重い。気分が悪い。帰りたい。あの牢のような家でもいい、四角く切り取られた景色でもいい、早く。
 青年が腰を上げて川へ歩んだ。桜の空を抜けて陽に包まれる背中を見ながら、暁は薄く笑う。あの人も可哀想に。これほど歳の離れた子供が現れるとは思ってもみなかっただろう。しかもその子供は無邪気の欠片もない、一言も発さぬ無愛想な女ときた。
 暁にはどうすることもできない。父にとって彼女は物言わぬ駒でしかない。せめて彼からこの縁談を断ってくれれば。
 青年が川から戻り、元通り暁のすぐ隣に腰掛けた。そのわずかな間も柔らかな笑みを絶やさない。暁の打ちひしがれた顔とは真逆だ。この人は余程幸せの中で育まれたのだろうか。そっと顔を背けて地に目をやる。小さな黒い虫が行列を作っているのを眺める。
あき殿、どうぞ」
 声に振り向くと、青年が猪口を差し出していた。思わず彼の顔をまじまじと見つめ、猪口の中身に視線を落とす。
 それは父たちが上機嫌で酌み交わしている、どろりと白い酒ではなかった。澄んだもの、多分川から汲んだ水、その表面に桜の花片が一つ浮かんでいる。
 水……。暁の唇が声無く形作った言葉を見て、彼は目を細めた。近付きすぎない程度に顔を寄せ、暁だけに聞こえる小さな声で。
「花酒ですよ。我々の酒はあなたには苦いでしょう」
 花酒。
 暁は信じられぬ思いで猪口を見つめる。かつてこんな人がいただろうか。
 彼が暁に与えたのは単なる水ではなかった。彼女の居辛さや息苦しさに気付いているという密やかな合図。どんな小さな光であっても、彼女にとっては救いだった。
 それから二人は少しずつ言葉を交わした。普段三津としか話さぬ暁に、どんな気の利いた返しができるはずもない。それでも会話が成り立ったのは、ひとえに泰孝の優しさがあったからだ。口下手な彼女の話をゆっくりと頷きながら聞く。歳の離れた子供の話など聞いて面白いものでもないだろうに、目線を合わせ、ある時は笑い、ある時は驚いた。
 気付けば夕刻も近く、暁の目は立ち上がる父の影を捉えた。泰孝に続いて暁も腰を上げる。
 暁は泰孝と向き合った。彼は父たる旭当主と違って背が高く、暁からは見上げるような格好となった。彼は別れ際であってもやはり柔和に微笑んでいる。今なら思う、この笑顔をもっと見ていたいと。でも。
「私のような子供との見合いでさぞお気落ちなされたことでしょう。どうぞお断りくださいませ。……旭様が下さった花酒は、大変美味しゅうございました」
 胸の声を殺して深々と辞儀をする。そこに彼の、まるく柔らかな声が降りかかった。
「気落ち? 何をおっしゃるのですか。あなたも私も花を見に参ったのです。ここの桜は見事ですからね」
 暁が顔を上げると、泰孝が手を伸ばして花の小枝を折るところだった。
「花は期待以上に美しく、偶然のことながら、可愛らしい方にもお目見えすることができました。大変に満足な一日でしたよ。充分お気を付けてお帰りなさい。またいつかお会いできると良いですね」
 彼の指が暁の髪に、花の簪を挿した。

「言わずとも分かっているだろうが、お前の隣にいた泰孝殿がお前の主となる方だ。なかなか打ち解けているようだったな。お前がこれほど乗り気になるとは」
 父が下卑た笑いで全てを明かしても、暁は微笑んでいられた。泰孝が彼女に惜しみなく与えたように。
 いいえ父様、私たちは偶然会ったのです、そしてこれからも偶然逢瀬を重ねていくのです、と。