涼やかな風が吹き込んで、早売りの端が揺らいだ。浬は顔を上げる。耳を澄ませば、障子の向こうでは水音のように涼やかな虫の声が、高く低く絶えることなく流れていた。
 暑い暑いとばかり思っていたのが、このところの朝夕の冷え込みは秋の過ぎゆく足音を感じさせる。程無くしてこの山も染まり始めるだろう。
 しかし今は闇が続くばかりだ。浬は早売りに目を戻す。
 手元の紙面には久々に壬の記事が刷られていた。
 飛鳥が壬の菅谷領の実効支配に乗り出してからふた月近く。国統たる菅谷への強引な介入は大きな反発を招き、各地で衝突が起きている。過激派の拠点とされる地域では夜間外出禁止令や壬びとのみでの集会禁止令も出されているという。
 そのさなか、飛鳥の不破家が菅谷家の娘との婚儀を発表。年若い娘の輿入れに政略婚との批判が高まる中、婿となる不破家三男が正妻に加え子まである身ということが知れ、壬びとの怒りは頂点に達した。その一方で、崇めてきた正統なる家がいとも容易く屈する様に気勢を削がれた者もおり、反飛鳥勢力は早くも二分された。
 その上、我こそは正統なる菅谷の後継者と名乗りを上げる、自称国統の落胤も登場して、菅谷領の行く末はいよいよ混迷の様相を呈していた。
 虫の声がひととき止む。
 浬は目を閉じて早売りを畳む。闇と静寂。
 知らぬ国のことであったなら、まるで喜劇だ。
 また虫の声が始まり、浬は襖に目を向ける。程無くして足音が聞こえ、紅花が襖の向こうから顔を覗かせた。その腕に掻巻を抱えている。
「まだ起きてる、ね。綿入れ。そろそろ寒いでしょ」
「ありがとう。運ぶの手伝うよ」
 受け取ったものを脇に置いて腰を上げたが紅花は首を振った。「あんたで最後」
 浬は頷きを返し、闇に沈む廊下をちらと見て襖を閉めた。振り向くと紅花が、元々大きい目を更に大きく開いて彼を見ている。
「夜は冷えるから」浬は再び蒲団に腰を下ろすと掻巻で膝を覆い、「紅花ちゃんはこれで用事終わり?」
 紅花はその場に立ったまま浬を見下ろす。
「もう夜だし」
「こっち来ない」
 口に出してから、彼女の表情が堅いことに気付いた。薄い色の瞳がつっと逸れる。
「ごめん。あたし、あんまり具合良くないの」
 あ、と浬は崩した足の横に手を付いた。確かにいつもの跳ねるような声ではない。
「そう。あ……いや、でも別に、いきなり押し倒そうなんてつもりじゃないよ」
「そんなこと言ってないじゃない」紅花の口調がとがり出す。「何それ。あたしがそんなことしか考えてないみたいに」
「そこまで言ってないよ。ただ、ほら、お馬の時期でもさ、一緒にいるだけでも」
「人の体のこと勝手に決め付けないでくれる。あたしは具合が悪いって言ったの」
 返す言葉が無くなって浬は口を噤んだ。紅花は振り返りもせずに襖を開けると「おやすみ」不機嫌な声で呟いた。
「ごめんね」
 閉まる襖に向かって声を掛けたが、足音は躊躇いなく去っていった。

「花ちゃん花ちゃん。ちょっと聞いてよ。睦っちゃんって、えーっと何だっけあれ、ほら、神童ってやつかもしれないわよ」
 収支帳面を眺めてぼうっと物思いにふけっていた紅花の首根っこを、静の甲高い声がむんずと掴み引きずり戻す。
「は、何」
「何よぉ、寝惚けてんの。睦っちゃんさ、今喋ったのよ。何て言ったと思う。おぶたーちょりますって。御無沙汰しております、よ。えって聞き返すじゃない。そしたらおーちゅーなーてって。流れからすると多分、大きゅうなられまして、よ。ちょっと凄いわよねこれ」
 昂奮気味に語る静の腕には睦月がきょとんと収まっている。手綱を握っておいてくれるはずの暁は手水場にでも行ったのだろうか。紅花はうんざりとした表情を隠そうともせず、わざとらしく伸びをする。
「しっかりしてよ。静さんとはこの前も会ったし、何よ、今頃丈が伸びたわけ」
「もー、そういうことじゃないでしょ。二歳の、今までばぶーしか喋らなかった子が、いきなりこんなこと話すってある」
「まんまとでも言ったのを聞き間違えたんでしょ。今算盤弾いてるからちょっと静かにしてて」
「いっくら何でもまんまと聞き違えやしないわよ。そんなのあたし相当な馬鹿じゃない」
 ぶつぶつ言いながら戻っていく静に目もくれず、紅花は算盤を傾けて天珠を人差し指でちゃっと弾く。願いましては。
 どうしても合わない収支を何度目かでようやく片付けて、帳面を閉じる。
 どこまで考えていただろうか。頭の中の糸は触れたそばから解けて、もう収拾がつかない。
 そうだ、この前の夜のこと。
 いつも浬は紅花が誘うのを待っているばかりで、自分は色恋沙汰など一つも関心が無いようなすまし顔を貫いていた。それは紅花の不満の種だった。それが、先日は彼の方から声を掛けてきた。
 ようやくと喜ぶところだったのに、彼の意図に気付いた途端、驚くほど心が醒めたのだ。
 何よ。いつもこっちから声掛けてたから、誘えばすぐに乗っかってくるとでも思ったの。やっぱり静さんが言ったとおり。勘違いしないで。馬鹿にしないでよ。
 なんて女だ。年始、純粋に彼を見つめていたあの気持ちは、どこへ向かってしまったのだろう。
 いつしか頭の中にも算盤が居座っている。浬との関係は浅ましい駆け引きへと姿を変えつつある。
 でも、と言い訳のように思う。具合が悪いのは嘘ではなかった。浬と共に過ごすようになって数か月、思い悩むことが増えたからかもしれない。彼との距離が縮まってもそうでなくても、海原に小舟でぽつんと取り残されたように、絶えず心が揺さぶられている。
 彼との間柄には心休まることがない。肌を合わせて鼓動を戻しても、その時だけだ。あれほど優しい人でも。これほど穏やかな恋路でも。
 誰にも知られないこの関係には、行き着く先が無いのだから。
 数年前、針葉が唐突に暁との関係を宣言したとき、紅花は呆れ、嫌悪を覚えた。今では少し、羨ましい。針葉の顔を浬に置き換えて苦笑いを漏らす。きっと、有り得ない。
 また少し気分が悪くなって、紅花は胸を押さえた。



 早い夕暮れに照らされる縁側を行く黄月は、ふと空いた障子の中に目を向けて一度通り過ぎ、すぐに来た道を戻り、小脇に木箱を抱えて同じ道を来ると、足取りを緩めることなく部屋を横切り、壁にもたれる紅砂の鼻先で足を止めて腰を下ろした。立てた膝に肘を置いて疲れ果てたようにうつむく彼の顎を、黄月は無遠慮に持ち上げ、瞼を片方ずつぐいと指で開き、口をこじ開けようとしたところで、ようやく紅砂は顔を背け、掌を突き出して待ったをかけた。
「な……何だ」
「生きてたか」
「見たら分かるだろ」
 表情で威嚇したところで黄月は意に介した様子も無い。もう一度上下の歯に指をかけ、ぐいとこじ開ける。ふがふがと間の抜けた声しか出ず、怒鳴るに怒鳴れない。「うるさい。黙らんと喉を突くぞ」相も変わらぬ一本調子は、却って彼の本気を感じさせた。紅砂は力を失ってなるに任せる。
 手を拭い、腕や足の傷痕まで全て見て、黄月はつまらなそうに呟いた。
「薬を出すまでもない」
「だからどうも無いって」
「どうも無いだと。じゃあ何だその変わりようは。隈もある、血の巡りも顔色も悪い、傷も増えた、酒臭い、口が悪い、行儀が悪い、何より人相が悪い。心身ともに養生の鑑だったのに、実に勿体無いことを」
「半分くらい言いがかりだろ」
「人の屑になり果てた奴に何を出しても溝に棄てるようなものだ。働けるくせにその気が無いのなら戻ってくるな。お前の妹が作る滋養に満ちた飯への冒涜だ」
 きっと目を剥いた紅砂だが、開いた口を噤むと、ただ黄月を睨み付けた。しばらくして、また顔をうつむける。
「分かってる……分かってる。ちゃんとする。立て直したいから戻ったんだ」
「何があった」
 紅砂は目を伏せたままじっと考え込み、首を振った。
「女か」
 紅砂の表情は変わらぬままなのに、黄月はふっと鼻で笑った。
「そうかそうか、お前がそうまで女に入れ込むとはな。心中でもしそこなったか。いい薬になっただろう」
 最後まで言う前に、紅砂の拳が黄月の襟を掴み上げていた。
「何も知らないくせに好き勝手言うな」
「何も知らないから好き勝手言ってるんだ、この馬鹿が」
 黄月は平然とした顔で紅砂の指を剥がす。
「お前が何の事訳もしないからだ。荒むんなら後ろ指差される覚悟くらいしておけ。それが嫌なら誰にも感付かれないよう慎重に荒んでろ」
 何か言うとその倍の言葉が返ってくる。容赦の欠片も無い。紅砂はうんざりと口を閉じて額を押さえた。
「……人を、殺された。謂れのない罪で。救おうとしたけど全て裏目に出た。でも……どこにも訴え出るところが無い。国に殺されたようなもんだからだ。……これが全てだ。これで満足か」
 黄月はかすかに眉を寄せた。今までわずかたりとも見せなかった、それは懸念の表情だった。
「紅砂」
「ん」
「お前、最近季春座で芝居でも観たのか」
 紅砂はいよいよ眉間に皺を寄せ凶悪な顔つきになる。
「悪い。お前の妹の例もあるから一応と思ってな。国に殺されるなんて台詞がお前の口から出るとは……まあ俺だって親を国に殺されたようなもんだが……。まあいい、詳しくは聞かん。お前がよく分からん辛い目に遭って、一人で馬鹿みたいに荒れたんだってことだけ知れば充分だ」
 言っても言わなくても結局貶されるんじゃないか。紅砂はずきずきと鳴るこめかみを押さえる。
「黄月。頭が割れる。何か効くもん出してくれ」
「そんな都合の良いものがあるか。きちんと朝起きて腹八分目まで食べて昼に体を動かして風呂に入って夜眠る。十日も続けて治らないんならもう一度言え」
 ぶっきらぼうに言いながらも、黄月は衝立の向こうから蒲団を抱えてきてその場に敷いた。「ほら。つべこべ言う間があったらとっとと横になれ」
 紅砂は睨むように蒲団を見つめ、のろのろと膝で歩いてごろり横たわった。呻き声。少し動いただけでも頭の中の鉛玉が転がってがんがんと頭蓋を響かせる。
「早く調子を取り戻せ。お前はこの家じゃ手の掛からない方なんだから」
 手の掛からない方、と口の中で呟いて、紅砂は黄月に目を向ける。
「俺はそう見えてたか」
「実際そうだろう。誰に義理立てしてるのかってくらいの真面目一辺倒、堅物の手本みたいな奴だ。容貌が珍しいのと、妹を偏愛してるので、ちょうど釣り合いが取れている」
 そして黄月は紅砂の髪をぐいとひと房掴み、「元の色もそう変わらんな。余程面白い色かと思えば」と放り投げるように離した。
「人の体を面白がるな」
「目と同じように青いのかと期待したんだ」
「妙な期待もするな」
 顔をしかめたところでまた頭痛に襲われ頭に爪を立てる。
「無理するな。早いとこ良くならないと、妹に悪い虫が付いても知らないぞ。それとも自分が女にのめり込んだから宗旨替えか」
 無理させてるのはどこの誰だ、と言えばまた話が長くなる。「宗旨替え?」と呟くに留めた。
「一生嫁がせないつもりかと思ってたが」
「嫁がせないも何も、あいつが誰も会わせに来ないんだ。許すも許さんも無い」
「妹に手を出すなだか近付くなだか言われた気がしたのは、俺の空耳だったか」
「いつの話だ」
 話していると具合が悪くなる気がする。紅砂は頭を抱えたまま黄月の見えない方に体を向けた。後ろで立ち上がる音がする。
「闇雲に蹴散らすつもりでないのなら良い。そのうち誰か連れてくるかもしれないぞ。何しろ暁があいつの年の頃にはもう睦月がいたんだからな」
「闇雲に認めると言った覚えも無い」
「分かったから早くその悪相を治せ。そんな悪人面の妹と知ったらどんな見込みある男でも逃げ帰る」
 黄月は最後の最後まで悪態をついて部屋を去った。紅砂の頭痛はますます酷くなり、夕餉も取れずにのたうち回る羽目となった。



 紅花は帳面に目を落とし、ある日から日付の右肩に付け始めた印を数える。何度数えても同じ数だ。きっと明日になってももう一つ印が増えるだけ。
 ぱたんと帳面を閉じて内廊下を歩く。ちらと見た襖の内、浬の部屋はがらんとしていた。端まで行ったところで振り返り、同じ板の上を戻る。
 暁の部屋からは楽しげな声が流れ出ていた。自分の部屋を通り過ぎて覗き見る。
 茶太郎と遊ぶ睦月が顔を上げた。「たーたん!」満面の笑みでよいしょと手を付き立ち上がり、とことこ歩いて紅花の足にしがみ付く。迷惑そうに腹を撫でさせていた茶太郎は、ぐるりと体を起こし、尻尾を優雅に立てて部屋を出ていく。
 暁のことも紅花のことも、たーたん、である。見分けは付いているので、本人にとっては違う呼び方なのだろうが、今はまだどう違うのか分からない。
「ちゃたろ出てっちゃったねぇ」
「ん」
 まだ言葉の泉を溜めている最中なのか、自発的な話をするにはまだまだ早い。ご無沙汰しております、だなんて冗談にも程がある。暁が筆を置いて振り向き、「具合はどう」と眉を上げる。
 紅花は睦月の頭を撫でて暁の隣に腰掛けた。
「まあまあ」
「随分と長引くね」
「うん……それより睦っちゃん動くようになったね。日に日に逞しくなってる気がする」
 話し始めた「たーたん」二人に構われ足りないと言うように、睦月は二人の間に割り込み、紅花の腕を引っ張る。慌てて暁が腕を差し出した。
「睦っちゃん、駄ー目。たーたんは具合が良くないから。痛い痛いの。こっちおいで」
「たーたん、たーい、った?」
「そう。たーたんは大丈夫だから。睦っちゃんが乗っかってもびくともしないから」
 暁まで「たーたん」を自称し他称するものだから、もう訳が分からない。暁の膝に収まった睦月に笑いかけて、紅花は暁に視線を合わせる。
「睦っちゃんがお腹に入ったって気付いたのっていつくらいだっけ」
「えー……いつだっけ。夏の終わりか秋口だったかな、蝉がうるさかった。それまでにも悪阻はずっとあったんだけど、この子のせいって全然分からなくて。最初に浬が気付いたの」
「浬が……あ、そうだっけ」
「うん。で、黄月が里さんを呼んでくれて。後で怒られた。月のものが止まった時点で分かったはずなのにって」
 睦月に大人の会話は退屈らしく、暁の髪や着物の柄を引っ張っては暁に止められている。
「懐かしいな。でもどうして」
「ううん、別に。睦っちゃんはどう、たーたんのお腹の中のこと覚えてる」
「んー?」
 睦月は問われたことを解したか否か、はにかみ顔のまま右に左に頭を傾け、仰向けのまま暁の体にしなだれかかるようにして甘えてみせる。紅花は笑う。可愛い。なんて可愛いんだろう。
 ふと外を見ると空が赤らみ始めている。日が落ちるのは最近ではぎょっとするほど早い。
「ご飯作んなきゃね」
「無理しないでね。片付けたら私も行くから」
 労る声に重ねて睦月の声。西の縁側に出た紅花は笑って手を振り、ちらと振り向きかけたところで、ここからは彼の部屋は見えないのだと気付いて踵を返した。



 次に見掛けたとき、浬は机に向かって何やら忙しそうに筆を進めていた。帳面にもう二つ印が増えた、珍しく家の面々のほとんどが外へ出ている日の昼前のことだった。
 紅花の足音が聞こえたはずなのに振り向きもしない。紅花は小柄な彼の背中を見つめて待つ。目を部屋のあちこちに向ける。きちんと片付いた部屋。相変わらずその隅には、押し付けられたらしきあれこれが固めて置かれているが。
 彼に視線を戻す。途中何事か考えながらも、硯に穂先を戻す間を挟んで淀みなく手が動いていく。
「浬」
「うん」
 思いのほか反応は早かった。だが彼の右手の動きは止まる素振りも無い。また穂先が硯に向かう。
「今忙しい。忙しいんなら後にするけど」
「大丈夫だよ。何」
「うん……」背中しか見えない浬に向かって、「話したいことがあるんだけど」
 浬の手はまた次の行に移って滑らかに進む。
「いいよ。どうぞ」
「浬」
「ん」
「浬ってば」
「聞こえてるよ。何」
「ちゃんと聞いてよ」
 もう隠しようのない棘。紅花の声はどんどん大きくなっていく。浬の苦笑。
「聞こえてるよ。同じ部屋にいるんだから」
「聞こえるかどうかじゃないわよ。聞くって態度じゃないじゃない。手も止めない、顔も合わせない、そんな人に何話せっていうの」
 どうして今日に限ってこうなのだろう。いつも慮ってくれていた彼がこちらを軽んじる、自分は駄々っ子のように感情をさらけ出す。何もかもが情けなくて涙が滲む。どうかしている。
 わざとらしいくらい大きな溜息が聞こえた。浬がゆっくりと筆を置き、紅花に向き直る。
「何」
 口調も表情も穏やかだ、なのにその向こうに苛立ちが透けて見える。
 紅花は浅く息を繰り返す。ひと息ごとに、これまで思っても言えなかった言葉が、胸に仕舞ったはずの不満が、肌から漏れ出していくようだった。
「話したいことがあるんじゃなかったの」
 彼女がひとたび横に首を振れば、今にも背を向けようとする声だった。
 外から足音が近付いてくる。浬が顔を上げる。
「紅花。大声上げてどやぁした」
 そこで初めて紅花も振り向いた。向けた眼差しの強さに、兄は目を見開いた。
「ちょうど良かった。いい機会だから一緒に聞いてて」
 兄に放った言葉には訛りも混ざらなかった。浬に向き直る。姿勢を正して、彼だけに視線を向けて、口を開く。
「あのね、ややができたかもしんないの」
 驚かれると思っていた。目を剥くなり、声を上げるなり、おろおろするなり。予想に反して部屋は静かなものだった。浬は眉をひそめただけで言葉を放った。
「……誰に?」
 かっと腹の底が熱くなる。
「あたしに決まってるでしょ! なんで暁とか他の人とか……っ、そういう人のことを、わざわざあんたに、こんな改まって言いに来ると思うのよ!」
「待って、ちょっと落ち着いて」
「落ち着いてるわよ! なんでいつもそうやって、何でもかんでもあたしのせいにすんのよ。あたしはちゃんと話そうとしてるのに、全然聞く気なんか無くって、それで怒ったらあたしが悪いの。そんなすぐむきになるなんて幼稚だって言うの」
「なんでそうなるんだよ。待ってって。ちゃんと聞くから、最初からきちんと」
「おい」
 違う声が紛れ込んだ。絡んだ二人の会話を容易く止めてしまえる低い声。
 浬が唇を結ぶ。紅花がそろりと振り返る。
 妹に言われるがまま腰を下ろそうとした、その姿勢で固まっていた紅砂が、背すじを伸ばして二人を見下ろしていた。今の今までそこにあった熱気が、周りも後先も見えない怒りが、さっと散っていく。
「浬。何だ今のは。うちの妹は頭でも打ったのか」
 妹の正気を案ずる声だった。思いがけぬ穏やかさだ。
 浬は二三瞬き、息を整えて、場を和ませるように小さく笑った。
「今すぐには何とも……。まずは里さんに診てもらわないと、詳しいことは」
 その瞬間だった。
 紅砂の腕がひゅっと伸び、浬の襟首を掴み上げると、横っ面を殴り飛ばした。
 紅花の悲鳴。
 嘘のように軽々と、浬の体が飛んで、縁側に叩き付けられ、それでも止まり切らず、土の上に転がった。
 紅花はそろりと目を開ける。呻き声すら聞こえない。浬。
「浬……」
 唇が強ばっている。思わず立ち上がろうとした。駆け寄ろうと。なのにその腕を取る者がいる。振り払うことのできない手が。
 抗うこともできず、引きずられるように部屋を離れる。嫌だと首を振りながら。彼が倒れているはずの場所が見えなくなる。
「紅砂。離して」
 自分を連れて行く、その手に表情は無い。強く掴んだまま、振り返ろうともしない。紅砂の部屋に入る。
「やめて!」
 力任せに腕を引いて、ようやく手が離れた。紅砂が足を止めて振り返る。
「なぁてあや殴り飛ばしたん。酷い」
 手首にはくっきりと痕が残っていた。さすりながらきっと視線を上げ、そして気付く。紅花に注がれていた視線は、紅花のものよりずっと冷たかった。ここ最近健やかさと朗らかさを取り戻しつつあった彼の顔に、深く刻まれた険。
「もう一度だけ訊く。さっきのは出放題やなぁが」
「……、分からぁわ。浬も言うとうたがや、里さんに診てもらわぁとて」ぶっきらぼうに言うはずが、視線の冷たさに怖気づき小声で付け足す。「……馬は、来とらぁ」
 帳面に付けている印はもうふた月目を数えていた。
「……、……そんで、そん相手はあいつか」
 紅花は答えなかった。言わずとも、頷いたのと同じだった。
「針葉と暁んときんごと、俺だけ知らぁだわけじゃなかろうな」
 沈黙。いつしか兄に視線を合わせることができなくなっていた。
 息の音。嘆くような、怒るような、呆れるような。暁との口論を止めに来たときと似ているが、それよりずっと深いところから溢れ出た音。
「なぁてこんなるまで言わぁだ」
「言えんわ。言える思うが。こやぁなるて分かっとうて、誰ん言える」押し込められてきた憤懣が堰を切る。「あたしが誰ん好いても怒ろうが。殴ろうが。どやぁ手使うても引き離そうが」
「花」
 紅砂はゆっくりと彼女の名を呼んだ。浬がそうするように。どれだけ熱くなって、どれだけ言葉を畳み掛けても、静かな声が彼女の息を止める。
「俺がいつ、そやぁ言うた」
「いつ、て」
「お前のこまい頃は悪い虫のつかんやぁした。まだ親の恋しい年頃にこやぁ男だらけんところで暮らさんならぁで、親代わりが俺の役目じゃ思うてそうした。やで一生嫁ぐなちゃあ言うたか。一生子を持つなて? 誰ん言わぁこと勝手ん思い込んで、俺にもこん家ん誰にも黙とうたじゃろ」
 恐る恐る、兄に視線を合わせる。彼の顔を支配しているのは、怒りでも呆れでもなく哀しみだった。
 自分と同じ色の目。はっと当たり前のことを思い出す。この人は兄で、たった一人の肉親だ。この世で誰よりも近しい人だった。
「俺はお前が幸せんなるようにて、それだけ思うてきた。花、幸せか? 誰にも知られんようこそこそして、嬉しかろが心細かろが何でん話せんで、幸せやったか?」
 喉が涸れて声にならない。
「そこに胡坐かいて諭しょうもせん、そや男と一緒で、お前は幸せやったか」
 浬との関わりが始まったあの夜へと心が突き飛ばされる。あの夜。暁の人別帳の一件で駆け回って、互いを労い合った夜。
 浬。あんた、紅砂に勝てる?
 自分は確かにそう言った。浬は頷いた。身の回りに築かれた見えない柵、その向こうから手を差し伸べてくれる人が現れたことが、嬉しくて、体中がくすぐったくて、声を殺して笑い転げた。
 結局彼は戦おうとはしなかった。今の今まで紅砂と対峙することはなかった。それは自分が暗に恐れていたからかもしれない。浬自身が面倒な一切を見ずに付き合い続けたかったのかもしれない。もう、今となっては分からない。
「……間地ん行ってくる。体落ち着けとけ」
 紅砂が出て行った部屋で紅花は畳を見つめる。
 結局分からないままだった。兄に知られることを躊躇した紅花の意を汲んで、誰にも知られぬ間柄を築いた。何度目の夜であっても紅花から言い出すまでは手を出さなかった。それはあの人の優しさだったのか、勘定高さだったのか。
 多分、どちらとも取れる曖昧なところにいた、それこそが彼のずるさなのだ。
 浬の部屋に足を向けたが書き物の道具が転がっているだけだった。まさか喪神しているのか、と眉を寄せたところで水音に気付く。井戸の傍に、顔を洗う彼の姿があった。
「浬。大丈夫」
 浬は鼻を覆ったまま紅花に振り向いた。顎から水の粒が滴っている。
「あ、待って」手拭いを取って彼の元へ戻る。「止まらない?」
 浬は手拭いを受け取って首を振った。「どうってことない」
「そんなわけないじゃない」
 返事は無かった。浬は手拭い越しに鼻頭をつまむ。ぼんやりと赤く染まっていくのが、手で隠していても分かる。さっきから右横顔しか見えないのは、きっと紅砂が右利きだからだ。
「ごめんね」
「どうして謝るの」
 彼の笑みがいつになくぶっきらぼうに感じられて、紅花は口の中を噛んだような痛みに目を閉じる。
「……まさか、いきなり手を上げるなんて」
「いきなり、は紅花ちゃんだろ。順序を考えてやらないと、紅砂だって平手張られたようなもんだよ」
「ごめん」
 浬が紅花の言葉を手で制した。
「いつかこういう日は来たよ。さっきのはまあ、驚かせすぎだったけど、どんな手を尽くしても拳は飛んできた。紅砂が君にどう言ったかは知らないけどね。儀式みたいなもんだ。……その覚悟が無きゃ手を出したりしないよ。だから大丈夫。どうってことない」
 紅花は視線を上げる。そして知る、素っ気なく感じた彼の声も態度もいつもと何ら変わらない。
 揺らいでいた水面がすっと凪ぐのを感じた。色々なことを思ったはずなのに、いくつも不満をぶつけたかったはずなのに、彼の思惑は今の言葉の他にも確かにあったはずなのに、結局何もかも許してしまう。この安心の前にはどうでも良くなる。あたしは馬鹿だ。
 諌めるような視線が彼女に落ちる。
「紅花ちゃんこそ。……体は」
 小さく頷く。
 その時だった。
 腹に一瞬鈍い痛みが走る。あ。懐かしい痛み。
 それはまるで用を終えたと言わんばかり、せき止められていたものが動き出すようだった。痛みはまた腹を内側から抓り上げ、紅花は顔をしかめてしゃがみ込む。これは。これは、まさか。これだけ大ごとにしておきながら、そんな。
「紅花ちゃん?」強ばった浬の声。「どうした、気分悪い?」
 紅花は首を振る。これは……きっと。
「あっ、ほら、大丈夫だよ。来てくれた」
 ぞっと背筋が凍った。恐る恐る顔を上げる。兄に連れられた里が、今まさに坂を終えたところだった。