針葉は視線を宙に彷徨わせる。 「お前を避けてたあの数日は……綱渡りでもしてるみたいだったな。端っこに」目の脇に拳を置き、「嫌なもんが見えてる。けどどうにか反対の方ばっかり目をやって、見まいとしてる。見えてることに気付くまいとしてる」 暁はどうにか自分の身に置き換えようと試みる。視線を一定の場所に保ち続けるのは思いのほか疲れる作業だった。針葉はふっと笑って手を下ろした。 「本当は見えてたんだ。だから、お前みたいに丸っきり忘れてたわけじゃない。思い出したくもなくて目ぇつむってるうちに、本当か嘘か分からんようになってた」 「昔の、話?」 針葉はこくりと頷き、目を伏せた。 「俺がここに連れて来られるまで……まだ母親と暮らしてたときのことだ」 暁は目を見開く。母親。 初め、暁は針葉が前の長の息子だと思っていた。いつかの花見のときにそれが誤解と知ってからも、彼に、この家の外に親兄弟がいると思ったことはなかった。彼の周りに見えるのは横の繋がりばかりで、彼の出自を考えたことはなかった。 針葉が顔を上げる。 俺がここに来たのはもう十五年か、そんくらい前だ。今はこんだけ賑やかになったが、そんときはただのあばら家だった。知ってると思うが、ここに来た餓鬼は俺が最初だ。長は相棒と何でも屋、というか銭稼ぐためなら何でもする、が正しいかな。とにかくそんなもんをやって色んな国を回ってて、俺と会ったときにはその相棒は死んだっつってた。 長に拾われるまで俺が住んでたのは……前にも言ったとおり、どこかまでは知らん。年が明ける前から雪が積もる寒いとこだったのは覚えてる。だから多分、この辺りじゃない。ちょうど間地みたいなごみごみした下町に狭い長屋がずらっと並んでて、その一番端っこだった。あの時でさえ窮屈に感じたから、今見たらもっと酷いんだろうな。この部屋。多分、この部屋より狭かったと思う。 父親はいなかった。俺が腹に入ったときから帰って来ないって、これは母親から何度も聞かされたことだ。自分がどんだけ苦労して俺を育てたかっていつもうるさかった。俺は、母親が父親を嫌ってるもんだと思ってた。 いつからかは覚えてないけど、俺は毎日ほとんど戸の近くにいた。その周りだけくっきりしてる。砂が詰まってた敷居とか、黴が生えて腐りかけてた柱とか、虫の通り穴とか。母親は俺が何やっても怒鳴ったし、……家の中には、いたくなかった。 母親は体を売って俺を育てていた。 それ以外に働き口があったのか知らない。俺が知ってる母親は、日中はずっと外にいて、夜になったら白粉臭い体で男連れて帰ってくる女だ。母親が帰ってきたら俺は家の外に出された。自分で出たのかもしれん。覚えてない。 あれが何か知らなくたって、どこに住んでるのか分からんほどの餓鬼にだって、あの気持ち悪さだけは分かった。ほとんど毎晩違う男が家に出入りして、母親は媚びた声でしな作って、……喘ぎ声上げて、……あんなもん、見たくもない、聞きたくもない。ずっと戸の外で耳塞いで、母親に呼ばれるのを待った。 厭でたまらなかった。でもお前のためだと言われた。お前に飯を食わせるためにこうするしかないんだと。六つや七つの餓鬼に言い返せると思うか。物心ついた頃からずっとそうだったから、訳の分からん気持ち悪さはあっても、何がおかしいのかなんて言葉にできなかった。 長に会ったのは逃げ出す少し前の夏だ。暑い盛りに祭りがあって、夕刻には俺は外に出てた。地面を影が横切ってくんだ。大きいのから小さいのまでいくつもいくつも。普段貧乏暮らししてたって、餓鬼がいたら祭りにくらい連れてくだろ。夜まで外で待つのなんていつものことなのに、賑やかなとこに皆どんどん吸い寄せられて、本当に置き去りにされた気がして、無性に辛くなった。 誰も前を通らなくなって、宵花火が鳴って、ようやく祭りの場に向かった。母親が当分出てこないのは分かってた。一人で出歩くのは多分初めてだったと思う。提灯とか出店が並んで、美味そうな匂いがして、笛とか太鼓が鳴ってて、何も買えやしないけどそこにいるだけで楽しかった。 でもすぐに辛くなった。祭りに行く前よりもずっと。紛れ込んだつもりでもやっぱり俺は一人だった。周りにいる幸せそうな奴らに見付かったら……知られたら駄目だって、何でか知らんがそんなふうに思って、道から外れた。 ……そうだ、確かその後か、それとも前かな、俺より小さい餓鬼が親とはぐれてて、少しだけ手を引いてやったんだ。でもすぐに二親が見付かってそいつは駆けてった。そいつの親は赤子を抱いてた。……あれは堪えたな。絵に描いたみたいに幸せそうな親子が俺を見るんだ。笑い掛けてくる。おこぼれを寄越すみたいに。 あの祭りも、近くの社とはまるで関係無かった。そうだ、それもここの祭りと同じだな。社に続く石段は暗くて人っ気も無くて、そこを上ってたら爺さん、って呼ぶにゃちっとばかり若いくらいの男がいた。それが長だった。家に来る男に背格好が似てたんだ。ぶつけるつもりなんて無かったけど、なんか腹が立って石を放って、でもそれが当たっちまった。そん時は謝ってすぐ家に戻った。 それから少しして、何となく思い立った……思い立ったとしか言えない。家を追ん出されてるうちに、また社に向かった。運よく長に会えて、色んな話をした。長屋じゃ、次々に男連れ込む女とその餓鬼だっつって、二人ひっくるめて爪弾きだ。話のできる知り合いなんて初めてだった。多分俺は知ってる言葉も少なかったんだと思う。長にそう言われたのを覚えてる。 それから社に通い詰めだった。ひと月……くらいかな、そんくらいで発つって長が言うもんだから、ほとんど毎日貪るみたいに色々聞いて、聞いてもらって、夜が一番楽しみになった。 夜更け前には戻ってたから母親にはばれてないと思ってた。何か訊かれても白を切った。 でもあんまり蒸し暑い夜に目ぇ覚まして、……小便漏らすかと思ったよ。そこに母親がいた。すぐ傍でじっと俺を見てた。化けもんみたいに低い声で、言うんだよ。嘘吐き、どこに行ってたって、……お前もか、お前もあたしを捨てるのか……って。 ……首を絞められた。 男が起きてきたから助かったんだ。あの時。母親がすぐさま男の機嫌を取りに行って、俺は、助かった。 針葉が言葉を切る。暁は何も言えずにただ座っていた。 彼はいつか、祭りを苦手と言った。馬鹿騒ぎが好きなくせにと暁は疑ったのだ。「あちら側」へ行けない自分、華やぎ賑わう祭りの熱気の中で一人醒めている自分、彼のようなひとに理解されるはずも無いと。 喉が詰まる。何を言えばいいのだろう。こんな話を聞いて一体何を。 今聞かされた話は、今の彼が放つ印象とはあまりにもかけ離れている。 「お前もか」。針葉が母から言われたというその言葉は、あの忌まわしい夜、彼自身が暁に放った言葉だった。 では、あの後に続くはずだった言葉は。「お前も、俺を」。 目が合う。どうすればいい、逸らしたい、でも逸らしてはいけない。針葉は小さく首を振った。何も言うなと言うように。そしてまた口を開く。 「母親は父親を嫌っている、ずっとそう思ってた。怨み言ばっかり聞いてきた。だから父親が残した俺のことも嫌ってるんだろうと、だから怒鳴ってばかりだし、笑ってなんてくれないし、俺がいるからあんな稼ぎ方しかできなくて、重荷に過ぎないんだろうと。……でも違った」 黒い瞳がゆっくりと閉じて、また開く。 「母親は、はっきり言えば酷く執念深い女だった。何年経ってもずっと自分を捨てた男のことを待ってた。客取りの邪魔になる俺を疎んじても、決して死ぬような目には合わせなかった。殴られはしても、殺されると思ったのはあの一度きりだ。何言っても、手ぇ上げても、育てることだけは止めなかった。……俺が、父親に似てたからだ。どんどん父親似になっていくからだ」 「待って、どういう……」 思わず言葉を挟む。針葉の母が父を好いていた、それなら少しは救いのある話になるのかと思えば、彼の言葉のそこかしこから不穏なものが見え隠れする。 「母親は、自分をそうは呼ばせなかった。他の餓鬼が呼ぶみたいに、母ちゃんだの呼ぼうもんなら酷く殴られた」 黒い目が挑むように暁を真っ向から見つめる。「千耶」彼の口が、名を呼ぶ。 「……ちや」 「母親の名だ。母親は自分をそう呼ばせた。……俺がそう呼ぶと母親は笑った。いつも怒ってばかりなのが嘘みたいに、ふっと空に浮くみたいに、うっとりした顔で。あの人の呼び名は千耶。そういうもんだって信じ切ってたから、外で座ってるとき、お母ちゃんはいないのなんて訊かれても、しばらくは誰のことか分からなかった」 針葉は左腕をさする。この暑い日に、寒がってでもいるように。 「逃げたのは、首を絞められた次の日だ。日の高いうちから知らんところに連れて行かれて……路地をいくつも曲がった先の狭いとこだった。中には目つきの悪い奴らがいて、煙たかった。嫌な臭いがした。そこで腕を彫られた」 腕をさすっていた手が止まり、おもむろに肩を脱ぐ。腕。文身の彫られた腕。暁は目を見開く。かつて黒烏の蛟と見誤った、彼の腕。日の光の下ではっきりと見るのは初めてだった。 蠱毒。慣れぬ言葉が暁の脳裡に浮かぶ。線の連なりや紋様や生き物の絵が競い合うように秩序なく並んでいる。一つ一つは精緻なのに、何度針を入れたか、ほとんど肌色が見えないせいで禍々しく映るのだ。 「これ……まさか全部?」 「いや。大半は俺が入れた」針葉は厭なものでも見るようにちらと視線を移した。「見苦しいな。箍が外れたみたいになってな。……餓鬼の頃の文身なんて、伸びちまって不格好なもんだ。ここと、ここに残ってるのがそうかな」 針葉が指す紋様の合間合間に、うっすらと青黒いものが滲んでいる。 「鎖紋様だった。どうかしてるだろ。……針刺されてる間のことは、全く頭から飛んでるんだ。どうやってそこを逃げ出したのかも。気付いたら社に向かって走ってた。腕が痛くて、熱くて、ばらばらになりそうだった。汗が沁みるのも、袖の血が乾いて張り付くのも、とにかく痛くてな。長の姿が見えて、そこから先も頭から飛んでる。気付いたら負ぶわれてた。その時にはもう、俺の元の家から遠く離れてた」 暁はそっと手を伸ばし、躊躇い、針葉が頷くのを待って、滲みに触れた。かさついた感触。おぞましい紋様に彩られていても、内からは温もりが返ってくる。針葉は目を閉じる。それは温もりを噛み締めるようにも、未だ燻る痛みに耐えるようにも見えた。 「……それまで、長は俺を連れ帰るつもりなんか無かったはずだ。相棒を失くして無為に生きてるようなことを言ってたから、単なる慰みだったのかもしれない。黄月の父親が処刑される場に立ち会ったのも偶然だったし、紅花が迷い込んできたのも、紅砂が連れ戻しに来たのも偶然だ。この家は偶然の積み重ねで成り立ってる」 暁が指を離すと針葉は腕を袖に収めた。 「俺のこの名は、この家に来る途中に長が付けてくれたもんだ。母親が俺を呼んだ名は別にある」 どこかに、どこかに救いがあるはずだ。無くてはならない。どんなものであっても、名は子にかけた想いの現れだ。暁は目で次を促す。口元をどうにか緩ませる。懇願するような顔の彼女に、針葉は困ったように、詫びるように目を伏せた。 「俺の、父親の名だ」 どこかに救いが、 ――暁の表情が凍り付き、縋り付く場所を失くしたように、徐々に視線が落ちる。 「お前がそんな顔すんな。……なあ暁、俺はここに来るまでずっとそういう家で育った。父親はいなかったし母親は狂ってた。餓鬼なんか頓着せず女を買うような男がしょっちゅう出入りしてた。俺は当たり前の親子がどんなもんか知らん。人として根っこの部分が腐れてる。俺のやることも、だから、狂ってるんだろう」 そんなこと言わないで。 「生まれ育ちを言い訳にするわけじゃないが、立ち返る場所が無いってのは脆いんだ、と思う。お前を笑わせたい。でも俺は何が正しいのか分からん。お前が望むとおりのものには、多分、一生かかってもなれやしない」 そんなこと。生まれや育ちで人が決まってしまうなんて。 暁の頭の中に清らな言葉が浮かぶ。しかし実際のところ分からないのだ。どうなるのだろう。想像しえないものに取り囲まれて育ったら、そうしたら、人は、 ぞくり、背すじを走り抜けたものがあった。 知らないからこそ透明だった彼の生い立ちに、今は、うっすらと色が着いて見える。 みるみるうちに体の中が濁っていくのを感じた。喉の奥がざらついて息がうまく通らない。 声が聞こえる。これほど違うと思わなかったと。自分と、彼。あの可愛い子の中に二つ流れるもの。馬鹿な。私は、まだそんなことを。ここへ来たばかりの頃、訛りを隠しきれない黄月に対して感じたのと同じ。仮名しか満足に読み書きできない紅花に対して感じたのと同じ。 馬鹿な。 四角く切り取られた足場しか無い自分を、まだ何者かであると驕るか。 それはあの人と同じだ。 既に焼け果てた家を手に入れんとした兄。食糧が底をついても国を出ることを拒んだ兄。そして、本家の血を汲む妹を手に入れようとした。それはあるいは壬びと同士の結び付きに拘っていた五家の思想の極みだったのかもしれない。 私は違う、祈るように思う。 生まれは消せずとも、違う道を選んで生きてきた。何度も躓きながら、傷つき傷つけ歩いてきた。 そしてそれは、彼も同じはずだった。 綺麗事だろうか。 目を逸らしているだけなのだろうか。 本心は別のところにあるのに、反対側に目をやって、耳を塞いで、自分を騙しているのでは。疑る声。私の声。全て見えているくせに、全て聞こえているくせにと。きっとこの声は消えない。一生かかっても消えやしない。体中に響き続ける。知らずとも分かる。 だからこそ、祈りなのだ。 暁は針葉を見た。真っ向から視線を合わせ、生まれでも育ちでもなく、今そこにいる人を。 闘いの果てのように、籠った熱が腹の裏からすっと逃げていくのが分かった。 「でも――」 彼が口を開いたとき、土を踏む音が近付いてくるのが聞こえた。暁が先に視線を移し、針葉が続く。 「ただいま。……あ」 障子の間から顔を見せた浬は、針葉に目を留めてわずかに眉を上げた。暁はぎくりと綺麗なままの文机に目をやる。気付けばもう夕暮れ、浬の後ろに見える空は紫の雲に覆われ、地平から紅が差していた。浬は気にした様子も無く、縁側越しに背中の睦月を託すと玄関へ去った。 暁はそろりと睦月を横たえる。幼子はすうすうと寝入ったままだ。顔の両脇に置かれた小さな拳。ぷっくりと膨らんだ頬は染めたような紅色だった。 ふと視線を上げると、針葉も睦月に見入っている。伏せた目の、穏やかに注がれる先。何でもない今日の日の、何でもない長い夕暮れ。得難い光景にじんと胸が熱くなる。そうだ、生まれよりも育ちよりも、それよりもっと。 瞬きのたび彼の睫毛が揺れる。針葉は、自分と同じ色を持つ子供に視線を落としたまま口を開いた。 「暁。俺は、こいつが歩いたとき嬉しかったよ。お前が喜んでんの見て、もっと嬉しくなった。もうすぐ喋るようになるな。お前のことを一番に呼べばいいと思う。……さっき言ったみたいに俺はまともに育ってないから、きちんとした可愛がり方なんて分からん。それでもこいつの成長は嬉しい」 暁はゆっくりと頷きを返す。先回りの期待をせぬよう、彼の言葉だけを素直に、慎重に受け止める。 「それは多分、近所の餓鬼が誰にとっても可愛いってのと、お前が喜ぶからってのと、二つが合わさってるんだと思う」 頷く間も暁の視線は針葉から動かない。 「……暁、もし川で俺とこいつが溺れてたら、どっちに手ぇ伸ばす」 「そりゃあ……」躊躇いがちに笑う。「だって、針葉は自分で岸に辿り着くでしょう」 「溺れてるとしてだ。あのな、もしお前とこいつが溺れてたら、俺はお前に手を伸ばす。それが、俺とお前の違いだ。こいつは、今は俺にとっても失くしがたい。どんな男に育つか見ていきたいし、それまで護ってやりたい。でも、どうしてもお前の方が先なんだ」 暁はじっと前に座る人を見つめる。賞賛される答えではなくとも、これは彼の素直な気持ちで、今彼にしうる最大限の譲歩なのだろう。 目の前にいる人。荒んだ育ち方をした人。私の命を救った人。強くて弱い人。かつて共に夜を過ごした人、すやすやと眠る可愛い吾子の、父。 弛緩した手足に軽い痺れ。失望ではなく、ましてや憤慨でもない。濁っていたものが澄み、名付けがたい透明な感覚が体に満ちていく。 「いいよ」 針葉が顔を上げる。 今自分は泣きそうな顔をしているのだろう。驚きに見開かれた黒い目を前に、暁は思う。嬉しさとも悲しさとも違う、なのに何がここまで胸を締め付けるのだろう。 「それでいいよ。今は……。針葉が私を掴んで、私が睦月を掴んで、じゃあ、誰一人溺れない」 今日という日は終わり、明日になる。これは、何もかも移ろいゆく刻のわずかひと時のこと。今日が終わりではない。私たちは傷つき傷つけ変わりながら歩いてきたし、これからも歩いてゆける。 かそけき祈りは今、この胸を発った。 「それ、結局俺の抱えるもんが一番重いんだな」 暁は肩を竦め、針葉の苦笑いを軽くいなす。 そして障子の間から覗く朱色に目をやった。涼しい風が吹き込み、蝉の鳴き声も下火になっている。 「随分邪魔したな」 「ううん……」 暁は針葉に目を戻した。彼の指が頬に触れている。視線が絡む。 まるで言葉で聞いたように、その意図するところがすっと流れ込んできた。 目を閉じて、待った。 瞼の裏に映った影が消えて、そっと目を開ける。目が合うと小さく笑みがこぼれた。体を重ねようとまでしていながら、唇を重ねたのは実に二年ぶりだった。 「針葉。そろそろ私、紅花の手伝いに行くね」 「ああ」腰を上げかけた針葉がふと顔を変え、おもむろに暁の手を取った。膝立ちのまま暁が振り向く。 「何」 「もう一つ訊かなきゃならんことがあった」 針葉はそう言ったきり口を閉ざした。じっと目を逸らさずに、しかし声は無く、感触を確かめるように暁の手をまさぐる。繋いでいるのは手だけ、なのに裸に剥かれたように気恥ずかしく、暁は思わず目を逸らす。 「な……何」 「暁。お前、こいつを産むとき、斎木の爺のとこにいたんだってな」 「うん……?」 針葉の目が今までになく優しく見えた、気がして暁は目を瞠った。しかし手を放すと同時に彼は目を伏せてしまう。幼子の頬にそっと触れる、大きな手の甲。嘘のように穏やかな彼の手。 「こいつの名は睦月だったな。多分、生まれがそうなんだな」 「そう、だけど」 体の底からじわじわと上がってくる、熱。瞬きすら忘れて、針葉が顔を上げるのをじっと見ていた。 「俺が会った産み月の女は、お前か」 胸が詰まった。 唇が震えた。 暁は声にできず目で頷く。口を押さえて、もう一度大きく頷く。 「なんて顔してんだ」 「だって……」 ずっと心残りだったこと。後から取り戻せない幸せが、甘やかなときが、無為に散ってしまうこと。 針葉は覚えているだろうか、あのとき暁の腹に触れたことを。そのすぐ向こうで、待ちかねた睦月がやんちゃにぐるぐる暴れていたことを、あの手は思い出すだろうか。 いつか、空白の一年間を埋めるものとして、幸せと共に蘇る日が来ればいい。 間抜けな一匹が部屋に迷い込んだらしい。突如蝉の声がうるさく響き渡って、二人顔を見合わせ、不機嫌そうに目を覚ました睦月を慌ててあやしにかかった。 戻 扉 進 |