蝉の声が耳障りだ。 筆を早々に仕舞い、暁は昼下がりの部屋で一人、団扇を煽ぎながら手元の早売りに目を落とす。もうひと月ほど前、ちょうど睦月が歩き始めた頃に針葉が買ってきたものだ。全員の目と耳を通って、最後は暁のもとにある。 紙面の大半を占めるのは異人騒動の話題だった。とはいえ下世話な脚色や憶測が多分に加えられて読むに堪えない。だから暁は紙を四半分に追って左下の小さな囲みだけが見えるようにしていた。壬割譲についての記事だ。 菅谷領と津山領の談義が大詰めに入った。菅谷は飛鳥の、津山は津ヶ浜の領地となることで概ね合意の見通し。上松領同様、自治区化を条件に付すものとみられる。 針葉の声が蘇る、豊川の領地は丸々周りに持ってかれそうだって―― それはそうだ。豊川には暁のいた本家と、分家が一つだけ。母は大火より前に病で亡くなり、父は大火で、不具だった兄は烏によれば逃げ延びた先で病死した。そして分家の者ももういない。 一人残った暁が談義に出ないのだから、何も進むはずがないのだ。それどころか生きていることさえ烏以外は誰も知らない。壬の存続を重んじる烏たちなら適当な女を代理に擁しそうなものだが、針葉の話が正しければそうでもないらしい。 浬は言った、針葉が団子屋の黒烏であるひよを始末したと。それ以降、暁には何の接触も無い。見張りは付いているのかもしれないが、それを感じることも無かった。 このまま何事も無く暮らせということだろうか。東雲に出自を持つ坡城の女として、字書きの生業を持つ者として、幼子の母として、豊川とは無縁の暮らしを送れば良いと。 ふっと息を吐いて紙から目を離した。考えても詮無いことだった。 足音がして暁は縁側を見る。針葉だった。 「お。久しぶりだな」 「朝餉の席でも一緒だったように思うけど」 「お前がここにいんのがだよ」 言いつつ針葉は手に持ったものを暁に差し出す。早売りだ。暁は団扇を文机に置き、今まで持っていた早売りを差し出す。 「それ、ひと月前の。異人騒動が片付いて、和解の注文が少し落ち着いたの」 「そんなら良かったじゃねぇか。お前働き詰めだっただろ」 「良くないよ。これからもっと銭がかかるようになるのに」 完全に注文が途切れたわけではないので、収支はしばらくは黒字だ。最近は和解作りに加えて黄月の依頼を色々と受けているが、今後は先日のように、小間物屋での仕事も回してもらわなければならないかもしれない。 暁は早売りを広げて目を落とす。前回の書き手とは別か、全体的に絵が少なく堅い書きぶりとなっている。二つ目の記事を読み進めて暁は思わず息を止めた。 菅谷家は飛鳥との談義が完全合意に至らず、約定を交わす前に飛鳥が実効支配を強化。今後も談義は継続するが、発言権の差は歴然としており、菅谷家が一方的に飛鳥の要求を呑むかたちになるものとみられる。菅谷領の壬びとは飛鳥に対する反発が強い傾向にあり、今後の衝突は必至か。一方の津山家はこれまでより関係の深かった津ヶ浜に友好的併合。残る豊川家及び江田家の今後の動向が注視される。 読み終えてもしばらくは目が紙面を彷徨っていた。国統である菅谷家が、建国三士の長兄たる家が落ちた。初めから飛鳥に加担していた上松家の喪失とは訳が違う。血の気の引く音が聞こえるようだった。 壬が削り取られていく。 「壬の記事が載ってるって聞いたから買ってきたんだが」 「あ……うん。有難う」 「その顔見ると、あんまり喜べた中身じゃなさそうだな」 暁は口を結んだまま早売りを畳んで針葉に返す。心配を振り払おうとするように笑みを貼り付けて。針葉は受け取ってもその場を動かない。 「何」 暁が笑う。針葉は鼻頭に皺を寄せてその場に腰を下ろした。暁は気圧されたように胸をかすかに逸らせて体を離す。 「思い詰めんなよ」 「思い詰めてないよ。何、いきなり」 笑い飛ばしたつもりだったが、針葉は表情を緩めもせず大きく首を振る。 「何でもいいから言えよ。言ってくれよ。自分一人で何でも抱え込むな。何だ。仕事が減って苦しいのか。あんだけ働いてもまだ足りんのか。それとも壬のことか。お前は何が気懸かりで、何をどうしたいんだ」 針葉の真剣な目。睦月と同じ黒い双眸に捉えられ、動けなくなる。暁は咄嗟に顔を逸らしてその目から逃れようとする。 背後から腕が伸びて、あ、と思うより早く抱き寄せられる。薄い布越しに伝わるじっとりとした熱。信じられぬ思いで視線を落とす。自分の体を易々とひと回りする、日に灼けた大きな腕。 「放して」 返事は無い。 「離れて!」 叩き付けるような言葉に、呆気なく腕は解けた。暁は彼から離れたほうへいざり、きっと強い視線を返す。 針葉は何の弁解もせず、静かな眼差しで暁を見つめていた。 「二年前のことは、今でも悔やんでる」 二年前。睦月がこの腹に宿った年。 不穏なものを感じて身構えるが、針葉の口から出たのは思いがけない言葉だった。 「二年前。お前が自分から話をしに来たとき、きちんと聞いてやれれば良かった。お前があんなに自分のこと話そうとすんのは、後にも先にもあの一度っきりだったな。あの時……俺にはまるで余裕が無くて、話も遮ってばかりで、挙げ句の果てに」 蝉の声。 「お前の首を、絞めて」 しゃわしゃわとうるさかったそれが、突然聞こえなくなる。 暁はぽかんと彼を見つめる。何の話をしていたのだったか。一体何の。 「なに……を、いっているの」 針葉は何故こんな辛そうな顔をするのだろう。痛々しいものを見るような。 つっと汗が滑り落ちて背すじを震わせる。 「お前の首を絞めた。殺そうとしたわけじゃない、でも、そうなるかもしれなかった。それを分かってて俺はやった。赦してくれなんて言えない。赦されるはずもない。でもこれだけは分かってくれ。あのことは、悔やんでも悔やみきれない。本当に……悪かった」 いつまでこの茶番は続くのだろう。先が見えず、心にぐにゃぐにゃと気味の悪い蔦が絡んでいくようだ。眠気、眠気が忍び寄る、耳の傍で語りかける、見てはならぬ、聞いてはならぬ、これ以上は、もう。 「何のことか、私には……」 「忘れたか」 針葉の目はいつになく穏やかで、少し悲しげだ。 「そうだろうな。お前も俺と同じだ。忘れて無かったことにしようとする。それがお前にとっては楽で、お前が生きていくためには必要なのかもしれない。でも俺は覚えてる」 針葉の口は止まらない。言ってはならないのに、聞いてはならないのに。暁がゆっくりと首を振る。 「あの夜、俺は間違いなくお前を手にかけた。乗り込んできた紅砂に引き剥がされて、ようやく我に返った。あいつが来なかったら……どうなってたか分からん」 どうして。 暁の顔がぐしゃりと歪む。 「どうしてそんなこと……言うの」 忘れていたのに。 やっとの思いで奥の奥へ押し込めて蓋をして見ないふりをして、そこにそれがあることすら、忘れたのに。 暁は顔を覆ってうつむいた。 この人になら打ち明けられる、自分の罪も弱みもさらけ出そう、そう思った矢先にあれほどの殺意を向けられた。今まで何度となく命を救ってくれた人に生きることを否定された。だからいつか紅花に語ったように、「自分が何か酷いことを言って彼が怒った」と最低限の符号だけを残して、全てを靄の向こうへ隠した。それ以上のことは何も無かったのだと。忘れたことすら記憶から遠ざけた。 針葉は目を逸らさない。 「こんなもん、黙ってたほうがお互い楽だ。お前は辛さから目を逸らせるし俺は自分の汚さを見ずに済む。自分一人が生きていく分には何もかも都合が良い。でも、俺はお前と生きていきたい。だから言うんだ。お前の記憶の穴に胡座をかけない」 暁は二重にぼやける畳を見つめて浅く息を繰り返す。まだ頭は霧の中を抜けきっていない、だが今、自分がとても大切なことを言われていることは分かる。何ということない一日だったはずなのに、いつもに増して日差しが強く、蝉の声がいやにうるさいだけの。 胡坐の腿に置かれていた針葉の手が前に乗り出して暁に迫る。 「なあ暁、全部話せ。前に言おうとしてたことも、そうでないことも全部。きちんと聞く。どんな話が飛び出そうが驚かん。お前が何言おうが、絶対にお前を責めない」 「言おうとしてたことなんて……ほとんど前に話したでしょう。それ以上、何も」 「お前が話したこと? 何だ、川嫌いのお前が用心棒に俺を使って、俺が勝手にそれを誤解した? 俺は駄目男だっつって紅花に反対されたけど、お前にとっちゃそれが好都合だった?」 暁はぐっと言葉に詰まる。あの夜、やっとの思いで繋いだ言葉は、彼にかかればほんのひと呼吸だ。悔しいのは、それが暁の話とそう大差ないことだった。 「でもそっから先はちゃんと聞いてない。俺のことなんてどうとも思ってなかったお前が、何を知りたくて俺に近付いたか」 暁は押し殺した表情で畳を見つめている。その唇の動く気配は無い。これでは埒が明かないと、針葉は息を整える。いよいよ踏み出すときが来たのだ。 「暁。……それってもしかすると壬の大火の、俺らに会う前の何日間かのことか」 細い肩が、びくりと震えた。針葉はごくりと唾を呑み込む。 それは披露目の前の夜、織楽が言ったことだった。思い過ごしかもしれないと、そうであれば良いと言い置いて。 今の反応は、当たりだ。苦いものを感じて瞑目する。どうして奴なのだ。どうして俺に分かってやれないことが、奴に。 暁が顔を上げる。戸惑ったように口に手を当て、泣きそうに顔を歪め、目はまだどこぞを彷徨っている。針葉は拳を握り締めた。 「暁。俺も、お前に話さなきゃならんことがある」 はっと茶色い目の焦点が彼に合った。 「ずっと触れんようにしてたことだ。誰にも話さなかった。でもお前には知っといてもらいたい。お前の子供とのこれからを考えるうえで。……だからまず、お前の話を聞きたい」 まず暁の視線が落ち、続いて口を覆っていた手が外れた。長すぎる沈黙。 そして次に暁と視線が合ったとき、彼女の目はもう揺らがなかった。それは針葉が惹かれたあの目だった。初めて会ったあの日から四年が経って、荒々しい殺気の削ぎ落とされた、凛とした眼差し。 「私は壬は豊川領の、比較的良い階層の家に産まれました」 針葉はゆっくりと頷く。「だろうな。そういう話し方とか、妙に学のあるとことか、妙に気位の高いとことか」 暁も小さく頷き続ける。 本家の他に分家もあるような家だった。私は本家の長女で、母は昔に亡くなった。それ以外のことは、嘘だと思うかもしれないけれど、何も知らなかった。私は箱入りで、本当に無知なまま、別の家へ嫁ぐために育てられた。 大火の日、私は豊川領の家にいた。目を覚ましたら辺りが煙の臭いで満ちていて、寒いのに熱くて、部屋にはもう、私の世話をしてくれていた人もいなかった。訳も分からず逃げて、何度も遠回りしながら、家の者の避難地として教えられていた閑ノ地へ向かった。無事にそこまで辿り着けたのは、私が父から離れた場所で育てられたからだと思う。途中で見た本邸はほとんど焼け落ちていたから。 そこで兄に……兄と名乗る人に初めて会った。本邸にいた父は火で亡くなったと、今から自分が父代わりだと言われ、周りが少し落ち着くのを待って豊川領を出た。閑ノ地の蔵には食糧もあって、数日なら暮らせただろうけれど、その夜には家の敷地で泥棒らしい人影を見たから。何かあれば菅谷領か上松領の知り合いの家を頼るようにと、それは兄も私も教えられていたことで、兄が選んだのは北の上松領だった。道で会う人も、聞く話も、何もかもが混乱していたけれど、実際菅谷や豊川、江田といった南東域の領主町ほど火が酷かったみたいだね。 嫌なものをたくさん見て、通り過ぎた。上松領に入ったのは針葉たちに会う二、三日前で、その知り合いの家に辿り着いたのが前日だった。 上松領は豊川と比べると綺麗なものだったね。焼けていたのは領主町の付近だけだった。知り合いの家も、焼け跡はあっても建物はちゃんとして見えた。でも中はもぬけの殻だった。 家の中をどれだけ探しても生きた人の姿が無くて、周りの家も瓦礫と死骸だけで人けが無くて、街そのものが死んだみたいだった。一縷の望みを絶たれて途方に暮れた。蔵から持ち出した食糧も底を尽いていた。 兄に、国を出ようと言ったの。家の名など無くていいから、何でもいいから助けを求めようと。 私たちは窓際にいて、格子窓から遠くが見えたのを覚えている。檻の中にいるみたいに。外はまだ明るいのに、空は白く濁っていた。兄は私の言ったことが気に障ったみたいだった。あの人は壬に、とても拘っていた。 口論になって……突き飛ばされて、頭をぶつけて……日が眩しくて、思わず目を閉じて……起き上がろうとしたけれど、すぐに体を押さえられて……兄の目が見えた。 暁はそこで一度言葉を切った。あまりにおかしな自分の行動を、あまりに鮮烈なあの感情を、どうしたら分かってもらえるのだろう。針葉は緊張した面持ちで、宣言どおり口を噤んで次を待っている。 「怖かった。どうしてか分からない。兄の目が、途轍もなく、怖かった。それまで突き飛ばされたことなんてなかったし、体もぶつけて、あちこち痛くて、だからかも……、でも……。……兄は、分かったか、と言った。私が動けずにいるのを見て満足げだった。それから……訳の分からないことを言われて」 「訳の分からんこと?」 ――これがお前らのやり方なんだろう。え、本家のおひぃさまよ。 ――おぞましいよなぁ。そのせいでこっちは散々苦汁を嘗めてきたんだ。割に合わないよなぁ。 「本家がどうとか、お前のせいで自分がこれまで苦労ばかりだったとか……後で知ったことだけど、兄は妾腹の人で、私とは半分しか血が繋がっていなかった。だから私に思うところがあったのかもしれない。 ……兄は、逃がすものかと言った。家の途絶は許さない、自分の子を産むのはお前だと。……おかしなことを言っているのは分かっている。私も今でも訳が分からない。でも兄は本気だったし、私の聞き間違いでもない。怖かった。兄の目は、これから正に何かをしようとする目だった。あの人の下で、私は全く身動きが取れなかった。怖くて怖くて、……腕が離れた隙に、護り刀で、兄の目を突いた。 不意打ちは上手くいった。兄もまさか、突き飛ばして怨み言を言っただけで刺されるとは思わなかったでしょう。夢中で部屋から逃げた。瞬きのたびに、目に焼き付いた縞の影が……天井に映っていた窓の影が、ちかちかして気持ち悪かった。兄が追ってきて、その目が、目にはまだ刀を刺したままで、無事なほうの目も血走っていて、怖くて、逃げる場所は上しかなくて、這うみたいにして階段を上って、……あの刀を見付けなければ、死んでいたのは私のほうだったと思う」 暁は衝立の向こう、堅く布で縛って立てかけているものに目をやる。そして針葉を見た。 「私は針葉と浬に会う前日、兄を殺めた」 彼の表情は変わらない。ひと言も聞き漏らすまいと、じっと暁を見つめる。 「気付いたらもう真っ暗で、その日は動かない兄の隣で眠った。どうかしていたんだと思う。頭も体も昂ぶっていたはずなのに眠気に負けたの。……あれもそうなのかな、耐えられないくらい辛いことがあると眠くて仕方なくなって。目が覚めてもやっぱり兄は死んだままで、私が潰した……両目、もそのままで、もうどうしようもないんだと、思い出した。着物は酷く破けていたし、兄が追ってくるようで恐ろしくて、髪を切って、男物の着物を背格好の近い骸から剥ぎ取った。とにかくその場から逃げ出さなくてはと、そればかりで、先の見通しなんて何も無かった。食べるものも無くて、行くべき場所も分からなくて、誰もいないところに私はただ一人で、……二人に会ったのはそんな時だった。やっぱりこう終わるのかと、辿り着くべきところへ辿り着いたような不思議な気持ち。怯えながらも、どこかほっとしていたのを覚えている。 ……兄の言葉の意味がずっと分からなかった。でもその次の年、故あってあの兄が分家の人だと知って、少し分かった気がした。あの大火はずっと飼い殺しにされていたあの人にとって、本家に成り代わる好機だった。その家はもう焼け果てているというのに」 成り代わるのが狙いなら、尚更、「実の妹」となる本家の女に子を産ませようとするだろうか? 針葉は頭の中で問う。訥々と迷いながら話す、暁は嘘を吐いていないだろう。なのにどこか違和感が拭えない。 「針葉には感謝している。何度となく命を救われて、自害なんてできなくなってしまった。……でも私の罪が消えたわけじゃない。あの人が誰であれ、あの時の私にとっては間違いなく兄だった。それを私は殺めた。それも、ただ怖かったというだけで。私が生きるために……私の罪を正当化するためには、知らなくちゃならなかった」 ――どれほど罪深く業深く生きれば、人は裁かるるに値するのか? 「私があの人にされたこと、されそうになったことが、命を奪うほど酷いことだったのか。……私はそのために、あなたを」 利用した。 震える唇から、息に混じってかすかな声。 「針葉は誰とも続かないなんて紅花に止められたけれど、その方が都合が良かった。あなたと初めて夜を過ごして……兄があの時しようとしていたことを知って、本当に気持ちが悪くて、吐きそうだった」暁の口調が速くなる。手がうろうろと髪をいじり、汗を拭うように膝をさする。「ごめんなさい。でもあなたを嫌っていたわけじゃない。あの時の私にはそうでなければならなかった。「あれ」は限りなくおぞましく、苦しいものでなければいけなかった。 ……すぐに別れることになると思っていたから、あなたの優しさが辛かった。あれだけ無愛想にしていても嫌ってくれないんだもの……。結局私は兄殺しの罪を正当化するために新たな罪を重ねただけだった。あなたは真面目な人だった。……裏道で昼間から逢引したりはするけれど、こと私との間においてはとても真剣だった。私の勝手で振り回して良いような人じゃなかった。だから、あなたの意に沿うように……いつか終わりを迎えるまで、穏やかに過ごそうと思った」 針葉はできる限りゆっくりと息を吸い、吐く。改めて彼女の口から聞くことの真相は、覚悟はしていたが、やはり痛かった。 「苦痛でなければならないことだから、どうしても辛かった。あなたへの後ろめたさもあった。一夜一夜が自分への罰だった。……でも、ごめんなさい、はしたないことを言うけれど、そのうちに……苦痛、だけではなくなって、……それからが更に苦しかった。自らあなたに添うこと、あなたを求めることは、兄殺しの理由を否定することだと思った。あなたを騙し続けていることも耐え切れなかった。それでも私はあなたと一緒にいたくなった。 もうやめようと思った切っ掛けは、あの雷の夜。覚えている? 針葉が途中で出て行ってしまった。あの時あなたの左腕に見えたものが……その、壬ではあまり良くない証のように見えて、目を疑ったの。裏切られたと思った。でもすぐに違うと分かった。たったそれだけ。それだけの後押しで良かった。……でもあの頃から針葉は私を避けるようになったね。私は話をしたかった。自分がしてきたことにきちんと決着をつけて、罵倒も叱咤も、何でも受け止めて……そのうえで、叶うなら、あなたと一緒にいたかった」 暁が口を閉じる。針葉はしばらく待ち、そして気付いた。これで終わりだ。あの夜より前に起きたことは、これで全て。 深く息を吐き出す。そして、暁を見た。全てを絞り出して虚脱した体、針葉の顔を窺う、不安そうな瞳。針葉は頷く。それでも揺れる瞳。もう一度、大きく頷いてやる。 「分かった。……まず、俺にお前を裁くことはできない。それから、兄殺しって大層な罪名背負って、よっぽど爪弾きに遭いたかったらしいが、言う相手が悪かったな。知ってるだろうが、俺は刀抜くことなんざ何とも思わん。お前の実の父だろうが腹違いの兄だろうが、害なす奴に情けなんて掛ける必要無いし、それを悔やむ必要だって無い。お前を庇って言ってんじゃねえぞ。紅花が紅砂に襲われて返り討ちくらわしたとしても、俺は同じように言うからな」 「紅砂はそんなことしないよ」 「お前は喩え話ってもんが分からんのか」 呆れ顔で言うが、暁は八の字に眉を寄せるばかりだ。針葉はふっと息を吐いて後ろに手を付いた。 「……俺が何言ったところで仕方無いか。お前は実際に亡霊に付きまとわれてきたんだからな」 そう、亡霊だ。暁が壬を彷徨った十日間、豊川領から上松領への行程は、その間の食糧は、その間無事だったのは。改めて考えたとき、その陰には共に動いた誰かの存在が見え隠れしていた。 それでは、出会ったとき一人だったのは。あの刀は。あの目は。あの男姿は。 披露目前夜に織楽が語った話は、あまりにも綺麗に謎の数々を片付けており、恐るべきことにその大半は暁が語った内容と符号していた。だから一定の覚悟は既にできていた。だが、その中でも危惧したこと。それは、暁の語った中には無かった。 ――乱暴されたんちゃうかて思うねん。それも、信頼寄せてた近しい奴に。 ――誰て……。……言うてんや、あいつ、朦朧とした頭で。 やめて、にいさま。 どうして。 いや。 いたい。 単なる暴力ではない。だからこそ家の者が信頼できない間は自らを男と偽ったのでは。織楽が重い顔で呟いたことは、辛うじて、未遂に終わっていた。 「……それでも、お前が無事で、良かった」 それは本心から出た言葉だった。自分の知らぬところで何が交わされていたとも知らず、暁は首を傾げる。 「あと一日待ってくれりゃ、俺が片付けてやったんだがな」 「そんなこと……」暁は弱く笑い、「それよりも、あの、あなたにしたこと」 「ああ」 針葉は顎髭を抓んで宙に目をやる。何のかんのと言っていたが、裏を知った今となっては、亡霊に憑かれた彼女の頭の中で繰り広げられていた茶番に過ぎない。それに、過程がどうあれ結論はもう聞いた。 「早い話が、興味本位で寝てみたら俺の魅力にやられたってことだろ」 暁はあんぐりと口を開ける。もはやひと呼吸未満、身も蓋も無い。ぎこちなくまた首を傾げる。合っているような、そうでないような。 ……ふと暁は口を覆って顔を伏せた。今更我に返る。よくよく考えれば、なんと大胆に想いを告げたことだろう。話の流れと勢いでつい、あんなあからさまな言葉の数々、本当にあれは私のこの口が。 「雷の夜のこと、覚えてるよ」 暁が顔を上げると、針葉は先程のにやけ顔はどこへやら、堅い表情で暁を見ていた。針葉は視線をちらりと左腕に向ける。 「お前の言う良くない証ってのは、黒烏の奴らの文身のことか」 返事は要らなかった。暁は、行動が掟破りなだけで、感情の動きはとても分かりやすいのだ。 「舐めんなよ。お前が団子屋のひよを避けてたことだって気付いてたんだからな。一人じゃ川が渡れねぇってのもそれだろ。……何だよ、もしかして黒烏って名は知らねぇのか。国守の豊川家お抱えの番人衆みたいなもんだ」 「あ……そう、なんだ。そう言うの。知らなかった」 「お前の家は領主から何か目ぇ付けられることでもやってたのか」 暁はつっと視線を逸らして首を振った。「さあ……父の仕事のことはよく知らなくて。でも壬でのこととか、根掘り葉掘り訊かれて閉口していたのは、本当」 若干の真実を混ぜて言葉を濁す。嘘にはしたくない。でも家のことは、まだ、言えない。 針葉はそれ以上追及することなく口を噤んだ。それは自分の裡にあるものを見つめ、整えているようだった。暁はちらちらと彼に目をやっては逸らすことを繰り返す。何度目かでようやく彼が口を開いた。 「あの夜。土砂降りの、雷のうるさかった。お前の言ったとおりあの夜からだ、俺がお前を避けるようになったのは。その数日後、お前に手ぇ上げた夜も、お前の下手な話聞いていきなり怒ったわけじゃない」 「じゃああの雷の夜から怒っていたの」 暁の沈んだ声は、その原因が自分にあるのだろうと示唆している。針葉は首を振る。 「怒ったってより……恐れてた」 恐れ、と暁は呟き、はっと居住まいを正した。「お前に話さなきゃならんことがある」。彼の話は既に始まっているのだ。 戻 扉 進 |