あれは確実に八つ当たりだった。 喉の奥に痛みが走ったような気がして顔をしかめる。分かっている、そんなもの錯覚に過ぎない。誰もいない厨で紅花は溜息を吐いた。器の音でごまかそうにも夜は静かすぎて、暁に放ったもっともらしい言葉の数々が頭の中に響き出す。 ここのところの浬は以前にも輪を掛けて睦月の世話に精を出すようになり、暁が書き物をしているときの二回に一回は睦月が彼の部屋にいるか、いなければ夕方に負ぶって帰ってくるのを見るか、とにかく実の母にも匹敵する献身ぶりを見せているのだ。 最初は微笑ましく眺め、これくらい面倒見の良い人なら父ちゃになっても安心ね、などと心がふわふわ浮き上がったものだが、今では時々口の端が引きつっている自分に気付く。 このままでは睦月は、そのうち浬を父と呼ぶようになるのではないか。 はいはいと掴まり立ちしかできなかった睦月が、夕餉の最中に突然歩き出した。まだ慣れない足の裏で一歩一歩体を揺らしながら歩く姿は、実の子でなくとも思わず顔をほころばせてしまう愛くるしさだった。暁は口を覆って感激の声を上げ、浬も満面の笑みで新たな一歩を踏み出した子を抱き締めた。針葉はといえばそちらを見ようともせず、不貞腐れたように黙々と箸を動かしていた。 傍目に見てどちらが親か。 本当はこんなことでうじうじ悩みたくない。頭の中に閉じこもっているのは性に合わないのだ。そう、きっといつかと同じで、自分が求めているのはたったひと言、たったひと撫で。 だから数日後の夕方、紅花が縁側を行く浬を見掛けたとき、そこにあったのは勢いだけだった。 「浬」 振り向いた彼に、前にもこんなことがあったと恥じらいの記憶が蘇る。でもあの時とは違う、もう自分たちは一夜を過ごしたのだ。それが半年前だろうが何だろうが確かに、だから、今は勢いだ。 「ん、何」 浬の声は夜に似てさらり涼しげに流れる。相対したこちらの熱気がすっと逃げていく。 「あの……あの、最近暑いわよね」 「え? ああ、そうだね。夏だからね」 会話が止まる。浬は口元に笑みを湛えて首を傾げ、紅花の言葉を待っている。あの、あの。頬が火照っていくのが分かる。勢い、勢いだ。何が勢いだ、あたし。 「熱? 顔赤いみたいだけど」浬の指が近付く。あ。触れてしまう。あ、 触れる。 「あの……っ」 思わず上げた自分の声が存外大きくて、慌てて口に手を当てる。大丈夫、誰も出て来ない。 「だから何って」 優しい浬の声、なのにうろうろと当て所なく彷徨う視線。去年と何も変わっていない。どうして慣れた彼に話し掛けるだけでこれほど胸が縮むのだろう。 「あの」 「ん」 「今日、あんたの部屋に、行ってもいい」 縮みきった胸を精一杯膨らませてようやく振り絞った言葉。浬は珍しいものでも見付けたようにわずかに眉を上げただけで、紅花のほうへ屈めていた体を伸ばす。 「いいけど、怖いお兄ちゃんは」 頭の中が真っ白になる。しゅるしゅると音を立てて萎む胸、吸い込んだ息が火照った体をさっと冷やしていく。「帰ってくる、と思う、けど……」ひと区切りごとに声が沈んでいく。 「そう。いいの?」 平然とした放たれた言葉が、互いの熱の差をありありと見せつける。 そう、だ。そうなのだ。 何も考えていなかった。目先のことしか見えていなかった。 途轍もない馬鹿。なんてはしたない女。叶うなら巻き戻したい。この口を縫い合わせてしまいたい。 紅花の視界の先には黒い前髪の端、毎朝磨き上げて飴色に輝く縁側の板、向かい合った爪先。それら全てが一様に滲んで混ざりそうになったとき。 「分かった」 責めるでもなく笑い物にするでもない、さらりと流れるような声に、紅花はやっと顔を上げた。 「紅花ちゃん、今日の夕餉は少なめにしときな」 「少な……え、どうして」 「芝居を聞きに行こう」 紅花が首を傾げる番だった。 何事も無く夕餉のときは過ぎ、紅花は片付けを手短に済ませて家を離れた。下り坂の入口には浬の影がある。夏とは言えど日も落ち、見咎める者はいなかった。空は灰青に染まり、地平の際だけが夕暮れの染みたような暗い橙だ。 浬は早足で坂を下る。紅花は忙しく足を運んですぐに小さくなる背中を追う。 「浬、待、って」 つまずきそうになり声が跳ねる。そこでやっと浬が振り向いた。木々に囲まれた道は陰濃く、彼の表情は分からない。 「ごめんごめん。大丈夫?」 ようやく追い付いて彼の袖を掴む。浬は少しだけ速さを緩めてまた歩き出す。涼しい風が足元を通り抜け、虫の鳴き声が草の間から響き出す。 「ねえ、こんな遅くから芝居なんてやってるの」 「夏の間だけね」 「あたし聞いたことないけど」 「芝居小屋じゃないからね。はい、黙る。ここから先は着いてからのお楽しみ」 生い茂った草を踏んで坂を終え、浬は更に西へ向かう。紅花の店のある裏通りは静まり返っていたが、南下した大通りや門の向こうの港一帯は灯りで賑わっていた。川を渡り、団子屋の前を通って途中間地へ折れる。 空は随分と暗くなった。もう海の果てから滲み上がったような暮色も見えない。時折見える提灯の吊るされた店からは低い笑い声が上がる。紅花は浬に身を寄せた。こんな夜に、大通りならまだしも間地の路地を歩いたことなど無かった。 「大丈夫だよ。ほら、もう着いた」 そう言って浬が指したのは小さな割烹だった。「ちょっと待ってて」言い残してがらり戸を開け、何事か話して戸を閉める。と思えば隣の店を覗き込んでまた出て来る。目をぱちくりさせて事を見守る紅花の前で浬は三軒目に入り、今度は紅花を手招いた。 引き戸の中では中年の女が手燭を提げていた。 「いらっしゃいまし。お部屋までご案内いたします」 先の見えない暗い廊下を進み、足元を確かめながら急な階段を上る。割烹と思ったが宿なのかもしれない。辿り着いた部屋は襖の向こうに突然視界を遮るように衝立が置かれ、その向こうには蒲団を含めた少しの調度品があるばかりだった。 ああ、これは、間違いなく宿だ。紅花は四角い部屋を茫然と眺める。芝居だなんて適当なことを言って騙すなんて。いや、二人きりになりたいようなことを言ったのは自分ではないか。いやいや、だからって旅でもないのに宿を取るなんてあからさまにも程が。 「お食事はもうお持ちして宜しいでしょうか」 「はい。いいよね」 突然話し掛けられ、奇声を上げつつ振り返ると、浬はさっさと注文を出していた。 「戸のところに置いてもらえれば結構です」 「畏まりました」 ゆるゆると辞儀をして女が去る。部屋にはどう考えても物を食べるには暗すぎる灯りが一つ。紅花は階段を下る音を遠くに聞きながら肩を落とした。 「何が芝居よ。嘘まで吐かなくたっていいわよ。間地なんてよく来るとこで……恥ずかしいったらない」 「何言ってるんだ。ほら、始まるよ」 浬は紅花の脇をすり抜けて窓際に腰を下ろした。眉をひそめた紅花だが、待ち構えていたように拍子木の音がちょんちょんと響き出して、はっと彼の元へ寄った。 重ねるように声。芝居特有の話し方だった。耳の後ろに掌を当てて聞き取る。 「……何、これ」 「夜芝居」 囁き声を交わす間もなくまた役者の声。何だ、何なのだ。思わず胸が高鳴り出す。こんな近いところに自分の知らない一座があったとは。 声は窓の外、建物に囲まれた坪庭のような場所から流れてきていた。紅花はぐっと身を乗り出すが、誰の姿も見えない。 「危ないよ」 「見えないんだもん」 「見えないんだよ。聞くって言っただろ。これは声だけのお芝居だよ。この空地をぐるりと囲むどの宿でも聞ける、夏だけの芝居だ」 紅花はあっと息を呑んだ。また声。慌てて耳を澄ませる。言われてみれば、耳だけでも分かるように三、四程度しか声の種類は無いようだ。 「……なんか低い方の男の人の声、あっ、これ、今の声。聞き覚えあるんだけど、きっと季春の人よね」 「さあ。役者が誰かは全く明かされないから」 「えー。多分女の人の声も知ってる気がする」 「声当てじゃなく芝居を楽しみなよ」 芝居が始まるまでの恥じらいや気まずさはどこへやら、二人は和やかに夏の夜に聞き入った。後ろに虫の音が流れるのも涼しげだ。 窓の外では芝居が続き、窓の内では無言が続いた。 紅花は隣の宿の裏壁に目を彷徨わせて唇を湿す。さっきから、もしやとは思っていたが、何やら、芝居の筋がやけに艶めいている気がする。 女の声。 紅花は口を押さえた。これは……なるほど、季春座でできないわけだ。役者名を明かさないわけだ。自分の頬が熱を持っているのが分かる。 ふっと肩を抱かれるのを感じた。そちらを向いた途端に唇が落ちてくる。今までの半年が信じられないほど、呆気なく、躊躇いもなく。 「だ……駄目」 はにかみつつ、戸惑いつつ、顔を背ける。この艶めいた声を聞きながらでは、ちょっと、あまりにも。彼に背を向けて窓にかじり付く振りをする。 「あの、あたし今、芝居見てるから。じゃなくて聞いてるから」 「そう」 浬の声も笑っている。紅花の背に覆い被さる温もり。 「いいよ、そのまま聞いてて」 「待……っ、ちょっと浬、駄目ってば。……や、駄目って」 「駄目、」まさぐる手が止まり、「っていうのは嫌って意味」 耳の傍で囁く声に、思わずもがく腕が止まる。ずるい。 「嫌、じゃないけど」 「じゃあ何」 紅花は目を閉じる。ずるいのだ、この人は本当に。 「……話が分かんなくなる」 「どうして。こんなによく聞こえる」 「違う」振り向いたところにある顔、平然とした顔、その頬を思い切りつねってやりたい。「聞こえるけど分かんなくなる。頭に何も入んない」 笑い声。 「可愛いこと言うなあ」 ずるい声。 程なくして盆を運んでくる足音があった。衝立の向こうで戸の滑るわずかな音がして、何も言わずに去って行く。慣れた所作だった。 「夜芝居を聞きに行こう」。それはきっと、そういう意味なんだ。声を堪えながら紅花は思う。半年ぶりに近付いた彼の肌は、夏を吸って熱く、汗の匂いがした。 半年。実に半年もの間、まるであの夜が幻だったような聖人面を貫いたくせに、紅花から声を掛けた途端にこうだ。ずるい、ずるい人。でもいい、本当に何も無かったかのように扱われることを思えば、ずっとましだ。 せめて次からは兄のいない夜を選ぼう。呼び慣れた名を「兄」と置き換えて遠ざけ、紅花は口を押さえる。時折浬が漏らす声、肌を伝う汗。息が混じるたび天井が揺れるようだ。窓の外の声は、もう耳にも入らない。 紅花の誓いは容易いこととなった。兄はある日を境に、家に戻らない夜が続いたからだ。 紅砂はそれを、針葉が気紛れに買ってきた早売りで知った。 女郎姿の女狐絵が中央を陣取り、その周りに事の仔細が書かれている。 いわく、旧壬上松領出身のこの女は自分の郷で算出する珍かな草木に精通していた。いわく、港を訪れた異人を密かにくわえ込み、郷への隠れ道を教えて、異人を向かわせた。いわく、金儲けのためだけに異人と通じ、坡城の港から飛鳥の旧壬上松領までをみだりに踏ませ、地を荒らした。 それは紅砂が明らかにした次第を大まかになぞっていた。 ただしそこから「国」の姿は消え失せ、全てが人の罪と成り果てている。若菜の郷で起きていた黒髪たちによる蹂躙も、津ヶ浜の離島の一つに当たり前のように逗留している異人たちのことも、坡城が極秘裏に進めている異人特使との交渉のことも、ちらとも触れられていない。 震える指で刷り日を確認する。四日前。 目を文面に戻す。女は巧みに人を騙し思想を侵す。市井の者からは遠ざけるべしとの番人の判じにより、仕置は近日中に番処内で行い、骸のみ仕置場に晒すこととする。 仕置。 さっと背すじが冷える。 外を見やると既に空が赤い。厨にいた妹の後姿に「飯はいらぁけ」と声を掛け、返事も待たずに坂を駆け下りる。じりじりと日は落ち、息を切らして港に辿り着いたとき、辺りは闇の紗を纏ったように薄暗さを帯びていた。 額を汗を拭い、番処の門へと歩む。何度もくぐったその場所が、今はいつよりも高く、暗く、厳めしく見える。傍には暇そうな番人が一人だけ。ふと彼が紅砂に気付いた。 「おい……? 何だお前、」紅砂の肩を押さえ、「こら、もう今日のお役目は終わりだ。おいこら、聞いてんのか」 背丈も図体も紅砂に分がある。紅砂は足を止めて番人を見下ろした。 「暮れに恐れ入るが、篠原殿をお呼びいただきたい」 「あぁ? 篠原だ? 約束でも取り付けてあるのか」 「いいえ。しかし中にまだいらっしゃるのでしょう」 ふんと鼻で笑う声。 「帰んな。お前みたいな素性の分からん奴が簡単に会えるほど暇じゃねぇんだよ」 「お忙しいというのならここでお待ちします」 「帰れっつってるだろうが。ふざけてんのか」 言い合う声を聞きつけて、門の向こうから別の二人が顔を出す。短く説明を受け、腹の出たほうの男が紅砂に目を向けた。 「話は分かったが、今日はもう遅い。明日にでもまた来るといい。捌き手に話を聞かせよう」 「それでは困ります。篠原殿に、できる限り早くお会いしたい」 「あぁ? 捌き手じゃ不服ってのか、突然現れて何を偉そうに。物事には順序ってものがあるんだよ」 「ですが」 後ろで聞いていた年嵩の男が一歩前に出た。 「お前さんが何だって篠原にこだわるか知らんがな、あいつにゃそうそう会えんよ。この度の沙汰でお取立てを受けたからな」 紅砂は彼に目を向け「沙汰」と呟く。 「そうだ。お前さんも知ってるだろう。篠原「様」は今や堂々たる出世頭だよ」 紅砂の目が惑った。どういうことだ。食って掛かろうとした、そのとき。 「何だ、騒々しい」 聞き覚えのある声が、門の向こうから聞こえた。番人たちがそちらを振り返る。紅砂は目を見開く。 垂れた瞼、濃い髭の下の歪めた笑い。鷹揚に扇子など煽ぎながら近付いてくる、あの男。 篠原。 咄嗟に駆け出す。篠原。一歩ごとにぐんと近付く。お前、何を。一体何をした。腕を伸ばす。その衿に、指先が、 届く寸前で引き倒された。すぐ背に腕に足に重みが乗り動けなくなる。かろうじて顔を上げると、篠原は驚いた様子も無くぱたぱたと扇子を動かしていた。直後、頭も押さえ付けられる。 「この野郎、舐めやがって」 「篠原様、ご無事ですか」 「どうも無い。この狼藉者を留め置いたのは誰だ」 「初めに用を聞いたのは私ですが……篠原様に会わせよと、そればかりで」 ふむ、と声。紅砂は首を捻ってどうにか口を開ける。 「篠原殿、どういうことですか!」 「こら貴様、黙れ」再び耳を押さえ付ける手の力が、「良い良い」と篠原の笑い声で緩む。ぱたんと扇子の閉じる音。 「さて。どういうこと、だけでは何のことやら皆目見当つかぬ。何しろ手持ちの案件が多くてな」 「しらばくれるな、若菜のことだ!」 「若菜、若菜。ああ、異人と密通して国を売ったあの女郎か。どういうことも何も、早売りに事細かに書いてあったようだが。お前もあれを読んでここに来たんだろう」 篠原がしゃがみ込み、紅砂の鼻に扇子の先を突き付けた。土に汚れた男を馬鹿にした目。紅砂は真っ向からそれを睨み付ける。 「俺が出した上申書の内容とまるで違う」 「上申書だと? そんなもの、捌き手が受け取った記録は無かったがな。おい、誰か知ってるか」 いいえ、口々に否定する声。笑いを含んだ声。何だ、こいつはあの売女の、あの売国奴の男か。この惨めな男は。 「……揉み消したな。中身だけ、罪を着せるのに使って。早売りには彼女が全て企んだかのように書かれていた。あんなことは有り得ない」 「やれやれ、恋に狂った男ってのは哀れだね。有り得ないも何も、あの女自ら白状したんだよ。拷問も何も無く自分から、だ」 「あんたが言わせたんだろう」 「言わせた? どうやって。調べはお白洲で、何人もの番人の目の前で執り行われた。これ以上に疑いようの無いことがあるか」 そこで篠原はふっと声をひそめた。 「ま、愛しい男を庇ったってのは有り得るがな」 な。 見開いた紅砂の目に映る、歪んだ笑い。歯の向こうに闇が覗く。 「この期に及んで乗り込んでくるとはよくよく馬鹿だな、 そんな、まさか、そんなはずは。 唇が震え出す。まさか。 篠原は姿勢を戻して、大して汚れてもいない裾を払った。 「まったく恐ろしいことだ。港の取り締まりを更に強化せにゃならん。薄汚い鼠どもを一掃せにゃあな。忙しくって敵やしない」 立ち去ろうという響き。爪先が紅砂から見えなくなる。 「待て!」 腕に乗った重みを振り払って精一杯に伸ばす、しかしその指はかすりもせずに土を掴んだ。すかさず後ろに捻り上げられ、肩に、肘に激痛が走る。低い視界の中、篠原の足が止まったのが見えた。 「夜が明ける前に消えたほうがいいんじゃないか。他の奴らは俺ほど寛容じゃないぞ。それとも今すぐ潰してやったほうがいいかな」 お前に宿る、海の色を。 「わ……」 「ん」 「若菜の、処刑は……いつ」 もうそれしかない。その場でどうにかして救い出すしか。視界の端で、篠原の横顔が髭を弄るのが見えた。 「さあて、いつだったかな。運が良けりゃ仕置場にゃまだ骸が転がってるかしれんぞ」 吸おうとした息が喉で詰まって、ぐっと嫌な音を立てた。紅砂の四肢から力が抜けていく。 もう足は振り向かない。 「放り出しておけ」 それだけを言い残して。 立ち去る篠原の背に声が降り積もる。 ――誰がどう責め立てても口を割らなかったあの女を崩すとは、悔しいが敵わん。 ――これで港の治安回復もやり遂げれば、いよいよ判じ手筆頭の座は堅かろう。 ――ま、津ヶ浜の出ってだけで上にゃ行きにくいだろうからな。虫の好かん男だがそこだけは認めるさ。 紅砂はかつての自分の言葉を思い出す。斯様に温情をかけてくださるのは何故ですか。それに対する篠原の答えは――「温情かどうかは知らんが、俺もここで何かと苦労が多かったんでね」、「俺は移民の出だ。坡城びとと同じように励んだって上にゃ行けんのさ」。 そういうことなのだ。 他の番人から抜きん出るために、篠原は紅砂を使った。自分はそれを頭から好意と信じ、私塾に出入りし、島に渡り、特使の会話を盗み聞きし、そして上申書を書き上げた。それらが全て若菜の罪になると知りもせず。彼女を救うつもりで、その実救われたのは自分だった。 ――あなたのためなら死んでもいいって思えた。 あれは喩えでも何でもなかった。最後に見た彼女の柔らかな笑み。涼やかに、愛おしむように、慰めるように。自分がこれからすることを覚悟したうえで、自分に何が起きるか分かったうえで、それでも彼女は。 気が付いたときには既に空が白んでいた。立ち上がろうとして喉の奥で呻く。体中が痛い。ばらばらになったように手足に力が入らない。 見れば身形はぼろぼろだった。着物のあちこちが破れ、千切れ、埃と血と汗にまみれている。腕も足も打ち身だらけだ。口の中から鉄の味がして赤茶色の唾を吐き出す。 自分がいるのは港近くの路地のようだった。既にどこかで朝は始まっているらしい、人の動く気配がする。 骨に異常は無いようだ。塀に寄り掛かってどうにか立ち上がる。 顔に貼り付いたままの土を拭うと、頬に鈍い痛みが走った。そういえば左の視界も狭い。顔の形が変わっているかもしれない。 ――とびきりいい顔してくれないと駄目じゃない。次までずっとその顔で覚えとくわよ。 朝の街の青さがじわり滲む。どうして今更、彼女の声が聞こえるのだろう。 紅砂はそのまま道を外れ、草の中へ踏み入った。生い茂った草は長身の彼の腿までを覆ってしまう。この先に、確か、あったはずだ。 程なくぽっかりと開けた場所へ辿り着いた。番処の西裏手にあたる、ここは仕置場だった。 何も無かった。 土が丸く覗いているだけだ。 茫然と立ち尽くす。鳥の声。ばさばさと低いところを通って海へ向かう影。 どこかでばしゃりと水音がした。 紅砂は覚束ない足取りでそちらへ向かう。海に近いほう、通りを一つ越えた先には開けた地があった。潮の匂いの風が吹き抜ける。いつか櫛供養に来た投げ込み寺だ。鬱蒼とした林に呑み込まれそうな粗末な堂が左手に、そして右手から奥には掌ほどの石ころと、それに柄杓で水を掛ける皺くちゃの老爺が一人。 「おんや、幽霊かと思ったわ」 垂れ下がった白い眉を大仰に動かして老爺が笑った。ばしゃり、また水音。 左手に持った桶に柄杓を差し入れて紅砂を振り向き、「言っとくが儂ゃ幽霊じゃないぞ」と言い、それでも紅砂が何も言わないと、「何だ、本当に幽霊か」と水を掛けてよこした。 紅砂が慌てて足を引くと、かっかと空に向かって高笑いをする。 「ほぉらその足は立派に動くんじゃないか。あんまり年寄りを脅かすもんじゃない」 「あの、あなたは」 「そのうえ口も利けた」 「あなたは。……ここの堂の方ですか」 老爺は水を撒いて横に一つ歩く。 「お、呆け老人とは思わんのな。よしよし。むかぁしな、住んどった。だが港番もこんなとこに金なんぞ出さんようになって、寺番は儂が最後になっちまった。以来この通りの荒れ放題だ。あんまり可哀想なんで、暑い盛りにゃ時々こうして水飲ましてやるのよ」 ばしゃりと地を打った水はみるみるうちに吸い込まれる。 「おー、そうかそうか、美味いか。こう毎日暑くちゃ喉も渇くだろうよ、たんとお飲み」 石に向かって話し掛けながら老爺はまた横へ歩く。紅砂は付き従って後を歩いた。 「あの……最近仕置場に晒されていた女を、知りませんか」 「知ってるよ。壬の出かな、綺麗な嬢ちゃんだったねえ。可哀想に、……腐れる前に片付けてやってほしかったがねえ」 足を止めた紅砂を、数歩離れたところで老爺が振り返る。 「お前さんの知り合いかい」 ゆっくりと視線が落ちて、紅砂は小さく頷いた。「そうかい」水の音。 「一番奥から三つ目か四つ目の、つるっと丸い石あるだろう。白に黒いぶちの」 老爺の言葉に従って辺りを見回し、それらしき石を見付ける。見れば彫り口がまだ新しい。 「そこがあの嬢ちゃんの居場所だ」 足から力が抜けて、紅砂はその場に膝を衝いた。これが。こんな小さな石が、墓か。こんな狭いところに、彼女は眠っているのか。後ろからはばしゃりばしゃりと水の音。日が左手から上り、紅砂は眩しさに顔をしかめる。 やがて水を撒き終わった老爺が紅砂に歩み寄った。空の桶に入った柄杓がからからと音を立てる。 「儂はお前さんみたいな男を何人も見てきたよ。病で死ぬ女もいれば、港の掟を破って殺された女もいた。遺されるほうも辛かろうな」 ゆっくりと吐き出される言葉。労りのこもった言葉が四方八方から肌をつつくのに、心は固まったままでぴくりとも動こうとしない。紅砂は高くなる陽から目を覆って石を見つめる。 「なあ、兄ちゃんよ。儂がその嬢ちゃんを綺麗だと言ったのはな、死に顔が随分と安らかだったのよ」 瞬き一つ、二つ。 「きっと知ってたんだなぁ、お前さんが会いに来るって」 紅砂は息を吸う。潮の匂いがすっと喉を通っていく。そうしてやっと顔を上げた。 目の前には海。陽の光を浴びて空との境目がきらめいている。舟の影が見える。鳥が悠々と浮かんでいる。若菜の好きだった海。紅砂の目の色。 ――知ってる? 海って限りが無いんだって。どこまでも続く山は行く手を塞ぐけど、どこまでも続く海は、どこへでも行けるって思わない。 ――あなたの海の色の目が好きよ。誰よりもまっすぐな目。 光を真っ直ぐに浴びて、彼の目はようやく夜を抜け出し、碧に透き通る。そこからつっと落ちた涙が地に吸い込まれて、ひと粒分の大きさだけ土の色を変え、すぐに乾いた。 ネイトはそれから十日と経たぬうちに釈放され、特使たちと共に港を離れた。祖国で刑に処されると港番は言ったが、どこまで本当の話かは誰も知らない。特使との話がまとまったか決裂したか、とにかく終わりを見て、これ以上逗留の必要が無くなったというだけのことだ。 その日の港はそれまで同様、珍かな異人を一目見ようとする人々で賑わっていた。北の方の名も知らぬ草を狙おうが、許可無しで国を通ろうが、大抵の者にはどうでも良いのだ。 まるで凱旋のように人の目が並ぶ中をネイトは、特使に前後を挟まれているものの手枷も何も無く、見ようによっては得意げに、悠然と肩を揺らして歩いていた。 ひと時、その足が止まったことがあった。 喧騒の中、誰かが言葉を投げ付けたのだ。 誰の耳でも聞き取れなかった。表情を変えたのは異人たちだけだった。足を止めて強ばった顔で辺りを見回したが、人の山の中では誰が言ったものか掴めず、また一行は歩き出した。 程なくしてたった三人を乗せるには大きすぎる船が港を離れ、半年以上にわたって港を騒がせた異人の一件は幕を下ろした。 誰かにとってはお祭り騒ぎで、誰かにとっては酒の肴、誰かにとっては早売りの格好のネタとなり、誰かにとっては立身出世の足掛かりで、誰かにとっては願ってもない交渉の機会だった。 そして誰かにとっては誰かを護るための命を懸けた大芝居で、遺された誰かにとっては、一生消えることのない深い傷となった。 戻 扉 進 |