あの夜以降、針葉が暁の部屋を訪れるのは初めてだった。
 初めこそ彼女の拒絶に対する意地だったが、最近ではきっと、黄月に言われたことが腹に重く滞留していた。
 梅雨のさなか、ぽっかりと忘れたように雨の切れた日だった。葉に残った雨粒がきらきらと夏の光をはね返す。
 縁側から差し込む光が翳ったことに気付いて、机に向かっていた暁が顔を上げる。視線の先に針葉の姿を見付けたとき、彼女は目を見開いた。
 後ろめたさを滲ませた目。暁が左眉の傷痕に手を伸ばした、あの朝の針葉によく似ていた。
「昼ならいいんだろ」
 暁ははっと視線を外して机に向き直った。「どうぞ」
 彼女の旋毛に小さく頷いて、針葉は部屋の壁寄りに腰を下ろした。畳に広げた一つは乗り子仲間から借り受けた広域河川図だった。筏師の持つ水脈図より精度は劣るが、通り道となる主要な流れが網羅されている。その右に広げたもう一つは何の変哲もない地形図だ。
 蒸し暑い中に時折ゆるりと風が流れる。
 針葉の耳が唸るような羽音を捉え、振り向きざまに両手を打ち鳴らした。広げた手の真中に蚊が一匹。
「びっくりした」
 振り向いた暁に手を見せてやる。「蚊?」針葉は頷きだけを返して縁側へ立ち、手を払った。
 向き直ると、暁が筆を置いて針葉を見ていた。針葉はそのまま地図に囲まれた狭い陣地へ戻る。
「最近忙しかったみたいだね。泊まりがけだったでしょう」
「詰め込みで仕事が入ったんだ。明日からも泊まりになる。来月、再来月辺りからは減るだろうから、別口で探さにゃならん」
「また魚でも売り歩くの」暁は面白がるような目つきで首を傾げる。針葉がひと月以上にわたって棒手振り業を請け負ったのは暁が来た年くらいだったように思うが、余程その印象が離れがたいのだろう。
「どうとでもするさ」
「何だかんだ言って働き者だものね」
「何だかんだって何だよ」
 暁は首を横に振ってごまかし、「詰め込みって大口の注文でも入ったのかな。急にどこかの寺社の建て直しが必要になったとか」
 針葉は「いや」と短く言葉を切る。
「場所の問題だ。これまでずっと津ヶ浜寄りでの作業で、場所柄壬びとの流れ込んだ地が近くに点在してるんだが、悪い噂が流れてきてる」
「悪い噂?」
「各地に散らばった壬びとが一斉に蜂起を企ててるってな」
 暁の頬にぴりっと緊張が走る。
「それは……取り締まるほうの耳には」
「どうだろうな。乗り子衆が厄介事に関わるとも思えんから、番人が自分で掴んでるかどうかだが」針葉は髭を指でつまみ、「気になるか」
 暁は戸惑ったように目を逸らす。自分の胸の内をさらすことを恥じるように。
「そりゃあ……同じ壬だもの」
「うまくいってほしいと思うのか」
 暁は眉を寄せて、んー、と声を長く伸ばした。
「それも違うかな。だって何もかもがうまくいくなんて思えない。騒ぎを起こした途端に捕らえられるのが目に見えている。せっかく生き延びたのに。それに蜂起って何、割譲談義に対する?」
「だろうな。北部以外はまだ交渉中だろ。随分長引いてやがるが」
「今蜂起が完全に成功したとして、周辺国が壬や東雲から手を引くとは思えない。精々が、談義が遅れるくらいのものでしょう。それで壬が元通りになるわけでもないのに。それどころか何の関係もない壬びとまであらぬ疑いをかけられかねない」
 畳に視線を落とす、暁の顔は疲れて見えた。針葉は足を組み直す。
「お前らしくもないな。ここに来た頃は、刀がどうの飛鳥がどうのっつって目ぇぎらぎらさせてたのに」
「私も大人になったんです」
 溜息ののち、暁は針葉にすっと視線を向けた。薄い色をした壬の目。今までと違う、躊躇いも奢りも無い目。
「郷を捨てることなんてできないけれど、郷よりも護るべきものが、今の私にはあるから」
 それは、焼け野原の壬で針葉が出会い惹かれた、触れるものを射殺すような目ではない。だがあの時よりもずっと強い光を宿していた。
 眩しいものから目を背けるように、針葉は視線を逸らした。
「そういやお前、初めて会ったとき壬の上松領にいたけど上松の出だったか」
「ううん。……豊川領」
「ああ、やっぱりな。黄月と違って訛りがねぇもんな。でも豊川っつったら一番危ないとこだろ」
 暁が怪訝そうな顔でわずかに身を乗り出す。
「危ないって何が。また病が流行ってるの、それとも暴動が」
「そっちじゃなくて。危ないってより危うい、か。豊川の領地は丸々周りに持ってかれそうだって聞いたぞ」
 暁は眉を上げて体を元に戻す。
「上松領は飛鳥のもんになったが、それでも自治区って扱いになってるだろ。他んとこも大抵の壬びとは前と同じように暮らしてるし、国として弱ってるっつっても統治してた家の奴は誰かしら生き残ってる。豊川だけ誰も出てこないんだと」
「豊川だけ……」
「なんて顔してんだよ。豊川領が灰になるわけでも、今暮らしてる奴らが追い出されるわけでもない。統治する奴が変わるんじゃ豊川の名や流儀を残す必要が無くなるってだけだ」
 宥めたつもりだったが暁の顔は晴れない。針葉は肩で大きく息を吐いて地図を畳んだ。
「ま、これも去年聞いた話だから、今は事情が変わってるかもな。しゃんとしろよ、郷より護るべきもんがあるんだろ」
 立ち上がった針葉を追って暁が顔を上げる。
「だからって郷がどうでもいいわけじゃないもの。針葉だって自分の郷を無くすのは嫌でしょう」
 不満げに眉を寄せた顔。可愛いものだ、針葉は小さく笑う。暁は昔からこういうところがある。自分の尺でしか物事が見えないのだ。
「俺は自分がどこの生まれかなんて知らん。身軽なもんだ」
 更に眉が寄るのを横目で見て、針葉は暁の部屋を立ち去った。



 日に日に空は青く、外は暑くなる。次に針葉の仕事が途切れたのは月が替わってからだった。
 昼下がりの暁の部屋にはいつもと同じように書き物の道具、積み重ねられた本、何事か肘をついてうつむき考え込んだ様子の暁、そして子供がいた。針葉は足を止め、すっと奥まで息を吸ってから部屋へ踏み入る。
 子供が針葉に、あの意味のない声を掛ける。それを聞いて初めて暁は針葉に気付いたようだった。涎を啜ったわずかな音を、針葉の聡い耳は聞き逃さない。中腰のまま彼女を見つめる。
「あ。針葉」
「寝てただろ」
「いや。その。仕事を」
 呂律が回っていない。滅多に見られない困り顔も半分寝ぼけ眼だ。針葉は破顔して定位置に胡坐をかく。
「別に怒りゃしねえよ。考えてみりゃ、夜遅くまで起きて、朝は早くから握り飯作って、お前いつ休んでんだ。またぶっ倒れるぞ」
「もう倒れないよ。子供の世話をこれだけ変わってもらってて、倒れるなんてできない」
 口の端を指で拭いながら首を振る暁だが、その言い方はつまり、周りの目を気にして気丈に振る舞っているということに他ならない。
「暁。お前ちょっと休め」
 暁は虚をつかれたように無防備な顔で針葉を見た。
「心配すんなよ。襲ったりしねぇから」
「あ、……、でも」
「んな急ぎの仕事か」
 暁は思い出したように文机からずり落ちていた紙に目をやる。視線がふらふらと上下を彷徨う。
「これは……えっと、確か二十日までに」
「まだまだ先じゃねえか」
 暁は何故か途方に暮れた顔だ。その前を子供が這いながら素早く横切り、縁側まであと一歩というところで暁に回収される。じたばたと暴れる子供を抱えて机の前に戻り、目をしょぼつかせながら、「黄月……か浬か、もう帰ってたっけ」
 針葉は口を結ぶ。その言葉で訳が知れた。
「わざわざ別の奴頼らなくたって、俺がいるのが見えねぇのか」
「だって針葉は」
「そいつが死ななきゃいいんだろ」
 暁はあんぐりと口を開け、呆れ果てたように眉を下げた。
「そんな大雑把な……」
「じゃどうすりゃ満足なんだ」
「あのね、まず怪我しそうなことは止めさせて。外に出そうになったら連れ戻さなきゃいけないし、変なもの口に入れようとするのも駄目。私の書き道具は、手が届かないようにはしておくけど近寄らせないで。泣いてたら、……えーと、泣いてたらとりあえず私を起こして」
 畳み掛けるように言った後で、暁はまた眉を寄せた。
「本当に大丈夫なの」
「要はお前が起きたときにそいつが無事ならいいんだろ」
 無事、無事。言葉を口の中で呟いて何度か首を傾げつつ、暁は帯を緩め、衝立の向こうからよたよたと蒲団を持ち出す。
「何かあったら起こしてね。本当に遠慮は要らないから」
「分かったって」
 同じようなやり取りを繰り返していた二人だが、ようやく横になった途端に暁は静かな寝息を立て始めた。緊張が頬から解けていくのが見えるようだ。子供の声にも目を覚まさない。
 針葉はそっと首を伸ばして寝顔を盗み見る。目の下にうっすらと隈が見えた。溜息を吐いて壁際に背を戻す。
「たーた、まー」
 這い寄った子供が暁をじっと見つめたかと思うと、蒲団を引っ張った。
「おい」針葉が声を掛けるとぱっと振り向いた、黒い目。幼い顔。唇を一度噛み、言葉を続ける。「やめろよ。寝てんだろうが」
 言った後で針葉はぱっと顔を逸らした。何をしているのだ。言葉も話せない不完全な生き物に何を言っても通じるはずないのに。暁が子供相手に話し掛けていたのを見て感じた苛立ちが、今度は自分にのしかかる。
 じっと針葉を見つめていた顔が、にこりと笑った。
「あー。ばぁ」
 とことこと手で近寄ってきて座り、針葉の顔を覗き込み、また笑う。何だ。期待するなよ。お前が間違って死なんようにここにいるだけだ。馬鹿みたいに笑い掛けたり話し掛けたりしてやると思ったら大間違いだ。
 すっと子供の目が見開き、眉間に皺が寄った。あ。針葉の眉間の皺が消える。これはまずい。
 俺でも分かる。これは恐怖の表情。これは、泣く前触れだ。
「しっ」
 口の前に人差し指を立てるが泣き顔が一瞬止まっただけだ。どうする、どうしたら。針葉は視線を部屋中に彷徨わせ、ぎこちなく、口角を上げた。
 子供の顔は止まったままだ。恨めしそうな目がじっと針葉を見ている。何だこいつは。こっちは笑ってやってるだろうが。笑えよ、とっとと機嫌直して一人遊びでも何でも。
 また子供の表情が崩れそうになる。
 針葉は慌てて顔の険を取り去り、今度は目を見開いたり口を開けたり身振り手振りを付けたりの大盤振舞だ。そうこうしているうちにやっと子供は機嫌を直し、親指をしゃぶりながら縁側のほうに目を向けた。
 針葉は肩で息を吐く。憎たらしい餓鬼だ。右も左も分からない生き物のくせに、表情だけはきちんと読んでくる。これは下手に顔を合わせない方がいい。
 そうなると、何も持ってこなかったのが悔やまれた。せめて何か目を向けるものがあれば気が安まる。針葉は部屋の隅に積まれた本の山に目を向けた。あの中に絵や仮名ばかりの本はあるのだろうか。
 立ち上がろうとして、そのまま視線を滑らせる。畳が広い。子供がいない。どこに。
 縁側へ続く障子の敷居、まさにそこを子供の手が通過するところだった。続いて胸が、腹が、膝が。板張りの先を目指す、小さな手。
 針葉は駆ける。
 腕を伸ばす。
 指が襟首にかかる、
 ――これでは首が締まる。
「……っ、」
 易々届きそうだった手を一度引き、腹に回して引き寄せた。
 形を持たない子供の声。不満げな響きすら呑気に聞こえる。
 針葉は息を吐き出して腕を緩めた。胸が早鐘を打っている。こいつが怪我すると暁が泣くから。いやそれよりも。「俺はわざと見殺しにするんじゃないか?」一瞬でも芽生えた疑いを払拭するために、腕を伸ばしたのだ。
 初めて触れる子供は、思ったよりもどっしりと重く、ぶよぶよと柔らかく、そして温かかった。
 言葉が不完全でも、歩くことができなくても、それは明らかに、人だった。
 遣る瀬無さに胸を掴まれつつも、子供を部屋の中へ連れ戻して放し、本の山の中に紛れていた子供向けの本を二、三取って引き返す。子供は同じ場所で針葉が戻ってくるのを待っていた。
「だー。ばぁ、うーた」
「んだよ。暇潰しくらいさせろ」
 話し掛けるのを恥じたことなど忘れていた。この生き物を人と認識した瞬間から、それは当たり前のことに思えた。
 それに、子供がこうして傍にいるのは、先程のように見失わないだけ気が楽だった。
 本を開く。絵が大半を占める紙面は、仮名と漢字のいくつかしか読めない針葉でも目で終える。
「えーと。む、か、し。むかし、ここ、ろ、やさし……い、やさしき、おじい、さん、と、よく、よく、あ? 何だよこれ……よく、ばりの、ば、おばあさん、が……」
 ふと見ると、子供もじっと本に見入っている。まるで自分も読んでいると言わんばかりだ。言葉も満足に話せないくせに。針葉はふっと笑ってたどたどしくも先を読み進める。
 三分の一ほど読み進めたところで、子供が突っ伏して眠っていることに気付いた。針葉は本を閉じ、息がしやすいよう丸々とした体を仰向けに返してやる。
 本を山の頂に積んで戻る、その途中で思わず吹き出す。暁とその子供は全く同じ顔で眠っていた。
 そろりと忍び足で戻り、子供の傍に腰を下ろしてぷっくりとした頬を眺める。
 髪や目の色を除けば、暁に本当によく似ている。あどけない顔。暁は幼い頃こんな顔だったのだろうか。
 身動きする音。顔を上げると、暁が枕に片耳を付けて二人を見ていた。
「起きたか」
「ん。おはよう。何も無かった?」
 暁は目をこすり、体を起こすとすぐに蒲団を畳んでしまう。そして振り返り、「あーあ、睦っちゃん寝ちゃったの。何も着ないと体冷えるよ」上掛けを取って歩み寄り、子供の腹に乗せる。
「もう暑いだろ」
「意外と冷えるものなの。今日は風もあるし」
 お互い囁くように呟くのは、子供が眠っているから。そして手を伸ばせば届く距離に三人がいるからだった。
「いい子にしてた?」
「まあな」
「そう。ありがとう、だいぶん楽になった。もういいよ、面倒見ておくから」
 暁はにこりと笑みを零して、また書き物道具を部屋の中程に据える。針葉はその後姿をじっと見つめる。すうすうと子供の息の音。
「暁」
「うん」
「今日くらいの面倒なら見るからな。頼れよ」
 ひと呼吸おいて暁が振り返る。口元だけに笑みを湛えた、寒々とした表情。
「どうもありがとう。でも大丈夫。きちんと仕事をして、きちんと休んで、周りに迷惑を掛けないよう心掛けます」
 今日くらいの面倒だなんて、何を生易しいことを。最低限の面倒しか見られないくせに偉そうに。洟を吸い取ることもおしめを替えることも湯浴みさせることもできないくせに。「私のことが大事」らしいから言っているだけで、この子を慈しむ気持ちから出た台詞じゃないんでしょう。父として面倒を見るわけじゃないんでしょう。
 笑顔の後ろから幾通りもの声が聞こえた。
 さっと西日が差す。
 暁は針葉から縁側へと視線を移して目を細めた。



 乗り子業は徐々に落ち着き、十日に一、二日は休みを言い渡されるようになっていた。今はまだ良いが、これより減るようだと他を当たらねばならない。
 今は休みで手透きができるたびに暁の部屋を訪れていた。暁は針葉を見るだけ見てすぐに顔を戻す。半分は慣れ、もう半分は呆れていたのかもしれない。だがこれは意地だった。
 その日も暁はちらりと針葉を見やり、顔を戻しかけてまた振り向いた。
「それ、早売り」
 針葉は頷いて手に持ったものを彼女に突き出す。
「珍しい。読めたっけ」
「なんか号外だっつって騒がしかったから一部。半分……くらいは」
 そう言ったものの、実際に読めるのは四半分ほどだった。それも途切れ途切れでうまく意味が繋がらない。
「じゃあ後で読もうか」
「ああ。なんか壬のこととか捕まった異人の顛末とか載ってるらしいぞ」
 暁は後ろ髪を引かれたように早売りに目を留めていたが、振り切って机に向かう。針葉は腰を下ろし、刷り紙の半分近くを占める絵を眺める。
 若い女の絵だった。衣紋の抜き方が妙に艶めかしいが、その頭からは獣の耳が突き出し、どうやら女狐を描いているようだ。しかしそれが何にどう関わっているのか、針葉の力では読み解けない。
「たーた。あー」
 這っていた子供が文机を支えに立ち上がり、続いて暁の背を支えに歩く。
「睦っちゃんやめて、揺らさないで」
「邪魔すんなよ。ほら、こっち」
 針葉が手招きするが、子供は針葉の手をじっと見るばかりで、短い足を踏み出した途端にぐにゃりと尻餅をついた。喉をがらがら鳴らすような特有の唸り声で不機嫌さを露わにする。
「何だよ。片端か」
「もうちょっとで歩けるの。今頑張ってるところなんだから」
 もう慣れたものなのだろう、暁は振り返りもせずに言う。頑張っているところと言うが、そもそも物の少ないこの部屋では体を支えるものが無いではないか。稽古も何もあったものではない。
 躊躇は一瞬だった。
 手を差し伸べる。子供は不満げに口を引き結んでいたが、畳に手を付いて尻を持ち上げると、戸惑いも何もなく針葉の手を掴み、ひょいと体を引き上げた。
 手を繋ぐ。それは驚くほど呆気なかった。そもそも初めて子守りをした日に、これは得体の知れない生き物ではなく人だと、いずれ自分と同じように長ずるのだと腑に落ちていたのだから、意味もなく恐れる必要など無かったのだ。
 小さな手。意外と力の強い指。少しずつ引くと子供は容易く付いて来た。体をよたよたと揺らしながらも、一歩も足が出ずに転んだのが嘘のように、顔じゅうに満足を散りばめて。
「あー。たた、ばぁ。まー、うーたっ」
 何だ、歩けるんじゃないか。そう思って手を離した途端に子供は膝から転んだ。何が起こったか分からないような顔で辺りを見回し、しかし泣きはせず、針葉が手を伸ばすと、また小さな体を尻から持ち上げた。
「ぶー。たーた、う」
 暁に似たあどけない顔に笑みが満ちる。
 暁もかつてこんなふうに笑ったのだろうか。
「今日はまたご機嫌ね、睦っちゃん」暁が筆を動かしながら言う。
 程なくして日が傾き、まだ明るい空に夕暮れの気配を感じたとき、暁は筆を置いた。両腕を頭の上で組んでぐっと伸びをする。
「あー、今日はここまでっ。終わり終わり。お待たせ針葉、早売り読もう」
 暁が腰を上げて机を片付け始めたところで、急いだ足音が近付いて来た。紅花だった。部屋の前で立ち止まってたすき掛けに袖を絡げ結ぶ。
「暁、ちょっと手伝って。今から支度なの、店の帳面合わせが長引いて。大丈夫?」
「だ……いじょうぶ。厨だね。分かった、すぐ行くから。誰か戻ってたっけ」
 紅花は針葉と、その傍らで早売りの絵を興味深げに眺める睦月に目をやった。
「浬ならいたけど」
「じゃあ針葉、浬に預けておいて」
 机を隅に寄せるや否や暁は出て行った。反論する間も無く、針葉は障子の隙間から覗くほの赤い夕空を眺める。
「何だよ」
 誰にともなく呟く。胸を張って任せろとは言えないし思わない。だが何度も面倒を見てきたのに、夕餉を拵えるたったそれだけの間、二人きりにしておく信頼すら無いのか。
 子供は今は襖の引き手に手を掛け、よたよたと立ち上がって次に掴まるものを探していた。
 披露目の日、彼女に投げ付けた言葉を思い出す。まだあの子供が気味の悪い生き物にしか思えなかった頃。鋭く尖った言葉の一つ一つを拾い上げ――針葉は目を伏せた。
 空が赤みを増し、涼やかな風が部屋をすり抜ける。
 機嫌の良い声。ふと見ると子供は、今度は暁の文机に場所を移して立ち上がろうと試みている。確かにその一角だけは物が積まれて稽古にはもってこいだろうが、暁の仕事道具には近寄らせないことになっている。
「おい。そこは駄目だ、戻って来い」
 立ち上がってそちらへ手を伸ばした、そのとき。
「ご飯よー」
 遠くから紅花の声が響いて、子供はそちらへ顔を向けた。そして。
「あー、まっ。ばー」
 今までの苦労が嘘のように、何の支えも無くすたすたと歩いた。
 針葉は口をあんぐりと開けてそれを見つめた。子供が障子に手を伸ばしたところではっと我に返り、先に縁側に出て行く手を塞ぐと、大声で暁を呼んだ。暁は二度目の呼び声で厨から顔を出し、一旦内へ引っ込んで縁側を駆けて来る。緊張を顔に張り付けて、眉をこれ以上無いほど寄せて。
「何! どうしたの」
「どうしたのじゃねえよ、見てみろって」
 針葉が振り返った畳の上には、何事も無かったかのように座る子供がいた。自分が何やら注目を受けていることに気付くと、今までどおり手で這って寄って来る。
「……何、どうしたの」
「いや……おい、ほら、見せてみろって。おい」
 焦る針葉に、きょとんとしたあどけない顔が返ってくる。暁は怪訝そうな顔を隠しもせず子供を抱き上げ、針葉の前で立ち止まった。
「浬に預けてって言ったと思ったけれど」
「それは……だから」
 返事を待たず暁の背が小さくなり、二つ隣の部屋へ消える。伸ばしかけた針葉の手は、空を掴んで力無く落ちた。
 あの子供が歩いているのを見たとき、確かに心躍るような感覚があった。早く暁に見せて喜ばせてやりたいと、針葉は確かに思った。
 ――温かな、ありふれた、当たり前の、親子でありたいの。
 暁が泣きそうな顔で訴えた言葉。もしかすると今のがそれだったのかもしれないと、暮れなずむ夏空を遠く見ながら針葉は考えていた。

 既に着席していた黄月に睦月を任せて暁は厨へ戻った。人数分を盆で運ばねばならない。
 厨では紅花が茶椀に橙鮮やかなトウウリ飯をよそっていた。傍らには湯気を立てる椀と魚の平皿が並んでいる。
「こっちの運んでいいよね」
「椀だけ先に持ってって。魚はオオネを擦って乗せるから。さっきの何だったの」
 盆に椀を並べていた暁は顔をしかめて首を振った。「何でもない。というか何かよく分からない。浬に預けてって言ったのにまだ針葉が一緒にいたの」
 非難めいた口調にも、紅花は短く相槌を返しただけだった。
「暁。あの子、針葉に任せちゃ駄目なの」
 暁は目を丸くして紅花を見、持ち上げた盆を一旦置き直した。
「何言うの。見ておくだけしかできない人なのに」
「だから、そういうのは教えたらいいじゃない。最初っから要領いい浬とか、今までに小さい子の面倒見てきた紅砂、黄月と一緒くたに考えるから駄目なのよ」
「教えて素直に受け入れる人だと思うの。慈しめないって、私ははっきりそう言われた」
「いつの話よ。最近はよく面倒見てるみたいじゃない。意固地になってるのはあんたの方に見えるけど」
 紅花は杓文字を水に浸け、擦りオオネを箸で掬って平皿にちょこんと乗せていく。
「素直に受け入れる人だと思う、って、あたしはそんなの知らないわよ。あいつとやや作るほど仲良くないもん。でも睦月の父ちゃなんでしょ。間違い無いんでしょ。じゃあ誰よりもまずあいつにさせるべきなんじゃないの」
 もう一つの盆に平皿を並べると、紅花は暁を後目に厨を出て行く。
「どうしようも無いってときに他を頼るのは仕方ないと思うのよ、でもやっぱりそれぞれ都合ってもんがあるじゃない。頼るのが当たり前にならないようにね」
 残された暁は眉を寄せたまま椀を見つめ、ふっと息を吐いて盆を持った。
 紅花の言葉はいつも耳に痛い。そして残念ながら、大抵は正しいのだ。