暁が部屋に入ってきたことに気付き、紅砂は筆を置いて顔を上げた。 「すまないな」 暁は笑って首を振り、文机の上にあるものに目を落とした。紅砂の手元の紙は机をはみ出してどこまでも長く、遠目にも分かるほど字数が多い。書かれたものに視線を移そうとするが、紅砂の手がさりげない仕草で紙をまとめ、奥に置いてしまった。机の上に残るは文鎮と硯、筆だけだ。やむなく暁は彼の隣に腰を下ろし、自分の手にある紙を差し出した。 「見たよ。きちんと直ってたし、これで問題無いと思う。誤字も無かった」 「そうか」 紅砂はほっとした面持ちで受け取った紙を広げた。 「ただ、慎重を期すなら私だけじゃなく浬にも見てもらうのが一番だと思う。こういう文章の定型、というか、番処向けの堅い文書に関することは、浬が本当に詳しいから」 「そうだな」紅砂が首を巡らせる。「あいつ、今日は出てたよな」 「うん。ごめん、睦月を預かってもらってるから。どこで遊ばせてくるのか知らないけれど、浬に預けるときはあの子もはしゃいじゃって」 「家に籠らせるよりは、外で色んなものに触れさせるほうがずっといい」 暁はその台詞にふと自分を重ね、ゆっくりと頷いた。それはあるいは、紅砂自身が自分を重ねて言ったことなのかもしれなかった。 「紅砂。鑑文だけじゃなくて本文も確認しようか」 紅砂と目が合った。暁と同じく薄い色の双眸、だが暁とは違う色。「それ」暁が、紅砂の向こうに置かれた紙を指差す。 目だけがそちらへ動いて、彼はすぐに首を振った。 「いや、これは……。いいよ。本文はそれほど形式ばらなくていいんだろ」 「型があるわけじゃないと思うけれど、でも誤字脱字なんかは、ほら、できるだけ多くの目で見たほうが」 紅砂は表情を崩さない。優しい目、小さく笑った口元、その奥に押し込めたものを見せようとはしない。じっと見つめていた暁はとうとう目を逸らした。 「何か、他にできることがあったら言ってね」 「充分助けてもらったよ」 視線を戻せないまま小さく頷き、暁は立ち上がった。 「どうか、重々気を付けて。危険なことには手を出さないようにね」 障子に映った暁の影が消えるのを、紅砂はじっと見ていた。気配の無くなった部屋に、唸るような小さな羽音。どこかから飛んできた蚊を手で払いやり、改めて暁が持ってきたほうの紙に目を落とす。 「上申書」。書状はそう始まっていた。 徳慧舎の野川翁のところには、今も五のつく日に往診している。先月三度目に訪れ、これといった収穫も無く腰を上げようとしたところで、「そういえば」と翁が声を上げた。 「島さん。うちの和解ですね、この間新版を出したんですよ。これまでの記載を全て見直すとともに、俗語の採用をぐっと増やして、より今のご時世に合ったものに仕上げたんです」 「そうですか。さすがは徳慧舎ですね、妥協が無い」 紅砂は立てた膝を崩してその場に座り直す。 「当初は春先を予定していたんですけどね。いや、ここまで気合いが入ったのは、実は島さんのお陰なんです」 「私ですか」 「ええ。いつでしたかな、間地の医者が出している和解、あれを引き合いに出されましたね。それで柄にもなく張り切ってしまいまして。何しろこちらは学問が本職ですのでね」 はにかんだような笑い声だった。紅砂は困ったように頭を下げる。 「その節は大変な無礼を申しました」 「いえ島さん、そう恐縮なさるものでもない。どうか頭をお上げなさい」 肩に手が触れて、紅砂は顔を上げた。 「切磋琢磨を忘れれば学問は死にます。結果として良いものが出来上がればそれに越したことは無いのですよ。それにあちらの和解もなかなか工夫が凝らされています。こちらが通詞殿の使用に耐えるものを目的として幅広い語を載せているのに対し、あちらは書物から文例を多く引いて、書き物に活かすことを目的にしているようです。細かな使い分けには役立つのでしょうな。昔私が見たものとは随分変わっていました。いや、何事も偏見はいけませんね」 野川翁がやけに暁の和解を褒めるのは、今回作ったものに並々ならぬ自信があるからだろう。この私塾の長が台詞ほど殊勝なたちではないことを、紅砂は知っている。 「そうですか。同じ和解といえど用途に合わせて様々な作り方があるのですね。叶うなら一度読み比べてみたいものですが」 そこで言葉を切る。しゃがれた唸り声が長く長く続き、「よし」と膝を打つ音。 「島さん、一冊お貸ししましょう。本来であれば個人への貸し出しはしていないのですが、一役買ってくださった島さんになら良いでしょう」 「本当ですか」 「その代わりここだけの話ということで。手助けしてくれるご友人もいらっしゃるのでしょう。お返しいただくのはいつでも構いませんよ」 足音が離れ、また近付いて、紅砂の手を取る涸れた指。掌に乗せられたものを押し戴いて、紅砂はそれを懐に仕舞った。 「何と御礼申せば良いのでしょう」 「それには及びませんよ。大いにお励みなさい」 野川翁はそう言って紅砂の肩を二度叩いた。 徳慧舎を出た紅砂は山沿いに南下する途中で目を開け、裏通りの一つ手前の通りに入ったところで足取りを速めた。家へ至る坂道は息せき切って駆け上っていた。汗で濡らさぬよう懐から重い本を取り出し、自分の部屋へ駆け込んで障子を閉ざす。 織楽と共に港番へ向かった夜。食事をしながら二人の特使は様々なことを話した。いくつかは織楽や紅砂に投げ掛けられた質問で、通詞を介した流れの悪いやり取りを交わした。酒が回ったらしく、若いほうの男が途中、織楽に手を伸ばした。視界の効かない紅砂がその腕を掴んで止めると、却って特使たちは喜んだ。 そしてそれに飽きると二人で話し出した。通詞は傍に控えてはいたようだが、いちいち訳しはしない。言葉が分からぬのをいいことに、隣の織楽は慎ましやかに、しかし着実に箸を進める。その咀嚼の向こうで聞こえたのは、彼らが国に残した妻子の話、同じ国の者であろう誰それの話、いつの料理が美味かった、この国で見た馬鹿げた風習……大半は取るに足りない内容だった。精々が、外つ国の特使と言えどそう恐ろしいものでもない、と知ったくらいだ。 だが時に。 「イトウとか言ったか。奴はどこまで使えるものかな」 「ツチグニでは地位のある男らしいですよ。西廻りはこのところ物騒だそうですから、東廻りの路が確保できれば文句は無い」 通詞が席を離れたとき、もしくは通詞の耳に届かぬほどの囁き声で、彼らは話した。 「私も向かったことはないが、何しろ山奥だそうじゃないか」 「ええ、 「酔狂なことだ」 「それでも元が取れると言うのだから、 紅砂が知らぬ語を織り交ぜつつ。 「あの地がトリクニに渡ってやりやすくなったのは確かです。あれはミズグニよりもハマグニやヤマグニと繋がりが深いらしい。なんでも建国にはトリクニが一枚噛んでいるとか」 「こんな辺境の昔語りなんぞどうでもいい」 「そう捨てたものでもありませんよ。辺境だからこそ、何を信奉しどういった思想を持っているか、昔語りから見えてくるものです」 紅砂が知らぬ話まで織り交ぜつつ。 「どうでもいいが、ハマグニの島は良くないな。あれでは商船が着けられん。陸に、逗留ではなく居留を認めさせねば。更に 「イトウの口振りでは、ツチグニはこちらに好意的でしたね」 「どう転ぶか分からん。油断はできんな」 ……あの時分からなかった音を、忘れぬよう、違えぬよう、頭の中で、自分の舌の上で、何度も繰り返した。 そして紅砂の指は今、必死に本を繰っている。 それらしき音に片っ端から目を通していく――違う、こんな文字の連なりは載っていない。聞き誤ったか、いや待て、違う文字で試してみれば、もしくは――見付けた。しかしこれでは意味が。違う、こちらの意味で取ればあるいは。 諸行無常たること。石積みの繋ぎとなるもの。漆喰。臼。粉を引くのに供する鉢。擂り鉢。 会合、土地土地で当たり前とされる慣い、国と国が約すること。 薬草。毒草。特に希少価値が高く劇的な作用をもたらすもの。 紅砂の喉が息を求めて喘ぎ出す。 ――山奥の、擂り鉢のような場所。 ――協定を結ぶ。 ――薬草狩り、毒草狩り。 擂り鉢のような場所で行われる「夜陰狩り」。擂り鉢、黄月や若菜が昔暮らしていた、四方を山に閉ざされた里。ネイトはどこで見付かったのだった? 上松領こそが奴の目的地だったのか。 ――カゾは、北域にしか自生しないものの一つだ。 そう、あの場所は日照が少なく土も痩せている一方で、黄月が薬師の父からありとあらゆる知識を叩き込まれた場所。香ほづ木売りが複雑な水路を読み解き、危険を冒してでも踏み入る、垂涎の地なのだ。 瞑目する。一つ、二つ。目を開ける。 今までに聞いた話が頭の中をぐるぐる駆け巡っている。若菜の話。ネイトの話。ゆきの母の話。黄月の話。特使の話。 隣里のお医者先生が首だけで。ひと山当てたくなってね。壬の番人衆は飛鳥と通じてたんじゃないの。上松が飛鳥びとの居住を黙認した、もしかすると葉を取ることまで。どうして野良犬にカゾを。ハマグニやヤマグニと繋がりが深い、トリクニ。 何だ。 何なのだ、これは。 ぱたんと本を閉じる。表紙を指で打つ。苛立ったように何度も。徐々に速くなる爪の音。 唐突に指を止め、紅砂は長く息を吐いた。 底の無い井戸を覗き込んでいるようだ。光など届かない。闇が、深すぎる。 指先に痺れるような疲れを感じて首を振った。深入りするな。 今必要なのはネイトの意図を明らかにすること。彼の背後で蠢く大きな流れに廓暮らしの女など介在しえないことを明らかにして、若菜を救い出すことだった。 紅砂が分厚い紙の束を携えて港の門をくぐったのは、夏至が目前に迫った蒸し暑い夜のことだった。冬の夜空が天まで突き抜けるように澄んで青いのに対し、夏はあまりに赤く、雲垂れ込めた雨夜のような重さに満ちていた。 周りにきょろきょろと目をやり、篠原の灯が近付いてくるのに目を留めてほっと息を吐く。何か動きがあれば伝えてもらうよう頼み込んではいたが、物音のしない番処に忍び込むこの一瞬は、篠原は現れないのではないか、若菜はもういないのではないかと、幾重にも心が乱れた。 篠原が灯を掲げた。紅砂は目を細めて深々と礼をする。 「……それは」 篠原が紅砂の手にあるものを指すように手燭を翳した。 「前に申したものです。どうか上の方へお取り次ぎいただき、いま一度彼女のお裁きを考え直していただきたい」 「預かろう。しかし取るに足らぬ中身であれば、二度目は無いぞ」 紅砂は一度視線を落としたが、両手で書状を差し出した。「上申書」。行儀よく畏まっているのは一枚目だけで、二枚目以降はこの件の概要に始まり、ネイトが現れた背景や彼の目的、異人の居留地と化した津ヶ浜の離島、そしてこちらの国々の関わりを書き連ね、考察を添えていた。 切っ掛けは十数年前に遡る。 若菜や黄月が暮らした、壬北部の上松領。そこにしか自生しない木々や草は、薬師や香ほづ木売りたち一部の商いびとにしか知られていなかった。 それは時に、暁が行うという儀式にも供された。言動で瞭然だ、暁は名のある家の出なのだろう。一部の者しか知らない薬物、一部の者しか知らない神憑りの式。東雲びとの浬が見たという儀式も根は同じものと考えられる。壬と東雲の蜜月ぶりは史書を紐解くまでも無いのだから。 貧しい土地に隠された宝の存在を知って目を付けた飛鳥は、山に隔てられ壬他家の目が届かないのをいいことに、擂り鉢の里の人々を取り込む。最初は金を落とすやり方で、そのうち堂々と居留を始め、壬の女を取り込み飛鳥の特徴を持つ子を増やして――長い時を経て、飛鳥びとが闊歩するのが当たり前の光景を作り出した。そしてついには上松北邸をも取り込み、身寄りの無い野良犬を使ってあらゆる薬を試す。 それに気付いたのが黄月の父親だ。危険を冒して告発を試みたものの、上松家は壬五家という立場を利用して素早く手を回し、結局、擂り鉢の中で着々と進む浸食が表に出ることはなかった。 慕っていた「お医者先生」を見せしめに使われ、里の人々は抵抗の手立ても気力も失くす。飛鳥びとは更に深く上松領に食い込む。 そして出された徴用令。働き盛りの男だけがいなくなる。友好国の東雲に攻め入るために集められたことも、その命令の裏に飛鳥がいることも、残された地がいよいよ蹂躙されつくすことも知らず。 東雲の大火、続いて起こった壬の大火。上松領が正式に飛鳥のものになったのは二年前の秋のことだが、それまでも実質は飛鳥が統治していたのだろう。 一方、津ヶ浜の離島にも異人が増え始める。船の行き来が盛んで離島を多く抱える津ヶ浜は、交易を行うには絶好の場所だっただろう。もちろん表立った活動を認められていない異人が身を隠すのにもだ。 何が切っ掛けだったのかは分からない、どちらが持ち掛けたものかも。ともあれ異人は知った、上松領に自生する薬のことを。それは彼らにとっても商品価値の高いものだった。 国として交渉の機会を窺っているさなか、抜け駆けしたのがネイトだった。異国見世に紛れて港に入り、山吹に匿われ、どんな手を使ったか、上松領まで辿り着いた。ネイトと話ができない今、彼の辿った経路を正確に解き明かすことはできないが、夜の廓で紅砂と会ってからの九箇月で、彼は確かに「ひと山当てる」寸前まで行ったのだ。 だが彼同様、飛鳥にとってもそこは宝の地だった。それがネイトの誤算だったのだろう。彼は呆気なく捕われ、そしてネイトの国の特使が現れた。釈放を求めるという口実と、交易路を確保するという思惑を胸に。 坡城の交渉方は伊東と呼ばれていた男だ。正体までは掴めなかったが、坡城東端の都から忍びで足を運んだ役人の噂を掴むことができた。外つ国の特使と「東廻りの交易路」の話をするために来たとするなら、 もしそうだとすれば、たかが商いの話ではない。特使が言っていたとおり、国を挙げての協定締結だ。 特使たちの会話から察するに、交易の話はあの時点ではまだ先が見えないようだった。 表沙汰にはできないから、公にはネイト釈放の交渉が長引いていることになっている。だからこそ若菜の処分もまだ保留されているのではないか。 恐らく特使たちは坡城側に、交易路を求める真の理由を明らかにしていない。先走ったネイトを馬鹿者となじり、「足元を見られる」ことを危惧していた。そして、坡城だけでなく津ヶ浜や、もしかすると飛鳥とも交渉していることを、明かしていないのだろう。 ――頭の中に今も渦巻く、その全てを記したわけではなかった。特に国関係は推測の部分が大きい。 だが一部を除いたとて、廓暮らしの女郎にどうこうできる線を飛び越えているのは明白だった。 「これは読むのに骨が折れそうだ」 受け取った紙を持ち直して篠原が苦笑する。 「お忙しいとは思いますが、どうかよろしくお願いします。ひと一人の命が懸かっているのです。お読みいただければ、きっとご納得いただけます」 「分かった分かった。お前さんがそこまで言うんなら腰を据えて読むとしよう」篠原は髭に隠れた口を歪めて笑い、「顔見てくかい」 紅砂は頷いて彼の背を追った。 木々の影が生温い風に揺れている。重く湿った夜をかき分け、二人は進む。先日織楽と訪れた本所を過ぎると奥の建物が迫る。結果は先とは言え、分厚い上申書を手放して若菜に会いに来られたことで胸のつかえが一つ取れた気がした。 「篠原殿。いつも便宜を図っていただき有難うございます」 「礼なんぞ要らん」 「いえ。篠原殿がいらっしゃらなければ、彼女に会うことも困難だったでしょうし、書状を書き上げられたかも分かりません。斯様に温情をかけてくださるのは、やはり同じ道場にいらっしゃったよしみですか」 篠原が足を止めて振り向いた。ふ、と笑うような声。 「温情かどうかは知らんが、俺もここで何かと苦労が多かったんでね」 「港番は沙汰の始末ばかりですからね」 「それもあるが、俺は移民の出なんだよ。坡城びとと同じように励んだって上にゃ行けんのさ。さあ持っててくれ」 いつものように紅砂に手燭を持たせ、篠原は掌ほどある錠前を開けた。紅砂は手燭を返して後に続く。 言われるまで気付かなかったが、そういえば多少髭が濃いようにも思う。同じ苦労をしたと思えばこそ、色々と取り計らってくれるのかもしれない。 闇に沈む檻を通り過ぎる。いくつかは空で、また前に空だったいくつかは埋まっていた。ここは裁きを待つまでの仮の居場所だから、入れ替わりも早いのだ。都ならともかくこの港の域で、長い調べを要するような沙汰など滅多に起こらない。 半年も拘留されている若菜は異色だった。そのうえ独房をあてがわれ、こんな薄暗く湿った場所に押し込められても重い病に倒れることなく、前に聞いた話では食事の量も増えたという。彼女はきっと意図して生かされている。協定締結に手こずっている今、本当に、今しか無いのだ。 篠原が立ち止まる。紅砂は小さく会釈して彼女のいる房に近付いた。身動きする音。くぐもった声。 「…… 「そうだ」 「久しぶりね、前に会ってからどのくらい? もう花の季節は終わったの」 紅砂は小さく笑って檻の前にしゃがみ込んだ。 「とっくに。目に痛いくらいの新緑も過ぎて、もう夏至だ」 「今よ。今散ったわ」責めるような口調に紅砂が言葉を詰まらせると、すぐに若菜の笑い声が続いた。「今の今まで、外では花が咲き誇ってたの。いつでも花見に行けたわ。廓ではそうやって楽しんでたのよ。誰もがいいことばかり教えてくれたわ、川べりに並ぶ満開の桜でしょ、それが散ったら夏祭り、水面に映った夏の光が眩しいこととか、紅葉で山が真っ赤に染まることとか……。今ではあなただけが教えてくれる。次はいつまで蝉が鳴き続けるのかしら」 「そう長くない。涼しい風が吹いたら蝉の季節は終わりだ」 はっと息を吸う音、泣きそうな吐息、「そうね」と聞き逃しそうに小さく、諦めた声。縋るように、紅砂の声は熱を帯びる。 「そうしたら紅葉を見に行こう。花が好きなら冬にだって咲く。山手の社に植わってるサンザは朝に見に行くと、薄雪を被って見事なもんだ」 「雪なんか昔、嫌ってほど見たわ。あたしの生まれた辺りでは珍しくもないもの。……でも、ありがとう」 唾を呑み込む音。「本当にありがとう」ともう一度、絞り出すように。 「若菜……?」 何も聞こえない。暗闇からすっと白い指が伸びて檻に手を掛ける。紅砂はひと息おいてその指に触れる。 「あたしが山の中から売られてきて……客を取るまでの間、ある人に付いて身の回りの世話をしていたの。あなたに供養してもらった、あの櫛をくれた人よ。その人から色々教えられたわ。約束は忘れろ、恋はするな、色々。そうして生きてきた。あの人は正しかったわ。余計な辛さを味わわずに済んだもの。……でもあなたは、あたしが捨てたものをくれた」 若菜が額を檻に付ける。 「あたし、もう、ややを産めないのよ」 彼女に。 「まだ山吹がいた頃よ。調べを受けたの。何も知らないって言っても扱いが酷くなるばかりでね。港暮らしの女には何をしてもいいって思ってるみたいに」 彼女に、どんな言葉を掛けられたというのだろう。 余計な気遣いをさせぬよう、淡々と、極めて淡々と、彼女は言葉を続ける。 「あいつらがここを壊したとき、……壊すとき、言ったの。卑しい女って。男を騙して精も銭も吸い尽くす虫けらって。まともな女なら廓に落とせば罰にもなろうが、元から売女のお前は痛くも痒くも無いだろう、だから、港にさえ戻れないように焼いてしまおうって。夢中であたしに突き挿しながら……ごめん、こういう言い方は嫌いなのよね。でもおっかしいでしょ、笑っちゃうわよ」 彼女の手を握る指に力が入る。知らず、汗をかいている。 「……厭だって言ったわ。それだけは厭って。そしたら恥を知れって。それほど客を取りたいか、それとも身請けされるとでも思っているのか……。身の程知らずめ、お前にまともな人の暮らしなんかできると思ってるのか、……って」 彼女の手が、震える紅砂の手を包み、頬に伸びた。 「そんな顔しないで。もう過ぎたことよ」 首を振る。はずみで彼女の手が離れる。 「許せない。あんたばっかり……っ、どうしてそんな辛い目に」 「誤解しないで。あなたにそんなこと言わせるために話したんじゃないわ」 厳しい口調。動きを止めた紅砂の頬にまた触れる、温かな掌。 「ねえ、あたし嬉しいのよ。今までどれだけ罵られて、どれだけ酷い扱いを受けてきたか分からない。どれだけ諦めてきたか……。でも最後の最後に、あなたがあたしを人にしてくれた。ひとの幸せを与えてくれた。こんな大逆転の人生ってあるかしら」 頬を流れた涙が彼女の指を濡らすのに、どうして彼女の声は、これほどまでに優しいのだろう。どうしてこれほどまでに笑みを湛えて。 「絶対に死ぬもんかって思ってた。死んでなんかやるもんかって。……なのに不思議ね。あなたが一緒に暮らそうって言ってくれたとき、嬉しくて、幸せでたまらなくて、あなたのためなら死んでもいいって思えた」 「馬鹿言うな。あんたはここを出るんだ。こんな狭い、暗い場所、濡れ衣を晴らして、すぐに」 若菜は笑う。涼やかに、愛おしむように、慰めるように。 「そうだったわね。あなたと一緒に出て行くんだった。桜も、お祭りも、水面も、紅葉も、全部見せてね。それに雪だって、あなたの隣で見たら格別に違いないわ」 そのとき、紅砂の視界の端で火が揺れ動いた。篠原だ。紅砂がそちらへ顔を向けたのに気付き、若菜は目を、続いて顔を、ゆっくりとそちらへ向ける。 火はゆっくりと近付いてきた。紅砂が立ち上がる。若菜は火から視線を逸らさない。闇に慣れた目が眩んでも、じっと夜に揺らめくものを見据える。 「気は済んだかい。そろそろ引き揚げるぞ」 「はい、有難うございました」 深く頭を下げる紅砂の陰で若菜は見た。篠原の右手に紙の束があるのを。途中まで読み進めていたことを示すように、ごつごつした指が中ほどに挟まっているのを。 若菜を振り返った紅砂が、彼女の視線に気付いて「ああ」と口元を緩ませた。 「ようやく書状が出来上がったんだ。こうして篠原殿も受け取ってくださった」 「まだ半分も読んどらんが、よく調べたもんだな。いや驚いた」 篠原が口の端を歪めて笑い、紅砂もほっと息を落とす。 「これであんたの疑いを晴らせる。もう何も心配しなくていいんだ。あと少し、本当にあと少し、辛いだろうが耐えてくれ」 若菜は凍りついた喉で、浅く息を繰り返す。 「もう書き上げてたのね。そう……」 声を止めてうつむいた若菜にぴくりと眉をひそめ、紅砂は再び膝を折る。「若菜?」そっと窺う声にようやく顔を上げ、若菜は微笑んだ。 篠原の手燭がすぐそこにあるから見られた彼女の顔。頼りなく揺れる灯の中でおよそ一年ぶりに見る彼女は、やつれと疲れに蝕まれてなお美しかった。 「ありがとう。これでもう少しの辛抱なのね」 「あ、ああ……」 再び篠原に促されて腰を上げた紅砂に、「 「あなたの海の色の目が好きよ。誰よりもまっすぐな目。覚えていて、あなたの目は美しいの。いつかきっと堂々と歩ける日が来るわ。だから隠さないで。うつむかないで。……早くここを出て、昼の光の下であなたを見たい。本当に、待ち遠しいわ」 最後に見た彼女は、やはり笑っていた。 涼やかに、愛おしむように、慰めるように。 静けさの戻った檻に足音がやって来る。 若菜は息を殺してそれを待った。 やがて現れた彼は、新しい蝋燭を立てた手燭を片手に若菜を見下ろした。もう片方の手には先程の書状を持っている。 「あの坊やは本当によくやったよ。国を飛び出して色々聞き込んでやがるし、お前の郷についても、十年以上前のことをよくもこれだけ調べたもんだ。それにこの前は、名も身分も偽って異人の特使に会いに来てたな。あんだけ肝が据わっててよく動く奴はなかなかいないぞ」 男の手が分厚い紙の束をゆらゆらと揺らす。馬鹿にしたように。 「だが悲しいかな、この血と汗と涙の結晶の一文字一文字が、旧上松領にも異人にも精通する不審極まりない奴がいるって証左だ。しかも顔を合わせてみりゃあのとおり。まったく、惜しい奴だよ。別のところで生かしゃあ偉くもなれただろうに」 「燃やしてよ。そんなもの……今すぐ燃やして」 「そいつはできない相談だ。俺は港の秩序と安寧を願う忠実な番人だからな。こんなもんを仕上げられる怪しい奴、引っ捕らえる他ない。これより怪しい奴でも出てくりゃ話は別だがな」 そして彼は檻越しに手燭を突き付けた。灯りに目を焼かれながらも、若菜は真っ向から男を睨みつける。光のすぐ後ろに潜む、深い深い暗闇を。 「覚悟は決まったかい、お嬢さん」 髭の下の闇が上下に裂けて、歪み、笑った。 それから十日。篠原から音沙汰は無かった。忠良づてに呼び出してもらっても、余程忙しいのか「 そして更に十日。 紅砂はとうとう、篠原に会うこともできなくなった。 戻 扉 進 |