本編5-08
泥黎..





 今でも朝になると、針葉の部屋の隅にはマチクの包みが置かれている。
 それを一瞥して針葉は天井に目を戻した。
 織楽の披露目以来、針葉と暁はまた話すことが減った。当然だと思う。あれだけのことを言った。自分の本音には違いないが、あの時の暁の顔は今も焼き付いている。
 ――俺と一緒になろうだなんて考えたこともなかっただろ。俺だってそうだ。
 結局自分はそうなのだ。笑わせたいのに、大事に思っているのは真実なのに、ああいう顔しかさせられない。今までの相手と同じように。
 針葉は半身を起こして首を回した。ぽきりと音。体が怠い。昨日は遠くの網場まで行くことになり、日の出前から遅くまでかかったのだ。
 立ち上がって蒲団を畳み、マチクに手を伸ばす。折角作ってくれたのだろうが、生憎今日は休みだ。針葉は包みを開けて握り飯にかぶり付いた。まだ温かい飯粒は適度な水気と粘り気を含み、口の中でほろりと崩れる。ひと口、ふた口、そこで口を離す。白い飯の中から覗く具はマルスダレの時雨煮だ。噛むほどに旨味が広がる。
 帰ってきて何より驚いたのは暁の料理の腕の上達ぶりだった。マチクの包みも、だから最初は紅花が用意したのだと誤解した。素材を蹂躙しきった自称壬料理も、夜は期待してるわと言わんばかりの卵だらけの膳も、もはや昔の話だ。
 半年以上欠かされたことはない。自分が何か言って、暁に茶をかけられた次の朝を除いては。
 朝早く起きて作って、時々はこうやって時季のものを入れて、手間がかかっているはずだ。
 披露目の次の日は、あらかじめ中を割って匂いを嗅いでから口にした。とんでもないものが入っているのではと用心したのに、結局いつも通りだった。拍子抜けするとともに暁が分からなくなった。
 いつも駄目になった。誰と付き合っても最後は、こちらが突然冷めて捨てるか、尽くし切ったのに捨てられるか。裏切るか裏切られるか。そしてそのたび怒り猛り、醜い感情が付きまとい、修復のしようもないほど粉々になった。
 今度も同じだ。結局自分は変わらない。同じことを繰り返す。傷つける。粉々に砕く。泥をぶちまける。
 ――なのに暁は。
 マチクの包みを捨てて大きく背を伸ばし、目脂を取りながら廊下を行く。もう少し何か腹に入れたい。
 厨に人影。紅花、と声を掛けようとしたら暁だった。背中にあの子供を括り付けて椀を洗っている。一瞬足が止まったが、そのまま歩いて釜の蓋を開ける。
「おはよう」
 横を向く。暁が手の水気を払っているところだった。「おみおつけ作ってるよ。あと割り豆と香の物と」
 あまりに自然な口調だった。まるで、紅砂や浬に話し掛けるような。
「……握り飯食ったから少しでいい。味噌汁だけくれ」
「あ、今日は休みだったの」
「昨日がきつかったからな」
「そう言えば遅かったみたいだね。怒鳴り込んでこなかったものね」
 暁は笑って鍋の蓋を取り、ふわりと上がる蒸気に顔を包まれつつ味噌汁を掬った。水音に重ねて舌打ち。
「また遅くまで起きてやがったのか」
「だから、針葉よりは早く寝たって。針葉のほうが余程無理してそう」
 軽やかな笑い声。暁は盆に椀を置いて針葉に近付いてきた。身をぐっと伸ばすようにして針葉の顔を覗き込む。息の触れるほど近く。壁を背にした針葉は身動き取れず、目を大きく開けてそれを待つ。
「やっぱり。疲れた顔」
 何でもないように顔を戻す暁、が途中でまた視線を針葉に戻した。今度は手が伸びてくる。
「な……」
「この傷、痕になったね。気付かなかった」
 左眉にそっと触れた指の感触。悲しげな眼差しだけを残して彼女はくるりと後ろを向き、湯呑を取った。
「一年以上前だよ。ここだけは眉も生えん」
「そっか」とぽとぽと急須に湯の注がれる音。「部屋で待ってて。持って行く」
 ああ、と小さく返して針葉は踵を返した。「こら睦っちゃん、引っ張らないの」と後ろから声。
 この自然な会話。自然なやり取り。まるで披露目の前と同じだ。暁が針葉に、子の父を期待していた頃と。
 今はそこから期待が抜け落ちていた。子供を背負い、子供に話し掛けながらも、そこに針葉を関わらせようとする希望に満ちた目、あの重圧にも似たものが消え去っていた。
 針葉が願ったとおりに。
 自分は今度も同じことを繰り返した。傷つける。粉々に砕く。泥をぶちまける。
 なのに暁は微笑むのだ。忘れたかのように。そして毎朝マチクの包みを用意する。
 あの披露目の日の話し合いは、彼女に何を残したのだろう。
 西側に五つ並ぶ部屋の真ん中へ足を向ける。障子は開け放たれ、黄月が、もはや定番になった眼鏡とやらを掛けて本を読んでいた。
「今日は休みか」
「ああ」
 腰を下ろしたところで暁が盆を抱えて現れた。それをちらと見て黄月が部屋を出て行く。暁は針葉の前に膝を衝いて湯呑と味噌汁の椀と箸をきちんと並べる。彼女が前屈みになるたび、背に負われた黒い髪と小さな手が覗く。
「暁」
「んー?」
「今日も書き物すんのか。あの、何とかって本」
 彼女が体を真っ直ぐに戻すと子供は見えなくなり、胸に交差する負ぶい紐だけが痕跡となった。暁は小首を傾げて何も無い壁を眺める。
「どうしようかな。ちょっと注文が落ち着いてきたから、黄月に頼まれてた方に取り掛かろうかな。どちらにせよ筆は使うよ」
「お前の部屋、行ってもいいか」
 首の傾きが元に戻る。
「当たり前でしょう。いちいち断るなんて、何。怪しい」
「怪し……っ、おい、別に何も」
 慌てた様子の針葉を見て暁は破顔した。
「ごめん。どうぞ、ご自由に」
 盆を針葉の隣に残して暁は部屋を出て行った。その後姿を追っていると、彼女の背中に貼り付いた子供と目が合いそうになり、針葉は顔を背けると箸を取って味噌汁をぐるりとかき混ぜた。底に溜まった味噌がもわっと広がり、たちまち具を覆い隠した。



 暁が書き物をする後ろで、針葉は好きなように時を過ごした。ふと話し掛け、答えが返ってくる。暁から話題が飛んでくることもあった。針葉が腕立て伏せを始めると、鼻息がうるさいと笑われた。とても穏やかな昼下がりだった。
 暁は筆を執りながら、時に子供に話し掛け、時にあやし、時に連れ戻し、時に乳を与え、時に下の世話をした。そのいずれにも針葉を関わらせることはなく、どれほど慌てていても、針葉に期待の目を向けることすらなかった。
 それはまるで近所の子供を預かっているようにも思え、少しばかり気楽に、少しばかり寛容になれた気がした。
 数日後の休みには同じように暁の部屋で過ごし、その数日後には神社麓の通りで満開を迎えたサナエ狩りに誘い出した。葉や枝が見えないほど鮮やかな朱色に染まった道を、暁は噛み締めるように歩いた。泣きそうな感激しきった顔。紅葉狩りに行ったときもこうだったと、懐かしく思い出す。
 その背にはやはり子供がいて、暁は折々にしゃがんでは花を間近で見せてやっていた。「睦っちゃん、これ全部お花よ。サナエのお花。凄いね。綺麗ね」「なー。な」「そう、お花」見なければいい、聞かなければいい。そんな時、針葉は先をゆるりと歩いては暁が追ってくるのを待った。
 やがて暁の足音が近付いてくる。「お待たせ」柔らかい笑顔で。今まで愛しげに話し掛けていた背中の生き物のことなど、つゆほども感じさせない態度で。
 これまで彼女と過ごしてきた中で一番平穏な日々だった。いや、他の誰との日々を比べても、きっと。
 だが披露目の日、あれだけの応酬があって何もかも同じなど有り得ない。あの日を境に決定的に変わったことがあった。針葉はそれを数日後思い知ることになった。

 雨がぱらつく日だった。
 その日針葉は夕方には仕事が終わり、夕餉にも間に合った。いつもの西真中の部屋には膳が七つ並べられており、珍しく織楽が姿を見せていた。全員が揃うのを待って、織楽はぱんと手を打ち鳴らした。
「皆々様、お聞きください。なんと、無事、女の子が産まれましたっ!」
 役者の顔と声で真面目に言った途端、ふやけたように顔が崩れた。箸が止まり、口々に祝いの言葉が飛び交う。おめでとう、良かったな、女の子だったの、これでひと安心だな。おおきに。ほんま良かった、有難うな。
「いついつ? もう見たの?」
「文が届いただけ。上旬やて書いたあった」
「近々会いに行くんだろう」
「今の公演は抜けられへんけど、夏芝居は休みもらえることになってん」
「じゃあ夏に向こうへ」
「そのつもり。夏言うたらどんなもんやろ、どんくらい大きなってるもん? もうお雛さんとか分かるかな」
「まだ首も座ってないだろ。でも音の出るもんなんかは喜ぶんじゃないか」
「ほんま! 紅花の店にある? 一緒に選んでぇや、な、この前のお返しや思て」
 一人黙々と箸を進めていた針葉はふと気付いた。暁も、にこにこしているばかりで何も話していない。ふっと視線を滑らせると、子供は畳の上を這い回り、時々立ち上がってはすぐ転び、今は紅花から蒸し魚のほぐし身を与えられていた。
「あんた、ちゃんとこっちに住むとこ用意しときなさいよ」
「そらもう。分かってるて」
「あんたの部屋も。ちょっとは片付けてよね」
「それはもうちょい置かして」
 やがて子供が暁のもとへ帰る。彼女はそれを満面の笑みで迎え、抱き上げて背中を叩くとき、わずかに顔を歪ませた。
 雨は夜もしとしとと降り続いた。針葉は欠伸を一つ、自室へ戻ろうとしたところで、ふと振り返って縁側の一番向こうの部屋に目をやった。今度は溜息を一つ、やはりまだ灯りが漏れている。聞き分けの無い奴だ。
「暁、もう遅いぞ」
 机に向かっていた暁は顔を上げて振り向いた。針葉の姿を認めると小さく頷いて筆を置き、身の回りの書物を閉じ始める。針葉は笑って足を踏み入れた。
「お前は昔っから一度始めると止まんねぇな。どうだ、この前書いてたのは仕上がったのか」
「来ないで!」
 鋭い口調。慌てて足元に目をやるが、何を踏んだ形跡も無い。畳だけだ。瞬き一つ、暁に視線を戻す。暁は片付けの手を止め、肩越しにぎこちない笑みを覗かせた。
「もう、夜だから。それ以上近付かないで」
「夜って。そりゃ夜だが」
「来ないでって」
 やむなく針葉は踏み出しかけた足を戻し、そこに腰を下ろした。尻のすぐ後ろに敷居がある。暁はそれ以上は何も言わず、机を隅へやり、本を重ねてその下へ押し込んだ。
「……昼間とえらく態度が違うな。もう寝ろって言いに来ただけだろ。お前の書いてるもん破りに来たわけでも何でもない。いきなり、近付くな、は無いだろ」
「だから。夜だからって」
「夜だから何だ」
 暁は長く息を吐いてくるりと振り返った。昼にはあれほど柔らかかった表情が、今は固く強ばっている。
「針葉。前にも言ったとおり、私はあなたのことを大事に思っています。好いています。だから、もしもあなたが、……そんなつもり毛頭ないかもしれないけれど、あの雪の夜のように私を、抱こうとするのなら、……私は多分、あなたを拒めない」
 結構なことだ。だが暁の眉間の皺が、うろうろと落ち着かない目が、多すぎる瞬きが、浮かれることを許さない。
「でもあなたのことが大事だから、そうしていずれややが宿ったとき、あなたの望まない子を産んで、あなたに辛い思いをさせたくない。それに私は自分の子のことも同じくらい大事に思っています。これ以上、父のいない子を増やすわけにはいかない」
 針葉は何も言えずに暁を眺めた。
 これだったのだ。
 あの披露目の日の話し合いが、彼女に残したもの。
「あなたと一緒に過ごすのはとても楽しい。あなたはいつも私のことを気遣ってくれるし、私の見たことのないものを見せてくれる。私もできれば、あなたの支えになりたい。あなたと一緒にいたいと、心の底から思う」
 言葉を選びながらゆっくりと話す、彼女の顔は今は安らかだ。苦しみから解き放たれたように。
「でもこの前あなたが言ったとおり、あなたと夜を過ごしたことだけは、間違いだったのかもしれない。だから、もう間違いを犯さず済むように、……大事なあなたに辛い顔をさせずに済むように、どうか夜だけは、この部屋に来ないで」
「暁……」
「出て行って」
 暁は今までになく幸せそうに微笑みながら、きっぱりと、針葉を拒絶した。



 昼過ぎて黄月の部屋に現れた暁は、胸に睦月を抱いていた。黄月は書見台に伸ばした手を止める。
「黄月、今」
「暇じゃない」
 先制されて詰まりつつも、暁は大きく頷いた。
「暇じゃなくて、本を読んでいる。でも薬は作っていないね」
 黄月は息を吐いて紙をめくった。「夕方には先生のところに用があるから、それまでだ」
 暁はこくこくと頷いて睦月を畳に放流した。
「充分。これから納品ってところで間違い見付けちゃって、今日中に全冊綴じ直さなくちゃならなくなったの。夕方までには終わらせる」
「俺が頼んでいたものは」
「八割がた。紅砂から急で頼まれてるものがあって、それが終わったら仕上げと見直しに入るから」
 早速縁側へ出て行こうとした睦月を連れ戻し、黄月は書見台の前に座り直す。
「油断も隙も無いな。これが歩くようになったらお手上げだ」
「つかまり立ちはよくするよ。でも何も無しで歩こうとするとすぐに転んじゃう。もう少しだと思うんだけれど」
「そうか。もう少しか、睦月」
 黄月は、彼には珍しく嬉しそうに笑い、睦月の脇を手で支えて立たせた。
「そういえば今日は針葉もいただろう。あいつにもたまには水入らずで面倒見させてやればどうだ」
「駄目」暁は笑って首を振った。「針葉には任せられない」
「何だ。仲直りしたんじゃなかったのか。最近よく一緒にいるだろ」
 睦月は脇を支えられて数歩進んだが、黄月が手を離した途端にこてんと転んで目を潤ませた。黄月がすかさず頭を撫でてやり、歪み始めた表情がどうにか落ち着く。
「私と針葉はね。多分今までで一番うまくやっていると思う。私のことは大事だって、言ってくれた」
 惚気か、と黄月が鼻で笑う。暁も笑う。朗らかに。
「でも睦月のことは別だって。欲しいと思ったことなんて一度も無いし、慈しめないって」
 黄月の表情がすっと消えて、睦月を見下ろした。また脇を支えられたものの、不満そうに下唇を突き出している幼子。
「それは随分と……勝手な話だな」
「元々そういう人だったんだよ。無理に期待を掛けたのがいけなかったの。……今みたいな台詞、睦月には絶対に聞かせられない。この子は私だけの子でいい。どうにかして三人一緒にいたかったけれど、そう願うのはそれこそ私の勝手で、これ以上二人が近付いても何も良いことなんてないもの。……でも」
 黄月は暁に目をやる。彼女は諦めたように目を閉じて笑った。
「睦月のこと以外では、本当に、優しいの。言葉こそぶっきらぼうだけれど、何かにつけて気を遣ってくれているのがよく分かる。睦月のことも、自分から手を上げたりはしない。無理に関わらせないようにしてからは平和なものだもの。……そういうのに触れると、あの人が好きだって、一緒にいたいって思う。……駄目だね」
「駄目だな」
 興味無さげに一蹴され、暁は苦笑混じりに腰を上げた。
「ごめん、長居した。できるだけ早くに迎えに来るから」
 追うように声を上げた睦月に小さく手を振り、暁は部屋を立ち去った。

 暁が睦月を預けに来たのも偶然なら、程なくして針葉が現れたのも全くの偶然だった。
 次の章をめくったところで足音が近付いてきたものの、音の主は部屋の前に立つなりぎょっと立ち尽くした。黄月は鷹揚に本から視線を離す。今まさに苦虫を噛み潰したばかりの顔の針葉が、そこにいた。
「なんでお前んとこでもそいつの顔見なきゃなんねぇんだ」
 これが父の台詞である。黄月は、遊び疲れて今は仰向けに眠っている哀れな子供に目をやる。
 平然と本を読み進める黄月に舌打ち一つ、針葉はわざとらしく音を立てて踏み入り、何重にも折り畳まれた紙を黄月の眼前に突き出した。
「何だ」
「河川図。前に借りたやつだ」
 すると足音で目覚めたらしい睦月がぐずり出した。今度は黄月が針葉を睨む番だ。無愛想に紙を取ると、睦月を抱き上げて軽く揺すり背中を叩く。泣き声は徐々に落ち着き、また瞼がうつらうつらと下り始める。その間、針葉は呆けたように立ち尽くし、誰よりも付き合いの長い男の見慣れぬ姿を見つめていた。
 やがて、睦月を腕の中で横たえた黄月が針葉を見上げた。
「どうした。ちゃんと受け取ったぞ」
「あ……ああ」
 針葉は眉間に皺を寄せて視線を彷徨わせ、彷徨わせ、結局その場に腰を下ろした。黄月には横顔しか見えない向きで、ふて腐れたようにひと言。
「お前、餓鬼の扱い慣れてんな」
「ゆきがいたからな」
「ゆき?」
 針葉がちらりと顔を見せる。
「里さんのところの」
「里」
「間地の」
「間地……ああ、あの産婆か、斎木の爺の隣の。へえ、あの女、子持ちだったのか。お前はやけに仲良いみたいだが、俺は苦手だな。いつでも自分が正しいんですって顔して」
 黄月は睦月の涙を拭ってふっと笑みを漏らす。
「暁も苦手そうにしていたな」
「ん? ああ、あの女が取り上げたのか、そいつ」
 針葉はまた、ちらりと顔を覗かせた。そのくせ体は誰もいない方を向いたままだ。
「一年近く隣で暮らしていたから、最後には割と信頼していたようだが」
 ふと視点を宙に向けた針葉が、とうとう体ごと向き直った。
「隣で暮らしてたって、誰と誰が」
「里さんと暁だ。お前は知らないんだったか。あの時お前荒れてただろ。睦月に大事が無いように、暁を先生のところに間借りさせたんだ。確か……暮れから秋口までだから、そうだな、やっぱり一年近くだ」
 黄月は一つ頷いて本に手を伸ばしかけ、ぎょっと眉を寄せた。「何だその顔」
「あ……いや」
 針葉は口に手を当てて考え込む。どういうことだ、斎木のところに暁が、暮れから秋口まで正月を挟んで一年弱、じゃああの時のあの台詞は。あの指は。俺が触れた、あの。
「お前、暁のことは好いてるが睦月は要らないとか何とか言ったそうだな」
 黄月の声がふっと針葉を引き戻した。
「あいつが話したのか」
「他に誰がいる」
 針葉はまた不機嫌面に戻って黄月の腕の中のものを睨み、顔を背けた。
「おあいこだ。あいつだって、夜は近付くなって言いやがった。部屋にも入るな、だぞ。人を何だと思ってやがんだ」
 唾を飛ばして力説する針葉の後ろで笑い声が聞こえた。振り向くと、堪え切れないと言うように黄月が肩を揺らしていた。
「何だよ」
「安心したんだ。あの女もなかなか面白いことを言うようになった」
「どこが面白いって」
 針葉の恫喝など、付き合いの長い黄月には何の効き目も無い。ひとしきり笑った後で黄月は、本格的に眠り込んだ睦月を膝から下ろした。
「お前だって分かってるだろう。惚れた、抱きたい、しかし子は要らない、それが通用するのは廓の中だけだ。この家はいつから廓になった。お前はあいつを買ったつもりだったのか」
「んなこた言ってねぇだろ」
「しかしやっているのはそういうことだ」
 返事は無い。黄月は部屋の隅に置いた布を取った。暁が残していった睦月お気に入りの上掛けだ。一度広げ、細長く折って小さな体の腹を覆う。柔らかな陽を浴びてすやすやと眠る幼子。つるりと低い鼻のすぐ上でこんな会話が飛び交っていると知ることもなく。
 黄月はそのまま針葉の向かいに腰を下ろした。
「よく似ている」
 ふん、と小馬鹿にしたような鼻息。針葉が甚振るような目付きで睦月を眺めていた。
「どこがだよ。黒髪黒目なんてどこにでもいる。それ以外の造作はまんま暁だろ」
「睦月のことじゃない」針葉を見る黄月の目にも冷たい光が宿る。「もちろんお前と睦月もいくらか似てはいるが……今言ったのはお前と、お前の父親のことだ」
 針葉が顔を上げる。一切の表情が抜け落ちた中で、目ばかりがぎらりと見開かれている。
 沈黙。黄月は真っ向から闇のような双眸を見つめ返し、口元に薄い笑みを浮かべた。その唇から、決して聞き逃せないように、ゆっくりと、声。
「お前の母親を都合よく扱って、お前が宿った途端にお前たちを捨てて消えたお前の父親に、お前はよく似ている。お前の身勝手に振り回されながらも、受けた仕打ちを都合よく忘れ、結局はそれを赦す暁も、お前の母親にさぞかしよく似ているんだろう」
「……何を……」
「お前も都合よく忘れたのか」
 黄月の手がさっと伸びて針葉の左腕を掴んだ。息を呑む音。小さく悲鳴。身をよじり逃れようとする。怯え。黄月程度の力、どうということも無いはずなのに。黄月は腕を離さない。袖をめくり上げる。肘が覗く。さらに上。
「消えないぞ針葉。分かるか。これは決して消えない。いくら上から彫り重ねようが、お前がされたことは、お前が生き続ける限り残るんだ。ここにこうして」
 針葉の左上腕にいくつも彫られた文身、その中にひときわ古いものがあった。長ずるに伴って醜く伸びてぼやけ歪んだ、鎖の形の彫り物。
「お前が長に助けを乞うたとき、既にお前の腕にはそれがあった。真新しい傷から流れ出た血で袖が真っ赤に染まっていた。そのうえお前の」黄月は手を針葉の首へ伸ばした。恐怖に見開いた目。しかし体は動かない。「お前の首。ここにも爪痕と痣が残っていた。指の形の痣だ。分かるか針葉。覚えているな。お前が暁にしたのと同じだ!」
 針葉がぶんと腕を振るった。黄月は危うく手を引っ込める。浅い息の音。それ以上、針葉が手を上げることはなかった。俯いた顔からは表情が窺えない。
「……傷のせいで高熱が出て、お前はこの家に着くまでずっと目を覚まさなかったそうだ。具合が戻ってからは昔の話を一切しなくなった。だから……長が万一のためにと俺に託したんだ。何事もなく過ごせれば一番良いと言い置いて」
 針葉が静かに顔を上げた。疲れ切った表情、血走った眼。
 ――なあ黄月。俺は実際、お前よりあいつのほうを危ぶんでるんだ。親を陥れた相手に顔色一つ変えずやり返したお前よりも、さっぱり洗い流したみたいに恨みごと一つ言わんあいつをな。
 長。
 ――本当にあいつの中で始末がついてるんならそれでいい。坡城に来て、お前っていう同い年の同居人ができて、あいつはちゃんと立ち直れたのかもしれん。だがもしそうじゃなかったら。
 長、俺にはこいつを立ち直らせるなんて到底無理だったよ。あいつは何でもない顔で左腕を彫り続けたし、良い仲になって、右も左も分からないほどのめり込んで、しかしふた月ともたずに別れる相手は、決まって年上の、時には夫や子のある女ばかりだった。
 奔放で自分勝手で、いい加減な男。紅花が針葉に下した評価は一面においては正しいが、その実、彼のある側面しか見えていない。自分で知ってか知らずか、彼自身がそう装っていた。自らの行動の裏にあるものを知られまいと。
 ――酷いと思うか。同い年の、同じように辛い思いをしてきたお前にこんなことを託して。しかしお前にしか任せられんよ。いよいよ俺にお迎えが来るってときにでも、顔色一つ変えんお前にしかな。
 だから分からせるしかない。今、俺が。
 針葉はゆらりと立ち上がった。黄月も視線で追ったが、もう彼と目が合うことはなかった。
「忘れちゃいない」
 そう言い残し、重い足取りで彼は立ち去った。
 足音が消えた縁側から、穏やかな風がすっと吹き込んで睦月の黒い髪を揺らす。夏至に近付いたこの時期、夕暮れまではまだ遠い。

 ――お前の父親に、お前はよく似ている。
 針葉は、黄月の部屋の二つ隣の物置部屋に入って立ち止まった。近道でここを通って向かいの自分の部屋へ戻るつもりだったのに、誰の気配も無い、静かで狭い空間に足を踏み入れた途端、今聞いたばかりの台詞が耳に蘇ったのだ。
 膝が力を失ってすとんと座り込む。箪笥、衝立、竹竿に、壊れたままの文机。縮こまった体は今にも押し潰されそうだ。覚えている、昔も自分はこうして狭い場所で隠れるように膝を抱えていた。何も見ないように、何も聞かないように。
 そう、忘れちゃいない。あえて思い出さなかっただけだ。
 記憶の沼に潜る。深く、深く、腐った泥を掻き、はびこった藻に足を掴まれながら。底へ近付くに従って、水は濃く、重く、腐臭を放ち出す。その先にあるものに触れたことはない。いつもその前に引き返した。分かり切った危険は冒さない、それが長ずるということだ。賢くなるということだ。
 だが今、鋭い枝が沼を掻き乱した。泥が舞い上がる。腐った雲のようにふわりと、しかし肌に触れた途端にどろりと姿を変えて。底に潜んだ重ったるい化け物が目を覚ます。
 そう、あの人は笑ったのだ。初めて自分があの人の名を呼んだときに。呼んではならなかった。それがあの人の崩壊を招いた。
 後から考えれば戦慄するような笑みだった。あの人と自分の間にその呼び名はあってはならなかった。あの人は禁忌に触れ、自分は知らず応えてしまったのだ。
 あのとき、彼女と自分の関係は壊れたのだ。
 ――恐ろしい女。
「……千耶、」
 自分が、彼女をそう呼んだときに。