海近くの街は数日間の花冷えに襲われ、ようやくそれが緩んだ温い昼。坡城の港に一隻の船が着いた。
 津ヶ浜の大島から半日かけて坡城へ至る船だった。荷を抱えた男衆、親子連れ、ひとり者。ぞろぞろと降りる者たちは冬でも大半が日に焼けている。
 最後に現れた長身の男は、目を閉じたまま器用に不安定な渡し板の上を歩いた。彼の足が港の地を踏んだのを見届けて、港守りが船守りに向かい腕を上げる。
「ーおっし、板外せぇ!」
 呼応して船守りから掛け声が上がる。身軽になった船が繋留所へ進むのを眺め、港守りは最後に降りた客へ声を掛けた。
「按摩の兄ちゃん、船旅ご苦労さん。気を付けてけよ」
 目を閉じた男はひと呼吸遅れて立ち止まり、後姿のまま会釈を寄越した。
 男はそのまま船着き場から離れ、人込みをすいすいと抜けてゆく。やがて北門を通って港を出る頃には、彼の瞼は何事も無かったように開き、海の色の目を覗かせていた。
 彼はそのまま大通りを北上した。家へ帰るのは半月ぶりだ。思いのほか時間を食ってしまったのは誤算だった。
 それは全くの偶然だったのかもしれない、帰路を急いでいたはずの彼は、ふと通りの右手を見上げた。興行中であるはずの季春座の破風には櫓の骨組みだけが残り、幕が取り払われていた。紅砂は思わず足を止めた。
 木戸には急場凌ぎらしき半紙の書き付けが貼られており、じっと読んでいた客らしき女が二人、不満げな顔で去って行った。後にはぺこりと頭を下げる若い役者が二人。
 紅砂はそちらへ近付いて軽く頭を下げた。役者のうち左手の男はすぐに紅砂に気付き、強ばっていた表情を緩ませて、怪訝そうな顔のもう一人に何か伝えた。
「先日はどうも。今日はこちらは休みですか」
「それが大変なんです。僕らも困ってて」
「おい、部外者に何話す気だ」
 縋るように話し始めた左手の男を、隣の男が止める。「お客さんを巻き込むことじゃない。馬鹿かお前は」
「だから。この人はお客さんだけど、織楽さんの家の人でもあるんだよ。この前の披露目のときにもいらしてた人だ。じゃあ言っとかなきゃ駄目だろ」
「織楽がどうかしたんですか」
 また始まりそうになった口論を紅砂の声が止める。何か言いたそうだった右手の男は諦めたように視線を落とし、左手の男が改めて口を開いた。
「織楽さん、港番に呼び出しを受けてるんです」

 紅砂は彼らに連れられるまま廊下を進み、披露目を行った大広間の襖を開けた。
 ざわめきが途切れ、いくつもの目が一斉に紅砂を見た。織楽、座長、紅花が贔屓にしている花形役者、その他、顔を覚えない役者らしき者たちが数名。
 何だ、誰だ、と再びざわつき始めた声を織楽の手が慌て制する。
「紅砂。何してんねんお前は」
「いや、なんか……連れて来られて」
「何や知らんけど、今取り込んでんねや。悪いな、出てってもろてええか」
 そう言って笑う織楽の眉には疲れが漂っている。一度は襖に向きかけた紅砂の足が止まった。
「お前、番人に目を付けられるような何をやらかした」
 織楽は目を丸くしたかと思うと吹き出した。顔を崩して紅砂の肩を叩き、それは安心させるための嘘には思えなかった。
「あーあ。何吹き込まれてん。あんな、確かに港番に呼び出し喰ろてるけど、叱られに行くんちゃうで。俺があんまり蠱惑的やし、一度自分らの前で舞ってんかぁ言われてん。我がことながら罪やなぁ」
 後ろの役者たちも、「どうせ若い奴らだろ、早合点しやがって」と苦笑している。いよいよ居辛さが募る。だが。
 紅砂は織楽の手を払った。
「じゃあ何だ、その顔は。この重苦しさは」
 眉を寄せて黙り込んだ織楽の後ろから、紅花お気に入りの役者が顔を出した。
「こんにちは。紅花さんのお兄さんですね。いつも有難うございます、本川と申します。実は今回の件、港番そのものからの依頼ってわけじゃないんですよ」
「でしょうね。港番が戯れに役者を呼ぶなんて聞いたことがない」
 本川がゆったりと頷く。何でもない所作がいちいち絵になる男だ。
「お兄さん、港番に捕えられた異人の話はご存じですよね。その異人の祖国の特使が港番との交渉のため、この坡城にまたご逗留なすっているわけです。特使のお一人がお役の無い日に忍びでうちの芝居を観にいらしたらしく、そこで織楽をいたく気に召されたということで、あの役者を呼びたいと。果たして、港番を通じて季春座へご令達が参ったという次第です」
「とんでもない話だ。どこの馬の骨か分からん奴らの中に大事な役者を放り込めるか」
 低い声で言ったのは座長だ。初めて見たとき紅花が鬼と形容したあの強面も、少しは見慣れたつもりでいたが、今はどの荒事役より険しく見える。
「わ。座長そんなん言うてくれたん初めてちゃいます。乾飯も(ほと)びるわぁ」
「茶化すな。お前の話だろうが」
「だから俺が付いてくっつってんだろ」
 苛立ったように畳を叩いたのは、奥に胡坐をかいた大柄な男だった。座長も顔負けの厳めしい顔立ちをしている。座長はそちらを一瞥してふんと鼻を鳴らした。
「荒事役をこなすからといってお前が実際に強いわけでも何でもない。得物なんて持ち込めんのだぞ。お前を行かせるくらいなら間地の道場にでも頼んだほうが余程ましだ」
「あー、もう堂々巡りやなぁ。お守り役なんて連れてったら気ぃ悪しはるかしれんやん。ええよ、行ってくるて」
「誰が行っていいと言った」
「行かなしゃあないですやん。興行日数のこととか夜芝居のこととか、ちょいちょい目こぼししてもうてんでしょ。こんなんで睨まれたら阿呆やん」
 座長は険しい表情のまま押し黙り、「お前が気に病むことじゃない。自惚れるな」と吐き棄てた。勢いの無い声だった。
 そして部屋はまた重苦しさに満ちる。織楽が長く、細く息を吐き出す。鬱積した溜息が体中にまとわりつくようだ。
「それ、いつ行かなくちゃならないんだ」
「今日から十日のうちで話し合うて決めよて。でも返しは今日明日じゅうにはせな」
「俺が付いて行くよ」
 一瞬遅れて、あちらこちらから乾いた笑いが漏れた。「おいおいお兄さん、お気持ちは有難いが」「話聞いてたかい。遊びじゃないぞ」「こっちの問題だ。首突っ込むのはやめときなさい」
 その中で織楽だけが目を丸くし、ぽんと手を鳴らした。
「そや。道場やん」
 紅砂を指差して言い、慌てて周りの役者たちに説明を始める。こいつは実は間地の道場に通っている。前にも港で乱暴者を退治したとか何とか。しかし織楽の口は途中でぱたりと止まった。
「でもあかんやん。向こうさんの望みに沿わんお守り役やいうんは変わらんし、危ない目ぇ遭わせられへんわ」
「危ない目はお前の方だろう。それに……これは俺が自ら望んでるんだ」
 織楽が表情を変えず、目だけを見開いた。
「頼む」
 目を伏せる紅砂をじっと見つめ、ゆっくりと視線を巡らせて囁いた。「紅砂、お前何か一芸持っとるか」
 え、と顔を上げたところで「おい」と座長の声が割り込んだ。
「何だか知らんが勝手に話を進めるな。君もだ。案じてくれているのは分かるが、」
「座長! こいつ踊るのめっちゃ上手いねんで」
「は!?」
 きらきらと見惚れるほどの笑顔で紅砂の肩を抱く織楽の突拍子もない台詞に、紅砂を含め、周り全てが目を剥いた。座長はあんぐりと口を開けたまま固まり、肩を落として眉間を抓んだ。



 篠原は番処の門をくぐった先で待っていた。手燭の小さな光は顎までしか届いていない。紅砂は会釈して門をきちりと閉めた。
「久しいな」
「有難うございます。若菜は、無事ですか」
「まだ、な。お前さんも飽きずに通って、全くご執心なことだ。あれは廓ではそんなにいい女だったのか」
 単なる軽口だったらしく、篠原がすぐに背を向けて歩き出したので、紅砂は何も答えずに後を追った。何故こんなことを続けているのか、改めて問われると答えに窮する。彼女が捕われる前に何を約したわけでもない。それどころか嫌われていたのかもしれない。それでも、彼女にこれ以上辛い思いをさせるのは耐えられない。
 執心だと篠原は笑った。そのとおり、執着なのかもしれない。
 初めてここを訪れたとき、篠原は年開け早々には処刑されかねないと言った。それが花ほころぶ今でさえ生き長らえている。港番と外つ国との交渉が長引いているからかもしれない。ネイトが捕われているうちに明らかにしなければ。それまで津ヶ浜にいたと言った彼が、何を目的に危険を冒して北上したのか。
 夜陰とは何だったのか。
 先に房へ向かった篠原が戻ってきて紅砂を促した。灯りを背に歩き出す。
「若菜」
 暗闇の中で身動きする音があった。「ありがとう、また来てくれたの」
 若菜の声は穏やかだった。紅砂はほっと息を吐く。
「この前は寒かったな。最近じゃ随分暖かくなって、外では花も散り始めだ。ここはそれでも寒い気がするな。土と近いからかな」
「そうね。いつでも暗いし湿ってるし、いつ季節が巡ったのか分からないくらい。……あなたに会えると、少し刻が流れたんだって分かるわ」
「具合は」
「平気よ。この前調子を崩してから、出されるものが少し多くなった気がするの。少し扱いも良くなったわ。死なれたら困ると思われてるのかしら。だから心配しないで」
 確かに若菜の声には張りが感じられた。単なる強がりではないようだ。
「そうか。……どうか、もう少しだけ待っていてくれ。もう少しで、あいつがわざわざあんたの郷里へ向かった理由が分かる。あんたは何の責めを負うべきでもないと、明らかにできる」
 若菜の笑い声。泣きそうな声。
「あなた、まだあたしをここから連れ出せると思ってるの」
「当たり前だ。罪が晴れればこんなとこにいる必要なんて無い」
 檻の隙間から白い手が伸びてくるのが、暗い中でも見えた。そっと紅砂の頬に触れる冷たい指。
「やめて。あたしはもう充分。この前あなたに貰った言葉だけでいいの。……夢なんて要らないと思ってた。廓で交わす約束なんて幻だもの、信じても身がもたないだけだわ。でもあなたはこうして今も会いに来てくれる。それだけで幸せなのよ。どうか……どうか危ないことをしないで」
 紅砂は、冷たい手に自分の掌を重ねた。
「この前、津ヶ浜の離島に渡った」
 若菜が息を呑む。
「ネイトがここに来る前にいた場所だ。徳慧舎っていう詳細な和解を出している私塾も、定期的に津ヶ浜で言葉を仕入れていた。島にはネイトの国だけじゃない、色んな国の奴らが逗留している場所があった。前に会ったときネイトは、「ひと山当てに来た」と言っていたんだ。「お前も同じくちだろう」とも。あいつに限ったことじゃない。あんたの郷里を目指したのは島ぐるみかもしれない」
(せんり)、あなた……」
「六日後にはネイトの国の特使に近付く機会も得た」
 若菜が首を振った。ぐしゃぐしゃに歪んだ顔が見えるほど、目も慣れていた。
「駄目。あなたは幸せにならなきゃ駄目なのよ。こんな穴蔵じゃなくって、陽の当たる場所で」
 若菜の指が震えながら檻の内へ戻る。
「あなたまで捕まってしまったら……あたしには耐えられない。あなたが幸せであってくれさえすれば、あたしは幸せなの。あなたは真っ当に生きられるのよ。なのにどうして」
 紅砂の手が檻をすり抜けて、若菜の頬に触れる。疲れ切った肌。辛い日々をくぐり抜けてきた感触だった。
「俺のことは大丈夫だ。心配しなくていい」
「そんなこと……」
「あんたは自分の身を大事にしていてくれればいい」
 ふっと紅砂が横を向く。篠原からの合図を受け取ったらしく、「また来る」と言い残して去って行った。
 檻の中に一人残され、若菜の体が細かく震える。あの人は何も分かっていない。馬鹿が付くほどの善人だから、善意に囲まれて生きてきた人だから、周りからも当然に善心が返ってくると思っている。
 壬でも廓でも辛いことはあった。ここに捕われてからは地獄も見た。隣で呻く山吹の、異臭を放つ瘤だらけの体。突然消えた山吹、広くなった房。そして自分に被せられた謂れのない罪、侮蔑、拷責の数々。それでも今が一番恐ろしい。
 紅砂は若菜に夢をかけた。この汚れた身に余るほどの願いをくれた。だから若菜も紅砂に夢をかけたのだ。幸せであるようにと。誰か真っ当な人と、陽の当たる場所で、幸せに暮らしてほしいと。あの善き人が、善きまま生きていけるように。
 それすら叶わないのか。
 土を踏む足音。地を照らす灯りがぼんやり近付いて、若菜の房を照らした。光に身が竦む。
 手燭を携えた男が、隙の無い黒い目で彼女を見下ろしていた。新しい蝋燭の頂で火が揺れている。
「あいつは深入りしすぎたな」
「……聞いてたの」
「どうする。このままじゃあいつも捕まりかねん。さすがに俺も庇いきれなくなりそうだ」
 若菜は檻を掴んで精一杯身を乗り出した。
「止めてよ。お願いだからあの人を止めて」
「止めたさ。お前さんも止めたんだろう。だがあいつには何を言っても効かない。惚れられたもんだな」
 若菜が唇を震わせて黙り込む。男はふっと鼻で笑って檻の前にしゃがみ込んだ。眼前に髭面が迫り、若菜は思わず身を引いた。
「なあ、どのみちお前は無事では帰れまい。お前が生かされてるのは、誰もが納得する落としどころを決めかねてるってだけだ。分かってるんだろう」
 浅く息を吸う。数度瞬いて目を逸らした。
「……言われなくても」
「それなら最後にひと華咲かせてみればどうだ」
 若菜は目を見開いた。垂れた瞼の奥の、黒い目。突き出た下唇にはにやりと笑みが浮かんでいる。
「……あんた、最っ低の男ね」
「もてないのは今に始まったことじゃない。薄汚れた女郎風情にそのくらい言われたってどうってことないね」
 男は立ち上がり、「よく考えるんだな」と言い置いて去った。灯りが遠くなり、元通りの闇に押し潰される。
 若菜は身を抱き、突っ伏して震えた。あの人を護るため、あの人にかけた夢を叶えるために、あの人の善意を粉々に打ち砕かなければならない。
 ここで味わったどの地獄より、それが一番恐ろしい。



 港番は織楽のために部屋を用意するとのことだったので、豪奢な着物や飾り物の類は先に届け、二人は座長とともに夕刻に季春座を出た。
 帰りを急ぐ人々の足音。煮売りの声。白く暮れる春の空。紅砂は肌寒さに身を震わせ、斜め前を行く織楽に目を向けた。
 いつもは着崩している着物が、今日は衣紋を抜き高い位置で帯を結び、女のような着こなしを意識しているようだ。表情は平然としているように見えた。緩く唇を結び、視線は穏やかに前を向いている。
「さすが舞台慣れしてる奴は違うな」
「んー? そう見えて実は喉から肝飛び出そうやねん。でも飛び出てたら吃驚しはるし口閉じてんの」
 どこまで本気か分からぬやり取りを重ねるうち、番処の門に着いた。紅砂が若菜を訪れる時分には閉ざされている門は、今は開き、両脇には刀を提げた男が控えている。
 紅砂は音を頼りに歩みを進める。
「ここで待っていろ」
 座長の足音が離れ、何か話してまた戻ってくる。
「あっちの番人が部屋まで案内するそうだ。儂はここまでしか入れん。くれぐれも気を付けろ。何かあれば、無事に戻ることを第一に考えるんだ」
「分かってますて。俺の要領のええのんは知ってはるでしょ。茶ぁでも飲んで待っててください」
 織楽がひらと手を振ってすたすた歩きだす。紅砂は振り返り、不安げに同じ場所に佇んでいるらしい座長に頭を下げると、織楽に続いて門をくぐった。
 番人に連れられたのは一階の端にある部屋だった。小ざっぱりと片付き、前もって預けておいた荷が隅に積まれている。
「私はこれで。日が落ちる前には呼びに参る」
 番人の足音が遠ざかったのを聞いて紅砂は目を開けた。織楽は既に着替えに入っている。
「紅砂、これ着ぃ。後で化粧もしたるしな」
 そう言って織楽が寄越したのは、彼の着物に負けず劣らず派手な一着だった。黒を基調に金や朱、紺で模様が散りばめられている。裏地は裏地で鮮やかな朱にぼかしが入り、目が眩むようだ。
「こ……っ」
 こんなこっ恥ずかしいもの着られるか、と言いたいのをぐっと呑み込んだところへ、織楽が次から次へ衣装や飾りを寄越した。襦袢、袴、裃、冠に帯に太刀。なるようになれ。涙を呑んで一つ一つ身に付けていく。質が良いだけあって、ずしりずしりと体に重みが増していく。
「似合う似合う。感謝してや、着たい思てもそうそう着られるもんちゃうで」
「着たいなんてひと言も……」
「またまたぁ。片桐のんやけど、お前もええ体しとるから丁度やったな」
 織楽は既に上から下まで煌びやかな女ものに身を包み、髪を上げて自分の化粧の仕上げに取り掛かっていた。織楽と思えばこそ驚くが、そうと知らなければ見惚れたかもしれない。派手は派手でも不思議としっくり馴染んでいる。
「それにしても、お前にあんな持ち芸があったなんて知らんかったで。早よ言いや」
「芸ってわけじゃない。このほうが都合がいいだけだ。あんまり大っぴらにはしてくれるな」
「……見慣れたら綺麗なもんや思うけどな。ま、今回はしゃあないか」
 慣れぬ薄化粧で肌を隠し、身支度が整ったところで番人が呼びに来た。紅砂は晒しで目を覆い、鉢の後ろでしっかりと結んで立ち上がった。
 視界から物が消える。黒でもなく白でもない瞼の裏。音を頼りに冷たい廊下を進んだ。前を行く番人はしっかりと踵に重みを落として歩く。織楽は山ほど衣や飾りを纏いながらも、ほとんど音をさせずに歩く。
「ここには段があるぞ」
 それも番人の歩き方の変化で既に見えていた。小さく頷きを返して足を運ぶ。ふと番人の足が止まった。向こうから、ゆったりと近付いてくる足音。
「こら、辞儀をせぬか」
 押し殺した番人の声。位の高い誰かか、もしくはこれが外つ国の。紅砂は慌てて頭を下げる。足音が更に近付く。
「お前たちか。港ではなかなか評判らしいじゃないか。精々あちらの機嫌を損ねぬように頼むぞ」
 くぐもった声。五十代、それとも六十代。歩調と同じくゆったりとした話し方だ。別の街から来たお偉方というところか。
「有難きお言葉を賜りまして。心を尽くしてまいります」
「はは。どれ、私もここにいる間に観に行ってみようか」
「伊東殿。いけません、芝居小屋など。今回のように呼び付ければ良いのですよ」
 お偉方の後ろからひょこひょこ付いてきた足音が、そう割り込んだ。伊東殿とやらの付き人らしい。二人はそのまま紅砂の脇をすり抜けて立ち去り、番人もまた、今の二人について何も明かすことなく歩き出す。しばらく行ったところでまた番人が立ち止まった。
「止まれ。この二つ先で既に夕餉を取られている。合図をしたら襖を開けるから、次の部屋に入ったら静かに頼むぞ」
 ふっと織楽の息の音が消えた。紅砂は肌を研ぎ澄ませて彼の気配を掴み、遅れぬよう付いていく。
 畳の音。腰を落としたようだ。追ってその場に膝をついた。襖を隔てた向こうからくぐもった声が聞こえる。耳を澄ますが内容までは聞き取れない。
「開けるぞ」
 細く息を吸う。襖の滑る音がして、晒しに隠れた瞼の奥にも光が差す。
長らくお待たせいたしました(さくふぉやぺぃしぇ)ご用命の役者が参りました(ずぃあくたざずかん)
 たどたどしい言葉で別の番人の声。この声が通詞なのだろう。思いのほか若い声だった。かちゃかちゃという箸や器の音が止み、音も無く視線が降り注ぐのを旋毛(つむじ)で感じる。特使は何人いるのだろうか。暖かい飯の匂いが漂っている。
二人いるぞ(あた)あっちの娘だけ呼んだつもりだったんだが(あめんてぃばいらば)
 流れるような言葉だった。慌てたように通詞が小声で何事か話す。織楽と紅砂は畳に頭を下げたまま置き去りだ。漏れ聞こえる織楽の息が焦れている。
 やがて通詞は、特使と話すときとは打って変わった仰々しい話しぶりで言った。
「何ゆえ二人で参ったか、と仰せである」
「まずはこうお伝えを。この度は季春座へお越しいただいたばかりか、このような席にお招きいただき、身に余る光栄と存じます」
 すかさず織楽が張りのある声で返す。口調だけは柔らかいものの有無を言わさぬ強さだった。通詞はたじろぎつつ素直に訳する。彼の言葉が途切れるや否や織楽が続けた。
「滅多に無き機会でございます。最高のものをご覧いただきとう存じますゆえ、ご用命を違えることとなりぬれど、二人で馳せ参じた次第にございます。この者、」
「ま、待て待て。え……えー、折角ですのでお二方には私一人の舞いではなく(らとぅしょゆとぅべすてうぃは)私たちにできる最高のものをお見せしたいのです(なじゃおうりみ)
 それでようやく、特使が二人いることが掴めた。言葉の分からぬ織楽は、通詞がそれ以上話さないのを確かめて口を開く。
「この者、元より目の見えぬ者。されど肌と耳とで物見る術を身に付けました。まずは私が舞い、続けてこの者とともに、季春座が誇る当代一の芸の粋をご覧に入れとう存じます」
 よくこれだけすらすらと作り話が出てくるものだ。役人の書き言葉からかけ離れた織楽節に口籠った通詞だが、「早よ」と織楽が促すと、慌てて大幅に端折りつつも訳して聞かせた。それに対して「よし(うぇ)見せてもらおう(れぜぺい)」と声。
「ご覧になるとのことだ。早速支度を」
「かしこまりました。それでは私織楽と、この者(せんり)とで舞を披露いたします」
 紅砂が深々と頭を下げると、すぐ傍でかすかに風が動いた。織楽が立ち上がったのだ。

 立ち上がる一瞬の間に、織楽は部屋じゅうに視線を走らせた。特使が二人、通詞が一人、番人が特使の後ろに二人、こちら側に一人。部屋こそ畳だが、特使二人の前に置かれた膳は高さが継ぎ足され、彼らも床机のようなものに腰掛けている。普段舞台に立つときより、客の目がずっと上にあるということだ。
 特使は、織楽を呼んだという方が三十絡みの大柄な赤ら顔、もう一方は四十絡みだろうか、落ち着いた風貌で輪郭をぐるりと髭が覆っていた。どちらも、髪も目も色が薄く心許ない。眉の色も薄く、彫りの深さから目には影が落ちて表情が分かりづらい。
 様々な化粧で役を演じてきた。様々な客を見たし、季春座の役者だって出身は様々だ。しかしあんな顔は見たことがない。家へ連れられて初めて紅砂を見たときも驚いたが、今なら断言できる。紅砂は目の色こそ薄いものの間違いなくこちら寄りだ。
 織楽は体をしならせぴたりと動きを止める。そのまま待つ。息の音。そのまま。完全に音が消えたところで指先だけをそよがせた。
 桜だ。
 風に散ってひらひらと地を目指す、桜の花片だ。
 織楽は極限まで抑えた動きで春を舞う。
 特使が見に来たというのは、先月の披露目の直前に千秋楽を迎えた悲恋ものだろう。人と桜の化身との儚い恋を柱に、世相も活劇も盛り込んだ、本書き森宮のお家芸とも言える筋だった。年明けまで続いた顔見世公演が終わった後、間を置かず始まったその公演は、花形役者や経験の長い役者を定番の役どころに配し、千秋楽まで安定した客入りを保った。紅花も何度か見に来ていたようだ。
 口笛の音。何事か嬉しそうな声。織楽は気を散らすことなく、ちらちらと散る花を指先と視線とで見せる。声はようやく失態に気付いたか、また静かになった。
 風が吹く。風向きが変わる。指先から手首へ、腕へと徐々に動きが大きくなる。手首に結び付けた鈴がようやく鳴る。
 大きな風がひと吹き、枝が揺れる、花が散る。鳥の羽ばたきを視線で追う。しゃら、しゃら、簪の音は水が豊かに行く音。流れるような動きの中で織楽は胸元から扇子を取り出した。足を踏み出して舞を繋いでいく。
 唐突に扇子が開いた。音。紅砂が顔を上げる。織楽が突き出した腕はそのまま紅砂を差している。挑むような目。それは今までの静の舞が変わることを予感させた。
 美しい足取りで織楽は進む。紅砂は座したままでそれを待つ。徐々に距離が縮まる。
 織楽の指がぱたんと扇子を畳み、鋭く突き付けた。
 刀だ。
 扇子は紅砂の額に触れるか触れぬかのところで止まり、一瞬遅れて前髪を揺らした。双方微動だにしない。
 織楽がくるりと背を向ける。
 誰かが息を呑む音。扇子によって呼び醒まされたかのように、織楽の背後で紅砂がゆるりと立ち上がったのだ。その手は太刀の柄に掛かっている。鯉口を切る。ひと薙ぎ。誰かが声を漏らす。
 織楽はひらりと身をかわした。ほんの少し浮かせた体の、爪先が降りた途端に大きく踏み込む。刀に見立てた扇子で斬り上げる。鈴の音。目をきっちりと覆ったはずの紅砂は、それが届かぬぎりぎりのところで避けてみせた。
 動の舞だ。
 立ち回りを演じていながらも無駄な動きも、無駄な音も無い。わずかの足音と鈴、簪、衣ずれくらいのもので、観入る者の押し殺した息の方がよほどうるさいくらいだ。
 これこそが、今日まで二人が稽古を重ねてきた演目だった。限られた日数。紅砂は雅やかな舞など触れたこともないし、立ち回りを演ずるにも、刀の技量が特別優れているわけではない。双方息を合わせるので精一杯だ。だが物珍しさの無い立ち回りも、一方が視界を奪われているとするなら充分な見せ物になる。
 片桐が得意とするような派手な立ち回りは、付け焼刃では到底真似できない。別の見せ方をしよう。
「目を閉じたまま歩き回ることくらいしか」、一芸を問われた紅砂が答えたことだ。道場で学んだ正骨術は、按摩として目を閉じたまま銭を得ることを可能にした。更には徳慧舎のように裏手から怪しまれずもぐり込むことも。
 立ち回りは佳境に入り、息をつかせぬ攻防が繰り広げられていた。特使たちはおろか、番人までも固唾を呑んで行く末を見つめる。初めは華やかな織楽の舞に魅せられていたが、今は紅砂の動きから目が離せないのだ。織楽が手加減しているようにも、動きを示し合わせたようにも見えない。なのに彼は的確に織楽の手を封じ、素早く攻め込む。体の芯はいささかも揺らがない。まるでどこかに第三の目があるようだ。
 それでも最後は特使が呼んだ織楽に花を持たせ、紅砂が討たれて斃れた。
 再び静の舞に戻る。高く掲げた扇子が閉じ、どこに忍ばせたか、桜の花びらがひとひら舞い落ちたところで、ようやく場を包んでいた緊張の糸が解けた。
「ありがとうございました」
 織楽の声に、紅砂も正座に直って額を衝く。ひゅ、と口笛の音。拍手の音。番人たちも特使の邪魔にならぬ程度に小さく手を叩いている。
素晴らしい(はびゅるふ)」 「こんな演し物は初めて見た。最高だ(でますびらべすぷふぉませば)
 賞賛の言葉が降り注ぐ。
「えー、大変に満足であったと仰せだ。……え、いやそれは……。この者たちにも共に食事を取らせたい、と……いかがします」
 通詞の最後の言葉は番人に向けたものだ。「構わぬ、運ばせろ」と声。二人はもう一度頭を下げた。紅砂は畳に向けた顔に笑みを浮かべる。
 全てはこの時のため。
思わぬ拾い物が続くな(いつぁにんてすてぃふぁいりげ、は)馬鹿者の始末で辺境に遣られたと嘆いていたが(あそあいわえざいびこぞずぃどてあびふぃりだん)
これで交易路さえ確保できれば、ですな(おざれてぃとぅおぷにゅとれいどぅ)
全く、夜陰狩りなんて馬鹿をやってくれたものだ(はりていてぃんないしぇいぴきいでぃ、ざな)足元を見られかねん(ぜめたいとぅていかばんていじょば)
 ほら、通詞の声が離れたわずかな間に、特使たちはこれだけの囁きを交わしている。
 ここにも耳があると知らずに。