翌日は空高く晴れ、披露目は季春座一階の大広間で行われた。 途中の襖を取り払って最大限に広げた部屋の各所には屏風や雪洞や毛氈が朱に金にとめでたく色を添え、高砂の後ろには掛け軸と花が飾られている。部屋の長辺に沿って、両端と真中の列にはずらりと膳が並び、その周りを座布団が過不足なく囲んだ。 披露目か祝言かもはや判別の付かない、しかしいかにも織楽らしい、煌びやかな祝宴だった。 列座したのは季春座の者が大多数、その他にも贔屓客であろう大通りや裏通りの大店の主がちらほら、また家の者の席も、上座に向かって左の並びに固まって設けられていた。 ざわめきが最高潮に達したところで上座横の襖が開き、正装の織楽と果枝がしずしずと現れた。潮が引くように場が静まる。二人は揃って一礼すると腰掛け、充分な間をおいて織楽が口を開いた。 「えー、皆々様方」 舞台から響くようなよく通る声だった。 「本日はご多用中にもかかわらずご来臨賜り誠に有難う存じます。既にご存知のとおり、私こと季春座甲ノ組若女形筆頭織楽と、同乙ノ組舞役果枝とは、縁あって昨年祝言を挙げる運びと相成り、未熟ながら共に歩み始めたところでございます」 「真面目にもできんのね、あいつ」紅花が暁に身を寄せて囁き、暁も頷く。 「し、か、し、な、が、ら。しかしながらでございます。暑い盛りには夏祭りに夏公演、過ごしやすくなれば秋公演に組替え、年の瀬も近付きますと顔見世公演が晦日も正月も無く年明けまで続きます。さらに季春座、安易な焼き直しをせぬことでも認知いただいており、ごく一部の古典劇を除き、毎度新たな筋の芝居で常連の皆様にもお楽しみいただけるよう心を尽くしてございます。私ども役者には休みなどあったものではございません」 暁が片眉をひそませる。何やら雲行きが怪しい。と、眉に憂いを湛えていた織楽がぱっと表情を猛らせた。 「いいえ誤解はなさらぬよう! 季春座はご愛顧くださる皆様が絶えぬがゆえ年がら年中公演を行っておるのです。それこそが我らが座長の真意に他なりません。決して役者を使い捨ての駒としているわけでも、金儲けに走っているわけでもございません。そのような分かりやすい悪役は三文芝居にしか出てまいりません。役者の私が申すのですから、これ以上に確かなことはありますまい」 そこらじゅうで笑い声を漏らす者、肩を揺らす者がいる。隣に座る果枝の顔が引きつっている。 「私どもも役者の魂を持つ者、お越しくださる方々をひと時別の世へお連れするために日夜励んでおります。これほど皆様へのご報告が遅れましたのも、その魂に殉じたためとご理解賜れば幸甚の至りでございます。余談ではございますが、魂に殉ずるうちに私ども、新たな命にも恵まれまして、近いうちにご報告できるかと存じます」 大店の主の一人が、堪えきれずに声を出して笑い、手を打ち鳴らした。織楽はにっこりと微笑んで会釈を返す。 「さて、堅苦しい前置きはこの程度にいたしましょう。本日は私どもの披露目の宴であるとともに、皆様方への感謝の宴でもございます。まずは、いつもご贔屓賜っております皆様、そして常に第一線で季春座を率いてこられた座長、私を支えてくれている甲ノ組諸兄、かつて私が属し、今は果枝を支えてくれている乙ノ組諸君、共に舞台を作り上げてきた道具方、化粧方、衣装方、鳴物方諸兄、それから」 織楽は一度言葉を切って、家の者の座る一画へ視線を寄越した。つられて他の視線も集中する。下の組の見知った顔、上の組や大店の主の不思議そうな顔。 「私が坡城へ至り、ここ季春座で役者を生業とする切っ掛けを与えてくれた、親代わりとなる御方。長年に渡り私の帰る場所となってくれた、家の皆様。今日この日がありますのは皆様のお陰に他なりません。本日は皆様への感謝の宴なれば、どうか存分に呑み、召し上がり、最後まで楽しんでいただきとう存じます」 織楽が深々と辞儀し、思いもよらぬ挨拶に呆気に取られていた果枝も慌てて頭を下げ、広間は拍手に包まれた。音の嵐の中、紅花がまた暁に身を寄せる。 「どうなることかと思ったけど、いつの間にか綺麗にまとまっちゃうのよね」 「織楽だからね」 長い長い拍手がぱらぱらと止み、祝宴が始まった。 宴は続き、織楽が徳利片手に席を回っているときだった。じっと上座を見つめていた紅花がおもむろに立ち上がり、一人残っている果枝のもとへ歩んだ。 二人は何事か話して立ち上がった。紅花は果枝の体を支えるようにしてゆっくりと襖を目指す。酒の回ったざわめきの中、誰も二人に気付かない。 「織楽。中座するからね」 「あ。ああ……」 振り向いた織楽は目を見開いたものの、すぐ傾けた徳利に顔を戻した。 襖一つ越えるだけでざわめきが遠くなる。紅花は果枝を控えの間に座らせて背中をさすった。 「苦しいの。人呼びましょうか」 「大丈夫。……もう大丈夫です」 果枝はうつむいたまま首を振って答えた。息も少しずつ整ってきたようだ。 「良かった。……ったく、こういうのは織楽が初めに気付かなきゃいけないのよね。お客のご機嫌取りなんてその後でいいのよ、あの馬鹿」 「いいんです。もう本当に何ともないし、この時期ですから、具合が悪くなるかもとは思ってました」 果枝は顔を上げ、良いとは言えない顔色で笑ってみせた。 「それにあの人はああいう人だから。周りに気遣いしすぎるんです。身内になったらきっと、私への気遣いの順序は後回しになる。分かって一緒になったんです。それが身内になるってことですから。……でも有難うございます。紅花さんが言ってくれてすっとしました」 紅花は黙って傍らの女を見つめた。やっぱりだ。可愛い顔で健気なことを言っておきながら、なんて強い人。 「……果枝さん、田舎は山の方って言ってたけど、産むときは親御さんに来てもらうの」 「まさか」果枝は、今度は目尻を下げて笑った。「このお披露目が終わったらできるだけ早くに向こうへ帰ります。今日のために待ったんですもん、駕籠くらいねだっても罰当たらないですよね」 「そう。うん、それがいいですね。大役が待ってるんだもん、ゆっくりしなきゃ」 「そうします。役者長屋じゃ産むどころじゃないですもん」 紅花は耳を疑った。「え」役者長屋? 「果枝さん、今どこに住んでるの」 問われた果枝は幾分血色の戻った顔を傾けた。「どこって、だから役者長屋です。ここの裏の。前、双葉たちの部屋にいらしてませんでしたっけ」 確かに行った、だからこそ信じられなかったのだ。長屋などと呼ぶのもおこがましい、寝起きするためだけの狭い部屋だった。それを複数人で使っているということだったが、蒲団を敷けばもう足の踏み場すら無いだろう。 「じゃあ織楽は」 「織楽さんの部屋です。ここの二階の端の。それと、皆さんのお家と」 今度こそ開いた口が塞がらない。この呆れと怒りをどこへぶつければいいのか。紅花の腹立ちを見越したように果枝が笑った。 「ね。困った人でしょう。戻ってくるときにはどこか見付けておいてもらわないと」 「あ……当ったり前よ! 果枝さん、駄目よ怒らないと。部屋見たら分かるでしょ、あいつ、普通にまともに暮らすってことがからっきし身に付いてないんだから」 思わず肩を掴んだ紅花の手を、果枝は安心させるように叩いた。 「大丈夫ですよ。ちゃあんと怒ってます。迎えに来るまで戻ってあげないし会わせてあげないって決めてるんです。でも内緒ですよ。自分で気付いてくれないと」 茶目っ気たっぷりに唇に人差し指を立てて見せる果枝を、紅花は毒気を抜かれた思いで眺めた。良かったわね暁、あんたこの人に敵うわけないわ。 大広間の方向から近付いてきた足音が、二人のいる部屋の襖の前でぴたりと止まった。 「果枝、ごめんな。具合どや。入ってええか」 紅花は果枝を振り返る。視線が合った瞬間、何故か二人とも吹き出した。噂をすれば、ほら来た。どうしようもない男が。 「どうぞ」そう言って紅花は腰を上げた。 披露目が催された大広間は家の一間一間に比べると格段に広いが、それ以上に人が多いので、家の者たちもすし詰めに座っていた。だから針葉はこのとき、紅砂と紅花を挟んで暁と隣り合い、今までのいつよりもあの子供の近くに座ることとなった。 あの訳の分からない言葉や妙に甘ったるい匂いが気に障ったのは祝宴のほんの初めのことで、酒が回ってあちこちで大きな声や物音が上がりだすと、案の定子供はぐずり出し、暁は席を立った。 程なくして紅花も席を立った。見れば宴席の三分の一ほどは思い思いの場所へ移動して好きに語らっている。家の者の他は元々が季春座に縁の深い者たち、話も弾むのだろう。 暁の席はまだ空いたままだ。 針葉は徳利片手に腰を上げて廊下へ出た。 暁の場所はすぐに分かった。あの形の無い声は、今は機嫌よくはしゃいでいた。障子を開けると思いのほか小ぢんまりとした部屋に二人だけがいた。暁が顔を上げる。 「まだここにいんのか」 「ん……ちょっと疲れたし、祝いの場を壊しても悪いし」 言いながら、目は子供を追って畳の上をうろついていた。 針葉は障子を閉めて自分も畳の上に腰を下ろした。暁は眉を上げただけで何も言わなかった。 徳利を傾けて猪口を満たす。「お酒持ってきたの」暁が笑う。 「ああ」答えると、針葉は猪口を暁へ差し出した。笑みが残ったままの顔で、暁が固まる。 「呑め」 「……呑まないよ」 小さな笑みを浮かべたまま、暁は首を振った。しばらく待って針葉は腕を戻し、自ら呷った。 いつかの花見のときのように、針葉が無理やり口移しで呑ませることもなければ、むきになった暁が自ら酒を所望することもなかった。 針葉は二杯目を注ぐ。小さな手と膝の這い回る、ぺたぺたという音。 「こんな狭っちいところにいたってつまらんだろ。折角の宴なのに勿体ねぇな」 「そんなことないよ。織楽の晴れ姿も見られたし、果枝さんも綺麗だったし、充分満足。睦月の世話をするのだって苦じゃないもの」 「本当かよ。宴の席もすぐに立って、酒も呑めねぇで、どこが楽しいんだ。どうせ自制も効かん餓鬼なら、こんなとこに連れてこなけりゃ良かっただろ。間地の産婆が預かるっつってたって聞いたぞ」 「そんなこと言わないで。この子も家の一員なのに」 暁は一度視線を落とし、取り繕うように「私の、子だもの」と付け足した。 針葉は昨晩の織楽との会話を思い出す。暁について語られたことは単なる物語だ、あえて問うたりはしない――信じられるか、あんなこと。それよりも奴が出て行くときに言い残した言葉。 ――安心しや、睦月は間違いなくお前と暁の子ぉや。今度きちんと顔見てみ。ええなあ、俺の子もあんな元気に育ってくれるかなぁ。 子供は今、暁が開いた腕の方へよちよちと這っている。不完全な動き。不完全な言葉。不完全な生き物。それを待つ暁の嬉しそうな顔。あれは誰だ。今まで一度だってそんな顔を見せたことがあったか。俺に対して、そんなふうに笑ってみせたことがあったか。 抱き上げられた子供が、ふと針葉を振り返った。針葉は思わず目を留める。今まで逸らしてきたものに。 黒い髪、黒に近い目、断片の特徴は暁のものではない。だが顔立ちは暁に似ている気がした。「今度きちんと顔見てみ」、よく得意げに言えたものだ。そんなことを言えるほど俺に似ちゃ、 子供が、満面の笑みを浮かべた。 「――っ、」 針葉の拳に力が入る。 暁が子供を見つめる針葉に気付き、口を開け、一度躊躇い、はにかんでまた視線を合わせた。 「針葉。抱っこ、してみない」 今度は針葉の表情が固まる番だった。 暁が子供の体を持ち上げる。期待に満ちた眼差しで。針葉の腕が伸びてくるのを待っている。視点の高くなった子供が機嫌よく、筋肉の少ない短い腕を、足をばたつかせる。あの意味を成さない声。 それでも針葉の体は動かない。 暁がはっと子供を抱え直した。「ごめん」針葉から視線を逸らして子供の体を揺すり、笑う。 「お酒入ってるもんね。危ないね。ごめん、何も考えずにいきなり」 針葉の言葉を恐れるように一人で弁解を始める。「ね、睦っちゃん。また今度抱っこしてもらおうねぇ」いつもよりも高い、甘えるような声で子供に笑い掛ける。 お前は誰だ、 駄目だ、 もう限界だ。 「暁」 ん、と暁が子供から視線を外した。期待の残った目。優しい目。それが、鋭い針葉の視線に触れて強ばっていく。 「応えられない」 暁が、数度瞬いて首を傾げる。 「俺は、お前のことを大事だと言った」 「うん……?」 「それは嘘じゃない。お前が体壊すのも、夜遅くまで身を削るのも耐えられん。それが銭でどうにかなるもんなら俺が何とかする。でもそれはあくまで、お前のためだ。その餓鬼のためじゃない」 暁の顔は変わらない。不思議そうに針葉を見つめ返す。 「よく……分からない。私のことを大事だと言ってくれるのに、睦月のことは、可愛いと思わないの。……まさか、まだ疑ってるの。この子が、その」 「違う。そいつの親父が誰だろうが、……俺だろうが、同じことだ。俺は、そいつを、お前がそうするみたいに、慈しんだりできない」 「分からない」暁は首を振る。眉を寄せて。 「だって、針葉は私に触れるでしょう。この前だって、私が途中で出て行ったりしなければ、そう、なっていたでしょう。それなら……いつかは子供ができるものでしょう? 私はこの子が可愛くてたまらない。そりゃ産む前だって、産んだ後だって、辛いと思ったことは何度もあるけれど、可愛い。どうしようもなく愛しいと思う。この子が愛しいからこそ、針葉には本当に感謝しているの。私も針葉を大事に思っているし、針葉にも、睦月を大事に思ってほしい。温かな、ありふれた、当たり前の、親子でありたいの」 暁の視線は激しく、口は泣き出しそうに歪んでいる。 不穏な空気を感じ取って小さな手が暁の着物をぐっと握り締める。暁は針葉に視線を定めたまま、小さな頭を撫でる。 針葉は眉間に皺を寄せてそれを見つめ、暁が口を閉じるとふっと息を吐き出して視線を逸らした。 「そいつが腹に宿ったから。産まれたから。だから俺に感謝するし、大事にも思う。それはその餓鬼に対する言い訳か」 「言い訳?」 「餓鬼ができたら後戻りはできない。俺とのことを間違いだったと思いたくないから、せめて幸せなふりをしようとしてるように、俺には見える」 暁は戸惑ったように小さく首を振った。引きつった口からふっと笑いが漏れる。 「幸せなふりって何。論評なんて頼んでない。そうじゃなくて。……さっき言ったことに偽りは無いけれど、それが嘘っぽく聞こえるというなら、それでいいよ。嘘じゃないけど、仕方ない。これ以上どうしようもないもの。私が聞きたいのはそんなことじゃなくて、」遣り切れないというようにうつむき、すぐに視線を上げる。挑むように。請うように。 「子供ができたらって考えたことは、一度でも無かったの?」 遣り切れないのは針葉も同じだ。 暁のことを大事に思う、それだけで何故不満なのだ。 喧嘩別れして一年留守にし、それでも覚悟を胸に戻ってきたら、好いた女が赤子を抱えていた。腹が膨らんだところなど一度も見ていないのに、当たり前の顔をして母親を気取っていた。針葉が好いた強い意志を持つ女は、今や馬鹿馬鹿しい飯事遊びに興じ、見も知らぬ不完全な生き物に占有されている。 一年間。一年間、暁はあれと一緒にあった。辛いこともあっただろう。人別改めの時期も重なったというから尚更だ。しかし暁にはそれだけの積み重ねがあった。それに以前彼女自身が言ったとおり、腹に宿った命が彼女の子であることは疑いようがないのだ。 針葉には何も無い。織楽のように膨らみゆく腹を待ち遠しく眺めることも、腹の肉越しにそれを感じることもなく、ただあれを取り巻く世界が出来上がっていた。名も顔も知らぬ気味悪い生き物を、自分以外の誰もが愛しむ。 暁も周りも自分を父だと言う。それならそれでいい。暁が苦労せずに済むなら、銭の面倒くらい二人まとめて見てやろう。 なのにそれでは不服だと言う。父親たれと言う。あの動きを、匂いを、声を、慈しめと言う。いい子だと。可愛いと。お前に似ていると。さあ顔をほころばせろ、さあ腕を広げろ、さあ可愛がれ慈しめと。それが当然だと言う。 暁の傷付いた顔を見たくない、それだけだ。ただそれだけなのに、赤子を可愛がることを求められる。強いられる。 極限まで気の張り詰める道中、血の臭いに噎せる道中、思い出したのは暁だけだ。 お前のことが大事だ、嘘じゃない、なのに何故それだけでは駄目なんだ。 「お前、餓鬼が欲しいなんて思ったことあったか」 ゆっくりと子供の髪を撫でていた暁の手が止まる。 「今の話じゃない。二年前だ。俺との間に餓鬼が欲しいなんて、一度でも思ったことがあったのか」 初めて夜を迎えた次の日から突然、目も合わさぬ冷たい態度を取った暁。唐突に再び針葉の部屋を訪れるようになってからも、辱めに耐えるような表情を覗かせた暁。ことが終われば責め苦から逃げるように立ち去り、決して寝顔など見せなかった。それでも夜にはまた現れる。強ばった顔で。まるで自らに罰を課すように。 気付きたくなかった。必死に取り繕い、気遣い、笑わせようとした。先に幸せを装ったのは針葉のほうだ。だが今なら冷静に判ずることができる。 暁は針葉のことを好いてなどいなかった。 ――まさか、これほど長く続くとは思っていなかった。きっとすぐに終わりになるだろうと。 ――私はただ教えてほしかったんだ。 彼女はきっと、他に何らかの目的があった。だから針葉との関係は、苦痛でしかなかった。 「……正直に言えよ。餓鬼ができるまでは、俺と一緒になろうだなんて考えたこともなかっただろ」 暁の唇が開く。何か言いたげに震えている。しかしそこから声は生まれない。 何も聞こえない。 針葉は目を伏せ、絞り出すように告げる。 「俺だって、そうだ」 暁の顔がぐしゃりと歪んだ。 針葉が腕を伸ばす。 指は、睦月を避けて暁の頬だけに触れた。ぞくりと寒気。あの雪の夜よりも温もりを帯びた手、なのに触れたところから暁の体温を奪っていく。 「色々言ったけど、……誤解すんな。お前のことは間違いなく大事に思ってる」 それは結局、暁を困惑させる言葉でしかない。優しい言葉、優しい仕草、その一つ一つが冷たい指となって首を絞め付ける。 自分一人に差し伸べられる手、そんなものよりも横に添うてくれる人が欲しかった。自分が睦月と手を繋いだとき、睦月のもう片方の手を握ってくれる人。直接は触れられなくても、顔が見えなくても、睦月を挟んで共に同じ方向を見られる人。 針葉が出て行く。寒々とした指の感触だけを残して。暁は自分の頬にそっと触れ、身震いする。 針葉と再会してからの半年近く、自分が必死に築こうとしてきたものは何だったのだろう。 大事だと言われた夜、胸に生まれたかすかな期待の欠片。三人同じ部屋で初めて過ごした昼下がり、ようやく手にしたと思った朧げな幸せ。あれらは全て幻でしかなかった。 部屋を温めて針葉を待った夜。彼に触れ、触れられて満たされた。無骨で優しい、冷え切った指が愛しかった。取り戻せると思った。当たり前の幸せを。 なのに。 ――その餓鬼のためじゃない。 そのとき、あの日の壬がまざまざと浮かんだ。 干からびた水路、立ち上る煙、鼻を衝く匂い、喉を焼く熱い土埃、どこまでも続く焼け果てた大地。変わり果てた水の国。 焦土だ。 何も生まれない。 種を蒔いても何も実らない。 あの人の指は、私に何も宿さない。 体を繋ぐ、それ以上でもそれ以下でもない。何も望まれない。何も残さない。髑髏に抱かれているようなものだ。 針葉のことを好いていた。睦月が宿る前だってそうだった、と思う。彼は優しかった。暁が望むものとはいつも、ほんの少しずれていたが、暁には返しようのない心尽くしを与えてくれた。それはもう、苦しくなるほどの精一杯を。 それが自分一人にしか向けられないものだと知っていたら。 体を許しただろうか。 どれほど辛くとも耐えてきた。幸せな親子の姿を夢見た。自分が得られなかったものを今度は望みたい、与えてやりたい。その一心で、針葉の一挙手一投足に気を揉み、心騒ぎ、軽やかにもなり、いつしか仕舞ったはずの期待が膨らんでいた。 ――幸せなふりをしようとしてるんだろ。 初めからそういう人だと知っていたら、あれほど思い詰めなかった。あれほど焦がれず、あれほど苦しまなかった。 では睦月が初めて腹の中で動いた日、あの日から胸に芽生えた待ち遠しさも希望も、全てまやかしだったのだろうか。 疲れた。 瞼が重くなり、暁は横たわる。頬に冷たい畳の感触。忘れてしまいたい。瞼の裏にどろりと黒い靄がかかる。どこまでも埋もれていくように。早く眠らなくては。うまく消さなくては。 いつかのように。 いつものように? 一度目を閉じるともう開かない。瞼に熱が籠って張り付いていく。 周りの音が遠くなる…… ぺた、ぺた、遠くから聞こえる小さな音。まだ形を持たない可愛い声。まあるく柔らかな匂い。 駄目だ。 暁は目を開けた。もうできない。私には睦月がいる。何もかもを消して忘れてしまうことは、もうできないのだ。 目の前に睦月がいた。暁と目が合うと顔じゅうで嬉しがり、手を伸ばす。笑った口から小さな歯が覗く。 「睦っちゃん……」 撫でようとしてくれているのか、不器用に暁の頬を叩く小さな手。暁は自分の手を添えて包み込んだ。しっとりと温かな手。こんなに小さいのに。こんなに頼りないのに。 なんて可愛い子。 なんてかわいそうな子。 瞬くと目の前が滲んで、黒い髪の色がぼんやりと広がった。暁のものとは違う色。でもこの子の親は暁ただ一人だ。 暁はよろよろと体を起こして睦月を抱き寄せた。 遠くで歓声が上がっている。どこかとても遠いところ。 「睦っちゃん」 睦っちゃん。睦月。愛しい愛しい私の子。 「睦っちゃん、大好きよ」 囁く。睦月は声を上げながら、くすぐったがるように腕の中でじたばたと暴れ、暁は笑って小さな体を放した。 「さ、ちょっと戻ってみようか」 もう一度睦月を抱えて腰を上げる。随分と重くなった体に振り回されぬよう、真っ直ぐに立ち、しっかりと足を踏み出す。 雷光に針葉の文身が浮かび上がった大雨の夜。彼が黒烏かという疑いが解けてから、そのたった三日後、喧嘩別れする前。悪阻はまだ始まっておらず、睦月が既に宿っていることも、自分にややができることすら想像つかなかった頃。あの短い間、確かに暁は針葉を想っていた。だから話をしに行った。理解を求めたかった。一番伝えたかったことは一つだ。 ――こうして会いに来るのはこれで終わりにしたい。こんなうやむやなままの惰性で続けてはいけない。だけど、もし、あなたが。「もう一度やり直してくれるのなら、私は、あなたと一緒にいたい」。 今。彼のことを知った今、その想いすらもあってはならないものなのだろうか。 大広間に近付くごとに音が大きくなる。何やら騒がしい。その中でも一際よく通る怒りを含んだ声は織楽のものだ。 おや、と足を止めたその瞬間、障子が開いてぺっと吐き出されたのは斎木ではないか。裸足のまま縁側から土の上へ下り、転びそうになりながらも何とか持ちこたえて大広間を振り返る。 「と……っ、年寄りにこんな扱いするなんて不届き者めが! それに儂は織楽の後ろ見だぞ。可愛い可愛い吾子の折角の門出なのに、呼ばんとは何事だ!」 「あんなあ、折角の門出やし呼ばんかってんや。俺のこと可愛い思うんやったら頼むし、草葉の陰でも土の下でも、とにかく遠くでそーっと見守っといてんか」 「近くで見たい!」 「帰れ!」 二人が暁に気付くのは同時だった。おいお嬢、お前さんからも何とか言ってくれ。関わらんでええ、早よ部屋入り。 暁は苦笑交じりに大広間の自分の席へ戻る。 三つ隣で針葉が暁をちらと見るのが、視界の端で分かった。 暁は顔をうつむき加減に傾けたまま視線を逸らさない。胸に抱えた命もまた、黒い瞳でじっと暁を見つめ返していた。 戻 扉 進 |