紅花は夕餉の支度もそこそこに、明日の着物選びに余念がない。
「何着たって一緒だろ」と茶々を入れに来る針葉を追っ払い、箪笥のこの抽斗を開けあの抽斗を開け、どうにかお気に入りの一着を決める。
 織楽の披露目が明日に迫っていた。
 その夜は七つの膳が並び、明日に備えて早い夕餉となった。いただきますと手を合わせ、各々箸に手を伸ばす。
「今日くらい向こうに泊まってくればよかったのに。どうせ季春座で過ごすほうがずっと多いんだから」
 そう言ったのは浬だ。織楽は手をひらひらと振る。
「せやし帰ってくるんやん、今日くらい。それに嫁入りかて家から出立するもんやろ」
「誰が嫁だって」
 紅砂が苦笑とともに茶をすする。
「ま、存分に飲んで食って楽しんでってや。次はそうできるか分からんやろ。何しろ紅花の番かもしれんねんから」にやりと反撃した織楽に、紅砂は噎せて咳き込む。
「ばっ、馬鹿言わないでよ」
 思わぬところから飛んできた矢に慌てる紅花を、暁はまじまじと眺めた。遠いところを眺めるような目で、
「紅花の白無垢は映えるだろうね。私も見てみたい」
「だからっ。そんな予定無いって言ってるでしょ。違う、織楽の話をしてるんでしょうが。あたしのことはいいの!」
 そこにご機嫌な睦月の声が重なって夕餉は一気に賑やぐ。黄月が吸い物の椀を膳に置く。
「しかし明日は俺たちよりも早めに出るんだろう」
「そやな、挨拶回りもあるし、朝一で出たら余裕持っていけるかな」
「挨拶回りって季春座の関係? お披露目は昼からでしょ、なのに朝一って大変ね」
「そないなもんやで。今回祝言とちゃうからまだ楽なほうや」
「それ。それよ」紅花が目を丸くして箸で織楽を指し、慌てて引っ込める。「祝言済ませてたなんて聞いてなかったわよ。おっどろいた。言ってくれたら……その、まあ、何か考えたのに」
「何やそれ」
 織楽が笑い、つられて紅花も笑う。織楽は湯呑に手を伸ばし、告げなかった理由に言及することはなかった。

 夕餉が終わり、腹を満たした者から膳と器を積んでちらほら席を立つ。
 足を崩して腰を上げようとした針葉を呼び止めたのは、織楽だった。
「お前、まだしばらく起きとくか」
「何だ」
「まあ……ちょぉ話したいことあんねや。またそっち行くわ」
 言うだけ言うと自分の膳に顔を戻す。針葉もそれ以上は聞かず、積み重なった器の上に自分のものを重ねて部屋を出た。
「喧嘩なんかしないでよ。痣作った顔でお披露目なんて聞いたことない」
 後に残った紅花が、七つ重なった器を危なげなく持ち上げながら言う。
「俺が喧嘩しに行ったことなんて一度もないねんけど。待ち、俺も運ぶし」
「あら珍しい」
 紅花は小鉢と茶碗を胸で受けるように抱えて部屋を出る。織楽は魚の皿に汁の椀を乗せ、湯呑を右手に後を追った。残った汁や茶を流しに捨てて、汲み置き水の桶に器を沈める。紅花がぐるりと水をかき回すと,ふやけた飯粒がゆるりと浮き上がった。
「果枝さんって結構気が強いのね。気が強いとは違うかな……なんていうの、にこにこ笑って可愛いんだけどさ、自分がこうと決めたら引かない感じ。にこにこ笑って梃子でも動かんって。今まであんまり話したこと無かったから、この前来たときなんかびっくりしちゃった」
「昔からああやで。頼り甲斐あるやろ」
「頼り甲斐ねえ」
 織楽はふっと言葉を切った。
「果枝は根っこの部分が強いねん。親がおって生まれた家があって遊んだ里があって、自分がほんっまに周りから大切にされて、大事に大事に育ったて分かってる。揺るがへんねん」
「ふうん……。ま、あんたはふらふらしてるから、芯の強い人と添うのが良かったのかもね。あんたが幸せならそれでいいのよ」
 紅花は笑いながら、手早く器を流して簀子の上に伏せていく。織楽も手伝おうとするが、手を出す間もなく全ての器が片付いてしまった。
「大事な日の前に慣れないことしないでいいの。そういうのは果枝さんにしてあげたらいいから」
 赤く染まった指先を軽く振り、水気を払う。織楽は厨を見回した。いつもはほとんど来ることのない場所。光の乏しい中でさえ、あるべき物があるべき場所にきちんと収まっているのが分かる。毎日毎日ここから流れ出る温かい匂いとともに朝は来て、夜は落ちる。
「紅花はお母ちゃんやな」
 一瞬遅れて紅花が顔を上げた。首を傾げて眉根を寄せ、「お節介焼きってこと?」
「ま、それもそやな。俺に親はおらんかったから、紅花が母親みたいなもんや」
「やめてよ。自分より年嵩の子供なんて勘弁」
 紅花が首を振って部屋へ戻る。その後を織楽は笑いながら跳ねるように付いていく。紅花の耳に届く足音が、途中から静かなものに変わった。
「……お母ちゃんいうのはな、紅花。何もかんも抱え込んで、与えてばっかり。当たり前を保つのが仕事やから、誰も褒めてくれんのに、何かし損なったら途端に責めが来る。ほんま損な役回りやなぁ」
 立ち止まった紅花の脇を織楽がすり抜けた。その先が聞きたくて部屋に吸い込まれた彼の影を追う。彼は箱膳と綿の潰れた座布団を部屋の隅に積み上げているところだった。
「でもな、それを自分に課したあかんで。お前は俺のお母ちゃんで、他の皆のお母ちゃんでもあって、つまりはこの家のお母ちゃんや。家のお母ちゃんはな、家を支配するもんや。家に支配されたあかん」
 紅花がその横顔をじっと見つめているうちに部屋は綺麗に片付き、織楽は芝居がかった仕草で両手を二度打ち合わせる。
「よしっ終わりや紅花」
「なるほどね」
 小さな呟きに織楽は首を傾げる。紅花は「何でもない」と残して部屋を後にした。
 今ようやく分かったのだ。織楽のああいうところに、かつて暁は惹かれたのだろうと。



 襖の開く音に、黄月は本から顔を上げ、織楽を確認するとまた顔を戻した。
「明日は早いと言ってなかったか」
「うん、ちょっとだけ」
 畳に踏み入れた織楽は、後ろ手に持っていた徳利と猪口を黄月に見せびらかした。眉をひそめた彼に答えるように徳利を揺らす。その音で、それぞれ一杯分程度しか入っていないことが知れた。
 黄月は息を吐いて傍らに本を置く。向かいに織楽が腰を下ろし、「ま、一つ」黄月に猪口を持たせた。
 黄月は苦笑交じりに酒を受け、織楽の手から徳利を取った。
「お前も」
 織楽は深く首を垂れて猪口を差し出す。とっ、とっ、なめらかな音が広がった。満たされた二つの猪口が、夜に紛れるほどのささやかな乾杯の音を響かせる。
「で、どうした」形ばかり口を付けて黄月が猪口を置く。織楽も猪口を置いて目を閉じた。頬には笑みが浮かんでいる。
「いやぁ、なんや感慨深ぁてな。初めてここに来たときのこととか、ここに来るまでのこととか思い出してた」
「ここに来るまでか。お前、途中の宿で一度逃げ出そうとしたの覚えてるか」
「あったあった、お前だけ気付いて起きてきた。や、でもあれはしゃあないやん。どう見たかて怪しい二人組やで。初めこそ温いとこに寝泊まりできる思たけど、どこに売り飛ばされるか分かったもんちゃうし」
「そんなこと考えてたのか」
 黄月が猪口を取り、唇を湿す。「なあ」織楽は黄月の伏せた切れ長の瞼に話し掛ける。
「お前、俺のこと女や思てたか」
「ああ、そりゃそうだ。俺だけじゃなく針葉もそう思ってたはずだ」
「せやし連れて来たん」
「いいや」黄月はあっさりと首を振る。この白と黒しかない受け答えが好きだと織楽は思う。
「男だと知ったときは驚いたが、今考えればどちらでも良かったんだろう。お前は役者に向いていると思ったし、続けるべきだと思った。だから連れて来た」
 織楽は思い出す。ここへ来て生活に慣れ、この先のことを考えたとき、役者でなくても良いと思った時期があった。自分が捨てられた場所、育った場所、そしてまた追い出された場所。今まではそれしか道が無かったからがむしゃらにやってきたが、他の道に目を向けても良いのではないか。小間物屋に立つのも表通りの呼び込みもそれなりにこなした。あんな辛い場所へ戻ることはないのではないか。
 折しも声変わりが始まった頃だった。じきに体つきも変わるだろう。もう今までのような役作りはできない。そう言った織楽に黄月は、叱るでもなく諭すでもなく、こう言った。
 ――残念だな。俺はまたお前の芝居を観たかったが。
 一言。その一言で充分だった。
 また舞台に立とう。いくらでも演じよう。この人が望むのなら。
「……その割に数えるほどしか観に来てへんわな」
「そうだな、なかなか手が空かなくて。お前が季春座に入った少し後から、先生や湊屋にまとまった量の薬を買ってもらえるようになったからな」
 織楽は嘆息する。なんということだ。ここでもあの好色爺が出張ってくるのか。
「先生がお前の身元引受人になったと知ったときは驚いた。いつの間にそんなに親しくなったのかと」
「ああ……まあ芝居繋がりで色々と」
 新人の洗礼だ。季春座に入った織楽はすぐに本川、片桐とつるむようになった。とは言え坡城では新人の織楽と、近く上級入りが確実とされ、少々年が離れていた二人との間にさほど接点があるわけもない。二人から勝手に気に入られ、ありとあらゆるちょっかいを出され、負けじと仕返しをしたというのが実際のところだった。
 斎木との出会いはその一環だった。

 芝居好きの御仁とちょっとした芝居談義をするだけで鰻が食えるぞ。片桐からもたらされた一報に食べ盛りの暇な役者が食い付かぬわけもない。かくして引き合わされたのが町医者を名乗る斎木だった。
 祖父ほど歳の離れた斎木の街歩きに付き合いつつ、現在公演中の芝居の筋について、過去の芝居や役者について、古典劇について議論を交わす。あくまで下級役者の立場をわきまえ、節度を持ちつつも、これまで培ってきた知識と美学でもって応える。気を遣いつつもなかなかに面白い副業で、これで鰻にもありつけるというのは美味しい話だった。
 昼下がりにやっと鰻屋の二階座敷へ上がり、漂ってくる極上の香りにわくわくしながら焼き上がりを待つ。弾力のない腕に抱きすくめられ押し倒されたのはそんなときだった。
 目を白黒させつつも冷静に判断できたのは、悲しいかな、女と誤解され襲われるのが初めてではなかったからだ。一体何なのだ。自分は男だからまだ良いが、世の女たちはこんな魑魅魍魎ののさばる中をよく無事に生きているものだ。手を突き出して斎木の動きを制し、びしりと言ってやる。「おいたが過ぎますよ、先生。私は男です」。でも折角だから鰻はいただいて帰ります。
 斎木は顔を皺くちゃにして笑った。「知ってるよ、お前さんは立派な(おのこ)だ。立派立派。どぉれ、その立派な一物をちいっと拝ませとくれ」
 ぞぞっと全身に怖気が走り、気が付くと斎木の股ぐらを蹴り上げていた。股間を押さえて悶絶する彼を横目に部屋を出、運ばれてきた鰻の膳だけその場で掻っ込んで、織楽は鰻屋を後にした。
 次の日、片桐に手酷いお返しをしたのは言うまでもない。
 その年の暮れ、黄月が昔住み込みで薬作りを教わったという間地の医者のもとへ同行する機会があった。自分一人では決して赴かないだろう狭く湿った道を抜けた先、偉そうな顔で黄月の薬に駄目出しをしていたのは、どういった巡り合わせか、あの好色爺だった。
 帰り道、黄月は持って行ったのとほぼ同数の薬を背負っていた。先生に習ったことは全て実践しているし、壬の薬草のことなら俺の方が詳しい。なのになかなか仕入れてもらえない。そう零しながら。
 あの医者のことだ、どうせ弟子に追い越されるのが癪とか餓鬼くさい理由で難癖をつけたに決まっている。
 日を改めて訪れた織楽を、斎木は満面の笑みで迎えた。いつぞや局部を蹴られたことなど気にもしていない様子だった。
 斎木は織楽の問いに呆気なく頷いた。
「隼坊の作る薬だ。質にゃ問題ない。ただこういう頼みは少なかないんでね、これって決め手に欠けるんだよなぁ」
「決め手って」、詰め寄った織楽に斎木は歯をむき出して笑った。
「綺麗な肌だ。こんな安っぽい着物で隠すなんて勿体ない、全て見せてごらん」
 冗談じゃない。胸倉を掴んで凄む織楽を斎木は鼻で笑った。んなことしたって薬は使ってやれんな。脅しは効かんよ。
「お前さん次第だ」。
 亰の吹喜座を追い出されたとき、身を売って生きていく覚悟だった。自分には身一つしか無かった。寒風吹きすさぶ正月の夜、橋の陰の中に、ぼろぼろの筵で抱き合う者たちを見下ろして呟いた。自分もああやって生きていくのだ。
 それを免れたのはひとえに、一度見ただけの舞台で自分を覚え、夜道を行く自分を呼び止め、拾ってくれた黄月のお陰だった。彼のためなら誇りなど捨てられる。この身など。
 ――いい目だねぇ。女にゃできないな。
 下卑た息。枯れた指。綺麗だと褒め称えた肌を好きなように弄び、汚れた手を拭った斎木は、いそいそと自分の帯にも手を掛けた。指を噛んで辱めに耐えていた織楽はすかさず股ぐらを蹴り上げる。斎木は短い悲鳴を上げ、いつぞやと同じ格好で震えながら脂汗を浮かべた。
「二度目、だな……。小僧めが、……やって、くれる」憎々しげな口調とは裏腹に、口元には笑みが浮かんでいる。
 織楽はぺっと口の中のものを吐いて斎木を睨み付けた。
「図に乗んな、許したんのはここまでや。よう覚えとけ、三度目は無いかしれんしなぁ」
 言うなり、斎木の股ぐらに手を入れ掴み上げた。濁った悲鳴。覚えておくがいい、こうしていつでも握り潰せるのだ。
 斎木と二人きりで会ったのはそれが最後だ。だが彼はその後、意外なほど律儀に黄月の薬を仕入れ、湊屋への橋渡しを行った。
 黄月は自分の腕と親から受け継いだ知識が認められたと喜んだ。織楽も嬉しかった。自分は何もしていない。元からあった黄月の才が、ようやく世に出ただけだ。
 しかし黄月は程なく家に女を連れ込んだ。
 美しい女だったが、商売女であろうことは想像に難くない、派手な身形をしていた。女を買った。ではその銭はどこから出たのか。
「楽しそうな子ぉやんな。上手いことやりおったな」上辺だけ笑いながら、調合の準備をする黄月の背に近付く。「楽しそうに見えたか。退屈だったよ、話が合わん」黄月は振り向きもしない。
「話が退屈や言うても、触り心地良さそうやったやん」どうして俺はあの女を庇っているのだろう。「抱き心地はな」あえて触り心地とぼかしてやったのに、この阿呆。
「見目かて、あら相当な上もんやろ。綺麗な子ぉやったな」
 そこでようやく黄月が顔を上げる。彼は片眉を困ったように歪めて笑っていた。
「容姿だけならお前の方がよほど」
 波の引く音が聞こえるようだった。すっと腹の熱が冷めて、次の日には本川の部屋を訪れた。しつこく誘われ、その度に断わっていた港遊びを、その日は彼自ら誘った。
 敵娼(あいかた)はいくつか年上に見える女だった。鼻の雀斑とくるくる変わる表情が愛嬌を感じさせる。
「こんな可愛らしい役者さん初めて。うちのどの娘より綺麗じゃない。嫉妬しちゃう」
 物語が好きで、芝居見物も好きと言った。他にも色々話したはずだが、詳しくは覚えないし、名も忘れた。お姐ちゃん可愛い名ぁ付けてもろたな、ぴったりやん。そう褒めたことだけは覚えているのに。
 自分よりも柔らかい体を組み敷くのは、自分を取り戻す行為だった。蹂躙されてきた怒りが湧き上がる。彼女はそうしてほしいところできちんと声を上げた。悦びを口にした。
 聞いているうちに目頭が熱くなった。
 違う、踏み躙ろうとするたび思い知るだけだ。自分はこの腕の下にいる、蹂躙する側にはなれないと。怒りに任せたところで、犯しているのはこれまでの、無力だった自分自身だ。

 果枝はその年の暮れには季春座入りしていたらしい。翌秋、夏祭りの芝居で弟役を勤め上げた織楽が上の組へ上がるまでの一年足らずは同じ組だったはずなのだが、ほとんど記憶に残っていない。話すようになったのはそれから更に半年後の春、意気消沈して田舎へ帰ろうとしていた彼女が間違って織楽の部屋を訪れて以降のことだ。
 辞めさせるくらいならと体の使い方、声の使い方を教えるうち親しくなった。
 果枝はいつも笑っている。いつも前向きだ。それがどれほどの幸せと強さに裏付けされたものか。
 初めて夜を共にしたのは二年近くを経てからだった。「一緒におってもええ?」問う織楽に、果枝はうつむき、頬を染め、顔を上げて真っ向から織楽を見つめた。「織楽さんさえ良ければ、よろしくお願いします」
 風のない穏やかな夜だった。
 彼女はいつぞやの女に比べるとずっと控えめで、ぎこちなく、恥じらいや痛みから流れを中断することもしばしばだった。
 同衾は屈服させることと同義だった。押し倒す、自分が上にいるか下にいるかの違いだけだ。
 なのに今、これほど安らいでいる。この不出来な交わりに、これまでの穢れが霧散するように感じた。
 見てみろ、浅葱。俺はこんなにいい子を見付けた。見てみろ、斎木。俺はこんなに幸せになった。どんなに踏み躙られてもこうして幸せになった。見てみろ、顔も知らぬ俺の親とやら。見てみろ、
 ――黄月。

 織楽は猪口をじっと眺め、ひと息に呑み干した。空になった器が畳の上でかすかに揺れる。
「さっきな、紅花に言うてんやん。お前は俺の母親で家の母親やて」
「母親か。……気が強い割に自己犠牲が過ぎるところなんか、確かにな」
「分かってんならちょぉ労ったりぃや」織楽は苦笑し、「そんで考えてんや、じゃあ父親は誰かて」
 織楽が黄月を見る。二人の目が合う。時が流れる。視線を交わすには不自然なほど長く。
「……俺か?」
 織楽がふっと視線を緩ませた。
「俺が今ここにおんのはお前のお陰や。人として生きとんのも、季春におんのも、こうして……好いた女と添えるんも、全部」
 誰よりも頼っている。誰よりも慕っている。だから役に立ちたかった。どうにかして、この人の役に。
「それがお前の負い目になったんなら、俺はお前に顔向けできない」
 織楽の目が緊張をもって隣の男の横顔を見つめる。
「何……?」
「先生に俺の薬を売り込んだのはお前だろう」
 彼の言葉の意味するところを察し、織楽の頬が強ばっていく。
「知ってたん」
「しばらく経ってからな。詳しいところまで聞いちゃいないが、あの人相手なら……随分厭な思いをしただろう」
 織楽は強く唇を噛んだ。どうしてこの男は。どうして今更。知らずにあの銭で女を買ったのなら、最後まで知らないふりを貫くべきだった。
 織楽の顔の前に手が差し出され、口を覆った。「明日の主役が顔に傷なんか付けるな」
 骨ばった長い指だった。織楽は目を伏せ、ゆっくりと口を閉じた。
「紅花のことを自己犠牲が過ぎると言ったが、お前だって同じことだ。お前は周りを慮りすぎる。……お前が、俺のために辛い思いをすることなんてなかったんだ」
「しゃあないやん」振り絞るように。「お前のためにしたれることなんて、そんくらいしか無かってんから」
「どうして」咎める声がすぐに続いた。織楽は驚き黄月を見る。常には見ることのない熱のこもった視線が、織楽を真っ直ぐに見つめ返していた。
「信じて付いて来てくれたことも、身を落とさずいたことも、役者として名を上げていることも、妻を持ち子を持ち幸せであることも、俺は嬉しく思う」
 織楽が何も言えずにいると、黄月は戸惑ったようにそっぽを向き、「父親としてはな」と付け加えた。
 織楽はゆっくりと瞑目する。再び開けたとき、その目は柔らかな笑みを湛えていた。
「ありがとう」
 振り向いた黄月は、深々と額衝く織楽を見た。
「愚息は幸せになります、お父ちゃん」
 俺が自ら見付けた初めての家族。初めて、自ら意思をもって愛したひと。



「おー、まだ起きててくれた」
 襖を閉める織楽の耳に、針葉の馬鹿でかい舌打ちが聞こえた。
「手前が話があるっつったんだろうが。畜生。俺はもう寝る。出て行け」
「つれないこと言わんと。今まで起きててんし、ちょっとやそっと変わらんやん」
 織楽はそそくさと針葉の前に腰を下ろした。一旦蒲団にもぐり込んだ針葉がすん、と鼻を鳴らして身を起こす。
「……しかも手前、酒飲んでやがったな」
「ややわー、うちの長は鼻ばっかり良ぉて。乾杯の稽古やて」
「ふざけんな」
 針葉は蒲団を跳ね除けてその場に胡坐をかいた。彼の苛立ちなど意にも介さず、目の前の男はにこにこと微笑み、手本のように美しい正座の膝に両の手を揃えている。ふと、果枝という女を見たときと同じ、甚振るような気持ちが頭をもたげた。
「お前は怖くないのか」
「ん」
「俺に殴り掛かられても、そのご自慢の顔に傷付けられても、そこじゃ逃げられない。もっと離れといたらどうだ」
 きょとんとしたのも束の間、織楽は破顔して肩を揺らした。
「阿っ呆やぁ」
「あぁ?」
「お前がほんまに本気やったらすぐやっとるて。長い付き合いねんし分かるで。お前が、明日控えとる俺にそんなんせんてことも」
 相変わらずの人懐こい笑顔だった。構えていたこちらが馬鹿を見たようだ。針葉はすっと息を吸い眉間に皺を寄せた。
「俺は手前のそういうところが大っ嫌いなんだ」
「俺はお前のそういうとこ大好きやで」
「うるせえ、本当に殴るぞ」
 乗り出した針葉からわざとらしく身を庇って、ようやく織楽は足を崩した。針葉も仏頂面ながら足を組み直し、織楽の話を待った。笑みを口元に残したまま、織楽の視線が落ちる。
「……二年前、結局訊けへんかったこと。暁のこと」
 針葉の目元がぴくりと動いた。
「頼むし最後まで聞いてや。お前が前に疑ったようなんとはちゃうし。あんな針葉、お前、暁がこう、人が変わったみたいになったんて見たことあるか」
 虚をつかれて針葉は目を丸くした。
「人が変わる? ……まあ、あいつは元から変な奴だが」
「それは知ってる」
「お前が言うな」
 すかさず頷いた織楽に針葉が睨みを利かせた。
「うん、つまり、朦朧としとったり、かと思たらえっらい切れ味鋭いこと言うてきたり、あとは……前後も分からんくらい怯えたり」
 針葉は顎髭を抓んで思い出す。高熱に浮かされうなされていた年明け早々の彼女は、朦朧と言われればそうかもしれない。それについこの間、肌を合わせる途中で突然こちらを拒み、怯え出した彼女。――しかし。針葉の指が止まる。
「何なんだ一体。それがあったらどうだってんだ」
「おかしいこと言うとらんかったか。煙の臭いがどうの、蛇がどうの、それから……誰か、おらん相手を呼んだりとか」
 針葉は織楽を睨んだまま何も言わない。織楽は目を伏せて首を振った。
「……落ち着いて聞いてな。二年前の夏至の夜、暁は確かに俺の部屋に来てんや。……暁とちゃうみたいやった。正直ちょぉ怖かったわ、目ぇも据わってたし、何も無いとこ見て笑い出したり、あいつらしないこと言うたり」
 これまでにも散々疑い尽くしたことだ、今更激昂したりはしない。ただ、針葉がこれを織楽自身の口から真実のこととして聞くのは初めてだった。
「酒も入っとったみたいやけど、多分それだけやない。あいつの呑んどったもんはコブに似た匂いやったけど、別のもんが混ざってたんや思う。色も味もおかしかったし、暁の目も猫の目ぇみたいになって、えらい眩しがってた」
「それで」針葉が苛立った様子で眉の傷痕を掻く。「あいつが阿芙蓉だか何だか、妙なもんに手ぇ出してるから止めてやれってか」
「ちゃう。あれは単なる切っ掛けやって、あいつは、……多分、自分でも覚えとらへんもんを思い出したんやと思う」
 どうしてお前にそれが分かる。どうして俺に分かってやれないことが、お前に。
 声を荒らげたくなる衝動を抑えられたのは、織楽の面持ちがこれまでになく重かったからだ。伏せたままの顔の中、長い睫毛が、行方を決めかねたように揺れている。
「針葉。お前が壬で初めて暁と会うたんて、大火から十日くらい経ってからやったやんな。あいつ、そんときどないやった」
「どんなって……。確か上松の邸に向かう途中だったか、そうだ、初めは瓦礫に隠れてやがったんだ。薄汚れた餓鬼だった。目ばっかりぎらぎらして、男もん着て髪もざんばらだから、お前とは逆に男にしか見えなかった。そんで、俺と浬に会うなり自害しようとしやがった」
 織楽が目を閉じる。咀嚼するように。諦めるように。
 次に顔を上げたとき、そこに浮かんでいたのは悲壮な決意だった。
「針葉。黙って聞いてな。間違いかもしらん、俺の思い過ごしかもしらん、むしろそうやったらええと思う。……あんな、もしかしたら暁は、……もしかしたら、」
 もしかしたら。



 織楽は部屋へ戻る。既に体から酒は抜け、冷え切っていた。
 針葉は最後まで口を挟まなかった。幾度反論したかっただろう。有り得ないと言いたげに首を振り、眉間に皺を寄せ、歯を食いしばり、やがて織楽が口を閉じると、畳を睨みながら声を絞り出した。
「俺は、信じない」
 織楽はゆっくりと頷いた。それでもいい。ただ気付いてくれればいい。そういう兆候があったことを。もしかすると、彼女がまだその中で彷徨っていることを。
「あー、寒。結構遅なったなぁ」
 家の中だというのに吐いた息が白く散る。
「明日起きられるかなぁ」
 廊下の板木から這い上る冷たさに、織楽は体をぶるりと震わせた。