何か聞こえた気がして、暁は手を止めた。畳を踏み、部屋に流れ込む冷たさを辿ってそろりと障子を開ける。 ちらちらと白いものが青い夜を舞っていた。もう梅も盛りだというのに、今夜は一番の冷え込みだ。縋り付くような寒気が喉元まで這い上り、慌てて閉じる。 身震い一つ、冷たい唇を結んで元いた場所へ戻った。いつも通りの文机の隣には衝立を二つ並べ、蒲団を渡してある。内に手を入れると贅沢な温もりに身が痺れるようだった。そこでは火鉢を焚いているのだ。蒲団を持ち上げて風を通し、炭に灰をかけて火を小さく保つ。 指先に感覚が戻ったところで筆を執る。行を進める。 ふと音がした気がして手を止め、振り返る。 今度は立ち上がらず筆を進める。 何を気にしているのだろう。何を待っている。帰ってくるかも分からないのに、そろそろ火を消さなくては、体も徐々に冷えてきた、もう夜も遅いのに。あと一行。もう一行。 ……手を止めて全身で背後の音を聞く。 筆をそこに置いて立ち上がった。 常より片付いた畳の上を、冷たい溜まりの 辛そうなうつむき顔が、暁を捉えると苛立ちに変わり、彼女が縁側へ踏み出したのを見て驚きに変わった。白い雪がかすかな光を孕んでゆっくりと落ちる。 「お帰り。……寒かったね」 暁は腕を伸ばして湿った髪に積もったままの雪を払う。針葉は何も言わず縁側に上がった。そのまま自分の部屋へ向かおうとする袖を引く。 「何」 声にも力が無い。暁は有無を言わさず障子を閉め、針葉を座らせると、衝立から蒲団を取って縮こまった体に巻き付けた。 眠たげに閉じかけていた瞼が開く。眉間の皺が消える。 「うわ。何だこれ」 「暖かいでしょう」 机や筆の類を片付けながら暁が笑う。針葉は蒲団に顔を埋め、今更寒さを思い出したように身震いした。小さく歯が鳴る。それを見た暁は思わず吹き出し、蒲団の塊の前にしゃがみ込んで目線を合わせた。暗い部屋に遠い火を受けてぼうと疲れた顔が浮かんでいる。 「遅くまでお疲れ様」 「……このために起きてたのか」 「仕事をしながらだけど。やっぱり怒る?」 針葉はまた眉間に皺を寄せて畳を睨み、首を横に振った。「怒れるかよ、こう温くちゃ」黒い目が不機嫌そうに暁を見る。「でもこれだけは言うぞ。お前は馬鹿だ。さっさと寝ときゃいいんだ」 頷いた暁の唇から笑みが漏れる。 針葉が蒲団の隙間から暁の手を取った。 「まだ私の方が温かい」 暁は自慢げに言うと手を握り返した。いつも温かった彼の手は、今はさすがに冷え切り固まっている。滅多に無いことだ。 指先に力を入れる。触れたところから、熱が、ほころびるように溶けていく。奪い取られる。 その一方で胸がくすぐったい。確かに失ったはずなのに、温かな海で満ちていくようだ。それは、睦月に乳を与えるのと似ていた。 両の手で包み込む。何なのだろう、これは。触れているのは手だけなのに、どうしようもなく離れがたい。この大きな手。無骨で、荒っぽくて、今は雪を吸って冷え切った手。火に背を向けているからこそ、全身を澄ます。掌のわずかな脈動を聴く。 いつしか暁の手も彼の両手に包まれていた。ゆっくりと瞬き、はっと体を離す。それでも手は包まれたままで離れない。 「あ……着物。そのままじゃ濡れてるでしょう。替えなくちゃ」どれだけぼうっとしていたのだろう。油が切れかけているのか、部屋は彼の表情も窺えないほど暗い。「それともお湯。持ってこようか」 針葉は答えない。掴まえる手の強さから、眠っているわけではないのだろうが。「それか、お茶。お茶淹れようか」 「こんな夜更けに火なんか使えないだろ」 やっと聞こえた声は笑みを含んでいた。暁も調子を揃えるように笑って言い返す。「だって寒いでしょう」 途端、ぐいと抱き寄せられるのを感じた。 息を呑む。 耳の傍で声。 「お前の方が温い」 どうするべきか咄嗟に分からなかった。突き放すのも、じゃれるのも違う気がする。やむなく平静を装う。聞こえるように笑ってみせる。 「そ……そんなわけないでしょう。お茶の一杯でも飲むほうが温もるもの。……ねえ針葉。……ねえって」 彼の行動は変わらない。ずっと、誰より近いところで鼓動を聞かせ続ける。装った声が震え、暴かれていく。 「雪は、嫌いだ」 絞り出すような声。 胸が締め付けられる。 そろりと、蒲団の中に手を滑り込ませ、彼の背中を撫でた。湿った着物。ひやりとした手触りの奥から、じんわりと熱が伝わってくる。 目を閉じる。 離れがたい。 浸っていたい。そう思ったときだ。 「あ」 暁はびくりと体を震わせた。 身八ツ口から忍んだ指が むず痒さが生まれては消える。波のように。頬が粟立つ。 身じろぎできず、喉の奥でゆっくりと息を繰り返す。途方に暮れる。当て所なく彷徨う目、暗い部屋のどこに視線を置けばいいのだろう。また、指。 「暁」 そっと、顔を彼のほうへ戻す。 「嫌がらないんなら続けるぞ」 嫌がる? まさか。頭が痺れている。だって、この人は愛しいひと。私に睦月をくれたひと。あの愛しい小さな生き物を、くれたひと。 暁は答えの代わりに腕にしがみ付いた。 針葉の息が名を呼ぶ。 そのまま押し倒された。 頭がわずかに沈み込む、畳の感触。暗がりの中にぼんやりと天井が見える、覆い被さる影、視界の下だけ彼の頭の形に黒く切り取られる。頬を包むまだ冷たい手、首元で動く髪がくすぐったい。自分たちが今どう絡まっているのかは分からずとも、肌の温もりと重みで彼をすぐ傍に感じる。 針葉は急き立てられるように半ば乱暴に衿を開いた。露わになった肌をまさぐり、吸い付く。暁は素直に吐息を漏らす。彼の耳に届くよう、共にあることの証として。 彼の背中に手を伸ばしながら、暁は徐々に鮮明になりゆく天井を見つめた。 何をしているのだろう。愛しいあの子を他人に任せて何に耽っているのだ。仕事だからと預けたくせに、これが母のすることか。 でもこの人はあの子の父だ。最初はあんなに嫌がっていたのに、この前は三人一緒の部屋で過ごすことができた。ここで途切れさせたくない。この人が望むことを拒まずにいたい。 針葉が体を起こす。 「……やっぱり変わったな、体つき」 だって睦月を産んだもの。 「二年も経てば変わるよ。もう板っきれなんて言えないでしょう」 私の体が変わったというなら、それは睦月を産むため、育てるためだ。 以前より丸みを帯びた私の体は、十月十日、丈夫な籠となってあの子を守り続けた。 幾分立派になった私の胸は、この一年、頻繁に張って痛み、時には熱を持って岩のように固まり、生え始めた可愛い歯で傷を作り、睦月の腹を満たすために戦い続けた。 「悪かないな」 針葉が笑い声とともに脚の間に膝を割り入れ、また暁の体に覆い被さった。時々腿に擦れるものを感じる。体の中を一本の矢が通ったように、脳天までじんと痺れる。ああ、また始まるのだ、また繰り返すのだと、泣きそうに思う。 ねえ、針葉、分かっている? 私はもう月のものが始まっている。それがどういうことか、分かっている? 喉の奥に溜まった言葉は吐息に押し流されてどこかへ消えてしまう。 莫迦なことを。いい歳をした男が女を抱こうとして、それがどういうことか分からぬはずもあるまい。体を重ねるのが何のためか、知らぬはずもない。なのにあえて告げようとするのは、彼に頷いてほしいから。この後に迎えるかもしれないものを共に手を取って待ちたいから。 なのにどうしても告げられないのは、一瞬でも逡巡する彼を、冷めて立ち去る彼を見たくないから。 私は彼を試そうとしている。この熱の中で。それがどれほど卑怯なことか。 分かっている。結局私は言えないだろう。何も言わずにただ流されるのを待つだろう。 彼の肌はいつしか湿り気を帯びている。 彼の手が腿を上る。 目の裏が熱く、暁は瞼を閉じた。 開ける。 窓が見えた。 窓? 目を凝らす。彼女のすぐ右から壁が立ち上がり、その中ほどの高さから、格子で細長く仕切られた空が覗いている。目を刺す光。思わず瞬き一つ、途端に日は落ちて暮れた夕空へ変わる。 これは、何だろう。一体どこだろう。 たまらない不安が体を駆け上り、針葉を探す。いない。起き上がろうとする体を、押さえ付けるものがある。 足元に蠢く黒いもやの塊。いや、違う……ああ。動いている、蠢いている、ああ。 蛇だ。 ぞっと背筋に寒いものが走り、もがく。ここにいてはならない。どうしてまた来てしまったのだ。何度も見たではないか、何度も夢が、教えたではないか。 一歩たりとも進めないまま、ふわりと畳が淡いに包まれる。煙だ。鼻を衝く臭いが畳を這って忍び寄る。駄目。早く逃げなくては。早く。 いつしか体は煙に包まれる。 いつしか煙は蛇に変わる。 舌を小忙しげに動かしながら。細かな鱗の凹凸の一つ一つを光らせながら。舐めるように大地を這い回る、長い生き物。息継ぐ口のすぐ傍をすり抜けていく。 もがいた足は更に深くうねりの中へ呑み込まれていく。体を這い上るものがいる。あるものは耳の中へ、あるものは口の中へ、またあるものは鼻の中へ、目の中へ。皮膚の一枚内側を蛇行する生き物。蠢く肌。蠢く視界。 繋がれたように手足が動かない。何も見えない聞こえない、肌の感覚だけが残っている。 駄目。頭の中で叫び声。この後には、この後には。いつも。 腿を這い上る感触。あ。背に冷たい汗。 いつもそうだった。なのにどうして私は忘れてしまうのだ。 しつこく這い回る、厭なもの、ずりずりと滑って離れず、右に左に波を描きながら、執拗にその奥を目指している。あ、あ。 ――これがお前らのやり方なんだろう。え、本家のおひぃさまよ。 蛇の口から漏れ出たのは間違いなく人の言葉だった。低い男の声だった。 ――おぞましいよなぁ。そのせいでこっちは散々苦汁を嘗めてきたんだ。割に合わないよなぁ。 ……厭。 「いやっ」 突き飛ばした、それは人の体をしていた。 掌の感覚から正気に戻り、はっと目を見開く。辺りは暗く、ここは自分の部屋で、今見たものはどこにも無い。 暁は浅く息を吐きながら蒲団を引き寄せ体を閉じた。断続的に震えが襲ってくる。 自分があの人に何をしたか、忘れたことはなかったのに、どうして見たことを、聞いたことを、あの生々しさを忘れてしまうのだろう。カゾを燃した夜。熱に浮かされた日。昏迷するたび迷い込んだのに。あの煙の臭いに巻かれたのに。 蛇だ。 蛇のようなあの人の手が、脚が、体に絡んで、私を逃がさなかったのだ。 その目が、言葉が、あんまり怖くて、怖くて、だから私は、あの人を。もがく指に触れた冷たい得物。あの人を。必死に逃げ回った先で見つけた刀。あの鼻を衝く臭いの中で。あの死に満ちた国の逃亡の中で。 「暁」 頭の中の奔流がふっと止み、暁は顔を上げる。 針葉の影がそこにあった。たった今暁が拒んだ、その人だ。 「あ……」喉がからからで声がうまく出ない。唾を一つ呑み込む。「あの。違う。違うの」 きっと誤解している。そしてその誤解は、今解かねばきっと手遅れになる。 どうせ理解されないと決め付けて黙り続け、そうして以前は駄目になった。今度は繰り返さない。 「あの、私」 「違うって、何が……」 遣り切れなさと、戸惑いと、苛立ち。怯え。それら全てを含んだ声で針葉がいざり寄った。 そこに害意など微塵も感じられなかったのに、暁は身を竦めてしまった。 針葉の影がぴたりと止まる。 暁は奥歯を噛み締めて震えを消した。違う、あなたに怯えたんじゃない。伝えなくては。全てを今。夜が続くうちに。この夜が―― 「……あ、」 暁はふと呟くと背筋を伸ばした。見えないものを視るように、聞こえないものを聴くように。 向かい合う針葉は目を瞠った。縮こまっていた彼女の影からみるみる緊張が解けていく。その時やっと彼にも聞こえた。 赤子の泣き声だった。 ぞわ、と針葉の頬が泡立つ。 音も無く立ち上がった暁がするりと彼の脇をすり抜けた。 「暁」 針葉が振り返ると、彼女は襖に手を掛けて彼を見下ろしていた。 「……、ごめんなさい」 それだけを言い置いて襖は閉まり、足音が遠ざかった。 火の消えた部屋には、いつの間にか冷えが忍び寄っていた。 あの夜以来、暁とは声を交わしていない。 翌夕には餓鬼を抱えた彼女と鉢合わせた。彼女はぎゅっと眉を寄せて目を伏せた。その腕に力が入ったのが分かった。だから針葉は何も言わずにその横を通り過ぎた。 そうして数日が経った、その日の仕事は近場からの運びで、昼過ぎには片が付いた。堰で蔓を解いたところで解散となり、遅い昼飯に、今でも朝には部屋の隅に置かれているマチクの包みを開いた。 日のあるうちに坂を上るのは久々だった。指についた飯粒を舐め取ってマチクを枯草に投げ捨てる。 木々が開けると坂の終わりだ。 撥ねるように最後の一歩を踏んだ針葉は、そこにいた女と目が合った。 思わず足を止める。山の中腹にあるこの家は、草むらに踏み入るぎりぎりのところまで来ると海や港が見下ろせる。彼女も遠くを見ていたらしい。 若い女だ。見知らぬ顔だった。人の良さそうな素直な顔立ちのせいか幼く見える。針葉の目は次に彼女の帯に釘付けになった。小柄な体の他の部分からはかけ離れて腹が膨らんでいる。 誰の客人だろうか。どこかで見たような気もするが……。 互いに目を丸くして見つめ合う。 「お帰りぃ。なんや今日は早かってんな」 はっと顔を上げる。家の奥から出てきたのは織楽だった。彼の姿を見て、女もほっと表情を和ませ、針葉に会釈を寄越した。 「こちらの家の方なんですね。失礼しました。お邪魔しています。季春座で役者をしております、果枝と申します」 元々垂れ目の顔が笑うと何とも甘やかになる。そうだ、そういえばあの時もこの女はいた。針葉が季春座に乗り込んだ日、茶を持ってきた女だ。結局針葉が部屋を出たところですれ違い、飲めず終いだったが。 「その腹」 「え?」 「もう産まれんのか」 果枝と名乗った女が自分の帯に目を落とす。 「だいぶ大きなったけど、あとどんくらいやったかなぁ。まだ今日明日ちゃうで。披露目が終わるまではおとなしぃしててくれんと」 答えたのは織楽だった。ゆったりとした足取りで二人の元へ歩いてくる。 針葉は相変わらず柔和な織楽の顔を正面から見据えた。 顔を合わせるのは罵倒し合ったあの日以来だ。そんなことなど忘れたかのような人懐こい表情だった。 こいつは怖くないのだろうか。こいつの、しかも身重の女は、俺が腕を伸ばせば届く位置にいる。俺がこの女を突き落とすと思わないのか。腹を殴りつけると思わないのか。 織楽が二人のすぐ傍で足を止める。 「久しぶり。元気みたいで安心したわぁ」 そう言って彼は、いつものように馴れ馴れしく肩を叩いた。 その夜は果枝も加わって八膳が一間に並んだ。 彼女は客扱いに甘んじることなく、体の許す範囲で配膳に加わり、家に馴染もうとしている様子だった。 一同手を合わせて夕餉が始まり、かちゃかちゃと箸の音が連なる。 黄月が顔を上げた。 「祝言はいつだった」 「あと十日。昨日やっと千秋楽やったし、これからが忙しいわな。怖い怖い」 「それ季春座でやるの?」 紅花の問いに、シラナとすり身団子の煮浸しを口に放り込んだばかりの織楽は頷きで答える。 「絶対来てや。全員やで」 最後の一言が自分に対して投げ掛けられたように、針葉は感じた。 「祝言て、そんだけ腹がでかくなってわざわざすんのか。今更だろ」 癪になりわざと憎まれ口を叩く。紅花が顔をしかめて目配せしてくるが、素知らぬふりで澄まし汁の椀に口をつける。 咀嚼に忙しい織楽の代わりに口を開いたのは、その隣に座る果枝だった。 「そうなんです。この人いつも間違うんですよ。今回行うのは、今までこの人を支えてくださった皆さんや、季春座の皆へのご挨拶。お披露目なんです。公演続きでなかなか開けなかったんですけど、けじめということで。祝言は去年きちんと済ませました」 にこやかながら、きっぱりとした口調だった。 「去年……」 暁の呟きも逃さず、「はい」と笑顔で首肯する。 「去年の秋、私の田舎へ戻ったときに行いました。ね」 とっくに咀嚼を終えていた織楽は「うん、そやった」と短く答える。その目がわずかに揺らいだのを針葉は見た。 どうやらあの女、見た目ほど与しやすくはないらしい。 そう分かると、その後の夕餉が愉快にもなってくるのだった。 夕餉の後、織楽は果枝と二人で部屋へ引き揚げた。彼女の分も蒲団を敷くために彼の蒐集物は別の部屋へと追いやられ、小ざっぱりとしすぎて、別人の居場所のようだ。 果枝がほっと息を吐いて畳に膝をつく。 「平気か。疲れたやろ」 織楽も隣に腰を下ろして労るように肩を撫でる。果枝は首を横に振った。 「大丈夫です。皆いい人ばかり。もっと早く挨拶に来られたら良かったのに」 「いや、それは分かってるやろ。ずっと公演あったやん。やっと日程ついてんから」 「私もこれは前から言ってましたけど、わざわざ場を設けてお披露目しなくても良かったんですよ。祝言はきちんと済ませてるんだから、今日みたいにお伺いするだけでも」 織楽は彼女の肩から手を離し、胡坐をかいた。 「最初はきちんとしといたほうがええねんて。それに、公演中はいつ家に戻れるかも分からんねんから」 「それなら私だけでも……ううん、この話はもういいです。これから仲良くしていけたらいいもの」 果枝は帯に目を落とし、愛おしそうに手を添えた。 「あの子、可愛かったですね。睦っちゃん」 「ああ……うん」 「あの人が暁さん、でしたね。よく芝居を見に来てくれる人が紅花さんで」 織楽は頷き、蒲団の上に肘をついて横になる。ふと果枝はおかしそうに口を覆った。 「思い出したんです。針葉さん。季春に乗り込んできた人ですよね。びっくりしたなぁ」 「どっちか言うと獣に近かったな」 「あのときは、じゃあ暁さんのことを取り合ってたんですね」 果枝と目が合う。試すような視線が、きゅっと縮んで笑みに変わる。 「冗談です」 「やめてや、取り合うとか。言うたやん。あいつが勝手に誤解して喧嘩しに来てんて。俺はそのずーっと前から、二人がもっと仲良うなるよう陰に日向にちょっかい出してきてんから」 「自慢することじゃないです」 果枝は笑い、体を庇うようにゆっくりと立ち上がった。 「お湯借りてきます。ここ、凄いですね。お風呂も使えるなんて」 「元々宿やってんて。付いてこか」 「大丈夫。行ってきます」 手を振って見送る。襖が閉まり、彼女の足音が遠ざかると、存外に大きな溜息が出た。 はっと口を覆う。これではまるでこちらが疲れているようではないか。重い腹を抱えて、誰よりも張り詰めているのは果枝のはずなのに。 織楽は腕を枕に寝転んだ。 ここが自分の安息の場所だからだろうか。 愛しい彼女に、自分の子を宿す彼女に、侵食されると恐れるなど。 ゆっくりと瞼が下りる。 ――初めて果枝の田舎へ行ったのは昨年の晩春だ。吹雪座の役者との一件があり、果枝と再び話すようになって、次の公演の稽古が始まるまでの短い休みだった。 「東西の大脈路を東へ四日、峠分かれで北へ分け入ってニ日」。聞いていたとおりの日程で果枝の里は現れた。都暮らしばかりの織楽には、世の果てとも思える長い山道だったが、段々と人の手の入った風景に変わっていくさまには感動すら覚えた。 汗ばむほどの陽気に穏やかな風が流れていた。似た木々がずらりと並ぶ中にぽつりぽつりと家がある。人らしきものは見つからない。と思った傍から何かがにゅっと顔を出した。 「おんや、果枝坊か」 「草爺ちゃん。久しぶり」 びくりと歩みを止めた織楽とは対照的に、果枝は相好を崩して腰の曲がった男に近寄る。草爺ちゃんと呼ばれた老人は、しみが斑に浮き出た顔でにっと織楽に笑い掛けた。 「まぁた別嬪さん連れてきたなぁ。遠いとこまでご苦労だねぇ。しかし悪いが、ミツベニもカンカも良いのはもう出ちまったよ」 「違うってば。わざわざ山を越えて食べに来るわけないでしょ」 「侮っちゃあいかんぞ。うちの水菓子はそんじょそこらのもんとは格が違うんだ。大体お前だって、ミツベニの初物目当ての姉ちゃんに 「拐かすだなんて。それにこの人は男の人よ」 「男ぉ!? これ果枝坊、年寄りを担いじゃいかん。あぁんな別嬪な男がいるもんかい」 振り向いた果枝はすまなそうにはにかんで見せた。 「で、お前以上に別嬪な男が何の用だ。あれか、役者だから、そうだ、ここで芝居やるんだな」 「いずれそうなると嬉しいけど、今回はうちの家に顔を見せに来てくれたの」 「顔見せだって? 何のために」 そこで果枝は再び織楽を振り向いた。 「私の良い人だから」 確かにそうだ。彼女しかいないと思ったから、彼女の生まれ育った郷を見てみたかったし、足を土埃だらけにして、彼女の親にも会いに来た。だがまさか、道端で会っただけの老人に真っ先にそれを告げるとは思わなかった。 それから彼女の家へ着くまで何人かと会ったが、織楽が何者であるかを既に誰もが知っていた。後になればなるほど彼らの網は緻密になり、果枝の家の前では、たむろする子供たちが織楽の顔をしげしげと眺め、「来たぞ来たぞ」「お人形さんみたい」「祝言いつやんの!」「うちの隣空き家だから住んでもいいよ」「あんななよなよしてちゃカンカなんて作れっこねえよ」と無遠慮に騒ぎ立てた。 迎えてくれた果枝の親の過剰なほどの歓待も、婿となる者が来たと知ればこそだろう。 良い人たちだった。果枝の面影のある父御の顔は日に焼け、目尻には笑い皺が深く刻まれていた。母御は控えめながらきびきびと動く人だった。そして弟が一人いるが、隣村へ出掛けているという。 「この子は本当に、なかなか帰っても来んで親不孝もんと思っとったから、文が来たときはたまげてねぇ」 「本当にねぇ。戻ってくるまでは信じられんかったけど、戻ったら戻ったで驚きますねぇ。錦絵みたいな人が来るよって、斜向かいの子が飛び込んできたんですよ」 そこで場が沸く。織楽がどう反応したものか迷いつつ口元に笑みを浮かべていると、隣の果枝が彼を向いて「錦絵だって」と笑った。 しばらく茶を飲みつつ談笑していると、大きく開いた縁側に「お、姉ちゃん久しぶり」と日焼けした顔を見せた少年があった。履物をそこで脱ぎ、汚れた足で板間に上がる。 「何だよ、帰ってくるなら言えよ」 「言ったじゃないか。聞いてなかったのはお前だろう。ほら、足はちゃんと拭く。お客様の前で恥ずかしい」 そこで初めて彼は果枝の向こうにいる織楽に目を留めた。目がみるみる丸くなり、口が「お」の形で止まる。 「すみません織楽さん。うちの馬鹿息子で柑太といいます。柑太、こちらは織楽さん」 「あ……ああ、そっか、何か言ってたっけな。そっか、いや驚いた」柑太は結局足を拭かずに四人のもとへ来て胡坐をかいた。母御が湯呑を取りに立つ。「ふうん、じゃあ兄ちゃんか。こんな綺麗な姉ちゃんなら大歓迎なんだけど」 「何馬鹿言ってんだい。本当にすみません、ずっとこんな狭いとこで育ってるから礼儀を知らなくって」 「父ちゃんだって同じだろ」 ありがちな軽口だと分かってはいるが、いざ果枝の弟と思うと、笑い飛ばしていいものか迷った。周りに合わせて声を上げ笑う。 柑太は茶をひと口飲むと、足を組み直した。 「そんで綺麗な兄ちゃん、いつうちの畑を継ぐんだい」 一瞬の間ののち父が笑う。 「おいおい何言ってんだ、そんな話はまだまだ先だろう」 「でもいつかしなきゃいけない話だろ。じゃあ早いほうがいい。それによっちゃ俺の身の振り方も変わってくるってもんだろ」 「なぁにが身の振り方だい。半人前のくせして格好つけてんじゃないよ全く。いや織楽さん、気を悪くしないでやってください。芝居の世界で高名な方だっていうのは、果枝から聞かされてよくよく承知しておりますんで」 いえいえ、私もまだまだ半人前で。控えめに笑って会釈を返す。柑太はまた用があると言って席を立ち、その話題はそれきりとなったが、織楽はどこか冷静な頭で考えていた。果枝と添うということは、この家、この里と添うということだ。これまで知らぬわけでもなかったが、それが今、現実のものとして胸に迫っていた。親も無い、郷も捨ててきた、舞台の上で音と色に囲まれ華やぎ暮らしてきた彼が、覚悟を強いられた初めだった。 愛しい女の向こうに、脈々続くものが見えた。それはあるいは木々や、土や、山のように、深く根を下ろして百年先もそこにある、眩暈のするような、繋がりという枷だった。 きっと正しいのは果枝なのだ。たとい好いた相手が別の女でも、同じことを望まれたのだろう。 彼が根無し草だっただけだ。 彼が腑甲斐なかっただけだ。 昨晩秋、織楽は再び果枝の里を訪れた。身重となった果枝を気遣ってゆっくりとした行程となった。嫁入り前の娘に手を付けたと罵倒されることも覚悟のうえだったが、意外にも彼は里じゅうから歓待を受けた。 何事かと驚く彼が連れられたのは里で一番大きな建物である神社だった。堂の小部屋に飾られた白無垢に見入っていた父御が振り向き、満面の笑みで言った。 「心配しなさんな、全て整えといたから。ここには十日いるんだったね。日取りも良いから四日後にしといたよ」 彼女の家へ帰る道、子供たちが騒いでいた。「どっちが白無垢着るんだよー」返した笑みは多分、口元に無理があった。 腹が目立たないうちに祝言を済ませておくのは、彼女やその家からしてみれば当たり前のことなのかもしれない。不出来な婿として、感謝こそすれ逆らう術などあろうはずもない。 「有難うございます。」「この度はとんだ不始末をいたしまして。」「お父上には頭が上がりません。」 絡め取られていくように感じた自分は、恩知らずだろうか。 かくして、花嫁の縁者だけが列席する祝言はつつがなく執り行われた。 ――織楽は目を開ける。 果枝の花嫁姿を見たいと思った。良い着物を仕立ててやりたかったし、季春座や家の者や、自分たちに関わる人々に酒と料理を振る舞い、晴れ姿を見せたかった。 それに相応しい時期を逃したのは自分だ。だから不意打ちの祝言については文句を言わなかった。 その代わり披露目くらいは自分が納得いくようにやるつもりだった。もう祝言は済ませた、この腹を抱えていては十分なもてなしができないと、果枝が渋っても。 これは織楽にとってのけじめだ。 あまりに居心地のいい、緩やかな繋がりで成る「家」から踏み出すための儀式だった。 戻 扉 進 |