坂を上り切ったところで針葉は足を速めた。吐き出した白い息に割り入るように、肌痛む夜を進んでいく。まただ、また灯りが漏れている。
 聞き分けの無い奴だ。苛立ちを胸に草履を脱ぎ捨て、障子を開ける。
「こら暁、何でお前はそうなんだ」
 思ったとおり部屋には紙と開いた本が散乱している。その中に埋もれるように座った暁は、悪びれる様子も無く振り返った。
「お帰りなさい」
「ただいま。……じゃねぇだろ。あ? 無理やり寝かしつけられたいか」
 しかし針葉が話している途中から、暁はさっさと畳の上を片付け始めた。みるみるうちに畳の数が数えられるまでになる。肩透かしを食らった気持ちながら、針葉はどうにか威厳ある表情を保つ。
「……それでいいんだ。言われる前からそうしとけ」
「待っていたの」
 あんぐりと開いた口には、はや威厳の欠片すら無い。
「俺を?」
「他に誰がいるの。そこ閉めて。寒い」
 促されるまま障子を閉めて、首を捻りつつ彼女の前に胡坐をかく。暁も文机とひと抱えある紙類を衝立の陰に追いやって、少し離れた位置に膝をついた。
「ごめんなさい、遅くに。皆のいるところで呼ぶと紅花がうるさそうだから」
「夜に呼ぶのも大概だぞ」
「ああ……そうかな。そうかも。どうしよう」
 言葉とは裏腹に暁の顔は笑っている。肩の揺れに合わせて簪の花飾りが見え隠れする。
「知るかよ。……何だよ。どうした」
「きちんとお礼をしておきたかったの」
 礼? そう聞き返すよりも先に、暁はその場に額衝いた。針葉が目を見開く。
「な……何だよそれ。やめろ気味悪い。俺はお前に礼言われるようなことした覚えねぇよ」
 行儀よく合わせた指がびくりと硬直する。顔を上げた暁は悲痛の表情だった。じっと針葉を見つめる目。針葉は言葉に詰まって何も言えなくなる。何なのだ、まるでこちらが悪いことを仕出かしたようだ。
 暁は項垂れて息を吐いた。
「そう……そうじゃないかって気も、時々、してはいたの。だとしたら謝らなくちゃ。どちらにせよ私は命を救われました」
「一人で話を進めるな。何なんだ」
「覚えていない?」暁は髪に手をやって簪を抜いた。この飾り気の無い女が、こんな夜中に珍しく気取った物を身に着けていると、改めて思っただけだった。
「簪で命が助かったってか」
「そうじゃなくて。これと一緒に入れていたでしょう、東雲の白証文を」
 針葉は掌に乗せられた簪にまじまじと目を落とす。この色、この花飾り、どこかで。
――あっ」
 どこかでも何も、針葉自身が選んだものだった。任を解かれた帰り途、一歩また一歩と人に戻るために踏み出す足。ふと目に留まった見世で、それは些細な思い付きだった。
 どんな色の着物が多いか、あの髪色に似合うのはどれか。簪の一つや二つ、選び慣れていたはずなのに、飾り物を持たない暁だからこそ苦労したのだ。蘇った気恥ずかしさに悶える彼を尻目に、暁はうつむいて気落ちした様子だ。
「私に宛てたものじゃないって、疑わなかったわけじゃないの。ただ、その時は本当に必死で……針葉は知らないと思うけど、去年の梅雨に人別改めが行われて、私は人別移しができていなかったものだから、止むに止まれず使ってしまいました。申し開きのしようもありません。どうまどえばいいのか……」
 深々と頭を下げる暁を目の前にして、恥ずかしいだの言っている場合ではなかった。
「止めろって。頭上げろ。……間違いなくお前のために工面してきたんだ。その簪も」
 じゃなきゃあんな紙切れ一枚のために、あてなく人を辿り、銭をつぎ込んだりするものか。
 おずおずと顔を上げた暁が、簪に目を落として泣きそうな顔で頷く。ぎこちない指で簪を取り、崇めるように眼前に掲げる。
 それ以上見ていられず針葉は目を逸らした。こう素直にされるとやりづらいことこの上ない。憎まれ口の一つくらい叩かせてほしかった。
「そういやそうだ。どこで失くしたんだかちっとも思い出せなくて」
「浬が持ってたの」
 あ。糸がするすると解けるようだった。――「そういえば、俺は、あれをどこに」。
「逃げ回って隠れて、どうにか改めをやり過ごせたとしても、ずっと怖かったと思う。もう外をまともに歩けなかったかもしれない。……有難う。針葉のお陰で堂々と暮らしていける。私も、睦月も」
 滅多に聞けない素直な謝辞にほころんでいた針葉の顔が、暁の最後の一言で表情を失う。暁は気付かず泣き顔に似た笑みを見せる。針葉は口元だけで笑みを返す。
「遅くにごめんなさい。明日も早いんでしょう」
「明日――は、いや、休みだ。今日でトグの林はあらかた終わったから、寝明かすつもりだった」
「そう」そして針葉が腰を上げないのを見てうつむき、はにかみ、また顔を上げて、「今は何をしているの」
「乗り子って分かるか。山に生えてる木を切り出すだろ。そのまま運ぶんじゃひと苦労だから川に流すんだ。流れの急なとこはそのままでいいが、途中で平坦になってくるから、その辺に網で堰き止めといて、筏にして川を下る」
「山って向こうの神社の?」
「まさか。もっと北……、いや北西か。一つ向こうの川の上流だ。近けりゃ朝早くに出て筏組むとこから始めるけど、大抵は遠すぎて途中からだな。こう、山があるだろ、したらこの辺が網場だ。ここで筏組んでここまではその近くの奴、そこからここまでは次の奴、そんでそっからこの近くまでが俺たちってわけだ」
 針葉が、川に見立てた自分の腕を指差しながら説明する。
「筏って舟とは違うんでしょう」
「違う違う。木の端っこに穴開けて蔓で繋ぐだけだ。下まで無事に着きゃいいんだから、乗り心地なんてあったもんじゃねぇぞ」
「平たいの? ひっくり返ったりしないの」
「そうならんために乗るんだ。ただぼけっと突っ立ってると思うなよ」
「え、座れないの?」
「お前なあ……」
 暁は肩を竦めて小さく頭を下げる。
「あ、じゃあずっと川の上なの。朝から夜までずっと?」
「まあそうだな。水は撥ねるし風も通るし、朝なんか凍えるぞ。つっても昼にゃ街で過ごす。じゃなきゃ温かいもんも食えねぇから」
 言い終えたところで、暁の顔が何か問いたげに止まっていることに気付いた。促すように眉根を上げる。
「やっぱりそうだよね。寒いんだよね。ごめんなさい、……あの、お握り」
「あ」
 しばし見つめ合う。
「……いや、あれはあれで別に」
「でも今、あ、って」
「そ……そりゃ冷てぇよ、昼にゃ氷も同然だ。でも何だ、ほら、蕎麦とかつゆもんに入れるとすぐ温まるし。嵩も増えるし。賑やかしだ賑やかし」
「つゆが先に冷めそうだけど」
「ごちゃごちゃうるせえな、置いてありゃ持ってくっつっただろ。……いや違う、無理に用意すんなっつったんだ。もうどっちでもいい、面倒くせえ。お前の好きなようにすればいいだろ。ありゃ食うし、無けりゃ手ぶらで行く、そんだけだ」
 最後にはそっぽを向いた針葉を、暁は目を丸くして眺め、やがて笑い出した。肩が大きく小さく揺れるのを、針葉は横目で睨む。
「いつまで笑ってんだよ。……笑うなって、こら。もう帰るからな。帰るぞ」
「針葉」
 腰を上げかけた針葉が動きを止める。晴れやかな彼女の顔の中で、目が濡れていた。
「こんなふうに、話せたら良かったね。二年前に……」
 息が詰まった。常に物憂げに見える彼女の、久しく拝むことのなかった笑顔を、かつて目にしたことのない幸せを満たした目を、どうして後悔とともに聞かねばならないのか。
 立ち上がった針葉はそのまま暁の眼前へ歩み、腰を下ろした。笑みは幻のように消え、引き結んだ口元からは強い緊張が感じられた。その体がびくりと震える。茶色の目、今は小さな火を含んで赤みを帯びた目が、針葉が触れた頬のほうへ動き、また戻る。刃物を突き付けられたかのような顔だと思う。
 針葉自ら手を伸ばすのは、再会してから初めてのことだった。
「手遅れみたいな言い方するな」
 自分で壊しておきながら、滑稽極まりない台詞だった。だからこれは懇願だ。目覚めればそこに置かれているマチクの包みに、彼女の頭で揺れていた簪に、さっき見た儚い笑みに、縋りたいだけなのだ。
 暁は何を考えているのか、うろうろと視線を揺らし、しきりに瞬き、いい加減焦れたころ「あの」と声を上げた。
「明日、用事が無いんなら……私、大抵ここにいるから、いつでも、」
 叱られた子供のように徐々に声が小さくなり、聞き取れなくなる。頬から指を離すと、彼女は改めて身を竦め、気取られないようすぐに戻した。針葉の掌には冷たい頬の感触が残っている。
「夜?」
「昼!」
 分かってるよ。そう言う代わりに、彼女に背を向けてひょいと手を上げ、振り返らず立ち去った。



 針葉は昼下がりに現れた。
 畳の上を這う睦月を見付けて彼はわずかに目を見開き、口を結び、部屋の隅に腰掛ける。暁が首を巡らせてそれを見ていると、ちらと視線を上げた彼と目が合った。
「今日は預けてないんだな」
「あ。……ああ、睦月のこと。うん、今日は場所を取る作業でもないし」
 ふんと小さく頷き、針葉は視線を落とした。手に持った紙を広げ、片膝に乗せて黙々と眺める。睦月も最初こそ見慣れぬ闖入者をじっと見つめていたものの、一定の距離をおいて部屋を這い回りだした。
 暁も机に向き直って積み重なった本を消化していく。普段使う語がその時によって様々に意味を変えるように、外つ国であっても語の意味するところは一つではないはずだ。言い回しを集めるために目を動かすのは、宛ては無いにしろ面白い作業だった。
 和解と逆引きを何冊も拵えるうちにある程度は頭に入っている。だがそれだけではまだぶつ切りだ。語を言い換え、試し試し並び替えて、意味のある一つの流れとなったときは身が震えるようだった。訳の分からない模様の羅列はその実、他愛もない会話だったり、何でもない物の描写だったりした。
 時には未だ知らない意味に出会い、解釈しきれないこともある。不思議と、単純な語こそそういった例が多い。その時は専用の帳面に推測とともに書き付けていた。中身を大幅に見直すときには、きっと大いに役立つことだろう。
 まだ冷たい初春の陽光が縁側を抜けて畳の上に落ちる。冷たい風がゆるやかに吹き抜ける。静かな部屋に時折睦月の声。嬉しい。驚いた。不思議だ。嫌だ。声の調子に合わせて答えてやるとお得意の笑みが返ってくる。
 この子はまだ話さない。溶けた無数の音の中をゆっくりと漂っている。焦って悩んだこともあったが、今だけ許された形の無い言葉、そう思えばこそ愛しい。この子はゆっくりと大きくなる。一日一日を余すところなく噛み締めて、ゆっくりと大きくなる。
 透明な涎を拭ってまた畳に放流する。
 いつしか針葉の気配を忘れていた。背すじを伸ばして冷たい風を奥まで吸い込む。
 いつもと違うかすかな息の音、穏やかな音が、耳をくすぐるようだった。背中で聴く。背中で感じる。
 特別な会話など要らない。当たり前のように一つ部屋の中にいることが、ひたひたと胸を満たす。好き勝手な方向を見て別のことをしていても、ひとところにいるという、ごく世間並の当たり前が、これほど貴い。
 ふっと息を吐き出して手元の書き付けに目を戻す。そこににゅっと小さな手が伸びてきて、よたよたと小さな体を支えて立ち上がった。
「おー、強い強い」
 手が届く範囲から物を退け、触れないように手で尻を支える。黒い目はお構いなしに机の上を探して揺れている。
「この前のご本ね。睦っちゃん、あれは今ゆきに貸してるの。ゆきお姉ちゃん。分かる」
 伝わったのかどうか、睦月の顔が歪んで唇がふるふると震え出す。形を持たない不平の声が漏れる。
「ほーら、そんなことで泣かないよ。今日は別のにしよう。ちょっと待ってね、どれが好きかな」
 膝で立ち上がった途端、睦月はそこにころんと尻もちをついた。呆気に取られた顔がすぐにぐしゃりと崩れて濁った泣き声をそこらじゅうに撒き散らす。
「怪我でもしたか」
 はっと振り向くが、針葉の目は相変わらず紙の上だ。折り目が山ほど付いた、あれは地図かもしれない。「ううん」暁はさっと屈み込むと睦月に鼻を寄せた。
「あー、やっぱり。針葉、悪いけどおしめ取って」
「は」
「おしめ。そこ、積んであるから。早く」
 億劫そうにのそりと立ち上がった針葉は、暁が顎で示した方へ歩いてからもきょろきょろと辺りを探していたが、ようやく足元のおしめが目に入ったようで、一つ指でつまみ、少し考えてもう一つつまんで暁の方へ歩み寄った。
「うわ」
 慣れない彼ではこんなものだろう。短い言葉にありありと含まれた嫌悪をものともせず、暁はおしめを奪い取って睦月の足と格闘する。
「嫌なら部屋出といて。すぐ片付けるから」
 針葉の顔は見えない。彼の足は数歩離れたところにあり、ふいと暁の背後へ去って、畳がわずかに軋む音がした。先程と同じ場所だ。一瞬手を止めて耳を澄ました。すぐにあどけない声が割り込む。
 暁は肩を揺らす。何を手伝うわけでもない、言葉一つ掛けるわけでもない。それでも良かった。
 睦月を産んだあの日、一人きりで眺めた天井。子と共にある幸せを噛み締めるたび、それを分かち合えないうろが胸に黒い染みを残した。睦月が得るべき温もりが足りない。あの人が得るべき幸せが減っていく。
 カンカを剥く一瞬にぱっと散るあの芳香のようなものだ。後から取り戻せはしない。満ちる瞬間は儚い。
 家族は共にあるものなのだ。あの時からそれだけを願っていた。
 そして今日、生を受けて一年以上を経て、やっとその一歩に漕ぎ着けた。この泣き声、この匂い、かつて嫌がったその中に彼は当たり前のようにいた。それで十分だった。
 かつてない温もりが胸に満ちていた。

 朝をできる限りゆっくり過ごしたものの、刀の手入れまで終えてしまうと自分の部屋ですべきことは無くなった。
 目の前に積まれた茫漠な時を持て余し、針葉が暁の部屋へ向かったのは昼過ぎのことだった。
 縁側には日が差しほのかに暖かかった。肌温む静かな日だった。空いた障子から中を覗くまでは油断していた。油断しすぎて、あの生き物を見た驚きがそのまま顔に出た。
 黒い目がこちらを見る、避ける、暁と目が合う。他の奴らのように馬鹿に可愛がるのも、あからさまに邪険にするのも癪だ。すぐに顔を背けて部屋の隅に腰掛けた。暁の視線がしつこく追ってくる。あの生き物を認めたくない、しかしそれ以上に駄々を捏ねるのは御免だ。
「今日は預けてないんだな」
「うん、今日は場所を取る作業でもないし」
 部屋に自分を呼ぶ以上、当然あの子供は他に預けるものだと思っていた。結局それは思い上がりであったようで、彼が来る前からあの子供は当たり前のようにここを這い回っていたのだ。長でありながら何度も来るのを逡巡した、この畳の上を。
 甘ったるい匂いが流れ込んでくるようで、手に持っていた紙をばさりと煽ぐように広げた。紙の向こうの焦点の合わない場所に、ぼやぼやした輪郭の小さな生き物。視線は合わない。それでも分かる。こちらを見ている。あの黒い目。何もかも御免だ。暁が呼んだから来たんだ。ぼやけた肌色を覆い隠す位置に紙を持つ。
 広げた紙の一つは地図、もう一つは乗り子の元締めである筏師の持つ水脈図の写しだった。左右に目を動かして、川における国の境目に爪で印を付ける。
 国の行き来は面倒になる一方だった。最近も壬の北で暴動が起きたというから、壬周りは尚更だろう。こうなると関を通る通らぬの話ではない。
 だが物の流れには比較的寛容なようだ。一度だけ、人出が足りないからと泊まりがけで上流へ行ったことがある。川を遡る途中で国を跨いでいたはずだが、見咎められることはなく、見張りらしき者の姿も無かった。
 針葉は水脈図の所々についた爪の形の凹みを見下ろす。
 ひよが自分に仕事を回していたのは、何故かは知らないがこちらの命を狙っていたからだ。今思えば、全て吐かせてから殺しても良かった。頭に血が上っていたのだ。そうでなければ稼ぎを捨てて丸一日駆けたりしない。
 ひよのことは口入屋として重宝する一方で前々から睨んでもいた。めかし込んだ暁と社へ行く途中のこと、ひよは否定したが暁は明らかに顔を合わせまいとしていた。思い返せば花見のときだってそうだ、団子売りをしているひよを見て暁は二人きりになりたがったのだ。暁が怯えていたのはひよ、もしくは黒烏。
 では浬は。奴も赤烏で、何らかの理由でひよに始末されかかっていたのか。何らか。暁に関わった者? まさか。いや、しかし。待て、それより、怯えていたということは、むしろ暁も始末されかけていたと考えるのが正しいのでは。……いや、それこそ何故、だ。
 これ以上考えても埒が明かない。団子屋に新しい女が入ってからとうに数月。黒烏に怪しい動きが無い以上、ひよを手に掛けた者の存在は知れていないのだろう。もしくは黒烏自身が勝手な動きを取るひよを疎んじていたか……。
 いずれにせよ、彼女がいなくなった今、仕事を途中で降りた自分に仕事を割り振る者がいるとも思えない。自由に主を替えられる赤烏とは言え、今までの仕事はほとんどが壬絡みだ。
 乗り子に飽きたわけではない。鳶だろうが荷運びだろうが物売りだろうが、銭稼ぎならどうにかなるだろう。それでもこうして高いところから国を見下ろしているのは、単純に血に狂っているのか、それとも前の長が残してくれた道に執着しているのか。
「んー? なあに」
 ふっと引き戻されて視線を上げた。声の主は暁だ。子供が言葉のなり損ないを吐き出し、それに答えている。
 滑稽だ。あれで会話しているつもりなのだ。あーだのうーだの、子供が気分で出した声を勝手に解釈しているだけなのに、人形相手の飯事もいいところだ。
 細い肩が揺れている。軽やかな笑い声。輪郭がぶれていく。
 あれは誰なのだろう。
 どうしてあんな不完全な生き物相手に笑う。仕事の手を止められているのに。聞き慣れた彼女の声が表情豊かに高くなり低くなる。いつもは見せたことのない、真っ当な受け答え。真っ当な女の顔。
 あれは何なのだ。
 幸せに見えるのに、見るこちら側は冷え切っている。母と子としては当たり前の姿であるのに、暁の顔を嵌め込んだ途端くだらない芝居に落ちる。
 どうしようもなく嘘くさい。暁は母には見えない。あの生き物はどこかから攫ってきたのではあるまいか。それならまだ得心がいく。却って可愛がりようがある。
 いや、そもそも今までに知る暁は、母どころか女にすらなりえない。かき抱いても夜のうちにいなくなる。次の朝に見せるのは、夜を吸う前と同じ澄まし顔だ。重ねた肌が馴染むことはない。毎朝違う女にすり替わっているのかと思うほど。
 どれだけ笑わせようとしても無駄だった。彼女の目はいつも何かに耐えている。いつも声を押し殺している。
 あの目は誰のものにもならない。
 女でないものがどうして母になろうか。
 睨むように眺めていた目の前で、赤子が後ろに転がった。ひと呼吸遅れて泣き声。
「……怪我でもしたか」
 暁は針葉にちらりと目をくれて首を振った。子供に屈み込むや否や鋭い口調で「針葉、悪いけどおしめ取って」
「は」
「おしめ。そこ、積んであるから。早く」
 滅多に無い早口に急き立てられるように立ち上がり、きょろきょろと見回す。やっと探し当てた布を二つつまんで暁に近付いた、ところで生暖かく酸い臭いが鼻を衝いた。
「うわ」
 思わず漏れた声に、暁がいちいち反応を見せることは無かった。針葉の手から布を奪い取ると、手際良く尻を包んでいく。
「嫌なら部屋出といて。すぐ片付けるから」
 目を見開いて暁のつむじを見下ろす。息が詰まって胸を流れていかない。
 こいつは一体何のために俺を呼んだのだろう。話をするわけでもない。子供相手のほかに手を止めるわけでもない。母と子の日常に異物が紛れ込ませて、何をしたかったのだ。
 臭いも汚れも厭わずせっせと世話を焼く見知らぬ背中。子供は涙の跡を頬に張り付けたまま、きょとんとした顔で親指をしゃぶっている。
 ああ、そうか。
 見せ付けたかったのか。
 誰にも立ち入れやしない血の絆とやらを。母であるご立派な自分の姿を。あるいは、女どもがこぞって言う「いとけないものの可愛らしさ」とやらを。
 反吐が出る。考えたくもない。いつからそんなに浅ましい考えを身に付けたのか。
 いや――違う。そうさせたのはこの餓鬼だ。暁を、母親という莫迦な生き物に堕とした。
 口を引き結び、針葉は同じ場所へ戻った。土踏まずの無い足がばたばたと暴れるのを睨み付ける。
 こちらが退いてなるものか。あんな人のなり損ないにみすみす奪わせるものか。この部屋も、あの燃えるような意志の強い瞳も。



「……無事か」
 紅砂は暗闇へ話し掛ける。答えは無く、火に慣れた目に見えるものも無いが、闇の濃さが少し変わった気がした。
「ずっと来られず悪かった。あんたらは待ってやいないと言うかもしれないが。体は壊していないか」
 応答は無い。彼の後ろでは声が聞こえるか聞こえぬかの遠くで火がちろちろと揺れている。港番の篠原だ。
「こんなところに押し込められて、具合も何も無いな。悪い。……外ではそろそろ雪が降りそうだ。ここは特に冷えるだろうが、どうか凌いでくれ。着物の一つも渡せずすまない。飯はきちんと出ているか」
 声が途切れるたび聞こえるのは、言葉を探す自分の喉が唾を呑み込む音だけだ。少しずつ目が慣れてくる。
「ああ……古い着物を筵にしているのか。そうだな、それがいい」
 言いながら、疑念が頭をもたげるのを感じる。暮れに訪れたとき若菜の代わりにと前に出てきた山吹は、声も出ないほど具合が悪いのか。
 そして闇に慣れた目が輪郭を描き出す。奥にうずくまる黒い人影は、一人分しか無い。
「若菜。……あの女は」
 影が、首を振った。
 闇に溶けた彼女が初めて見せた返答だった。気怠げに奥から這い出し、狭い部屋の中ほどで冷たい壁を背に、再び膝を抱える。
「もう何日前か思い出せない……ずっと苦しがってたの。寒がってた。そうしたら連れて行かれて……」
「きっと療養のため調べを免れたんだ。分かった、篠原殿に聞いてみる」
 安心させようと明るい声で言ったが、若菜の影は唇だけを動かしてほの白い息を吐き出した。
「やめて。要らないわ。首を斬られたか病で死んだか、どちらにしてももう戻ってこないのよ。ずっと呻いてた……そのうち見えないものに話し掛けるようになって、うるさいって、黙りなって、言ったの。それが最後の会話。……嫌いだったわ、あんな奴。卑怯者で欲張りで恥知らず。大嫌い。でも……でも、あんな最期はあんまりでしょ」
 声が出なかった。冷えた膝から痛みが這い上る。
「どうか……気を強く持ってくれ。もう少しで調べがつく。奴の目的も、ここに現れた経緯も」
「やめなさい。美しい明日なんて廓で一生分聞いたわ。夢は要らない」
「嘘じゃない。上手く運べば、あんたをここから出すことだってできるかもしれない」
「幸せなひとね。そんなこといつ頼んだ? 上手くいけばって言うけど、下手すればあなた、自分までここに入ることになるのよ」
 若菜はそう言ったきり膝に顔を埋めて耳を覆う。縮こまった彼女の肩は、しかしふと緩まり顔を上げた。中空を眺める唇にはわずかに笑みが浮かんでいる。
「そうよ、困るわ……ここを出たって生きていけない。客の取れない女は廓にさえいられない。あんな掃き溜めからも弾かれるのよ」
「若菜……?」
「生きていけない」
 何があったと、訊くのは簡単だった。彼女はきっと迷いつつも答え、自分はわずかばかりの満足を得るだろう。いきり立ち、篠原に詰め寄るかもしれない。彼女の境遇に涙落とすかもしれない。しかしそれは救いにはなり得ない。
「一緒に暮らそう」
 口を衝いた言葉に驚いたのは彼自身だった。それでも戸惑いは無かった。今まで温めてきた想いの欠片が縁を越えて、ぽろりと零れ落ちただけだ。
 今までずっと横顔だった若菜の影が、形を変えていた。
「……ふざけてんの」
「ふざけてない。一緒に暮らそう。……あんたさえ良ければ、だけど」
 何か言おうとした彼女の唇が、躊躇うように息だけ吐き出す。影がかぶりを振る。
「自分が何言ってるのか分かってるの。廓の女よ。今はそれにも劣るのよ」
「さっき聞いた」
「まともに暮らせやしないわ。媚び方だけよ、それしか学んでこなかった。飯の炊き方も知らないのよ、洗い物だって……違う、そんなことじゃないわ、子を」
 声の震えるのがはっきりと分かった。
「あたしは、もう」
「それ以上言わなくていい」
 若菜の影がじっと紅砂を見つめている。鼻をすする音が聞こえる。遠くで揺れる火が近付く。
「きっと後悔するわ。廓にいるから欲しくなるだけ。派手な仕掛けを脱がせた途端に褪せて見えるわ。こんなはずじゃなかったって」
 篠原が火を携えて近付いてくる。
「若菜。あんたを廓の女だと思ったことは一度もないよ」
 刻限だ。紅砂は立ち上がる。おぼろげに見える彼女の頬が、少しだけほころんだ。
「それ、前にも聞いたわね」
 篠原が数歩先で立ち止まる。紅砂は会釈を返した。もう一度若菜に視線を落とすが、火に触れたばかりの目では、そこにあるのは闇でしかない。
「幸せなひと」
 彼女の表情にあったのが笑みだったのか嘲りだったのか、闇に背を向け歩く紅砂にはもう分からない。