野川翁の一日は遠くから挨拶を述べる若い声で始まる。
 そして廊下を駆ける奉公坊主の足音、「先生お弟子様がお見えです」。答えて翁、「お行儀が悪いですよ、それに講堂は日の出から開放しておるのです」。その後も張りのある挨拶が次々に響いて翁の眠りを妨げる。「人は何をおいても挨拶を大事にせねばなりません。人と人との関わりの礎となるものですよ」、日頃から口酸っぱく言い聞かせてきたのを悔やむ頃、細君の足音が近付くのを聞き慌てて夜着を畳む。
「鐘が鳴りましたよ、そろそろご支度なさいませ」
「ええ、ええ、今しがた着替えたところですよ。今朝の味噌汁の具は貝ですかな」
 障子の向こうへ話し掛けながら着替えを手に取る。
 朝餉を済ませて講堂へ向かうと、口角沫を飛ばしていた塾生が名残惜しげに席に戻る。十代から二十代を中心とした志溢れる若者たちだ。翁はずらりと並んだ顔を前にゆったりと微笑み、前列に坐した一人を指す。
「さて、君たちは何をそんなに戦わせていたのですか」
「はい先生、東雲及び壬の割譲談義に見る各国の情勢と、坡城の進むべき道について話し合っておりました」
「ほうほうそれは。東雲といえば、近頃また早売りに記事が出ていましたね。読んだ人はいますか」
 奥に坐した一人がぴんと手を挙げる。
「はい先生、東雲北部の飛鳥びと居留地にて辻斬りが横行しており、小火も出たとのことでした。一昨日の早売りです」
「その通りですね。今まで学んできたように、飛鳥と壬そして東雲は歴史的に小競り合いを繰り返してきた地域です。峰上や津ヶ浜とて、史書を紐解けば争いが元となって生まれたようなものです。坡城の地がこの海沿いの豊かなる地域で、長年にわたり何事も無く保たれてきたのは正に奇跡と言えますね。そのような経緯がありますから、確たる国の形を失った今、壬や東雲が飛鳥に反感を抱くのは詮方ないこと、しかし国と民とは同じものではありません。そこに住まう民は何を望んでいるか? 国の名でしょうか? それとも領主でしょうか?」
「私なら家族との穏やかな暮らしを」
「正しき者が報われる世を」
「腹一杯の飯を」
 はは、と笑いが起こる。翁はゆるりと頷き灰色の口髭を摘まむ。
「良いのですよ、間違いなどありません。私も一汁一菜が何よりの楽しみです。ではそのために国は何を為すべきか? 飛鳥びとの居留地を襲ったところで、失われるものが増えるだけです。談義で暮らしの安寧が図れるのであれば、それに越したことはありません。君たちの中にはいずれ番処で役を受ける者もいるでしょう。都を志す者もいるかもしれません。くれぐれも、国の言い分と民の心とを取り違えぬよう願っていますよ。さあ、私の話はさておき、君たちの論議の結果を聞かせてください」
 ぱらぱらと手が挙がる。
 昼には書き物の課題を与えて講堂を退き、しばらくして添削に戻る。体が空くのは夕方になってからだ。
 廊下では坊主がばたばたと雑巾をかけていた。翁に気付いて手を止め、額の汗を拭う。
「お疲れ様です先生。島様がお見えです。先生のお部屋にお通ししています」
「そうですか、ご苦労様」
 障子を開けると、中で坐していた長身の若者が首を巡らせた。目は閉じたままだ。彼の前には敷物が広げられ、傍らの盆には茶が手を付けられぬまま置かれている。
「どうもどうも、お待たせしました」
「いえ、今参ったばかりです」
「それでは早速お願いしましょうか」翁は敷物にうつ伏せになる。「島さんにお越しいただくようになってから、肩腰の具合が良いのですよ。十日に一度の楽しみです」
「それは嬉しいことです。先生のような方にはまだまだ元気でいていただかなければ」
 ぐっと腰に指の圧がかかり、少しずつ肩へと流れていく。う、と呻き声。強ばった体が少しずつ弛緩していく。
「あちこちがたが来てね、もうお迎えを待つばかりですよ」
「またそんなことを」
「いやいや本当に。だからこそ今は少しでも、志高い若者のためになればと日々を過ごしています」
 弛んだ皮膚に痕が残らないよう指の腹を運びながら、島と呼ばれた男は相槌を打つ。
「なかなか落ち着かない日々が続きますからね。国同士の争いも絶えませんし」
「しかしそんな中にあって、この国は風に呑まれることなく、古くからの国土を守り抜いている。目立った争いも無い。私は誇らしく思いますよ」
 肩の窪みを押す指が心地良い。
「ですが昨年の今頃は物騒でしたでしょう。丸七屋の火に始まり、壬や東雲の民が多く襲われたと聞きます。港番は知らぬふりをして、私の争いという立場を変えませんでしたが」
「確かにね、私もあれは嘆かわしいことだと思います。……ですがあれはあくまで坡城の一部、争いが何か生むと信じている哀れな者たちの仕業です。国を挙げて排斥したわけではないのですよ、見誤ってはなりません。その証に、捕まった者はきちんと罰されていますよ」
「人別改めは国を挙げての追い出しではないのでしょうか」
「あれはね島さん、証文を持たずに住むというそれ自体が法を犯しているのですよ。誰とも知れぬ人々が隠れて集まっている、そういう所には悪い風が吹き溜まるものです。東雲の大火から五年、壬の大火から三年、疚しいことがなければその間に、手続きなり救済を訴え出るなりできたはずでしょう。ひと晩で国が消え失せたわけでもありませんし」
 若者は何も言わずに按摩を続ける。しばらくして聞こえた声はからりと明るかった。
「そうですね、本職であられる先生に対してとんだ無礼を。先生にはいつも学ばせていただいています」
「いえいえ、若い人にはよくある誤りです。とかく人は聞こえの良いほうに耳を貸したがるものですからね」
 若者の指が翁の首筋を擦る。
「港番といえば、今噂になっている異国者。聞きましたよ、通詞は先生のお書きになった本を使っているとか」
「おやおや、島さんは耳が聡いようですね。左様、新しく書き直すたび献上しております。少しでもお役に立てればと思っておりますので」
「ええ。それからもう一種、間地あわいじの医者殿が書いている本も併せて使っているそうで。私などは本を読まぬので存じませぬが、やはり同じ和解わげでも書き手によって違うのでしょうね」
 翁は砂でも呑んだように咳払いし、鼻を鳴らした。
「……まあ、按摩取の島さんにくどくど説くのも無粋ですからね。それは違いますとも。何せこちらは学舎、あちらの生業は医業です」
「しかし、色分けがされ使い良いとも聞きますが」
「はは、色分けですか。いや失礼、私も闇雲に謗るつもりは無いのですよ。あちらの本を手に取ったこともあります。されど中身は推して知るべし。単なる読み解きや挨拶程度には足りようが、通詞殿にお使いいただくには不充分と言うよりありません。細かな語や俗語が少なすぎます。こちらはその辺りを漏らさず、言葉に流行り廃りがあれば都度書き直すようにしています」
 ほう、と翁の背後から溜息が聞こえて、翁は表情を緩めた。
「さすがは先生。確かに書き言葉と読み言葉は異なると聞きます。一体どのようにして新たな語を仕入れるのですか」
「それは……いやはや、ついつい口が滑りましたね。失敬」
「おや。それより先は舎中の秘ということですね。失礼いたしました、按摩取めはそろそろ黙りましょう」
 若者があっさり引くと、翁は却って物足りぬ様子で付け加えた。
「ふふ、まあ島さんも出が出ですから、見当がついておいでではないですか」
 按摩を終え、上体を起こした翁はゆっくりと腕を伸ばし腰に手を当てた。翁が満足げに頷く後ろで、若者は目を閉じたまま、手慣れた様子で敷物をまとめていく。
「島さん、和解に関心がおありなら暇のあるときにでもおいでなさい。挨拶に使えそうな語をいくつかお教えしましょう。いずれ役立つ日が来るかもしれません」
「宜しいのですか」
「あなたは耳が良いので覚えも早いでしょう。晴眼であられればお待ちの間に見ていただくところですが」
 翁が銭を渡すと、若者は今後もご贔屓にと頭を下げ、慣れた足取りで玄関口へ向かった。
 西の空には赤く日が輝き、山向こうに沈もうとしている。しゃきっと背すじを伸ばして去っていく若者を、翁は目尻を下げて見送った。
 腕の良い按摩取がいると知己から彼を紹介されたのは、年の暮れのことだった。「島という按摩取だ。何故そう名乗っているかは見れば分かるだろう。腕は保障するよ」
 徳慧舎に現れた男の容貌を見て得心がいった。彼は、島生まれであることがひと目で分かる、彫りの深い顔立ちをしていたのだ。上背のある体を丁寧に折り挨拶をする彼を見て、翁はすぐに好感を抱いた。それ以来五のつく日に来てもらっている。
 玄関へ入り、戸を閉めようと振り返る。小さくなりゆく島の後姿が、目を覆うように上げていた手を下ろすところだった。おやと首を傾げた翁だが、目は見えねど光を感じる者もいると思い出し、がらりと戸を閉めて夕餉の席へ向かった。



 墨を含ませた穂先を紙へ落とそうとして、止める。
 念のため筆を紙から離しておいてよかった。静まり返る夜半に近付いてきた気配は足音となり、暁の部屋の前で止まるや乱暴に障子を開けた。
「何やってんだ」
 針葉の声。これは、ちょっと予測していなかった。振り返るとやはり縁側に膝をついた彼の姿があったので、暁は筆を置いて文机を遠ざけた。そうしているうちに、針葉は草履を脱いでずかずかと部屋へ上がり込む。
「待って。まだ乾いてないのがあるから寄らないで」
 厳しい語調に彼は足を止め、渋い顔でそこに胡坐をかいた。一つの部屋にいるにはいささか不自然な遠さだ。揺れる火の弱い灯りがしかめ面に凄みを与える。沈黙。責められているようで居たたまれない。
「えーと……今日は随分遅かった、……ですね」
「こっち側で明るいのはお前の部屋だけだ」
「それはどうも、寒い中、遅くまでお疲れ様……です」
 暁は語尾を口の中で濁らせる。正月早々倒れてから無事快復し、頭が正気を取り戻した今となっては、どういう話し方をするものか分からなくなっていた。
 一体こんな夜中に何をしに来たのやら、仏頂面の彼をちらちらと気にしながら筆に指を伸ばす。途端、「おい」とぶっきらぼうな声が飛んでくる。
「何だってこんな遅くまで起きてる」
 伸ばした指を諦めて彼の方へ向き直った。正座に背すじをぴんと伸ばし、顎を引いて、図らずも挑むような目になる。
「子供を預かってもらっているんです。浬が意外とあやし上手で、この前具合を悪くしてから、何度か」
「餓鬼がいないのは見りゃ分かる」
「だから今のうちに仕事を進めているんです。あ、仕事っていうのは斎木先生に貰ったもので、あの、斎木先生、間地の。写本作りを任せてもらっていて、売れ行きもそこそこ……」
 針葉は苦い顔で机や、辺りに散らばる紙、部屋を縁取るように積み重なった束を一瞥する。
「それ以上言うな。どうせ聞いたって俺に分かるもんじゃない」
 暁がかき集めた言葉が固まった唇からさらさらと零れ落ちて消える。
「じゃ、じゃあ、こんな夜中に邪魔しに来なくたって」
「浬はお前に働けっつって餓鬼攫って行ったのか? まさか本当にそうだってんなら、あいつの骨もう一回折ってくるけどな。もうぶっ倒れねぇで済むように気ぃ遣ったんだろうが」
 暁は視線を落とした。畳。散らばる紙。彼の足。裾の陰から、寒さで赤く染まった爪先が覗いている。
「……少なくとも、こうしてあなたからお説教を受けるためではありません」
「説教だぁ?」
「何のためにいらしたんですか」暁は視線を上げる。「休めとでも? あなたからそんな温情、かどうか知らないけれど、掛けていただく義理はありません。これは私と子供の問題です」
 腹の底から湧く熱い息とともに、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「あの子はそのうち形のあるものを食べるようになるし、体だってどんどん大きくなる。熱を出せば医者にもかかるし、物を欲しがるようにもなるでしょう。物乞いにするために産んだわけじゃない。私はあの子が人となるまで育てなくてはならない。あの子のために銭を稼がなくてはならないんです」
 暁は針葉の言葉を思い出す。威勢良い暁の目を見て連れ帰りたくなったと彼は言った。これがそうなら、なんと恩知らずな目か。しかし対する針葉はつまらないと言いたげに片眉を動かしただけだった。
「たかが銭の話か」
「たかが?」
「たかが、だ。んなもん、この家で暮らす分にゃ何の不足も無ぇだろ。それとも何だ、どっかの山の名水でも飲ませて、どっかのお高いべべでも仕立てる気か。大体、稼ぐっつっても大した能も持ってねぇくせに、何様のつもりだ。え、写本? 売れ行きがそこそこ? 何を偉そうに」
 侮辱に次ぐ侮辱に、暁の顔は熱を帯びるばかりで言葉が出てこない。だが荒い口調にもかかわらず、針葉の表情は暁を馬鹿にするでもなく、むしろ懇願するようだった。
「お前は肝心なとこで馬鹿なんだ。銭稼ぐのなんて長けた奴に任せときゃいい。他の何より代わりがきくだろうが。お前と餓鬼の一匹くらい、俺一人でだって養える。お前が、ぶっ倒れるまで身を削るな」
 畳み掛けられた言葉の嵐が止む。と同時に暁は眉をひそめて溜まった唾を呑み込む。
 目を泳がせる。畳。爪先。「どうして、」震えを隠すようにゆっくりと息を吸う。「どうしてそんなことを、」吐く。「長だから?」
 それは拒絶でありながら願掛けだ。愚かな、願掛けだ。
 暁は目を閉じる。自ら問い掛けておきながら、恐かった。この瞼の裏のように全てが闇に沈んでしまえば、何も聞こえなくなればいいと思う。何をかき集めたのだろう。この胸のどこに、この期に及んで差し出せる望みが残っていたというのだろう。
「暁」
 唇を噛んで震えを殺す。
「お前のことが大事だからだ」
 目を開けた。畳。身動きはしなかった。ぴくりとでも動けば、たった今聞いた声を、見えない欠片を粉々に崩してしまいそうだった。
 細く息を吸って腹に力を入れる。待つ。いつ暗転が訪れても耐えられるように。
「……お前が言うなって思ってるだろうな。さっきお前の言ったとおりだ。俺がんなこと言えた義理じゃない。……でも、これだけは聞け。頼むから死に急ぐような真似するな」
 暁はぎこちなく視線を上げる。
「死に急ぐだなんて……そんな」
 そんなつもりはない、言いかけて言葉を止める。言葉尻をあげつらう前に考えるべきことがある。
 既に思い知っていた。咳だけが響く自分の部屋、その一方で遠くから聞こえる泣き声。疲れた顔の紅花。この前のように暁が倒れたら、周りに掛ける迷惑は倍増するのだ。それくらいなら、少しばかり寄り掛かってでも、自分と子供の面倒くらいは見られるようにしておかなければ。
 銭のことなら他の何より代わりがきく。母の代わりはいないと、知らないはずもなかったのに。
「お前を生かすために連れてきた。死なせるためじゃない」暁は針葉を見る。針葉は畳を見ている。またあの顔、見えない重みに耐える顔。「……殺すためじゃない」
 殺す。
 悪い冗談だ。あまりに突飛な言葉に、暁の唇には薄い笑いが浮かぶ。
 目の前が揺らぐ。眠気が出てきたのか頭がぼうっとする。
「……とにかく、もう休め」
 針葉が気まずさを繕うようにぼそりと付け足す。暁は立ち上がり、周りに散らばった紙をまとめ始めた。振り返ったところで針葉と目が合った。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
「もう油が切れるから」
「あ……ああ。そうか。じゃあ」
 針葉は立ち上がりかけて傍らの紙を拾い、暁に手渡した。暗い紙面に目を凝らす。「何だこれ、朱墨か」
「そう。異国文字が朱。あ、和解なの」
「わげ?」
「異国ことばを分かりやすく言い換えたもので、反対に国ことばから言い換えた逆引きも作ってる。今は向こうの本を集めて、その語が出てくる文を拾い出しているところ。言い回しが分かると使いやすいかと思って」
 半分も理解しているのか、針葉は眉をひそめて、ふんと相槌ともあしらいともつかぬ息を吐いた。暁の手から紙を奪って表に裏にひらひらと返す。
「いつの間に斎木の爺と仲良くなってたんだ。……あの狸にどう丸め込まれたか知らんが、こんな紙っぺら、大して儲けになるもんか」
「うん……逆引きは今も白菊一枚だけど、和解は褪す葉八枚まで下げてる」
「だろ? たったそんくらいで――
 言いかけた針葉の手がぴたりと止まった。慌てた様子で紙を暁に押し付ける。「とにかくだ。やめろとは言わんが程々にしとけ」
 後姿を見送って、暁はふっと息を吐き出した。針葉が来たことで却って夜が遅くなったように思う。弱くなる火を追うように衝立の陰から蒲団を引っ張り出す。火を消して横になったとき、耳に蘇る声。
 お前のことが。
 その先は思い出さない。心を掠めた言葉はあまりに脆く、呼び覚ますたびに削れていつか無くなってしまう気がした。
 静かな夜だ。
 睦月の寝顔を見たい。あの柔らかな匂いを腕一杯に抱き締めたい。自分で預けておきながら、勝手なことを思った。



 睦月は随分と浬に懐いている。
 それはそうだ。暁が倒れたうえ紅花も手が回らなくなった年明け以来、昼と言わず夜と言わず、暇があれば浬が面倒を見ているのだから。部屋で遊ばせることもあれば、背負って坂を下り、街歩きに連れ出すこともある。家に籠ってばかりの生活が一変したためか、睦月も寝付きが良くなったようだ。
 今も白く晴れた空の下、縁側には睦月を膝の上に乗せて指遊びに興じる浬の姿がある。
「あがりんくむたてぃみじぬうみぃ、つてぃぐんながんとぅうまぃたりぃ」聞き慣れない節回しで聞き慣れない言葉が並んでいく。肩が揺れている。「あがりんかたいとぅながるるくむじぃ、あぁみとぅちぃてぃどぅかぬちけぇらな」
 途切れたらしきところで紅花はそっと覗き込む。「それ何の歌」
 浬は睦月の手首を握ったままで振り向いた。
「何だろうね。よく分からないよ。昔よく聞いたから東雲のわらべ歌かな」
「東雲ってそんなに訛りきつかったっけ。言ってること全然分かんなかった」
 抱えていた盥をそこに置いて下駄を履き、洗い物をぱんと広げる。
「まさか、坡城とほとんど変わらないよ。特に僕のいたのは湖の近くだからね」
 そして物干しを始めた紅花に構うことなく、また意味の分からない歌を歌い始めた。「いぃゆぃめぇりしいぃだぬやぁや、さてぃむかぁいゆしふでぃぬかん……」さっきの歌はどこか物悲しく聞こえたが、今度は明るい調子の音だ。時折鼻から抜けるような独特の声が混じる。
 睦月がきゃっきゃとはしゃぐ声を後ろに聞きながら、紅花は淡々と腕を運ぶ。
 最後の一枚を竿に掛けて振り向くが、彼は気付いた様子も無く子供の掌で遊んでいる。
「今日の坊やのご機嫌いかが、お父ちゃん」
 顔を上げた浬が思いのほか驚いた様子だったので、紅花は思わず足を止めた。「何その顔」
「いや……お父ちゃんって」
「冗談に決まってるじゃない。そんなびっくりしないでよ。まさか本当に父ちゃなの」
「違うよ」
「分かってるわよ」
 隣に座って下駄を片方脱ぎ、もう片方をゆらゆら揺らす。
「あのねえ紅花ちゃん、冗談に受け取ってくれない人がこの家にはいるんだから」
「睦っちゃん、おいで」
 浬の言葉を遮って膝から幼子を抱き上げる。産まれて一年を越えた体はなかなかに重たい。ぷっくりと膨らんだ頬が冷たい陽の下で赤く染まり、輝いている。黒い目がきゅっと細まって、思わず紅花の顔もほころんだ。
「まだ喋らないんだね。暁と二人っきりだったからかなと思って色々話し掛けてるんだけど」
「その結果がさっきの歌? あれじゃああたし睦月と話せないじゃない」
「さすがにあれを真似しだしたら……。僕も責任感じるよ」
 二人は顔を見合わせて笑った。紅花が睦月の頭を撫でる。指をするりと抜けていく細い黒髪。瞼はうとうとと重たげだ。
「心配しなくてもまだ二つになったばかりだし、それに男の子は遅いもんだって里さんが言ってたわよ」
 浬が頷いて微笑む。この前の夜の厨とは比べ物にならない穏やかな日だ。ふと紅花は考える、こんな感じだろうか、もし自分と浬が……、そしてはっと打ち消す。
「紅花ちゃん?」うつむいた彼女を追うように浬が呼び掛ける。「どうしたの」
「湖、の近く」
「うん?」
「に、住んでたの」
 視線が合う。浬がいつもと同じ顔で笑っていたので、紅花は安堵する。
「そうだよ。これでも都育ちだよ」
「あー、分かる。都かどうか知らないけど、なんか育ちが良さそうよね。大事にされたお坊ちゃんって感じ」
「馬鹿にしてるだろ」
「褒めてんじゃない」
 ひとしきり笑った後、浬は息を長く吐き、後ろに身をもたせ掛けた。
「そうでもないよ。割と荒っぽく育てられたほうじゃないかな」
「荒っぽい? ……う、嘘だぁ」
 彼の目は遠くどこかを見ている。その中に入り込めないと分かっているから、紅花の声は自然と控えめになる。
「……兄弟はいたでしょ」
 生返事。
「そうよね、子供の扱い慣れてるもん。あたしが音を上げても浬は全然だもんね」
 膨らまない会話に耐えかねて睦月を抱え直す。と、浬は今気付いたように紅花を見た。
「え、いや、兄だよ。弟や妹は……ああ、子供が多い地域だったから、だからかな」
 たったそれだけで紅花の表情はぱっと華やぐ。
「そうなんだ。じゃあたしら末っ子同士ね。父ちゃは何してたの」
「父は……何とは言いにくいなぁ。色々手広くやってたみたいだけど。今の僕と同じような仕事もあったよ。文書の作法はそのとき学んだ」
「色々手広くって。生粋のお坊ちゃんの台詞よねそれ。あ……でも、ねえ、きっと浬は母ちゃ似よね」
 そう付け加えた瞬間、苦笑いで首を振っていた浬が、顔を引きつらせたのを見た。ごめん。咄嗟に浮かんだ言葉はあまりに薄っぺらい。
「あの、あたし、何か悪いこと……」
「いや。ごめんね。実は母のことはあまり知らないんだ。ずっと病で臥せっていて、大火の前の年に亡くなったんだよ」
 今度こそ紅花は口を噤んだ。睦月が小さくくしゃみを放つ。一度、二度。浬が呼ぶ声。「もう重いだろ。睦月預かるよ。あー、ほら、洟垂れた。貸して、部屋に入ろう」
 膝から重みが消えて痺れがじわりと広がり、消える。二人を追ってのろのろと畳に上がると、浬が盥を手に障子を閉じた。
「ごめん」ようやく言葉になる。「ごめんね」
「紅花ちゃん?」
「ごめん。あたし、よく分かってなかった。皆……亡くなってるのよね。あたしさ、自分の親も昔に亡くしてて、でも思い出話って別に嫌いじゃないの。でもそういうのって人それぞれなのよね。当たり前よ。しかも浬は国まで失くしてるのに」
 気持ちが昂ぶって話しながら泣きそうになる。喉の奥からせり上がった熱いものをせき止めたのは、しかし冷静な浬の声だった。
「それは考えすぎ。ろくに会ったことの無い人と根拠もなく似ていると言われたってぴんと来ないだけだよ。それに国を失くしたっていうのも……どうなんだろうなぁ。郷ではあるけど、多分、暁が壬を想うようなものじゃない。国と嘯いても実態は旧来どおりの緩やかな結び付き、更に言えば単なる土地の共有だ。当然に憤りはあるけど、お国の敵討ちなんて言い出したら、それはきっと古くからの東雲びとじゃないんだよ」
 いかにも浬といった、丁寧で細やかでまどろっこしい答えは、紅花には半分も理解できない。母や国に対して何とも俯瞰した見方だと思えど、本当にそういう意味のことを言ったのか定かではないので、気に病むなという言外の匂いだけを胸に刻み、賢く黙っておく。
 今までの曖昧な物言いを取り繕うかのようにつらつらと言葉を並べ立て、浬はふっと息を吐いた。睦月の柔らかい髪の毛がふわりとそよぐ。
「それにしても、今日は随分と色々訊きたがるね」
「だって。……あたし、何にも知らないんだもん。浬が東雲のどの辺で生まれてどんな家で育ったって、それすら知らなかった」
「聞いたって珍しいことなんか無いよ。こう言っちゃ何だけど、紅花ちゃんのほうが余程色々ありそうだ」
「あ……っ、あたしは坡城の生まれだもん。爺ちゃだか婆ちゃだかがどっかの人だったってだけだもん。じゃなくて、あたしはさ。珍しくなんかなくていいの。何でもいいから聞きたかったの!」
 恥ずかしさを隠すように語気が荒くなる。浬は気圧されたように頷き、今からすることを見せまいと言わんばかりに睦月を膝から下ろした。紅花は視線を彷徨わせる。その頬に手が伸びた。びくりと体が震える。
 真剣な目。これは、この感じは、まさか。こんな真っ昼間から、でも障子も襖も閉まっているし、家には暁しかいないし、いや、でも。
「どうして知りたがるの」
 目。黒い目。ぴたりと切っ先を突き付けられたような。
 ……あれ。何だこれは。思っていたのと違いやしないか。どうしてこんな、お白洲のような。
「どうしてって……そんな、理由なんて無いけど、寂しいじゃない」
「寂しい?」
「寂しいわよ。駄目? す……好いた人の生い立ちくらい知りたいわよ」
 息のかかる距離。恥じらいを精一杯堪えて口にしたのに、浬は目を丸くして「……ああ」と呟いただけだった。
「ああって何よ、今思い出したみたいに」
「いや、ごめん。ちょっと勘違い」浬は口を押さえて視線を逸らした。「分かった。僕の身の上だね、簡単にまとめておくから。仮名は読めたよね」
「そうじゃなくてっ」
「冗談だよ」
 呆気に取られた紅花が口を開けたまま固まる。手を外した浬の口元には笑いが溜まっていた。
 肩を押さえる手。声も無く顔が近付く。さっきよりずっと情感溢れる眼差し、これは今度こそ。紅花は導かれるように目を閉じる。
 しかし待ちかねた唇には何が触れることもなく、肩から体温が離れた。怖々目を開けた紅花が見たのは、睦月を抱いて立ち上がる浬だった。片手で小さな尻を支え、もう片方の手で自分の身幅の分だけ障子を開けて出て行こうとする。
「か……」
「あ、お帰り。今日は道場じゃなかったの」
 紅花は、追いすがろうとした手で慌てて口を押さえた。盥をむんずと掴み、きっちりと閉ざされた障子の向こうを睨む。誰に対してか分からない。折悪しく帰ってきた兄なのか、それとも。
「あーー、もう!」
 廊下に出て言葉にもならない鬱憤を吐いた。また一つ学んだ。皮肉なものだ、知るほどにきらめきが消えていく。
 届かない想いだの結ばれない二人だの、そんなものが美しく見えるのは芝居の中だけだ。