あ、始まる。
 夜の厨。紅花が中途半端に屈んだ姿勢のままぎくりと動きを止めた次の瞬間、嫌な予感を裏切ることなく声が聞こえた。背に負ぶった睦月だ。
 ぐにゃぐにゃと形の無い、言葉を持たない声が、耳を力任せに縛り、襞から脳に至るまでべとりと埋め尽くしていく。紅花は大きく息を吐いた。
「あー、はいはい」
 片付けの手を止め、腰を伸ばして背中に声を掛ける。
 何も、一日の終わりのこんな疲れ切ったときでなくても良いだろうに。頭をかすめる考えを押し隠すように努めて明るい声を出した。
「睦ちゃんどうしたのかなー今日もご機嫌斜めね」
 お尻をぽんぽんと叩いて安心させてやる、つもりだったところを暴れる足に蹴られて思わず引っ込める。すっと体が冷える。慌てて息を吐く。
 背中に張り付いた小さな体はこうなるともう成すすべが無い。決壊した堤そのものだ。力の限りに手足をばたつかせ、泣き叫び、疲れて眠気を帯びればそれがまた気に入らないようで、命を撒き散らさんばかりに体全体で喚く。
「何、おしめ? ご飯? ちょっと待ってね」
 手探りでおぶい紐の結び目に指をやるが、かじかんでうまく解けない。背中の声はそうしているうちにぎゃんぎゃんと高まって、紅花の笑顔を剥ぎ取ってしまう。
 息が早くなる。
「ちょ、やだもう、待って、待ってってば。暴れないで」
 落とすまいとしっかり結わえた紐が苛立たしい。指がまたもつれる。眉間に皺が寄る。
「待ってって、いい子だから!」
「紅花ちゃん」
 内廊下から火とともに浬が姿を見せた。彼が睦月を宥めている隙にどうにか紐を解き、ほっと息を吐いたのも束の間。泣き声の原因はおしめでも空腹でもなく、かと言って吐くわけでも熱っぽいわけでもなく、これといった対処が無い。
 結局代わる代わる宥めすかし、睦月が疲れ果てて眠りに落ちたのは夜更けだった。
 その場にそろりとへたり込み、深く息を吐き出す。眠ってしまえば静かなもので、こんな小さな子に振り回されたのが信じられない。紅花は目を逸らして眉をしかめた。
「……何だったのよ、一体」
「まあ、こういうこともあるさ。何はともあれお疲れ」
「うん。……この子もさ、嫌がらせで泣いてんじゃないのよ。それは分かるの、分かるんだけどさ」
 苛立ちを隠すように言葉を止め、廊下を睨む。
「起きないもんね、あんた以外。こんなに騒がしいのに」
「それはまあ……ほら、紅砂も今日は朝早くて参ってたし、黄月は元々がああだし。針葉さんは……戻ってたっけ」
 紅花は苛立たしげに首を振った。「戻ってたって変わんないわよ。黙らせろって怒鳴るだけでしょ」
 取り繕う浬の笑みに、委ねるように言葉が口をついた。
「暁も」
 何も返ってこない。紅花は項垂れたままちらりと視線を上げる。浬は困った顔で小さく顔を動かした。頷くでも咎めるでもない、小さな動き。
「それは言わないでやろう。紅花ちゃんだって分かってるだろ、あれだけ熱が高いんだから。聞こえてたって起き上がれやしないし、それに咳が続くうちは会わせちゃいけないよ」
 お手本どおりだ。分かっている、彼がそう言うことくらい。自分がこの家の中でどう振る舞うべきかなんてことも、分かりきっているのだ。
 暁が倒れたら当然のように紅花が睦月を負う。そういうものなのだ。
「分かってる。ただ、赤子を見るんなら本当の母親に代わるものはないんだって思っただけよ」
「うん?」
「だってそうでしょ。この子、暁が見てる夜はほとんど泣きやしなかったじゃない」
「そうでもないよ」
 えぇ、と疑わしげに声を上げる紅花。浬は彼女の前に屈んで睦月を抱え上げる。小さな体を追って紅花も顎を上げた。まるで噛み付くように。
「だってあたし起きなかったもん。部屋隣なのよ」
「起こさないように気を遣ってあやしてたんだよ。それで倒れちゃ世話ないけどね」
 眉がぴくりと動く。この二人はどこかよそよそしいようでいて、ふとした瞬間に互いを知り尽くしているような素振りを見せる。紅花は舌の奥から湧き出しそうになった言葉を唾とともに呑み込む。
 早く寝なよ、言い残して浬は自分の部屋へ消えた。紅花は誰もいない暗がりへ唇を突き出す。彼は子供の扱いも苦にしない。それなら初めから預かってくれれば良さそうなものだ。
 憤慨した次の瞬間に後悔が押し寄せる。いや違う、今自分に求められているのはこんな台詞だ、「大丈夫、あたしが面倒見るから」「浬は明日用事があるんでしょ。任せてよ」「ややの世話は男が出しゃばるとこじゃないわよ」。自分を踏みにじるように思い付く限り浮かべて、唇を歪めた。求められている台詞。では誰が求めているのだ。
 結局自分で作った枷なのだ。囚われたがっている。そうすることでしか形を見出せない。なんて可愛げのない女。つくづく思う。
 年明けから睦月が鼻をぐずつかせていた。その看病をしていた暁も喉を痛め、睦月の快復と入れ替わりに熱を出して倒れた。それからたった二日だというのに、親子の世話に追われて余裕が無い。なまじ睦月が動き回るようになったから尚更だ。おちおち火も使えない。結局、二歳を超えた重みを二六時中背負って洗濯に炊事に駆け回るしかなかった。
 その結果がこれだ。寄せた眉が戻らない、時が経つごとに語気が荒くなる、撒き散らした言葉の棘はもう拾いきれない。そしてついに睦月を投げ出した……浬自ら抱いて行ったとはいえ、同じことだ。
 重い足でどうにか立ち上がる。
 睦月の声はまるで聞こえてこない。巧いものだ。弟か妹でもいたのだろうか。
 知らない。浬と昔語りを交わしたことなどない。
 年明けてこちら、彼の態度はあんまりさっぱりしすぎていて、心の裡であれこれ考える自分の浅ましさが情けなくなってくる。もしやあれは夢だったのではと疑うこともあるが、それもおかしな話だ。夢ならもっと良い思いをしても良さそうなものではないか。あの甘やかな抱擁の先にまさかあんな、あんな、痛苦が。
 頭をぶんと振る。一度、二度。
 ほつれた髪で乱れた視界を、腹の奥底から湧き出た熱い息が白く染めた。
 赤い爪先。
 ひび割れた指先。
 たゆい熱を発する疲れた体。
 それでも彼を求めている。
 夜に一人でいては悪い考えばかり膨れ上がるものだ。早く眠ろう、明日はもっと笑おう、深く息を吸おう。
 蒲団に倒れ込む。冷たい爪先をさする。どろり粘つく眠気が目の裏を埋めていく。
 心のつかえが残る一方で、確かに頭は楽になっている。絡まった糸が解れていく。もしかすると浬に見せ付けたかったのかもしれない。何を。頼りがいのある自分を。そつなくこなす自分を。暁と同じくらい、いや、それ以上にうまく赤子をあやせた「かもしれない」自分を。まさか。何を馬鹿なことを。馬鹿な……
 あたしは、醜くなった。
 一番苦い塊を呑み下した途端、すっと眠りに落ちた。



 年明けの喧騒が聞こえると、瞬く瞼に雪が降り始める。だが目を開ければ、白い息が彩り絶えた景色を烟らすばかりだ。ちらちら、中央からゆっくりと、次から次へ、踊るように、この目の中にだけ、何なのだ、一体、混乱する。
 坡城に雪が降るのは、ひと月は先のことだ。
 強く目をつむって打ち消し、足を先へ出す。
 家へ続く坂を上る、その途中で針葉はふと視線を上げた。すっきりと緑の落ちた枝々の向こうから下りてくる、あれは浬だ。
 何かふっと浮かび上がるものがあった。前にもこんなことがあった、いつだっただろうか、――「そういえば、俺は、あれをどこに」。
 だが彼の胸を交差する紐に目を奪われて、形になりかけた記憶は霧消した。浬が眉を上げて会釈する。
「どうも」
「なに子守りなんかしてんだ」
「そんな変な顔しなくても。睦月ですよ」
 気付いていたと言うのも、今気付いたと言うのも癪で、蕾すら無い枝をぽきりと折り、手の中でまた折る。「んなこと聞いてねぇ、何でお前が」
「暁が具合を悪くして。……ああ、やめてくださいね、紅花ちゃんは昨日一昨日で随分参ってるので」
 言おうとした言葉を先回りで封じられて、もうそれ以上折れなくなった破片を地面に棄てる。
「それでお前は。子連れで遊山か」
「互いにね、気晴らしをした方がいいと思うんですよ。この子も結局家に籠りっきりですから、昼間は思い切り疲れさせたほうが」
 茶化すつもりが、もっともらしいことを返されて何も言えなくなった。口籠ったところに浬がにこりと笑う。
「そうだ、針葉さんが面倒見ますか。子供と遊ぶの上手そうだし」
「な……っ」
「いや、すみません。出ずっぱりでお疲れでしょうから、やっぱり僕が」
 浬は即座に前言を翻してすたすたと傍をすり抜けた。おちょくられている。俺が、浬に。屈辱がひたひたと足元を濡らすのに、殴りたいほどの衝動も、声を荒らげようとすら思えない。遣り切れなさにも似た淡い痺れが体を蝕んでいる。
「針葉さん」
 間をおいて振り返る。浬は背負ったものの尻をずり上げるように体を曲げ、口を開いた。

 ちゃらちゃらと水の音。
 針葉は固く絞った手拭いを広げ、ちらと視線を移す。
 暁は目を閉じたままだ。頬は熱せられたように赤く、乾き割れた唇から繰り返される細かい息には、時折乾いた咳が混じる。
 額の手拭いは既に温んで水気を失っていた。首すじや髪の生え際を拭って盥に放り込み、今絞ったほうを乗せてやる。
「できたら暁の看病だけでも代わってやってもらえませんか。夕餉が一品増えるかもしれません」
 浬が言ったことだ。
 こちらを立てつつ巻き込む上手いやり方だった。小憎らしい魂胆に気付かないではないが、素直に舌を巻いて背後の彼に片腕を上げた。言われなければ、気を揉むばかりで腰を上げることはできなかっただろう。
 頼りない体。少し細くなった顎。瞬くのも忘れてじっと見下ろす。
 だから言ったのに。あの子供が泣くたびに外へ出ていたら、遅かれ早かれこうなることは分かり切っていた。
 睨むように見つめる。
 馬鹿野郎。
 怒鳴りつけたい衝動と同じくらい強く、湧き上がる想いがあった。
 汗を含んだ暁の髪が重ったるく揺れる。また、咳。風が冷たくなってきた。立ち上がって障子に手を掛けたところで、鴨居に引っ掛けられた不気味な枝飾りに目を奪われた。
 ふっと振り返ってまた目を戻す。去年のことは家に戻らなかった彼には知る由も無いが、一昨年もその前も同じようなものを飾っていたはずだ。
 まるで違う生き物と化した、ように見えた彼女の中に、こうして一本繋がった軸がある。
 それは救いに思えた。
「それにしたって」
 どうしてこうも気味悪くできるものか。垂れ下がる三本の枝はまあいい、許そう。それをぐるぐる巻きにしている縄らしきものも、まだいい。問題は縄の惨状だ。
 広範囲にわたってずたずたに削り取られるわ所々に針が刺さるわ、もはや呪いの品だ。摘まむのもおぞましく、指で突いて裏返したところで針葉は目を瞠った。
 顔のつもりか、縄の先端に墨で目鼻らしきものが描き入れられている。なるほど、つまりこれは生き物を模していたのだ。
「……いや、尚更悪いだろ」
 生き物を象った縄を抉り取るわ針を刺すわ、一体正月に何の恨みが。……この風習を保っていることは救いなのか?
 背後に眠る壬びとに一抹の恐れを抱いたところで、小さな声が聞こえた。
 振り返る。目は閉じたままだ。寝苦しい様子でしきりに身を捩り、顔を動かし、眉根を寄せて何事か呻いている。
 針葉は慌てて障子を閉めると彼女の傍へ寄った。熱った顔にはまた脂汗が浮かんでいる。苦しげに歪む顔、唇から滲む赤、瞼の向こうでうろうろと動く目は何を見ている。
 額の手拭いを取り替える。途端に顔が動いて、手拭いが落ちる。
「……暁」
 顔が歪む。何かを恐れているかのように息が浅い。喉の奥から漏れる、彼女のものと思えない低い呻き声。
「暁」
 息が浅い。



 懐かしい人がいた。
 誰か分からない。顔も見えない。声も聞こえない。なのに分かった、あれは懐かしい言葉、昔よく聞いたに違いない声、懐かしい人たち。慈しむべき人たち、きっと私を慈しんだ人たち。
 歩み寄る。
 ごうと火が上がった。
 渦巻く熱風に後ずさる。懐かしい影は一瞬にして灰に変わった。後に残される煙、肉の焼ける臭い。人だったもの。懐かしい人たち、儚い人たち。胸の悪くなるような厭なものばかりを、どうしてこんなにありありと残して。
 いつの間にか周りも全て瓦礫になっていた。低く重く烟った流れが鼻を衝く。今までどこか、懐かしい場所にいた気がしていたのに。
 手を引かれる。
 連れられるまま後姿を追う。誰か分からない。顔も見えない。声も聞こえない。知らない人。でもきっと知っているのだ。そんな気がした。今まで見えないところにいただけで。大丈夫、そうに違いない、そうだ、知っていた。どうして思い出せなかったのだろう、きっと慈しむべき人、私を慈しむ人。だって灰色の瓦礫の街を抜けて、こうして。
 つまずく。
 転んで膝を打った。慌てて起き上がろうとするのに、振り返った両足には何かが張り付いていて剥がれない、歩けない、動けない。ああ、動いている、蠢いている、ああ。
 蛇だ。
 蛇が地を成している。ずりずりと、ぬらぬらと、地平を埋め尽くす長い生き物が、舌を小忙しげに動かしながら、細かな鱗の凹凸の一つ一つを光らせながら、舐めるように大地を這い回っている。
 どこだ。手探りで探すが誰の手も触れない。どこへ行ってしまった。助けて。
 助けて。
 もがいた足は更に深くうねりの中へ呑み込まれていく。体を這い上るものがいる。あるものは耳の中へ、あるものは口の中へ、またあるものは鼻の中へ、目の中へ。皮膚の一枚内側を蛇行する生き物。蠢く肌。蠢く視界。
 繋がれたように手足が動かない。何も見えない聞こえない、肌の感覚だけが残っている。
 腿を這い上る感触。あ。背に冷たい汗。しつこく這い回る、厭なもの、ずりずりと滑って離れず、右に左に波を描きながら、執拗にその奥を目指している。あ、あ。
 駄目。
 なのにもう声が出ない。
 厭。
 叫びたかったのに。
「やめて、    」
 声にならないまま、肌の感覚は痛みに変わる。引き裂かれる臓腑。体の内側から蝕み喰い散らかしていく。埋め尽くす。どうして。冷たい舌が固い肉の裡で嗤う、「これがお前らのやり方だ」、何、分からない、知ってはならない。蠢くものども。外側の皮一枚を残して私は蛇になる。殺して。もう殺して。あえかな喘ぎ。使えない目から溢れた涙が熱に炙られて干からびる。
 気付いた。
 さっき手を引いてくれたあの人は、この蛇だ。
 慈しむべきひと、私を慈しむひと、
 どうして、
 やめて、
 痛い、
「    」



「……き」
 ぼんやりと肌色が浮かんでいる。瞬きのたびに天井と滲んで見分けがつかない。
「暁」
 今度は誰。声に音が付いている。低い音。男のひと。
「おい、大丈夫か。暁」
 あかつき……。誰、知らない人。ごめんなさい、構っていられない。逃げなくては。早く、逃げなくては。痛い。熱い。体が重い。まだ縛られているの。繋がれているの。終わらないの。
「暁」
 頬に触れるもの。そこから突然爆ぜるように色が広がった。
 息を呑む。
 溶けていた視界が輪郭を取り戻す。
 暁。それは私の呼び名だ。
 目の前に顔がある。誰か分からない。でも懐かしいなんてものじゃない、儚いなんてものじゃない。そんなかそけきものではなく、むき出しの心臓に爪を立てるような鮮烈な震え。
 干からびた胸の底から溢れ出す強烈な安堵。どうしてこうなのだろう。どうしてあなたなのだろう。
 どうしようもなくなった私を、救ってくれるのは。
「目ぇ覚めたか」
 縋り付くように手を伸ばす。指は自分で支えるには重すぎて、肩まで届かず、その人の腕を掴んだ。もうあちらへ引き戻されないよう両手でしっかりとしがみ付く。
 ひと呼吸遅れて、大きな手に包まれるのを感じる。下手な力加減で、安心させるように繰り返し撫でる指。
 細く息を吸う。肺に流れ込む冷たさがゆっくりとこごった熱を醒ましていく。
 ――切っ掛けもなく、体中から一斉に泡が弾け飛ぶように、さっと頭の中が晴れた。
 心許なく辺りに目をやる。ここはどこ、私はどうしてまだ明るいのに横になって、この気怠さは、体中にまとわりつく不快な汗は、胃のひりつきは。
「暁」
 心配そうな顔で視界に割り込んでくるのは、これは誰だった……
「……針葉」
「随分うなされてたぞ、夢見でも悪かったか」
 はたと気付いて唇を舐めた。もう忘れている。もう失った。いつかと同じだ、いつかっていつ、前にもこんなことが、何度か、何度も、何度も?
「覚えてない……けど、厭な感じだけ残ってる、まだそこらじゅう」
 身震いが戻ってくる。頭の中はまっさらなのに胸にべとりと残された痕、もうどうしようもない、取り返しのつかない、戻れない。圧倒的な絶望。夢であるようにと一心に願っていた、夢だったと分かった今でも消えはしない。夢ではありえないほどの生々しさが、身の内側だけに蘇る。
「怖かった……」
 ふと気付いて手を放す。彼の腕には爪の痕がくっきりと残っていた。
 眉をひそめて覗き込む針葉から目をそらす。駄目、こんなふうに頼っては、馴れ合ってはいけないはず。額に張り付く汗を髪ごと拭う。
「私……どうしたんだっけ」
「ぶっ倒れたって聞いたぞ」
「そうだっけ……。あ、睦月は……あの、子供は」
「浬が遊ばせてる。あのな暁、何するにしたって加減ってもんがあんだろ。あんな夜中に外にいたら誰だって風邪ひく。だから言ったんだ」
 同じく夜中に外から帰ってきたはずの針葉が、苛立った様子で言った。そこまで案じてもらう義理も無い。それに、眠り込んだのは彼女の非だが、どうして外にいたか分かっているのだろうか。黙らせろと投げ付けられた言葉を、誰が忘れてもこの耳は覚えている。
 顔を背けて黙った暁の耳元で畳が軋んだ。
「とにかく何か飲むもんと、それから汗拭こう。ちょっと待ってろ」
 慌てた様子で出て行く音。振り向くと既に姿は無く、乱暴に閉められた障子の隙間から、冷たい風が流れ込んで額を撫でた。
 前にも同じことがあった。あれは確か初めて床を共にした数日後。こちらが素っ気なくした途端、まるで機嫌でも取るように何かとお節介を焼きたがるのだ。その様は浅知恵を絞って棄てられまいとするいとけない子供を思わせた。あざとく、いじらしく、疎ましい。
 汗に濡れた頭を掻く。天井を見上げる。
 静かだ。
 この世はこれほど静かだっただろうか。耳が軽くて、知らぬ潮を漂っている心地だ。
 しばらくして障子が開いた。ほだされまいと眉間に皺を寄せたまま視線を向けた暁は、しかし思わず目を剥いた。
 機嫌取りと言ってしまうにはあまりにたくさんの物が、次から次へと部屋の中に運び込まれる途中だった。湯気立つ盥、ひと抱えの手拭い、替えの着物、盆に急須と湯呑。
「起き上がれるか」
 返事も待たずに針葉は手を差し入れ、汗に濡れた暁の背を起こした。差し出された湯呑を受け取る。腫れの残る喉をかき分けて、熱い茶がゆっくりと胃へ落ちた。胃の底が目を覚ますようだ。暁が湯呑を空にしている間に針葉は、手拭いの一枚を盥に浸して熱い熱いと呟きながら固く絞ると、手早くそれを畳み、平然と言った。
「ほら、背中出せ」
「ど……どうして!」
 声に力を入れようにも、途端に咳が出て迫力が失せてしまう。
「見りゃ分かんだろうが、拭いてやるっつってんだ。馬鹿かお前」
「結構です」
「あぁ? 風呂にゃまだ入れねぇだろ。放っとくとまた体冷やすぞ、つべこべ言うな」
「こ、紅花は」
「本気かお前。たったこんだけのために呼ぶ気か。お前と餓鬼の世話で相当参ってるぞ」
「あ……じゃあいい、自分で」
「面倒くせえなあ! 病人が色気づいてんじゃねえよ」
 針葉が声を荒げた途端、暁はやつれた顔に生気を漲らせ、目をつり上げて帯を緩めた。針葉を背に一片の躊躇いなく肩から着物を落とし、首に張り付いた髪を分ける。肩越しにゆっくりと振り返る、茶色の目が据わっている。
「……お願い」
「お、おう。……あ、ちょっと待て」
「何」
「待てって。お前がぐずぐずしてるうちに冷めたんだよ。……熱っちぃな、畜生」
 絞った手拭いを広げてぱたぱたとそよがせる、彼に似つかわしくない細やかさを見るうちに、暁の視線は棘を失ってうつむいた。
 背骨の窪みに水気を含んだ熱が押し当てられ、凝り固まった汗を、不快な夢見すら連れて溶かしていく。和らぐ体から長い息が漏れる。
「年寄りくせぇな」
「は」
「何でも」
 手拭いが温めばまた水音。繰り返すごとに絞りたての手拭いは温まり、暁の肌は熱っては冷めた。息が軽やかに通る気がして、暁は顎を上に向けた。ふっと気が遠くなって頭を振る。
 裸の後姿を眺めて、手拭いを洗う針葉の手が止まった。
「体つきが変わったな」
 もう冷ます必要もない。絞った手拭いを畳んで暁を見た、ところで冷ややかな目付きに捕えられた。
「病人相手になに色気づいてるの」
「い……。違う、俺は」
 暁がぷいと前を向き、髪が若干重たげに後を追った。何を警戒してか、布団を胸の上までがっちりと引き上げている。
 馬鹿だ、分かっちゃいない。そんな意味を込めたわけではないのだ。
 気付いていないのだろうか。他の誰も、気付かなかったのか。
 こいつはいつからこんな痛々しい体つきになった。
 昔の、餓鬼っぽい平坦な体とはまた違う。手拭い越しに薄い弾力と骨。咳のたびに軋む肋。針葉自身、こうして背中を見て触るまで分からなかったのは、頬の肉がそれほど落ちていないからだ。
 これが乳呑み児を抱える女の体か。
 見ていられなくなり、絞った手拭いを差し出した。
「他は自分で拭けるだろ。茶ぁ置いてくるから。着替えはそっちに置いてる」
 返事も待たず、放り出すように手拭いを持たせて部屋を出た。
 針葉が戻ると、暁はちょうど着物を取ろうとしたところだった。気怠げな指が躊躇ったのを見て、障子に向かい胡坐をかく。衣擦れの音。わずかな隙間から流れ込む冷たい風を身に受ける。日も大分傾いてきた。
 見上げると鴨居の飾りが揺れていた。
「暁。あの気味悪いの何だ。お前が年明けにいつも飾ってるやつ」
 振り向く間を置いて暁の声。「あの貴い飾りは壬の縁起物。天つ枝垂れといって正月に飾る」
「貴いは言い過ぎだろ」
「気味悪くないもの」
 西日で障子が赤らむ。
「……で、この気味悪いのは生き物なのか。顔がついてたが」
「その貴い飾りの、枝は三柱の神で、その周りにいる縄は龍。神は壬を建国したと言われる兄弟で、旧三家すなわち菅谷、豊川、上松の祖とされるし、壬は水の国だから龍を神使として尊ぶの」
「この気味悪いののどの辺が正月だって」
「建国の日を元日と定めたって、壬では」
「は、暦の始まりまで壬由来かよ。大したもんだな」
「だから壬ではって。神話なんてそんなものでしょう」
 黄昏に色づいた風を受けてそよぐ、哀れな縄の残骸。
「じゃあこの気味……面倒くせえ、もういい。これ龍のつもりかよ」
「だって足があるでしょう」
 さも当然といった口振りで暁は言い放つ。足。足だと。それはまさか、ずたずたに痛めつけられた縄に追い打ちをかけるかのごとく、無秩序かつ無残に刺された針のことか。
「……俺はてっきり蛇かと」
「蛇だなんて間違っても口にしないで」
 思いのほかぴしゃりと撥ね付けられて、針葉はやむなく釈然としないものを口の中で転がした。
 建国神話ね。よくよく信心深いことだ。国を追われて何年経ってもいっかな坡城びとになろうとしない。今にも切り分けられようとしている国に、三柱の神も神使も無いだろうに。
 これが龍だってんならあれだって龍だ。あれは何だった、そうだ、暁と待ち合わせた初詣。何重にも張った蜘蛛の巣、朽ちた床から覗く茸、埃の筵、その中に埋もれるように棄てられていた、壊れた神使の石像。誰にも見向きされない寂れた社の、格子戸の向こう。
 ――割れた石を合わせたところで、「それ」は狐にも狛犬にもならない。蛇だ。あのとき針葉はそう決め付けた。
 だが待て。
 あの蛇には、足があっただろうか?
「頭がふらふらする。さっきから」
 暁の声がして我に返る。馬鹿馬鹿しい。ここは坡城なのだ、境の地からも離れている。壬特有の龍信仰が入ってくるはずもない。
「大丈夫か」
「うん……うーん」
 ちらと振り返ると、暁は既に着替え終えていた。腰を下ろしたままそちらを向く。
「暁、飯のことだけど」
「ん」
「お前だろ、毎朝俺んとこに置いてった。……まあ、美味かった。ちっとは上達したな」
 暁の背中はぴくりとも動かない。だから針葉は慣れない台詞をどうにかこうにか積み上げるしかない。
「でももう無理すんな。そりゃ、置いてありゃ持ってって食うけど、無けりゃ無いでどうにかなる」
「お節介だったってこと」
「馬鹿野郎、ありゃ持ってくっつってんだろ。でもいい。無くていいんだ」
 そんなことより、俺のことより、お前は。その一言が喉に張り付いたように出てこない。
 おもむろに暁が振り返る。眉を寄せ、苦しそうな、縋るような、今にも泣き出しそうな顔で――「なんて優しい人なの思いやりの塊ね惚れ直したわ今すぐ私を」いやいや有り得ない。
「思い出した」
 な。「何を」
「ずっと食べてない。何も。そうだ、だから」
 言うなり肘からくずおれる。目はどろんと濁り、声は苦しげに手に息を含んでいる。
「いや……え? 何ふざけて」
「ふざけてません」
「つってもお前、たった今まで普通に」
 暁は布団に顔を埋めて駄々を捏ねるように首を振った。「駄目、思い出したらもう無理。話しかけないで。夕餉までしのげない」
 針葉は呆れ顔で、湿った着物を手に立ち上がった。暁は首を巡らせて片目だけを曝す。行くのかと目が問う。行ってしまうのかと。話しかけるなと言うくせに身勝手な女だ。
「舐めんなよ」針葉は憤然と言い置いた。「俺だって飯くらい作れんだぞ」

 チニのほぐし身入りの茶漬けを盆に乗せて現れた針葉を、暁はいそいそと正座で迎えた。焦らすのも哀れで、障子を閉めるよりも先に盆を置いてやる。
「熱いから気ぃ付けろよ」
 暁はこくこくと頷き、手を合わせるのもそこそこにふやけた飯を猛然と掻き込む。
 ああ、命だ。むき出しの命が飯を食らっている。
 いつもはお行儀の宜しい彼女が、一心不乱に箸を運び、茶碗を空にしていくのを呆れ半分に眺めながら、ふとそんなことを思った。これだけ食欲があるのならすぐに快復するだろう。
「思い出すな。四年前だったか」
 暁は手も口も止めず、目だけ動かして針葉を見た。
「あの時のお前もそうだった。血だらけの手で、俺と浬、二人ぶんの握り飯を食い尽くしやがったんだ。汚らしい形して、痩せっぽちで、今にも死にそうでよ。でも目だけは威勢良かったな。食い殺してやると言わんばかりで。そのくせ何だった、え? ぐちゃぐちゃ喚いて挙句の果てにゃ自害しようとしたんだったか?」
 暁の目が居心地悪そうに脇へ逸れる。忙しい咀嚼。
「お前が男だって疑わなかったのは、半分はあの目があったからだ。女にできる目じゃないと思った。あの目があったから……俺はお前を連れ帰りたくなった」
 視線を戻した暁が見たのは、見えない重みに耐えるようにうつむき目を閉じる針葉の姿だった。思わず咀嚼を遅める。やがて彼の目が開いたのが、睫毛の動きで知れた。
「間違っても、お前をそんなふうにするために連れてきたんじゃない」
 さっきから何だ、食い殺さんばかりの目だの女に見えないだの。そんなふうって何だ、二日ぶりの食事がそんなに惨めったらしく見えるのか。無礼千万な男だ。
 と、すぐに言い返せたら良かったのだろう。
 だが実際には、暁の口の中は言葉を発せる状態からは程遠く、針葉の顔は軽口を許さぬ悔悟の念に満ちており、部屋に満ちた沈黙に押されるように彼は立ち去った。
「ごめんな」
 ぽつりと、聞き違いのような言葉を置き去りに。
 急に広くなった畳の上で、暁は空の茶碗に目を落とす。ふやけた飯の粘り気が器につやを残している。急に広くなった部屋の静けさが、膨れた腹にやけに響く。
 何を思ったものか分からない。
 ただ、彼が用意してくれた茶漬けはこの上なく美味しかった。
 




四ノ年